戦火のマエストロ 近衛秀麿  菅野冬樹  2021.11.17.

 

2021.11.17. 戦火のマエストロ 近衛秀麿

 

著者 菅野冬樹 1955年東京都生まれ。日大芸術学部卒。映像、音楽等の企画・制作を手掛けるプロデューサー。1993年、全米映画製作者連盟(ギルド)のライセンスを日本人として初めて取得。70年代後半に、作曲家水谷川忠俊(秀麿の次男)と知り合った後、30年以上の間、秀麿についての調査と研究を継続。近衛秀健(秀麿の長男)、水谷川忠俊などと秀麿の親族、および関係者からの信頼を得るに至る。

 

発行日           2015.8.10. 第1刷発行

発行所           NHK出版

 

NHK BS1 スペシャル《戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~》

201588日放送

 

プロローグ

世界の小澤が、「ヨーロッパのどこへ行っても、あなたが2人目の日本人といわれる」と言っていたが、その人物こそ近衛秀麿

父は明治の日本の政治と教育に尽力した篤麿、兄は戦前3度の組閣をした文麿

1924年、25歳の若さでベルリン・フィルを指揮して欧州デビューを果たした初めての日本人。その後も44年まで欧州を代表する90以上ものオーケストラや歌劇場の指揮台に立つ。その経験を持ち帰って日本のオーケストラ育成に尽力、日本初のプロ・オーケストラ「新交響楽団」(N)を結成、海外からも演奏家を招いて共演させた

1979年、音楽ディレクターの仕事をしていた私は、山本直純の「オーケストラがやってきた」の編曲を担当していた水谷川忠俊に作曲を依頼。秀麿の息子だと聞かされて興味を持ち、秀麿が設立した近衛音楽研究所の代表の近衛秀健を紹介される。忠俊は秀麿の3男で、秀麿の弟忠麿が代々春日大社の宮司を務める水谷川家に養子に入ったが後継者がいないため水谷川家を継ぐ。秀健は忠俊の実兄で、独伊で作曲と指揮を学び、宮内庁式部職で雅楽の指揮者だった

1980年、近衛の生きざまを映像作品として世に送り出すために、映像制作プロダクションへと転職。近衛研究所の膨大な資料を3年がかりで整理して「宝探し」をする

ある日、フランスの地方都市のガソリンスタンドのオーナーから手紙が届き、建て替えようとしたら屋根裏から「近衛オーケストラ」と書いた譜面がいくつも出てきたとの知らせ。「近衛オーケストラ」とは、44年に近衛がドイツ占領下のパリで作った私設オーケストラで3か月足らず活動

1967年発刊の近衛のエッセイ集『風雪夜話』によれば、「ユダヤ人に関する限り、ナチスのすることは絶対協調できない・できる限りユダヤ人の国外脱出を援助する。1940年以後すでに出国を助けたのは10家族を超える」とある

2013年、秀麿没後40年を機に未整理史料の編纂作業に加わり、3つのテーマを絞る

1.    ドイツを拠点とした「音楽活動」に秘められた謎

2.    ユダヤ人の救済という「人道活動」に秘められた謎

3.    終戦直前、米軍捕虜となった背景に秘められた謎

 

第1章        ベルリン・フィルを初めて指揮した日本人

1924118日、旧フィルハーモニー・ホールに隣接した小ホールのベートーヴェン・ザールで、ソ連の作曲家ヴァシリー・カリンニコフの交響曲第1番のドイツ初演を振ったのが近衛秀麿。初の洋行で、7カ月しかたっていない日本人留学生のデビューが実現した背景は?

1943928日、ユダヤ人ゲットーでユダヤ人抵抗組織が蜂起して、徹底的なユダヤ人掃討が行われた数カ月後に「ワルシャワ市民オーケストラ」を指揮、団員が近衛メモにサインしているが、どこで誰が演奏したのか?

戦後は、秀麿の海外での活動そのものが公表されなかったこと自体も大きな謎

ベルリン・フィル財団を訪ねると、秀麿の指揮については1933年以前の記録はないといい、ポスターを見せると、逆にどういう経緯だったのかと聞かれた

父・篤麿は貴族院議長、学習院院長などを歴任するが、190440歳で夭折

兄・文麿は13歳で家督を議、母も産後すぐ死去

兄の習っていたヴァイオリンに興味を持ち独学で作曲や指揮も学び、高等科進学と同時に、ベルリンから帰国した12歳上の山田耕筰の門下に加わり、鈴木三重吉の雑誌『赤い鳥』に自作の童謡を発表、東京音楽学校に入り浸って音楽理論を学ぶ。学習院卒業後は帝大文学部に入り、美学を専攻

西洋音楽を学ぶ環境にないなか秀麿が辿り着いた途が「楽譜の収集」

1919年、高卒と同時に子爵を授爵して近衛家から独立。東京帝大美学科入学。翌年兄文麿の恋愛結婚の相手毛利子爵の次女の妹と結婚。23年渡欧、1年限りで兄の許可を得てパリに向かい、スコア・カントルムに短期入学して作曲法を学ぶ。1か月後にハンブルクのムジーク・ハレでカール・ムック指揮のR.シュトラウスの交響詩《死と変容》を聞いて全身に電撃が走り、指揮者になることを決意

ベルリン・フィルの経営傘下にあった私立のシュテルン音楽院に入学。ハイパーインフレに乗じて楽譜を格安で買い漁り、図書館にしかない総譜はひたすら書き写したことが総譜を読み解き和声を分析する能力を飛躍的に高めた

関東大震災を旅先のノルウェーで知るが、弟直麿からの「家族無事」の報にベルリンに留まり、2カ月以上たって妻から長男秀俊が津波で死去、家財の全てを失ったと聞かされる

ソ連が特別救済措置としてビザなしのシベリア通過を認めたので、帰り支度しているところへ、来年1月にベルリン・フィル指揮の機会を与える旨の通知が届き、まだ長男の死を知らなかった秀麿は演奏会の準備に没頭

ベルリン・フィルの全スケジュールの管理と演奏会のプログラムを決定する管理会社と契約し、会場費、広告費、オーケストラの費用を払って指揮する機会を手にした

スポンサーのついた特別イベントはベルリン・フィルの記録には残されていない

かつては、マーラーも自ら指揮した交響曲第1番の初演に失敗し、改訂後の再演も評価されなかったため、第2番の初演はベルリン・フィルを自ら雇って行ったという

カール・レーマンというマネージャーの存在も大きいが、1933年以降のプログラムを見ると、フルトヴェングラーが得意とするベートーヴェンやシューマン、シューベルトのシンフォニーも入っているので、そういうプログラムが組めるということは、興行会社とオーケストラの双方からも信頼されていたことを意味し、近衛が指揮者としての地位をしっかり確立していたこといえる

