開戦と新聞  後藤基治  2021.11.15.

 

2021.11.15. 開戦と新聞

 

著者 後藤基治 1901年大阪市生まれ。早大卒後、毎日新聞入社。1941年、海軍を担当した際、日米開戦をすっぱ抜き「世紀のスクープ男」として名を馳せた。その後、社会部長や政治部長を経て、日本最初のテレビ放送会社MBS(毎日放送)を創立し、長く副社長を務めた。1973年逝去

『夫婦善哉』に出てくる法善寺境内の関東煮(だき)「正弁丹呉亭」の息子。後藤又兵衛基次の末裔

 

発行日           2021.8.15. 第1刷発行

発行所           毎日ワンズ

 

本書は、小社刊『海軍乙事件を追う』(2017)を再編成し、新原稿を増補

 

 

本書に寄せて             前坂俊之 (静岡県立大名誉教授、69年毎日新聞入社)

日本の新聞史上最大のスクープが『毎日新聞』による太平洋戦争開戦

当日朝刊には「東亜攪乱、英米の敵性極まる(ママ)」「断固駆逐の一途のみ」「驀進一路・聖業完遂へ」の大見出しが躍る。そのスクープを放ったのが本書の著者後藤

194111月初め、いつものように米内光政海軍大将の私邸を訪問

121日から10日までの「運命のXデー」を「8日」に絞り込む過程は、凡百のスパイ小説を超える

昭和5年に毎日新聞大阪社会部に入社。頭の東京政治部、足の大阪社会部の伝統のように、大阪の事件記者はどぶ板を這いずり回って丹念に取材。東京政治部に乗り込んだ後藤はこの基本を忠実に守り、数々のスクープを連発。7日早朝、休日にも拘らず海軍のトップたちが揃って神社に参拝したことを知り、開戦を確信。後藤のインテリ医ジェンスの勝利

2章で、海軍最大のスキャンダル「海軍乙事件」の真相に迫っているのも圧巻

本書は、海軍の戦争遂行の内幕を克明に取材し、戦時報道に命がけで働いた記者による第一級のドキュメンタリー。海軍記者による戦記ものの傑作

戦争メディア・リテラシーを養っていただければ嬉しい

 

 

第1章        決死の開戦スクープ

l  『朝日』対『毎日』

我が国の戦時報道の歴史は幕末、福地桜痴の『紅潮新聞』や柳河春三の『中外新聞』に始まる。上野の彰義隊の激闘や会津、五稜郭の戦争の模様が報道された

近代的な大衆紙が形成される上で、新聞が維新後の政治を中心とする言論の場から全般的なニュース中心に変質してゆく経過では、日露戦争の報道合戦が特に大きな原因となった

毎日の戦時報道は、「鴨緑江会戦」の戦勝第1報のスクープに始まる。他社の友人の力も借りて、原稿を持って下関に戻り、そこから大阪本社に打電。戦争中の号外は498回に及ぶ

国木田独歩の小説『号外』は、こうした時代的な背景から生まれた傑作

毎日が朝日と並んで部数を急速に伸ばしたのも、この戦況報道合戦によるところが大

満州事変からノモンハンまでの従軍記者制度は、日露戦の頃と本質的な変化はない

軍が支那事変の最初から自前の「報道部」を新設したのは、負けているはずの支那が「大勝利」などと発表し、欧米の新聞に載ると、世界中が本気で日本が負けたと信じ込むマスコミの魔力に驚いたから

日米開戦と共に、従軍記者制度が廃止され報道班員制度という軍属制度が実施、部隊を選んで従軍する自由がなくなり自主性が制限された

戦場の悲惨な実態により家族が動揺しないよう、報道内容は厳しく制限、死体の写真はご法度であり、国民が戦場の屍臭を知ったのは本土爆撃によってだった

 

l  北支従軍と徳川航空兵団

最初の従軍記者生活は1938年済南攻略後の徐州作戦前の北支だった。500(現在の100万円)の支度金が出た

着任した天津では、徳川航空兵団による爆撃が行われていた。率いる徳川好敏中将は民間航空の草分けで、1910年日本初の飛行を記録、25年には陸軍航空兵科誕生とともに、兵科の最初の将官として活躍

