評伝 福田赳夫  五百旗頭真  2021.10.5.

 

2021.10.5. 評伝 福田赳夫 戦後日本の繁栄と安定を求めて

 

監修 五百旗頭真 1943年兵庫県生まれ。京大法卒、同法学研究科修士課程修了。広島大助教授、神戸大教授、防衛大校長、熊本県立大理事長を経て、現在兵庫県立大理事長。ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長。法学博士(京大)。文化功労者。主な著書に『米国の日本占領政策』上下、『占領期――首相たちの新日本』など

 

著者 

井上正也 1979年大阪府生まれ。神戸大法学部法律学科卒、同大学院博士課程修了。博士(政治学)、香川大准教授を経て、現在、成蹊大法教授。『日中国交正常化の政治史』(2010)でサントリー学芸賞

上西朗夫 1939年東京都生まれ。東大文学部社会学科卒。毎日新聞社入社。政治部記者を務め、政治部長、常務西部本社代表を歴任。00年下野新聞社社長、会長、相談役を経て13年退社。政治部記者として福田を長く取材・観察

長瀬要石 1938年長野県生まれ。東教大農村経済学科卒。農林省入省後、経企庁へ、長官秘書、国土庁改革・調整局長などを経て、機械振興協会経済研究所長、富士通総研副理事長、国際協力銀行副総裁、コーエイ総研会長などを歴任。現在、開発政策研究機構理事

福田が経企庁長官の時秘書官として仕える

 

発行日           2021.6.25. 第1刷発行       21.7.26. 第2刷発行

発行所           岩波書店

 

「平和大国」を目指した外交活動を展開、抜群の政策能力で経済危機を抑え込み、戦後社会を繁栄と安定へと導いた福田赳夫元総理。その理念・行動はどのようなものだったのか。未公開の「福田メモ」や日記、近年になって機密解除された外交文書などの豊富な史料を活用、当時の関係者への丹念な聞き取りも行い、通俗的な誤解や偏見を排して実像に迫った初の本格評伝

 

 

福田は上州高崎近郊の農家の生まれ。祖父・幸助は佐久間象山の愛弟子で、文武に優れ、1889年金古町の初代町長。父も兄も町長。豪農で名望家

筋を通して行動する福田の性向は、こうした家庭環境と無関係ではない

春名山麓は火山灰の大地で水田に適さず、雑穀や養蚕に依存する貧しい農村。福田家も次第に困窮していき、現実の改善や改変こそが福田を政治家に向かわせる動機の1つであり、貧苦の人々を包摂する政策対処に熱心。福祉があり格差の少ない戦後日本を作るうえで、福田は小さくない役割を果たす

一高―東京帝大―大蔵官僚―政界で頭角を現わし有力閣僚を歴任―首相(762)

起伏に富んだ生涯――大蔵次官目前で無実の昭電事件に巻き込まれて辞職。無所属で衆議院議員に初当選を果たし、自民党結党後、岸政権下で急速に政策通として頭角を現わすが、池田政権下で党風刷新を展開し、厳しい政権批判を行って不遇の時代となる

才能を開花させたのは佐藤政権下で、蔵相、外相、幹事長を歴任、抜群の政策能力を示す

自他共に認める佐藤の後継者だったが、総裁選で田中角栄にまさかの敗北。漸く76年政権を担当、経済を建て直し、外交・内政両面で着実な業績を上げ、長期政権が期待されたが、初の自民党総裁選で、田中の支援を受けた大平に敗北、不完全燃焼のまま退陣を余儀なくされる。田中の金権政治を否定した結果だった

福田の政治家としての最大の強みは、経済・財政政策の卓越した運営能力

6070年代の経済危機はすべて自分の手で処理。特定のブレーンに頼らず、学説に捉われず、実体経済の臨床医に徹した現実主義。若き日、井上準之助や高橋是清から極意を学び、高橋の後継者を自負

国際協調主義者としての側面も見逃せない――若き日のロンドンで経験した、危機の国際政治が協調を失って破局に向かうのを目撃した教訓から、「世界の中の日本」という考え方を早くから培う

77年の福田ドクトリンで示されたように、経済的成功によって国際的地位を向上させた日本は、「平和大国」の道を歩むべきというのが彼の一貫した主張となる。諸外国と文化面から相互理解を深めるための国際交流基金を創設した

戦後政治では、吉田、池田、佐藤と受け継がれた保守政治を保守本流とし、岸―福田は傍流と位置付けられるが、保守本流には2通りの意味があり、人脈的には池田の誘いを断って岸と行動を共にした福田は傍流だが、「日米基軸」の下で「軽軍備、経済優先」を重視する戦後日本の平和的発展路線を歩んだのは保守本流そのもの

日本政治が国と公共に資することを見失い、良識から外れて金権政治や派閥政治に明け暮れる姿に強い危機感を覚え、党改革の必要性を繰り返し訴えた

佐藤後継を巡る争いの時も、形勢逆転のために金を積めと迫る森喜朗を切り捨て、たとえ敗れても倫理観を欠く政治を許さなかった

金権政治と派閥政治の全盛期にあって、自らの理念を実現するための優越した政治基盤を築けなかったのは惜しまれる。それ故彼が目指した党内改革は多くが未完に終わる

権勢欲や虚栄心の少ない政治家で、政治に倫理を求め、生活の浪費を戒め、政界の実力者になってもその質素な生活態度は変わらず、身の回りのことには無頓着で、文字通り国のことを考え続けた人生

冷戦終結後の90年代の日本では政治改革の機運が著しく高まり、政党への助成も行われ、金権と派閥の政治は明らかに後退、福田の叫び続けたことが引退後にある程度実現したといえるが、大局観を失わない政策力、政治力の必要性が高まる中、国民の幻滅感と焦燥感は深まるばかりであり、こういう状況にあるからこそ、真剣な政策家だった福田の人と政治を今一度見つめ直してみたい

1部は福田の自己形成期

2部は党内で頭角を現す時期

3部は首相に近づいていく時期、経済の司令塔として石油ショック後の経済再建を成し遂げる時代

4部は福田政権の2年間の詳細と退陣後の政治生活の集大成としてのOBサミット

近時公開された1次史料を駆使、政治家になった52年以降の本人の日記福田メモが初めて全面的利用が許された

合同葬でのシュミット西独元首相の弔辞――2人は傑出した友人。同じ頃蔵相、首相を務め、両国は協力関係を深めた。OBサミットと「福田ドクトリン」は偉大な足跡

 

第1部         

第1章        上州の神童

福田の人格は、郷里金古町の風土と、この土地において福田家が果たしてきた役割などと深く結びつく――郷里一番の豪農。剣術で名を馳せた祖父幸助の薫陶を受けて育ったことが、福田の我が道を往くような気概を重んじる性格を形成

1.    郷里

金古は幕府の天領で宿場町、生まれた足門村は沼田藩領、明治初年に金古町として統合

生家は30町歩の土地持ちだが、榛名山麓の火山灰地で、雑穀の粟や長茄子ばかりで格下の農村――「金古の粟めし、足門の長茄子」

僅か1㎞離れた利根川の水利利用の願いが叶えられたのは1952年、中群馬用水計画が完成したのは60

榛名山の噴火は6世紀。2度の大爆発により大量の火山灰や軽石で埋め尽くされ、浅間山も1620世紀に巨大爆発を繰り返し、大飢饉をもたらす

横浜の開港で日本に来た欧米の商人が着目したのが生糸や絹織物。ヨーロッパ最大の養蚕地フランスで微粒子病と軟化病が蔓延して生産地が壊滅的な打撃を受けたため、政情不安定な中国に代わって日本に注目

中国から日本に養蚕の技術が伝来したのは2世紀前半、江戸中期以降生産地が急拡大

フランスから派遣された調査団が目を付けたのが富岡で、明治政府は日本初の官営近代式製糸工場を富岡に建設。近在の金古町の畑作農家は積極的に桑畑の増設に乗り出す

福田家の祖先は、戦国時代上杉と北条が関東の覇権を争った時、上杉が群馬に作った出城の1つの家老職。上州の剣士として足門村の豪農の長男と紹介されたのが祖父幸助

幸助は、松代藩の剣術指南に入門、同時に同藩下級武士佐久間象山の開校間もない「象山塾」にも入門。1870年故郷に戻って養蚕業の振興に全力を注ぐ

2.    生い立ち

赳夫が生まれたのは1905年。幸助が『詩経』の「赳赳武夫」(逞しく、猛き男)からとって命名。「赳」とは蛇が鎌首をもたげて進む姿を模したもの。3番目の次男、兄と姉、弟2人、妹3人はみな平凡な名前なのに、福田だけ農家の子供とは思えないような名だが、祖父は「世のため人のためになれ」と祈って名をつけ、福田にもそう教え込んだという

89年、祖父は合併した金古町の初代町長。周辺一帯を繭と生糸の一大生産地にした先駆者

2年連続で霜害が近隣を襲い、富岡製糸場まで廃止の瀬戸際に追い込まれたが、県令の奔走で三井が引き取り操業を継続。幸助も危機を脱し、4年の任期を全うして退任

父善治は働き者だったが、脱疽()から両足切断となり、当時一大ブームとなった囲碁に熱中。その感化を受けた赳夫は評判の腕前となったが、スカウトの誘いには乗らず

祖父の教えを一身に受けて育った利発な子供に両親が教えたのは、「ぶるな」の3訓で、「偉ぶるな」「利口ぶるな」「金持ちぶるな」

3.    少年時代

小学校時代は、1年の操行で頭が良すぎて唯一「乙」をつけられたが、後は全て「甲」

1次大戦の戦争景気で養蚕業も倍増の盛況だったが、福田家は幸助の政治道楽や借金の保証人などで家計が傾き始め、福田の中学進学を諦めかけたが、担任教師の説得に折れる

当時群馬は「東の前()中、西の高()中」といわれ2校が別格。高崎中にトップで合格

2年の終わりに祖父死去

4.    一高・帝大時代

1922年、一高文科丙類(仏語専攻)合格。祖父の代から憲政会の支持者で、実力者だった江木翼に紹介され、政治セミナーに参加

大正デモクラシーの最中だったが、思想問題に深入りすることはなく、野球部に入りマネジャーに推挙。内村鑑三の1人息子がエースとして活躍、学生野球の頂点に立つ

関東大震災で資金的に困窮下野球部の財政を寄付金を募るなどして再建

1924年の徴兵検査では乙種合格、身長の低さが原因か。在学中で徴兵猶予

高崎の第15連隊は、旅順攻囲戦にも参加した精強部隊で、太平洋戦争中も北満からパラオへ転戦、多くが玉砕するなど多大の犠牲者を出している

一高在学中から、高崎中時代の親友の家に遊びに行ったが、その妹三枝と大蔵省入省後の33年結婚。10年近くの付き合いの末、7歳違いの当時としては珍しい恋愛結婚

1926年、東京帝大法学部法律学科入学。2年で高文に合格。14科目中優が12

上杉愼吉は福田を大学に残そうとしたが、29年大蔵省に入省。一高同期には前尾繁三郎

 

第2章        軍部と大蔵省

台頭する軍部による軍事費膨張に対し、財政規律を守るために立ち向かったのが高橋是清蔵相。その下にあって財政家の原型を形作っていく

1.    大蔵官僚としての出発

最初の配属はいきなり本丸の大臣官房文書課。大蔵行政の総合調整を行う役割を担う

省内の挨拶回りでいきなり大臣に合わせろと言って、興味を持った三土忠造大臣があってくれたという。大臣に挨拶を求めた新人は初めて

入省早々、井上準之助大臣の下で金融恐慌対策として、金輸出解禁、緊縮財政、軍縮に奔走。経済発展のためには王道を進むべきと説く井上の姿勢は、後の福田財政に生き続ける

丁寧に国民にを説得したことが功を奏し、翌年の男子全員参加の第2回目の普通選挙では与党の民政党が圧勝。政治の運営に当たって、一大案件成就のためには宣伝が重要なものであり、威力があることを学ぶ。ただ、政策そのものは所期の目的を達せず

2.    世界恐慌下の欧州で

1930年、ロンドン駐在。駐箚財務官が津島寿一、先輩に迫水久常、野田卯一

イギリスでは史上初の労働党政権が英連邦諸国間でブロック経済化を進める

初参加の国際会議は1931年、BISの専門家会談。BISはドイツの賠償支払いを円滑化するために設立された組織で、日本代表の正金銀行野原大輔ロンドン支店支配人の随員として出席、ドイツの賠償支払い延期やむなしの合意

32年の賠償会議では、イタリア大使の吉田茂が全権に、津島が補佐役、その随員として参加、ドイツの賠償を大幅に減額するローザンヌ協定が締結される

33年のロンドン国際経済会議は、崩壊状態にあった金本位制の取り扱いと国際通貨制度の安定を目指し、福田も準備会議に出席したが、具体的成果なく終わり、以後各国は自国第一主義の経済再建を優先、国際貿易は縮小し、世界経済のブロック化が一段と進行

福田は首相になった後もしばしば30年代の「歴史の教訓」を語り、国際協調の重要性を繰り返し強調

3.    軍備拡大と健全財政

33年、国際連盟脱退の直後に帰国。京都・下京税務署長就任。直後に結婚するが単身赴任

10カ月後横浜税務署長に転出。42女に恵まれる

台湾銀行保有の帝国人絹株式の譲渡事件で、大蔵省のトップ以下が逮捕され、急遽補充人事で5か月後には本省に戻り、主計局で陸軍省を担当。29歳での抜擢

主計局長の賀屋興宣に厳しく鍛えられる

経済恐慌対策として大規模な財政支出を行い、景気回復には貢献したが、同時に軍部の予算要求も急膨張、歯止めは大蔵省しかなかったが、高橋の後任として蔵相になった藤井真信大蔵次官は高橋路線を継承して財政収支の均衡を謳い、予算の新規要求を極力抑制しようとしたため軍部の猛反発に遭い、健康を害して、35年度予算決着後辞任、直後に死去