カールは当時ミュンヘンで楽譜のセールスを担当していた線で秀麿と知り合って意気投合、秀麿の手足となって動いてくれたのではないか。秀麿はこの渡欧で膨大な量の楽譜と楽器を購入し、自身の結成したオーケストラで使用しているし、30年にベルリンに事務所を開設して欧州での本格的な活動を開始した際にも一役買っているはず。レーマンが当時ミュンヘン国立歌劇場の音楽総監督だったクナッパーツブッシュと親しかったところから、3人が深く結ばれ、仕事を一緒にするようになったことから、秀麿のベルリン・フィル指揮についても強力なバックアップになったに違いない

23年の指揮はいわばオーディションだったので自費で賄い、合格したと認められたので、33年の定期演奏会で正式に客演指揮者としてデビューを飾る

24年帰国、翌7月には旧知の仲間を集めて「近衛交響楽団」を結成、9月には演奏活動開始

253月の東京放送局の試験放送の最初の番組は、山田耕筰作曲・指揮の《JOAK行進曲》で10名ほどの小編成のオーケストラ「日本交響楽協会(日響)」の演奏、最後が近衛指揮の近衛交響楽団42目によるベートーヴェンの5

東京放送局は耕筰と演奏契約を締結、秀麿は近衛交響楽団を耕筰の主宰する日響に合流させ初代常任指揮者に就任するが、放漫経営から1年足らずで分裂。秀麿は「新交響楽団」(新響、後のN)を作り、海外の演奏家と共演できるよう育てるため定期演奏会を繰り返す

1930年、マーラーの交響曲4番全曲を世界初で録音、レコード化したのが国際的に名を知らしめる好機となり、直後にベルリン再訪、音楽事務所を開設

翌年にはフルトヴェングラーとの交流が始まり、バイエルン国立歌劇場の音楽総監督に就任したエーリヒ・クライバーの助手となって指揮者に必要な技術と心得を学ぶが、その裏にはバイエルン放送局の音楽プロデューサーに転職していたカールの助力があったはず

渡欧した5か月間に東欧やソ連でも活動、指揮者としてのステータスを固める

レコード会社が、ベートーヴェン没後100年記念のレコード制作を発表した際、トップバッターに抜擢され、第1番を揮っている。ただ、秀麿のスケジュールの都合から、ミラノ・スカラ座管弦楽団で録音。クナッパーツブッシュも7番を揮っている

ドレスデン・フィルとは指揮者の定期的交流を決定、秀麿自身もウィーン交響楽団と、来季の客演契約を締結

1935年まで行われた外国人演奏家の新響への招聘は、ドイツ国内で活動の場を失ったユダヤ人音楽家にとって新天地となる

 

第2章        ナチス政権下の音楽家たち

秀麿は、初めて指揮するオーケストラでは、メンバー全員からの署名をもらい、活動の証としていたが、サイン帳の最終ページは444月にパリで「近衛(伯爵)管弦楽団」の演奏会で、31名の署名がある

このオーケストラの存在こそが、秀麿の音楽活動と人道活動における最大の謎

31名の中には、フランスやベルギーの兵役逃れの音大生や若いユダヤ人たちもいたという

秀麿著『風雪夜話』の新装版で初めて秀麿がユダヤ人亡命に手を貸したことに触れているが、それは亡命を支援してくれた在ドイツ日本大使館の2等書記官に対する謝意表明?

秀麿の欧州での活動は以下の通り

1回渡欧(23/224/5)   欧州見聞、音楽留学、ベルリン・フィル指揮

2回渡欧(30/931/2)   ベルリン事務所開設、人脈築く

3回渡欧(33/834/2)   本格活動開始、ベルリン・フィル正式デビュー

4回渡欧(36/1037/3) アメリカでの活動開始、全然の全盛期

5回渡欧(37/738/5)   上海事変でアメリカの活動キャンセル、欧州に専念

6回渡欧(38/944/6)   三国同盟による演奏会と歌劇場での指揮、私設オーケストラ

33年、ナチスによるユダヤ人迫害が始まり、ユダヤ人音楽家が追放される

同年、ドイツ芸術家協会からベルリン・フィルの客演指揮者として10月の定期演奏会の指揮への招聘と、「ドイツ赤十字文化章」授与の知らせ

哈爾濱経由で日本への亡命を考えたのがクロイツァーとマンフレート・グルリット。クロイツァーは近衛からの招聘だったが、オペラ作曲のグルリットは万策尽きて近衛に助けを求めた。39年亡命後は藤原歌劇団の常任指揮者として日本オペラ界の発展に尽力

3回目は、ドイツからの招聘ということもあって、外務省の嘱託として、日本政府を代表する身分での渡欧。国家文化院総裁ゲッペルスは歓迎セレモニーで服従を強要

33年のベルリン・フィル定期のプログラムは、シューベルトの弦楽五重奏曲のオーケストラ版を近衛が編曲した世界初演、近衛直麿・秀麿共作の《越天楽》、R.シュトラウスの《ドン・ファン》。敢えて国家音楽院総裁のシュトラウスの曲を選択。演奏し終わったところでシュトラウス自身が舞台に上がって絶賛。大成功に終わり、確固たる地位を獲得

直後にクロイツァーから窮状を訴える手紙が来て、日本経由アメリカへの亡命の手助けを要請。34年来日して新響と共演、一旦ドイツに戻った後、アメリカへの演奏旅行に出てそのまま日本に亡命。38年には東京音楽学校のピアノ講師就任

近衛は、これらの人道活動の記録を一切残していないが、助けられた人からのお礼状などから数々の厚意が浮かんでくる

 

第3章        亡命トライアングル

1932年から始められた、欧州の優れた演奏家と新響の共演は、クロイツァーを迎えた1935年をもって終了したが、その背景には楽団員からの経営形態への反発がある

使用する楽器から練習場まですべて秀麿の持ち出しでやってきたことが、「搾取と私物化」だとして、組合組織への改変要求が高まり、結局NHKが個々の楽団員と個人契約を結ぶこととなり、秀麿は追い出されるように再びヨーロッパに戻る

36年秋、広田内閣から音楽特使に任命され、まずはアメリカへ。最初がシアトル交響楽団にシゲティを加えた演奏会、次いで《越天楽》に感銘を受けたストコフスキーから、秀麿とフィラデルフィア管弦楽団による日米親善演奏会の誘いを受けて37年初に共演

