ペルシャ湾の真珠  Charles D. Belgrave  2021.10.28.

 

2021.10.28. ペルシャ湾の真珠 近代バーレーンの人と文化

Personal Column      1972

 

著者 Charles D. Belgrave オックスフォード大卒。陸軍臨時士官としてアフリカ赴任。スーダーン、パレスティナ、エジプトに勤務。大戦終結時、陸軍からエジプト政府の出先の辺境地区行政局駱駝軍団に配置替え

 

訳者 二海(ふたみ)志摩 1950年山形県生まれ。東教大文卒、同大学院修了。考古学専攻。西アジア、特に湾岸の古代文明に関心を持ち、主にバーレーン、カタルなどで古代遺跡の研究・調査を行う。その中で本書に巡り合い、この地の近現代史について知るべきことの重要性を痛感。古代から現代まで続く湾岸の通史に関心を注いでいる

 

発行日          2006.3.20. 初版発行

発行所           雄山閣

 

 

英人チャールズ・ベルグレイヴ卿は、第2次大戦を挟む31年間、ペルシャ湾岸のバーレーン国顧問官を務めた。湾岸アラブ国の支配者たちと近代化を進めた筆者の目を通して、アラブ社会の伝統と文化、激動する中東情勢の本質が解き明かされる

現代アラブ世界を理解するための好著

 

 

1972年版序文  ジェイムズ H. D. ベルグレイヴ

本書は、私の父、後にサーの称号を与えられたチャールズ・ベルグレイヴが初めて当地に着任した1926年から離任した1957年に至るバーレーン国の歴史の中の31年間の記録

バーレーン国顧問官としての在任中には、シェイフ・ハマドの治世、シェイフ・サルマーンの治世、真珠産業の没落、油田の発見、第2次大戦、そして教育、社会、経済上の進歩の必然的な結果として、1950年代にはこの国でも政治的意識の高まりがみられた

本書に登場する人物の多くはすでに故人。サルマーンは61年に逝去され、跡目は現アミールであるシェイフ・イーサーが継ぐ。50年代の政治運動のリーダーたちもいない。バーレーンの歴史に登場する英国の外交官たちもその任を離れ、父も70年死去

本書は本来自叙伝として書かれたもの

37年、著者が『バーレーン政府広報』に掲載した論評こそ、バーレーンの現状を正しく表している。「他の湾岸諸国では、バーレーンは非常に進歩的だと考えられている。進歩的でありたいという意思はバーレーン国民自身から出されたもので、決して政府によって強要されたものではない」

 

 

第1章        バーレーンへ

東アフリカのタンガニーカの植民局勤務、休暇で帰国中に『タイムズ』の求人広告が目に留まり、アラブ人と働きたいと思っていたので何気なく応募すると、英国のペルシア湾弁務官から呼び出しがかかり、バーレーン君主が顧問官として英人を雇用したいとのことだった

現君主シェイフ・ハマドは60歳ほど、1893年皇太子、1923年父が英国によって不本意に退位させられ、その跡を継いで君主に。英国の駐在官から助言を得ていたが、自前の顧問官が必要となった

当時湾岸地域はインド省の管轄で、シェイフ顧問という肩書で採用

現地では、シェイフや他のアラブ人は、私を「顧問官」を意味する「ムスタシャール」と呼ぶ

赴任直前、幼馴染と婚約。新婦を伴ってバーレーンへの新婚旅行となる

 

第2章        シェイフ・ハマド

電気はまだなく、蝋燭とランプを使用。飲用の「真水」は郵便船が2週間に1度運んできた

治安は下り坂。島から去った他部族が、海岸部を急襲する恐れがあった

1869年、英国の調停でハマドの父イーサーが支配者となるが、長い治世の間、カタルのアラブ部族による攻撃の脅威に晒され、トルコ人やペルシャ人がバーレーンの島嶼の所有権を主張、英国がこれを拒んでいた。英国の同意なしには如何なる外国勢力とも交渉できないようになっていた

 

第3章        裁判所と警察の整備

最初の仕事が法廷の判事。成文法がないので、専ら常識による判断

新庁舎落成とともに、非公開から公開に変える

外国人に対するバーレーン国民の訴えは英国駐在官事務所で審理。ヨーロッパ人、アメリカ人、英連邦の人々は英国の司法権下にある

少数部族の反乱や傭兵の暴動などで、治安は決して良くはない

国家警察長官も兼務。インド人歩兵の2個小隊が配置され、治安を取り戻したが、独自の警察隊の編成を進言し、募集を行い、アフリカ人奴隷の子孫である黒人を中心とした警察部隊を創設、駱駝隊や騎兵隊も新設。治安は一気に改善、中東諸国の中で最も安全な国に

 

第4章        ペルシャ湾の真珠採り

当時のバーレーンの繁栄は真珠貿易によるもの。真珠の漁期は6月から10月初めの4カ月と10日。1漁期2万人の雇用を生み、古代より有名で世界最高の品質を誇ったが、6,7年後に養殖真珠の登場で回復不能な打撃を受ける

沖合40マイルほどの平均深度36フィートの真珠棚で操業、真珠採りの潜水夫にとっての危険な海の敵は電気クラゲとシビレエイ

ヨーロッパでは牡蠣貝(オイスター)は食用であり美味とされると真珠商人に言ったが、湾岸諸国では誰も食べようとしない。取引は個別に行われ、バザールに出るのは粗悪品

1932年までには、真珠採取業は不安定な状態に陥る。養殖真珠との競合が始まるとともに、世界不況の影響で輸出が低迷、船主たちの資金調達が行き詰まる

新しい潜水法によって借金の利子率が制限され、船長と潜水夫の間の前払い金や利益の分配に関する取り決めの透明性が図られたが、却って政府攻撃の口実を与える結果に

1932年、潜水夫が暴動。それを契機にシェイフが「潜水会議」を設立、私が議長に

 