後任は82歳の高橋で、7回目の就任

皇道派相沢中佐による軍務局長永田鉄山惨殺事件により、陸軍内の統制回復は困難に36年度予算折衝はさらに激化、漸く年末近くに決着、高橋は赤字国債の増発せずとの建前を貫徹したが、二・二六の端緒となり悲劇的な結果を生む

広田首相は、閣僚の人選や軍備拡大などの軍の要求を入れて辛うじて組閣。蔵相の馬場鍈一は日本勧業銀行総裁からの就任だったが、農村の疲弊を目の当たりにして積極財政主義をとり、健全財政主義を放棄、国債発行によって軍事費を賄おうとした。そのため大蔵省幹部を総入れ替え。福田は主計局に留まったが、馬場財政の先行きに強い不安を感じる

4.    中国大陸へ

1937年、支那事変勃発。議会で戦争終結までを1会計年度とする臨時軍事費特別会計新設。大蔵省も細かい使い方にまでは目が届かず、軍事費の際限ない膨張を招く

1938年福田は、予算執行状況視察のため満州、華北地域へ。北京駐在で世話をしてくれたのが2年後輩の愛知揆一で、ロンドンの後任でもあった

19409月、主計局調査課長。日本軍は北部仏印進駐開始

415月、最後の現地視察は中国南方と仏印。仏印で案内したのは澄田少将の特務機関で、その息子智はこの年大蔵省入省、後に次官として福田蔵相を支える

40年、汪兆銘の南京国民政府の最高顧問に就任した青木一男前蔵相の財政顧問として赴任

他に、政務担当が犬養健、産業担当が橋井真、農業担当が難波理平

南京在勤は4143年の2年間で、太平洋戦開戦を南京で迎える。特に大きな役割を果たしたのは通貨政策、英米の支援を受けていた法幣と日本軍部による軍票の利害を調整し、日本軍占領地域における現地通貨による統一を実現

福田は、その他にも南京政府の財政安定化のために徴税制度や予算編成などにも幅広く関与、後に財政家として活躍する素地が作られた

436月、文書課長として帰国するが、戦後も南京時代に自ら関わった政策について語ることはなかったのは、汪兆銘政権が国民党、共産党の双方から「漢奸」と位置付けられた歴史認識と無縁ではない。晩年の回顧録では、汪兆銘ら「和平救国派」の冥福を祈り、「祖国を愛する点では変わりなく、祖国のため一身を擲って戦い抜いた人たち」と記している

 

第3章        敗戦から戦後へ

太平洋戦期から占領期にかけて大蔵当局が苦心したのは、ハイパー・インフレーションの阻止。戦時中は戦費調達を続けながら、各種金融統制を通じてインフレを抑制、戦後は深刻な物不足の中で金融統制が撤廃されたため、悪性インフレの兆しが見えてきた

1946年の金融緊急措置令施行では、官房長として司令塔的役割を担う

 

1.    敗戦

43年、文書課長。大蔵省の最大の関心事は戦費調達。大半は公債「大東亜戦争国庫債券」

大蔵省の重点は、国民貯蓄の奨励。運動の中心は賀屋興宣蔵相。隣組を通じた国債貯蓄も半ば強制的に進められる

442月、石渡荘太郎の蔵相就任に当たり、秘書課長と大臣秘書官も兼務、大蔵省の中枢を1人で切り盛り。7月には小磯内閣に代わり、津島寿一が蔵相に

455月、山手地区の大空襲で、三番町の津島邸にいた福田は焼夷弾で吹き飛ばされ、火傷まみれになり、途中の鮎川義介邸で手当てを受け、辛うじて大蔵省に辿り着く

810日の御前会議の様子を広瀬豊作蔵相から聞かされ感慨無量

 

2.    占領改革

東久邇内閣では津島が蔵相に返り咲き、指定地での日銀券の無制限提供と見返りに、軍票使用を阻止

9月には官房長に昇進。秘書課長と大臣秘書官は兼務、さらに終戦連絡部長としてGHQとの折衝窓口となる。本庁舎は兵舎として接収され、中枢部は内幸町の勧銀本店から四谷第三小学校に移転。霞ヶ関に戻ったのは56

終戦直後の財政当局が直面したのはインフレの昂進と深刻な食糧危機

渋沢敬三蔵相は、社会改革を優先。預金封鎖と新円切り替えなどの金融緊急措置を断行

46年、銀行局長。公職追放で多くの幹部が対象となるが、福田は地位が低いため免れた

主税局長になった池田勇人も傍流から復帰した1人。京大出身のため、各地の税務署を転々、さらに難病で5年休職していたが、税制の専門家として財産税の創設に辣腕を振るう

GHQの命令による戦時補償打ち切りで企業や融資金融機関が大損害を受ける中、吉田内閣の石橋蔵相は復興金融公庫を創設するなど、重要産業に資金供給を行ったため、産業分野は活気を取り戻したが、財政規模拡大により「復金インフレ」を惹起

その対策として福田は、戦時中の貯蓄奨励運動の復活を唱え、衆議院や日銀とも連携、全国を行脚してPRに努めた――政治家の街頭演説のはしりで、「辻立ちの家元」を自称

 

3.    昭電事件

47年片山社会党内閣誕生。中道連立政権で、新憲法に基づく改革の先頭に立つが、炭鉱国家管理問題で連立に亀裂が入り、社会党の左右分裂の端緒となり、さらに補正予算案で公務員の臨時給与支給の資金源として、主計局長に横滑りしていた福田が中心となって鉄道運賃や通信料金の値上げを主張、GHQの裁定で大蔵案に決定したが、社会党左派が抜き打ちで政府案を葬ったため、片山内閣は総辞職を決意。「福田が内閣を潰した」とも言われた

48年、復金からの巨額融資を得るために昭和電工が各界に贈賄を行ったとされ、福田も汚職容疑で逮捕。逮捕は内閣中枢に及んで総辞職へ

福田の嫌疑は、昭電社長との個人的親交にあり、すぐに不当逮捕が判明。64名の逮捕者の大半が無罪となる虚構の事件だったが、東京拘置所に2カ月勾留。50年依願退職

一審判決は52年、控訴審判決は58年、何れも濡れ衣であったことを明らかにした

 

4.    政界への転身

祖父に次いで父、兄も町長を務め、福田も政界進出に興味。一高の級友の遠藤三郎と前尾が衆議院議員に当選したことに刺激される

吉田首相は、党運営に必要な人材を官僚に求め、49年の選挙では大半を当選させ、大蔵省からも池田、前尾、橋本龍伍などが当選、「吉田学校」の中核として活躍

兄の応援も得て、候補者が乱立していた地元の群馬3区をくまなく行脚、後援会組織として福田経済研究所を設立、区内80カ町村に支部を広げる

51年の平和条約、それに先立つ公職追放で鳩山、石橋ら有力者の復帰を前に吉田は52年抜き打ち解散。福田は「日本経済の復興」と「政界の刷新」を掲げて無所属から立候補、日本経済の復興はまず農村と中小企業の振興から出発しなければならないと説く

前年の母に次いで、投票直前に大きな後ろ盾だった兄が急死したが、中曽根(改進党)に次ぐ2位で当選。誠実に日本経済の再建を解いたことで有権者の信頼を勝ち得たと言える

自由党は議席を減らしたものの過半数を獲得したが、鳩山一派が党内野党に回ったため、吉田派は過半数を割り、18名いた無所属がキャスティング・ボートを握ることに

52年、池田通産相の「経済政策の結果倒産から自殺が出てもやむを得ない」との失言に対し不信任決議が出され、辻政信ら無所属クラブの強硬派の賛成で不信任が成立。福田は後輩で同期当選の大平から棄権するよう要請され受け容れたが、池田は福田が無所属議員を唆したと疑う。元々大蔵出身の議員24名のほぼ全員が池田の手引きで自由党に所属したが、福田だけは自らの財政を行いたいとして断り、後に党内で激しく対立する2人の因縁はこの時から生じていた

53年には「バカヤロー解散」で、僅か5カ月で2度目の選挙となり、無所属は激減したが、福田はこの時も無所属で当選。選挙の争点は再軍備問題で、吉田自由党は過半数割れに

選挙後、福田は岸の動きに関心を持つ。2人は49年初以来の知己で、右派的言動を別にすれば2人の政治理念は共通点が多かった――占領後の日本の政治責任は新党によって果たされるべきとの政界刷新論も、農村と中小企業振興を基盤とする経済政策面でも近似

52年岸の自由党入党に惹かれた形で福田も53年末自由党に入党する

岸は保守合同による新党結成を説き、造船疑獄で吉田政権が動揺するなか、石橋や芦田らと新党結成協議会を旗揚げ。危機感を持った自由党執行部は岸と石橋を除名

54年、改進党と日本自由党、自由党内の鳩山派と岸派により日本民主党が結成され(鳩山総裁、岸幹事長)5カ月足らずで吉田内閣は総辞職、後継として鳩山政権が誕生、保守合同による自由民主党の結成へと向かう

 

第2部         

第4章        安定と発展の基盤づくり

福田も日本民主党に入党、政調副会長を振り出しに、党の政策担当の要職を歴任して急速に頭角を現し、岸とともに「政策の福田」として一気に政界の階段を駆け上る

福田の果たした役割は、①経済・財政政策の立案、経済成長の果実を国民に分配して「社会均衡」を実現、②政党を政策決定の中心に据えた制度の構築、党が予算の重要項目を決定する「政策先議」を確立、重要な政策を政府・与党共同で推進する制度を形成

1.    「政策の福田」の登場

政党の政策案件の調査・研究と立案作業を行っていた政務調査会を、党内の声を吸い上げる機関として活用。各省庁に対応する部会を設置、閣僚以外はいずれかの部会に所属

日本民主党の数少ない官僚出身者として福田が率先して各省庁との折衝を牽引

55年の総選挙で日本民主党が第1党となるが少数与党には変わらず、自由党との間で保守合同の協議が進み、民主党の岸、三木武吉と自由党の石井、大野の4者による調整の下に新党政策委員会が設置され、福田も委員の1人として参加

福田は、経済自立と福祉国家の達成を謳う一方で、政治倫理を強調し保守政党の刷新を訴える。後に金権政治を批判、派閥の解体を訴えるが、当時から理念として確立されていた

近代的な福祉政策の導入を主張する進歩主義者の一方で、伝統的な価値観を守ろうとする点では紛れもない保守主義者で、国家の基底としての家族を重視する国民共同体の信奉者

社会党の左右再統一に押される形で、保守合同実現

自民党の立党宣言では、「内に民政を安定せしめ、公共の福祉を増進し、外に自主独立の権威を回復し、平和の諸条件を調整確立することにある」と歌い、当初から基本政策策定に関わった福田の強い想いが滲み出ているが、これこそ自民党の原点であり、政治理念の確立のために闘争を続けることになる福田の原点でもある

福田は、政調会長の水田三喜男の下、6人の副会長の1人として活動

新党組織委員会の委員にもなり、党の政策は政調会の議を経ることとし、同時に党所属全議員の政調会各部会への加入を義務付け、議員の個別利益を広く吸い上げることによって党としての一体性を作り上げようとした

政調会の実力を問う最初の試金石が予算編成――予算編成方針や重要政策を政調会で決定したうえで予算に反映させる。主計局長の森永貞一郎も緊密な連携を回想しているが、緊縮予算に対して党内では激しい復活折衝が展開。福田は、財政規律を守りながら最後の詰めを行い、「すべて党が編成の方針について、政府に指示をする方針」を確立、党内きっての財政通の名声を確立していく

 

2.    岸信介の懐刀として

57年成立の岸政権で、福田の存在感は一挙に高まる

日ソ国交回復を花道に隠退した鳩山の後、初めての総裁選挙が行われ、岸、石橋、石井が立候補。岸優勢のなか、決選投票では2,3位連合で石橋が勝利するが、石橋政権成立後1カ月で石橋は脳梗塞で倒れ、63日で総辞職し、岸が後継となる

岸が総裁に選出された党大会で福田は、党大会政策委員長として、「政策概要」を報告

特に注力した政策が、「経済拡大の施策」と「社会均衡の確保」で、前者は岸政権下での「生産力倍増10か年計画」となり、後者は国民年金や社会保険制度といった社会保障政策の拡充へと発展

政権発足後最初に対処したのが国際収支問題――55年から始まる神武景気によって高度成長の波に乗るが、設備投資の反動で国際収支が急速に悪化。金融・財政・通商を網羅した「総合政策」の必要性を説き、その効果発揮までの繋ぎとして自ら岸の訪米に随行してワシントンに乗り込み、米財務省の支援も得てIMFとワシントン輸銀から計3億ドルの短期借款導入に成功、4.6億ドルまで落ち込んだ外貨準備にとって干天の慈雨となった

国内では引き締め政策の煽りで「なべ底不況」に陥ったが、福田は先行きを楽観、日本の対外競争力は強化されているので世界景気が回復すれば日本の輸出が爆発的に増加するため景気刺激策は不要だとしたが、その読みの通り58年後半にはV字回復開始、42カ月に及ぶ岩戸景気となる

577月内閣改造、古参の党人政治家川島正次郎幹事長の下で筆頭副幹事長に就任

福田は川島の下で外交問題に関心を持ち始め、川島をその恩人と記している

56年の総裁選を機に、派閥の系列化が進み、派閥単位での資金集めやポスト争いが激化、政権運営の障碍になることを恐れた執行部は派閥解散を申し合わせたが、表向きは同意したものの、実態は変わらず