《越天楽》は、直麿が「縦譜」を五線譜に書き改め、秀麿がオーケストラ向けに編曲、初演が秀麿の指揮、1930年プラハ放送で、日本初演は31年新響との演奏会

その後もストコフスキーの依頼で、NBCがトスカニーニのためにニューヨークに新設するオーケストラ(NBC交響楽団)の立ち上げを手伝ことになり、音楽監督のダムロッシュは秀麿を副指揮者に迎え、37年初にはNBCNHKが初の国際同時ラジオ中継で秀麿の指揮するドヴォルザークの《新世界》を同時生放送した

ストコフスキーは秀麿を、ハリウッドで自ら音楽監督を担当する映画音楽に参加させ、クレンペラーが常任指揮者だったロサンゼルス・フィルとの客演契約を結び、アメリカでの活動拠点を確実なものとした

音楽特使が終わって一旦帰国した後、すぐに再訪米し、ハリウッドボウルで「日本人の夕べ」を指揮したのがアメリカでの活動の最後となる。直前の日中戦争勃発で、アメリカは蒋介石を支持、反日感情が高まり、首相の弟ということがアメリカ側の心情を逆撫でしてその後のスケジュールがすべてキャンセルとなった

38年央、秀麿は再び音楽特使として米欧に向かい、ニューヨークではストコフスキーやトスカニーニと会うも秀麿の出演する機会はなく、ドイツに向かうと水晶の夜に直面

秀麿のユダヤ人救出調査のためエルサレムの「ホロコースト記念館(ヤド・ヴァシェム)」とロスにある「サイモン・ウィーゼンタール・センター(通帳ナチ・ハンター)」を訪問

アメリカ国立公文書館のアメリカ陸軍情報局MISに近衛の個人ファイルがあり、454月ライプツィヒで米軍の捕虜になった時の記録が出てきて、辿っていくとアメリカに帰化しようとしたユダヤ人女性が近衛に預けた金の行方を追っているという記録が出てきて、近衛が亡命に手を貸したヴァイオリニスト・リーブレヒトの兄で駐独米大使館の顧問弁護士と一緒にユダヤ人の亡命に手を貸していたことが判明

 

第4章        「近衛オーケストラ」の秘密

近衛の人道活動の中で、依頼人がユダヤ人でないケースもあったようだ

36年末、フルトヴェングラーの秘書だったベルタ・ガイスマール(当時はロンドンでビーチャムの秘書)から新年にフルトヴェングラーの自宅に来てほしいとの連絡がある。要件を訪ねると、ストコフスキーにフィラデルフィアに行けるかどうか打診して欲しいというもの。直接会って話をすると、クロイツァー亡命の手腕を見込んでの亡命支援の要請。フルトヴェングラーは2年前にユダヤ人音楽家擁護の声明を発表してゲッペルスから公職追放され、復帰したばかりでその去就が注目されていた

37年、秀麿はストコフスキーとの共演でニューヨークに渡る。当時フィラデルフィア管弦楽団はあたらしい音楽にチャレンジしようとするストコフスキーと、耳馴染みのあるベートーヴェンやモーツァルトを望む会員との間で意見が衝突して会員離れを起こし、ストコフスキーも辞意を表明するが、楽団からの要請もあって、オーマンディーと首席を分け合うことで妥協。オーマンディはナチの迫害を逃れてきた優秀な亡命ユダヤ人音楽家を迎え入れ、オーケストラ内部での発言力を高めていた

秀麿の申し出に、ストコフスキーは快諾、楽団も会員増を期待して内諾したが、オーマンディはナチに加担した指揮者を迎えることを拒否、それを聞いたフルトヴェングラーは、亡命音楽家からナチを象徴する音楽家と見られ、ベルリン・フィルをヒトラーに服従する「ナチのオーケストラ」と言われたことに立腹して亡命を断念したといわれる

38年秋、外務省から再び音楽特使に任命され渡欧、45年末の帰国まで、カールのサポートを得て欧州各地で活動を展開

39年にはオペラも上演

ベルリン・フィルの定期での指揮は4010月が最後だが、ゲッペルスは秀麿が時の日本の首相の弟ということを政治利用しようと考え、ドイツには子爵の称号がなかったため、伯爵(グラーフ)を冠して「グラーフ・コノエ」と表記、親独の指揮者として権威づけた

日本大使館は、41年来栖から大島に大使が代わると、秀麿を目の敵にした。大島を戦争回避を試みた文麿を邪魔した開戦の責任者の1人の烙印を押した秀麿に対し、大島も後には近衛の如何なるコンサートも開催させないようドイツ側に指示するところまで関係は悪化

大島の策謀もあって、ドイツ警察の監視下に置かれた秀麿は、437月のバルト海沿岸の小さな町での演奏会を最後に指揮棒を置く

2か月後ポーランドの3都市で公演を行い、ワルシャワでは市民オーケストラを指揮しているが、うち2つまではポーランド総督のハンス・フランクの要請によるもので、その後ワルシャワに回ったもの。ゲットーが解体され、ユダヤ人の大半が収容所送りになったポーランドで演奏会など至難の業のはずだが、陸軍に召集されたドイツ放送の音楽部長だったカール・レーマンが国防軍最高司令部に所属、ドイツ労働戦線に出向していて占領地で開催するコンサートの規格と運営をしきっていたために実現

44年初、秀麿と独日協会がカールの仕切る労働戦線にオーケストラ結成を申請し、メンバーをフランスやベルギーから搔き集めて何とか4月に第1回公演をパリで開催

フランスやベルギーの地方都市を回って演奏をし、亡命希望者はそこの地下組織の協力を得て国境まで連れていく。その地域が担当だったカールが労働戦線の移動許可書を手配したことを匂わせる秀麿の話が、後日の著作に見え隠れする。フランス国境近くのガソリンスタンドの屋根裏に隠されていた大量の楽譜もその時秀麿が持ち出して匿ってもらったのではないか

31名のメンバーの中には戦後世界的に活躍した名演奏家の名前がいくつもあるが、ドイツ軍の後退とともにフランスでは435月全国抵抗評議会(反ナチ・レジスタンス)が設立され、近衛オーケストラが解散した翌年6月の3か月後には人民裁判所が設置され、対独協力者の摘発・処刑が始まったこともあって、親独と見做されていた「近衛オーケストラ」に所属していたことは公表できなかった

「近衛オーケストラ」の活動目的が、将来嘱望される才能ある若者を、後の世に繋ぐための「救済」だった

杉浦千畝氏の名誉が回復されたのですら、終戦後40年経った1985年のこと。日本人唯一のヤド・ヴァシェム賞。日本での名誉回復は1991

 

第5章        最後の謎――米軍中尉ネルソンとの対話

最後の謎は、なぜ自らアメリカ軍に投降したのか?