徳川兵団所属の従軍記者となる

 

l  武漢作戦と遡上艦隊

徐州作戦が始まり、玉井勝則軍曹(火野葦平)が出征前に書いた『糞尿譚』が芥川賞を受賞、前線の授賞式となり、その後報道部付となる

その後武漢三鎮の攻略作戦を展開。報道部は和平の誠意を印象付けようと英米のジャーナリストを含め報道関係者を戦場に招く

1000人を超す報道陣が集まり、毎日も専属のパイロットを送ってきた

偵察飛行の結果、揚子江の遡上艦隊に乗り込むのが早道と判断、記者団で超満員の旗艦「安宅」に乗って漢口に上陸

 

l  ノモンハン一番乗り

大きくなりそうな気配に、本社宛に「会長と社長が本気で殴り合いを始めた」と謎かけの電報を打つ

 

l  激戦に散った佐藤繁記者

謎が解け、大部隊が派遣され、後藤が前線指揮者となる

作戦の秘密保持のため戦車隊への従軍が不許可になったのが幸いして命を救われた

多大な犠牲を払って停戦となり、毎日も1人殉職。内地に戻った後の講演ではノモンハン戦の報告は禁止事項とされた

私の従軍記者時代最後の仕事となった

 

l  「軍人」対「文人」

戦時中は、「軍人人種」ともいうべき異人種の支配下に生きてきた

報道班員制度の下、従軍記者の身分は軍属の奏任官待遇(佐尉官相当)とされたが、上等兵にも怒鳴られた

「軍人たらし」術に長ずることが戦時下に「ご奉公」を全うする上で欠くべからざる心得

 

l  報道班員制度の発足

私の場合は、「海軍たらし」

開戦前、密かに報道班員の徴用を準備していることを知ったのも、懇意にしていた海軍参謀からの情報で、報道班員制度実施を知るきっかけとなる

海軍はケチで予算も削られ、新聞社員の給料は各社負担とされ、その代わり「特派員」として原稿を本社に直送しても構わないというので協力を約束した

 

l  海軍省黒潮会

黒潮会は海軍省の記者クラブ

三国同盟を主張する陸軍に反対したため陸軍の恨みを買って米内内閣が倒され、吉田善吾海軍大臣も辞職に追い込まれ、及川古志郎大臣の時代に漸く三国同盟締結

 

l  ドイツ海軍の先進性

ドイツ海軍は興味深い。元々英海軍に対し負け犬の境涯を生きてきたが、戦略的着眼は絶えず攻撃に向けられ、その典型が潜水艦を数隻まとめた「狼群」としての攻撃兵器への転換

機械水雷も、ただ接触を待つだけの防御的兵器から、磁気機雷や音響機雷として航空機からの投下に切り替えたところに戦術的な重要性がある

1940年、内閣情報局が発足し言論統制を一本化すると同時に、海軍報道部は作戦報道の発表窓口として正式に省内で認められた

ドイツの新鋭戦艦「ビスマルク」がイギリスの空母から飛び立った複葉の旧式雷撃機に撃沈されたのが、ドイツが目を東方に転じたきっかけというのが海軍報道部の観測

 

l  触覚人間

1940年、東京政治部に移籍

大宅壮一に付けられた綽名が「触覚人間」で、どこにでもひげをふり立てて潜り込むゴキブリ型の触覚が必要だった

 

l  海軍夜間学校

海軍担当直後に、海軍の新聞係だった富永謙吾少佐を勤務が終わった後大森の旅館に缶詰めにして海軍に関する特別講義をしてもらったが、まるで夜間大学だと言われた

佐藤市郎は海兵・海大を首席で卒業した何十年に1人といわれた秀才だったが、軍縮条約時代に活躍したため、中将で予備役に回された。その弟が岸信介と佐藤栄作

 

l  迫り来る日米対決

無条約時代に突入して建艦競争となり、日本海軍力は急速に強化され、目標の対米7割を超えたところで、アメリカの建艦5か年計画が完成する前に対米開戦の声が高まる

 

l  アメリカの軍神たち

海軍省教育局が海軍大学校に委嘱して編集した、士官のための教養本で「米国海軍の伝統精神」によれば、アメリカ海軍の歴史には、広瀬中佐や潜水艦の佐久間艦長みたいな軍神がごろごろいる

 

l  型破りな軍人

東京憲兵隊の特高課長塚本誠中佐(戦後、電通取締役)は、遊びの方も上手で粋。吉原に警視庁から歌舞音曲の禁止通達が出たが、撤回させている

彼との交流が、後の東条内閣成立のスクープに繋がる

 

l  3人の首相候補

近衛内閣総辞職で後任が、畑俊六大将、寺内寿一大将、東条中将陸相の3人に絞られ、海軍省軍務局からの畑有力との情報をもとに毎日社内を纏めようとしたが、南京総司令官の畑が大命を受けるには勅許を得て帰国しなければならないのに、塚本の線から勅許が出ていないことが判明。米内邸で、「頭は禿げているか」と訊くと米内は考え込んだ。米内はトボケることができない人で、胡麻塩頭の畑とビリケン禿の寺内に対し、禿げていないでもないが禿とも即答し兼ねる東条ゆえに一瞬考えこんだのを見て、咄嗟に「東条首班」を確信