福田が筆頭幹事長として力を振るったのは、58年の衆議院総選挙。3.3カ月ぶり、初めて自民党と社会党が正面対決。戦前の予想を裏切って自民党が2/3を占める

2次岸内閣は、岸政権の絶頂期。川島の強い要望で福田は政調会長に就任、23脚で党内体制を盤石にした。岸も政府与党連絡会議を強化して、インナーキャビネットとした

福田は、「政策先議」の原則を打ち出し、政策審議会での党と財政当局の議論を活発化させた結果、59年度予算編成は初の年内閣議決定となる

岸政権最初の躓きは58年末の警察官職務執行法改正問題。大衆行動の組織化に向かい審議未了となり岸政権に打撃。岸自身の経歴から「警察国家復活」を想起させただけでなく、岸の政治手法への不信と責任追及から閣内反主流派の池田・三木・灘尾の3大臣が辞表を提出、党内反主流派が結束して反岸の気勢を上げた

59年の内閣改造で、福田は幹事長に抜擢されるが、岸子飼いの川島・赤城・椎名ら古参議員の反発を買い岸派の分裂に繋がる

福田の最初の仕事は、59年の総裁選。有力な統一候補を持たない反主流派の体制が整う前に選挙を前倒し実施、松村謙三が立ったが事実上の岸の信任投票となり、岸は大野副総裁、河野総務会長、佐藤栄作と協議、大野に後継総裁を約束することで取り込みに成功し、選挙を勝利する。福田は4人の密約を知らず

その後も福田は幹事長として59年中の2度の選挙を差配しいずれも勝利――自民党結党以来初の統一地方選と参議院選挙で圧勝。選挙にも強いとの評価を固める

 

3.    すべての国民に社会保障を

岸政権下での福田の業績で欠かせないのが「福祉国家の建設」に向けた社会保障政策の拡充

国民皆保険を確立し、老後年金を作り、結核の撲滅、低所得者対策、母子家庭や障碍者の援護を掲げ、「一世帯一住宅」の実現、勤労学徒援護、税負担軽減を課題として掲げる

「社会均衡」という福田の発想は、社会保障の取組みで先行する社会党への対抗という観点以上に、彼自身の原体験に根差した社会的平等を重んずる思想がある

1は幼少期の郷里での貧しい農村での体験があり、第2は渡英体験で、大恐慌下の英国で保守党が社会保障制度を整備していくのを目の当たりにしている

池田より先に唱えていた「所得倍増」に比べて「社会均衡」が人口に膾炙することはなかったが、この思想はやがて「国民皆富」という福田の造語を生み出し、佐藤栄作政権で掲げられた「社会開発」へと連なっていく

厚生省は1960年度までの国民皆保険を打ち出し、政府も58年末新国民健康保険法を成立させたが、大都市では人口の移動が激しく、捕捉が困難だったため、61年新法成立

老後年金制度の創設は58年の選挙公約となり、翌年の実現を目指し、まずは無拠出の3年金(老齢、母子、身体障碍)を予算計上

国民年金制度は、基本的に岸政権の政治主導によって実現したもの、政治の発意に基づき、根幹も政治によって事実上定められた、立憲政治下における望ましい政治と事務との結びつきを示した希有の例となった

国民年金法案は59年成立、11月に施行され、無拠出年金はその日から、拠出年金は61年から実施され、国民皆年金体制が確立

社会党は、社会保障問題を階級闘争的な視点から捉えて激しく政府案に抵抗、警職法阻止に成功した大衆運動を煽り、年金事務の執行を妨害する「国年適用拒否運動」を展開。社会党の院外での闘争は、その後の安保闘争のエネルギーを引き継ぐ形で、62年まで続く

岸政権下における国民皆保険、皆年金、公的扶助の3本柱からなる社会保障の原型の整備が、高度成長を下支えし、成長の成果を国民生活に還元する機能を果たす

完全雇用を目指し、全国民を医療保険や老齢年金によってカバーする社会保障政策の思想的背景には、経済社会の格差を是正し、社会的公平を志向する理念があった。福田はこれを「社会均衡の確保」という言葉で語り、その実現に向けて中心的な役割を担う

自民党が幅広い国民的基盤を持った包括政党として成長する方向を示した点で意義深く、この制度的基盤がまだ日本が貧しかった戦後初期に築かれた結果、高度経済成長が60年ぢ亜に侵攻するなかでも、戦後日本は格差拡大に向かわず、むしろ総中流意識が広がるほどに公平性と安定性を備えた自由民主主義社会を育むことが可能になった

 

第5章        福田農政と安保闘争

1.    福田農政の展開

初の閣僚入りは59年の農林相。岸は蔵相に起用しようとしたが佐藤栄作の反対にあって断念。偶然の産物だったが農家で生まれ育った福田には特別な思い入のあるポストとなる

600万秒票という巨大な票田を持つだけに重要閣僚で、「鬼門のポスト」された

農政を経済政策の一環として位置付ける方針を打ち出し、米価審議会と肥料審議会という2大関門を無難に乗り越え、予算編成のツボを巧みに利用して2割アップを勝ち取る

農業は転換期にあり、生産性の低迷から都市世帯との所得格差が拡大

経済合理性を重んじながらも、人と村のぬくもりに寄り添うヒューマニズムがあった

農業所得の向上、農業改革、産業間労働移動、地域開発を一体的に捉え、農政の抱える課題を解決しようとしたのが福田農政の特色

農業経済学者の東畑精一を会長として農業基本法制定に進むが、成立は政調会長に復帰した後の61

農相退任後には全国山村振興連盟の会長を引き受け、山村振興法制定に邁進

福田の農政思想の基本は「山の麓から築き上げる」方式であり、根底には「社会均衡の思想」があり、不利な条件の下で暮らす人々のその不利を補正し支えることこそ政治だと考えた

福田にとって、政治は陽の当たらないところに陽を当てることであり、山村振興はその具体的実践に他ならない

 

2.    安保闘争

「独立の完成」を掲げた岸にとって最大の政治課題が安保改定問題

58年に改定交渉開始、601月に調印、日米修好100年の祝賀としてアイゼンハワー大統領の訪日が合意されたが、革新勢力の猛反発にあって批准できず

福田はその間、56年締結の条約に従って毎年恒例の日ソ漁業交渉に臨み、1カ月以上モスクワに留まる。その間フルシチョフにも会い、北方領土問題を持ち出し、フルシチョフに「アメリカが沖縄を返せばすぐに北方4島を返す」といわれたことが、後の福田外交の重要な課題となる

岸は、アイク訪日までの条約批准を期して、単独強行採決を決めたため、国会内に警官500名が導入され、「議会制民主主義の破壊」とまで言われた暴挙に出る

院外大衆闘争の激化に火をつける

帰国した福田は、そのまま官邸に入り岸を支える。福田を重用する岸に対し、本来岸擁護の要となるはずの椎名官房長官が不満を示し、岸側近集団に亀裂が生じる

アイクの訪日延期交渉が進む中、大統領新聞係秘書ハガチーが羽田で立往生する事件が発生、さらに樺美智子事件が起きて、岸はアイクに訪日延期を申し入れ、同時に退陣を決意

619日の自然成立後、23日の批准書の交換、地位協定の承認をもって、内閣総辞職による退任を表明。学生デモは急速に姿を消したが、反岸の党内闘争が本格化

解散も視野に入れたが、国内対立を煽るだけであり、かつ大敗が明白だったことから断念、党内勢力が乱立する中、福田は民社党との連立を模索するが、最終的には岸の意向が通って池田で1本化され圧勝となり、福田にとって1つの時代の終わりを迎える

 

第6章        所得倍増

池田政権は、国論を二分した安保闘争の傷を癒すべく、「寛容と忍耐」の低姿勢を貫く

1.    所得倍増計画と福田

池田政権は、安保闘争で荒んだ人心を経済成長という国民的目標へと向かわせる

「国民所得倍増」が自民党の文書に初登場したのは、56年『経済白書』が「もはや戦後ではない」といった時で、福田が関わった57年度予算編成の基本方針で「完全雇用と国民所得の倍増を目途とする新経済計画の策定」が謳われた

58年に岩戸景気が始まると、経済学者の中山伊知郎が「2倍の賃金」を目標にする具体的な日本経済の未来像を掲げることを提案、在野の池田が注目して「賃金2倍論」を吹聴、それに対し幹事長だった福田が賃金ではなく生産の倍増であり、「国民所得2倍論」として岸政権で「生産力倍増10か年計画」を謳い、国民総生産、国際収支、エネルギー消費量などすべて2倍にするというもの

59年の内閣改造で池田を取り込んだところで、所得倍増構想が収斂したかに見えたが、内実は成長一辺倒の池田と、社会の不均衡を是正しながら進めるべきとする福田との隔たりは大きかった

池田を支えたのは福田の5年あとに大蔵省に入り経企庁に出向した下村治の「高速度成長」の予測で、歴史的な経済勃興期にある日本は年率10%超の成長が可能とし、大来と論争

   経済成長の成果を国民に行き渡らせるために、とりわけ住宅の整備を重視

徹底した経済合理主義で、自由主義、市場原理貫徹を重要と考える池田とは確執を続ける

 

2.    超高度成長論を批判して

池田の掲げた所得倍増は、政治キャンペーンとしては空前の成功を収め、安保で二分された国論が「所得倍増ブーム」に飲み込まれていき、60年選挙で圧勝し、「政治の時代」から「経済の時代」への転換に成功

岩戸景気の主役は民間設備投資。59年は33%、60年は40%の伸びを示し、貿易自由化に備える近代化投資が始まる。金融緩和がその勢いを加速させ、「所得倍増ブーム」は池田の倍増政策によって呼び起こされた経済社会現象にまでなる

国際収支の悪化と物価の上昇が始まり、過熱を抑制する施策が求められたが、池田は強気一辺倒で、経済審議会の中山からも懸念が示され、池田を支持する財界首脳に対し、経団連会長の石坂が「池田内閣と日本とどっちが大事だ」と一喝したという

60年末の内閣改造で政調会長に就任した福田は、過大な設備投資を懸念して、関西財界との会談で「京都談話」を出し、池田批判ともとれる持論を展開。新聞が政局と絡めて取り上げたため、ケネディとのヨット会談をこなして得意絶頂にあった池田は激怒。直後の内閣改造で政調会長を田中角栄に代えるが、実際には福田の言う通りとなり、61年末で岩戸景気は終わり、池田は景気抑制策への転換を余儀なくされる

福田の持論である安定成長論は、生涯を貫く揺るぎない信念

   景気変動の波を小さくするための財政金融政策の運営――国際収支と物価を注視し、需給バランスに目をこらし、引き締め策と刺激策を巧みに操る

   持続可能な安定成長を実現するために経済計画の役割を重視

   均衡のとれた成長の重視――格差や不平等を警戒

 

第7章        党風刷新

1.    欧米外遊

無役となった福田は、岸に誘われて外遊 ⇒ 岸の持つ外国人脈の実質的な引継ぎ

8月に台湾、次いで40日以上かけて欧米へ

 

2.    党風刷新運動

帰国後すぐに自らの政治理念に基づく党風刷新運動を立ち上げ。派閥は嫌ったが、党内の1つの政治勢力として認知される機会となった

池田も呼応して組織調査会を設置。最初は資金調達で、財団法人国民協会を設立、会費によって党費を賄う仕組みを考えたが、派閥解消には消極的で、次第に派閥が政調会を形骸化させつつあった

福田は党風刷新懇話会を設立して、総裁選改革、選挙制度改革、政治資金改革を党員に呼び掛け、中堅議員を中心に広がっていた危機感を共有。2か月後の総裁選での派閥解消を提唱したが、反池田運動と見做され、総裁選は無競争で池田が再選

岸派の十日会も岸退陣後は求心力を失い分裂、刷新連盟は党の組織調査会に取って代わられ、反池田の旗頭を期待された佐藤が閣内に取り込まれ万事休した

 

3.    ポスト池田を見据えて

実質的な福田派は24名。池田政権から人事面で冷遇されたが、経済政策を中心に池田批判は続く

63年からはオリンピックのための建設投資で景気が回復し、過熱が懸念され、さらには大衆消費社会の幕開けで節約やつつましさの心が失われることに対し、福田は「昭和元禄」と呼んで警鐘を鳴らすとともに、公然と池田に退陣を迫る

64年の総裁選では、佐藤と藤山を組ませて池田に対抗させようと画策

自主投票の名目の下、各派閥の議員を個別説得して派閥を切り崩す――1人づつ買収する「一本釣り」、一括して買収する「トロール」、2派から金をとる「ニッカ」、3派から金をとる「サントリー」、23派から金をとりながらパーにする「オールドパー」など壮絶な買収合戦となる

佐藤・藤山の2,3位連合が成立し、佐藤有利とみられたが、池田が辛うじて過半数を制す

3選直後に池田は病魔に襲われ退陣を表明、オリンピック直後に佐藤内閣誕生

 

第8章        65年不況の克服

1.    福田財政の登場

佐藤政権は、池田政権下で顕著となった高度成長のひずみを是正すべく、安定成長を掲げ、「人間尊重の社会開発」を表看板とする

65年になると、谷底に向かって転落を始め、3月の山陽特殊鋼破綻、中小企業倒産激増、山一の経営危機表面化と相次ぐ

蔵相の田中は、金融システムの信用維持のため、初めて日銀特融実施

大蔵省は、財源不足を理由に景気刺激策採択に反対。不況下の財政縮減は田中財政の限界

65年央、初の内閣改造で福田は蔵相に就任。政権発足当初から佐藤の経済ブレーンに協力していた福田は、公債発行と減税という新しいポリシー・ミックスを構想

福田財政の2本柱は、「社会開発」の推進のための公債発行と財政政策を景気調整手段として積極的に活用すること

 

2.    赤字公債の発行

65年度の歳入見込み額の急減に応じる形で、赤字国債発行となるが、財政節度堅持を建前に日銀引き受けを排除し市中引き受けを主体とした

 

