なぜ「小三治」の落語は面白いのか? 広瀬和生 2021.10.30.
2021.10.30. なぜ「小三治」の落語は面白いのか?
著者 広瀬和生 1960年所沢市生まれ。東大工卒。ヘヴィ・メタル専門誌『BURRN!』編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、ほぼ毎日、生の高座に接し、最近では自ら落語界のプロデュースも手掛ける。
発行日 2014.8.8. 第1刷発行
発行所 講談社
はじめに 小三治という「素敵な日常」を味わう幸せ
小三治は、「人間という存在の可愛さ」を描く達人
小三治は言う、「落語とは、高座の上の空間に、何気なく会話している人たちの姿が浮かぶものでなければいけない。客は、そこに生きている人たちの会話を聴いて、つい笑ってしまう。それが落語だ。落語は客を笑わせるものではない。客に語りかけるのはマクラだけでいい。中に出てくる人同士が会話をしなくてはいけない」
小三治の「噺のマクラ」の面白さは有名で、落語一席に相当するほどの「芸」になっている
だが、小三治の真価は、その落語の素晴らしさにある。演者が前面に出て客に語りかけるのは「噺のマクラ」の部分だけで、一旦落語の演目に入れば生身の「小三治という演者」は消え、ただ噺の登場人物だけが現れて、生き生きと動き回り、観客の共感を呼び、「人間ってなんて可愛いんだろう」とクスッと笑う、それが小三治の落語
志ん朝の高座を観るのは海外の大物アーティストの来日公演にも似た高揚感溢れる「スペシャルなイベント」であり、談志の場合は「今日は何が起こるのか」という緊張に満ちた「一期一会の真剣勝負」だが、小三治の場合はもっと気軽で親しみのある「素敵な日常」であり、魅力的な人に会って楽しい「おはなし」を聴かせてもらう、まさに落語の原点
39年生まれの小三治は、談志より3歳、志ん朝より1歳若いだけだが、真打昇進は談志より6年、志ん朝より7年も遅く、5代目三遊亭圓楽らのグループより少し下の世代ということになるが、83年談志が落語協会を脱退して立川流を創設した辺りから、寄席の世界での存在感が増し、TBSの「落語研究会」で志ん朝と「2枚看板」の扱いになったこともあって、志ん朝に次ぐ存在となった。志ん朝も談志もいなくなった今、孤高の存在
元々「抜群に上手い落語家」が、「マクラの小三治」と言われるようになった辺りから、小三治の落語はどんどん自然体になり、「取り立てて面白い台詞を言っているわけでもないのに、なぜか笑いがこみ上げる」場面が圧倒的に増えた
意図的に「演るたびに変えている」のではなく、ただ自然に「日によって違う」ので、落語の登場人物は、その噺で起こる出来事に初めて遭遇することから、演者の小三治も、登場人物の了見になり切って、「初めての出来事」として演じる
談志は、「落語とは人間の業を肯定する芸能」であり「非常識を肯定する」と言った。小三治は決してそういう分析的な言い方はしないが、「人間」という存在を肯定している
本書の第2章は、「演目から見た私的小三治論」
第1章
柳家小三治インタビュー
2010年、小三治が落語協会会長に就任した時、多くのファンが「意外」と受け止めたのは、小三治が肩書で縛られることを最も嫌う人だと知っていたから
会長就任半年後の10年末に行った『週刊現代』の『ザ・ターゲット』というグラビア特集のためのインタビューの全文を公開
落語はただ笑わせるだけじゃない、自分の言いたいことを高座からギャーって怒鳴って、折伏する、あるいは説得するっていうようなものじゃない。ある世界がこう在ると、そこについ自分を忘れて、首を突っ込んでいく、場合によっちゃ、自分を忘れているから、その落語を聴いているお客さんが「俺、その中にいるんじゃないか」と思うような、それが芸ってものの幸せじゃないの?
小さんの教えは、「落語は芝居じゃない、「おはなし」なんだ」というもの。それをヒントに考えたのが、噺の中で聴き手に「自分の生活の中の、実体験の何かを思わせる、それによる共感っていうものを大事にする」ことが肝
自分の噺の根本は、「こういうの、あるよね!」っていう共感。何等かのかたちで自分にもあったことを噺て共感を喚起する
第2章
ここが好き! 小三治演目90席
〈青菜〉 夏に聴きたい小三治噺の筆頭
お屋敷に出入りする植木屋が、旦那に酒肴をご馳走になる。菜のお浸しを取り寄せようと奥方を呼ぶと、「鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官」という謎の言葉。それを聞いた旦那は「では義経にしておきなさい」と返事する。その意味するところが、「菜が亡くなってしまった」という「隠し言葉」だと聞いて感心した植木屋は、長屋に帰って女房を相手に早速それを真似ようとするが、女房が乗ってこない
〈あくび指南〉 紛うことなき小三治の十八番
あくびを教える先生に弟子入りしてあくびの稽古をする噺
「わざわざ金をとってあくびを教えるからには、奥が深い何かがあるはず」という思い込みの強さを丁寧に描く一方で、「奥が深い」と真剣に教える男、稽古風景を呆れて見ている連れの男の描写。「教える奴も教える奴だが、教わる方も教わる方だ」という一言にこの噺の核心がある
〈明烏(あけがらす)〉 「吉原賛歌」ではなく、人間模様の面白さを描く
商家の旦那が、部屋に籠って勉強ばかりしている息子を、「あれでは将来が案じられる」と心配し、遊び好きの2人に頼んで吉原に連れて行かせる噺
昭和の名人8代目桂文楽の十八番。文楽から志ん朝へ受け継がれた〈明烏〉の世界観は「吉原礼賛」であり、「粋な場所」としての吉原の存在を無条件で受け入れ、その価値観を共有できない若旦那はあくまでも「変わり者」として扱われる
小三治が提示した「人間模様の面白さを描く」というアプローチは、「吉原賛歌」の世界観継承が不可能な現代においても、堅物の旦那と遊び人の仲間という「変な人たち」のドタバタ劇として蘇らせたと言える
〈意地くらべ〉 小三治にとっては珍しいネタ
古典落語〈らくだ〉を歌舞伎にしたことでも知られる劇作家・岡鬼太郎が明治の末に書いた新作落語で、代々小さんが演じた
無利息・無証文の催促なしで大金を貸してくれたご隠居の恩に報いるために「1か月で返そう」と決めた八五郎、金を返すために知り合いの旦那に金を借りに行く。その心意気に共感した旦那はよそに借金して八五郎に渡すが、ご隠居は「無理して返せと言った覚えはない」と受け取らない。八五郎は仕方なくその金を旦那に返しに行くが、「いまさら受け取れない」と怒られて再びご隠居の下へ・・・・
〈一眼国(いちがんこく)〉 台詞廻しの妙で魅せる、幻想ホラーの世界
60代以降の小三治の得意ネタ。5代目志ん生や8代目正蔵が演った
両国の回向院で見世物小屋を出していた興行師が、全国を巡礼して回る六十六部(ろくじゅうろくぶ:諸国を行脚する僧)から聞いた「一つ目の子供」を捕まえに行く噺
〈居残り佐平次〉 佐平次のキャラ際立つ、小三治らしさ
品川を舞台に、江戸末期に初代春風亭柳枝が創作した廓噺
遊んだ金を払わずに「居残り」となった主人公が、持ち前の調子の良さで人気者になり、最後は店の主人を騙して去っていく噺。騙すことを古くは「おこわにかける」と言い、主人が「私をおこわにかけたのか」と怒ると若い衆が「旦那の頭がごま塩だから」でサゲ
〈うどんや〉 5代目小さんの十八番を継承
冬の寒い晩、鍋焼きを売り歩く流しのうどん屋。酔っ払いに絡まれたり売り声がうるさいと文句を言われたりと散々な目に遭い、「裏通りはダメだ」と表通りに出てみると、大店から小声で呼ぶ声が・・・・。人間をリアルに描く技量が要求される
3代目小さんが上方から移した演目で、5代目の十八番として有名。5代目が亡くなって小三治の冬の十八番となる
〈鰻の幇間(たいこ)〉 印象的なフレーズの数々を、ぜひ堪能したい
炎天下で腹を空かせていた野だいこ(自ら客を探して取り巻く幇間)が通りすがりの男に鰻をご馳走になるが、この客は勘定を払わずに逃げてしまう。その上下駄まで盗られて散々だった噺
8代目文楽の十八番として有名。志ん生も得意。今では志ん朝と小三治が双璧
〈馬の田楽〉 愛嬌ある田舎言葉が絶品
民話を素材とする上方落語が東京へ移されたもの。5代目小さんの演目
峠を越えて三州屋へ味噌を運んだ馬方が、誰もいないので居眠りをしていたら、届け先が三河屋だと言われ、外に出ると馬がいない
全編田舎言葉だけで進行していく噺だが、小三治の操る田舎言葉は何とも愛嬌があった
〈厩(うまや)火事〉 「自分にとって〈厩火事〉は人情噺だ」
腕のいい髪結いとその年下の髪結いの亭主、喧嘩しては毎日のように駆け込んでくる女房にうんざりした仲人の旦那は、厩の火事で愛馬が焼け死んでも気にせず奉公人の無事を喜んだ孔子の話と、高価な瀬戸物の皿を持って階段から奥方が転げ落ちた時皿の無事を心配して離縁された旦那の話をして、「あいつの本心を確かめてみろ」とアドバイス。早速試してみると、意外にも亭主は「皿はどうでもいい。怪我はねぇか?」と心配してくれた
〈大山(おおやま)詣り〉 全編笑いどころ満載! 小三治、夏の大ネタ
夏の大ネタ。6代目圓生や5代目志ん生、5代目小さんが得意とした
町内で大山詣りに。途中喧嘩したら頭を丸めると約束させたが、帰りに酔って喧嘩をした熊公を皆で坊主刈りにしたところ、熊公は駕篭で先回りして江戸に帰り、仲間の女房達の前で、途中で船に乗ったら嵐で自分1人助かったので頭を丸めて菩提を弔うという。それを信じた女房達も尼になろうと全員髪を剃って坊主頭に・・・・
〈お茶汲み〉 小三治の廓噺で真っ先に浮かぶ演目
吉原で床に入った女が涙ながらに身の上話をして一緒になりたいと言うが、よく見ると目の下に茶殻がついている。嘘泣きだとわかる
小三治が〈お茶汲み〉を演るときは必ず導入部で「ひやかし」という言葉の俗説(浅草紙の職人が紙を冷やす間に吉原に女を見に行ったのが語源とする説)を紹介する。それも芸の1つ
〈お化け長屋〉 乱暴者に翻弄される杢兵衛が愛おしい
長屋の空き部屋を物置代わりに使っている長屋の連中が、借り手が来たら幽霊が出る話をして追い返そうとするが、最初は成功したが、2人目は幽霊を無視して引っ越してくる
〈御神酒徳利〉 追い込まれていく八百屋の当惑を、表情豊かに演じる
出入りの大店に新しく来た女中に邪険にされた八百屋が、悔し紛れに旦那の大事にしていた徳利を甕に隠し、女中が怒られているのを見て留飲を下げ、「占いで見てあげましょう」と言って甕の中から見つけ出すと旦那は驚いて、他の失せ物も探してほしいと言い出す
上方からは2通りの伝わり方をし、6代目圓生が昭和天皇の御前で口演したのは、娘の病気を占い全快してハッピーエンドとなる噺だが、小さんから継承した小三治の噺は嘘に嘘を重ねる噺で、主人公は追い詰められたまま終わる
〈景清(かげきよ)〉 胸に沁みるエンディングの小三治演出
目が見えなくなった木彫り師が、世話になった旦那から勧められて観音様に願をかけるが叶わず、悪態をついていると激しい雷雨に遭う。雷に打たれて気を失うが、正気に返ると目が開いていた
小三治版の特徴は木彫り師に女房がいること。「どうせ目が見えないから不細工な女房を押しつけたのだろう」と旦那に悪態をついていたが、目が開いて家に帰ったら綺麗な人がいたので、「誰だ」と聞いたら、「お前さんの女房じゃないか」というサゲに繋がる
〈鰍沢(かじかざわ)〉 情景描写の上手さを堪能する
身延山参詣の帰りに雪山で道に迷った旅人があばら家に入ると、老婆が毒入りの酒を飲ませて懐の金を狙おうとするが、間違って旦那が飲んでしまう。旦那の仇と追ってくる老婆から旅人は必死に鰍沢へと逃げる・・・・
圓朝作のサスペンス落語。難易度の高い演目として知られる
〈かぼちゃ〉 寄席でよく掛ける滑稽噺の得意ネタ
八百屋の世話で南瓜売りに出た与太郎が、長屋の住人と悶着を起こすがなぜか気に入られて近所に声を掛けて全部売ってくれたものの、「上を見て売れ」と言われた意味が分からずに、元値で売ってしまったから儲けはなし。八百屋に怒られてもう一度商いに出ることに・・・・
4代目小さんが上方の〈みかん屋〉を東京に持ってきて改作した滑稽噺。5代目の十八番
〈蛙(かわず)茶番〉 半次のハネッ返りぶりが爆笑モノ
素人芝居の当日、ハネッ返りの半次が舞台番(袖で客を鎮める役)などやれるかと言って来ようとしない。半次が惚れている娘が楽しみに待っていると言われると、自慢の緋縮緬のフンドシを見せびらかそうと颯爽と登場。ところが湯屋から慌てて出てきたときに肝心のフンドシを締め忘れてきたので、見物の連中は半次の下半身を見て、「すごいね、本物かいアレ」と騒然。シモネタ
〈かんしゃく〉 小三治ならではの、夏の人情噺
裕福な実業家に家の中のことでガミガミ怒られて嫌気さした奥方が実家に帰るが、父親に諭されて戻る・・・・
8代目文楽の十八番。当時の風俗を取り入れたのは文楽の工夫
小三治は高座の上に市井の人々の日常を描き出し、「人間って、なんて可愛いものだろう」と思わせ、そこに笑いが生まれ、ときにホロリとさせられる
〈堪忍袋〉 喧嘩しながら仲がいい夫婦を快演
喧嘩ばかりしている職人夫婦を見兼ねた馴染みの旦那が、中国の「腹の立つことはすべて瓶の中に語り込んで、人前では笑顔を絶やさず出世した男」の故事を引用し、袋を縫ってその中に言いたいことを全部吐き出せとアドバイス。その場は収まったが、それを聞いた長屋の連中が皆真似したため、袋がパンパンに膨れ上がり、遂に堪忍袋の緒が切れて悪口雑言の数々が飛び出していく・・・・
比喩表現である「堪忍袋」を具現化して見せただけの他愛もない話だが、上手い噺家が演じると何とも楽しい
〈巌流島(岸柳島〉 町人たちの無責任さが際立つ面白さ!
