佐久の先賢余韻  伴野敬一  2021.9.29.

 

2021.9.29. 佐久の先賢余韻

 

著者 伴野敬一 1933年佐久市生まれ。55年東教大文(社会科学科)卒後、長野県内の高校勤務を経て、長野県教育史、県史の編纂事業に携わる

 

発行日           2021.7.15. 第1刷発行

発行所           龍鳳書房

 

 

I章           身近な郷里の歴史

1      伝承する一遍の踊り念仏

1.   大和田村の踊躍(ゆやく)念仏

1766年、大和田村(佐久市鳴瀬)43人が署名・押印した念仏仲間結成の発起趣意書

「踊躍念仏」の功徳は、現世で子孫が繫栄し、来世に於ても極楽往生できると阿弥陀仏が保証してくれることにあり、中断していたものを復活しようとした

『仲間法度書覚』はその時定めた念仏仲間の取り決め――修行時の酒・煙草厳禁、噂話するべからず、博打厳禁

『一遍上人語録』が大和田村の小林家に保存 ⇒ 本山の第52代遊行上人一海が整理した一遍の法語類を集め製本したもの

 

2.   跡部村の踊り念仏

1791年『念仏諸入用控帳』⇒ 多くの近在の村が金子を納めて「助念仏」に参加

1840年『常行(じょうぎょう)三昧念仏諸入用控帳』⇒ 鎌倉時代に比叡山の延暦寺から善光寺に伝わったといわれる念仏唱え行道を「常行三昧念仏」といった

踊りに参加した念仏衆の数も数百人規模に上り、参加者の多様化も著しい

他宗派の寺院も参加

 

2      佐久市跡部区の水害とのたたかい――千曲川原共有地の割替えをめぐって

佐久市跡部に伝承された歴史的事象:①千曲川原共有地の割替え(江戸時代以来の水害との闘いである耕地割替えが、「土地利用組合」として現存)、②一遍上人の創始と伝えられる踊り念仏

1.   長野県下の耕地割替え制度(地割慣行)

千曲川沿岸、犀川沿岸、両川合流地沿岸など29カ所で確認されている

1912年、土地利用組合を設立、従来の区有荒地外に堤防を築き、内側の耕地整理を行い水田を造成、16年末から割替え制度を採用、組合員による土地利用の公平化を図る

割替え地総面積は123畝6歩、1区画380400坪、組合員83戸が10年ごとに鬮(くじ)替え、大半が水田で2町のみ桑田、地形変更は禁止、小作禁止

 

2.   跡部区の川原共有地開発と割替え

1696年、3人連署で村役宛に田畑開発願いが出され、1742年の「戌(いぬ)の満水」といわれた大洪水を経て川原間開発へ向かい、水害復旧分を検知し配分した

鬮引きによる割替えの最初は、文書で確認できる初出は1839

 

3.   跡部土地利用組合への数奇な歩み

恒常化した千曲川の洪水被害に加えて、明治維新の地租改正では一村総持ちの地券は山林・池沼などに限定され、個人所有を特定できない割替え共有地には交付されないという問題が持ち上がり、地券不交付による官没(国による没収)回避のため、個人宛に交付された地券を纏めて村が預かる便法がとられた

千曲川の治水工事の進捗とともに、川原共有地開発への意欲が再燃し、1912年無限責任跡部信用生産組合の設立認可

191719年、千曲川通堤防(200)が内務省主導で完成、組合は耕地整理法に基づく荒地整理事業を進め、77反歩を開発。氾濫源は跡部地区戸隠

戦後の農地改革に際し県下の地割慣行地は、旧信用購買生産組合を新たな農業協同組合に改組し、旧資産を継承する必要があり、跡部地区でも51年に新組合設立総会が開かれ継承を可決。大筋では旧来の慣行を引き継ぎ、区民の中核的団体として存在意義を失っていない。近時の稲作中心の農業生産構造の変化に対応すべく種々の対策が講じられている

 