3.    本格的な公債政策の展開

66年度からは建設国債の発行は必至だったが、健全財政の建前から社会党は反対したが、財界や党内からも1兆円規模の国債発行と減税のセットが叫ばれる

福田は、高橋財政を手本に、「好況時には財源の規模を縮小、不況時には積極的に拡大すべし」との大筋に沿い財政を運営。フィスカル・ポリシー(補正的財政政策)の経済理論を実行

国民経済の循環の中に新しい財政需要を追加し、経済の総和を趨勢線に近づけるとし、適切な趨勢線を実質成長率78%、名目で10%超とした

建設国債の額は7,300億に決まり、合わせて3,000億の減税も実施したのが功を奏し、年央には景気は上向き、5年に及ぶ「いざなぎ景気」の始まりとなる

 

4.    財政新時代の幕開け

公債発行により、「財政新時代」が幕開け

公債に裏打ちされた政府支出の増加が経済の好循環をもたらす契機となる

急速な都市化の波が全土を覆い、社会資本の整備は焦眉の急であり、建設公債によるボトルネックの解消なくして経済発展は望み得なかった

公債発行によって財政節減を鈍らせないよう、繰り返し経費節減を求め、投資的経費を伸ばす一方で、経常的経費の合理化にメスを入れる

福田は早くから均衡財政主義が行き詰まることを予知、財政転換の先導者となる

 

第9章        いざなぎ景気と昭和元禄

1.    長期政権の基礎固め

78カ月という昭和最長の佐藤政権だが、当初は難問山積、人気も低迷

「黒い霧」といわれた自民党議員による恐喝・詐欺事件、共和製糖事件など、自民党議員を巡る不祥事が頻発。反主流派からの突き上げもあり、責任を取って田中幹事長辞任

67年、代わって幹事長になったのが福田。佐藤が後継者の1人として考えていた

直後の衆議院選挙では、綱紀粛正を求める世論に率直に答える姿勢を示し、候補を厳選して臨み、野党の多党化もあって勝利

国内の安定基盤を確立した佐藤政権は、念願の沖縄返還交渉に臨む

この頃、福田は憲法に関し、自主憲法の必要性を主張しつつ、日本国憲法にある平和主義、国際協調主義、基本的人権といった条文を高く評価。改憲を「旗じるし」と語る一方で、当面の政治日程に載せる考えは全くないと明言――政権構想となる「平和大国」論に結び付く

多党化する野党とのパイプを強めて党内調整に動く田中が次第に重きを置くようになる

68年、3選を果たした佐藤の人事改造で、さらなる党内基盤強化を期して田中を幹事長に復帰させたことが、田中の政治基盤も強化し福田の有力対抗馬となる

 

2.    中立型の財政運営

68年、福田は再び蔵相となる。戦後最長となった57カ月に及ぶいざなぎ景気の真っただ中で、成長の輪が民間設備投資から個人消費や住宅投資へと拡大

産業構造が重化学工業型へと移行し、アメリカに次ぐ「経済大国」となる

福田は自ら「ファイアマン」と称し、インフレを防ぐ経済運営を目指す

70年、万博に沸く好況感の中で、金融引き締めの効果が実体経済に徐々に浸透したところで、71年度予算では総需要抑制の姿勢を転換し、需要を直接創造する財政を主軸に据える

 

3.    賃金・物価問題との戦い

予算編成で最も時間を費やしたのが米価問題。日本の農業は米の生産過剰と価格上昇に苦しめられていた

米価による助成をやめて物価安定の観点から米価を据え置き、減反による生産調整に動く

71年度は本格的な減反の幕開けとなり、転作・休耕などの生産調整奨励措置が講じられた

 

4.    昭和元禄の世相を斬る

福田が最初に「昭和元禄」と言ったのは63年だったが、その後も使い続け、今では6470年までの高景気下の泰平ムードを指す言葉として使われる

「マイホーム主義」という言葉を、公共の福祉よりも私生活を優先させる生活様式や価値観としてしばしば批判、結婚式の祝辞では67年ヒットした佐良直美の《世界は2人のために》を逆転させ、「世界のために2人はある」といって新郎新婦に社会公共への貢献を求めるのが常だった

浮かれ調子の繁栄の後に静かで落ち着いた繁栄が訪れることを請い願った、慎重な楽観論者だった

大蔵省創設100年記念事業の指示を受けた官房秘書課長の長岡實は、同期入省の三島由紀夫に記念講演を頼む。三島と福田は紙上対談で、三島は昭和元禄への絶望感を語り、福田もまた賛同しつつ、戦後の民主主義の弊害を説き、奢侈を望む風潮やマイホーム主義からの脱却の持論を展開

6768年の平均成長率は13.2%に達し、福田は高過ぎる経済成長率に懸念を深め、適度の経常収支を維持する均衡成長率を10%台として、抑制策に転じる

60年代の3倍増の量的成長の時代に対し、70年代は国内の均衡を確保する質的充実の時代でなければならないと主張。高度成長からの決別を目指した

 

第3部         

第10章     世界の中の日本

1.    沖縄返還交渉

福田は南京時代の沖縄出身の部下の働きかけによって、61年政調会長時代に与党幹部として初めて沖縄を訪問。蔵相としても財政面から沖縄支援の拡充に努力

1967年、返還交渉が本格化。安全保障の専門家である若泉敬京産大教授をブレーンに起用、福田も幹事長として深く関与、67年の日米首脳会談では「両3年内」の返還を目途とする文言を共同声明に入れさせることに成功

若泉は、返還から22年後の94年、病から死期を悟って自らの経験を自著に綴り、有事核持ち込みに関する「密約」の存在を暴露したが、本を贈られた福田は、懐かしいと返礼を送ったが、翌年刊行の自身の回顧録では若泉に一切言及せず、終生その関わりを公にすることはなかった。福田は口が堅く、自らが枢機に関わった仕事を進んで語ることはなかったが、沖縄返還問題はその典型

69年の日米交渉で最終的に妥結、佐藤は「72年中に、核抜き・本土並みという国民の相違に沿った形で実現することとなった」と表明、翌月には解散総選挙に打って出て大勝

アメリカの理不尽な要求の数々を受け入れざるを得なかった両国事務方による覚書は福田の承認のもとに作成され、明るみに出れば福田の政治生命にも影響しかねない問題だったため、大蔵省はこの覚書を徹底して秘匿

 

2.    国際通貨体制の動揺

沖縄返還交渉でアメリカが沖縄で流通していたドルの回収に固執した背景には、アメリカの国際収支の悪化があった

アメリカの赤字が拡大の一途を辿り、基軸通貨の信認低下が欧州に波及して、英独仏の通貨不安を生み出し、ブレトン・ウッズ体制が揺らぎ始め、主要通貨間の調整が必要に

1969年のIMF・世銀総会でマルクが一時的に変動相場制に移行したと発表

円が狙われることを恐れた大蔵省は、密かに円切り上げの検討を開始、同時にデノミ実施も明記されたが結局はお蔵入りに

円切り上げ反対論が渦巻く中、福田は多国間調整に委ねるべきと考える

71年、マルクやスイスフランへの投機が一挙に表面化。強い通貨が一斉に買われ、円買いも急増、一時円取引を停止、円対策8項目を発表するなどして外貨準備の急増を抑制

 

3.    ニクソン・ショックと日米関係

71年の内閣改造で福田は外相に就任。後継者として外交経験を積ませたいことと、昭和天皇即位後初のヨーロッパ外遊に首席随員として同行させたいという佐藤の思い遣り

外交のブレーンとなったのは海軍省嘱託だった軍事評論家の天川勇。秘書官は小和田恆

「国内的には福祉国家、国際的には平和大国」が目標、「世界の頂点に立って世界を眺め、その中で日本の進路を決める。世界の中の日本でなければならぬ」と説く

7月にキッシンジャーが密かに中国を訪問、翌年のニクソン訪中を決め

8月ドルショック。日銀によるドル購入は40億ドルに上り、円相場のフロートに移行

同時に、繊維問題が日米間の懸案となる。ニクソンが南部繊維業者の支持獲得を目的に、69年の沖縄返還とリンクさせる形で持ち出したもの――「縄と糸の取引」と言われたが、糸は未解決のまま残され、日本側の自主規制宣言もニクソンの拒否声明に潰される

61年池田内閣で設置された日米貿易経済合同委員会で協議。10月には決着を見るが、既に日本の繊維産業は国際競争力を低下させ始めており、日米経済関係の残骸処理に過ぎなかったが、経済摩擦を放置すれば政治関係まで揺るがしかねないという教訓を残す

田中通産相の剛腕振りを世に知らしめ、佐藤後継とみられていた福田の将来に影を落とす

交渉を通じて明らかになった日米のコミュニケーション・ギャップを埋めるため、福田は国際交流基金の設立を考え、日本版フルブライトを推進。石油ショックにより当初予定規模の半分500億円でスタート、1,000億が実現したのは91年、安部晋太郎の尽力で交流基金の下に知的交流と草の根交流を2本柱とする日米センターが発足

719月、天皇皇后のヨーロッパ7か国親善訪問出発。在位中の天皇が皇后を伴い外国に行くのは歴史上初。福田は首席随員として同行。日米関係改善を期したアメリカ側の要望により、行きがけにアンカレッジに立ち寄り、ニクソンが表敬

 

4.    中国問題

70年国連総会で、中華民国追放案が過半数を超え危機到来

日米は二重代表制の共同提案を決断したが、評決当日の朝、ベルギー・中国の国交樹立のニュースが流れ、中華民国は評決を待たずに脱退声明を読み上げ総会議場から退場。中華人民共和国の国連加盟が実現

福田は「アヒル外交」と称して、「アヒルは動いていないようでも水面下では激しく足を動かいている」とし、種々のルートを通じて中国への接近を試みる

米中接近を受けソ連は日本に接近、同年中に日ソ平和条約締結交渉を開始することに同意

 

第11章     列島改造に抗して

1.    角福戦争

7110月の「沖縄国会」で返還条約が批准されたのを機に佐藤は引退を考え、福田への禅譲を考えるが、川島―田中ラインが反発

福田禅譲の動きは709月からあり、自派閥を拡大して権力闘争に持ち込むことを嫌っていつまでも党内基盤を固めようとしない福田を諦め、佐藤が4選を果たす

佐藤が政権に居続けたことが田中に時間を与え、豊富な政治資金を背景に実弾を打ち始め、佐藤派内の過半が田中に掌握され、福田禅譲の強行が困難に

726月、佐藤が退陣を表明、角福のほかに大平、三木、中曽根が動きを見せ、中曽根が田中派に買収され、残る4人での総裁選では田中がトップとなるも過半数に達せず、直前の日中国交正常化を目指す「政策協定」が田中、大平、三木の3者で成立し、決選投票も孤立した福田に勝ち目はなかった

 

2.    「平和大国論」対「列島改造論」

田中陣営の投じた資金量は桁違い、同時にマスメディアの活用で田中が先行。「列島改造論」は80万部を超すベストセラーとなったが、高度成長が終わる時に旗印として田中政権が成立したのは日本にとっての不幸であり、田中の不運でもあった

福田派は、刷新連盟解散後、他派閥の脱落者を受け入れながら徐々に拡大、加藤六月、塩川正十郎、森喜朗、小泉純一郎らが当選し、後年清話会の中心的存在に育つ

角福戦後は、園田派や保利派が加わり八日会が発足、65名を擁したが一枚岩ではなかった

田中政権の初仕事は日中国交正常化で、中国側に急かされたこともあり、9月の田中訪中で一気に正常化実現へ。日台断交は不可避だった

田中が列島改造に突き進んだのも福田を不安にさせた。景気が回復基調にあるとして追加刺激策を渋る大蔵省に対し、72年度73年度と続けて大型予算編成を指示

瞬時に沸騰した列島改造ブームは、物価、地価、公害など国民生活を脅かす負の現象の拡大とともに、瞬く間に萎んでいく

 

3.    第一次石油ショックへ

72年末の選挙では議席を減らす一方、共産党が38議席を獲得して大躍進

厳しい立場に置かれた田中は福田に協力を求め、福田は行政管理庁長官に就任。インフレ対策と地価対策に取り組む。地価凍結を打ち出し、物価行政や環境行政を重視

73年になるとインフレが物価全体に拡散。世界景気の同時拡大から需要インフレが発生、金融緩和や大型予算から需要超過が起こりモノ不足に繋がる、投機的な動きが活発化して物価上昇を加速したが、列島改造に執着する田中は需要抑制を認めず、取引価格を統制しようとしたため、狂乱物価へと進む

7310月の中東戦争勃発とともに、OPECが原油の生産削減と公示価格引き上げを決定

国内では不安心理の高まりから卸売物価や消費者物価が急騰したが、田中は全国新幹線網計画を進め、福田も遂には田中批判に転じる

 

4.    「物価狂乱」の鎮圧

未曾有の危機の中で11月愛知蔵相が急逝。田中の懇請を受けて蔵相に就任、その条件は①厳しい財政縮減の実施と、②列島改造の旗を降ろすこと

74年初の物価統計では、12月の卸売物価が前月比+7.1%、前年同期比で29%の急上昇、終戦直後も凌ぐ暴騰で、モノ不足が社会不安を巻き起こす

総需要抑制によって3月には「狂乱物価」(福田の造語)も峠を越し、次の関心は、賃金と物価の悪循環を断つことに移り、そのための物価安定目標に向かう

 

5.    田中退陣へ

異常事態の鎮静化で、田中はまたしても大型公共投資計画を持ち出したのを機に、福田は閣外に去る

74年の参院選は、狂乱物価への不満から自民党の展開した空前の金権選挙、企業ぐるみ選挙も効果を上げず、与野党差はわずか7議席まで落とす結果となり、田中おろしの動きが活発化、田中内閣への不満から副総理兼環境庁長官の三木武夫が辞任すると福田も同調