満員の渡し船の中で煙管(きせる)をふかしていた侍が船縁で火玉を払うと雁首が川に落ちた。それを見た屑屋が、残った吸い口を買い取りたいと言ったのが侍の勘気を被り、あわや手打ちになりかけたところを老侍が割って入り、代わりに詫びようと言うと、真剣で立ち合いだと言い出したので老侍は船を岸に着けさせる。先に飛び降りた侍を見て老侍は槍で岸を突き船を川に戻す。怒った侍は着物を脱いで川に飛び込んだ・・・・
志ん生が得意とした。上方落語〈桑名舟〉を江戸に移したもので、〈岸柳〉の表記が主流
〈禁酒番屋〉 酔った役人の、描写の丁寧さが絶品
酒の上での間違いから家中に禁酒を命じたが、酒豪の侍が1升届けろと注文。酒屋はカステラに偽装して持ち込もうとするが番屋の役人に見咎められ没収される。油屋の格好をしてもまた没収。番屋に飲まれて悔しかった仕返しに小便を入れて持ち込もうとする
5代目小さんが得意としたが、小三治の神髄は、全体の中で小便屋云々の占める割合が少ないことにあり、シモネタ臭さを最小限に抑えている
〈金明竹(きんめいちく)〉 「コミュニケーションの破綻」の可笑しさが肝
与太郎が道具屋の店番をしていると、上方言葉の来客が由緒ある古道具を持ち込み口上を早口で述べるが、与太郎だけでなくおかみさんまで全然聞き取れず大弱りという話
小三治初期の十八番。いわゆる前座噺。今は関西弁が聞き取れないという設定にはリアリティがないので、談志は津軽弁にしたが、小三治は、店の主人に言われたことをいちいち曲解したことも含め、方言の要素を希薄にして「コミュニケーションの破綻」として描く
小三治の落語は、どの演目でもそうだが、噺の設定に自由度が大きく、その傾向は強まる
〈甲府ぃ〉 滋味溢れる芸風で、後味の良さも格別
甲府から江戸に出てきてスリに遭い一文無しになった男が、おからを盗み食いしようと忍び込んだ豆腐屋に、同じ宗旨の縁で奉公することになり、勤勉な働きを認められて一人娘の婿になるという人情噺
淡々としたストーリーが今の小三治の滋味あふれる芸風と合っていて、市井に生きる庶民のささやかな幸せを生き生きと描き、実に後味が良い
〈小言幸兵衛〉 今日も絶好調な幸兵衛さんに会える幸せ
小言の多い家主が、空き部屋を借りに来た豆腐屋や仕立て屋に難癖をつけて追い返す噺
自分が見回らないと世の中マトモにならねぇ! と義憤に駆られて小言を言いまくる幸兵衛を描くのがポイント
〈小言念仏〉 いつ聴いても面白い、小三治の十八番
惰性で毎日のおつとめの念仏を唱えながら、ひっきりなしに家人に小言を言ったり指図したりする男の日常を切り取った噺
義憤にかられた幸兵衛と違い、ただ家の中の細かいことが気になるだけ、小三治はそれをリアルに描くことで、何回聴いても飽きない代表作に仕上げた
〈五人廻し〉 小三治の演出に衝撃を受けた一席
吉原で花魁が一晩で何人もの客の相手をする「廻(まわ)し」を題材にした噺。前払いした金を返せと八つ当たりする5人の客を描くが、演者によって客種はまちまち、サゲも異なる
小三治で特に面白いのが4人目、若い衆を小使い呼ばわりする男で、最後は女郎買いの目的を大上段に説きまくり、満たされない欲望に泣き出してしまう
〈子別れ〉 「中」だけでも人情噺として聴き応え満点
大工が酔った勢いで吉原に繰り込む「上」、何日も吉原に居続けた後家に帰って夫婦喧嘩になり女房と子を追い出す「中」、3年後に子と再会し女房とよりを戻す「下」の3段からなるが、「上」は〈強飯(こわめし)の女郎買い〉、「下」は〈子は鎹(かすがい)〉として独立した演目になり、特に〈子は鎹〉は親子の情を描いた人情噺の名作として人気
小三治の最大の特徴は「中」を同等のバランスで演じること。「中」だけ掛けることもあった
〈蒟蒻問答〉 八五郎の軽さがたまらなくいい!
わけあって江戸にいられなくなった八五郎が、安中の蒟蒻屋の親分の世話で寺を守るエセ坊主に落ち着いたが、諸国行脚の雲水が問答に来たことを知って夜逃げ、代わって親分が住職に成りすまして対決、何を言っても知らん顔の親分を「無言の行」と勘違いした雲水が手真似で問答を仕掛けたが、親分の応対をみて問答に負けたと逃げ帰る
〈猿後家〉 女は単純だけど男はもっとバカ、を小気味よくみせる
優雅な後家暮らしの唯一の悩みが「顔が猿にそっくり」なことで、奥様の前では「サル」という発音が厳禁。ご機嫌を取って小遣いをせしめようと、途中までは上手くいったが・・・・
〈三軒長屋〉 小三治版は、後半が面白い
鳶職と剣術道場に挟まれた三軒長屋に住む妾が、両隣がうるさいと旦那に苦情を言うと、「いずれ長屋を自分のものにして両隣を追い出す」と旦那に言われたのを妾が井戸端で吹聴。それが鳶職の女房の耳に入り・・・・
〈三年目〉 独白のしみじみとしたトーンが胸に沁みる
仲睦まじい美男美女の若夫婦、病で死を覚悟した妻が、「後添えを貰うことを思うと気がかりで死ねない」と訴える。男は「後添えを貰った時はその晩の枕元に出てきてくれれば誰も寄り付かない」というのを聞いて妻は安堵して死んでいく。暖簾を守るためという言葉に負けて再婚することになるが、いくら待っても枕元に妻が出てこない。子供もできたあと3回忌になって漸く出てきて「恨めしい」というから、男は「なぜ今まで出てこなかった」と問うと・・・・・
〈三方一両損〉 喧嘩っ早い江戸っ子たちを生き生きと描写
講談『大岡政談』のエピソードを落語にしたもの
小三治は、「喧嘩っ早い江戸っ子」の2人を生き生きと描く
〈鹿政談〉 “あの人”をモデルにした、奉行の存在感が最高!
鹿を殺したら死罪とされる奈良で豆腐屋を営む正直者の与兵衛が、犬と間違えて鹿を殺してしまったが、名奉行の温情に満ちた裁きで救われる噺
桂米朝でお馴染みの上方落語。2代目小さんが東京に移植。小三治のは奉行が最高
〈品川心中〉 愚かさと哀しさをたっぷり描き、しみじみ面白い
かつて板頭(いたがしら:ナンバーワン)だった品川の女郎が、衣替えする紋日(もんび)の披露目の金も工面できないほど落ちぶれたのを苦に馴染みの客と心中しようとする噺
〈死神〉 飄々とした死神で、重々しい大ネタを、軽く落語らしい味わいに
借金だらけの男が死神に出会い、「病人に憑いた死神を追い払う呪文を教えてやる。ただし足元の死神だけで、枕元の死神には手を出すな」と言われ、医者になって最初は大儲けしたが、やがていつも枕元に死神がいるようになって元の貧乏暮らしに。切羽詰まった男は一計を案じて枕元の死神を追い払って大金を得るが、とんでもない結末に・・・・
圓生十八番の重々しい大ネタだが、小三治の死神は左卜全をモデルに飄々と描く
〈芝浜〉 愛すべき夫婦を描くことに専念し、温かい人情噺に
腕のいい魚屋なのに酒ばかり飲んでゴロゴロ。久しぶりに行った河岸で大金の入った財布を拾い、豪勢に飲み食いして酔い潰れた魚屋が目覚めると、女房に「大金を拾ったのは夢だ」と言われ呆然、「そこまで根性が腐っていたのか」と心を入れ替えて酒を断ち、真面目に働き人並みの幸せを手に入れる。3年後女房が、「あれは嘘じゃなかった。お前さんを立ち直らせるための嘘だった」と詫び、もう飲んでもいいと勧めると、魚屋は「また夢になるとけねぇ」と言って酒を口から離した
3代目三木助の売り物だったが、小三治は三木助の〈芝浜〉は好きではないと言って独自色を出す
〈宗論(しゅうろん)〉 今の「宗論」の面白さの原型は、間違いなく小三治にある
キリスト教かぶれの若旦那を苦々しく思った父が、「うちは代々浄土真宗だから、阿弥陀仏を信心しなさい!」と若旦那を叱る噺
古くは仏教内での対立だった噺。8代目春風亭柳枝の演目、小三治が広めた
36歳で演ったのは、若旦那が奇天烈なキャラクターを炸裂させる爆笑編
48歳で演ったのは、父親のヒートアップする様子の滑稽さが前面に出た「父と子の断絶」噺
63歳で演ったのは、「ある大店の日常のヒトコマ」を描く。子を思う親心が息子に通じない哀しみのようなものまで感じられ、自然に笑いがこみ上げる噺に大きく変化
〈素人鰻〉 それぞれの人間性を浮き彫りにして、現代に通じる噺に
明治新体制で禄を失い、鰻屋を開業した士族の噺。汁粉屋をしようと思ったが、酒癖の悪い鰻割(さ)き職人に鰻屋を勧められ、職人を「酒を断つ」との約束で雇うが、酒癖の悪さは直らず、怒った旦那に「出てけ!」と言われ出たっきり翌朝になっても帰らない。意地を張って旦那は自ら鰻を割こうとして…。やっと掴んで捌こうとして手を切り、「血止め!」と叫ぶとおかみさんが「だから汁粉屋にしておけばよかった」と言い出すのがハイライト
文楽の十八番だが、小三治のは酒がやめられない職人と侍気分が抜けない旦那とを描く人間模様があってこそ、「素人が鰻を捌く」後半のが活きる
〈千両みかん〉 番頭と一緒に、ハラハラドキドキを堪能できる
みかんが食べたくて思い煩い寝込んだ若旦那に、番頭は安請け合いするが、夏の盛りでみかんなどどこにもない。「息子が死んだら主殺しは逆さ磔だ」と主人に脅かされた番頭、やっと問屋で1個見つけるがなんと千両、主人は躊躇せず買う
上方の演目で、東京では志ん生がやっていた
恋煩いで寝込む〈崇徳院〉に似た設定だが、惚れた相手がみかんというバカバカしさが実にいい。だからこそうっかり買ってくりゃ済む話だと言ってしまう。良く出来た噺
〈粗忽長屋〉 自由に動き回る、愛すべき粗忽者たち
雷門の人だかりを割って入ると死体があって、「熊の野郎だ!」と仰天し、長屋の熊に知らせに行くと、熊はそれを聞いて動転、自分の死骸を引き取りに行くことに・・・・
マメでそそっかしい男と無精でそそっかしい男を演じ分ける5代目小さんを見事に継承しただけでなく、それを超越したのが小三治
〈粗忽の釘〉 主人公が身近に思える、粗忽噺の最高傑作
引っ越し当日、箪笥を背負ったまま道に迷い、疲れ果てて新居に辿り着いた粗忽者の大工。「壁に箒を掛ける釘を打っとくれ」と頼まれ8寸釘を打ったため、隣家に飛び出しそれを詫びに行くが、とんだドタバタを繰り広げる
小三治の〈粗忽の釘〉こそ「粗忽噺」の最高傑作。いかにもその辺にいそうな、身近な存在に見えてしまうところが面白さを増している
〈大工調べ〉 必死に毒づこうとする与太郎の可愛さが格別
仕事が入ったのに道具箱を店賃のかたに大家に持っていかれた与太郎が棟梁にいくらだと聞かれて1両2分800というと、棟梁は1両2分持たせて大家に行かせるが、大家に足りないと言われて、棟梁に言われた通り「800ぐらいアタボウだ」とそのまま行ってしまったために、大家は態度を硬化。話を聞いた棟梁は慌てて詫びに行くが、うっかり口を滑らせて「たかが800」と言ったため大家は激怒。「雪隠大工(便所しか作れない大工)」と蔑む大家の因業さに棟梁の怒りも爆発、奉行所に訴え出ることに…