44年、戦争末期を迎え、近衛は演奏会で使用したいくつもの修正を加えた楽譜をの保存に腐心、ノルマンディ上陸直後にライプツィヒ郊外に部屋を借りて楽譜を隠した後、そこで投降。54年にはこの街の自動車整備工から、「屋根裏に隠した楽譜をどうしたらいいか」との照会の手紙が近衛に来ているが、秀麿の旧知の整備工だったことが判明

4412月、満州日日新聞ベルリン特派員の淡徳三郎を通じて文麿から、米国務長官代理ジョセフ・グルーとの面談のアレンジを依頼する連絡が入り、スイス駐在の朝日記者笠信太郎を介してアメリカと連絡を取った結果、アメリカ軍に投降せよとの指示が来る

4月指示通り投降した後、ソ連軍からの命令で地元警察が近衛の楽譜を没収に来て、ゲヴァントハウス管弦楽団の資料庫に保管するといって持ち去り、現在に至るまで行方不明

整備工からの照会は、膨大な楽譜の中から秀麿が何枚か抜き出したもののようだ

3月の連合国派遣軍総司令部の資料に秀麿の名前が事前に登録されていることから、アメリカ政府が正式に秀麿との折衝を受け入れていたことがわかるが、秀麿は一般捕虜と同等の扱いで、軍法会議に向けた調書を取られ、アメリカ政府が秀麿の存在を知るのは6

現地の取り調べの報告書の内容は、秀麿への尋問記録ではなく、日米和平工作のために秀麿が提案したプロパガンダに関する事柄をアメリカ国務省へ提出した報告書。訊問したネルソン中尉の異例ともいえる意見書が添えられ、中尉の秀麿に対する敬意すら感じられる

7月アメリカに移送されることになった時、ネルソンの後任者から、ネルソンがユダヤ人のヴァイオリニストで秀麿の指揮で演奏したことがあり、志願して秀麿の尋問に当たったと聞かされる

 

エピローグ

ペンシルヴァニアの収容所に移送され、他の日本人と合流して終戦を迎える

126日帰国、15日荻外荘に兄を訪問、2人きりで話をした後、仮眠した間に兄は服毒

兄が秀麿に言った最後の言葉は、「お前は音楽を選んでよかったなぁ」

カール・レーマンはイギリス軍捕虜収容所に送られ、士官への要請を断り続けてきたが、「非ナチ化裁判」に召喚、名誉回復後はバイエルン放送局へ復帰し、著名な音楽家たちをプロデュースしてドイツ音楽界にその存在を顕示したが、秀麿との再会は果たせず

秀麿が最後に指揮をしたのは73年、早稲田大オーケストラの定期演奏会を控えたリハーサル。曲目はシベリウスの交響曲2番。41年ヘルシンキ交響楽団を指揮して演奏した思い出の曲。演奏会場に置いたマイクがシベリウスの自宅のラジオで流す。シベリウスはヘルシンキ交響楽団の事情から2管編成で作曲したが、作曲家の本意ではないと判断した秀麿  は4管編成の「近衛版」で演奏、放送後シベリウスは秀麿を自宅に招いて感謝を込めて特別の葉巻をプレゼントして、秀麿の音楽性を賞賛したという

戦後秀麿は、日本で東京交響楽団やABC交響楽団、読売日本交響楽団などの結成と育成に尽力、晩年には自身が音楽家を志した原点に立ち戻って、地方都市や大学などのアマチュアオーケストラの指導に情熱を注いでいる。特に近衛家ゆかりの地にある京都大学のオーケストラとは長年にわたる指揮によって数々の「近衛版」による名演を残している

 

Wikipedia

近衞 秀麿(このえ ひでまろ、1898明治31年〉1118 - 1973昭和48年〉62)は、日本指揮者作曲家。元子爵正三位勲三等。元貴族院議員後陽成天皇男系十二世子孫である。

概要[編集]

日本のオーケストラにおけるパイオニア的存在であり、「おやかた」という愛称[注釈 1]で親しまれていた。評価がされない時期もあったが、2006には初めて近衞に関するまとまった本が出版されるなど、再評価の動きも徐々に出てきている。

人物・来歴[編集]

誕生~新響[編集]

18981118公爵近衞篤麿の次男として東京市麹町区(現:千代田区)に生まれる。異母兄に近衞文麿政治家・元内閣総理大臣)、実弟に近衞直麿雅楽研究者)、水谷川忠麿春日大社宮司)がいる。

近衞家五摂家筆頭の家柄で、また皇室内で雅楽を統括する家柄でもあった。音楽は文麿の影響で興味を持つようになった。学習院時代に犬養健らと親しくなり、1913頃には東京音楽学校の分教場、次いで上野の本校によく遊びに出かけていたと言われている。一時期飛行機に熱中した時期もあったが、やがて本格的に音楽の道を志すようになり、飛行機の趣味を断つ証としてヴァイオリンを正式に勉強することを許された。

1915からは、牛山充の紹介で、ドイツでの作曲留学から帰国したばかりの山田耕筰に作曲を学ぶようになった。一方で、東京音楽学校にあった交響曲を片っ端から写譜するなどオーケストラへの興味を強めていった。

1920瀬戸口藤吉が主宰していたアマチュアオーケストラを瀬戸口の代演で指揮し、指揮者デビューを果たしたが首尾よくは行かなかったようである。学習院初等科学習院中・高等科を経て、東京帝国大学文学部に入学するが中退した。

1923、秀麿はヨーロッパに渡り、ベルリンで指揮をエーリヒ・クライバーらに、作曲をマックス・フォン・シリングスフルトヴェングラーの師)、ゲオルク・シューマンに学び、パリで作曲をダンディらに師事する。

ヨーロッパ滞在中の1924118に、かつて山田がそうしたように秀麿も自腹でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を雇い、ヨーロッパでの指揮者デビューを果たした。また、ドイツのインフレと著しいマルク安にも助けられて、おびただしい数のオーケストラ用の楽譜を買い込み、同年9月に帰国。