事実上の角福戦争の再開となり、立花隆の『田中角栄研究』によるスキャンダルの暴露も打撃となって田中政権崩壊へと進む

福田は、政権交代を可能とする保守新党の結成や保守2党論の必要性にまで言及、社会党の江田三郎による保革連合論の発表などもあって、田中も11月に退陣を発表

 

第12章     三木政権の経済総理として

1.    全治3年の戦略

後継は副総裁の椎名裁定に持ち込まれ、三木指名となる。福田は理念が一致していたところから即座に受け入れ、副総理兼経済企画庁長官として経済政策の全権を委ねられる

「全治3年」の戦略を打ち出す――7476年度を区切って、明確な数値目標を掲げ、段階的に経済を安定軌道に乗せ、三重苦(異常なインフレ、戦後最大の不況、国際収支の大幅赤字)の克服を目指す。戦略の基本は物価の安定

74年度末の消費者物価を前年同月比で15%に抑える目標に対し、副総理付きの内閣審議官だった保田博は大丈夫かと質したほど厳しい目標設定だったが、14.2%に収まる

 

2.    「物価大臣」の不況対策

福田は自らを「物価大臣」と称し、75年に入ると不況対策に動く――総需要の「抑制」から「管理」に改め、日銀の窓口規制緩和、公定歩合引き下げ、公共事業実施による財政支出の拡大に舵を切る

経済企画庁内の中堅エコノミストを集めて庁内ゼミを開催、広く意見を吸い上げたが、政治家と官僚の対話の在り方を示す1つのエピソードであり、最終的には政策決定は政治家の責任だが、それが独善に陥らないよう、庁内ゼミは政治主導の一例といえる

明確な物価目標を掲げた戦略が実を結んだのは、福田が民間労組の幹部と対話を重ねた結果でもあった――72年頃から労組幹部との懇親会が始まり、愛宕会として発展。話し合いを重ねるうちに、労組側も高い賃上げを獲得しても物価に食われれば実りが少ないことがわかり、賃上げは社会との整合性なくしては語れないと得心していく

 

3.    天皇訪米

75年は米価に明け暮れる。物価の横綱だけに激しい引き上げ要求に対し、米価改訂がインフレ不安を煽っては物価目標達成が危うくなる

8月、日本赤軍によるクアラルンプール事件勃発。クアラルンプールで52人を人質に建て籠り、日本に拘束されていた過激派7人の釈放を要求。渡米中の三木総理に代わって福田が指揮、人命尊重を第一に、要求を飲んで人質と交換、犯人はリビアが受け入れ

9月末、天皇訪米に随行。天皇は、戦後復興への米国の好意と援助に対し、直接米国民に感謝したい、との希望が叶えられ、日米間に問題が全くない時期で大成功に終わる

 

4.    安定成長思想の新計画

「全治3年」の3年度目から新計画作りが始まる

狙いは2つ、①静かで控え目な成長軌道を定めること――成長率は5%程度、②成長の果実を国民生活の質的向上に振り向け、社会的公正を確保すること

 

第13章     三木おろし

1.    ロッキード事件の衝撃

76年に入ると、景気回復とは裏腹に政治の混迷が深まる――発端は米上院外交委員会の多国籍企業小委員会で暴露されたロッキード事件

三木は自民党を中心とする保守体制に危機感を抱き、徹底的な真相究明に意欲を示す

その動きを逆に保守体制を揺さぶるものとして椎名党副総裁は密かに三木おろしに動き、大平が賛同、福田にも声が掛かるが、福田は双方の融和に努める

日米司法当局の相互援助協定の締結で、事件の捜査が急進展、田中逮捕

田中に全責任を負わせた政治手法に福田は不信感を強め、「大きな勢力の統領の首を切ってそのまま政治を行うのは容易ではない。自民党全体の出直しのため、引責辞任」を迫る

 

2.    三木政権対挙党協

強気の三木に対し、反主流派が挙党体制確立協議会を発足させると、党所属国会議員の2/3が集まり、福田、大平を中心に一気に三木おろしへと動き出すが、三木は選挙で国民の信を問うとし、あわや党内分裂しかけたが、人心一新の内閣改造を行い、解散は回避で妥協。福田と大平だけが閣内に残る

福田は臨時国会閉幕の夜辞表を提出、三木との対決姿勢を鮮明にし、戦後初の任期切れによる総選挙は事実上の分裂選挙となり、目標の安定多数にほど遠く、与野党伯仲状態での国会運営を強いられることになって、自然に三木政権退陣に向かう

年末の臨時国会では、過半数を僅か1票上回って福田が第67代の首班指名を受ける

 

第4部         

第14章     福田政権の内政展開

1.    福田政権の誕生――「経済の年」と定めて

初の組閣は、派閥を考慮せず、新人を積極登用、老壮青体制をとる

経済・財政・外交の重要閣僚には信頼できる側近を配し、自ら掌握しようとした

蔵相は坊秀男、通産省は田中龍夫、外相に鳩山威一郎。民間人起用は見送る

官房長官は安部晋太郎を候補としたが、挙党協で貢献のあった園田直が執着したため妥協、安部長官は1年後の内閣改造まで待たねばならなかったが、その交代の経緯が福田と園田の間に距離感を産み、福田政権運営に障碍となる

幹事長は大平。後に「大福密約」の存在が園田によって暴露されるが、偽造の疑いが濃い

最初に取り組んだのが党改革で、総裁予備選制度を導入し、派閥解消を申し入れたが、大平幹事長始め党幹部は冷ややかで、福田派以外は表面的な解消に留まる

首相就任とともに、自らの経済戦略の成功ゆえに、新たな不均衡が拡大し、「ミニ不況」が始まろうとしていた――①輸出の急増と日米摩擦の激化、②円高の急進(77年初の293円→7810月のピーク176)、③経済環境の変化に伴う構造不況業種の登場(エネルギー価格上昇の直撃を受けた素材関連業種)

77年度予算編成では、景気回復と並び財政健全化を基本としたが、与野党伯仲の政治状況から妥協せざるを得ず、健全財政主義の重い足枷となる

 

2.    15か月予算と7%の成長目標

7711月、急激な円高の進行で、構造不況業種の苦境は深まる一方で輸出の増勢は収まらず、アメリカなど各国からさらなる景気拡大策をとるよう強く迫られる

対米経済関係が急速に悪化するなか、福田も政策転換の決意を固め、内閣改造とともに、15カ月予算の構想を打ち出し、会計年度による区切りを超えた一体予算編成を行う

経済閣僚を総入れ替えし、高く評価していた宮澤を経企庁長官に据え、経済対策閣僚会議の座長とし、対外経済担当相を新設し牛場信彦元駐米大使を日米通商交渉の要に起用

78年度の政府経済見通しに掲げた実質経済成長率7%達成を目指し、内需拡大の牽引力を超大型の公共投資に求め、翌年度歳入の一部を取り込み収入面では16カ月予算とする

 

3.    未完の福田プラン

78年の日本経済は内外共にバランスが回復、新しい成長軌道に乗ろうとしていた

外需依存から内需主導の経済への転換に成功――物価の安定と国際収支の均衡化がその象徴で、消費者物価の上昇は3.4%に収まり、経常収支の黒字も79年春にはほぼ均衡

79年の東京サミットに向けて財政再建やデノミまで考えた政策運営のプランを描くも、総裁選で大平に敗れて未完に終わる

福田の積極的な財政政策には、国債増加などの面から批判もあるが、経済の大きな移行期にとられた政策はより包括的な視点からの評価が求められる――インフレ抑制を第一にした意義は大きく、物価安定と企業投資復活を達成した、緩急の手綱捌きは見事

 

4.    人命は地球より重い

77年のダッカハイジャック事件勃発――パリから羽田に向かい乗員乗客156人を乗せた日航機がムンバイ上空でハイジャックされ、ダッカに強行着陸。9名の仲間の釈放と身代金の要求に対し、人命尊重を第一に反対を押し切って要求に応じるが、引き渡す段になってバングラデッシュで軍事クーデター勃発、鎮圧はされたが犯人側の要求で一部人質を乗せたまま離陸、途中で順次解放され、最終のアルジェで漸く全員解放され無事決着

服役中の犯人釈放は「超実定法的措置」(法秩序の枠内ということ)とされ世論の大勢も支持

9日後には西ドイツのハイジャック勃発、ソマリアで特殊部隊により銃撃戦で犯人を制圧し人質全員を救出。国際世論は西ドイツを高く評価、日本を弱腰としたが、福田は「当時の状況からあれ以外の道はなかった」と答える

その後国内では、脅迫に屈したとの批判を受けることになったが、警察官を職務執行のために海外に派遣することは国内法に根拠規定がなく、「強硬論」は無責任な評論に近い

人命優先を選択した福田と、強行突破したシュミットは、テロ対策を巡って共に国際協調で手を結ぶ

福田はこの事件で得た教訓として、「最高の危機管理の方策の1つは、各国との不断の友好関係」と記し、事件の1か月前に発表した「福田ドクトリン」の原則である「心と心のふれあい」や「対等な協力者」として途上国の自助努力に協力することの重みを再確認した

 

5.    成田空港の開港

1962年池田内閣が首都圏に国際空港を新設する方針を閣議決定したが、66年成田に閣議決定した後に過激派まで参加した激しい反対運動に発展

77年、福田が政府の威信をかけて不退転の決意を表明、田村元運輸相の精力的な働きで翌年3月開港を発表したが、さらなる妨害で50日延期。福永健司新運輸相の下で無事開港

福田が水面下で反対派農民との話し合いを模索し続けたことを忘れてはならない。反対同盟との対話など考えも及ばない状況の中でも対等な立場で心と心を開いて話し合うことこそ福田の信条に他ならない

 

6.    将来に備えて

内政面での功績は他にも、元号法の準備や国民栄誉賞の創設など、後世にわたって少なからず日本社会の安定と明るさの創出に寄与する事績となった

元号制度は旧皇室典範などの廃止で法的根拠を失っていたものを、68年の明治100年を機に、昭和天皇の年齢(75)を考慮し、空白の危機を回避するために整備

西暦の数字は没価値的である一方、元号は歴史観の豊穣を支える装置たり得る。元号は文化的価値を持つ日本固有の歴史の尺度であり、時と場合に応じて西暦と任意に使い分ける

 

第15章     マクロ経済政策協調と日米関係

1.    日米関係の基礎固め

福田に課された2つの外交課題――①国際経済秩序を日本が如何に支えるか、②日本の外交的基盤をいかに拡大するか

最初に取り組んだのが日米関係の基礎固め――無名のカーターが大統領になって混迷のただ中にあるアメリカに対し、福田は「日本の適切な役割と意義ある貢献」を提唱したが、カーター政権が重視したのは日本の対米輸出急増による貿易摩擦問題だった

 

2.    サミットと「機関車論」

福田の考えを裏打ちしたのは、日米欧の世界3極が世界経済を牽引していくべきとする3極主義の理念で、各国が自国利益を優先した政策をとることを牽制

77年のロンドン・サミットで福田は、1930年代の歴史の教訓を強調、西側協調維持のため日本が「機関車」の役割を担う努力を惜しまない姿勢を明確にする

日本の経済成長率予測6.7%は国際公約と事実上見做され、アメリカからは具体策を求めて圧力が本格化、日米通商協議が始まる

78年のボン・サミットでは、経常収支黒字国が経済成長によって世界経済を牽引し、赤字国がインフレ対策を優先するという、参加国全体が現状に即した政策を通じて相互に支援する合意がなされる

 

3.    資源エネルギー問題への取組み

福田政権のマクロ経済政策協調において見落とせないのが資源エネルギー問題への取組み

1970年代に入ると、産油国の資源ナショナリズムの高まりから、安定供給が不安視されたが、第1次石油ショックで不安が現実のものとなり、福田も脱石油化を積極的に進める

代替エネルギーと目された原子力が、カーター政権の核不拡散政策に直面。アメリカが推進してきた核燃料再処理とプルトニウム利用中止の方針が出され、東海村の再処理施設の稼働が危ぶまれたが、77年のトップ会談で何とか個別例外措置を認めさせる

福田は、「21世紀に向かっての日米協力」を打ち出し、新エネルギー開発に関し、核融合の技術開発を念頭に置いたが、アメリカ側からは石油メジャーの関わる石炭液化技術へと縮小され、世界のための日米協力は退任後のOBサミットの主要課題として持ち越される

 

第16章     全方位平和外交

1.    福田ドクトリン

福田は自らの外交政策を「全方位平和外交」と呼んだが、米ソ双方に対する等距離外交の意ではなく、平和外交のダイナミックな発展を期したもの

福田が自らの理念を最初に打ち出したのは、対東南アジア外交

75年サイゴンが陥落し、インドシナ全域の共産主義化が懸念される中、日本はASEANを東南アジア外交の主軸に位置付け、東南アジア外交の再構築を図る。目玉は対外援助の倍増で、80年代後半にはアメリカを凌駕するほどの「援助大国」となる端緒

77年、福田は東南アジア諸国歴訪の最後にマニラで対東南アジアの基本方針をスピーチ

「福田ドクトリン」とされる内容は、①平和に徹する、②真の友人として心と心の触れ合う相互信頼関係を築く、③対等な協力者として東南アジア全域にわたる平和と繁栄の構築に寄与、の3点にあり、絶賛に近い評価で受け止められる

 

2.    中ソ対立のはざまで

1970年代に入ってデタントの進展とともに、日本でも共産圏への外交地平の拡大が進むが、直線的に進展したわけではない

中国との平和友好条約交渉は74年開始されたが中ソ対立の中にあって反ソ連携の要求となり頓挫

ソ連とも並行的に漁業交渉を進める

77年の鄧小平の登場で中国が近代化建設を掲げ、対外政策の転換を図り始めたのを機に、日中交渉が進展すると、ソ連も対抗措置を打ち出すが、領土問題不存在を譲らないソ連に見切りをつけて方向転換、日ソ関係を切り離して日中交渉を進める

