闇の盾  寺尾文孝  2021.9.23.

 

2021.9.23. 闇の盾 政界・警察・芸能界の守り神と呼ばれた男

 

著者 寺尾文孝 日本リスクコントロール社長。1941年佐久市出身。岩村田高卒後、60年警視庁入庁。水上署、第一機動隊を経て、66年退職。元警視総監の秦野章参議院議員の私設秘書。76年エーデル・パレス社設立伊豆狼煙崎などの開発に取り組むがバブル崩壊で頓挫。99年危機管理会社日本リスクコントロール設立。仕事の依頼は全て口コミで、電話番号も非公開だが、政治家、企業経営者、宗教団体、著名人など、あらゆるところから持ち込まれる相談事やトラブルに対処、解決する知る人ぞ知る最強の「仕事人」

 

発行日           2021.5.31. 第1刷発行

発行所           講談社

 

プロローグ

02年、富士宮の後藤組組長・後藤忠政の快気祝いに主賓格で招かれ佐久からベントレーで駆けつける。山口組の若頭補佐だった忠政は、この地での創価学会の墓苑開発事業に関わって名を馳せ、98年にはここに豪邸を建てるが、持病の肝炎悪化で渡米して肝臓移植を受け前年秋快癒して帰国

ありとあらゆる種類の人間が種々の相談を持ち込む中で、池田保次、許永中、伊藤寿永光、田中森一、森下安道、野呂周介らバブル紳士との濃密な付き合いもあった

総て墓場まで持っていくつもりだったが、がんを患って2度の手術を受け、考えを変えた

 

第1章        渋谷ライフル銃事件

1965年ざまで18歳の銃マニアの少年が警察官に発砲、複数名を殺傷した後車を奪って渋谷の銃砲店に立て籠る。第一機動隊の巡査として出動命令が下り、狙撃も出来る至近距離に潜み上司から責任を持つと言われたが、その言葉に疑いを持ち、誰かが銃口を向けて立ち向かって犯人がひるんだ隙に、撃つ代わりに飛び掛かり最初に手錠をかける。犯人は死刑判決を受け、7年後処刑

しつこいくらいの事情聴取の後、警視総監表彰の警察功績賞に続く「賞詞2級」を受賞したが、将来に対する迷いの気持ちが芽生え始める

 

第2章        秦野章と田中角栄

68年、東芝府中3億円事件で聞き込みの対象となり、警察学校時代の同期生が刑事として尋問に来た。年齢と元警察官という経歴から聞き込みの対象となったようだが、そのほかにも、当時貧乏生活から脱して、高級車に乗り世田谷の高級マンションに住み、急に金回りがよくなったと思われていた

厳しい階級社会の実態を知って、66年初め退職。色々な商売をした中で儲かったのが、当時ブームとなったレース製品の傷物の原反を買ってうまく型紙を取り数倍で転売するもの

そんな時秦野章の知遇を得る。秦野は実家の製糸会社が倒産後、職を転々として辛酸を舐めたが、夜間の日大専門部から高文の行政科を受けて内務省に入省、4年目の43年からは警察畑を歩む。67年私大出身として初の警視総監。70年退官後都知事選で美濃部に完敗、74年の参院選で神奈川から当選、212年務める

議員になりたての秦野に警察時代の先輩が渋谷事件を引き合いに私に言及したら会いたいということになって、以後「私設秘書」として秦野事務所に出入りする

主として担当したのは交通違反のもみ消しだが、秦野から社会人としての基本を嫌というほど厳しく仕込まれ、人生が一変

秦野は「隠れ田中派」としてロッキード裁判を批判、中曽根内閣では田中の押しで法相になるが、田中の罪を暴こうとする伊藤栄樹最高検次長検事の東京高検検事長への昇格を阻止しようとしたが果たせず、裁判中も指揮権発動を狙ったが踏み切れなかった

田中が脳梗塞で倒れた後の86年の衆院選挙では、周囲が新潟への応援演説に尻込みする中、秦野だけは応援に駆け付け、最高得票で当選に貢献

76年、秦野について秦野ファンを自称する平相の小宮山に面談、1号線沿い三田国際ビルの向いにある不動産の融資を取り付け、巨額の利益を手に入れ、金に不自由しなくなった

79年会長死去で反社会勢力への多額の融資の不良化が露見、策略を弄して平相を手に入れた住友に対し秦野は生涯敵愾心を燃やす

 

