暁の宇品  堀川惠子  2021.9.27.

 

2021.9.27. 暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ

 

著者 堀川惠子 1969年広島県生まれ。記者から04年独立。『チンチン電車と女学生』(共著)を皮切りにノンフィクション作品を次々に発表。『死刑の基準――「永山裁判」が遺したもの』で第32回講談社ノンフィクション賞、『裁かれた命――死刑囚から届いた手紙』で第10回新潮ドキュメント賞、『永山則夫――封印された鑑定記録』で第4回いける本大賞、『教誨師』で第1回城山三郎賞、『原爆供養塔――忘れられた遺骨の70年』で第47回大宅壮一ノンフィクション賞と第15回早稲田ジャーナリズム大賞、『戦禍に生きた演劇人たち――演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』で第23AICT演劇評論賞、『狼の義――新 犬養木堂伝』(共著)で第23回司馬遼太郎賞受賞。夫はNHKディレクター

 

発行日           2021.7.5. 第1刷発行

発行所           講談社

 

 

序章

1894年、日清戦争を機に、東京の大本営が広島に移された。帝国議会も移り、首都機能が丸ごと地方に移転した近代日本で唯一の例。その特異な様子は、文武百官の住所にも現れ、極めつけは天皇が広島城に起居。勅令で広島に戒厳令が敷かれた

その広島で最も繁忙を極めたのが宇品。物流と情報の中心となる

本書の取材は、人類初の原爆がなぜヒロシマだったのかという疑問を突き詰めることから出発

米軍の検討は17都市から始まり、京都・広島・横浜・小倉に絞られ、最終広島となったのは日本軍最大の輸送基地・宇品があったから

宇品の中心にあったのが陸軍船舶司令部、通称「暁部隊」で、戦地への兵隊の輸送、補給と兵站を一手に担い、30万の大所帯

船舶司令部の実態について日本には資料がほとんどない

アメリカは、日露戦直後から日本を仮想敵国に、兵糧攻めを基本とした「オレンジ計画」があった

太平洋戦争中に撃沈された輸送船は7200隻以上。出征した船員のうち2人に1人が戦死

太平洋戦争とは、国際法を無視したルーズヴェルトの無差別無予告の輸送船攻撃の指令に始まり、輸送基地への原爆投下で終わる、まさに輸送の戦い補給戦であり、その中心が宇品

本書は、宇品に生きた3人の軍人が残した未公開史料などを発掘し、知られざる宇品の変遷を蘇らせたもの。陸軍船舶司令部に生きた軍人たちの足跡、その海洋輸送のあり方を辿る先に見えてくるもの、それは、日本が明治の世から必死に築き上げてきたすべてを一瞬して失った太平洋戦争破綻の構造そのもの

 

第1章        「船舶の神」の手記

田尻昌次:1883年但馬生まれ。1905年陸士第18期卒、19年運輸本部(宇品)21年参謀本部船舶班、31年運輸本部(宇品)38年第一船舶輸送司令官(宇品)40年待命

「船舶の神」とまで呼ばれながら、開戦直前に待命となったのは、開戦に反対したから

宇品中央公園には「宇品凱旋館建設記念碑」(402月建立)があり、田尻書とある

田尻の長男が、三井物産から戦時中は軍属として船舶司令部に勤務し、戦後自叙伝を書いているが、そこには父退官の理由について、直前の宇品の軍需倉庫火災の責任を取ったのかどうかわからぬがとの記述があるが、詳細は不詳

本人も全13巻の詳細な自叙伝を残す

宇品が戦争の玄関口となった理由の1つは鉄道。東京を起点とした鉄道が広島まで開通したところであり、軍港として整備が終わりすぐ使えたから。80年県令となった旧薩摩藩士千田貞暁(せんださだあき)の立案で宇品地区の埋め立てによる大型船舶の使用可能な埠頭造りが進められたが、完成直前に総工費が膨らみ過ぎた責任を問われ新潟に左遷。後に宇品の輸送部隊を「暁部隊」と呼んだのは千田の名からとったもの

日清戦争で兵站の苦悩と辛酸をなめ尽くした武人たちは、兵站こそ「国軍の最大関心事」と定め、宇品を陸軍の一大輸送基地とすべく全力を傾注。糧秣支廠、被服支廠、兵器支廠が誘致され、基地が巨大化していく

沖の似島には、児玉源太郎の命で後藤新平が世界最大の検疫体制を確立

 

第2章        陸軍が船を持った

陸軍が船舶輸送を手掛けた端緒は、建艦に追われていた海軍が陸軍との協調を拒否したため自前の輸送手段を持たざるを得なくなったことにある

1874年の台湾出兵の際も、当時大型船を所有していたのは太平洋郵船だけで、それも船の所有権は米英にあり、出兵に正当性がないとしたアメリカが中立宣言を行ったために軍事利用が禁じられた。大隈重信が急遽外国船を購入し、三菱に依頼して輸送の実務に当たらせ出兵を実現したもので、これを機に三菱は3年後の西南戦争でも軍事輸送に当たり大きく飛躍を遂げる