本来は大岡政談もので、お裁きにより大家が質株を所持せず道具箱を預かったことを咎められて棟梁が勝訴、奉行が「さすが、大工は棟梁(細工は流々)」というと、棟梁が「調べ(仕上げ)を御覧(ごろう)じろ」と答えてサゲとなる
〈高砂や〉 他愛のない日常に落語の深みを感じさせる
若旦那と問屋のお嬢さんの婚礼の仲人を頼まれた八五郎が、隠居に羽織袴を借りに行くと、仲人ならお開きの時に《高砂》を披露するといいと言われ、冒頭だけ教えてもらい、そこまで歌えばあとは誰かが付けてくれると言われたが、誰も付けてくれず途方に暮れる
〈たちきり〉 シンプルな型にたっぷり込めた情感
芸者と恋仲になった若旦那の浪費を咎められ、100日間蔵に押し込められる。毎日のように芸者から手紙が来たが、ある日を境に来なくなった。100日後蔵から出た若旦那が最後の手紙を見て駆けつけた芸者置屋で見たのは芸者の位牌だった・・・・・
純情な男女の悲恋を描いた上方落語の大ネタ〈たちぎれ線香〉を東京へ移植した演目
〈短命〉 当たり前の暮らしの幸せが伝わる艶笑噺
植木職人の八五郎が、出入りの大店のお嬢さんが迎えた婿が亡くなったので、隠居にお悔やみを教わりに行く。婿が亡くなるのは3人目で、何であのお嬢さんはそんな不幸な目に遭うのかと訝る八五郎に、隠居は「店は番頭任せで暇な若夫婦、飛び切りのいい女とくれば、亭主は短命だ」と教えられ、家に帰って女房を前に「俺は長生きだ」・・・・・
艶笑噺。5代目圓楽、立川談志が独自のギャグを大量に投入して現代的な爆笑噺としたが、小三治のは5代目小さんの型に準拠し、「長生きをがっかりする」サゲの可笑しさに焦点
〈千早ふる〉 小三治の魅力を語る上で欠かせない演目
在原業平の歌の意味を聞かれた八五郎が町内の物知りの先生に教わりに行くと、知ったかぶりの先生が、相撲取りと花魁の因縁物語をでっちあげて聞かせるという噺
物語にすっかり引き込まれて聞き惚れる八五郎と同じような状態に観客を持っていくことができるのが小三治。知っている噺なのに、初めて聴くように引き込まれる。最高の落語とはそういうものであり、それを可能にした状態が「名演」と呼ばれる
親友の入船亭扇橋が聴いて泣いたというから小三治も別格だが、それを聞いた小三治も扇橋を褒めた
〈茶の湯〉 デタラメ「風流」に目覚めたご隠居が愛おしい
根岸に転居したご隠居が、風流な遊びとして自己流の茶の湯を始めたが、抹茶の代わりに青きな粉を用いて泡立てたため不味くて飲める代物ではないが、ご隠居は客を呼んで飲ませようとするから大騒ぎ・・・・
3代目金馬の売りもの。「知ったかぶり」の可笑しさを描く噺だが、小三治のは、若い頃から商売一筋で遊びを知らずに生きてきたご隠居がデタラメな茶の湯に興じて風流だと喜んでいる、その可愛さが肝
〈長者番付〉 この演目をこんなに面白く演れるのは小三治くらい
旅の江戸っ子が田舎の酒屋で「1升飲ませろ」というと酒屋はそんな端は売れないと言われ、「このウンツクめ!」と悪態をつく。それを咎めた酒屋は「酒を飲ませる」といって中に入れ、村の若い衆を呼び込んで取り囲み、悪愛の意味を追求。怖くなった江戸っ子は、長者番付の東西の大関、三井と鴻池の逸話を聞かせ、「ウンツクとは運が付くことだ」と言い逃れして難を逃れる。「ウンツク」という言葉に馴染みがなくなり面白味が薄れる
〈長短〉 面白いのは短七のリアクション
気の短い男(短七)の家を気の長い男(長七)が訪ねる噺
5代目小さんの十八番を小三治が数段パワーアップ
ヘタな演者は長七をやたらスローモーに演じて笑わせようとするが、小三治の場合面白いのは短七のほうで、リアクションがいちいち面白い
〈提灯屋〉 「よく出来た噺」を小三治がパーフェクトに演じる
チンドン屋のチラシが読めない若い連中が集まって隠居に読んでもらうと、提灯屋の開店でどんな紋でも描くと言い、描けなければお代はいらないというので、若いもんが無理難題を吹っ掛けて提灯をただで貰っていく・・・・
サゲに上方の言葉が出てくるので、をれを理解させるために予め「大阪がスッポンをマルといい、鶏をカシワという」と仕込んでおく
〈付き馬〉 「騙す客」のフワフワした魅力は小三治ならでは
客引きの若い衆の目を付けた相手が「茶屋に貸してある金を取り立てに来たところで、今は金がない。明日手紙を書いて届けさせる」というのを信じて登楼させたが、散々飲み食いした翌朝、「手紙というわけにもいかないので一緒について来てくれ」というのでついていくと、あちこち寄り道した挙句早桶(円筒状の粗末な棺桶)屋でまいて逃げてしまう。早桶屋が若い衆に「大一番小判型の棺桶を頼まれ困っている」とこぼしたところで、若い衆はそれが自分のために注文されたものだとわかって初めて逃げられたと知る・・・・
志ん朝は、ポンポンとまくし立てて有無をいわさず若い衆を丸め込んでいくテンポの良さが心地好かったが、小三治の場合、若い衆が自然と男のペースに巻き込まれていしまうところがいい
〈出来心〉 リアリティあふれるやりとりに、名人芸を体感
新米泥棒が空き巣狙いを試みて失敗する話。留守と思って入り込んだ家で羊羹を食べていると、2階から人が下りてきて、苦し紛れに「サイゴベエさんのお宅はどちら」と訊くと、「サイゴベエは俺だ」と言われて仰天して逃げ出す。ここで切る演者も多く、〈間抜け泥〉とも呼ばれる。後半は人家に潜り込んでオジヤを食べていたら、主の八五郎が戻ってきたので床下に隠れると、八五郎は家賃滞納の言い訳にしようと大家を呼ぶ。あれも盗られたこれも盗られたというのを聞いて、床下から泥棒が「何も盗っちゃいねぇ」・・・・。八五郎が盗品の説明で「裏は花色木綿」と繰り返すところから、後半の噺を別名〈花色木綿〉ともいうが、小三治がそう言ったところ、5代目小さんから〈出来心〉ってんだと注意された
小三治の代表的演目の筆頭。登場人物全員がどこにでもいそうなリアリティを感じさせるところに小三治の面白さがある
〈天災〉 すべてが小三治流の自然体!
乱暴な八五郎がご隠居に「心学の先生の話を聞いてこい」と言われ紅羅坊名丸(べにらぼうなまる)という先生を訪れ、「腹が立つことがあっても天災だと思ってこらえる」という堪忍の心を教わる。紅羅坊の例え話に感心した八五郎が、聞きかじりの「天災」を隣の熊に説こうとして失敗する
〈転宅〉 女の色香に舞い上がる泥棒の可愛さがケタ外れ
浜町の妾宅から2人が出ていくのを見て忍び込み飲み食いする泥棒。帰ってきた妾に居直って凄むが、女は「私も泥棒」と言って動じない。旦那と別れ話が出ているので女房に貰ってくれと言われ、明日また来てくれと丸め込まれ、ウキウキと翌日やってくるが・・・・
小三治のは、最初の飲み食いする場面の描写が秀逸
〈道潅〉小さん一門が入門して最初に教わる噺
ご隠居から若い日の道潅の逸話を聞いて感心した八五郎が、長屋に帰って真似をしようとして失敗する噺
前座噺の代表格だが、小三治のはなぜか商品化されていない
〈道具屋〉 何通りもサゲがある伸縮自在の話を小三治が演じると・・・・
30過ぎても仕事をしない与太郎に伯父さんが露店の古道具屋をさせる噺
4代目小さんがこしらえた型を5代目が磨いて、ポピュラーな話として定着
客の数次第で伸縮自在、何通りものサゲが存在
〈時そば〉 「時そば」かくあるべし、という名演
最も有名な落語の1つ。大阪の〈時うどん〉は、2人組が15文しか持っていないので誤魔化して1杯を食べ、翌日同じことを1人でやろうとして失敗する話なのでだいぶ違う
究極の完成形である5代目小さんの型を現代に受け継いで自分のものとしている
〈富久(とみきゅう)〉 久蔵の人間像を浮き彫りにして、深みのあるドラマに
酒癖の悪さから贔屓客をすべて失って貧乏長屋暮らしの幇間(たいこ)が知り合いから富くじを買い、お札を大神宮様のお宮にしまう。大事な旦那の町内の火事に駆けつけて旦那への詫びが叶うが、自分の長屋も火事に遭って旦那の所に居候している間に富の当日、1等の千両が当たって大喜びするが、お札がないともらえないと言われ絶望する幇間だが・・・・
〈長屋の花見〉 台詞廻しの端々に楽しさが滲み、新鮮な一席に
貧乏長屋の大家が店子を集めて花見に誘う噺。一升瓶には番茶が、お重にはかまぼこに見立てた大根とあって花見は盛り上がらない。「大家さん、近々長屋にいいことがありますよ、酒柱が立った」でサゲる
〈夏どろ〉 お人好しの泥棒と図々しい男、どちらも実に魅力的
裏長屋に入り込んだ泥棒が、寝ていた男を起こして匕首を突き付け金を出せと脅す。男は大工で、博打で無一文、道具箱も質屋に入ってどうしようもない、いっそ殺してくれと言い、逆に泥棒が、そんな了見は良くないと宥めて5円渡し道具箱を出して来いという。大工はさらに金を要求し始めて・・・・・
大工の噺に引き込まれるように次々と金を出していく泥棒は、小三治独特の描きかた
〈錦の袈裟〉 30代に完成していたレパートリー
緋縮緬の長襦袢を揃えて吉原に行った隣町に対抗して、質流れの錦を揃えて繰り出そうとしたが与太郎の分だけ足りない。女房が、「親戚に狐が憑いたと言って和尚さんに錦の袈裟を借りておいで」と策を授けられ、それを褌にして繰り出したところ、錦の褌をしているのはよほど高貴な人の隠れ遊びと誤解され、「1人だけ褌に輪がついているからあれが殿様だ」と与太郎だけモテモテ・・・・
若い頃は小三治ならではのレパートリーの1つ
〈二人旅〉 寄席の流れの中で軽く聴かせる噺
旅に出た江戸っ子2人が田舎の茶店に入ってみたが、酒は不味いし碌な食べ物もなく散々な目に遭う。その後は〈長者番付〉に繋がっていく噺
「寄席の流れの中で軽く演る噺」という位置づけ
〈二番煎じ〉 冬の寒さの中で楽しくなっていく様子を鮮やかに描く
冬の江戸の夜は火事が多いので、町内で旦那衆が自主的な見回りを始める。寒さ対策で一人が酒を出すと別の旦那が猪(しし)鍋を用意。楽しく酒盛りをしていると見回りの役人がやってきた。火の番小屋で酒盛りなど役人に見つかったら大変なことになると大慌ての一同だったが・・・・
冬を代表する名作落語の1つ。5代目圓生の十八番。現役世代では志ん朝と小三治が双璧
〈睨み返し〉 小三治の表情の変化を存分に楽しめる!