第5章        バーレーンの結婚事情

イスラム世界はシーアとスンニーという2大教派に分かれる――前者が正統派、後者は分離派。7世紀に分裂。イスラーム以前はキリスト教徒もいた

バーレーンは、アラビア半島の不毛の海岸にあって、土地が肥え水も豊かだったため、ペルシャ人、ポルトガル人、ワッハーブ教徒、オマーン人、半島本土の諸部族が侵入。地元のバハルナ族は何度も破壊と略奪に遭い、多くの者が湾岸の別の地域へ移住、「賎業の民」となり、今日彼等を攻撃的で怒りっぽい性格にしている原因である劣等意識を募らせる

1783年、バーレーン制服に際してハリーファ家に随伴して到来した諸部族はスンニー派で、バハルナの資産のほとんどを接収、バハルナは奴隷状態に置かれたが、現在では勢力を回復、アラブ人とは容貌もアクセントも異なり、双方の通婚はほとんどないため、現在もバーレーンではスンニー派とシーア派のカーディー(宗教指導者)が必要

通常の結婚は、あちこちの家に出入りを許された婆さんたちに交渉が委ねられる。娘たちは12,3歳で結婚させられるのが常、望まれるならば従兄弟と結婚することが義務付けられていた

バーレーン島は褶曲によって作られた背斜(はいしゃ)地形で、地下にはアラビア半島本土から続く含水層がある。地上で噴出する天然の泉も多いが、同じように海底でも噴出する場所があり、潜って採るほか似た様な方法で海底の真水を採取する方法は古代のフェニキア海岸やペロポンネソス半島でも行われていた

海底の泉は別府湾にもあり、海水と真水が交じり合うところに生息するマコガレイは、日出(ひじ)城に因んで「城下鰈」と呼ばれるが、水は利用されていない

すべての島々が遠浅のためコーズウェイと呼ばれる湾岸ハイウェイで結ばれていて、サウジまで達する

 

第6章        巷の賑わい、野外の楽しみ

インド省から与えられた正式職名は「財政顧問」だったが、シェイフの個人財産の管理まで相談の対象となり、財政は多くの職務の1つに過ぎないことがすぐにわかる

1930年には発電所が稼働、コーズウェイ建設も始まる。電話も開設

1932年、世界恐慌がバーレーンを直撃、歳入が25%以上落ち込み、支配者一族への手当ても減額。この年初めて帝国航空機がインドへの途上バーレーンに着陸

1932年、ハマドの父が亡くなり、翌年初頭にインド政府は、シェイフをバーレーンの支配者として承認。インド政府と条約関係にある独立したアラブ国家の正式の支配者となる

 

第7章        原油が「上がってきた」

英国人地質学者ホームズが代表を務める「イースタン・アンド・ジェネラル・シンジケート」は小規模な英国の機関で、1922年末までにアラビア半島東部における石油開発権についてサウド国王との交渉を開始、26年までにバーレーンおよびクウェイトとサウジ2国が共有する「中立地帯」での開発権を獲得するが、どこも共同開発に乗ってこなかったので、英国政府の合意を得て、アメリカの「ガルフ石油会社」との共同開発に持ち込み、ガルフはカリフォルニアの「スタンダード石油」に権利を譲渡

一般にはアラビア半島東部での油田発見は楽観視されておらず、アングロ・ペルシアン石油会社もバーレーンに石油が存在するとは信じず、英国政府もホームズを「好ましからぬ人物」としていたが、シェイフはホームズを油田発見の責任者のみならず、バーレーンにアルトワ式深堀井戸を導入して水の供給を行った人物であるとして敬意を払う

1930年、英国政府植民地局と石油各社との間の交渉が成立、新会社「バーレーン石油会社BAPCO」が設立されスタンダード石油をカナダ籍に変えてバーレーンで操業させる

翌年操業を開始、32年最初の井戸から僅かながら石油が湧出、バーレーンが湾岸諸国最初の産油国となる。年末には2号井から勢いよく原油が「上がってきた」が、石油の輸出が始まって歳入が増えるようになるのは2年も先

湾岸諸国で石油開発権争奪戦が展開され、35年カタルはイラク石油会社に開発権を与え(38年発見)、カリフォルニアのスタンダード石油がサウジ東部の開発権を取得(3年後発見)、クウェイトではアングロ・ペルシアンとガルフの子会社のクウェイト石油に開発権が与えられ(3年後に発見)、中立地帯の開発権はアメリカン・インディペンデント石油が獲得(商業ベースの産出は53年から)

バーレーンの油田は小規模、イラクが参入に食指を示したが、最終的にはBAPCO1社とし、少ない採掘量を有効に活かし、石油歳入の緩やかな増加によって、将来計画を立案する能力を持った行政を時間をかけて確立し、急激な変動を回避できたのは幸い

最初に実行したのが年間予算の公表。国家財政は極秘事項だったが、「問題がないことを保証できれば」とシェイフも承諾、事務官の抵抗を押し切って公開したため、政府には金が有り余っているという現実離れした考えに終止符が打たれた。他の湾岸諸国が追随するのは遥か後になってからのこと。石油歳入の1/3をシェイフが受け取るという習慣はこの時作られ、1/3は積立金及び果実を生む事業に投資、1/3は行政と開発のために支出

この3分法はアラブ人には不評。彼等には困窮時に備えて金を貯える意味を理解できない

最重要課題は石油精製所の建設。サウジから海底パイプラインで原油がもたらされ、膨大な雇用を生み、自国の油田とほぼ同等の価値があるように思われた

アラブ人には外国人を雇用することへの基本的な反感があるが、英米人の専門知識には敬意を表していた。昨今、外国で教育を受けた若いアラブ人たちの多くは、ヨーロッパ人より上級の職に就く能力があると思っているが、学位があっても中東の大学では、人格形成というプログラムがないので、西洋の学校教育によって培われる何かが欠けている

 