陸軍がとった施策が「民間船のチャーター」で、必要に応じ日本郵船と傭船契約を結ぶもので、陸軍による船舶徴傭の原型となって太平洋戦争の終わりまで続く

陸軍にも陸上の兵站には輜重兵制度があるが、海上には及ばず、すべて徴傭に頼る

1910年、海軍の「海戦要務令」が改訂され、輸送部隊の護衛のみ海軍となるが、船舶輸送問題は陸軍のアキレス腱として残る

田尻は徴兵直後に陸士に応募、幼年学校出に鉄拳で鍛えられながら、卒業生成績は47位で上位1割に食い込むが、その後の昇進では非藩閥の悲哀を味わう。幼年学校の指導教官を拝命したころから道が開け始め、陸大受験が叶い、60人中36番で卒業、半年の中隊長勤務の後、19年に配属されたのが宇品にあった陸軍省配下の「陸軍運輸部」

平時は陸軍省配下にあって植民地や国内の軍関連の輸送を担当するが、戦時には参謀本部の直轄となって戦時編制の「船舶司令部」が組織され、現地軍の輸送や上陸を支援

宇品で基本業務を学んだあと、ウラジオストックに派遣され実際の現場を経験して陸軍全体の輸送計画を調整・統制し、次いで21年には参謀本部中枢に入り、船舶輸送の専門家として育成の道を進み、船舶輸送の近代化に携わる

 

第3章        上陸戦に備えよ

1次大戦の影響で兵器の近代化が最重要な課題となり、船舶班でも上陸に必要となる鉄製の小型舟艇の開発が急務

連合軍のガリポリ上陸作戦失敗の経験から、敵前上陸には外付けエンジンの鉄舟が必須となり、民間技術者を動員して開発を進め、28年完成

上陸用舟艇の完成に続いて、操縦者の育成にも着手。工兵に着眼し特殊訓練を施し、船舶工兵を育成。併せて船舶練習員制度も導入、船上での指揮がとれるよう訓練

さらに田尻が取り組んだのは海軍との協力体制の構築で、27年には初めて新居浜で陸海軍の対抗形式の上陸演習実施

参謀の田尻中佐に対して、陸軍省軍務局で平時の陸軍運輸部を統括していたのが今村均中佐。年は田尻より3歳下、士官学校は第19期で卒業時54番だが、陸大の卒業は田尻より3期も早く、東条を抑えて恩賜優等、首席。今村は兵站の重要性を初めて理解し、2人は意気投合

30年大佐昇進、ヨーロッパを視察、ガリポリ作戦に携わった将軍と面談、帰国後『上陸作戦戦史類例集』という日本初の上陸作戦関連本を上梓

 

第4章        七了口(しちりょうこう)奇襲戦

32年第1次上海事変で宇品の陸軍運輸部に出動命令。金沢の第9師団を宇品から上海に送り、上海での上陸支援が使命。現場の最高司令官は初の出陣となった田尻大佐だが、肝心の揚陸の作業員がおらず民間から徴用

上海揚陸は計画通り成功したが、戦局は不芳で、師団の半分を失う苦戦となり、さらに善通寺の11師団が派遣されることになったが、上陸地点を巡り陸海軍が対立。海軍は安全に上海近くの呉松からの上陸を主張したが、陸軍は揚子江を32㎞遡上した七了口に上陸して敵の背後から挟み撃ちを主張。田尻と今村は海軍将校とともに民間人に変装して海軍の徴傭船に乗り込み七了口の現場視察に向かう

陸揚げ施設のない七了口に敵前上陸するのは日本陸軍にとって初めての経験。稀に見る陸海軍の協力体制が功を奏して大成功裏に上陸を完了。終戦まで陸海軍共通の教範の1つとなり、『上陸作戦綱要』にも反映

国民党軍は退却を余儀なくされ、素早い停戦に繋がる

1次大戦の青島攻略では1個師団の上陸に1週間かかったが今回は1日足らず、鋼鉄製の上陸用舟艇も正式器材として陸軍省に認められ大量生産が始まる

田尻には金鵄勲章が授与、栄転を期待されたが、上陸作戦遂行に際し人員と器材の充実を嘆願した参謀本部宛の電報が、参謀本部への責任の転嫁を示唆するものとして参謀主任の逆鱗に触れ、用兵の器にあらずとして事後宇品の輸送機関に塩漬けにされる羽目になる

田尻の不運は、その参謀主任がその後も参謀本部の上部組織のトップとして居座ったことで、終生軍籍は宇品のままで、階級は上がったものの、師団長や軍司令官の経験はない

田尻は宇品で猪突猛進を見せる、その第1弾が宇品港(32年広島港に改称)の再整備

第二種重要港湾に指定され、軍港としての機能を強化。上陸用舟艇を運ぶ舟艇母艦や、資材の揚陸のための起重機船の建造するなど本来の参謀本部の任務に先駆けて手を打つ

 

第5章        国家の命運

37年、支那事変の本格化に伴い、3.5師団の上海南方の杭州湾での敵前上陸の準備に忙殺輸送船177隻は海軍力の2割強に相当。民間から徴傭した輸送船を戦闘用に艤装。船内の定員は「兵士3トン、馬9トン」が基準。1つの船団は長さ30㎞に及ぶ

日中戦の間、日本軍は杭州湾始め7回の師団規模の上陸作戦を全て成功、アメリカも瞠目

杭州湾の奇襲上陸は大成功となり、中国軍は背後を突かれて上海から総退却

上海と呉松一帯に9カ所の桟橋を整備、その後の上陸作戦に貢献

38年、中将として凱旋、陸軍運輸部の部長、戦時編制の第一船舶輸送部司令官に就任

10万人の軍人軍属を抱える陸軍輸送部のトップに上り詰めるが、任務は急膨張

上陸作戦に投入される輸送船には辛うじて武装の予算が付いたが、それ以外の任務は全て丸腰。太平洋戦争に突入して輸送船の被害が急拡大するころになって参謀本部は慌てて船舶の武装を始めたが、その時はすでに資材はなかった