大晦日で借金に喘ぐ夫婦の所に、「借金の言い訳をする」という男が通りかかり、言われるままに1時間2円払って頼むと、やってきた借金取りに対して何も言わずただ睨みつける。その気味悪さに耐えられず借金取りが次々に追い返されていく
3代目小さんが大阪から持ってきた噺。小三治のは「三者三様のビビッて逃げ返る借金取りの描写が実におかしい
〈猫の災難〉 熊五郎の心理が手に取るようにわかる
酒が飲みたいのに銭がない熊五郎、猫が病気の見舞いでもらった尾頭付きの鯛の骨を捨てようとするのをもらい受け、すり鉢を被せると頭と尻尾がはみ出るくらいの大きさ。「奢るから一杯やろう」と誘いに来た兄貴が、すり鉢からはみ出した鯛を見て、「あれで飲もう」と酒を買いに行く。いまさら骨だけとも言えず、目を離した隙に猫が食べてしまったと嘘をつく。兄貴は「じゃあ鯛を買ってくる」と出かけるが、その間に熊五郎は酒を飲んで仕舞い、またもや猫のせいにしようとする
5代目小さんの十八番の中でも1,2を争う傑作。小三治も継承して十八番にしている
〈猫の皿〉 道具屋が頑張るほどに可笑しい、小三治の「猫の皿」
掘り出し物を探して地方を回ったが収穫のなかった道具屋。江戸への帰り道に立ち寄った茶店で猫が食べている皿が高麗の梅鉢と見て、猫を3両で買い取り、「飯をやるのにその茶碗も」と手に入れようとするが・・・・・
意外な結末となる皮肉なサゲが秀逸な小品。一度聴けば2度目以降の衝撃はないのに、道具屋と茶店の親父のやりとりで聞かせる
〈鼠穴〉 田舎言葉の上手さが迫真の会話を生む
田舎で父の遺産を折半相続した兄弟。江戸に出て身代を築いた兄の所へ、遊んで使い果たした弟が「奉公したい」と転がり込む。「人に使われるより自分で商売しろ」を兄が貸してくれた元手が僅か3文と知って弟は発奮。10年後大店の主人になり兄に3文を返しに行くと、兄は「お前を発奮させるためにしたことだ」と詫び、弟も感激して飲み明かす。店に火事でも出たらと心配する弟に、その時は自分の身代を譲ると約束。帰ってみると火事で焼け落ちたので、兄の所に戻って借金を申し出ると、あの約束は酒の上だと反古にされる。絶望したところに娘からも「私を吉原に売って」と言い出される・・・・
人間の心の恐ろしさを描く残酷なドラマ。衝撃の結末が待つ
全編の会話が田舎言葉で進行。小三治は「落語国の田舎言葉」が実に上手い
〈寝床〉 名人たちの型を咀嚼して、独自に再構成
大店の旦那が長屋の住人や奉公人に酒肴を出して自らの義太夫を聞かせようとするが、とても聞くに堪えず、みな理由をつけて聞こうとしないので、旦那が怒って長屋から追い出し奉公人は暇を出すと言い出したので、渋々聞くことになるが、御簾内でみっちり語っていた旦那が御簾を上げてみると皆熟睡していた・・・・
8代目文楽の十八番。主人公の旦那の描写に力点を置いた文楽の名人芸より、その後志ん生が「旦那の義太夫の恐ろしさ」を徹底的に戯画化することに集中し、「旦那に振り回される人々」にスポットを当てた志ん生、小さん以降の演じ方が人気になっている
〈野ざらし〉 若い頃からよく高座に掛け、間違いなくウケる噺
隣の浪人が若い女を連れ込んでいるのを目撃した八五郎が問い詰めると、「釣りに出掛けた向島で野ざらしになった人骨に出くわし、手向けの句を詠み回向の酒をかけたところ、幽霊が礼に来た」というので、早速「俺も骨(こつ)を釣って女に会いたい」と浪人の竿を借りて向島へ。骨を見つけて酒を掛け自分の住所を言って帰宅。それに聞き耳を立てていた幇間が女との約束だと思い込んで祝儀目当てに八五郎の家へ・・・・・
怪談噺を初代圓遊が滑稽噺に改作したもの
女の幽霊を待つ八五郎の所へ男が来たので、「誰だ」と訊くと「新朝(しんちょう)というタイコで」というので、「新町の太鼓? しまった、あれは馬の骨だった」というのがサゲ。江戸の「新町」に太鼓の店が多くあったこと、和太鼓の皮に馬の革が使われていたことと引っ掛けてあり、あらかじめ知識を仕込んでおかないと意味が分からない。そのため、釣りに行くところまでで切る演者が多い
小三治の十八番に挙げる人は多く、「時間が許せばサゲまで演る」のが特徴
〈初天神〉 父と息子の日常のヒトコマを別格の上手さで魅せる
初天神のお詣りに出かけた父親が、縁日の屋台目当てでついてきた息子にあれ買えこれ買えと言われて閉口する噺。途中から父親の方が凧揚げに夢中になって、「こんなことなら、おとっつぁんなんざ連れてくるんじゃなかった」と息子が嘆くのがサゲ
日常のヒトコマを演る小三治は抜群に上手い
〈花見の仇討〉 登場人物の描き分けが文句なしにスゴイ
長屋の4人組が仮装して「巡礼兄弟の仇討」の茶番で上野の花見客をアッと言わせようと相談して稽古したが、当日ハプニングの連続で大変なことになる、という噺
〈備前徳利〉 小三治の専売特許と言うべき噺
備前池田公が諸大名を招いた宴で、酒豪の相手を見事務めて出世した大酒飲みの台所役が「備前焼の徳利の柄に私のことを刻んで広めてほしい」と遺言して亡くなる。跡取り息子は近習として参勤交代で江戸に出るようになると遊びを覚えお勤めが疎かに。息子を諫めるため父の霊が夜ごと枕元に現れ、息子は改心して吉原通いをやめ父と飲み明かすようになるが、ある夜を境に父がピタッと来なくなる・・・・
〈不動坊火焔〉 浮かれる吉兵衛、非モテ三人組、どちらも最高
長屋に住む講釈師・不動坊火焔が借金を残して客死。未亡人は評判の美人。大家が長屋でしっかり者の吉兵衛に、未亡人と一緒になって借金の肩代わりをしてくれと縁談を持ち込むと、かねがね好意を持っていた吉兵衛は大喜び。それを聞いて嫉妬したのが長屋のモテない3人組。夜中に講釈師の幽霊を出して脅かしてやろうとするが・・・・
上方落語を3代目小さんが東京に移植
〈船徳(ふなとく)〉 小三治の代表的な「若旦那もの」の一席
勘当されて馴染みの船宿の2階に居候している若旦那の徳兵衛が船頭をやりたいと言い出し、不運な2人連れの客が散々な目に遭う噺
文楽の十八番
〈文七元結(もっとい)〉 大ネタの美談を押しつけることなく、素直に聴かせる
腕はいいが博打に狂って借金だらけの左官職人が酔って女房に当たり散らすのを見兼ねた娘が、自分が吉原に身売りした金を父に渡して意見してくれと女将に頼む。娘を哀れに思った女将が50両を職人に渡して、「借金のかたとして娘を預かる」と告げる。帰り道職人は、吾妻橋から身を投げようとする商家の手代に遭遇、聞けば掛け金の50両を盗られ、旦那に合わす顔がないので死ぬという。説得に失敗し50両を叩きつけ、名乗りもせずに駆け去る・・・・
圓朝作。江戸っ子の心意気を描いた美談として歌舞伎にもなっている大ネタ人情噺
盗られた50両は置き忘れただけで旦那の元に戻り、もらった50両は出所が吉原というのを頼りに職人の元に戻り、娘は旦那が身請けし、それが縁で手代と娘が結婚して小間物屋を開き、独特の元結(髪を結う道具)を考案して繁盛した…というのが結末
〈木乃伊(みいら)取り〉 無骨な清蔵の描きかたの上手さはさすが
吉原に居続けた道楽者の若旦那を連れ戻そうと、番頭が行くが戻ってこない、続いて鳶頭が迎えに行くがこれまた戻らない。3人目に飯炊きが行くと田舎育ちの粗野な物言いに閉口した若旦那が「帰るから一杯やろう」と誘い、酔いが回った飯炊きが女に手を握られてのぼせ上がり・・・・
4代目圓生に始まり、戦後は6代目の独壇場。その正統的スタイルを真っ当に受け継ぎながら小三治自身の個性で完成させた一品
〈味噌蔵(みそぐら)〉 型は三木助、了見は可楽、描写は小三治オリジナル
途轍もなくケチな味噌問屋の主人。女房は金の無駄と独り身でいたが、親戚に説得されて渋々嫁を貰うとたちまちおなかが大きくなり、実家で生まれた子の祝いに出向いた隙に、不断碌なものを食べさせてもらっていない奉公人たちが番頭と相談し豪勢に飲み食い。そこに泊まってくるとばかり思っていた主人が帰ってきたからさあ大変・・・・
3代目三木助の十八番だが、小三治のは8代目可楽がベース
この落語で最も有名はフレーズは「ドガチャガ」。番頭が帳面を誤魔化して酒肴を都合するのを「帳面をドガチャガ、ドガチャガにする」という
〈もう半分〉 怪談に人情噺の奥行きを添えて
永大橋の袂で居酒屋を営む夫婦の所にみすぼらしい姿の老人が来て、茶碗に半分の酒を飲み干すと、「もう半分」「もう半分」といって飲み続ける。帰った後に置き忘れた風呂敷包から100両が出てくる。返しに行こうとする亭主を押しとどめて女房はその金で店を大きくしようという。老人が戻ってくるが、女房は知らぬ存ぜぬの一点張り。「娘が身を売って手にした金だ」と言っても居酒屋の夫婦は聞く耳を持たない。絶望した老人は身を投げる。やがて夫婦に子供が出来たら、その顔があの時の爺さんに瓜二つ・・・・
怪談だが、小三治や志ん朝が演るのは人情噺に変えている
瓜二つの赤ん坊が生まれたことで女房はショック死し、亭主が一人で育てようとするが、乳母が皆すぐ辞めてしまう。その理由を亭主が自分の目で確かめる場面がこの因縁噺のクライマックス
〈もぐら泥〉 小三治の手の長さが存分に生きる名作
盗みに入る家の間取りを調べて、穴を掘って敷居の下から手を入れ掛け金を外して侵入する「もぐら」という手口の泥棒。寸法を間違って掛け金に手が届かない。勘定が合わずに算盤を弾いていた亭主が突き出した手を見つけて、「この泥棒を警察に突き出して報奨金を勘定に回そう」と手を縛る。困った泥棒は通りがかりの男に「俺の背中から手を入れてガマグチから小さな刃物を出してくれと頼むが・・・・
手の長い小三治がそれを武器にした噺
〈百川(ももかわ)〉 圓生十八番を自らの十八番に
懐石料理屋「百川」に奉公し始めた田舎者の百兵衛。客に呼ばれて「ワシはこの主人家の抱え人で」と挨拶したが、訛りが酷く、客は「四神剣(しじんけん)の掛け合い人」と早トチリ。四神剣は、青龍・白虎・朱雀・玄武を描いた「四神旗」の通称で祭りには欠かせないものだが、客たちは前年の祭りの後に質屋に入れてしまい、祭間近になって隣町から催促に来たと思い込み大慌て・・・・。田舎言葉を聞き違えたところから始まるドタバタ劇
6代目圓生が名作落語に仕上げたが、小三治のを聴いた5代目小さんが「圓生さんより面白い」と言ったというエピソードがある
〈やかんなめ〉 この噺を抜きに、小三治は語れない
下女を連れて梅見に来た大店のおかみさん、蛇を見て驚いた拍子に持病の癪(しゃく)が出た。やかんを舐めると癪が治まるが持っていない。そこへ通りがかったのが見事に禿げ上がった武士。やかんにそっくりな頭を見て、下女が死を覚悟して頼み込んだが・・・・
誰も演らなくなっていた噺を小三治が発掘して得意ネタにしたもの
〈厄払い〉 与太郎の可愛さが共感を呼ぶ
与太郎が叔父さんに口上を教わって年越しの厄払い出掛ける噺。家々を回って厄を払う口上を言い、豆とわずかな祝儀をもらうという「厄払い」の風習は、江戸から明治にかけてのもので、上方では節分の儀式だったが、江戸では年越しの行事
8代目文楽の噺として知られる
〈宿屋の仇討〉 すべての人物を生かし、生身の人間ドラマに
旅籠に泊まった侍が、静かな部屋をというのに、夜になると隣で芸者を上げて騒ぎ出す。文句を言うと今度は相撲を取り始めてまたドシンバタン。また文句を言うとようやく寝る段になったが、寝物語に3年前の密通の話をしているのを聞いた侍が、「探していた仇にようやく巡り会った」と言い出した・・・・
上方落語の〈宿屋仇〉を東京に移したもの。3つのルートそれぞれに固有名詞が異なる
3代目三木助の得意ネタとして有名
〈宿屋の富〉 古今亭とは異なる、柳家の型を継承
旅籠に泊まった男が「金があり過ぎて困る」と豪語するのを聞いた宿の主人、千両富の札が1枚余ったのを1文で売りつけようとすると、はした金なんて邪魔と言われ、当たったら半分を引き取るという約束で売りつけたが、男はなけなしの1文を取られ無一文となった・・・・
上方落語の〈高津(こうづ)の富〉を3代目小さんが東京に持ってきた噺
〈藪入り〉 小三治演ずる父親に感情移入せずにいられない
10歳で奉公に出した1人息子が3年ぶりに初めての藪入りで帰ってくる。すっかり大人びた息子の態度に、「奉公はありがたい」と感動する夫婦だが、湯屋に出かけた息子の財布を覗くと15円もの大金が・・・・
3代目金馬が見事に完成させた噺
小三治のも母体は金馬だというが、帰ってくる前夜に息子の姿を思って夫婦があれこれ語り合う冒頭部分に重点を置く演じ方は小三治ならではのもの
息子の財布の15円はネズミを獲って交番に届けて懸賞に当たった金で、従来のサゲは「ネズミ」に引っ掛けた「これも忠(チュウ)のお陰だ」というものだが、小三治のは「ネズミ? そうか、それでつい、おまえがネコババしたと思っちまったんだ」と父が言ってサゲる
〈山崎屋〉 親友・扇橋が「また演ってよ」と懇願
鼈甲問屋の山崎屋。道楽者の若旦那が番頭に「店の金をくれ。帳面を誤魔化すのは初めてじゃないだろう」と言い出す。番頭がこっそり妾を囲っているのを知っての脅しに、弱みを握られた番頭は、際限なく金を持ち出して吉原通いするより、いきなり大店の跡取りに吉原の女を迎えるのは無理だが、親元身請けして町内の鳶に預けておき、大旦那が息子の嫁にと見初めるようもっていけばと仕向けたところ、万事うまくいって花魁は山崎屋の若旦那の女房に・・・・
6代目圓生の演目で、小三治は直接圓生から教わった
マクラでしっかり「吉原の常識」を解説してから本編に入る。「嫁が吉原の風俗を語っているのを、完全に取り違えて納得する大旦那」という後日談があってこそ生きる噺。北国(ほっこく、吉原のこと)を加賀藩と誤解し、花魁道中のことを本当の旅と思い込み、「そんなに足が速いとは、六部(六十六部)に天狗が憑いたのか」「いえ、三部で新造(見習い遊女)が付きんした」という会話を面白いと思えることこそ、落語の楽しみの1つ
〈湯屋(ゆや)番〉 能天気な若旦那を小三治が実に楽しそうに演じる
勘当されて職人の家の2階に居候している道楽者の若旦那が銭湯に働きに行き、番台に上がって妄想に耽る噺。三遊派と柳派では演りかたが異なり、前者は湯屋に行くまでが長く番台に上がる前から妄想全開だが、柳派はすぐに湯屋に紹介状を持っていく
客に「下駄がない」と文句を言われ、適当に高そうなのを履いてくれという。「出てきたら大変だろう」と咎めると、「いいんですよ。順繰りに履かせて、一番お終いは裸足で帰しますから」と言うサゲ
〈らくだ〉 ある長屋のドタバタ劇として描く「可楽流」
ラクダと渾名される乱暴者は長屋中の嫌われ者。ある日兄貴分が訪ねるとフグに当たって死んでいる。らくだ以上に凄味のある兄貴分は、通りがかりの屑屋を脅して長屋の連中から香典を巻き上げ、大家にも酒肴を出させようとする。大家が拒むと、死骸を担ぎ込んで「かんかんのう」(江戸から明治に流行った俗謡)をやったので、腰を抜かした大家は言いなりになる。さらに漬物屋も「かんかんのう」で脅して棺桶代わりの樽を調達。これで終わりと屑屋が立ち去ろうとすると、兄貴分がお清めに飲んで行けという。屑屋は大変な酒乱で、酔いが回ると兄貴分と立場が逆転、屑屋の主導で死骸を落合の焼き場に運ぶことに・・・・
上方落語の大ネタを3代目小さんが東京に移植
〈ろくろ首〉 小さん一門のお家芸。小三治が演るとトリネタにもなる
25にもなって母親と2人暮らしの松公が、結婚した兄を羨ましく思い、伯父に相談に行くと、「お屋敷に婿養子に行け」といわれる。お嬢さんは器量よしだが、夜中に首が伸びて行燈の油を舐めるという病気があって、婿が皆逃げてしまう。松公のようにボーっとしている奴ならいいのではとの勧め。松公も夜中には起きないから大丈夫と乗り気。いざ婿入りした夜中、珍しく目を覚ますと本当にお嬢さんの首が伸びて・・・・
5代目小さんの十八番。4代目が大阪から持ち帰った噺を5代目が今の形に完成させた
小さん一門の「お家芸」
取材嫌いが語った芸談
評者: 朝日新聞読書面 / 朝⽇新聞掲載:2014年09月14日
日本が誇る落語界の孤高の名人・柳家小三治を、膨大な時間をかけて聴いて綴った「小三治本」の決定版。ロングインタビューや主要演目90席の紹介のほか、小三治の名言、音源データ、…
なぜ「小三治」の落語は面白いのか? [著]広瀬和生
著者はヘビーメタル音楽誌の編集長で大の落語好き。とりわけ柳家小三治の高座を追いかけてきた。小三治本人が「よく観てますね、あなた」と感心するほどに。そんなファンによる小三治本だ。第1章のインタビューは読みごたえがある。「落語って面白くて楽しいんだけどね、哀しいんですよ、どっか。……落語はみんな哀しい」。笑わせようと、くすぐりを入れすぎる風潮には「笑わせないでもらいたい。笑っちゃうのはいいけど」。取材嫌いの小三治が芸についてこれほど語ったのは珍しい。
第2章では、「あくび指南」などの十八番(おはこ)をはじめ、主要な演目90席が愛情をこめて紹介される。名演を収めたCDやDVDのガイドとしても重宝。
◇ 講談社・1836円
紀伊国屋書店
出版社内容情報
日本が誇る落語界の名人、柳家小三治。その小三治を莫大な時間と情熱をかけ、追いかけて綴った、「小三治論」の決定版! 貴重なロングインタビューと、前代未聞の小三治聴きくらべ「九十演目」で読み解く、落語ファン必読の書!小三治の名言、音源データ、高座写真も多数収録!!