第8章        シェイフの訪英、バーレーンの近代化

1936年、シェイフ・ハマドはインド帝国の上級勲爵士に叙せられるが、シェイフは勲章をエドワード英国王からもらいたいと強く望んだので、英国政府から英国に招待されることになり、我ら夫婦も随行。汽車でイラク・トルコ経由英国に渡り、1カ月滞在。私も英帝国勲爵士に叙せられた

1937年は発展の年。バーレーンを近代化し国民の健康状態を改善したいというシェイフの強い希望が石油収入によって可能となった

マラリア撲滅のため駆除隊を編成、ボウフラ駆除のため水回りの清掃を始める

独自の病院を建設し、国民に医療施設を提供。乳幼児の死亡率は高く、アラブ人は外国人による出産時の看護を恐れていた。眼病、性病、天然痘などが駆逐、健康状態は急激に改善され、コレラやペストなどの伝染病は皆無

町の繁栄と共に映画館が出現。道徳心とマナーの低下を引き起こす

教育は最も難しい問題の1つ――1919年に最初のスンニー派の学校が開かれ、その後教育は政府が全面的に行うべきものと決められたが、読み書きのできないアラブ人相手に一からの立ち上げは困難を極め、最大の問題は教師の確保

シェイフ夫人は英国訪問で女子教育にも関心を示し、シェイフの了解も得て女学校の設立にも動く。有力な商人たちも表には立たないが支持してくれたので、設立を発表したところ猛烈な反対に遭うが、徐々に理解が広がる。言い出した妻は30年にシェイフから常勤の女子教育部長に任ぜられた

56年の離任までに女学校は13出来、生徒総数は4000人以上、教育陣は135人、うち94人はバーレーンの学校出身。全体として男子教育より効果的かつ順調に行われ、56年に男女同じ試験を実施した結果、1位を含む優秀者上位4人のうち3人までが女子

 

第9章        時代は変わる

歳入が安定し、金庫番としての私の懸念は雲散霧消したが、産油国への変貌は未曽有の困難と問題点をもたらす――行政規模が拡大し、職員間の問題解消に最も時間を費やす

素朴なバーレーンで礼儀作法の低下はヨーロッパ人の責任。彼等の中には異人種の人々に対する接し方について尋常でない考え方をするものも多い。「無作法はどこでもよくないが、生まれ故郷では犯罪である」

近代化とともに民衆の考え方と社会的立場には急激な変化が起こる。私有財産の保護制度が確立し、シーア派の僻み根性も責任ある立場に起用することにより職務に忠実な働き手となった。町に住む人々の生活は、外国からの輸入品で近代化され、特に日本からの輸入品が市場を席巻するが、安くて体裁がいいが見掛け倒しという評判で、「日本製」は身持ちの悪い女を表現するのに用いられるようになった

服装も西洋化。外国の事情に対する関心が刺激され、自分たちの現状を外国の状況と比較

凶悪犯罪は減少したが、一族の未婚の女が男と情を通じたとして密かに身内で処分されることを多くのアラブ人は正当と考えていた

飲酒も宗教的理由からシェイフによって禁じられているが、今日ではバーレーンの若者から最も反感を持たれている。同じイスラムでもエジプトやイラクでは認められている。今日では上流の富裕階級の若者で酒を飲まないのはほとんどいない。輸入酒闇市場は隆盛

バーレーンに英国が海軍基地を置くという構想が極秘裏に進められ、一部私有地の買収を進める。35BBC放送が暴露されたが、地元のアラブ人は全く関心を示さず

 

第10章     VIPたちを迎えて

1937年までは、バーレーンを訪れる外国人VIPといえばインド政府高官や英国海空軍の上級士官くらいだったが、37年末のサウジ現国王アミール・サウドの訪問辺りから賓客の訪問が相次ぐ

39年、サウジのイブン・サウド国王が訪問。若い頃国外追放され一次現シェイフの父の客分として遇されており、その時の恩義を忘れない

 

第11章     シェイフ・ハマドの死

193940年、第2次大戦勃発後も、生活費の急上昇と輸入物資のいくつかが不足を来した程度で大きな影響はなかった。第1次大戦の時は真珠の買い占めが起こったが、2匹目のドジョウはおらず、真珠産業の再興はならなかった

事前にラングーンから大量のコメを輸入していたので、必需品の価格統制と配給制がスムーズに導入され効果を発揮

1940年、シェイフ・ハマドは長年患っていた糖尿病が悪化したこともあり、後継者を秘密文書に認めることを決心。バーレーンでは支配者一族の意見に基づき、適任の男子が継承し、必ずしも長子相続ではない。また「一族」とはシェイフ・イーサーの直系子孫のみで、ハリーファ部族の士族は含まれない

ハリーファ一族の重鎮であるシェイフ・ハマドの義父と両派のカーディーが呼ばれ、秘密文書の署名だけの立会人となり、内容についてはハマド逝去の日まで秘密が厳守された

ヨーロッパの戦禍の拡大にはアラブ人は関心がなかったが、開戦の時シェイフは自身も国民も連合国の立場に立つべきことを心から宣言し、戦費に莫大な支出を行う

40年夏にイタリアの爆撃機が1機だけ飛来、バーレーンは夜間数発の爆弾を投下、その後サウジに1,2発落として去る。爆撃としては完全な失敗立ったが、すべてのアメリカ人の女性と子供が退避するきっかけとなり、遅滞なく実行された

「灯火管制」が指示されたが締め切った部屋の中の高温多湿は不快極まりなく強制は困難

シェイフは親英派だったが、駐在官は必ずしも皆が友好的というわけではなかった

シェイフは、キリスト教でも英国国教会でも、自国の宗教に抵触しない限り、布教には寛容で、それぞれに教会建設の土地を供与した。ローマ教皇はそれをたとしてシェイフに叙勲しようとしたが、イギリスが異議を唱えて辞退せざるを得なくなり、英国との関係を悪化させる。暫くして英国は反対を撤回、叙勲は行われたが、英国政府の態度は理解不能