陸軍が民間船を徴傭するため、すぐに民間輸送に皺寄せがくる。38年当時の日本の所有船腹量は英米に次ぐ世界3位の500万総トンだったが、第2次大戦勃発で状況が一変

外国船は本国に引き揚げ、陸海軍が4割近くを徴傭。内需との折り合いをどうつけるかが戦争の行方にも、国民生活の維持にも喫緊の課題となってくる

 

第6章        不審火

39年、田尻は『民間の舩腹不足緩和に関する意見具申』を参謀本部と陸軍省宛に行う

船舶輸送に関係するすべての省に大幅な業務改善を求める膨大なもので、陸軍中枢に対する建白書そのもの

総動員法などで国民の犠牲を強要している最中に、この意見具申は民間の疲弊を軍の側から問題として取り上げること自体異例、その上各省への要望は極めて多岐にわたり、船腹不足の解決に国家的対応が必要とする結論は、南進論への牽制ととれる

防衛研究所など関係各所に残された資料にはこの意見具申に触れたものは見当たらず、当時は葬られたものと思われる。田尻はコピーを手元に置き、戦後防衛庁幕僚監部の依頼で著した『船舶輸送作戦原則の過去と現在』の中に綴じている

具申から2か月後、陸軍省人事局から再就職先を提示した実質退役への打診が来る

態度を留保し、前線を視察して徹底的に現場の改善を促し、故郷の但馬にも錦を飾った後、再度の人事局からの打診も留保したところで、403月運輸部の倉庫から出火

明らかな不審火だったが、火災から3日後陸軍省から「諭旨免職」の命令書が届く

宇品公園の記念碑の署名は、凱旋館の完成が同年末だったことを考えると、田尻を慕う部下がその名を残そうと、不審火の前の紀元節の日にしたのかもしれない

広島を去る時は、駅頭でNHKが用意したマイクに向かって挨拶、広島市内の全家庭に流され、東京駅でも夥しい人出に迎えられたという

後任は内部事情に詳しい田尻の子飼いではなく陸軍省整備局長の上月中将(21)。大物の就任はようやく運輸部の存在の大きさを陸軍省が認めた証。南方には一度も出ず、戦後は一転厚生省復員局長として戦後処理に活躍、主を変えてもなお国策の中枢を器用に生きる姿が窺える

戦後、防衛庁は船舶関連の史料の信用性を図るため、田尻に寄贈史料の査読を依頼したが、ある参謀の手記に、輸送船よりも前に先遣隊を分散上陸させる必要性について触れたが、事前演習が失敗して作戦を諦めたとあったのに対し、自らの名前で総合所見が書かれ、その中に、「私が考えていたのは、上陸用特殊艇の新造による先遣隊の上陸だったが、研究中に罷免された」とある。研究が実ったのは43年後半で、大きな戦力にはならなかった

幼い頃から純粋な軍人教育だけを徹底的に施されて軍人になった者と、人間として世間で苦労してそれから軍人という職業に就いた者とでは違う

日露戦争の影響が大きい。「勝った」戦争ではなく、「負けなかった」戦争なのに、勝利に酔い、あらゆる判断が狂っていった。兵站の軽視も、資源不足で補ないきれない部分を精神論で埋めるのもその頃から酷くなり、実力を顧みず思い上がってしまい、それを指摘する者は組織から排除された

 

第7章        「ナントカナル」の戦争計画

宇品に対米戦に向けた極秘の準備命令が来たのは8

南方作戦に必要な師団を11個と見積もり、その上で必要船腹量を試算すると最大で220万トン、海軍の要望分235万トンを加えると民需へは35万トンしか回らず、正気の沙汰とは思えない数字で、とても軍部が希望する規模の戦闘を行うことは明らかに不可能

その上、敵攻撃による損害船舶に関する議論は一切ない

初めて船腹問題が議題に急浮上したのは413月で、結論は南進論に対して抑制的な動きを認めたが、6月の独ソ戦勃発でパワーバランスが崩れる。アメリカの態度硬化により突如船舶の重要性が浮上。需給見込みを恣意的に修正して「ナントカナル」としている

 

第8章        砂上の楼閣

41年夏以降宇品には、輸送船が続々と集毬、市内には対米開戦の噂で持ち切り

不穏な噂の広がりは、陸軍次官の木村兵太郎中将が広島の司令部に対し、「防諜に格段の注意を払いたし」と指示を下したほど。11月にはほとんどが姿を消す

11月末には船舶輸送司令部の前線基地がサイゴンに移動

真珠湾の1時間前にコナバル上陸作戦開始、タイの各地で上陸作戦に成功

世紀の大勝利は、占領地に君臨した日本軍将校たちにとってあまりに輝かしい瞬間だったが、砂上の楼閣が崩れ去るのは、彼等が怖れた以上に早かった

 

第9章        船乗りたちの挽歌

429月、ミッドウェイの敗戦後ガダルカナルで海軍が苦戦しているのを船舶部が応援に。作戦の最前線に送られる輸送船の動向をすべて把握する宇品の船舶司令部にはおのずと真の情報がもたらされるが、すべてを知った上でも指示に従わざるを得ない