貴重なロングインタビューから、高座を見続けたからこそ感じえた独特の「小三治論」、そして小三治聴きくらべ「九十演目」まで。
小三治という落語家が、なぜこれほどまで高い評価を得て、人々から愛されるのかが一目瞭然。2014年、人間国宝に認定された稀代の噺家、そのすべてを味わいつくす、落語ファン必読の書。
内容説明
著者等紹介
広瀬和生[ヒロセカズオ]
1960年、埼玉県所沢市生まれ。東京大学工学部卒業。ヘヴィ・メタル専門誌「BURRN!」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、ほぼ毎日、生の高座に接し、最近では自ら落語会のプロデュースも手掛ける
柳家小三治さん死去 古典落語を追究、人間国宝 81歳
20枚組みCD「昭和・平成小三治ばなし」の発売を記念して開かれた落語会後の柳家小三治さん=7月23日
現役の落語家では唯一の人間国宝だった柳家小三治(やなぎや・こさんじ、本名郡山剛蔵〈こおりやま・たけぞう〉)さんが7日午後8時、心不全のため東京都新宿区の自宅で死去した。81歳だった。葬儀は故人の遺志により密葬で営まれた。喪主は長男尋嗣(ひろつぐ)さん。落語協会によると、お別れの会の予定はないという。
4年前に頸椎を手術し、今春も腎機能の治療などのために入院したが、そのたびに復帰。最後の高座は10月2日、東京・府中の森芸術劇場での「猫の皿」となった。所属事務所によると、7日夜に自室で倒れているのを妻が発見した。マネジャーには前夜、「俺もっと頑張るからな」と電話で話していたという。
東京都新宿区出身。高校3年のとき、ラジオ東京(現・TBSラジオ)の番組「しろうと寄席」で15週勝ち抜き。1959年、五代目柳家小さんに入門。69年に17人抜きで真打ち昇進、十代目柳家小三治を襲名した。
2010年から14年まで落語協会の会長を務め、若手の抜擢に取り組んだ。14年、五代目小さん、桂米朝に続いて落語家3人目の人間国宝に認定され、江戸落語界を代表する存在となった。04年「青菜」などで芸術選奨文部科学大臣賞。19年度朝日賞。
早い段階から古典落語の本格派と称された。「粗忽長屋」「千早振る」「初天神」といった滑稽噺では、現代でも見かける人間のおかしみを描写した。噺への導入部分のマクラも人気だった。話題をあちこちに振って客を引き込んだ。
オーディオや塩など多趣味で知られたが、年を重ねるにつれ芸に専念し、映画やテレビのドキュメンタリーの題材となった。
■立川談志と共通、「己落語」のよう
落語家の立川志の輔さんの話 マクラで人生の面白いことをしゃべって、師匠の立川談志と共通する「己(おのれ)落語」みたいなイメージでした。お客さんは「何のネタをやるのか」ではなく、「きょうの小三治が何を話すのか」を楽しみに来る。高座が落語界中に広がる、大きな存在でした。
<評伝>あたたかさのぞく、緻密な芸 柳家小三治さん死去
2021年10月12日 5時00分 朝日
ウソやタテマエは言わない。頑固で、一筋縄にはいかない、こわもての人という印象があった。でも、十八番のひとつ、主人公が小言を言いながら念仏を唱える噺「小言念仏」で、はい出してきた赤ん坊を「ばあー」とあやす姿には、あたたかさが感じられた。
本紙連載「語る 人生の贈りもの」と、著書「どこからお話ししましょうか 柳家小三治自伝」のためにインタビューを続けるうち、その自然体にふれることになった。
師匠が好きな映画「野菊の如き君なりき」を自らの初恋と重ねて話しながら、「もうだめだよ、涙出てきちゃったよ」と言う。昨年、朝日賞の贈呈式で「皆さんと約束したから」と、とり始めた朝日新聞を丁寧に読み、かつての戦争の記事に涙した。テレビのドキュメンタリーを見て「素晴らしかったねえ」と、落語会のあとの楽屋で激賞する。師匠行きつけの喫茶店のコーヒーをおいしいと言うと、我がことのように喜んだ。
30代後半の師匠が、雑誌の対談でホスト役を務めていたとき、相手の歌手に「どうしてあんなにうまく歌っちゃうんですか」と聞くよう担当編集者に言われたことの意味を、ずっと考えていた。うまく歌うと、歌の持っている心が隠れてしまう。だから「うまくやろうとしないこと」。そんな答えにたどり着いた。
「でも、それが難しい。じゃあ、下手なまんまでいいのかっていうと、そうじゃないんだよねえ」と笑い、「形を取り払って中身を、心を見ていくこと。すべてのものへの見方が変わっちゃった。落語の好みも、やり方も」と話した。
飄々としているように見えるが、考え抜かれた緻密な芸が支えていた。年を重ね、世の中の表も裏も知りながら、ふっと涙ぐむ純粋な感受性を持ち続けた。噺の登場人物や自分の心の動きに、正直に話そうとした。一見近寄りがたい、照れ屋で江戸前の師匠には、やわらかい心があった。(石田祐樹)
唯一無二、自由な人間落語 柳家小三治さんを悼む 落語プロデューサー・京須偕充さん
2021年10月12日 5時00分 朝日
■寄稿、京須偕充(きょうすともみつ)さん
柳家小三治さんと初めてことばをかわしたのは1973年の秋のことだった。ある若手の落語家の勉強会があって銀座のはずれの会場へ出向いたところ、オートバイから降り立った小三治さんと楽屋入り口で出くわした。初対面なのにすぐ打ち解けて楽屋の会話にふけることになったのは、小三治さんと私の趣味に複数の一致点があったためだ。
それは音楽とオーディオで、このとき以後、私と小三治さんとはどこかで顔を合わせると音楽談義、オーディオ論で時をすごした。
むろん、そのまた奥には「落語」がある。「落語」はすでにそのころ中堅若手の中枢部にいた小三治さんにとって、またレコード会社のディレクターだった私にとっても重要な人生の一部分だった。
その落語を傍らに置いて会話ができるということ。傍らのことである音楽とオーディオがあったからこそ、小三治さんとの交流は半世紀近く保たれてきたのではないかと思う。
80年代に入ると柳家小三治の存在感はますます大きくなった。圓生、彦六の正蔵は旅立ち、小さんは泰然と玉座を占めていて、東京落語界は志ん朝、談志、小三治を中心に動く時代になっていた。3人のなかでいちばん若い小三治の個性的な高座は光を増していた。
小三治は音楽やオーディオばかりでなくオートバイやら塩やハチミツに至るまで自分のテリトリーを拡げて、現代の花形落語家のあり方を率先して示し、そこに新しいファンが集まった。私も小三治のCD制作に着手した。
同時に上野の鈴本演芸場では年に数回の独演会を開いて次々、大ネタ(大作の噺)を演じこなした。少々異端の売れっ子でありながら芸の筋はオーソドックス。だがこの時期から「まくら」のエリアを拡げ話術の限界を一段と遠いところまで拡大して、いわば「小三治の大落語」と言うほどの高座世界を築いていった、と私は思う。
21世紀になって柳家小三治の高座はさらに変化をとげてきた。「まくら」はますます拡大して月並みなストーリーを述べる段階を捨て、自分個人の思いや感想を素直に述べて笑いを誘う境地に入っていた。売れっ子の若手がギャグを乱発して人気を稼ぐのを尻目に日常の中に非日常を見つける手法で、人間を、世の中を自由に語る。そんな誰も発見できなかった人間落語を、あるいは落語人間を日常の中に見つけて、それを高座で語る。そこに生き甲斐を見つけたのかとも思う。
江戸以来の東京落語は多くの名人上手を生み出して今日の隆盛に達したが、十代目柳家小三治のような、人間を語る、己を語る名手は過去に例がないのではないか。
それにしても互いに自己主張が強いのに、よくも数十枚の録音を一緒にやってくれましたと言ったら、小三治さんは僕たちには音楽があったからね、モーツァルト、ベートーベン、ブラームス……。今年の7月の末のことだ。これからは名曲を聞くたびに小三治さんを思い出すことになりそうだ。
はがき通信
2021年10月30日 5時00分 朝日
■まだ聴きたかった
17日の「日本の話芸 追悼・柳家小三治」(Eテレ)を見ました。放送された「千早ふる」は知らなかったので、一言一言もらさないように真剣に聴きました。聴いているうちに、話の中に吸い込まれました。顔の表情、身ぶり、手ぶり、間の取り方。本当の芸を見せてもらい感動しました。81歳で亡くなった小三治師匠。まだまだ聴きたかったと残念です。(福岡県糸島市・新井容子・主婦・72歳)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:1 ああ、これでお別れなのかなと
2017年10月30日 5時00分 朝日
■噺家・柳家小三治
年をとるっていうのは、突然来るんですかねえ。だんだんなんですかねえ。まあ、だんだんかなあ。年をとってるなんて、ちっとも思わなかったんだけどねえ。
クラス会に出かけて同級生たちを見ると、やっぱり年寄りだな、自分もこんな年なのかなって思ったりしますね。だけど私は、少年のまま、噺家になったときのまんまで、ずーっと来てるとしか思えないんですね。
《今年8月、変形した頸椎をなおす手術を受けた》
浅草演芸ホールでトリをとっていた5月の5日目ごろから、右手がきかなくなった。茶わんをとってお茶を飲むことができない。そのうちなおるかと思ったら、一向になおる気配がない。いくつかの病院でみてもらったら、頸椎だとわかって、京都の病院で手術することになった。
麻酔のため、綿を口にくわえて「深呼吸してくださーい。眠くなりましたか?」「全然」「じゃあ、もういっぺん。今度は、全部吸い切らないうちに眠りますよ」。
「なに言ってんだ?」って思ったら、ほんとに吸い切らないうちに寝ちゃったんです。あとは全然覚えてない。
そこに至るまでも、リウマチをはじめ、つねに病気を抱えていましたから、昔と違って、死はこわいと思わなくなりました。もっと生きてて、いい芸になりたい、っていうのはありましたよ。いつまでって終わりはないものだけれど、今日よりは明日、明日よりはあさって、っていう思いだけは強くありました。
だけど、麻酔がきく瞬間、最後にひと吸いするとき、ああ、これでお別れなのかな、さようなら、っていう気がどっかありましたね。
(聞き手 石田祐樹=全14回)
*
やなぎや・こさんじ 本名・郡山剛蔵(こおりやまたけぞう)。1939年、東京生まれ。59年、五代目柳家小さんに入門。69年、十代目柳家小三治を襲名し、真打ち昇進。2010~14年、落語協会会長。現在は同顧問。14年、重要無形文化財保持者(人間国宝)。飄々とした話芸が持ち味。
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:2 「柳家の十八番」で高座に復帰
2017年10月31日 5時00分
■噺家・柳家小三治
頸椎の手術のときは、痛いもつらいもなかった。終わってからは、まるで痛い。切ったところが痛いんじゃなくて首の重みを支えるために、肩や背中が凝るんでしょうね。
京都のその病院は、リハビリがないんですよ。それより歩け、京都は見るところたくさんありますよって。次の日から歩かされました。看護師さんが「日ぐすり」って言ったんですけど、日を追うごとによくなる感じ。東寺や御所なんかにも行って、最後は大原の三千院に行きました。
俳句会の仲間、永六輔さんが詞を書いた「京都 大原 三千院」っていう歌「女ひとり」を聞いてましたから。大原って言えば、大きな原っぱがあって、大原女がネギか何かをかついで「何とかはいらんかねえー」とか言って歩いてるところだ、と思ってたんです。永さんにもちょっと敬意を表しておこう、と思って行ったら、とんでもねえ山また山。うそつきだねえ、あの人は(笑い)。
《入院は3週間。退院から5日後の9月13日、岐阜県多治見市の落語会で復帰した》
舞台の袖から座布団までたどりつけるかしら、って思った。しばらくやらない間に、噺を忘れちゃってるんじゃないかっていう不安もありました。忘れるって言っても、もともとしっかり覚えたものはない。大体こんなもんじゃねえかっていうのに肉を付け、皮を張って、それらしいものを演じてたわけですけど。