422月、ハマドが心臓発作、翌日逝去。一族は全員一致でシェイフ・サルマーンを後継者に選出したと告げ、遺言状と同じだったのでほっとした

サルマーンからは、引き続きハマドの時と同様に顧問官として残ることを要請され承諾

 

第12章     シェイフ・サルマーン

ハマドとの15年を通じて1つのことに気づく。それは「冷淡」と取られる危険を冒しても、守るべき鉄則は、絶対に怒り狂ったり興奮したりする感情を見せないこと

難しいのはシェイフと英国の意見が一致しない時で、ペルシャ湾弁務官もバーレーン駐在官も私より上位の官職にあり、常に英国に対する支持を私に期待したため、シェイフへの対処には困惑することも多かったが、全体を通してみればうまくこなせてきた

この15年で住民の間の社会的変化は大きく、中産階級が出現、貧富の差が拡大

サルマーンは行政の確立に腐心

戦争は公衆道徳に悪影響を及ぼし、後遺症として残る。アラブ人にとってこの戦争は自分とは無関係であり、金儲けができる絶好の機会をもたらす

戦争期間中、バーレーン在住の英国人たちは、戦争協力として様々な慈善活動を組織したが、その中には競馬もあって、収益金の一部を戦争資金に寄付。戦後も政府が開設する結核病院の建設資金として活用されるなど、本物のダービーの雰囲気がバーレーンでも醸し出された。サルマーンは有力な馬主で、抜群の馬を持っていた

現在のサラブレッドは英国原産の馬にアラブ系の馬を掛け合わせて作られたが、バーレーンでは純粋のアラブ馬の血統が保存されている。19世紀半ばには、バーレーンのシェイフからエジプトのアッバース・パシャに贈られた馬から、エジプト・アラブ種の血統が作られた

 

第13章     2次大戦後の日常生活

新体制下でも、戦争が終結しても、バーレーンでの生活はほとんど変化なし

真珠漁の出来高は良好で、インド市場での真珠の価格は高騰、真珠交易の再来を期待したが、45年をピークに衰退

町の道路は車で渋滞し、市場には商品が溢れる

製油所建設によって突然砂漠に出現した都市は、ヨーロッパ風の街並みが続き、別世界となっている

 

第14章     政治意識の萌芽(めばえ)

地域ごとに教育を受けた若者たちの生活においてアラブ・クラブが作られ、シェイフもしばしば金銭を寄付して専用の建物の建設を推奨、当初は非政治的な交流の場だったが、次第に政治運動の中心となっていく

若者の考え方に影響を及ぼすもう1つの要因は、バーレーンとエジプトが関係を強めていったことで、教師不足を補うためにエジプト人を採用する決定がなされたのがきっかけ

バーレーン人は、外国のものは何でも自国のものより優れていると見做す傾向があるため、エジプト人教師も歓迎され、今でも生徒たちに与える影響は絶大なものがある

1947年にはイスラエル国家の建設でパレスチナ情勢に緊張が高まる。バーレーンには実質的な影響を及ぼさなかったが、周辺諸国との賃金格差への不満が高まり、国外の就職口を求める結果となる

一部のアラブ人がアメリカ系の石油会社がユダヤ人を指示していることを根拠に、事あるごとにBAPCOを攻撃したが、元々バーレーンにあった少数のユダヤ人コミュニティは穏やかで、イスラーム教徒との間にいざこざなど起きたこともなく、混然一体として暮らしていた

12月に国連がパレスティナ分割を決定したというニュースがバーレーンに達すると、一部の暴徒がユダヤ人の施設を襲撃したが、一般のアラブ人は分割がバーレーンのユダヤ人の責任ではないことを理解し、暴動はそれっきりで終わる。ユダヤ人のパレスティナ移住は認められたが、出戻りは求めないとの条件が付き、10家族ほどが残留、移住した者は期待したものが得られず移住を後悔していると知らされる

 

第15章     ズバーラ問題

カタル半島の北西岸にあるハリーファ家の父祖の故地ズバーラの領有権を巡る問題は、よくある国境紛争に過ぎないが、シェイフたちにとっては死活問題、絶え間ない諍いの原因

18世紀初め、ハリーファ家はクウェイトから湾岸を移動してズバーラに定住、1783年にはそこからバーレーンに侵攻。19世紀末には放棄地になったが、1937年カタル政府がズバーラに税関所を設置しようとしたのを機に紛争が再燃、両政府間で交渉がもたれたが、アラブ人同士お互いの嫌悪感は強烈。交渉中にカタルのベドウィンが実力で住民を排除、お互いの感情を逆撫でし、その後何年にもわたって交渉は断絶

カタル半島海岸に近い10余りの島嶼群ハワール諸島については、英国もバーレーンの領有権を認めたので、そのうちの最大の島に城砦を築く。カタル政府はその報復としてズバーラの外れに城砦を建設

1949年、両国間で新たな交渉開始、英国駐在官の努力で1つの合意に達した後、51年カタルの新たな指導者がバーレーンを訪問、VIPとしてのもてなしを受ける

その後、カタルが約束に違反してまた争いに発展、57年離任時点でも未解決のまま放置

 

第16章     「福祉国家」とは何か?