II章         佐久の先賢落ち穂拾い

1      『鶴巣反古枕』を読む

瀬下敬忠(せじものぶただ)、号・玉芝(ぎょくし)は文人歴史家。1759年、俳文集『鶴巣反古枕(かくそうほごまくら)』を編む

愛猫家で、猫にまつわる古典的教養の数々が窺える

蹴鞠に打ち興じ、耽溺しているさまを収録。四季を通じて開かれるが、佐久は寒国の悲しさで、冬には鞠も沓も仕舞われるのが悔しいとしている

佐久地方の蹴鞠と俳諧の関連 ⇒ 蹴鞠の始まりは18世紀初頭の頃。各地に鞠場ができ鞠会が開かれたが、同時に俳諧も盛んで、全国から著名俳人が来訪

瀬下の『大津絵説』で讃えた大津絵とは、近世初めに近江国大津の追分・三井寺辺りで売られていた民衆絵画で、当時から二百有余年の伝統を持つ他に類を見ない傑作だとする

後年、柳宗悦も絶賛、正岡子規も愛好、自ら模写した

近世の史書・地誌の代表作といわれる『千曲之真砂』は、郷土史家・敬忠の面目躍如なるもの。1753年編述。巻8は佐久郡の古城30について考証したもの、その中に野沢城の項がある、城主は代々伴野氏。村内の金台寺は一遍上人の開山

 

2      同和教育の創始者伴野文太郎

筆者の祖父・伴野文太郎は師範学校を出て同和教育の先駆的実践を行う

1869年跡部村生まれ。県尋常師範学校卒後、臼田村の南佐久高等小学校に赴任。3校目の野沢組合高等小学校時代、特殊部落に対する差別的待遇に憤慨、校長が被差別部落児童の就学を認めないと、放課後出張授業を敢行。遂に彼らの就業を認めさせた

信濃同仁会は、1920年上田で発足の部落改善の融和団体。2年前の米騒動への被差別部落民衆の参加が行政側に大きな警戒感を引き起こし、「部落改善費」が予算化され各地に同種団体が誕生。翌年には佐久で「水平運動」としてさらなる差別糾弾・弾劾事件が頻発、長野水平社が結成され同仁会と激しく対立

前人未到の融和教育に取り組んだ伴野に対する世間の対応は冷淡で孤立無援

97年野沢小学校校長となり、翌年は稲荷山小学校の訓導兼校長就任

県師範学校1年先輩の保科百助の融和教育との関わり ⇒ 奔放な人となりから、信州教育界で異端児・奇人視された。99年、赴任先小学校で被差別部落

分教場の本校への統合を実施。猛烈な反対に遭いながら断行

1900年、瀬下は小諸小学校に訓導として赴任。その時、公売処分(郡推薦の師範学校生は出身郡に勤務する義務があり、5年以内に他郡へ転出する場合は「公売処分」といわれた)を受け厄介視され孤立無援だった伊藤長七を引き受け、一緒に荒廃していた小諸小学校の立て直しに邁進。その後高等師範学校に進み、19年東京府立五中初代校長となり、夏休みには1期生を夏季転地修養隊に編成し、北佐久郡志賀村で農作業を実地体験させる。伊藤の主導する活動主義教育の一環で、『破戒』の出版を資金援助したことで知られる村長の神津猛を藤村から紹介された縁で始まったが、伊藤、藤村、神津を繋ぐ縁は歴史の妙

 

3      保科百助(五無斎)レジェンド異聞

師範学校で逆一(ビリから1)だった保科が、師範学校出の俸給平等論を県知事に建白

長野県では、県師範学校の卒業成績で初任給を3等級に区分していたが、赴任地についても当事者同士の相談に任せ、俸給は需給の法則によっておのずと決まるものと主張

 

4      信濃教育会長佐藤寅太郎研究補遺

「教育心経(しんぎょう)」とは、佐藤寅太郎が小諸小学校長就任後間もない1901年、「般若心経」にあやかって名付けた300字ほどの教育者の心得を書いたもの――日本の子供を取り巻く環境は卑俗で汚濁まみれだが、教育者こそ万古の固陋を打破して、俗界を脱出する覚悟がなければならぬ。それには「万物斉同」の心構えが必須。難事中の難事ながら刻苦勉励し、自然の成り行きのように、必ず彼岸へ到達すると希求すべきであろう。教育はまことに大事業だと教育者は自ら任ずべき。老荘の教えに基づくところが多い