これ以降、米内邸詣でが恒例化する

 

l  東条内閣をスクープ

米内に再確認して号外となり、毎日がスクープに成功したが、大命降下を東条の秘書官が発表したため、内閣情報局総裁が激怒して発表行為を取り消したため混乱。東条の秘書官は中佐であり、当時の青年将校の気負いが窺われる。東条は同日付で大将に進級

 

l  「和」か「戦」か

東条内閣成立とともに、米海軍のノックス長官は緊急警戒を発令し、太平洋航行中の米国船舶は直ちに友好国の港に避難せよと命じる。すぐにも奇襲が始まると怯えた

開戦がいつかという問題が新聞記者の命懸けの取材対象となる

11月には来栖大使が新たな特命全権大使として、最後の妥協案を携えて渡米、大使夫人が生粋のシカゴ娘だったことと併せて、和平にいくらかの光明が感じられたと言われた

 

l  黒いカバンの中身

大使の出発後米内邸に行くと、米内はカバンを半分開けたまま中座、中には『帝国国策遂行要領』の題字が見える。中を見ると、武力発動は「12月初旬」とある。戻ってきた米内は、「この中には君の見たいものが入っているが、それを見せれば僕は銃殺だ」という

当時は、軍機保護法や新聞紙法で紙面を抑制されただけでなく、記者個人の行動も法律で縛られていたうえ、陸軍と内閣情報局が「新聞合同会社」なる国策会社構想を進め、3大紙が一致して反対したために何とか社の存続を勝ち取ったところ

とりあえず上司に口頭で報告したが、海軍某高官からの情報というだけでは聞き流された

 

l  「はじまるぞ、いよいよ」

支那の徳川航空隊の時世話になった陸軍少佐がマレー半島の気象条件調査から戻ったので会ってみると、いよいよ始まるとの話を聞かされ、上陸作戦は統計上128日が可と出たという

 

l  「開戦必至と判断して可なり」

社内の同僚と相談、「開戦必至と判断して可なり」と確信し、大阪社会部長から社内の根回しをしてもらうことにし、大阪本社から東京本社と、開戦準備を進めることになる。すぐにサイゴンに大型無線機を配備、このおかげで後日のシンガポール陥落をスクープ

ドイツの電撃戦の例などから見て、開戦は日曜日になると予測

海軍の作戦担当である軍令部の課長が121日まで大阪出張に出たので、残るは8日しかない

 

l  海軍の偽装工作

122日、アメリカ航路の「龍田丸」が37人の外国人客を乗せて出港、各地を回って外交官や家族を収容して1か月半後に帰国するという。その間は開戦にはなるまいというが、後にUターンして港に戻るよう秘密指令が出ていたと判明。報道部からは各社に、57日の3日間、水兵を東京見物させるので記事にしてくれとの依頼、外務省も在日外交官を招いて歌舞伎座で観劇会をやるという

いつも出入り自由な報道部には、「許可なく入室禁止」の貼り紙が出たので、「開戦間近を告げるようなもの」と言ったらひっこめた

 

l  「東亜攪乱、英米の敵性極る」

127日は日曜日だが、海軍省に顔を出すと、「公・1」のナンバープレートがいる。海軍大臣専用車で、運転手に声を掛けると、今朝島田大臣と永野総長が一緒に明治神宮と東郷神社を参拝したという。2人が同じ車に乗ることなど前例がなく、開戦を確信して本社に戻る。陸軍省内が泊まり込みに入ったと伝えられ、社賓の徳富蘇峰翁から娘婿の阿部賢一編集局長に「詔書を校正した」との情報がもたらされ、判断材料が出揃う

刷り上がりが検閲に届いたころ、情報局の陸軍少将から、「記事を全部はずせッ」の電話。頑強に抵抗したため、1面の見出しを少し柔らかくすることで手を打つ

1面トプの横に、「東亜攪乱、英米の敵性極る」、縦に、「断固駆逐の一途のみ」。社会面も一見して異常な割り付け

 

l  スクープか、それとも・・・・

128日は良く晴れた日。富士山がくっきり見えた

黒潮会員に集合が掛かったのは午前5時。既に市内版は配達済み

午前6時、陸軍報道部の一室で、歴史的発表が行われ、NHKラジオから臨時ニュースが流れる。マレー半島奇襲上陸成功の続報が発表され、気象情報からの予測が当たっていた

「負けたら大変」というのが偽らざる心境で、国力の差は誰にもわかっていたが、とにかく戦争に勝つまで軍人の無理は聞いてやろう、平和になったら俺たちの仕事がまた始まる、と密かに考えていた

 