息子が英国統治下のパレスティナ警察に兵役で派遣されたあとバーレーンに帰ってきてシェイフからバーレーン警察の職が与えられ、その後彼はロンドン大学のアフリカ東洋学部で学位を取り、しばらく後にバーレーン政府の広報部長に任命される

48年、アメリカがイスラエルを承認。騒動発生を警戒したが、何事も起こらず

バーレーンの人々にとっての「福祉国家」とは、税金がなく、医療・教育をはじめすべての公共サービスが貧富に関係なく無償で供与される国家

教育は常に「悩みの種」で、功より罪をもたらしたのではないかとも思われたが、現在ではそのようなことはないと信じる。毎年識字率は上昇したが、健全な肉体の誇り、規律、奉仕の精神といった本質的な徳性を学校で身につけることは一切なかった

アラブ人の中にも皮膚の色コンプレックスを意識する者はいて、「奴隷の子孫」だとか「黒人の医者など絶対お断り」だとかいうアラブ人も存在

 

第17章     湾岸航空

私は飛行機が苦手で陸路が好きだったので一時帰国には汽車の旅を利用

ペルシャ湾上空から見る光景は美しい。陸地は荒れ果て、無残な姿を晒すが、ペルシャ湾の水の色は輝かしいもので、浅い所が多く、透明な水を透かして海底が見える。海底が円形に窪んでいるところは深い陰をなし、ところどころに黄金色の斑紋のような砂地もあり、淡い青からアクアマリン色に至る、様々な濃度の緑色がちりばめられていた

ガルフ・エアがバーレーンに設立されたのは1950年。元英空軍将校の持ち込んだ話に政府が乗り、英国海外航空BOACの支持を得て開業、私は名誉職として初代会長に就く

 

第18章     エリザベス女王即位す

1952年、サルマーンは聖ミカエル=聖ジョージ上級勲爵士KCMGに叙され、私も英帝国准男爵へ昇格。「ベルグレイヴ氏」から「チャールズ卿」になる

51年度のバーレーンの歳入は250万ポンド。予算が10万ポンドの頃とは雲泥の差

社会事業は一層進み、生徒のための寄宿舎建設もその1つ。国民の保健と教育はシェイフが大きな関心を払った事柄。医者や薬局が大繁盛、注射とX線の効果を妄信した

妻と共に英国国教会を建て英国人司祭の常住を画策――53年聖クリストファー教会献堂

53年、エリザベス女王の戴冠式に招待されたシェイフに随行。サルマーンの最初の欧州旅行で、ベイルートからヴェニスに船で渡り、汽車で大陸を横断

シェイフが大きな敬服の念を抱いていたチャーチル首相を訪問

 

第19章     サファール月を燃やし尽くす

帰国すると政情不安の匂い。煽れば煽るほど売れると思っている新聞の若い編集者が煽ったことや宗教的諍いもあり

イスラーム暦の最初の月であるムハッラムの初めの10日間、バーレーンとその他の地域のシーア派では預言者ムハンマドの生き残ったただ2人の孫であるアリーの息子ハッサンとフセインの殉教を追悼する行事が行われる

53年のムハッラムは9月。宗派間や派閥間の衝突で怪我人が多数出る

ムハッラム月の残りの日々と次のサファール月は静かに過ぎ、サファール月の末にシーア派の村では女子供の集団が燃える松明を手に家々を回り「サファール月を燃やし尽くす」

 

第20章     「上級幹部委員会」

1954年は、政治的社会的不安が次々に起こり、次第に反政府の扇動へと発展

宗教的反目が激化

サルマーンによるサウジのサウド国王訪問に随行。その後はイラクの若い国王ファイサルが来訪。6月には宗教的対立が衝突に発展、扇動された民衆が城砦に襲い掛かる

選挙によって選ばれる議会を要求

すでに中東の事情に通じた英国人法律顧問官が任命されおり、法の体系化が検討されていたが、スンニー=シーア合同委員会は法案がロンドンで起草されたことで反対を表明

自動車の増加とともに増える事故への対策として自賠責保険の新設を計画したが、バスやタクシーの運転手がストライキに突入。地元の保険会社が認可され反対は鎮静化

54年末、スンニー、シーア両派4人づつからなる「上級幹部委員会」が設置されバーレーン人民の代表を自任したが、シェイフは認めなかったものの、実態は湾岸で最初に結成された政党の中心部で、町の「知識人」を自任する人々によって熱狂的に支持された

まともにシェイフを攻撃することはせず、専ら私に矛先が向けられた

 

第21章     トラブルの火種はいくらでもある

クリスマスと新年はバーレーンでは大きな行事――アラブ人は独自の祭日と同じように重要視。イスラーム教徒はキリストを予言者の1人として深く敬意を払っていたためクリスマスを祝うことには理由があったが、英国公館が新年に催す公的な祝祭行事は、ヴィクトリア女王が1877年にインド帝国の女帝を宣言した日を記念するもので、中東の人々は関心を示さない

元旦にはもう1つの祝賀行事がある。解放奴隷とその子孫たちが、自由への感謝の気持ちを表す祭典を行った。数年前までカタルと停戦海岸の一部には奴隷制度が存続していた

55年には政治状況が悪化。「(上級幹部)委員会」に反対する者もなく、より過激かつ攻撃的になる。商人や商店主は是々非々の対応で忠誠心はない

エジプトの動きも活発化し、特にメディアが私と湾岸における「英帝国主義」に対する凄まじい攻撃を喧伝したが、政府当局はより慎重。指導者ナーセルはアラブ世界でも知識階級によって尊敬されていて、委員会の動きを支持

「委員会」は外国のメディアの支持も取り付けたが、私が見る限りまともなのは2人だけで、後は2人の扇動力に踊らされているだけ

 

第22章     デイリーのように賢くない英国人

近代化のための開発は順調だったが、政治情勢は依然として厳しく深刻化。アラブ系の会社と共同で活動している英国系の工事請負会社が困難な問題に直面。ヨーロッパ人とアラブ人の従業員の間での対立がストライキに発展、「委員会」が積極的に争議を煽った後、調停役を買って出るというのがお決まりの図式

政府広報部長になった息子の職務には国営放送BBSの開局も含まれ、55年放送開始

56年、ヨルダンのフセイン国王が汎アラブ主義者からの批判もあって国王の個人的相談相手であり英委任統治領トランスヨルダンのアラブ人部隊を率いた英国のグラップ将軍を突然解任したことがバーレーンにも伝わり、「委員会」はこれを英国に対する拒絶の証として勝ち誇ったが、その直後英外相がバーレーンを訪問した際、「委員会」のメンバーによって扇動された群集のデモが車列を襲い、その後の歓迎晩餐会はお通夜のようになった