ガダルカナルで繰り返される日本軍の戦闘の敗因には、常に船舶輸送の問題が関わる

米豪分断の目的から、豪州北部のソロモン諸島周辺の制空権掌握のため、ガダルカナルに海軍設営隊を送り込み飛行場の建設に着手したが、米軍が予想外に早く来襲、半年に亘る争奪戦は輸送の戦いとなるが、圧倒的な敵火力と輸送力の差はいかんともしがたく、無謀な輸送船団派遣強行により壊滅

ガダルカナルでの失敗は、東部ニューギニアでも繰り返される。何れも現地糧秣のない地への兵站を無視した突撃で、大半の死者は餓死。輸送船の船員は軍属にも入らず、遭難者とされた

 

第10章     輸送から特攻へ

田尻の長男は三井物産船舶部から42年軍属として陸軍船舶司令部に派遣、シンガポールに派遣され、南方地域から日本への物資滞留の解消を指示されたが、輸送のための行政組織が全く機能しておらず、運んでも日本での荷捌きができない状態

船舶不足から、木造船に特殊な生地を貼ってタンカー代わりとしたり、筏での輸送や、石油をゴム袋に入れて海上を曳航することまでやったがほとんどが失敗

44年になると船舶の喪失量は急増、造船が国家の管理下に置かれ、「戦時標準船」の規格が大量生産用に簡素化されて造船ペースを上げようとしたが、粗製乱造ばかり

一般船員の軍属・軍人化が手間取ったため、軍人だけによる上陸作戦計画に切り替えたが、軍人を教育・訓練しようにも船がなかった

代わりに44年初からやったのが特攻艇の開発。自動車エンジンを転用した2人乗りの簡易な舟艇。前年夏ごろから軍中枢で内々に進められていた航空機による特攻作戦や海軍の特攻艇開発に触発されたもので、すぐに技術研究所に開発が引き継がれベニヤ板製にかえて正式兵器に採用される

特攻要員は、まだ10代の軍事訓練中の船舶工兵と、陸士を出たばかりの本流の見習士官の中から選抜される

宇品が担ってきた主要任務は、輸送から特攻へと大きく舵を切る

宇品の船舶司令部の情報班には、丸山眞男一等兵が3月から任務に当たっていた。司令官は、丸山に英文の新聞雑誌や短波放送から情報を集め、『国際情報』というレポートを書かせ、連合軍側のリアルタイムの情報をもたらした

452月、阿波丸が白色に緑十字をつけ、国際赤十字の仲介によって、日本占領下の香港・シンガポールに抑留されている捕虜や市民に救援物資を運ぶために連合軍から往復の「絶対安全」を保証されて出航。往路は無事だったが帰路は大東亜省の役人、商社マンに加え、重油やガソリンを満載して日本へ向かったが、南シナ海で米潜水艦に撃沈される。米人艦長は軍法会議にかけられたが戒告処分に終わり、重大な国際法違反はそれ以上追及されることはなかった

特攻部隊はフィリピンや沖縄の戦線へと送り出され、想定外の奇襲攻撃に若干の戦果は上げたが、すぐに機雷が撒かれ、魚雷艇による特攻艇狩りが始まり、出撃した2288人中7割が戦死したが、極秘任務のため報道されることはなく、戦後も長く封印

4月からはアメリカ軍による「飢餓作戦」と命名された日本本土の主要港封鎖を目的とする本格的な攻撃開始

6月、大本営から宇品に対し久しぶりの作戦が下命。満州や朝鮮から軍需物資や食料を、比較的航行の自由が確保されていた日本海側の港に陸揚げしろとの内容で「特攻朝輸送」と名付けられ、宇品に残っていた140隻を動員したものの、陸揚げも満足に出来ず、揚げても国内輸送網が壊滅していた

 

第11章     爆心

86日朝、爆発を目撃したが、周囲との連絡が取れず、参謀は情報収集に車を走らせる

爆心から4㎞の宇品は建物の屋根が飛んだりしているもののさほどの被害は見られなかったが、2.3㎞辺りから景色が一変、建物がすべて同じ方向に向かってなぎ倒され、市内は火炎放射器で焼き払われたかのような火の海。そこからは歩いて市役所前まで辿るが、その先1㎞程の軍管区司令部までは諦め宇品に戻る

佐伯文郎船舶司令官(中将)はすぐに保有船舶を使い、7本の川を兵站線として救護・救援活動に着手。次いで防疫給水、食糧と衣料の配給、炊き出しなどが加わる

第二総軍司令部の畑俊六司令官も無事、佐伯が広島警備担当司令官に着任し指揮

原爆投下から24時間の記録は、佐伯自身がB級戦犯として巣鴨で刑に服していた55年前後に書いた『広島市戦災処理の概要』として残されている

関東大震災の時参謀本部にいて救援・救護を体験した佐伯だからこその適切な指揮だったことがわかる。田尻も関東大震災では参謀本部船舶班にいて、救援物資が芝浦港でパンクしているのを見て、自ら埠頭で陣頭指揮を執ったという

佐伯は早くから原爆の脅威を認識しており、投下から僅か2時間後に「原子爆弾」であろうとの推測を陸軍大臣に打電している――7日未明のトルーマンの声明で確認された

第二総軍や中国管区司令部の生存高級官僚は海軍の調査班や軍医の助言で市内中心部には立ち入らず、多くが郊外で体を休めたり白血球の破壊を防ぐための輸血を繰り返す中、佐伯は8日早暁に戦闘指令所を爆心地から1.2㎞の市役所南側の広場まで進めて指揮を執る

