稀世の「時計師」ものがたり  末和海  2021.10.14.

 

2021.10.14. 稀世の「時計師」ものがたり

 

著者 末和海(すえかずみ) 1929年堺市生まれ。5,6歳ごろの幼年期から機械式時計に強い興味を示し、中学校時代は独学で修理技能技術を磨く。45年大阪工業専門学校(現・大阪府立大工学部)精密機械科進学後は、技術技能と理論の両面で時計学研究に励む。49年「日本時計師会」の前身、「日本時計学会関西支部」の発足に参加。54年日本で初実施されたアメリカ時計学会「公認上級時計師CMW」試験合格。67年労働省中央技能検定委員会学識経験者委員に就任。以後06年まで続ける。70年千葉で開催の「技能五輪国際大会時計修理職種競技」のショップマスターを務める。85年労働大臣表彰受賞。13年再興した日本時計師会の初代会長。14CMW試験再開。151名合格者誕生。16年には本邦初の初級時計師CW試験開催、5名の合格者誕生

 

発行日           2020.6.30. 第1刷発行

発行所           文藝春秋企画出版部

 

「時計師として生きる」ということ

機械式時計Mechanical Watchは「人の手」で作られる。動かなくなった「思い出の時計」を「人の手」で永遠の宝物にする。時計師として高度の「人の手」を持つ後進の育成に全力を尽くす

著者執筆、幻の「脱進機の実地修理」全24回を復刻収録!

 

今年2020年、91歳を迎えた末和海の人生は、時計、とりわけ機械式時計とともにあった。末の姿勢は、既に10代で確立されていた。それは「理論と技能技術の両面から機械式時計の全てに精通する」ことだった

日本で初実施の「アメリカ時計学会・公認上級時計師認定試験」に54年合格した末は、自身の姿勢を機械式時計に関する高度なアフター・メンテナンス、時計メーカーでの斬新な製品開発という「現場」で貫くだけにとどまらず、人材育成の面でも若き後進に多大の影響を与え続けている。機械式時計の製作、アフター・メンテナンスを志す人、そして機械式時計を「思い出の一品」とする全ユーザー必読の書

 

 

はじめに――なぜ今「時計師」が必要なのか

時計に魅せられた幼年・少年期を過ごし、大阪工業専門学校卒業時は敗戦の混乱で就職もままならず、新生大阪府立大の助手として勤務。民間企業への就職はスイスのロレックスが日本に開設したサービス・ステーション。「時計師」の資格獲得はその2年前の54年、時計店を自営開業していた時期。取得は日本初。「アメリカ時計学会公認上級時計師」が正式名称。以後56年に渡り業界で働き、83年第一線を退く

「時計師」とは、機械時計全体を構成する地板(じいた)や歯車や脱進機から、文字盤、針、ケースに至るすべての部品を設計し、手作り用の様々な加工機器を駆使して完成時計を製作できる技術と技能の持ち主

通常の時計は、ウォッチとクロックに大別され、50年ほど前までは機械式時計のみだったが、1970年代「クオーツ(水晶)時計」で状況が激変、機械式時計は凋落

電池を代えるだけで半永久的に正確な時を刻むクオーツ時計が安価で入手できると、たちまち市場を席捲

スイス時計産業の巻き返し―超高級、多機能機械式時計の生産に特化、ブランド化に成功

「機械式ムーブメント」が魅力を発揮する所以は、「人の手」の温かみ

機械式時計を何らかの「思い出の品」とするユーザーから生まれたのがアフター・メンテナンスの市場

「思い出の品」である機械式時計を、ユーザーにとって永遠に時を刻み続ける宝物としてお返しすることこそが「時計師」の存在理由

 

第1章        幼少期の時計と模型を相手の1人遊び

教員の両親の下、31女の末っ子として誕生

兄姉に除け者にされ、1人遊びに没頭。ゼンマイで動く時計に興味を持つ

小学校では模型作りに熱中。体育が免除されて代わりに工作室で模型作りに専念

中学の頃から時計に熱中し、腕時計を分解修理していた。専用ルーペもなしに分解掃除をしていた技能レベルは、既に時計職人に比肩する

戦時中の動員では、木型工と認められ、航空機用空冷エンジンのシリンダーヘッド作成班に配属。動員が終わる頃にはある宮大工から誘いを受けた

ここで伝授された機械の使い方、技術は後世役立つ

元々の実家は「陶」で、室町時代の大内義隆に仕えた陶晴賢の末裔だが、44年三重県在住の大分の末村の同郷の末家に養子に出された

父は千利休の研究に没頭。堺市に利休の墓石を発見、茶道界の大事件となる

 