日中条約交渉の争点は反覇権条項の取り扱い――ソ連を意識する中国に対し、日本は特定の第三国を意味するものではないとし全方位平和外交の立場を明確にする

 

3.    日中平和友好条約の締結

78年、尖閣漁船事件勃発。大量の中国漁船の領海侵犯に、条約慎重派が勢いづくが、福田は中国に領有権問題再燃の意思がないことを確認したうえで、条約的結に向かい、8月条約締結に漕ぎ着け、日中関係の新時代が到来

 

4.    未完の全方位平和外交

翌月中近東諸国歴訪。日本の首相の中近東諸国訪問は福田が初。全方位平和外交の一環

最後の課題が対ソ外交

日中条約締結後も、ソ連は日本批判を展開したが、具体的には何の報復措置もなかったところから、福田も政策転換を示唆、領土問題を棚上げしたまま長期経済協定締結に前向きな姿勢を示す。まずは両国の信頼関係醸成を優先、自らも訪ソに言及したが、総裁予備選敗北で幻に終わる

後任の大平は、対ソ政策には慎重で、日中関係は福田路線を継承して対中円借款供与に踏み切るなど中国への関与政策を展開したが、対ソ関係は未完のまま残された

 

第17章     大福対決

1.    総裁予備選

政権安定の要である大福体制に亀裂が入ったのは衆院解散問題。保革伯仲状況を建て直そうと早期解散を狙った福田に対し、福田の長期政権化を嫌った大平が反対。何度か解散を模索したが、そのたびに大平が反対して、78年末の総裁選を迎える

総裁選の脱金権・脱派閥化を図るために予備選制度が導入され、あらかじめ都道府県単位で党員投票を実施、上位2名が国会議員による決定選挙に臨むとしたものだったが、中曽根や田中派は党員獲得に動き出し、40万の党員が総裁選時には152万に膨れ上がり、却て派閥間の競争を激化させた

福田はいずれ自らの後継を大平とし、大平もそれを期待、総裁選では大福提携を発表して予備選を事実上の信任投票に持ち込みたいと考えたが、周囲に押される形で大平が出馬を表明。公判中の田中の後押しが決め手で、再起を誓った田中が大平を盾に福田再選を阻止

予備選の立候補は大福のほか、中曽根と河本。福田は圧倒的に優勢だったが、事前運動が過熱、マスコミでも「大福密約」が掲載され、さらには三和銀行系列の計算センターでコンピュータに入力・保管されていた非公開の党員名簿を組織委員長の竹下が職権で持ち出し、田中派はそれを基にローラーをかけ集票活動をした結果、予備選では大平が圧勝

元々福田は、党員の意向を尊重すべきとし、本選は1本化した信任投票にすべきと主張していたこともあり、本選の泥仕合化で政治不信を高めるのを嫌った福田は本選を辞退

「天の声にも、たまには変な声がある」と語り、本選での決戦を主張していた派内の不満を抑え、潔く本選から降りた

予備選で対決したために大福体制の継続は困難となり、大平による安定した政権運営を難しくした

 

2.    40日抗争

大平政権はいきなり第2次石油ショックに見舞われる

次いでダグラス・グラマン事件

田中の金権政治復活を危惧した福田は、併せて派閥復活、密室運営をも問題点として挙げ、大平政権に田中の影響力排除を念頭に置いた党改革の実行を強く迫る

「昭和黄門」と称して党改革を旗印に全国遊説に回る

半年間は順調に経過、4月の統一地方選でも保守回帰が鮮明となり、自信を深めた大平は解散を模索。福田らの党改革優先を押し切って解散したが、一般消費税を持ち出したこともあって総選挙は過半数を割り込む敗北

三木を筆頭に福田も、大平に敗北の責任を取って辞職を迫るが大平は首相に執着。総裁と総理を分ける案まで出たがこれも大平が拒否、反主流派は首班指名の統一候補を福田とすることに決定。総選挙から1カ月後の首班指名では前代未聞の分裂選挙に突入。最後は数の力で大平が勝利。組閣や党人事でも福田ほか反主流派に配慮した人事となり、選挙敗北に端を発した「40日抗争」がようやく収束

 

3.    大福対決の結末

福田の狙いは選挙の勝敗より党改革にあり、80年の党大会では党倫理憲章の制定、最高顧問の設置、総裁公選規定の改正が実現。最高顧問は総裁・副総裁・衆参院議長経験者の現職国会議員を対象とし、三木と福田が就任したが、大平は無視

80年秋の総裁選では、またも党員獲得競争が再燃。党員・党友は300万人を突破

大平に近い浜田幸一のラスベガス賭博発覚を契機に社会党が内閣不信任を提出することになり、反主流派は共闘を考え欠席戦術をとることを検討。田中は、解散で衆参同時選挙を大平に唆し、大平は一気に採決に持ち込む。中曽根の寝返りはあったが、三木・福田は自派閥を議場から引き揚げた結果、56票という大差で不信任案が成立。大平は解散を決め、55年体制成立後初の衆参同日選挙に突入

戦後保守の原型である自由丙申会(吉田派)を期限とする宏池会(池田派→前尾派→大平派)と周山会(佐藤派→田中派)という吉田学校の卒業生だけが「保守本流」の流れという意識が強く、日本民主党から自民党に加わった岸―福田ラインは保守本流とは見做されていなかったところから、福田は我こそ「保守本流」だと記している

不信任案に賛成した以上離党新党が筋だが、総選挙を前に慎重論が大勢を占める

挙党一致で選挙に臨むが、選挙戦初日に大平が持病の心臓で倒れ、13日後に逝去。大福抗争は一層され弔い合戦へと変容、投票率も高まり、自民党が快勝、6年続いた保革伯仲は解消、大平の命と引き換えに政局は安定

大平の後継には宏池会の番頭格で長く総務会長を務めた鈴木善幸が推され、宏池会を中心に田中派と福田派が均衡を保ちながら協力する総主流派体制が確立

「鈴福蜜月時代」と呼ばれるほど関係は良好、鈴木もポスト面で清和会を優遇、党最高顧問の中でも福田を別格扱いにして遇した

田中の復権意欲は派閥組織の強化に現れ、史上初の100人を超える勢力となり、腹心の二階堂を会長に据え、自らは「闇将軍」として政界に力を振るいだす

81年末の内閣改造で鈴木が二階堂を幹事長に起用したことから、福田は反鈴木色を強め

角福対決は、鈴木が不出馬を表明した82年の総裁選でも再燃、福田は話し合いでの選出を目指したが、田中の意向を受けた中曽根が拒絶したため選挙となり、中曽根が圧勝

83年ロッキード事件の第1審判決が下った際も、福田は田中に対し辞職を勧告、改めて党刷新を訴え、中曽根が二階堂を党副総裁に就任させようとした際には、最高顧問の地位を賭けて対抗しようとした

84年安部を清和会会長代行とし派閥指導者としての成長を見守る一方、田中の陰が払拭されるまでは引退できなかった

金権支配に抗する福田の戦いは、85年竹下が創政会を立ち上げ、直後に田中が脳梗塞で倒れる日まで続き、田中支配の終焉を見届けた福田が清和会の会長を辞任したのは86年央のこと

 

第18章     世界の福田

1.    OBサミットの創設

人口問題との関わり――経済開発と密接に関連するテーマで、発展途上国における乳児死亡率減少に伴う急速な人口増加が経済離陸の足枷となっているところから、人口増加を抑制し、開発といかに調和させるかが大きな課題。岸の後をついで福田も、国際人口問題議員懇談会の会長となって中国を訪問。人口問題に関する功績として国連平和賞を授与されている

1982年、国連開発計画の事務局長モースとの会談で、「世界平和」の理想に向けて動き出す。西独首相だったシュミット(首相在位197482)に声を掛けOBサミット実現を期す

Inter-Action Councilと呼び、①平和と安全保障、②世界経済の活性化、③人口、開発、環境関連の諸問題の3分野から、当面する具体的問題を議論

83年を第1回とし、世界20か国の元首クラスが参加。米ソは不参加、独英もドタキャン

 

2.    冷戦終結に向けて

83年は大韓航空機撃墜事件などもあって米ソの緊張が高まり、米ソ関係の改善がOBサミットの最大の課題に浮上

84年の第2回は英独も参加して、「国際元老会議」としての陣容が整い始め、米ソ首脳の対話促進に向け指導者たちが協力し合うことを確認

85年のゴルバチョフの就任が大きな転機となって米ソ包括軍縮会議開催

85年、カナダのトルドー(首相在位196815年以上)も参加、核軍縮が大きな論争に

87年、ワシントンでの米ソ首脳会談で中距離核戦力INF全廃条約に調印

86年、第4OBサミットを東京で開催。議題は21世紀を見据えた人口問題と環境問題

この時福田は、政治指導者と宗教指導者の対話を提唱――人類全体が取り組む必要のある問題を議論するには、11人がイデオロギーを超え「心」の問題に取り組む必要があると考えた。その思いは87年ローマでの宗政会議として結実するが、理想はグローバル時代の諸問題に対応するための「普遍的な倫理基準」の確立にあった

 

3.    21世紀を見据えて

1989年、次の選挙不出馬で引退を決意するが、「議員バッジは外して、自由に公平に発言をしていく」として政治活動は終生続けていくと言明

この時期、政界はリクルート事件に揺れ、竹下政権の先行きが急速に不透明になる中、若手・中堅を中心に「政治改革」を求める声が高まる

竹下が辞任を発表すると、後継に福田を推す声が上がるが、竹下が指名したのは外相の宇野宗佑。福田や鈴木善幸は難色を示したが、竹下に押し切られる

政界引退後取り組んだのが回顧録の執筆。『回顧90年』はコンパクトなサイズ

91年、プラハでのOBサミットの際、森林視察で体調を悪化させ、以後身体の衰えが目立つように

さらに93年冬には秘書だった次男横手征夫が55歳で早世し、福田は憔悴

94年、ドレスデンのOBサミットに出席したのが最後の海外渡航。創設者としてスピーチを行い、「世界平和を築き得る「対話と協調」の新たな時代に入ったからこそ、人類の存続を左右する核兵器の管理及び人口問題と真剣に取り組まねばならない」と強調

95年、入退院を繰り返す。回顧録が刊行され、冒頭の「序に代えて」で自らの人生哲学について触れる。「人間は、1人で生きることは出来ない」という書き出しで、国や社会は、多くの人々がその長短を互いに補い合い、成長して行くのだという彼の国家観が示され、人間がこの世に生を受けた以上、資質を伸ばし、「社会公共」のために奉仕せねばならないとして、その奉仕の量がその人の人生の価値をはかる基準の1つだとした

95年の東京サミットが生涯最後となる。国連大学で開催され、福田とシュミットが退任、福田には「創設者」、シュミットには「名誉議長」の称号が贈られた

その1か月半後に逝去

 

激動の世紀を生き抜いてきた歴史の生き証人

自らが生きた90年の歳月を振り返り、「栄光と悔恨の世紀」と総括

原点は、30年代以降軍部の台頭と泥沼の戦争の悔恨の時代

戦後政治家になった後も、福田の経済政策は一貫して物価を重視しながら、「山高ければ谷深し」の手法で景気後退を診断し、繁栄の持続を図るものだった

20世紀後半の四半世紀は高度経済成長を遂げた栄光の時代

無所属で政界に入った福田が、短期間で執政の中心に位置するようになったのは、彼が示した抜群の政策能力によってだった

早くから経済計画の採用による計画的な政策運営を主導し、経済成長の果実を広く国民に配分するための福祉政策を推進。格差の少ない国民共同体を志向する保守改革派

蔵相を3度務め、高度成長を起点から終焉まで見届けた。彼の財政家としての手腕がいかんなく発揮されたのは石油ショックによって戦後最大の不況を迎えた時

政治は「最高道徳」だと説き、「人間は所詮カネと権力の亡者に過ぎないというような理想のない人間観には耐えられない」とした

戦後日本が物質的に豊かになり、アメリカ的な大衆文化が急激に流入するなかで、日本人の精神や道徳心が退廃していくことに憂いを抱いていた。個々人が利己主義を排し、相互の信頼や尊敬を通じて人と人とが結びつく「社会的連帯感」を再建せねばならないと考えていた

福田の政治信条が最も体現されたのは外交で、「経済大国」の日本が「世界の中の日本」であることを自覚し、「心と心」の触れ合う信頼関係を築いて平和的に発展していく必要があるとした

OBサミットは、福田の外交活動の理念的集大成

福田の遺志を継いで、96年のサミットでは「普遍的な倫理基準」をテーマとして議論が進み、97年に「人間の責任に関する世界宣言」として発表された。「人間性の基本原則」「非暴力と生命の尊重」「正義と連帯」「真実と寛容性」「相互尊敬とパートナーシップ」という5項目19条からなる宣言は福田哲学の結晶であり、21世紀へと伝えられた

シュミットも、「他人や社会を変え得ることは、公正で平和な世界のために責任感と不屈の努力を通じて自己改善できる人々にしかできない」と記したが、現実政治の中に身を置きながら、高い理想を最後まで追求した福田の生涯は、次世代の人々に政治家とは何かを考えるための重要な指針となろう

 

 

あとがき 五百旗頭真

田中や大平とは対照的に、福田に関する本格的な検証の不在が、戦後政治史に欠落を産んでいるという関係者の思いが、本書執筆のための研究会の開催に結び付いた

2013年第1回の研究会があり、執筆者4人に加え、蔵相及び首相秘書官を務めた保田博氏も出席。保田氏は解読困難な「福田メモ」の翻刻を進めており、氏の作成した読み下し文は実証的な評伝を執筆する上で不可欠な基本資料を成した