1925には山田耕筰と協力し、日本交響楽協会を設立。定期演奏会や、ハルビン在住の楽士を加えた「日露交歓交響管弦楽大演奏会」も成功させた。

「常設オーケストラの設立」という山田の夢を直接的にかなえる役割を果たした秀麿であったが、マネージャーの原善一郎が不明朗経理を糾弾された際、秀麿は原の味方にまわった。当時山田は体調を崩しており、秀麿と原が山田の代わりに会計に携わっていたが、その際に5,400円(当時)もの謎の使途不明金が出て、原がそれを山田に尋ねたところ逆に不明朗経理を糾弾され、さらに解任を言い渡された。

この問題に関しては、後に関東軍の情報担当にもなった策士の原が金銭を罠にして山田を釣ったという説があるが、山田が儲けの半分を独占し、残り半分を楽員全員で山分けすることに不満の楽員を秀麿と原が自派に引き入れて分裂に至らしめた、という説もあり真実は不明である。

秀麿支持派は44名に達し、この集団を以って「新交響楽団」と名乗り、秀麿が常任指揮者となり、放送が開始されたばかりのJOAKと契約することになった。その後、新響は日本交響楽団を経て、1951NHK交響楽団N響)となった。

1927220に、新響は初めての定期演奏会を秀麿の指揮で開いた。以後約10年もの間近衞は新響とともに、日本に交響楽を根付かせる運動に奔走することとなる。演奏会ではベートーヴェンモーツァルトなどの古典派音楽に加え、マーラーや当時における現代音楽などをレパートリーとして演奏している。また、1930にはマーラーの交響曲第4を世界初録音している。

1930秋からヨーロッパに単身演奏旅行に出かけた秀麿はフルトヴェングラーやブルーノ・ワルター、クライバーらが指揮するベルリン・フィルやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの演奏を聴き、日本と海外のレベルがあまり縮まっていないことを痛感したという。折りしも、国内でも「新響はさほどレベルアップしていない」という評価が多く占めたこともあり、帰国後、秀麿は大鉈を奮って人員刷新に取り組むことになった。

楽員サイドと「革新実行委員会」を作り、どの楽員をリストラすべきか検討したが難航した。そこで、手っ取り早く塵を払うべく、原の提案で、待遇改善をしつこく訴えたり原の行動に不満をぶちまけた楽員をリストラすることになり、結果17名(23名説もある)の楽員をリストラした。解雇された楽員は新響や原を一度は告訴するも、やがて音楽評論家堀内敬三が面倒をみることになり、堀内が愛用していたタイプライターの名前にちなんで「コロナ・オーケストラ」と名乗った。後年、「東京放送管弦楽団」と改称し、幾度のメンバー変遷などを経て現在もNHKで活動をしている。この一連のリストラ騒動を「コロナ事件」という。この一件の後、新響は新楽員を入れたが、その際秀麿の提案で4名の女性楽員を入れた。これが、学校付属のものなどを除けば、日本のオーケストラに女性が入った嚆矢である。

「コロナ事件」を経て、再び新響の活動も順調になったはずであったが、1935713、楽員一同が原の不明朗経理を糾弾し、同時に新響を法律上の組合組織に改組する旨宣言した。楽員側は宣言文にさりげなく秀麿の名前を入れたが、秀麿自身は寝耳に水の話であった。JOAKは秀麿と原の味方をし、評論家は二分、音楽ファンは楽員側を応援した。評論家は挙って音楽雑誌で論陣を張り、この問題を取り上げた。

秀麿は718、新響を解消して新オーケストラを結成する宣言を出したものの、今回は楽員達がまったくついてこず、結局秀麿は新響を退団。原も追放された。一方で、新響もJOAKとの契約を一時解消され、813には日比谷公園野外音楽堂で無指揮者演奏会を開き、8月末には契約も復活したが、秀麿の退陣で常任指揮者が不在となり、定期演奏会に出演する指揮者が度々変わった[1]。この状態は1936秋のヨーゼフ・ローゼンシュトック着任まで続くこととなる。

海外[編集]

フリーの立場となった秀麿は中央交響楽団を短期間指揮したのち、1936に新響と一応の和解を果たす。一時的に上海交響楽団などで活動した後、同年、首相広田弘毅によって音楽使節に任命され、再び海外に向かう。この件はレオポルド・ストコフスキーから秀麿に客演の要請があり、その流れで実現した話である。まずアメリカに向かい、ストコフスキーのほかユージン・オーマンディアルトゥーロ・トスカニーニと面会、193611月にはヨーロッパへ移りBBC交響楽団ドレスデンリガの歌劇場などに客演する。

1937に入るとアメリカを経て一時帰国。日本とアメリカの幾度かの往復の後ヨーロッパに移動した。1938に一時帰国し改めて親善大使に任ぜられたのち、再びアメリカ・ヨーロッパに向かった。NBC交響楽団の指揮者陣に加わったが、アメリカの対日感情悪化で話が流れ、即座にヨーロッパに移動。ヨーロッパでは有名無名問わず各国でおびただしい数のオーケストラを指揮した。第二次世界大戦勃発後も親交のあったユダヤ人を匿うなどをした[2]ためドイツでの活動が1943年以降制限されたものの、華やかな演奏活動を繰り広げた。

19381939ベルリンミュンヘンデンマークスウェーデンなど

1940:ミュンヘン、ベルリン、ウィーンなど

1941ヘルシンキ(この際、シベリウスと親交を結んだ。また大統領から「フィンランド白薔薇十字勲章大十字章」を授かった)。ハノーファーなど

1942ブレスラウハンブルクなど

1943ベオグラードソフィア(ブルガリア国王ボリス3の前で御前演奏を行い、勲章を授かった)、ミュンスタークラクフルヴフワルシャワブリュッセルなど

1944パリベルギー

19454月、ドイツの敗戦によりライプツィヒでアメリカ軍に抑留され、アメリカ経由で12月にようやく帰国した。その直後、秀麿の兄で元首相の文麿が自殺している。帰国前の19451111日、戦時中に外交官が抑留されていたベッドフォード・スプリング・ホテルで、日本人の解放を祝う演奏会が開かれたが、その演奏者リストに名を連ねている[3]

戦後[編集]

帰国した秀麿は、40代半ばにしてすでに日本の指揮者界の長老格となっていた。1946からは、上田仁とともに東宝の肝いりで創設された東宝交響楽団(東響)の常任指揮者となる。東響では、上田が現代ものを、秀麿が古典派ロマン派の作品を指揮するよう役割が決められていた。

1948より日本芸術院会員となった秀麿は、1949、知り合いの楽員を集め、学校での音楽教室を主眼とする「エオリアン・クラブ」を結成した。1950、東宝が東宝争議を経て東響を縁切りするにあたり、秀麿は東響を半ば追放同然のように去った。