第2章        学生時代の「頼まれ時計店」が大繁盛

45年堺中学卒業、官立の大阪工業専門学校に入学、精密機械科で時計が学べるのが理由

学生寮に入るが翌年寮が全焼、火元は自分たちの部屋の暖を取った後の火の不始末で、危うく刑事訴追は免れたものの、ノートをすべて失う

戦前26歳までの徴兵猶予を目的に理系に応募する学生が多く、「粛学」として落第点の者は退学処分としたため、徴兵猶予目的の文系志望の学生の多くは退学していく

近所の住民の時計修理を請け負うことで食物確保のための「野荒らし」には加わらずに済んだが、寮の荒廃はひどく、「寮全体の清掃活動」を提唱

時計学教授夫人から、「在外父兄救出同盟」の活動資金援助のため、時計修理店出店の協力を依頼され、修理費折半で協力。大繁盛するとともに、機械時計の心臓部ともいうべき脱進機(エスケープメント)の解析に熱中するきっかけとなった

48年卒業後は指導教授の計らいで、時計メーカー設立に協力したが、すぐに資金繰りに行き詰まり破綻。伝を頼って就職活動をしたが、何れも復員者を多く抱えてかなわず、指導教授に泣きついて、49年から新制大学になった大阪府立大に助手として勤務

 

第3章        時計店開業、日本初で「時計師」試験に合格

府立大に3年在籍、日々没頭したのは世界のウォッチ用脱進機に関する設計標準の解析研究

48年、日本時計学会発足。東京は研究者が中心だったが、翌年発足の関西支部は技術技能者が中心

大阪商人から、時計を修理していいても儲からないとの声を聞いて発奮、52年府大を辞めて大阪天王寺に時計店を開業。大手時計材料店「万陽社」に商売のコツを教えてもらう

難物修理の原因の多くが脱進機にあることを突き止め、理論による修理が、そうでない修理より「儲かる」ことを証明

公共機関や親時計修理の依頼も来るようになる

脱進機の研究では、海外メーカーは本当の図面は見せないため、設計や調整の基準がわからず、現物に当たって解析するしかく、同じ型番の時計の脱進機を10個測定しその平均値によって正確さを期した。その成果を時計学会の機関誌に長期連載

腕時計の故障のほとんどは、機械にゴミが入るか油の変質が原因で、分解掃除で直る

日本時計学会では設立当初から、修理技術技能の立ち遅れを挽回するために、その方面で優れていたアメリカの公認資格の日本への導入を企図

53年、アメリカ時計学会の日本支部設立、54年にCMW試験実施。CW試験は、業界のベテランにとってはレベルが低すぎると予測されたため、80年中断まで受験者は現れず

最初のCMW試験の受験者は私など大阪の若造が2名のみ。与えられた課題を解決した結果をアメリカに送って審査を受け、2人とも無事合格し、55年の認定書を受領

55年の時の記念日に、そごう百貨店前の御堂筋で30mの上空のヘリコプターから腕時計を落とす耐震実験のイベント実施。スイス・ウィラー社提供の腕時計の耐震性が証明され、以後毎年日本のメーカーも参加するイベントとなり、国産腕時計の耐震性の証明となる

53年からそごうは日本時計学会関西支部主催の「素人腕時計自慢コンクール」を開催、3年目にして婦人用でセイコーが外国メーカーを尻目にベストを獲得

CMW資格の外国での評価の高さは、PXの時計修理が、日本人のCMW資格取得を知って、日本の時計師忌避の貼り紙を撤去したことからも証明される

資格取得後、アメリカで資格を活かそうと考えたが、日本での後継者育成を指示され、代わりにロレックスが日本で初開設のサービス・ステーションのポストを提示される

末家との養子縁組を解消――養家に男子が誕生したのを機に解消を申し出たが反対され、家裁の調停に持ち込み、漸く工専の授業料などかかった費用を返済することで合意、53年に支払いを終えて解消

父と絶縁――中学の時計仲間が就職先の倒産と肺結核を患って天王寺区の私の店を頼ってやってきたので、めんどうを見ていたら、結核感染者を身内から出すことを恐れた父が、友人を追い出すか縁を切るかと迫ってきたので、絶縁を選択。52年のこと。友人は無事に回復して83まで生きた

 

第4章        サラリーマン稼業に転職

56年、ロレックスのサービス・ステーション入社。月額給与35千円は悪くなく、年2回の高額の賞与は年々増加

ロレックスの修理で驚かされたのは、まず外装を綺麗にすることが最優先。金無垢ばかりだからよかったようなものの、研磨で新品同様に磨いたのではすぐにすり減ってしまう

一方で時計機構の修理は部品の交換で済ませる。CMWCWの常識とは全く異なる

需要増に合わせて新規技術者を採用するが、技術者を1カ所に固定したのでは販売の拡大が見込めないため、3年を技術者の養成期間とし、その間にCMW受験の準備をし、3年経過後はCMW資格を取って全国の販売店に配置し、小売店網拡大を図る