教育勅語への言及はないが、熱烈な皇室尊崇だった

教育者の本領が子どもたちの教導・感化にあるならば、「時勢」や「時務」を熟知しなければならない。それが教育者に欠かせない「明知」である。「明」とは内観的に自己を知ること、「知」とは客観的に事物を知ること

 

III章       近代佐久の事件・人・学校

1      秩父事件「暴徒鎮制日誌」~岩村田警察署編輯

1884年、秩父の農民が政府に対して負債の延納、雑税の減少など柄を求めて起こした武装蜂起事件で、自由民権運動の影響下に発生したいわゆる「激化事件」の代表例とされるが、それが長野県にも波及、各地で打ち毀しを伴いながら、人足差し出しを強要しつつ進撃

 

2      神津猛の考古学と江上波夫の夢

神津猛は北佐久郡志賀村の地主・銀行家・志賀村村長。アマチュア好事家の域を超えた考古学者

江上は志賀村で神津の考古学に魅せられ、府立五中から浦高、東大東洋史学を出、モンゴル系の遊牧騎馬民族である契丹族の遺跡を調査、国立民族研究所に加わり、アジア民族史が専門

 

3      村の小学校の戦争生活――小池茂樹編『田舎の戦争生活―北牧・川上小学校の15年戦争』

193541年までの学校の日誌、校務日誌を読み返した記録

信濃教育界南佐久部会が1906年、県下の小学校を3組合に分け、組合ごとに研究会を通じた切磋琢磨が行われた

1933年には、「信州教員赤化事件」勃発。左翼的な新興教育運動に関わったとして、県下の教員多数が治安維持法違反容疑で検挙

 

4      小諸の「部落学校」(惟善学校)をめぐって――明治前半期を中心に

我が国の教育史研究において、被差別部落の史的解明はほぼ完全に欠落

1.   長野県下の教育差別の実態と就学要求

長野県下でも、被差別部落の学齢児童は、同一学区の小学校への入学・登校を拒否され続け、部落民父兄が子弟の就学を繰り返し要求してきた事実は広く確認できる

県下で最初の就学要求は1876年更級郡で出された ⇒ 2年前から学校に要求しているが放置されたため、直接県庁に出向いて「門訴」という非常手段に訴え出たという

唯一の例外が1879年牟礼村(現飯綱町)部落教場の設置で、本校教員が通勤教授する

 

2.   部落学校の設立とその推移

維新後の新教育制度は全国的に72年の「学制」発布に始まるとされるが、江戸時代から寺子屋が普及していた信州では、それより前に村々の住民の手で共立の学校((ごう)学校などと称する)がいくつかあり、71年には村民が経費を出し合い学者を雇い入れて運営する形での学校設立の願書が出されていた

学制発布により、各地域ごとに学校組合を設立し学校設立を申請するが、その中に被差別部落の児童は含まれていないどころか、不就学者調査の対象にもされず完全に就学を拒否

1880年、北佐久郡小諸の惟善(いぜん、のち荒堀)学校の開校届が、本来就学すべき学校とは別に提出され、部落民衆が設立した唯一の学校が創立された

その後の県内学区の度々の見直しの際も、「民情の異なる」ことによる「折合方不宜」「情誼難被行」を理由として同一学区2校の分離が容認され、部落学校としての独立を強要

85年の学区改正で八満校の加増派出所(後簡易小学校)に、89年には加増分教場となる

信州の旦那場と一把稲 ⇒ 「穢多」の主要な役目は、村々の治安上の見回りや市場の取り締まりなどで、その管轄地域を「旦那場」と呼び、役目の代償として旦那場内の斃(へい)牛馬処理権を持ち、旦那場の家々から「一把稲」(大人が抱えるほどの稲束)を徴収できる慣例

71年、斃牛馬処理自由令、身分解放令が出ると、部落内でも旦那場を持つ者と持たない者の間で争いが勃発。旦那場を廃止して、あらゆる面での百姓同一の取扱を求める動きが活発化、村方役人も譲歩せざるを得なくなり、「旧百姓」と「新民」が合同で行うよう取り決めが結ばれたが、身分解放令は、長い差別からの解放の喜びと同時に、生業を奪われ生活も破綻しかねない恐れがあった。旦那場の取扱に関する資料はない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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