第3章        トラブル・シューター

73年、一番町に北炭の萩原吉太郎が建てたビルの1階に「壱番サロン」という高級会員制クラブがオープン。大野伴睦の知恵袋といわれた水田三喜男の事務所に出入りしていた女がママとなって、水田の有力後援者だった同和火災の細井会長をパトロンにして、「永田町の政治家と財界人が歓談するための会員制クラブ」と称していたが、マネージャーに持ち逃げされた事件が秦野事務所に持ち込まれ、私が経営を任されることになる

2棟のビルのオーナーとなって金回りがよくなった私は、秦野の支払いをするために夜な夜な色町を一緒に歩いたので、人脈が広がり、様々な「相談ごと」が持ち込まれるようになる

 

第4章        警察官僚の落とし穴

警察のトラブルも解決

三田署の巡査部長の多重債務問題も上司に傷がつかないよう解決

佐々淳行も秦野事務所に出入りして親しくなった。30年生まれで54年入庁。年齢を意識しない盟友のような関係になった。警備警察のエースとして活躍、安田講堂攻防戦やあさま山荘事件など多くの学生運動や過激派事件の対処に当たる。防衛施設庁長官となり、86年退官。才能を惜しんだ後藤田官房長官の指示で内閣安全保障室ができ初代室長となる。あれほどの才能に恵まれながら役人として出世しなかった裏には姉の紀平悌子の存在がある。市川房枝に私淑しその秘書を務めた後参議院議員となる。退職後独立を勧めたのは私だが、あることで衝突し仲違い(他の人はみな敬語なり肩書をつけて呼んでいるが、佐々だけは10歳も年長でありながら名前も付けて呼び捨てなのはなぜか?)

 

第5章        ドリーム観光攻防戦

梅田伸道の4棟の大阪駅前ビルは大阪市都市開発局による大阪駅前都市再開発事業として7080年代にかけて建設。その第2ビルに池田保次の率いる「コスモポリタン」がある

池田は元山口組系の暴力団組長

87年、秦野から日本ドリーム観光に副社長で送り込まれた私の目的は池田の排除

ドリーム観光は1913年南海が興行界の実力者山川吉太郎を支援、千日土地建物として設立、難波駅東側に「楽天地」という大型遊興施設を開業

21年白井松次郎が南海に代わって大株主となり、東京で松竹を興した弟の大谷竹次郎と一緒に東西で歌舞伎座を大林組に依頼して建設

54年、歌舞伎座の大道具等が千土地人権争議を起こし、会社側は興行師の松尾國三を社長にして収拾を図る。当時大阪府警刑事部長だった秦野は、松尾社長や吉本興業の林正之助社長らと連携し争議に対処。以後松尾は秦野を頼る

労働争議を乗り切った松尾は東京進出を図り、手始めに目黒の雅叙園観光ホテルに目をつける。雅叙園は「昭和の竜宮城」ともいわれた高級料亭「目黒雅叙園」の新館を分離独立させてホテルとしたもの。創業家の内紛に乗じて経営権を取得

松尾は歌舞伎座を御堂筋に移転、ディズニーランドのオープンに魅了されて61年奈良に「奈良ドリームランド」を、63年ドリーム観光と社名変更、64年には戸塚区に「横浜ドリームランド」を開業するが、順調にはいかなかった

72年楽天地の千日デパートから出火、夜半にも拘らず化学繊維からの煙で死者118人を出す大惨事となり、10年後にプランタンとして復活

84年、松尾死去。番頭が後を継いだが、6%弱の株を握る未亡人が会長に収まり、孫を取締役にしていたため、実権を握ろうと池田を頼った。池田は岸本組の配下にいたが、この頃独立し表社会に這い出して来て、経済やくざ・企業舎弟のはしり的存在

86年、池田率いるコスモポリタンがドリーム観光株取得に動き出し1.8%を握ると同時に、雅叙園観光の株式も買い占める。雅叙園観光はドリーム観光の6.4%の株主だったため、雅叙園観光を通じてドリーム観光の支配が可能

86年、政界を引退した直後の秦野からの紹介で、ドリーム観光の内紛を放っておけなかった吉本の林社長と面談、救済に乗り出す

秦野の威光で内閣情報調査室と大阪府警が全面的に協力、大銀行が消極的な中、麻布自動車への巨額融資で前のめりだった三井信託の中島健社長が購入株の担保同時設定で引き受けてくれることになり、ドリーム観光に乗り込んでみると、池田との巨額の癒着が判明