エオリアン・クラブでの活動に本腰を置くようになった秀麿は、1952、このクラブを発展させ、第一生命の後援を受け、近衞管弦楽団(近響)に改組する[4]アルバイト奏者として近響に短期間在籍したことのある岩城宏之によれば、秀麿邸はオーケストラがすっぽり入れるほど大きかったという。一生命や、当時第一生命が主要株主であったラジオ東京の支援も大きく効いたが、第一生命が当局の指示により、のちに近響のスポンサーを降りた。

その後、秀麿は、当時日本フィルハーモニー交響楽団(日本フィル)の専属オーケストラ化を計画していた文化放送に対し、近響を日本フィルの中核にするよう申し入れるが、文化放送社長水野成夫の横槍もあり、結局秀麿だけが除け者にされる結果に終わった。 晩年には日本フィルとの関係も好転し、1969から70の音源と映像[5]には現在でも接することが出来る。

次に秀麿は、近響の演奏会をCBC(中部日本放送)ともども支援してきたABC(朝日放送)に契約を持ちかけ、近響は1956ABC交響楽団(ABC響)に改組する。しかしながらABC響の活動は順調とは言えず、待遇面で不満を持ったヴォルフガング・シュタフォンハーゲンら主だった楽員が別のオーケストラ「インペリアル・フィルハーモニー」を結成したりもし、ABC響崩壊の危機の原因にもなった。

そういった中、1960秋にはABC響のヨーロッパ演奏旅行が挙行され、秀麿も指揮者として渡欧することとなった。同時期には、かつて自分がトップに君臨していたN響も世界一周旅行を計画しており、秀麿はN響が若手メインで構成されていたことを危惧し「あれが日本のトップ団体と思われては困る」という趣旨の発言をするなど余裕すら見せていたが、ABC響の演奏旅行はプロモーターに逃げられたり、そのために資金が底をつき楽員の一部がローマで立ち往生し(大使館のあっせんでオリンピック選手村跡地の施設に宿泊)、年を越して帰国するなど、大成功のN響とは裏腹に無残な結果となった。演奏評そのものは高く、秀麿もヨーロッパの旧友と再会するなど良い事もそれなりにあったが、一連のゴタゴタ騒ぎはABC響の息の根を止めるには十分であった[注釈 2]。なおABC響の名義は受け継ぐ者があり、1960年代半ばまでバレエ公演などに使用されていた。

ABC響の消滅以後、秀麿は再びフリーの指揮者になり、読売日本交響楽団大阪フィルハーモニー交響楽団、さらに京都大学交響楽団などプロ・アマ問わず多くのオーケストラを指揮した。1967にはN響の第484回、第485回定期演奏会に出演。翌1968にはN響とともに「明治百年記念式典」に出席した。この年の7月には民社党から参議院議員選挙に立候補(京都地方区)したが落選(次点)している。息子の秀健の証言によると「僕は断固反対したんですよ。だけど親父は、公認料が欲しかったんです」という[6]。なお、この時期に読売日本交響楽団を指揮したベートーヴェン、シューベルト、スメタナ、ドヴォルザークなどの作品を録音しており、現在CD化されている。

また、これに先立つ1966年には音楽学校設立に関する手形詐欺事件に巻き込まれ、金融業者から手形をだまし取られた上に京都地裁に訴えられ、1966930、京都地裁で6000万円の損害賠償を命じられた上、1967年には大阪地検特捜部から1000万円の手形詐欺容疑で任意出頭を求められ、最終的に800万円の負債を清算するため東京赤坂の自宅を手放すことを余儀なくされるなど苦難の連続でもあった[7][8]1969には創設されたばかりの日本フルトヴェングラー協会から会長就任を懇願され、引き受け講演も行っている。この講演は、協会盤CDとして聞くことができる。

晩年の演奏活動としては、1970年に初来日したオーボエ奏者ハインツ・ホリガーの伴奏(日本フィル)を行なっており、ダリウス・ミヨーのオーボエ協奏曲はこの時が日本初演であった。

197362、前日から世田谷区野毛の新居で就寝中に脳内出血を起こし急死した。74歳没。秀麿が電話に出たら突然ヤクザのような男から「ばかやろう」とどなりつけられ、そのショックで死んだとのうわさもささやかれた[9]。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺。

オーケストラの運営は、自腹でインフラ整備をしたにもかかわらず困難と失敗の連続であったが、亡くなる直前まで指揮活動や後進の指導にあたり、晩年の不遇な事項を別にすれば、「おやかた」の愛称にふさわしい活動を繰り広げた。

秀麿の没後に行なわれた追悼演奏会では、前年に分裂した「日本フィル(日本フィルハーモニー交響楽団)」と「新日本フィル(新日本フィルハーモニー交響楽団)」双方の楽員が、立場を超えて共に演奏した最初の機会であり、これも秀麿の人徳あっての出来事として記憶されている。

秀麿のオーケストラ運営[編集]

新響・近響ABC[編集]

戦前期の新響にせよ戦後の近響(近衞管弦楽団)ABC響にせよ、秀麿が精魂こめて作り上げたオーケストラはすべて秀麿の手元には残らなかった。

日本交響楽協会分裂・「コロナ事件」・「新響改組事件」には策士・原善一郎が常に絡んでいたし、近響ABC響では待遇問題や経済的な理由が常につきまとっていた。もっとも、「コロナ事件」で大鉈を振るったことに関しては、理由に違いはあれどアルトゥール・ロジンスキニューヨーク・フィルハーモニックで行った大リストラに類似性を見出すことは出来る(もっとも、ロジンスキのニューヨーク時代はこの大リストラの祟り?のせいか短かった)。

己の理想と現実とのギャップに悩まされたのがオーケストラ運営の障害になったのは明らかだが、それ以上に周囲の人間にあまり恵まれなかった面もある。原に関しては朝比奈隆を見出した実績もあるのだが、戦後期の日本フィルを巡るやりとりやABC響でのゴタゴタではあまりにも秀麿に人の運がなかったか、秀麿の人柄を見透かしたかのように秀麿の元から人が離れていった。

秀麿の人柄を「貴族的な冷たさを持っていたがゆえに人がついていかなかった」と指摘する人もいる一方、晩年期に詐欺事件に巻き込まれた例などをみるに「人が良すぎ、策士や少々如何わしいプロモーターなどに気軽に乗っかってしまい、結果的に大火傷を負う結果となった」と見る人もいる。このように、秀麿の日本でのオーケストラ運営に関しては様々な見方があるが、秀麿の内弟子であった福永陽一郎は秀麿のオーケストラ運営を次のように語っている。