 

 

 

Wikipedia

福田 赳夫(ふくだ たけお、1905明治38年〉114 - 1995平成7年〉75)は、日本政治家大蔵官僚位階正二位勲等は、大勲位

衆議院議員、農林大臣2次岸改造内閣)、大蔵大臣1次佐藤第1次改造内閣2次佐藤第2次改造内閣3次佐藤内閣2次田中角栄第1次改造内閣)、外務大臣3次佐藤改造内閣)、行政管理庁長官2次田中角栄内閣)、経済企画庁長官三木内閣)、内閣総理大臣福田赳夫内閣)などを歴任した。

l  来歴・人物[編集]

生い立ち[編集]

群馬県群馬郡金古町(現・高崎市足門町)に父・福田善治(元金古町長)の二男として生まれた[注釈 1]日露戦争において日本軍が旅順入城をした翌日に生まれたため、「赳夫」(「赳」という字は強い・勇ましいなどという意味を持つ)と命名された。

金古町立金古小学校(現・高崎市立金古小学校)卒業後[2]、群馬県高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に入学。同校を首席で卒業し、第一高等学校文科丙類仏法科に入学。2年生のときに野球部のマネージャーに推された[3]1926年(大正15年)、東京帝国大学法学部法律学科仏法科へ進学。

官僚時代[編集]

高等文官試験行政科に一番の成績で合格し、大蔵省に入省した[注釈 2][4]大臣官房文書課配属[5]

大蔵省入省から1年を経ずに、財務官付の役職でロンドンの在英日本大使館に派遣された。当時の上司に当たる財務官は津島寿一である。3年半のイギリスでの勤務の後、帰国。戦時中は汪兆銘政権の財政顧問を務めるなどした。その後は大蔵省の主計局で順調に出世して局長にまで登り詰めたが、1948(昭和23年)の政府関係者に対する贈収賄が問題になった昭電疑獄の際に、当時大蔵省主計局長で次官を目前にしていた福田は収賄罪容疑で逮捕される。1950年(昭和25年)夏頃、次期衆院選出馬の決意をする。無罪になったが、同年11月に大蔵省を退官した[6][注釈 3]

国会議員へ[編集]

1952(昭和27年)10月の25回衆議院議員総選挙群馬三区から無所属で立候補し初当選した。国会では無所属議員18人で院内会派「無所属倶楽部」をつくった[7]野田卯一池田勇人と共に「大蔵省の3田」と呼ばれる。当時は大蔵省出身の国会議員が衆参合わせて24人いた。無所属の福田を除く23人は全て吉田茂池田勇人の自由党所属だったが、福田は自らこれを「栄えある一議席」と呼んだ。

1953年(昭和28年)12月、自由党に入党した[8]。やがて岸信介に仕える。1958(昭和33年)には当選4回ながら自由民主党政調会長就任。

1959(昭和34年)1月から自民党幹事長を、6月からは農林大臣を務める。

1960(昭和35年)12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男田中龍夫一万田尚登倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した[9]。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する。池田から政調会長をクビにされ、福田および同調者は池田内閣の続いている間、完全に干し上げられ長い冷飯時代を味わう[9][10][11]

佐藤栄作政権下では大蔵大臣・党幹事長・外務大臣と厚遇され、福田の後見人である岸からの強い支持もあって、岸・佐藤兄弟の後継者として大いにアピールできたものの、この時からポスト佐藤を巡る田中角栄との熾烈な闘争(角福戦争)が始まる。日本列島改造論を掲げ、積極財政による高度経済成長路線の拡大を訴える田中に対して、福田は均衡財政志向の安定経済成長論を唱える[注釈 4]。また中華民国台湾)と断交してでも中華人民共和国との日中国交回復を急ぐ田中に対して外務大臣時代にアルバニア決議に反対して「二重代表制決議案」と「重要問題決議案」をアメリカ合衆国などと共同提案したように台湾とのバランスに配慮した慎重路線を打ち出す。佐藤は任期中の国交回復と北京訪問を目指して密使を送り込み、中華人民共和国と中華民国との間で連絡を取っており、総理の座を譲ろうとしていた福田を中華人民共和国側関係者に引き合わせていた[12]。これらの自民党右派のスタンスは岸派以来の伝統で、福田派の後継派閥である清和政策研究会出身の総理である森喜朗小泉純一郎安倍晋三福田康夫らに引き継がれている。

1972(昭和47年)7月、「われ日本の柱とならん」を掛け声に佐藤後継の本命として保利茂松野頼三園田直藤尾正行ら他派の親福田議員を結集して総裁選に出馬する。決選投票(田中282票、福田190票)で角栄に敗れるが、「やがては日本が福田赳夫を必要とする時が来る」と強気の発言を残した。また、この際福田に肩入れをしていた当時の金融界のフィクサーであった大橋薫は、生前「自分が病気で入院していたために福田が負けた」と漏らしている。

詳細は「1972年自由民主党総裁選挙」を参照

発足した田中内閣においては無役となったが、同年12月の総選挙で自民党が改選前議席を割り込むと田中が挙党一致を求める形で2次田中角栄内閣行政管理庁長官として入閣。翌1973(昭和48年)11月の内閣改造では、田中の列島改造論オイルショックによる経済の混乱の収束を求められ、急逝した愛知揆一の後任として大蔵大臣に就任し、総需要抑制などのインフレ抑制策を発動した(19747月の参議院選挙後に閣僚辞任)。1974(昭和49年)12月に発足した三木内閣でも副総理経済企画庁長官として入閣し、経済政策の陣頭に立ったが、ロッキード事件への対応を巡って党内で三木おろしが決定的になった1976(昭和51年)11月に閣僚辞任している。

 

総理大臣[編集]

1976年(昭和51年)、総裁選で他の立候補者がなかったため、両院議員総会での話し合いにより総裁に選出され、過半数をわずかに一票上回る得票で首班指名され、三木武夫の後任として念願の政権(福田内閣)を樹立。71歳という高齢を心配する周囲からの声に対し、自らの生年に因み「明治三十八歳」と言って若さをアピールした。また、外交問題の解決をはじめ、実務型の内閣であったことから、内閣を「働こう内閣」と表現。また、前内閣で政治改革は進む一方で外交や経済の案件が遅れており、総理大臣をもじって「掃除大臣」と自称した。

党内抗争(三木おろし)において、大平正芳との間に「2年で政権を譲る」と大福密約によって総理の座を得たということや、新鮮味に欠けるだけでなく自民党内でも右派の立場であったため、左派層に支持を広げにくいなどの理由から、就任当初の支持率は低かった。大平を幹事長に据えて大平派との連携により政局の安定を図ったが、国会が与野党伯仲状態である上に党をライバルに抑えられ、苦しい船出となった。

1977(昭和52年)、11回参議院議員通常選挙で自民党は改選議席を上回る議席を確保。同年夏、新たに党友組織自由国民会議創設に当たり党国民運動本部長中川一郎を通じて保守派の論客として知られる作曲家黛敏郎に初代代表就任を要請し受諾を得る。またこの頃、王貞治を表彰する必要性から国民栄誉賞を創設した。

同年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では「人命は地球より重い」として犯人側の人質解放の条件を呑み、身代金の支払いおよび、超法規的措置として6人の刑事被告人や囚人の引き渡しを行ったことで、テロリストの脅迫に屈したと批判を浴びることとなった[注釈 5]。全方位外交を掲げ、中国へのODA開始や積極的な東南アジアへの開発援助を行うなど、アジア外交を重視した。その姿勢はアジア開発銀行の設立やフィリピンマニラで発表された福田ドクトリンへと結実することとなった。

国家プロジェクトでありながらも、1971年の代執行以来、三里塚闘争などによりほとんど進展がなかった成田空港問題について、「あらゆる困難を乗り越え開港を実現せよ」と指示[13]東山事件芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件成田空港管制塔占拠事件で犠牲者を出しつつも、1978(昭和53年)520の新東京国際空港(現・成田国際空港)開港にこぎつけた。

総合景気対策や15カ月予算の編成[注釈 6]などが功を奏して、同年46月期及び7-9月期には年換算7%の経済成長を達成した[13]8月、「元号法制化実現国民会議」(現・日本会議)に元号法の制定を明言し、素案を出すよう指示[15]

同年1023鄧小平副総理を日本に迎え、「日中平和友好条約」に調印。

こうして着実に実績を上げる中で、内閣支持率は徐々に持ち直し、福田は政権運営に自信を深め、続投の意欲を見せるようになる。派閥解消を目指して党員・党友投票による自民党総裁予備選挙を導入したが、大福密約の総理総裁2年任期後の大平への政権禅譲を拒否し、「世界が福田を求めている」として自民党総裁選挙に再選をかけて立候補。密約を反故にされた形の大平との一騎打ちとなった。自民党総裁選では現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな集票作戦を展開する一方で、福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢の結果に油断し、動きが鈍く、当初の下馬評が覆され、福田は大平に大差で敗北した。福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」とかねて発言していたため、本選挙出馬断念に追い込まれることになる。自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ一人である(任期切れ時に形勢悪化などで出馬断念に追い込まれた現職総裁の例としては鈴木善幸河野洋平谷垣禎一菅義偉がいる)。記者会見で「民の声は天の声というが、天の声にも変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね。まあいいでしょう! きょうは敗軍の将、兵を語らずでいきますから。へい、へい、へい」(19931231放送TBSテレビ「自民党戦国史」の映像より)の言を残して総理総裁を退く。

角福戦争#第二次角福戦争(第一次大福戦争)」および「1978年自由民主党総裁選挙」も参照

総理退任後[編集]

福田および福田派の大勢は「田中に金権選挙でしてやられた」という意識をもち、大平政権下では反主流派のリーダー格となった。1979(昭和54年)の衆院選で自民党が議席を減らすと大平の引責を要求し、首班指名では反主流派からの投票を受ける(四十日抗争)。その後も党内抗争は続き、反主流派は大平が退陣しなければ野党提出の内閣不信任決議採決を欠席すると脅しをかけたが、大平がほとんど譲歩しなかったことから反主流派も引っ込みがつかず、決議は可決されてしまう(ハプニング解散)。この採決の直前に福田は事態収拾に動き、福田派所属代議士に採決に出席し反対票を投じることを求めたが、逆に派内の強硬派に押し切られて福田も欠席することとなった。不信任決議が可決されてしまったことで、福田は党内からも自民党支持者からも突き上げを受けた。

鈴木政権の後継を巡る党内調整では、福田が内閣総理大臣を務めずに自民党総裁のみを務めるという案が浮上したが、成案にならず総裁選に突入した。このとき、福田派は福田でなく安倍晋太郎を総裁候補として擁立し、福田は総裁争いの第一線から退く形となった。

福田は一方で、世界の大統領・首相経験者らが世界の諸問題の解決へ向けた提言を行う場として「インターアクション・カウンシルOBサミット)」設立(1982年)するなど、「世直し改革」を訴え「昭和の黄門」を自認した。後に総理大臣になる森喜朗小泉純一郎は彼の教えを受けた[注釈 7]

1984(昭和59年)に二階堂擁立構想の頓挫があり、福田の発言力が低下した。この際に福田の教え子であった森や小泉らからも世代交代を主張する声が出たこともあり、中曽根政権の後継争い(ポスト中曽根)において安倍晋太郎を押し立てるため、1986(昭和61年)に派閥を安倍に譲った。この件が元で中選挙区で安倍のライバルであった田中龍夫が引退を決意したとされている。

リクルート事件によって竹下内閣が総辞職した際には、福田の暫定政権案が浮上した。当時政界の最高実力者であった金丸が推し、中曽根派、宮沢派なども反対しなかったため、84歳の福田の再登板が実現しかかったが、安倍の反対[16]や、長老からの起用への消極論などもあり立ち消えとなった[17]。福田は「こんな重大な時局を担うには、ちょっと若すぎるんじゃないかなぁ」などと述べて意欲を見せていた。また安倍が死去した際には森らが福田を再度派閥の長にしようとする動きを起こしたが、それも福田は「私は高齢だから相応しくない」として辞退している。

1990(平成2年)、39回衆議院議員総選挙を機に政界引退。長男康夫が後継者となるが、当初は次男の征夫を後継者として考えていたため、征夫が病気に倒れるまでは「康夫は面の皮が薄すぎて政治家に向かない」と周囲に語っていた。[要出典]引退するまで連続14回当選。同じ選挙区である旧群馬3区では「上州戦争」と呼ばれるほど中曽根康弘と激しいトップ当選争いを繰り広げたが、三枝夫人の内助の功もあってほぼ毎回福田が圧勝[18]。中曽根が首相在任時でも、福田の得票数の方が勝っていた(通算成績・福田の113敗)。1995(平成7年)、岩波書店から『回顧九十年』を刊行し、出版記念パーティーには元気な姿を見せたが、同年75東京都港区の東京女子医科大学附属青山病院で慢性肺気腫のため死去、90歳没[1]

なお、1990120東久邇稔彦が亡くなってから自身が死去するまでの間は、存命の最高齢の首相経験者となっていた他、19931216に田中角栄が死去した後は最古参の首相経験者でもあった。最古参の首相経験者と最高齢の首相経験者が同じ状態は、その後20191129中曽根康弘が死去するまで2511ヶ月続いた。

l  年譜[編集]

1945昭和20年)9大蔵省官房長[注釈 8]

1946(昭和21年)7 - 銀行局長。

1947(昭和22年)9 - 主計局長。

1948(昭和23年)9昭電疑獄との関連を疑われて逮捕される[注釈 9]

1950(昭和25年)11 - 退官。

1952(昭和27年)10 - 無所属で立候補し衆議院議員に初当選。

1958(昭和33年)

6党政調会長

11昭電事件につき東京高裁が無罪判決(確定)。

1959(昭和34年)