各部隊に記録を残すように促し、遺体処理に当たった特幹隊などには死者の本籍や氏名、所持品や遺体の特徴などを詳細に書き残し、遺品は状袋に入れて提出させる。これが後に膨大な原爆犠牲者の記録となり後世長く伝えられていくことになる

佐伯は各部隊に対しても筆記による報告を下命。世界初の原爆投下の歴史的意味を正しく理解していたことがわかる。関東大震災でも戒厳司令部が膨大な記録を保存していたことと共通

アメリカ軍の投下目標が宇品ではなく広島となった背景には、原爆投下の正当な理由として掲げられた軍事目標の宇品は海上封鎖によって輸送機能はほとんど喪失、原爆を落とすほどの価値はなく、核大国アメリカが大戦後に覇権を握ることを世界中に知らしめる狼煙とするために、のっぺりとしたデルタの街の中心部に落とし、威力を分析する時に好都合な場所が投下地点として選ばれたということ

14日、佐伯は大本営への出頭を命じられ、梅津参謀総長から、明日の玉音放送と、その後の復員作業を整然と行うよう指示を受ける

玉音放送後、佐伯が全軍に訓示:ここに船舶部隊の復員を命ぜられ、我々はその光輝ある歴史を終結せんとす。心情切々として、万感胸に迫るものあり。顧みれば明治27年、宇品港頭に陸軍船舶部隊の発足を見てより、以来50有年、累次の聖戦に参加し、武勲を奉し、帝国陸軍船舶作戦に貢献寄与せるところ極めて大なり。また戦に倒れ病に死したる幾多戦友に対しては、深く敬弔感謝の誠を捧ぐ。今や諸子、戒衣を解きて故山に帰らんとするに臨み、酷寒の北冥に、灼熱の南海に身を挺して奮戦したるその労苦に対し、衷心より感謝するとともに、うたた惜別の情、禁ずる能わず。今後における諸子の難苦荊棘(けいきょく)の前途に思いを馳すれば、惻々として胸を塞ぐものあり(ママ)も、希(こいねがわ)くは忠誠なる軍人の本分を自覚し、今次賜りたる聖論の奉体具現に努め、ますます自重自愛、以て戦後の復興のため、国民の中核たらんことを切望してやまず

軍に代わって広島市の今後を率いることになった市長は、マッカーサーに対し「今回の戦災は世界平和をもたらす第1歩であると同時にこれに寄与するところ大なるものあり」と伝え、戦前戦中と強大な陸軍に依存し、膨大な軍事予算の恩恵を受けて発展してきた町は一転、原爆すら軍都の代償として引き受け、平和都市として生まれ変わるには、旧日本軍最大の輸送基地・宇品の記憶は負の遺産以外の何ものでもなくなった

佐伯は、海外からの復員を船舶司令官の下でさせてもらいたいと要望したが、船腹もなく、復員は政府機関の手に委ねられ、船腹過剰が問題化していたアメリカ軍所有の船舶に頼らざるを得ず、すぐに191隻もの大船団が復員輸送に差し向けられた

 

終章

仙台に戻った佐伯は48年、B級戦犯で逮捕。輸送捕虜虐待の罪。船舶担当6人の元中将に禁固(重労働)2426年判決。57年仮釈放、翌年宇品で暁部隊戦没者の追悼法要

全船員の軍属化は、53年に漸く実現。民需船の船員も一律に軍属とされ、障害年金や遺族年金、弔慰金の支給対象となったが、あくまで申告制のため、いまだ実数は不明のまま

田尻は天津艀船の社長として家族と共に終戦を天津で迎える。会社は中国に引き渡されたが、すぐ日本大使館及び親会社と交渉して3億円を調達、2000人の従業員に退職金を払い、日本人社員の引き上げまでの生活を確保。翌年4月引き揚げ。空襲を逃れた横浜花月園近くの自宅で蟄居

54年、日米相互防衛援助協定に基づく援助物資の受け入れ業務が開始され、自衛隊が事務処理を行うことになったが、そのベースとして船舶輸送に関する過去の史料の整備、編纂を田尻に委嘱

6年かけて『船舶輸送作戦の過去と現在』全10巻を纏め防衛庁に収める。一度は完全に失われた陸軍船舶輸送の苦難の歩みを再び国家の歴史として蘇らせた

最晩年、血管の病から寝たきりとなりながら、自叙伝を執筆し、69年没、享年85

 


 

48回大佛次郎賞 『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』 堀川惠子氏

20211214日 朝日

 優れた散文作品に贈られる第48回大佛(おさらぎ)次郎賞は、ノンフィクション作家・堀川惠子さんの『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』(講談社)に決まった。一般推薦を含めた候補作の公募、予備選考を経て、最終選考で委員5人が協議した。贈呈式は来年128日、東京都内で朝日賞、大佛次郎論壇賞、朝日スポーツ賞とともに開かれる。

 「輸送」軽視した戦争、掘り起こす 膨大な手記、浮かぶ「組織と個人」

 すべての著作が面白い、希代の書き手である。原爆や死刑、宗教といった重い主題を扱いながら、堀川作品はどれも読み始めたらやめられない。知られざる事実を掘り起こす取材力と、物語を巧みに運ぶ技術には既に定評がある。