何をやろうかは考えましたよ。おれのおしまいの高座になるかな、とも思いました。で、「粗忽長屋」。前座のころに覚えた“落語らしい落語”の理想。「柳家の十八番」と言っていい噺ですかねえ。
《長屋のそそっかしい男二人が巻き起こす騒動を描く》
昔から伝わってきた噺は、おもしろさが凝縮してますね。余計なことを考えずにその世界に入っていけます。お客さんの反応は、夢中でよくわからなかった。どうなっちゃうんだっていうところもありましたけど、あの日の「粗忽長屋」、おもしろかった。
(聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:3 父からの期待、反発に次ぐ反発
2017年11月1日 5時00分
■噺家・柳家小三治
私は自分のことに精いっぱいで、余裕のない一生を過ごしてしまいました。それは私の育ち方、育てられ方に、大いに関係がある。
《小三治さんの父・郡山繁蔵さんは、宮城県名取の出身。学校の代用教員だった》
石川啄木みたいなもんで、東京に出てきて小学校の先生になった。よほど頑張ったんでしょう。学校へ勤めながら師範学校に通って、のちには小学校の校長先生になった。学制80周年の式典で、教育功労者として表彰、天皇陛下から杯をいただいてきて、家族そろって、その杯を真ん中にして写真を撮った。それが、彼のいちばん大きな誉れだったんでしょうかねえ。
私にも、ほめられるようになれ、1番になれって言う。中学のとき、95点の答案をもらったことがありました。めったに取れない95点だから、「こういうの、もらったぞ」って見せたら、「前へすわんなさい」って、1時間半説教された。「なぜ100点取れないんだ」。えーっ、よくやったねと喜んだっていいじゃねえかと思ったら、100点以外は何の値打ちもないと。
私は5人きょうだいの下から2番目で、男1人です。期待して期待して、やっとできた男の子だったんでしょう。末は陸軍大臣だ、総理大臣だって思い描いてたんじゃないですか。とても迷惑しました。「こんな程度でいいんだよ」って言われてれば「それじゃ、おれが物足りない」ってなったかもしれない。親の言うことを聞いて、それに近づこうなんて全然思わなかった。反発に次ぐ反発。それでご覧ください。こんなになってしまいました(笑い)。
父親にはひょうきんな部分もありました。酒を飲むと、歌って踊ってね。得意なのは「木曽のナー、中乗りさん」っていう「木曽節」でした。
家から近かった新宿西口のマーケットへ一緒に行ったこともあります。クジラのベーコンを買って、家まで歩くあいだ、父親の外套のポケットに手を入れて、つかんじゃあ食う。楽しかったですねえ。「母さんには内緒だぞ」って。(聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:4 父も母も、寂しく生きてたのかな
2017年11月2日 5時00分
■噺家・柳家小三治
おふくろは、私の一生のテーマですねえ。こんな私に誰がした、っていう犯人でしょう。やさしい言葉なんか、かけられたことないですから。
伊達藩の隠れ城みたいな、宮城県の亘理というところの生まれです。半農半武、郷士のような家でした。「侍の子というものは腹が減ってもひもじゅうない」と、よく言ってました。父親に対しても強かった。学校に行けば立派な先生かもしれないけれど、家では何の役にも立たねえとか、子どもの前で言ってましたからね。
私が噺家になって数年がたった20代の半ば、おふくろが病気で入院し、しばらくぶりに家に帰ってきた。寝たきりになったら、姉や妹が言うことに「はーい」「はーい」って素直なんです。今が最後のチャンスかなと思って「なんで、もっと前からそういう素直なお母さんになってくんなかったんだよ」って言った。おふくろは、やや間を置いてから「だって、お前が素直じゃなかったからだよ」。もう、こいつとは、あの世へ行っても仲良くなれないって思ったね(笑い)。
母のことは、そんなにいやなら忘れちまえばよかったのに、いつも背中にくっついてますね。ひとの身になるっていうことのない人だったのかなあ。そういう意味では、かわいそうな女だったな。……でも、えらかったね。そこまで我を通せたっていうのは。
《小三治さんが演ずる落語「かんしゃく」では、かんしゃく持ちの夫に困り果てた妻が、実家に帰る。やさしい言葉をかける母親に、今そんなことを言ってはだめだ、と父親がたしなめる場面がある》
あそこはまあ、両親の理想像。あれをやることで、ずいぶん救われますねえ、私は。
母親だって一人の人間で、一人の女で、いろいろな育ちの中で成長していったんだろうと思う。父親も決して融通のきく人間じゃなかったし、夫婦で何か共通した楽しみを持つということは見受けられなかった。だから、父親も母親も、結局は一人寂しく生きてたんだろうなって思うんですよ。
(聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:5 貧しさ満たす、落語を好きに
2017年11月3日 5時00分
■噺家・柳家小三治
中学から高校にかけては、映画の「誰が為に鐘は鳴る」や「野菊の如き君なりき」のような、純粋な愛にひかれてました。年をとると、単なる女好きってことに片付けられちゃうんですけど。
《中学3年のとき、『落語全集』を立ち読みし、「長屋の花見」という噺に出会う》
戦後は、食うものに恵まれず、みんな代用品でした。お米の代わりにイモとか、焼け跡に生えてる雑草を湯がいて食うとか。庶民はそうやって生きていた。そんな中、「長屋の花見」は、お酒はないけど、番茶を薄めた「おちゃけ」を持っていこうとか、たくあんは黄色いから卵焼き、大根づけは白いからかまぼことか。それだけで、少年の心は満たされましたねえ。卵焼きなんて夢のまた夢、遠足のときに持たせてもらえるだろうか。かまぼこなんか、小田原に親戚があるやつはともかく、幻の食べ物でしょう?
それでわいわいやろうっていうのは、その時代を痛快に生きる知恵だったんでしょうね。貧者の、貧者でなければわからない強みですよ。食い物であれ、色気であれ、貧しいものを満たす、っていうのが落語の根底にはある。ぴったりな時代に出くわして、もう、好きになるよりしょうがなかったんじゃないですか。
それから、ラジオで落語の番組を聞いて、知ったと同時にやり始めた。中学の卒業式の謝恩会で、卒業生代表として「日和違(ひよりちが)い」という落語をやってるんです。出たがりだったんですかねえ。
高校では落語研究会に入った。覚えたてで、おもしろくてしょうがなかったんでしょう。昼休みにはみんな表へ出て、弁当を食うんですが、私のクラスはだれも表へ出ないで、教室で弁当を食いながらゲラゲラ笑ってた。なぜだろうって人だかりがするようになって、教室をのぞくと、一人の少年が何かやってる。落語や講談、時事漫談や先生のものまね。あのころは人気絶頂でしたねえ。昼休みにそなえて、私は3時間目が終わったところで弁当を食ってました。(聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:6 師匠の澄んだ目にほれた
2017年11月6日 5時00分
■噺家・柳家小三治
高校3年のとき、ラジオ東京の「しろうと寄席」っていう番組を聞いて、おれが出てもいいのかなと思って、出たら、15週勝ち抜きました。
でも、あれは実力じゃないですから。スターをつくりたいんです。「来週はダメです」って言うと、「大丈夫、10秒もたたないうちに鐘を鳴らすから」って。ほんとにすぐキンコンカンコン。ほめられることより中身を充実させなきゃ、っていう意志が固まっていくのでありましたよ。
で、受験のために番組を勇退にしてもらった。大学へ行かなきゃ一人前になれないと思ってたし、噺家になろうなんて全く思わなかった。でも受験に失敗して予備校に行くと、女の子が度の強いメガネで黒板をにらんでる。あんな気持ちで点数を取っても、人間にはならねえよ。それで最後の最後に、大学へ行かなくても生きてみせらあって、ケツまくっちゃったんです。
《1959年3月、19歳のとき、五代目柳家小さん(1915~2002)に入門》
「しろうと寄席」の審査員には、のちに師匠になる小さんもいた。あるとき、楽屋で二人きりになったんです。小さんは何も話しかけず、壁の一点をじーっと見てる。その目がすごく澄んでいた。それを見て、ほれたんですねえ。
父親の教え子に新宿末廣亭の若旦那がいまして、父親と3人で小さんのところに行った。父親が「これからは、噺家も教養のある落語をやらなきゃいけない。師匠からも、大学へ行くように言ってください」って言うと、私が「冗談言っちゃいけねえ。教養のある落語なんておもしろくねえ」って言ったそうです。
私が真打ちになったあとで、師匠は「こいつが入門したとき、こんなことがありました」って、人にうれしそうに話してた。世の中が進むほど、人間が本来持っている愚かしさや、ばかばかしさに気づかされたとき、人は心底、腹がよじれて笑うんじゃないか、って今も思います。私はずっと忘れてたんですけど、言いそうだね、おれなら(笑い)。(聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:7 「おもしろくねえな」と一刀両断
2017年11月7日 5時00分
■噺家・柳家小三治
五代目柳家小さんに入門してからは、噺家になるにはどうしたらいいんだ、っていうことしか頭になかった。地球から火星に行ったみたいで、今までの生き方が全く通用しない世界だった。呼吸の仕方から変えなきゃだめなんじゃないかって思ってました。
小さんのうちでは、一番初めは「道灌」っていう噺をやります。おもしろくない噺なんですよ。でも、師匠がやるのを聞くとおもしろい。自分がやると、あまりにもおもしろくなさ過ぎる。この距離を詰めるにはどうするかっていうのも大きなテーマでした。
前座から二ツ目になって、初めて師匠に聞いてもらったのは「長短」という噺です。
《どこか気が合う、気の長い長さんと、気の短い短七さんのやり取りだ》
寄席ではいやになるくらい受けてるから、師匠だってちっとはほめてくれるだろう、って思ってやったんです。師匠は腕を組んで、下を向いて聞いていた。終わると、ふっと頭を上げて「お前のはなしはおもしろくねえな」って言って、すっと立ち上がって床屋へ行っちゃった。「師匠! どこがいけないんでしょうか」なんて言える雰囲気じゃない。一刀のもとに斬り捨てられ、全身に電極をビリビリってやられた感じでした。
あとになれば、師匠の気持ちもわかります。ほんとにおもしろくなかったんでしょう(笑い)。でも、全否定されて考え込みましたよね。おもしろいっていうのは、どういうことだろう。笑うことか? でも、人情噺もあるんだから、人の心を感動させることか? それとも、日常の何でもないことを何でもないこととして表現することでも、人はおもしろいと思ったりするんだろうか、とか。
あの一言がすべての始まりです……と今思い至ると、涙が出てきますねえ。よくあのとき、小さんは私をそう言い表してくれた。こう言えばこいつは一人前になるぞ、なんて思ってないんですよ。そんな腹案、何にもない。だからこそ、重たいですよね。(聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:8 グサリと来た笑子の一言
2017年11月8日 5時00分
■噺家・柳家小三治
お昼の生放送、タモリがやってましたよねえ。そのずっと昔、50年ほど前に「お昼のゴールデンショー」っていう番組がありました。金曜が大喜利で、自分で言うのは変ですけど、一番の人気者だった(笑い)。それで結構知られるようになりました。ほかの番組からも話があって、落語の助けになるなら、とやってましたよ。よくなかったね。
そのころは29歳の二ツ目で、静岡の沼津へ独演会に行きました。私はボウリングに凝っていて、沼津でも一人でやっていた。そこへ、17、18歳くらいの女の子がつかつかっとやってきて、「ちゃんと落語をやってください。お願いです。テレビに出てガチャガチャしたことをやってほしくないんです」って言う。グサリと来ました。自分でもそう思ってるんだもの。