56年、CMW取得者を糾合して「日本調時師協会」設立、同時にCMW受験のための勉強会として「アメリカ時計学会日本支部関東班」を組織

研究者と技能者は別物、両者の緊密な連携は不可欠で、そのペアの普遍化を働きかけ

「学術の側は、主に海外の論文紹介やメーカーの技術者が自社の研究成果を発表するなど技術面を担当し、技能の側は、その理論を活かして、時計修理の効率化を図り、より長持ちする精度の高い修理調整を実現する」と両者を峻別し、時計学会の機関誌『日本時計学会誌』は学術職をより強くし、アメリカ時計学会日本支部は技能に比重を置いた機関誌『グノモン』を創刊。「グノモン」とは日時計の「影を落とす」ために立てられる丸棒状か断面が三角形あるいは四角形の日影棒のこと。60年には日本時計師会が発足、その機関誌となる

59年、ロレックスでは学ぶものがなくなったこともあり、名古屋の高野精密工業に転職

現在同社はクラシックの時計マニアの間で「幻の時計メーカー」と言われ、往時に作られたタカノブランドの腕時計は珍重されているが、当時はクロックからウォッチに転身して技術的に難渋していてそれを助けることになる

時計メーカーの大半は戦時中技術を砲弾の信管製造に転用。朝鮮戦争では特需に恵まれ、その実績を駆ってスイスからウォッチ製造に必要な設備を導入し、57年腕時計を発売したが、59年の伊勢湾台風の高潮で設備が水没、深刻な被害を受ける。朝鮮特需が認められたのか、通産大臣の池田勇人がすぐに飛んできて救済・支援をしたが回復は鈍く、池田の斡旋もあって62年リコー三愛グループの傘下に入り、市村清に再建が委ねられたものの、結局は5年足らずで時計の生産は終わったことから「幻の時計メーカー」となる。現在は「リコーエレメックス」で、当時セイコー、シチズン、オリエントとメーカーが熾烈な競争をしており、市村は時計に興味を示さなかったようだ

高野からリコー時計と、計8年在籍。技術提携していたアメリカのハミルトンの技師から実地のウォッチ作りについて多くを学び、新製品づくりに貢献

67年、技術部長兼経営委員から取締役になる予定だったが、他の候補者が元組合の委員長だったこともあってメインバンクが異を唱えたため、一緒でなければ受けないとして退職

68年、ジェコーに技術部長として入社。世界特許を持つ音叉クロックと自動車用時計製造が主力事業。音叉時計はクラレの優良企業援助の対象となり、54年生産開始のモーター式自動車時計は市場を独占

クラレからトヨタに株主が変わり、激しかった労使対立を乗り切って取締役に就任するが、新たにトヨタから来た技術系の社長と、万年不採算部門だったクロック対策を巡り対立するも、自動車業界の好調に支えられ業績は改善

69年、国立科学博物館内の万年時計を分解し、全部品をスケッチ。1851年東芝の創業者田中久重が製作したからくり時計で、「からくり」とは自動機械・自動装置の意で、様々な「からくり物」の集大成

70年、技能オリンピック東京大会で競技運営を司るショップ・マスターとして参加。時計修理職種は日本の独壇場で、以後の8大会を含め金72を獲得するが、70年代のクォーツショックもあってか、参加国が激減し85年には同部門は終了

67年、労働省の技能検定委員に就任――検定を通ると時計修理技能士という国家資格が与えられる。06年まで40年務める

88年ジェコーの常務取締役を退任、常勤監査役となり、90年関連会社神奈川樹脂の社長にしゅうにん。時計のプラスチック外装部の製造。3年で退任

 

第5章        83歳で第一線から身を引く

92年、社団法人日本能率協会傘下の日本プラントメンテナンス協会の委託コンサルタントとして製造業を対象とする生産性向上のためのマネジメント手法を広めるTPM活動に参加、20年にわたって22の各社の工場でTPM賞を受賞するなど生産性向上に協力

 

第6章        最後のミッション――行動、挫折、そして将来へ

13年、日本時計師会再発足、会長に就任――70年代のクオーツ旋風により一旦CMW試験も中断、時計師会も休眠状態になっていたが、00年代に入り輸入メカ時計の目覚ましい進出によって国内の流通サービスの劣化が憂慮すべき状態になったところから復活を企図

15年、CMW試験再開第1号の合格者誕生

17年会長退任後、会は迷走状態になり、認定試験の受験者もゼロに。世代間ギャップも含め人間関係のもつれが原因

 

資料:脱進機の実地修理 脱進機の製図から別作迄

 

 

2021.10.17. 日本経済新聞 日曜版STYLEに日本の機械式時計特集あり

 

 

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