池田が巨額の金を動かせるようになったのは、武富士の所有する駐車場の売買に絡んで100億近い利益を得たためで、その資金源になったのが森下安道率いる金融会社のアイチ

森下は「まむし」の異名をとり、「企業の葬儀屋」といわれるほど経営が傾いた企業相手に高利貸しで巨万の富を得る

池田が新歌舞伎座の権利証を勝手に持ち出し200億を借りたのがミサワホームの創業者。三澤に事情を話して権利証を取り戻すが、三澤はその後バブルにまみれ会社を追われる

池田は、絵画にも手を出し、野呂周介という暴力団がらみの金貸しから借り入れ

大阪でよく使ったのが尾上縫の「恵川」で、女将が江本孟紀にぞっこん

大阪の高級クラブで別格だったのが「桔梗屋」、一流以外はお断りで、三和の神田副頭取が毎晩のように飲みに来ていた

ドリーム観光は住友がメインだったが、秦野が嫌って三和に乗り換え、難波支店の竹田英樹支店長とは入魂に

ドリーム観光と雅叙園観光の関係を整理し始めた矢先の87年、ブラックマンデーで池田の資金繰りが破綻

88年、整理がついたドリーム観光をダイエーが引き受け経営が正常化したが、直後に池田が失踪、タクマをターゲットにした仕手戦に敗れた後の出来事

 

第6章        バブル紳士たちの宴

池田の紹介で伊藤寿永光や許永中とも知り合いに

池田は伊藤から借金、許は池田の弟子筋

池田の失踪で、同じ債権者の立場に立った私と伊藤は連絡を取りあう

伊藤は一時「平安閣」の総帥を名乗るが、地上げのプロとして頭角を現し、宅見組組長とも入魂。物件を動かしてはそれを担保に巨額の融資を引き出すという壮大な自転車創業

伊藤とくっついたのが大阪府民信組の焦げ付き債権を買い取って影響力を強め理事長に就任していた南野洋と、アングラ経済の仕事師として名前が知れ始めた許永中で、瀕死の雅叙園観光を巡り、3人は運命共同体となる

89年、地上げの資金繰りに困った伊藤はイトマンに目をつけ、業績不振で更迭されそうになったイトマンの河村の懐に飛び込み、巨額融資の見返りにイトマンの架空収益積み上げに協力。さらにアイチによるイトマン子会社の株式買い占めに危機感を抱いた河村が伊藤を仲裁役に使う一方、磯田の娘を巡る高額絵画の取引で巨額の資金が流出

イトマン事件で伊藤の弁護人となったのが田中森一。有名ヤメ検で「闇社会の守護神」の異名をとる

「環太平洋のリゾート王」と称された高橋治則は衆議院議員の山口敏夫の紹介で知り合う。実兄治之が電通の幹部で東京五輪組織委員会の理事。一緒に馬主になっていたこともあったが、パラオの観光開発に興味を持って視察に出向いたパラオでばったり再会。土地の権利が保証されないため開発への投資は断念したが、高橋は上告中の05年くも膜下で急死

九州に自動車レース場「オートポリス」を作った鶴巻智徳もバブル紳士の1人。住吉会をバックにビジネスをしていたが、F1レースの招致のためのJAFの許可取得の仲介を依頼される。ピカソの《ピエレットの婚礼》を75億円で競り落としたことでも有名。許可は取ったが92年巨額の負債を抱えて倒産。07年死去

 

第7章        裸一貫の再出発

86年、京浜急行が地上げした下田の狼煙(のろし)崎の岬を丸ごと買い取ってリゾート開発にかかるが、89年資金難で行き詰まり、支援してくれた佐藤工業の手に渡る

佐藤も湯沢のリゾートマンションの失敗で6年後倒産

狼煙崎は昭和天皇の御用邸の候補地だったが、立ち退きがうまくいかないまま、御用邸は対岸の三井財閥の別荘地須崎半島に作られた

京浜急行の会長は秦野氏の後援会長でもあって、買収話は15億円で決着。土地を気に入った平山郁夫が12枚の絵を描いてくれるというので美術館をリゾートの中心に据えた

漁協や環境庁の許可取得に手間取っているうちにバブルが崩壊

 

第8章        日本リスクコントロール

90年代末になると秦野氏が認知症となり、レギュラー番組の進行にも支障を来し、02年死去

追い詰められたところで閃いたのが、警察官の第2の人生の進路斡旋の仕組み作りで、キャリアOBの知り合いを口説いて一緒に99年日本リスクコントロールを立ち上げ、著名OBを役員に並べたが、会長をお願いした人材斡旋の窓口のはずのOBが急逝、人材斡旋業は供給源を失って、危機管理コンサルタント業務に絞らざるを得なくなる

 