「どうもありがとう」と言ったものの、呆然としちゃった。しばらくして、通りかかった彼女が「あたし、何に見えます?」って言う。秋吉久美子より大原麗子に近かったかな。ちょっと庶民的な、鼻っ柱の強そうな。「あたし、芸者なんです」って。
その日、彼女は独演会を見に来なかったんですが、会場に新茶の缶が届いて、のし紙に「笑子(えみこ)」と書いてありました。私の真打ち披露があったのはそれから間もなくです。
《1969年9月、十代目柳家小三治を襲名し、真打ちになった》
その後、沼津へ独演会で行くたび、笑子の話をマクラに振りました。いつか座敷に呼んで、お礼を言うのが夢でした。10年以上たって、彼女が事故で亡くなっていたと知ります。彼女の育ての母にたどり着いて、その人がやっている旅館にも泊まりました。あくる朝、「お勘定を」って言うと「そんなものいただいたら、あの子に怒られちゃいますよ」って。つらいねえ。
私の「鰻の幇間(たいこ)」っていう噺に笑子が出てくるのは、それがあってのことですね。どっか自分の中で偲んでいたいなと。振り返って、ありがとうって人は何人かいますけど、あの子の存在は大きい。(聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:9 感覚違っても、芸への意見は一致
2017年11月9日 5時00分
■噺家・柳家小三治
《同じ五代目柳家小さん門下の兄弟子には、立川談志がいる。談志はのちに一門を脱退し、落語立川流をつくって家元となる。参議院議員も務めた》
談志さんはずっとあとになって、周りに人がいるところで「おれはお前のこと、ずいぶんかわいがってたよなあ」なんて言ってました。他人がいると格好つけたがる人でしたねえ。
お互い目指すところがどう一致して、どう違うのかっていう話はしたことがありません。二人っきりで本心を開き合ったら、何て言うだろうっていう興味はありました。国会議員になればえらいっていう感覚の人でしたから、どうしても私とは違う。でも、世間では談志さんと私は合わないと思っているかもしれないけれど、同じ柳家のうちに育って、どんな芸が良くてどんな芸はみっともないか、という意見は合っていましたね。
あるとき、浅草の店で私がカウンターでめしを食い、奥で(古今亭)志ん朝さんたちが飲んでいると、「談志が来る」って情報が入った。それなら帰るっていうやつ、なおさらいるっていうやつもいて大騒ぎ。談志さんが来て、奥で志ん朝さんと盛り上がったあと、私に「志ん朝はあんなんでいいのかよ」って言う。「いいんじゃねえの。談志は談志、志ん朝は志ん朝。それぞれ違って」って言うと不満なんだね。「それよりお前の芸はどうなんだ」って言ってやりたかったけど、私は兄弟子じゃないしねえ(笑い)。
《談志は2011年11月、75歳で亡くなった》
あの先、どうなったんだろうっていう思いはあります。若いときから口調もしっかりしてたし、落語をまともにやって、まともにおもしろいんですから。みんな、その技量がないからギャグを入れたりするわけでしょ? 家元になりたいとか、議員になりたいとかいうことがなければ、とんでもない人になっていましたねえ。「家元・元祖」って言われるものに、知らずのうちになれる人だったと思いますよ。(聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:10 志ん朝さん、口調の奥に神髄
2017年11月10日 5時00分
■噺家・柳家小三治
《古典落語の正統派・古今亭志ん朝とは、一門は別だったが、親しかった》
志ん朝さんにはゴルフを教わりました。そのころ、私はボウリングに凝ってたので、「ゴルフなんて金持ちのまねじゃねえか。自分のうちに庭がねえから、人のうちの庭を借りて歩き回ってる」って言うと、「何言ってんだ。自分ちに廊下がねえから、人のうちの廊下を借りて玉ころがしてんじゃねえか」。思わず笑っちゃいましたね。
1982年には、ヨーロッパへ落語会の仕事で一緒に行きました。あの人が先にドイツのケルンへ行き、私はあとから行ったんですが、心細かった。駅に着くと、ホームに迎えに来てくれてたんです。向こうも心配してたんでしょう。会いたかったよーって抱き合いました。あんなえらい人と仲が良かったなんて、おこがましくて言えないけど。
志ん朝さんといえば、テンポのいい口調について言う人が多いけれども、私は口調の奥にあるものを見ようとしてた。芸の神髄は結局、そこなんですね。表面に出ているものより、奥にあるもの。そこに演者の個性が感じられる。このしゃべり手は、何をもって人間の素晴らしさを感じるかっていうことかな。
志ん朝さんは、若いころの口調のままではいけなくなると気づいてましたね。どうすればいいかはわからないけれど、これじゃだめだって。闘ってるなって思いました。
《志ん朝は2001年10月、63歳で亡くなった》
いずれ志ん朝さんが落語協会の会長になって、私が副会長として補佐しようと考えてました。世間からも、落語協会の中でも「落語っていいもんだねえ」ってことをしみじみ知ってもらいたい。それがわかれば、きちんとした体系が出来るんじゃないかって。
何か「芯」になるモデルがあるから「個性」って言えるんで、今みたいにただバラバラだと、みんなゴミになっちゃうんじゃないか。志ん朝さんは「芯」になる器でした。ずーっと輝いていてほしかった。 (聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:11 小沢さんの10日間、末廣亭の狂気
2017年11月14日 5時00分
■噺家・柳家小三治
私が前座のとき、「落語にかける与太郎の青春」っていうテレビのドキュメンタリーを撮りました。山奥のダムの建設現場で一席やるとか。そのナレーションをやったのが小沢昭一さんです。
《放浪芸の研究などでも知られる俳優・小沢昭一(1929~2012)だ》
明日をもわからない、この世界に入ってすぐのころで、小沢さんの節度のある話しかた、品のある間の取りかたを聞いて、いつかこういう語り手になりたいものだなとあこがれ、お手本にもしました。
《数年後の1969年、「東京やなぎ句会」で一緒になる。メンバーにはほかに、入船亭扇橋、永六輔、江國滋、大西信行、桂米朝、加藤武、神吉拓郎、永井啓夫、三田純市、矢野誠一がいた》
小沢さんは噺家になりたかった役者、私は役者になりたかった噺家です。小沢さんは、当時の落語界にはあまりにもすごい人がいるので太刀打ちできねえ、と新劇の世界に入った。私は、ただまっすぐ飛び込んじゃったんでしょう。それが句会で出会う。でも、江戸っ子は照れ屋ですから、話し込んだり、ほんとのことはふれないもんです。
第1回の句会では「煮凝(にこごり)」っていう題が出ました。小沢さんの句は「スナックに煮凝のあるママの過去」。参ったですねえ。小料理屋じゃなくてスナックですから。
その小沢さんに、新宿末廣亭へ10日間出ませんかって声をかけた。上野でも浅草でもなくて、新宿。小沢さんも私も、山の手の庶民ですから。それで、2005年6月の下席。連日超満員だった。あのお客さんの狂気は、何だったんでしょうねえ。
私のマクラが長くなったのは、ラジオの「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の影響もあるでしょう。私の師匠・五代目柳家小さんが、番組が終わった途端、「これが現代の落語っていうもんだよ」ってつぶやいたのを忘れません。
小沢さんはくだけたことを言ってるけど、きちんとしたまっすぐな人でした。ありがたい同志っていうか、先輩です。(聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:12 涙の扇橋「落語ってかなしいね」
2017年11月15日 5時00分
■噺家・柳家小三治
《入船亭扇橋(いりふねていせんきょう)(1931~2015)は、修業時代からの友だちだ》
扇橋の師匠である三代目桂三木助師匠が1961年に亡くなって、私の師匠・五代目柳家小さんのうちに、扇橋が移ってきた。そのときからの付き合いです。この世界に入ったのは、私より2年先輩だった。でも、彼は先輩風を吹かせたことないですね。
のちに、一緒に落語会をやるようになると、扇橋はマクラでぐだぐだ言ってるんですよ。自分のことや、身の回りで起きたことなんかを言ってたんでしょうね。そんなんでおもしれえのかよって思うんだけど、何かおもしろいような気がするんですね。こんなんでいいのかいって、私もやり出したのかもしれません。そしたら、私のほうが長くなっちゃった。
《扇橋は、69年から月1回続く「東京やなぎ句会」の宗匠。歳時記に句が載ったこともある俳人だった》
句会があれだけ続いたのは宗匠が扇橋だったから。上にいるっていう態度や匂いが全然しないんですね。みんなからいいようにおもちゃにされ、からかわれて。でも、俳句をつくると、かなわねえなってあらためて尊敬をする。
私が好きなあいつの句は「母の日の袋物屋をのぞきけり」。袋物って手提げとか、がま口とか。だから何だ、って言いたくなる。でも、だんだんわかってくるんですよ。人がふつうに生きている何げない暮らしの中に、すてきなことはあるんだなって。
私が「千早振る」っていう噺をやったとき、扇橋が楽屋で聞いていた。高座をおりてくると、あいつはぽろぽろって涙をこぼして「落語ってかなしいね」って言ったんです。噺に出てくる人の心に寄り添わないと噺はできないって気づいたのかもしれない。それに、かなしさを笑いでまぎらわしてしまおうっていう、落語そのもののかなしさもあるのかもしれないね。
俳句会は絶妙なメンバーでした。ねらったんじゃなくてたまたま寄り集まったっていうのが、一つの妙ですねえ。 (聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:13 「青菜」、景色が広がれば最高
2017年11月16日 5時00分
■噺家・柳家小三治
《小三治「十八番」の一つに「青菜(あおな)」という噺がある》
お屋敷に出入りしている植木屋が、旦那に酒をごちそうになる。いくつかの出来事があって、長屋の植木屋のうちに場面が変わると、お屋敷であったことが、すべてもういっぺん繰り返される。よく出来てるなあって思います。
自分でやってくうちに、とうとうこんなにおもしろくなっちゃったよ、っていう噺です。最後、植木屋のかみさんが汗だらけで押し入れから出てくると、友だちの大工が「おめえたち、二人で何やってんだい」って言う。あれは私が考えた台詞(せりふ)で、つい出たものなんですけど。人間は大人になったって、子どものままごととおんなじだ、それをただ繰り返して生きてくだけだっていうことでしょうか。
後輩たちには、お屋敷の景色がきっちり出てこないと、あとの笑いは誘わないよって言うんです。そこがおかしいから笑うんじゃなくて、その前があるからおかしいんだって。お庭のデザインや、風の匂いを頭の中に漂わせておけば、景色が浮かんでくる。「庭の青いものにしずくが落ちて、そこを通してくる風なぞは涼しいなあ」って言うとき、どんな木のそばをかすめて来る風なのか、葉っぱの重なりかたはどうなのか。
植木屋さんがぽつ、ぽつと話すときに、その間を埋め尽くす景色がお客さんの中に広がれば、最高でしょうねえ。何も言わないけど、お客さんと演者の間合いがうまく合ったら。……こんなこと言ってると、すごいみたいだねえ。すごくないよ、おれは。
《「『青菜』をはじめとする滑稽噺で、ひょうひょうとした芸風に風格が加わった」と、芸術選奨文部科学大臣賞を2004年に受賞した》
賞もらいてえと思ったことはないけど、落語好きのお客さんが、「青菜」でもらったのがうれしいって言ってくれたのはうれしかった。芝居噺とか人情噺とか、大きな噺に与えられることが多いなか、滑稽噺でっていう点はよかったなと思ってます。
(聞き手 石田祐樹)
(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:14 今日の八っつあん、熊さんどう?