 受賞作は、その堀川さんの集大成にして、さらなるスケールと完成度を示す一作となった。

 広島市の宇品にあった陸軍船舶司令部、通称「暁部隊」を主たる舞台に、「船舶の神」と呼ばれた田尻昌次司令官らの苦闘を克明に追う。日清戦争前から、海軍の拒否で陸軍は兵士の海上輸送を自前で賄うしかなかった。輸送と補給は軍事の要諦だが、日本は軽視したまま破局に向かう。

 物語を根底で支えた一つが田尻の残した記録だった。未発表で埋もれていた膨大な手記には、破滅への道がデータと共に刻まれていた。多くの関係史料を読み込み、船舶免許まで取る徹底した取材で成った本書は、田尻ら現場をよく知る者をよそに「ナントカナル」で突き進んだ無謀な戦争だったことを具体的に明かしている。

 読みどころは多いが、極めつきは堀川さんが見つけて震えたという田尻の意見具申の文書だろう。上層部に船舶輸送の危機的状況を伝え、このままでは立ちゆかぬと警鐘を鳴らしていたのである。田尻は更迭された。堀川さんは田尻の苦渋のメモも発見している。

 「大きな集団が誤った方向に一斉に動き出した時、現場の人間はどう振る舞うか。どう立ち向かうのか、立ち向かわないのか。旧軍に限らない話だと思います」

 広島に生まれ育ち、原爆の惨禍を様々に伝えてきただけに、軍人を描くことに当初ためらいもあった。だがイデオロギーによらず、史実を発掘して吟味し、歴史と人間に誠実に向き合うことを自身に課して取材に走る。4年前に亡くなった元NHKプロデューサーの夫、林新(あらた)さんの教えでもあった。

 その時代に入り込み、田尻らの葛藤の奥底に身を浸そうとした。「自分が消えて、戻れなくなる」感覚まで覚えたが、礼賛にも批判にも傾かない筆致から浮かんで来るのは、国家と個人、組織と個人という普遍的な問題である。

 大佛次郎の名を冠した賞を受けることに縁を感じるという。犬養毅を描いた前作『狼(おおかみ)の義』の折、戦後に大佛が各紙誌に寄稿したものは片端から読んでいた。「戦前、戦中、戦後を生き、当時の矛盾や後悔を知り尽くした人で、この作品を読んで下さったら思うところが多いのではないでしょうか」

 本書にあるように、折節にやり取りした戦史研究家らの言は示唆に富んでいた。「プロのすごさですよね。しょせん自分の力なんて限られている。取材を通して私が育ててもらっている感じです」

 よくぞ書き残してくれた――田尻の文書に堀川さんは今も思う。「これだけは残したい、という田尻さんの熱量は半世紀を経て変わっていない」。田尻の思いは、確かな書き手を得て、今この時に読まれるべき作品として結実した。(福田宏樹)

     *

 ほりかわ・けいこ 1969年、広島県生まれ。広島テレビ記者を経てノンフィクション作家。『死刑の基準』で講談社ノンフィクション賞、『裁かれた命』で新潮ドキュメント賞、『教誨(きょうかい)師』で城山三郎賞、『原爆供養塔』で大宅壮一ノンフィクション賞、夫との共著『狼の義』で司馬遼太郎賞など。2016年度、日本記者クラブ賞特別賞。

 【選考委員5氏の選評】

 司令官の記録、秀作として甦る ノンフィクション作家・後藤正治氏

 長くヒロシマにかかわってきた著者の集大成的な仕事である。主舞台は、陸軍の輸送と兵站(へいたん)を担う宇品の船舶基地。「暁部隊」とも呼ばれた。明治から昭和の大戦まで、兵士たちはこの地から大陸へ、南方へと向かった。主人公格に二人の司令官が登場する。

 一人は基地の近代化や中国戦線での上陸作戦に手腕を発揮するが、理系的な思考の持ち主で、この程度の船舶力で南進などできるわけがないと具申し、開戦前に「罷免」される。

 もう一人は原爆投下時の司令官で、迅速に全部隊を動員、市内を走る河川を使っての救援活動を展開する。関東大震災時の個人的体験があった。昭和陸軍にも、まともな将官たちがいたことを知るのである。

 作品を支えているのは、防衛研究所や遺族宅に残されていた記録である。二人の司令官および船舶参謀は、「自叙伝」「暁部隊始末記」「広島市戦災処理の概要」などの手記を残していた。人知れず埋もれていた文が、言霊のなせるごとく、最良の読み手へと伝わり、秀作となって甦った。

 知られざる自滅への道筋描く 法政大学前総長・田中優子氏

 完成度の高い文体による、極めてスリリングな展開に、思わず読み入ってしまった。「宇品の記憶」を軸にし、田尻昌次ら司令官たちの言動を劇的に構成することで、今までの太平洋戦争の議論からは見えなかった戦争の実態が見えた。

 それは本書にも書かれているように、「太平洋戦争とは輸送船攻撃の指令から始まり、輸送基地たる広島への原子爆弾投下で終わりを告げる、まさに輸送の戦い補給戦だった」ことである。宇品を中心にすることで、そのことが明確に浮かび上がった。