第9章        墓場まで持っていく秘密

リキッドオーディオ・ジャパンがマザーズの第1号として上場。売上52百万の赤字会社が時価総額1600億円にまで跳ね上がるが、経営陣には上場前から黒い噂が絶えなかったため、創業者が相談に来たので、ヤメ検を役員に紹介、信用を補完したが、社長自ら社内のライバル引き落としに関与して逮捕、アメリカ本社からライセンス契約を破棄され経営は混迷。創業者はやくざの資金を頼って破滅の道へ

トラブル解決のために親しかった人とも袂を分かたなければならないが、それが佐々淳行

日本リスクコントロールの名誉顧問に名を連ねてもらったが、小金井カントリーに入会しようと副理事長に紹介されて推薦状をお願い、お互い人脈が繋がってきたと思ったら推薦状を断られたので、理由を質したところ共通の知己だった佐々が反対しているという。佐々の独立が軌道に乗って来て危機管理の第一人者としての認知が高まってきたころで、同じような仕事をしていた私に嫉妬をしてのことのようだった。お互いの家を行き来する家族ぐるみの付き合いだったが、方や東大卒警察キャリアを勤め上げたエリート、片や高卒の機動隊上がりではやむを得ないこと。そんなとき佐々が06年から会長をしている日本美術刀剣保存協会が発行する鑑定書を巡る恣意的な運用が槍玉に上がり、さらに09年には協会自体が数百の刀剣を違法に無登録で蔵匿していたことが発覚、捜査が入り協会存亡の事態に発展。私が協会の依頼で立て直しに乗り出し佐々を辞任させ、一部役員が書類送検となったが、何とか不起訴処分に終わり、協会も公益財団法人に認定され今日に至る

14年の都知事選では細川護熙候補から相談を受けて事務所の内部をチェックしたところ、鳩山邦夫事務所から5人もの秘書が派遣れて働きが悪い、調べると対抗馬の舛添事務所にも5人出し、両股かけていることが判明。さらに金に汚い舛添のやり方が目に余ったので週刊誌に情報をリークしたが、政権与党の強力な後押しで、人気の差では細川に百歩譲ったが圧勝。2年半後には吝嗇が原因で失脚したのは当然

07年未公開株を巡る詐欺・恐喝未遂で逮捕された羽賀研二も依頼人の1人だが、噓の証言をしたので相手にしなかった

02年末には顧問先の富士フィルム元会長小林節太郎の次男で陽太郎の実弟奎二郎が幹事を務める富士ゼロックスの協力会社の集まりの暴力団による恐喝への対応の相談がある

奎二郎氏の妻は重光葵の長女、娘は犬丸の御曹司に嫁ぐ

3カ月ほどかけてカツアゲされた金の回収に目途が立ってきたころ、突然謝礼金を持って現れ、直後に夫婦で無理心中。陽太郎も何も語らず、真相は闇の中

 

第10章     見えない権力

検察官には「赤レンガ派」と「現場派」があり、前者は法務省での勤務が長く、政治家との折衝などの機会が多い

20年、検事総長昇進目前に賭けマージャンで棒に振った黒川も、後任の林眞琴も同じ赤レンガ派だが、政治に対するスタンスはかなり違った

検事総長は東大・京大法卒の赤レンガ派が多いが、数少ない例外の1人が村木厚子事件の証拠改竄の大スキャンダル後の10年末に急遽総長になった定年直前の笠間治雄。17カ月の任期を勤め上げたあと12年日本郵政の社外取締役に就任、取締役会の重要案件持ち回り決議等に猛烈に反対してあっさり辞任。その後日本郵政はカンポ生命の不正などで大問題を起こす

森・加計問題で政権よりに立った黒川を総長にしようとした安倍政権は検察を甘く見た。検察は無理やりトップになっても現場が言うことを聞かなければ仕事ができない。黒川の引責辞任により、検察は次々と政治をターゲットにした捜査を開始

日本は独立したものの、日米地位協定によって好きな場所に基地を作ることができる。現に首都圏も米軍施設によって取り囲まれ、自衛隊固有の基地は貧弱。アメリカの意に沿わない政治家は抹殺、その典型が角栄。サイマルの村松氏は日米外交の要の通訳として名を馳せ、私とは家族ぐるみの付き合いだが私に影響されて考えを変えていったのが祟ったのか、徐々に経営が傾き、ベネッセに身売りし、村松氏自身も13年に死去

日本の社会で、本当の意味での「権力」を握っているのは誰か?

「見えない権力」が確かに存在する。その権力が向く方向性に抗い、違う方向性で動こうとすればたちまち押し潰される。常に「見えない権力」の向いている方向にアンテナを張っておかなければならない。それが危機管理の要諦

「見えない盾」となって顧問先を守るという意味を込めて本書のタイトルを「闇の盾」とした

 

 

 

 

 

 

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