1党幹事長

6農林大臣に就任。

1960(昭和35年)12 - 党政調会長。

1965(昭和40年)6大蔵大臣に就任。

1967(昭和42年)2 - 党幹事長(二度目)。

1968(昭和43年)11 - 大蔵大臣に就任。

1971(昭和46年)7外務大臣に就任。

1972(昭和47年)7 - 自民党総裁選挙で田中角栄に敗れる。

1973(昭和48年)11 - 大蔵大臣に就任。

1974(昭和49年)12副総理経済企画庁長官に就任。

1976(昭和51年)12 - 67内閣総理大臣に就任。

1978(昭和53年)12 - 内閣総理大臣を辞任。

1979(昭和54年)1 - 新派閥清和会旗揚げし赤坂プリンスホテルに事務局を置く。

1986(昭和61年)7 - 派閥を安倍晋太郎に譲り、福田派会長を辞任。

1990平成2年)2 - 政界を引退。

1995(平成7年)75 - 慢性肺気腫のため死去、90歳没。

l  政見・政策[編集]

政治理念[編集]

「協調と連帯」

「政治は最高の道徳」

岸信介の直系であり、「自民党右派」と評されることが多い。

経済[編集]

均衡財政志向の安定経済成長論を主張。

国際的に、黒字過剰問題の解決のために、内需主導型の経済運営による輸入を拡大など、市場の開放に努めるべきとした[19]

1965昭和40年)、大蔵大臣として、不況による税収不足への解決策として、日本において初めて国債赤字国債、当時で2千億円)を発行する。

外交[編集]

外交理念として「全方位平和外交」を提唱。

アジア諸国との連帯を目指し「福田ドクトリン」を提唱。

中華人民共和国との関係について、「お互いに内政に干渉しないことが一番大事であり、それが守られなければ、『日中平和友好条約』が名ばかりのもの(名存実亡)になってしまう」という旨の見解を述べた[20][21]

日韓両国に隣接する大陸棚の北部の境界の画定や大陸棚の南部の共同開発を定めた「日韓大陸棚協定」を批准。

靖国参拝[編集]

1978(昭和53年)の終戦の日靖国神社参拝。「内閣総理大臣」と記帳し、「私的参拝」であるとした[22]。以降、4回参拝。

語録[編集]

また造語・警句の名手として知られ、「狂乱物価」「昭和元禄」「視界ゼロ」「日々是反省」「福田内閣はさあ働こう内閣だ」「掃除大臣」など福田語録を残している[23]

l  評価[編集]

総理大臣としての在任期間は短かったが、長年に渡って保守政界の一方の雄として期待され続け、閣僚としても党幹部としても、そつなく仕事をこなした。60年代の高度成長期には水田三喜男と共に数度に渡って蔵相を務め、また70年代のオイルショック後の転換期にもほぼ一貫して経済運営の中心にあった。「60年代〜70年代の経済危機はいずれも福田によって収拾された」という指摘もあり[24]、とくに田中・三木内閣でオイルショック後の官民挙げた総需要抑制政策を指揮し、成功させたことは高く評価されている。

その後総理大臣に就任すると、内政面では与野党伯仲国会という環境に加えて党を政敵の大平に握られ、初の予算修正や減税を強いられるなど、均衡財政の信奉者であった福田にとって、不本意な政権運営を強いられることになった。むしろ総理としては外交における業績が顕著であり[25]1977のいわゆる福田ドクトリンは、今日に至る日本の東南アジア外交の基軸となっている。また、日中平和友好条約の締結は、その後の日中経済協力の礎を築くことになった。こうして、1980年代以降の日本の外交路線、および東アジアの経済発展に多大な影響を及ぼしたとされる。

l  関係する人物や団体[編集]

日中協会

ライバルの田中角栄とともに役員を務めた[26]

統一教会・国際勝共連合

大蔵大臣在任中だった1974昭和49年)57に、東京の帝国ホテルで開かれた、世界基督教統一神霊協会(統一教会、統一協会)の教祖、文鮮明の講演会「『希望の日』晩餐会」(名誉実行委員長は岸信介元総理)に同僚議員の誘いで参加し、「アジアの偉大な指導者」と文鮮明を賛美[要出典]。様々な社会問題で批判のあった統一教会に賛同を示すことに問題はないのかなど、国会でも度々追及を受けたが、福田は「文鮮明の思想はよく知らないが、自分の日頃主張する協調と連帯という考えを述べていたのでよかったと感想を言っただけ」、「パーティーや宴会ではちょっと輪をかけて話すんです。そのような環境のもとにおいて話したことで、そんなものを一々取り上げてそれを御質問されても、お答えすることはできない。」という旨の弁明をした[27]。そして、福田は発言の内容について、「当時の記録がございますからよくごらんください」と述べていたが、衆議院の法務委員会で日本社会党の西宮弘が資料を要求したら、上村委員長からあいさつだから、原稿なしでやったのだから、記録があるはずがないという趣旨の報告がなされた[28]

勝共連合については国会で「勝共連合が反共を旗印にしておる、そういう点に着目いたしまして自由民主党と勝共連合が協力的側面を持っておったということは、これは御理解願えると思う」、「余り勝共連合の中身につきましては承知しませんけれども、共産主義反対というたてまえについて共感を覚えている」と述べ、勝共連合の外国為替法違反や詐欺に該当するような資金獲得活動などの反社会的な問題を指摘された際は「そう悪いことを一般的にしておるというような認識でございませんので、一般的に調査するということは考えません。」と答弁。関係を断ったらどうかとの問いには「勝共連合についていままで持っておる認識に立つと、手を切るというような問題は起こり得ざることである。」旨の見解を述べた[29]

児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された大谷貴義との親交が深く、「福田の影に大谷あり」といわれた。政財界とアンダーグラウンドの世界に隠然たる力を持ち、裏千家とも姻戚関係にあった大谷は、福田を首相にすべく、毎年代々木上原の千坪の豪邸に政財界の要人を招き、茶会を催していた。大谷の長女享子が、裏千家14世千宗室の子息・巳津彦と結婚した際には、作家の吉川英治夫妻と共に、福田夫妻が媒酌人を務めた。また、1991平成3年)5月に大谷が逝去した際には、葬儀委員長も務めている。[要出典]

WWF(現WWE)格闘技世界ヘビー級チャンピオンアントニオ猪木を公私に渡り可愛がり、自身が媒酌人を務めた堤義明がオーナーたる日本プロ野球パリーグ球団、西武ライオンズの初代名誉会長にも就任し1979(昭和54年)4西武ライオンズ球場初の公式戦で始球式を担当するなどプロスポーツ界との縁も深かった。

新日本プロレス

特に新間寿の贔屓筋としてプロレスファンの間で有名であり、イギリスの税金の未払いがあった佐山聡をロンドンの日本大使館とイギリス政府との間の外交交渉で日本に帰国できるようにした[30]り、試合中に図らずも一般人との間にトラブルを起こして警察に逮捕されたスタン・ハンセンを早期に釈放させた[31]りと、様々な取り成しを行った。

1987 (昭和62年)、安倍晋三電通社員の松崎昭恵の媒酌人を務めた。

1988 (昭和63年)、かねてから親交のあった中華民国総統蔣経国が亡くなった際に、政府特使として葬儀に参列した。

1989 (平成元年)、元陸軍中将鈴木貞一が亡くなった際の葬儀委員長を務めた。

1993 (平成5年)、政敵であった田中角栄が1216日に死去した際は、「計らずも政界では二人争うことになったが、個人的には良好な関係であった。誠に残念だ。」とコメントを残した。(筑紫哲也 NEWS23より)

エピソード[編集]

20代で務めた下京税務署長時代は京都の祇園の舞妓や芸者から大モテで、その後も花街の芸者たちが福田落としにチャレンジしたが、福田を落とせる者はついに現れなかったという[18][32]

田中角栄が倒れ、田中真紀子によって 早坂茂三が田中事務所を退所した挨拶状を送ったところ、真っ先に直筆で激励の手紙が届いた。福田事務所に御礼の挨拶に出向き懇談した夜、複数の政治記者が早坂宛に電話してきた。福田は記者の前で、「きょう早坂君が挨拶に来てくれた。彼は肝心なことを何もしゃべらなかった。」と言った。秘書にとって重要なことは主人の秘密を他人に言わないことだが、早坂は最後まで優秀な秘書だったと、福田なりの表現で記者の前で称えたのだった。早坂は親分のライバルだった福田がくれた秘書としての勲章に感激したという[33]

阿部眞之助の死去に伴い、「日本恐妻協会」会長を打診されたが、「わが輩は恐妻ではなく敬妻なんだ。敬妻協会なら引き受けてもいいが」と辞退した。実際、大物政治家にはつきものの妾や愛人の噂も福田に限っては全く無かった[18] 前述のように政界進出前の大蔵省局長時代に収賄罪での逮捕歴があったため、金銭の取り扱いにはとりわけ慎重になっていた。特に角福戦争においては両者の使った金額に数十倍もの差があると言われていた。秘蔵っ子と呼ばれるほどかわいがられていた森喜朗も回顧録の中で「当時の派閥領袖の中で一番金払いが悪かったのは福田先生だった。挨拶に行っても餅代すらくれなかった。」と述べている。森が田中に対抗するために金を積んでくれと言ったら、「目を掛けていたのに見損なった」といわれ、同乗していた車からすぐ降りろと言われたという

栄典[編集]

1995(平成7年)75:正二位大勲位菊花大綬章

家族・親族[編集]

福田善治(政治家・元金古町長)

- 平四郎(政治家・元金古町長)

宏一(政治家)

三枝群馬県新井文夫三女、元大審院判事新井善教の孫娘)[注釈 10]

長男康夫(会社員、政治家・首相

長女 - 和子(官僚、政治家越智通雄に嫁する)

次男 - 征夫(群馬県の伊香保温泉横手館の横手家へ養子入り)[34]

越智隆雄(銀行員、政治家)、福田達夫(政治家、総理大臣政務秘書官) など

その他の親戚櫻内幸雄(実業家、政治家)、櫻内乾雄(実業家・元中国電力会長)、櫻内義雄(政治家・元衆議院議長)、山崎種二(実業家)など

親子2代の首相就任は、史上初めての例となった。

系譜[編集]

福田氏

 太田清蔵━━━太田清之助

          ┣━━━太田誠一

      ┏━━俊子

      

      櫻内乾雄

櫻内幸雄━┫

     櫻内義雄

櫻内辰郎         斎藤明(毎日新聞記者)

      ┗━━淑子     

             富佐子

             

        嶺駒夫━━━┻貴代子

                

             福田康夫

             

      福田平四郎 和子

             

 福田善治━╋福田赳夫━━┫越智通雄

            

      福田宏一  横手征夫(秘書)横手信一(伊香保温泉横手館主)

                   

             玲子   千野志麻

              

             松谷明彦

演じた俳優[編集]

小沢栄太郎(『華麗なる一族』、1974年)小沢は下記の『小説吉田学校』で松野鶴平を演じている

山形勲(『華麗なる一族(1974年版)』、1974年)役名は永田大蔵大臣

近松敏夫(『密約 外務省機密漏洩事件』、1978年)

橋爪功(『小説吉田学校』、1983年)

納谷悟朗(『カックンカフェ』、1984年)テレビアニメ(劇場用アニメ)

津川雅彦(『華麗なる一族(2007年版)』、2007年)役名は永田大蔵大臣

志賀廣太郎(『総理の密使』、2011年)

笹野高史(『運命の人』、2012年)役名は福出赳雄

石井正則(『金曜プレミアム・政治の面白いトコロ集めました。加藤浩次vs政治家』、2018323日)

石坂浩二(『華麗なる一族(2021年版)』、2021年)役名は永田大蔵大臣

脚注[編集]

注釈[編集]

1.    ^ 祖父、兄もまた、金古町長を務めている

2.    ^ 同期に前尾繁三郎長沼弘毅西原直廉財務官参事官など)らがいる

3.    ^ このとき部下たちにあれこれしゃべられて煮え湯を飲まされる経験をしたことで福田は性格が変わり、身内偏重主義の政治家となる原因になったと言われる[4]

4.    ^ ただし福田は蔵相として証券不況1965727日、戦後初の長期国債発行による景気対策を打ち出している。草野厚 『山一証券破綻と危機管理』 朝日新聞社 1998 P.183

5.    ^ ただし、当時は諸外国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中の仲間を釈放することは珍しいことではなく(PFLP旅客機同時ハイジャック事件ハーグ事件ルフトハンザ航空615便事件など)、日本のみがテロに対して特段に弱腰であったというわけではなかった。

6.    ^ 年度予算と補正予算を組み合わせて年度をまたぐ予算を編成することで、絶え間ない公共投資が可能になった[14]

7.    ^ 小泉や佐藤静雄の政治人生は、福田の秘書となり、かばん持ちをすることから始まった

8.    ^ 『回顧九十年』 65 - 官房長兼秘書課長兼大臣秘書官、それにGHQと折衝する終戦連絡部長をも兼ねた

9.    ^ 『回顧九十年』 84-85頁に福田は「贈賄側で逮捕された昭和電工の当時の社長日野原節三氏が私の一高、東大の先輩で懇意だったことから、昭和電工への融資に特別の便宜を図ったという理由で私もこの事件に巻き込まれた。ただしこれは検察の全くのデッチ上げであり、判決では検事の所論はまさにかのカラスと言いくるめる論法に似たものと評すべきであろうかとして私自身の潔白は明快に証明された」と記している

10. ^ 『回顧九十年』 31-32頁によると、妻三枝は群馬県原町(現東吾妻町)出身の新井文夫(足尾銅山の技師)の三女で、三枝の兄が福田と高崎中学の同窓で仲がよく、福田が東京の学校へ通うようになった頃から、三枝との付き合いが始まったという

 

 

 

 

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