「委員会」の承認を巡って話し合いが続けられたがストライキでひっくり返され不穏な空気は収まらず

 

第23章     「国民連合委員会」ナポレオンの島へ

バーレーンには興味本位のジャーナリストたちが集まり、緊迫状態を伝え続けていた

シェイフはハリーファ家のシェイフたちと政府部局の長たちを集めて国家行政会議を設置

「委員会」はいったん解散後、シーア派1人が脱会して7人からなる「国民連合委員会」を組織して再出発。シーア派は英国寄りで、スンニー派の反英姿勢に反対の態度をとっていた

扇動された大衆を味方につける「委員会」に対し英国出先機関は、シェイフに妥協を迫り、シェイフは私の解任要求を頑として受け付けなかったが、私にはそろそろ潮時

「委員会」は私の辞任を最大の成果と謳ったが、内部の腐敗が明るみに出ると内部分裂を始め次第に組織が形骸化

56年スエズ国有化を巡るスエズ動乱勃発が、「委員会」の威信が最低に転落し内部分裂した時期だったことは幸運。それまでのイギリス支持頼りを翻し、ナーセル主義の旗手を宣言、大規模な反英デモを組織、英国人の財産には多大な損害が及んだが一切の補償はなかった

アラブ人はスエズでの英国の行動に反発、政府も抑えきれなくなったため、英国人は駐屯軍団の保護を求めて郊外に移転

英国系企業が襲撃され、カトリック教会の焼討にまで発展、首謀者数人を逮捕してようやく鎮静化に向かう。首謀者たちは裁判の後英国政府に依頼してセント・ヘレナに収監

 

第24章     さらば真珠の島

57年春は平穏に推移、いくつかの行政改革実施。シェイフの評議会が機能し始める

アラブ人による私への辞職要求は亡くなったが、引退を決心、遺留されたが年末には引き揚げる積りで、職務の引継ぎを始める

病院の検診で大手術の必要が認められ、即刻帰国が決まり、1週間で整理

帰国後ロンドンの病院に2カ月入院、ゆっくりとバーレーンでの生活を振り返る

バーレーンの人々が素朴な農耕と船乗り稼業の社会から、石油の生産・精製という大規模な近代産業を主柱とする社会へと変わる様を見てきた、歳入は550万ポンドにまで増大、国民の間に政治意識が芽生え、民主主義を求める産みの苦しみが高まる様を見てきた

ペルシャ湾を支配する英国は敬意を払われていたが、それは「武力政策」が原因ではなく、アラブ人を理解し、はっきりとした政策を貫く人々が、それを体現していたから

国民は幸福で、唯一彼等を奮起させることは宗教的な2派の対立

商業の相手はインドであり、そこで真珠を売却し食料を輸入。レヴァント地方(「太陽の上る土地」の意だが、転じて地中海東海岸地方)での出来事には関心がなかった

今日のバーレーンは斑に西洋の装いを凝らしたものになっている。村の生活は30年前とほとんど変わらないが、健康状態は良くなり、教育や病院施設も完備。税も失業もない

湾岸の知識階級は人口の僅かな割合を占めるに過ぎないが、今日ではそれが重要な役割を果たし、英国に対するアラブ人の感情は次第に悪化

彼等にとってアラブ民族主義は大いに魅力的なものだが、カイロの支配下に収まる可能性を好ましいとする者はそう多くはない

2年間にわたってバーレーンを混乱に陥れ、56年の暴動を惹起した大衆運動の指導者は、まともな教育を受けていない全く素人の民族主義者集団

英国が湾岸での責任を逃れ、過去から現在に至るまでの英国の政策を支持してきたアラブの支配者たちを見捨てるならば、強力な近隣諸国は大衆の汎アラブ主義運動を扇動したりして小国を餌食とすることは必定

中東情勢の変化は著しいものがあり、「急ぐことは悪魔の業(わざ)」というアラブの諺は通用しなくなっている

バーレーンの民族主義運動は、既存の体制を時代遅れだとする、知識階級の敵意の現われ

当事国間の合意による緩やかな連合が理想的であり、その可能性もあったが、最大の障碍物はクウェイトとカタルという桁外れに裕福な国の存在で、停戦海岸にひしめき合う貧しい国々に対して喜んで実質的な財政援助を受け合うはずもない

 

 

訳者あとがき

本書の原書は1960年ロンドンで初版が上梓され、著者死去から2年後の72年にベイルートで復刻

原題の「個人的広告欄」というのは、新聞の求人広告に応募したことによって波乱に満ちた生涯を辿ることになった著者の個人的思い入からとられたもの

自叙伝として書かれたものだが、復刻版発刊の際ベイルートの版元は「古典的歴史書」として再販

バーレーンは、他のアラブ諸国とアラブ文化を共有しているが、同時に長い歴史を通じて、それとは異質の要素、特にイラン的、インド的な伝統文化が色濃く見られ、それが数あるアラブ国の中でも際立った特徴だが、本書の記述はあくまで著者が生来有している英国の社会や文化の伝統が主要なバックボーンをなしている

 

 

 

Wikipedia

バーレーン王国(バーレーンおうこく、アラビア語مملكة البحرين, ラテン文字: Mamlakat al-Barayn)、通称バーレーンは、西アジア中東に位置し、ペルシア湾バーレーン島および大小33の島(ムハッラク島など)からなる立憲君主制国家。首都はマナーマ

王家のハリーファ家クウェートサバーハ家サウジアラビアサウード家と同じくアナイザ族英語版)出身でスンナ派であるが、1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝アフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派が占める。

1994以後、シーア派による反政府運動が激化し、20012月に行われた国民投票によって、絶対王政の首長制から立憲君主の王制へ移行と共に王国へ改名した。

国名[編集]