 アメリカの作戦は日露戦争の直後から、日本の海上封鎖を行って資源を断つ兵糧攻めを基本とした。しかし兵糧攻めをしなくとも、日本の軍隊は自ら兵站を軽視し、データを無視し、海上輸送力をあえて誤算して自滅していく。

 藩閥や陸海軍の対立からくる国内の権力闘争こそがまずは「戦争する」ことを何よりも優先する姿勢をつくったのではないか。

 改めて先の戦争の無惨なありように考えを巡らせることができた。

 「悲劇」の構造、主人公は「宇品」 作家・辻原登氏

 「宇品」が主人公である。

 ドキュメントがそのまま「悲劇」の構造を獲得し、矛盾・対立・葛藤のダイナミック、サスペンスフルな展開から、原爆投下による破局(カタストロフ)へと至る。

 記録の心憎いばかりの構成、配置の妙は無論のこと、前半に田尻昌次中将、後半に佐伯文郎(ぶんろう)中将という二人の高潔な軍人を据え、彼らの勇気と英知と懊悩(おうのう)を、自叙伝、証言、日記から的確に再現する筆致に舌を巻く。船舶技師市原健蔵、船舶参謀篠原優(篠原は、小説の主人公のように節目節目に内面を吐露する)という脇役への配慮も見逃せない。

 しかし、やはり人物より「宇品」というトポスだ。宇品とガダルカナルを結ぶ余りにも悲惨な時間と空間。ベニヤ板で作られた「特攻艇(レ)」数千艇。大半の若い命が暗い海に沈んだ。しかし、残っていた(レ)は、原爆投下直後の広島を救うため、デルタの川を遡(さかのぼ)って火の海へと身を投じていく。

 歴史から教訓を読み取るか、それとも「悲劇」の浄化(カタルシス)を得るか、二つの贅沢(ぜいたく)な要求に応えてくれる稀有(けう)な一冊である。

 良質な戦争映画を観るようだ 文芸評論家・斎藤美奈子氏

 堀川惠子さんには、エンターテインメント作家としての才能がじつはあるんじゃないかと思う。もちろん膨大な資料の探索と丹念な取材の裏付けがあっての話だけれども、どんな素材も見事に料理し、ドラマチックな物語に仕上げてしまう。

 戦時中、日本軍最大の輸送基地だった広島の宇品港を舞台に、ロジスティクスの面から陸軍の無謀な戦いぶりを描いた本書も例外ではない。自前の船を持たず、民間のチャーター船で兵站を担っていたという恐るべき陸軍の実態。現場を知らない中枢部に苛立(いらだ)ちながらも従わざるを得ない船舶司令部。ことに田尻昌次と佐伯文郎、自身の判断と命令の板挟みになる二人の司令官の懊悩は良質な戦争映画を観(み)るようだ。

 選考会では全員大絶賛であった。作品の質と奥行きとスケールを考えれば当然だろう。当然すぎてつまらないほどだ。なので別の候補作も推してみたところ、あえなく一蹴された。堀川さんはすでに三つ星の書き手であり、何を読んでも裏切られない。結果に異論はないものの、たまには裏切ってもらいたい。

 リスク、正視せぬ国家抉り出す 元本社主筆・船橋洋一氏

 安全保障はその一番弱いところ以上によくはならない、と英語人は言う。開国以降、島国日本の安全保障の最も弱い環(わ)は船舶輸送であり続けた。明治の将軍は、寺内正毅も上原勇作もそれを痛いほど知っていた。

 しかし、昭和の将軍はこの死活的なロジスティクスを軽視し、机上の作戦に夢中になった。太平洋戦争では民間の船と船員を徴用してやりくりする船舶輸送が日本軍のアキレス腱となった。対米戦争となれば船舶と船員の高い損耗率は避けられない。その「不都合な真実」を認めると対米戦争ができなくなる、組織防衛上もそれは言えない、そうした卑怯な精神論と保身が軍上層部を支配した。

 国家がリスクを正視せず、対応を先送りするとき、そのツケは国民に回る。福島原発事故やコロナ危機でもあぶり出された日本のロジスティクスの「失敗の本質」を、宇品という陸軍船舶司令部の歴史を蘇らせることで鮮やかに抉り出した。空白の歴史を生々しく現出させた筆者の取材力と筆力、そして体当たりの使命感に喝采を送りたい。

 

 

Wikipedia

宇品(うじな)は、広島市南区に位置する地区であり、ここでは「宇品」を町名に冠する地区の総称として用いる。

旧広島県港湾事務所(旧広島水上警察署)1909竣工で、宇品地区内に現存する建築物のなかでは最も古いものの一つである。

地理[編集]

広島県を流れる太田川(厳密に言えば京橋川)の河口部に位置している。

南に広島のの玄関口、広島港がある。

隣接している地区[編集]

北側南区皆実町、南区翠(翠町)

南側広島湾

西側南区出島、京橋川を挟んで中区千田町、中区吉島

東側南区丹那町、南区大河地区

歴史[編集]

宇品新開の造成[編集]

「宇品」という地名は広島湾頭の一島嶼の名称として歴史に登場する(宇品島 / 現在の元宇品。#地名と地誌参照)が、現在の宇品地区は、宇品築港事業1884明治17年)着工)の結果造成された広大な新開地(埋立地)として成立した。1887には、この「宇品新開」は広島区(広島市の前身)に編入され「宇品町」となった。さらに188911月に築港が竣工すると宇品島(当時は安芸郡仁保島村内)がこの新開地と地続きになった(宇品島は19042月、広島市に編入され同年10月には元宇品町と改称した)。