2017年11月17日 5時00分
■噺家・柳家小三治
《小三治一門には、弟子が10人、孫弟子が5人いる》
来たときは何も知らない青年だったのが、この世界へ入って窮屈な思いして、いろんなことをさせられる。年数とともに、だんだん大事な存在になっていくんですけど。
この夏、私が頸椎の手術をしたせいで、みんなが集うことが多くなって、見てると何だか胸がいっぱいになりますねえ。あのはなたれ小僧が、使いものにならないだろうって思ってたやつが、へえー、そうかいと見直すようなね。
賞をもらったとかいうことに私は喜びませんから、張り合いはないと思いますよ。でも、ずっとそれでくると、どう生きていったらいい芸が出来るだろうって考える人になったかなって。それが垣間見えると、世間は拍手しなくても、師匠としてはうれしい。まあ、楽しみにしてますね。
《おしまいは、落語をおもしろくやるコツ》
落語は繰り返しやるから、慣れて、飽きてきます。すると、それが表へ出てきて、お客さんもつまらなくなっちゃう。で、落語をおもしろくやるコツ。「秘中の秘」ですねえ。でも、だれに言ってもいいんですよ。
私の師匠の師匠、四代目の柳家小さんが、落語は初めて聞く客に初めてしゃべるつもりでやれって言った。しょっちゅう来ている人もいるし、無理じゃねえかって思ってました。でも、何とか一生懸命やろうとしてました。
あるとき、はっと思ったから、よほど追い詰められていたんでしょう。
「客もよく知ってる。はなし手もよく知ってる。だけど、噺の中に出てくる登場人物は、この先どうなるのか何も知らない」。そう思ってやると、いつもやってる噺じゃなくなる。今日の八っつあん、今日の熊さんどう?って。いつもとおんなじかもしれないけれど、心が違う。
まあ、これが病気で「大惨事」になり損なった、「小三治」の今ですかねえ。
(聞き手 石田祐樹=おわり)
(ひもとく)柳家小三治を読む 「なんでもない噺」をふつうに 石田祐樹
2021年12月11日 朝日
まずは「まくら」から。落語の前置きがどんどん長くなり、ひとつの話のようになった。本題に入らず終わることもあったが、お客さんは喜んだ。それらを集めたのが『ま・く・ら』。
50歳を前に「字幕なしで英語の映画を楽しめるようになりたい」と、勉強を思い立つ。米国のよく知られた大学の隣にある英語学校に3週間通い、「めりけん留学奮戦記」が生まれた。授業のテーマは「パースト・パーフェクト・プログレッシブ」。全然わからない。あとで聞くと過去完了進行形だった。「第一、そんな文法が要るんですか世の中に」「過去でもう完了しちゃったんですよ。それを今さらなぜ進行させる必要があるのか」と小三治さんは問う。
また、町や人々の様子を見て「ルールがあって人間があるんじゃなくて、人間があってルールがある。そういう国ですね」と言うのも、師匠らしい。
ほかに、駐車場に住むホームレスとの不思議なつきあいを話す「駐車場物語」など、18あるまくらのうち四つはCDで聞ける(それを活字に、というのがこの本の始まりだそうだ)。
■さらけ出す愉快
とはいえ、最初からこんなに自由に話していたのではない。若いころは「この噺(はなし)にはこのまくら」と教わった通り、余計なことは一切言わなかった。中学3年で落語に出会い、厳しい両親への反発もあって、19歳で五代目柳家小さん師匠に入門。「どうしたら噺家になれるか」ということしか、頭になかった。
真打ち昇進から数年たった30代の半ば、困り抜いて書いた原稿で「噺家になるための努力はやめました」と宣言。「無愛想が何でいけないんだ」。初めて「さらけ出す愉快」を感じた。すると、噺家さんらしいですねと言われるようになる。そのきっかけとなった文章「あの頃は噺家だったなぁ」に加え、若い噺家に向けて書いた連載をまとめたのが『落語家論』だ。筋を通せ、と小言があふれる。
「まともにやって面白い、それを芸というのだ」は、ずっと変わらぬ考えだろう。「ハナシカがマジなことを言う、と笑うなら笑え。ハナシカである前にオレは人間なんだ」には、師匠も若い、とほほえましくなる。
■気ままなようで
そのころ、ラジオの深夜放送のディスクジョッキーとなり、台本なしで毎週3時間近く話した。雑誌の対談のホスト役として、武満徹、渡辺貞夫、森山良子、松任谷由実、植草甚一、手塚治虫といった人たちと会う。まくらも落語も変わっていく。
そうして組み立てられ、仕立て直されていった噺は『柳家小三治の落語』全9巻で読める。「青菜」「あくび指南」「うどん屋」「馬の田楽」「かんしゃく」「小言念仏」「野ざらし」「百川(ももかわ)」に「子別れ」「死神(しにがみ)」「芝浜」など67席。30代から70代までの高座のDVDを本にしたものだ。活字で読むと、気ままなようで実は周到に伏線が張られたまくらや、単に気ままなまくらがあるのがわかる。噺の細部が見えてくる。ここにない「粗忽(そこつ)長屋」「千早ふる」「初天神」も読んでみたい。
『どこからお話ししましょうか 柳家小三治自伝』(岩波書店・1650円)は、評者が聞き手をつとめたが、噺家としての喜びがうかがえるところがあるので、紹介させてください。
落語には、登場人物をわざと困った状況やかわいそうな状況に追い込み、それを助けて、ほろっとさせる噺がある。向こう受けするだろうし、もともとはそういうのも好きなんですよ、と小三治さんは言う。でも「これが私の人情噺」という「厩(うまや)火事」で、大事件は起こらない。「なんでもない噺」をふつうに、極力おさえて進めていって、最後にほっと感じさせる。
「『ああ、やっぱりやっててよかったな。惚(ほ)れ込んで入ってきたのは、これだったのかな。無駄じゃなかったな』って感じるのは、そういうときですね」
(文化くらし報道部)
Wikipedia
柳家小三治は落語家の名跡。現在は空き名跡。この名跡は中堅どころの位置付けであるが、「柳家(柳派)の出世名」といわれる[注釈 1][注釈 2][注釈 3]。七代目・八代目の柳家小三治は併存したことがある。
初代柳家小三治 - 後∶三代目柳家小さん
二代目柳家小三治 - 後∶二代目談洲楼燕枝
三代目柳家小三治 - 後∶三代目古今亭今輔
四代目柳家小三治 - 後∶二代目柳家つばめ
五代目柳家小三治 - 後∶四代目柳家小さん
六代目柳家小三治 - 俗に「留っ子」「坊やの小三治」。(1896年〈明治29年〉8月19日 - 大正半ば頃)は、落語家。本名∶内田 留次郎。1915年に三代目柳家小さん門下で柳家小志ん。1917年2月に柳家小きんを経て、1918年3月に演芸会社で先代が蝶花楼馬楽を襲名したために六代目柳家小三治を襲名。将来を期待されたが、酒に溺れて若くして早逝した。1919年頃までの寄席の出番表などに名が見える。
七代目柳家小三治 - 後∶七代目林家正蔵
八代目柳家小三治 - 当該項目で記述
九代目柳家小三治 - 後∶五代目柳家小さん
十代目柳家小三治 - 本項にて詳述
十代目 柳家 小三治 |
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本名 |
郡山 剛藏 |
生年月日 |
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没年月日 |
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出身地 |
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死没地 |
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師匠 |
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弟子 |
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名跡 |
1. 柳家小たけ |
出囃子 |
二上り羯鼓 |
活動期間 |
1959年 - 2021年 |
配偶者 |
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家族 |
郡山冬果(次女) |
所属 |
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公式サイト |
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主な作品 |
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受賞歴 |
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放送演芸大賞(1976年) |
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備考 |
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落語協会理事(1979年 - 2010年) |
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十代目 柳家 小三治(1939年12月17日 - 2021年10月7日)は、東京都新宿区出身の落語家[1]。落語協会第10代会長(2010年
- 2014年在任)[2]。出囃子は『二上り羯鼓』[1]。定紋は『変わり羽団扇』[1]。本名∶郡山 剛藏[1]。「高田馬場の師匠」とも呼ばれた。
経歴[編集]
1958年、東京都立青山高等学校卒業[3]。高校の同級生に女優の若林映子、一年後輩に仲本工事と橋爪功がいる。
1959年3月、五代目柳家小さんに入門[1]。前座名は小たけ[1]。1963年4月二ツ目昇進し、さん治に改名[1]。
1969年9月、17人抜きの抜擢で真打昇進[3][1]。十代目柳家小三治襲名[1]。
1976年、放送演芸大賞受賞[1]。1979年より落語協会理事に就任[3]する。1981年、芸術選奨文部大臣新人賞受賞[1]。
2004年に芸術選奨文部科学大臣賞[1]を、2005年4月に紫綬褒章受章[1]。2005年6月、新宿末廣亭6月下席夜の部小三治主任公演において、東京やなぎ句会同人の小沢昭一をヒザ前に顔付けした[3][4]。連日長蛇の列が出来、立見で入れないほどの大入りであった。
2009年ドキュメンタリー映画『小三治』(監督:康宇政)が公開された。2010年6月、落語協会会長に就任[3]。2014年5月に旭日小綬章受章[1]。6月、落語協会会長を勇退し、顧問就任[3][2]。10月に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定[1][5]。
2015年、第56回毎日芸術賞受賞。同年3月、新宿区名誉区民に選定される[6]。2019年度朝日賞受賞[7]。
2021年10月2日、府中の森芸術劇場で行われた落語会での「猫の皿」が生前最後の高座となった[8]。
同年10月7日20時、心不全のため、死去[9]。81歳没。所属事務所が明かしたところによれば、生前最後の高座から亡くなる日まで体調面の変化はなく普段通りに過ごしており、翌年まで各地で落語会の予定を入れていた。死去当日は普段通りに夕食を取り入浴した後に自室で倒れているところを妻に発見され、病院に搬送されたが死亡が確認されたという[10][11]。
訃報は同月10日、落語協会と柳家小三治事務所により公表された[12][13]。戒名は「昇道院釋剛優」。
芸歴[編集]
1969年9月∶真打昇進、「十代目柳家小三治」を襲名。
受賞歴[編集]
1979年∶落語協会理事就任
2010年∶落語協会会長就任
2014年∶落語協会顧問に就任
人物[編集]
教師・教育者(小学校校長)の5人の子のうち唯一の男子として厳格に育てられる。テストでは常に満点を求められ、100点満点中95点を取ることすら許されなかった。その反発として遊芸、それも落語に熱中する。東京都立青山高等学校に進学。二期下にはザ・ドリフターズの仲本工事、俳優の橋爪功がいた。高校時代にラジオ東京の『しろうと寄席』で15回連続合格を果たす[注釈 4]。この頃から語り口は流麗で、かなりのネタ数を誇った。卒業後、教員育成大学である東京学芸大学への入試に失敗し、学業を断念。落語家を志し、5代目柳家小さんに入門した。
以後、5代目小さん門下で柳家のお家芸である滑稽噺を受け継ぎ活躍(もっとも小さん本人から直接教わった噺は少ないと著書で述べている[要出典])。噺の導入部である「マクラ」が抜群に面白いことでも知られ、「マクラの小三治」との異名も持つ。全編がマクラの高座もある[注釈 5][注釈 6]。
落語協会会長6代目三遊亭圓生は大変に芸に厳しい人物で、前任の会長より引き継いだ者を真打にした以外は、実質上3人しか真打昇進を認めなかった。つまり、6代目圓生から真打にふさわしいと見做されたのは、6代目三遊亭圓窓・小三治・9代目入船亭扇橋の3人のみである[注釈 7][注釈 8]。小三治は17人抜き真打昇進という記録を作った[注釈 9]。
上野鈴本演芸場初席における主任(トリ)の座を師の5代目小さんから1991年に禅譲され、2013年まで維持した[注釈 10]。
リウマチなど持病を抱えながらも、長年高座に上がり続けた[注釈 11]。落語協会会長5代目鈴々舎馬風が病気を理由に2期で勇退した後を受け、2010年6月25日開催の落語協会例会において後任会長となる[14]。2014年6月、4代目柳亭市馬に会長職を譲って協会顧問に就任した[2]。
夫人は染色家の郡山和世[注釈 12][15]、次女は文学座に所属する女優の郡山冬果。弟子に対する指導が厳しいことで知られていた。
芸[編集]
主な演目[編集]
主な持ちネタには『あくび指南』『うどん屋』『かんしゃく』『看板のピン』『金明竹』『小言念仏』『子別れ』『死神』『芝浜』『大工調べ』『千早振る』『茶の湯』『出来心』『転宅』『道灌』『時そば』『鼠穴』『初天神』『富士詣り』『百川』『やかんなめ』などがある。
芸風[編集]
面白くもなんともなさそうな顔のまま、面白いことを話す。飄々とした表情のまま、ぶっきら棒にしゃべる。
柳家の伝統通り滑稽噺を主なレパートリーとするが、師と同じく[注釈 13]、「あざとい形では笑わせない芸」を目標としている。落語(滑稽噺)は本来が面白いものなのできちんとやれば笑うはずであり、本来の芸とは無理に笑わせるものではなく「客が思わず笑ってしまうもの」だとの信念を抱いているからである。
ものまね[編集]
過去の落語家のものまねを得意とする。8代目三笑亭可楽などのものまねが時折高座で披露される。
芸論[編集]
指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンを「メリハリが効くというよりもあざといくらい派手な音を作り出す」「人を感心させようとして棒を振るから嫌いだ」と評すると同時に、「落語も同じだよ」と付け加えている。
同一の演目[編集]
寄席や落語会では、同じ演目を異なる芸人が続けて演ずることは絶対のご法度とされている。
永六輔が自らの主催するイベント「六輔その世界」のゲストに毒蝮三太夫と小三治を招き、両名に落語を演じてもらおうと企画した際、毒蝮は『湯屋番』を演じた。毒蝮は落語界の人間ではないが、7代目(自称5代目)立川談志の古くからの盟友であり、徹底的な指導を受けていた。その後に高座に上がった小三治は、直前までネタを決めていなかったが、毒蝮と同じ『湯屋番』を語り始めた。小三治も談志も同門(5代小さん門下)であり、文字として並べる限り『湯屋番』の内容はほとんど変わらない。しかし、プロとしての技術を駆使して全く別のやり方で『湯屋番』を語り、毒蝮よりもはるかに客を笑わせたという。演芸評論家・矢野誠一の著書『志ん生の右手』(河出文庫)では、この件を小三治自身が後書きで説明している。同じ噺をした理由は「毒蝮三太夫という人の後に落語家として噺をすることに抵抗があった」「毒蝮のやった噺とそれに対するお客さんの反応をみて、これは落語を聞かせる客じゃないな、ショウアップされた趣向を興味半分でのぞきに来てる客だな、と思った」ことであり、「せっぱつまった飛び降り自殺みたいなものです」「もう頼まれたって二度とやりませんが、ひとにも勧めません。それほど愚行です」と矢野への謝辞と共にコメントしている。
趣味[編集]
多趣味で知られていた。
バイク[編集]
ヤマハ発動機のナナハン(XJ750E)を乗り回していた。当時寄席への出勤もバイクで、本人は上下のつなぎで寄席や落語会に現れていた。落語家仲間で「転倒蟲」(てんとうむし)というツーリングチームも作っていた。41歳で免許を取ったが51歳で両手首のリウマチを起こしてからは乗らなくなった[注釈 14]。
「転倒蟲」メンバー
小三治
6代目三遊亭圓窓 - 小三治の同期で、自他共に認める最大のライバル。
斎藤宏二
スキー[編集]
草野球[編集]
落語仲間で「ヨタローズ」というチームを組織していた。
俳句[編集]
3代目桂米朝などの落語家や落語を愛好する文化人らと「東京やなぎ句会」という俳句団体を組織しており、同会の名義で出版された著書もある。俳号は土茶(どさ)。
クラシック音楽[編集]
鑑賞も歌唱も好む。歌声はCD「歌ま・く・ら」(2004年9月28日 札幌・真駒内六花亭ホールでのライブ版)に収録されている。また、2005年10月31日の鈴本演芸場の独演会では、高座にグランドピアノを入れて(演奏:岡田知子)15曲を熱唱、そのもようはドキュメンタリー映画『小三治』に収められている。
オーディオ[編集]
蓄音機での音楽鑑賞も楽しんでいた。 オーディオ史研究家の品川征郎(現日本蓄音機倶楽部創設者)のコレクションを、愛川欽也、うつみ美土里の番組、日曜とくばん「驚異ここまで来たオーディオ100年」(1978年放送)で紹介した。
「少しでもいい音で音楽を聴きたい」という思いからオーディオに凝り、一時期は専門誌でもコラムを連載するなどプロ並みの知識がある。自宅には高価なオーディオ機器が多数あった。
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