「近衞秀麿は終生、オーケストラとの関係を不首尾に終わらせている。本来の指揮者としての力量を承認しないものは一人もいなかったが、その対オーケストラの思考の方向は、いつもオーケストラ自体の首肯し難いほうへ進んだ」「天皇家よりも由緒の明確な千年の貴族というものの悲喜劇を、首相だった長兄の文麿公ともども体現した人だったといえる」(福永陽一郎「演奏ひとすじの道」『CONDUCTORCONDUCTOR編集部/山崎「秀麿蕩尽録」所収)

その他[編集]

19444月に「オルケストル・グラーフ・コノエ」をパリで組織している。秀麿の回想によれば、ヨーロッパ各国の仕事がなくなった楽員やユダヤ系の楽員などをかき集め、主にフランドルを巡演して回ったオーケストラであるが、同年6月のノルマンディー上陸作戦前後に巡演先で解散した。このオーケストラには後にソリストや教授として有名になる人物も在籍していたようだが、「ドイツ寄り」の過去が明らかになるのを恐れ、その事実を伏せているようである。『音楽家近衞秀麿の遺産』によれば、ピエール・ピエルロジャック・ランスロが在籍していたとある。

作品[編集]

作曲[編集]

作曲活動は学生時代から習作を初めかなりの数を作曲していた。プロの音楽家になってからの作曲活動はそれほど活発ではなかったが、童謡『ちんちん千鳥』(詞:北原白秋)やオーケストラのための作品などがある。また法政大学校歌(詞:佐藤春夫)や立命館大学校歌(詞:明本京静)など、校歌の作曲も手がけている。

主な作品

「管弦楽のためのアンダンテ」(1917年、「序曲」と同一作品の可能性有)

「序曲」(1919年、山田耕筰が演奏)

李太白による酒の歌3首」(ドイツ語訳)

「行進曲《前進》」(1921年に海軍軍楽隊が演奏した「行進曲ト長調」と同一作品の可能性有)

「日本組曲《あけぼの匂ふ》」(独唱とピアノのための、八木梅子作詞)

「七つ坊主」(独唱とピアノのための、北原白秋作詞)

「ちんちん千鳥」

「犬と雲」「烏の手紙」「虹」(以上、西條八十作詞)

「舟唄」「ふるさとの」「赤穂市立赤穂小学校校歌」(以上、三木露風作詞)

「大洪水の前」(有島武郎作詞)

愛媛県民の歌」(洲之内徹作詞)[10]

「大礼交声曲」

「国民精神の歌」

「銃後の女性」

「新興日本少女の歌」

「戦友の英霊を弔ふ」

「天理教青年会会歌(天理高等学校校歌)」(明本京静作詞)[11]

法政大学校歌」(佐藤春夫作詞)

立命館大学校歌」(明本京静作詞)

東京都立足立高等学校校歌」

宮崎県立延岡高等学校校歌」

愛媛県立松山東高等学校校歌」

「東京都私立高輪中学校・高等学校校歌」(土井晩翠作詞)

「東京都世田谷区立緑丘中学校校歌」(佐佐木信綱作詞)

赤穂市立赤穂小学校校歌」(三木露風作詞)

編曲[編集]

秀麿がデスクワークで重きを置いたのは作曲よりも編曲の分野であった。雅楽『越天楽』のオーケストラへの編曲をはじめ、ベートーヴェンの交響曲全曲、『展覧会の絵』、シューマンの交響曲第3番、シベリウスの交響曲第2番など、オーケストラ楽曲の校訂や楽器の追加・変更などを行った。1946年から1962年にかけて行われた「第九」の編曲は、自筆スコアが保管してあった京大オーケストラ練習所の火災で失われ、現在は東京の近衞音楽研究所にコピー譜が遺されている。

なお、現在NHKの放送終了時(サインコール時)やオリンピックの表彰式の国歌など公共の場で使用される君が代は、秀麿の編曲によるものである。

晩年、秀麿はNHKの受信料を払わなかった。それはNHKがサインコールに使用した秀麿編曲の君が代の著作権代を支払わなかったからと言われている{要出典|date=202110}

主な編曲作品

君が代(オーケストラ版)

越天楽平調)」 (チェレプニン・コレクション No.6)

交響曲全曲(ベートーヴェン)

交響曲第3番「ライン」(シューマン)

交響曲第2番(シベリウス)

ピアノ協奏曲第1ショパン

大交響曲(弦楽五重奏曲ハ長調D.956シューベルト

展覧会の絵(オーケストラ版)

箏曲「六段

蛍の光(オーケストラ版)

栄典[編集]

1919(大正8年)19 - 子爵[12]

1973(昭和48) - 勲三等旭日中綬章(没後追贈)[13]

家族・親族[編集]

秀麿は2度の結婚の他に「」も持っており女性遍歴も派手であった。2人の正式な妻の他に、実子を産んだ女性が少なくとも2人おり、また、終戦後アメリカ軍に抑留された際、尋問で子供の数を聞かれ、しばらく沈黙した後「今何人いたか数えているところだ」と言い放って取調官を沈黙させたように、他にも実子誕生までに至った女性が何人かいるようである。名門貴族の家ならではの複雑な事情が入り混じっている。

一度目の妻

毛利泰子(1920結婚、1956離婚。文麿の妻・千代子の妹)

長男:秀俊1921-192391日)関東大震災津波に襲われ死去した。

養子:通隆1922-2012年)文麿の次男。19351012に養子として入籍[14]

長女:百合子(1922-)子爵小出英昌と結婚するが1944年に死別。自らも胸を病みながら歌人として生きた。

次女:磨璃子(1926-1952年の映画『八幡』(インターナショナル映画)の音楽を担当。19555月、ドイツ系アメリカ人の軍人カール・テイレンゼスと結婚したがまもなく死別[15]

この結婚は秀麿にとっては不幸な結果だったと思われ、離婚に至った経緯等は一切語っていない。秀俊を関東大震災で亡くしたショックが原因とも言われている[誰によって?]。離婚騒動は当時のマスコミを賑わすスキャンダルとなり[16][17][18][19]、月刊「読売」に愛人の澤蘭子の手記「愛に破れて」が登場した[20]ほか、月刊「青春タイムス」には阿部鞠也の筆名で「実名小説 色魔近衛秀麿」なる暴露小説が登場[21]、この小説には「女から女え(ママ)、肉欲を求めて飽くことを知らぬ世界的名指揮者は、女体に接する毎に、インスピレーションを得る、というのだ。(中略)これぞ、昭和最高の愛欲流転史」というリード文が付けられていた。

二度目の妻

長井和子(1933827-1956年結婚。近衛管弦楽団の事務を取り扱っていた女性。

四男:雅楽1958621-)幼い頃からチェロを習っており、1972年東京ユース・シンフォニー・オーケストラのスイス演奏旅行に参加する。

愛人

坪井文子(190179-?