正式名称はアラビア語で مملكة البحرينラテン文字  Mamlakat al-Barayn マムラカトゥ・アル=バフライン)、通称 البحرين  al-Barayn アル=バフライン)。2002、バーレーン国(State of Bahrain)から現在の名称に変更した。

公式の英語表記は Kingdom of Bahrain。通称 Bahrain。国民・形容詞は Bahraini

日本語の表記はバーレーン王国。通称バーレーン。バハレーン、バハレインと書かれることもある[3]正則アラビア語に従った仮名表記では「バフライン」になる。

国名の بحرين はアラビア語で「二つの[ 1]という意味であり、島に湧く淡水と島を囲む海水を表すとされている。なお、サウジアラビア東部からオマーンを含む広い範囲はアラビア語で同じく البحرين と呼ばれる(特に18世紀以前の同地域を指す時)[4]

歴史[編集]

詳細は「バーレーンの歴史英語版)」を参照

かつてはディルムン文明と呼ばれるエジプト文明シュメール文明に匹敵する文化の中心地であったといわれている。15世紀ごろまでは真珠の産地であった。

16世紀ペルシャの圧力を受ける中、ポルトガルが進出

1782 ハリーファ家がカタールから移住。支配が始まる

1867 カタール・バーレーン戦争英語版

1868 イギリス・バーレーン合意英語版

1880 イギリス保護国となる

1931 アメリカ国際石油資本スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア英語版)(通称SoCal。現:シェブロン)の子会社であるBahrain Petroleum CompanyBAPCO)が石油を発見

1968 イギリス軍スエズ以東撤退が発表されたのを契機に、バーレーンを含む湾岸の9首長国が連邦結成協定を結ぶ

1971 バーレーン国として独立

1975 議会廃止

1994 - 1999 1990年代バーレーン蜂起英語版

2001 民主化推進に向け、国民投票を実施

2002 絶対君主制から立憲君主制へ移行し、国名をバーレーン王国へ改称

2011 バーレーン騒乱。シーア派による反政府デモが起こる

地理[編集]

バーレーンの地図

詳細は「バーレーンの地理英語版)」を参照

サウジアラビアの東、ペルシャ湾内にある群島。主な島はバーレーン本島・ムハッラク島シトラ島英語版)で、バーレーンには計33の島がある[5]。国土の大半が砂漠石灰岩に覆われている。

ケッペンの気候区分砂漠気候BW)。

サウジアラビアとは「キング・ファハド・コーズウェイ」という全長約24kmの橋によって結ばれている。

地方行政区分[編集]

地方行政区分

詳細は「バーレーンの行政区画」を参照

4つの県がある。200373までは12の行政区に分けられていた。

南部県

北部県

首都県

ムハッラク県

都市[編集]

詳細は「バーレーンの都市の一覧」を参照

政治[編集]

政体[編集]

かつては絶対君主制で、「クウェートより危うい国」とされていたが、湾岸戦争以後、民主化を求める国民による暴動が絶えず、首長(アミール)であるシャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファの下で次々と民主化を実行し、2002より政体を立憲君主制とし、君主の称号を国王(マリク)と改めた。シャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ首長は国王に即位した。二院制国民議会(国王が任命する評議院と直接選挙による代議院)を設置し、内閣には国王によって任命される首相を置き、男女平等参政権司法権の独立などの体制を整えている。

外交[編集]

外交面では中東地域の国々やイギリスフランス日本アメリカを始め、多くの国と良好な関係を築いており、また親米国だが、カタールとはハワール諸島に関する領土問題がある。イラクと関係が悪かったこともあり、湾岸戦争時にミサイルで狙われたこともある。またペルシア湾を挟んで向かい合う大国イランとは、パフラヴィー朝が「バーレーンは歴史的にみてイラン(ペルシア)の領土である」と領有権を主張していたことから、同国に対して警戒心が強いとされる。イスラーム革命後は、イランが国内のシーア派を扇動して体制転覆を図るのではないかと脅威に感じており、バーレーンのスンナ派住民の間には、こうした警戒心から反イラン・反シーア派感情が強いとされる。アメリカも「敵の敵は味方」思考からスンナ派(政権側で少数派)のシーア派(国内多数)弾圧に懸念を表明しつつも、対話を促す程度にとどまってきた。

201612日にサウジアラビアがイスラム教シーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにサウジアラビアとイランの関係は急速に悪化し、イランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけにサウジアラビアはイランとの国交を断絶し、これに続いてバーレーンもイランとの国交断絶を行っている[6]

隣国サウジアラビアとは、王家が同じ部族の出身ということもあって関係が深く、実質的な保護国となっている。2011年バーレーン騒乱の際は、サウジアラビアの軍事介入によって事態が収束した。

2020826日、アメリカの国務長官マイク・ポンペオがバーレーンを訪問してハリファ国王と会談。同月にアラブ首長国連イスラエルが国交を結んだことを受けて、アラブ諸国に追随を促すことを目的としたものであったが、ハリファ国王は「パレスチナ国家の樹立なくしてイスラエルとの和平は実現しない」として、言外に外交関係の変更を拒否した格好となった[7]。しかし911日、一転してイスラエルとの国交正常化に合意した[8]

軍事[編集]

詳細は「バーレーン国防軍」を参照

軍事面では湾岸戦争後、アメリカと防衛協定を結び、アメリカ軍が駐留しており、5艦隊の司令部がある。2015には明治維新以降として、史上初の多国籍国際合同艦隊の司令官職として、日本の海上自衛隊より任命された幹部自衛官が赴任し、当地バーレーン5艦隊での国際協力任務を完遂した。南部の約25%アメリカ軍基地となっている。

経済[編集]

バーレーンの首都、マナーマ

バーレーンの観光

IMFの統計によると、2011のバーレーンのGDPは約261億ドルと推計されており[9]日本島根県よりやや小さい経済規模である[10]