宇品の軍事基地化[編集]

宇品地区に存在していたかつての国鉄宇品線宇品駅ホーム(19869月撮影 / 広島湾岸道路造成にともない撤去され現存しない)

1894日清戦争が始まり広島(当時、山陽鉄道の西の終着点であった)が軍事拠点として注目されると、同年8月山陽鉄道により広島宇品間に軍用鉄道が敷設(のちの宇品線)された。これにより宇品地区・宇品港には続々と兵員が輸送され、この地区は大陸進出の前進基地とみなされた。なお1894年に作られた唱歌「」(旗野十一郎・林柳波作詞、吉田信太作曲)は当時の宇品港の賑わいを歌ったものである。さらに1897広島陸軍糧秣支廠1902陸軍運輸部が設置されたことで、宇品の兵站基地化は決定的なものとなった。その後1911には陸軍糧秣支廠に全国一の規模をもつ缶詰工場が建設されている。

市街地・工業地帯としての発展[編集]

『概観広島市史』(1955年発行)の『広島の新開地発展図』。元宇品島東側の宇品新開地区は明治時代に、西側の宇品商港地区は大正時代以降に開発されたことが確認できる

1930年頃の広島市の地図 / 宇品は右下(東南)に位置し、この時点では現在の出島がまだ埋め立て造成されていない。また広電宇品線の軌道の位置も現在とは異なる。さらに現在の広島競輪場の位置に「養魚池」があったことがわかる。

1945年被爆後の広島市内の航空写真 / 壊滅し一面が白く見える市中心部と比べ宇品地区がほとんど無傷のまま残っているのがわかる。

一方、宇品地区は市街地としての発展も著しく、1915大正4年)には、宇品線に続く第2の鉄道線として、地区西端(京橋川東岸)の土手沿いの道に広島電軌(広島電鉄の前身)の路面電車線が敷設され、のちの広島電鉄宇品線となった。この路線は1935昭和10年)にやや東よりの宇品本通に移設され現在に至っている。1933には錦華紡績の工場が宇品町東部(現・宇品東のマツダ宇品工場)に設立された。

また、主要な文教施設としては、1921に(旧制)広陵中学校(広陵高等学校の前身)が現在の宇品御幸一丁目に設立(その後1973沼田町に移転し、跡地は再開発され、みゆきプラザ(イオンみゆき店・みゆきパークマンション)になっている)され、1935年には広島女子専門学校(県立広島女子大学県立広島大学の前身)が桜土手沿い(現・宇品東)に移転(現在地)した。

原爆被災[編集]

194586原爆被災に際し宇品地区はその大半が爆心地から3km以上隔たった位置にあり、「半壊地区」とされているものの比較的被害が軽微であった。このため、宇品に駐屯していた陸軍船舶司令部(通称「暁部隊」 / 当時江戸家猫八丸山眞男らが所属していたことでも知られる)は被爆直後から市街地中心部での救援活動に中心的役割を果たした。

第二次世界大戦後の発展[編集]

敗戦後、かつての広大な軍用地・施設は民間企業・官庁などに払い下げられて民需に転換されることとなり、この地区に進出した施設のうち最大の企業であるマツダにより、1966には東部の埋立地が造成された。また、戦前から進められていた地区西側の海面(京橋川河口)の埋め立ては戦後になって本格化し、現在の出島地区として造成された。1951には金輪島が仁保町より宇品町に編入され、1968には宇品町が宇品東・宇品神田・宇品御幸・宇品西・宇品海岸・出島に分割されほぼ現在の住居表示が確定した。近年の宇品地区は、再開発の目玉として多くの商業施設が建設・出店しているほか、地区の南端を通過する広島湾岸道路の造成にともない南部を中心に大きく街並みが変わろうとしている。

地名と地誌[編集]

イオン宇品ショッピングセンター / 近年の宇品地区再開発を象徴する施設の一つである。

おおむね東部の工業地区(宇品東)、南部の港湾地区(宇品海岸)、西部の商業・住宅地区(宇品神田・宇品御幸・宇品西)に3大別され、これらに公園地区としての元宇品が加わる。

地名の由来[編集]

宇品(うじな)

「宇品」の地名は、この地区の南にある宇品島(現在の元宇品町)に由来する。宇品島はその形状が牛が伏せたようになっていたことから「牛ノ島」と呼ばれていたものが、「牛奈(うしな)島」「宇品島」となったという説や、「広島湾内の島」を意味する「内ノ島」が訛ったという説がある。

宇品神田(うじなかんだ)

町名は築港後牛田から移転してきた神田神社(後述)に由来する(その後同社は現在地の宇品御幸に再移転)。

宇品御幸(うじなみゆき)

町名は町のほぼ中心を南北に貫通する「御幸通り」(千田廟公園御幸松)に由来する。御幸通りは1885明治天皇山陽道行幸を記念し、当時埋め立て工事中だった宇品新開の新しい道に命名された。

元宇品町(もとうじなまち)

宇品という地区名の由来となった島であるが、宇品築港のさい島の対岸に造成された宇品新開が広島市所轄になり「宇品町」と称したため、宇品島の広島市編入時(1904)に「本来の宇品」という意味で「元」を町名に冠し宇品町と区別した。別称「向宇品」(むこううじな)。宇品新開(現在の「宇品地区」)とは暁橋で連絡する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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