次男:秀健(作曲家、宮内庁楽部指揮者。193124[22]-2003331[23]

孫:1962224-バスーン奏者

孫:文子(1963 - )翻訳者、NHK国際部勤務

孫:1967121-)弁護士

三男:近衞俊健[24]水谷川忠俊1935129-水谷川忠麿の養子となる。作曲家。山本直純の助手を務めたこともある。

孫:水谷川陽子ルガーノ在住のヴァイオリニスト)

孫:水谷川優子ザルツブルクを本拠にするチェロ奏者)

服部時計店創業者服部金太郎とともにヨーロッパを視察したこともある時計商坪井徳次郎の養女。一説には千代子・泰子の実家毛利家の家来筋の家系と言われている[25]。文麿ら近衞本家の影の圧力に負け、秀健と忠俊を産んだ後、経師職人と再婚した。

愛人

澤蘭子1903-2003年)

三女:曄子(1940-1945928日)

澤蘭子(本名:松本静子)は元宝塚歌劇団花組娘役宝塚歌劇団卒業生であり、宝塚歌劇団を退団後に帝国キネマ芦屋撮影所製作のサイレント映画『籠の鳥』に主演して歌川八重子が唄った主題歌と共に一世を風靡した映画女優である。撮影の為にアメリカへ向かう客船の中で偶然に秀麿と一緒になり、艶福家の秀麿を心配した兄・文麿からの「澤蘭子にさわらんこと。」という電報を秀麿が受けたのは有名な話であるが、忠告に反し夫婦同然となった。秀麿の渡欧の際も同行し女児・曄子(日本と中華民国の平和を願って、「日」と「華」が組み合字を使っている)を産んでいる。しかし、秀麿はドイツ陥落後にソ連軍によってシベリアに抑留された蘭子と曄子親子を捨ててさっさと外交特権で先に帰国した為に、曄子は敗戦直後の混乱に因る日本への過酷な引揚げ最中に体調を崩して父祖の地を踏むこともなく5歳で夭折した。蘭子はこのことで戦後に秀麿を告発する投稿、離縁条項の実行を求めて秀麿を告訴している。その後、蘭子は長命で2003111に満99歳で京都府京都市下京区の知人の産婦人科病院の一室で亡くなった。葬儀は質素なものであった。

愛人

エルナ・ライセル - 秀麿の滞欧時代の愛人。当時25歳のズデーテン出身のドイツ人女性。雑貨商の娘で、在留邦人相手の娼婦であったともいわれる[26]

愛人

北澤栄(1908 - 1956年) - ソプラノ歌手

他にも「京都夫人」と呼ばれる女性などもいた。晩年、朝比奈隆に「もうアチラ(女性遊び)のほうはおやめになっては」と切り出され、秀麿は「でも、相手、ヨッ、喜んでおりますよ」と言い、朝比奈を唖然とさせたこともある[27]。何股をかけようとも、秀麿は女性たちに惜しむことなく愛情を注ぎ、また自分の方から身を引くので相手は文句がなかなか言えなかった(澤蘭子は別)と言われている[誰によって?]

系譜[編集]

近衞家[編集]

近衞家は、藤原忠通の子である近衞基実を始祖とし、五摂家の一つであった。

詳細は「近衛家」を参照

彼を取り上げた番組[編集]

NHK BS1スペシャル『戦火のマエストロ・近衛秀麿 〜ユダヤ人の命を救った音楽家〜』(NHK BS1, 201588日放送)[28]

玉木宏 音楽サスペンス紀行 〜亡命オーケストラの謎〜(NHK BS1, 2017729日放送)[29]

脚注[編集]

注釈[編集]

1.    ^ 由来は、親方もしくは御館様が転じたもの。また、文麿が「殿様」と言われていたのに対し、秀麿が「御館様」と呼ばれていたのがルーツとも。

2.    ^ 1961解散」と書かれている文献もあるが、正確な解散時期は不明である。

出典[編集]

1.    ^ その中には、齋藤秀雄貴志康一などもいた。

2.    ^ NHK BS1スペシャル『戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~』(201588日放送)

3.    ^ 2012921日付ニューヨーク・タイムズ

4.    ^ 略称は「近響」。「近管」では他のオーケストラとの語呂が悪かったらしく、「近響」にしていたと言う。

5.    ^ シベリウス交響曲第2ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン皇帝』(ピアノは園田高弘

6.    ^ 大野芳「近衛秀麿」p.396

7.    ^ 「週刊大衆」1967223日号「元華族近衛秀麿氏 手形事件の波紋」。

8.    ^ 大野芳「近衛秀麿」p.393-395

9.    ^ 大野、p.399

10. ^ 1973年に新県民歌「愛媛の歌」制定に伴い廃止。

11. ^ 2009年より正式に校歌に制定。それまでは正式な校歌は同校にはなかった。

12. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1919110日。

13. ^ 「故近衛秀麿氏に勲三等」『朝日新聞』昭和48年(1973年)613日朝刊、13版、23

14. ^ 大野芳『近衛秀麿』p.247

15. ^ 大野、p.389

16. ^ 「朝日新聞」夕刊、195024日付。

17. ^ 「週刊朝日」1950219日号。

18. ^ 「読売新聞」1950516日付。

19. ^ 「読売ウィークリー」1950520日号。

20. ^ 「月刊読売」19507月号、p.13-18

21. ^ 「青春タイムス」19507月号 p.59。ただし目次によれば執筆者は「近江不二」名義である。なお、当該号には阿部鞠也名義の「小説 山田五十鈴」が掲載されている。

22. ^ 大野芳『近衛秀麿』p.247

23. ^ 近衛秀健氏死去 宮内庁式部職楽部指揮者

24. ^ 大野芳『近衛秀麿』p.249

25. ^ 大野、p.178

26. ^ 大野、p.313-314

27. ^ 大野、p.392

28. ^ “戦火のマエストロ・近衛秀麿”. 201684日時点のオリジナルよりアーカイブ。202139日閲覧。

29. ^ “玉木宏、日本人指揮者・近衛秀麿に迫る紀行番組への参加は「俳優としての財産」”. 映画.com (2017718). 2021105日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021109日閲覧。

 

 

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