中東で最も早く石油採掘を行った国で、GDPの約30%は石油関連事業によるものであり、その恩恵で国民には所得税は無かったが、1970ごろから石油が枯渇し始め、20年余りで完全に枯渇するという問題に直面していた。対策として給与を1%ザカートとして徴収するなど各種の税金が導入された。また資源探査を続けた結果、201841、政府は西部沖合で国内で確認されていた埋蔵量を上回る規模の油田を発見したと発表している[11]

隣国サウジアラビアとは橋で結ばれているため、経済的な結びつきが強い。加えて同国が事実上の鎖国体制を敷いていることやペルシャ湾の入口にあるという地理的特性を活かし、中東のビジネスの拠点、金融センターを目指してインフラ整備を進め、石油精製やアルミ精製、貿易、観光などの新規事業も積極的に展開し、多国籍企業を始めとした外国資本が多数進出している。20109月、英国のシンクタンクZ/Yenグループによると、バーレーンは世界第42位の金融センターと評価されており、中東ではドバイカタールに次ぐ第3位である[12]

観光にも力を入れており、現在は豊かな国の一つとして数えられているが、失業率15% (政府発表値約6.6%:2003) GDPと比べて高い。失業給付はザカートから捻出されている。

通貨単位はバーレーン・ディナール。レートは1米ドル=0.377バーレーン・ディナール(2020727日現在)

交通[編集]

バーレーン国際空港

 

キング・ファハド・コーズウェイ

国営航空会社ガルフ・エアアジアヨーロッパアフリカオセアニア諸国に乗り入れている他、世界各国の航空会社がバーレーン国際空港に乗り入れている。日本から行く場合は、ドバイやドーハなどで乗り換えていくのが一般的である。

島国ではあるが、1986年にキング・ファハド・コーズウェイが開通、サウジアラビアとの間を車で行き来することが可能になっている。

2008年にライトレールの建設計画が公表されたが、2009年からの建設予定が度々延期が繰り返されている。

国民[編集]

バーレーンの世代別人口分布

国籍

バーレーン国籍

 

46%

外国籍

 

54%

2010年の調査によると、バーレーン国籍は46%568,390人)に過ぎず、半数以上の54%666,172人)を外国人労働者が占めている。外国人労働者の中で最大の勢力はインド人で290,000人を数える。

住民はアラブ人7割ほどを占めている(バーレーン人が63%、その他のアラブ人が10%)。その他にイラン人8%、アジア人(印僑など)が19%などとなっている。シーア派多数の人口構成を変えるために、パキスタン等他のスンナ派イスラーム諸国からの移民を受け入れ、国籍を与えていると言われている。

言語[編集]

言語は公用語がアラビア語で、日常的にはバーレーン方言が話される。他にペルシア語ウルドゥー語ヒンディー語などが使われる。英語も広く使われている。

宗教[編集]

イスラム教の宗派

シーア派

 

75%

スンニ派

 

25%

宗教は、バーレーン国籍保持者に限ると、イスラーム99.8%に達し国教となっている。そのうちシーア派75%スンナ派25%となっている。外国籍を含むと、イスラーム70.2%にまで下がり、残りはキリスト教14%ヒンドゥー教10%などとなっている。近年はインドなどからの労働者の増加により、非イスラム教の割合が増加傾向にある。少数派であるスンナ派は政治やビジネスなどの面で優遇されて支配層を形成しているのに対して、多数派であるシーア派は貧困層が多く、公務員や警察には登用されないなど差別的な待遇に不満を感じているとされる。こうした不満が、2011年バーレーン騒乱に繋がったと見る向きもある。

世俗的な宗教的規制[編集]

全世界からビジネスマンや観光客が来ることもあってか、サウジアラビアイラン等の周辺国に比べると、宗教的規制はかなりゆるやかである。例えばアルコールは自由に飲むことができ、週末になると飲酒を禁じられている周辺国から酒を求めて人々が集まって盛り上がる。また、女性もヒジャブどころか顔や姿を隠す必要はない。

文化[編集]

音楽[編集]

欧米の軽音楽の聴取が自由であり、それらに影響された軽音楽がバーレーンでも製作されている。1981年にデビューしたオシリス (Osiris) はバーレーンを代表するロック・バンドで、ヨーロッパでもレコード、CDが発売されている。

女性の社会進出[編集]

女性の政治的社会進出も他の湾岸諸国に比べて進んでおり、就業率は23.5%2001年)、大学進学率は11.8%2001年、男子は13.2%)と高い水準を誇る[13]

またサビーカ王妃がアラブ女性連合最高評議会の議長を務めるほか、第61回国連総会議長のハヤー・アール・ハリーファ、同国初の女性閣僚となったナダー・アッバース・ハッファーズ博士など政府の要職に女性が就くことも珍しくない。

スポーツ[編集]

最も人気のあるスポーツは、世論調査によるとクリケットである[14]サッカーも人気スポーツであり、2006 FIFAワールドカップアジア最終予選でのホームの試合では、国がチケットを買い上げ、それを無料で配布し、スタジアムを国民で埋め尽くした。

2002釜山で行われたアジア大会サッカー競技で当時のU-21日本代表と対戦して以来、バーレーン代表は抽選の都合日本代表との対戦機会が急増しており、国際Aマッチの範囲だけでも2002年から2010年にかけて9試合を交えた[ 2]2010年代はFIFAワールドカップ・アジア予選で早期敗退が続いた。

バーレーンGP

また西部の港町ザラク近郊の砂漠地帯であるサヒールサーキットを建設し、F1開催の誘致に成功、2004からバーレーンGPを開催している。

21世紀以降はケニアエチオピアなどアフリカ出身の選手を多数帰化させるなど陸上競技の強化を進め、オリンピック世界陸上アジア競技大会などの国際大会で優勝者や上位入賞者を輩出している。

 

 

 

 

 

 

 

 

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