第2章        古賀長官「殉職」の秘密

l  「無敵海軍」の崩壊

426月のミッドウェイ海戦で無敵海軍に影が差す。海軍報道部の、「この中にスパイがいる」との発言で騒然となる

432月のガダルカナルの撤退後、南方占領地を巡る取材に出たが、前線の海軍士官たちは内地では考えられないほど率直に日米戦の将来を悲観して語っていた

 

l  東洋の真珠

シンガポールでは、内地からの戦場名所を訪れる観光客の応対に支局が悲鳴を上げていた

遊び過ぎては金が足りなくなり、支局に寸借に来る

ジャワで山本長官の戦死を知る。直後のラバウルに行ったが、大空襲が始まると言われ即刻引き返す

帰路立ち寄ったマニラは、東洋の真珠の名にふさわしい白亜の街並みで、日本人は平和進駐さながらのゆとりを見せ、アメリカの残した物資が豊富

 

l  運命のマニラへ

4311月、米軍がブーゲンビル島上陸

報道課長の平出大佐がマニラの大使館の駐在武官に行くことになり、その補佐役として、1年間、身分は海軍司政官(中佐待遇)、毎日在籍のまま、現地報道部長

マニラでは陸軍報道部が大所帯で活動しているところから、海軍報道部は規模を縮小。毎日が現地新聞を接収していたこともあり、三百対三でスタート

 

l  メスティーサの魅惑

大使館付武官は、大本営勤務例に基づく中央直属の諜報機関

445月、サイゴンの南方軍司令部がマニラに移転

現物給与のお陰で暮しは良く、ダンスホールには魅惑的な混血娘(メスティーサ)もいた

 

l  三百対三

443月、古賀峯一連合艦隊司令長官が遭難、殉職

三百対三で、陸海軍の関係は上手くやっていた

フィリピンは食糧自給が出来ず、陸軍の食糧は窮迫するばかり。海軍はいつ軍艦が寄港してもいいように食糧などを余分に備蓄していたので融通し合う

 

l  竹槍事件

442月、スプルーアンス提督によるトラック諸島占領により、陸海軍の参謀長・総長が辞任、陸海相が兼務という異常事態を迎え、毎日は「皇国存亡の岐路に立つ」「戦局は茲(ここ)まで来た」「竹槍では間に合わぬ」とキャンペーンを行い、読者に戦局の危機的様相を訴えた

 

l  激怒した東条大将

陸軍省内の局部長会議に東条自ら乗り込み、報道部長に処分を迫る

紙面は各方面で大いに評価され、内閣情報局からも表彰ものだと褒めてきていたが、東条の一喝で一変。夕刊ではさらに「海軍航空兵力の急速な増強こそ至上命令」と過激に書いたため、東条は統帥権の干犯だと決めつけ、毎日は編集局長の辞任で謝罪する一方、記者には特別賞を授与

陸軍は「臨時召集令状」を発令、同情した海軍は遡らせた徴用令状で海外に行かせようとしたが、一歩遅く入隊。中隊長が旧知の間柄で、陸軍の措置を不快に感じていたらしく、無傷のままで済んだのは幸運だった

 

l  果てなき消耗戦

記者はその後海軍報道班員に徴用されマニラに赴任

陸軍は次第に海軍の戦闘能力への疑いを深め、海軍の航空機材の要求を大幅に削減

陸軍は、海軍がその恨みを毎日の紙面を使って晴らしたものとみて、余計に苛立った

 

l  死闘の幕開け

443月、パラオ来襲

 

l  フジ事件

連合艦隊司令部の惨事勃発。山本長官戦死の「甲事件」に続く「乙事件」と呼んだが、現場では「フジ事件」とも称した(不時着の意味か)

古賀の後の豊田長官は、アメリカ式に後方で指揮を執ったため、「丙事件」は起きなかった

 

l  古賀長官の決意

太平洋戦中日本海軍には「Z作戦命令」が3つ存在

1回が、山本長官の「真珠湾攻撃」

2回は、438月のマーシャル、ギルバート方面での本格的迎撃作戦を目指したもので、帝国海軍が数十年にわたって練り上げた、対米戦略の結実と称すべきもの

結局発令されずに終わったのは、母艦パイロットのラバウル転用による消耗が原因であり、新鋭機の生産の遅れから使用機が開戦以来の鈍足の旧式機であれば如何ともし難かった

 

l  最後のZ作戦

3回は、442月、養成中の基地航空部隊である第一航空艦隊を遊撃主力として発想されたが、翌月パラオの「武蔵」艦上から実際発令された「新Z作戦」の特徴は、各種遊撃隊がぐっと縮小され、絶対国防圏と呼ばれる千島からサイパン、パラオ、フィリピンの線に後退。航空隊の技能は極端に低下、昼間発艦、基地帰投(艦に戻れない)の状態

それでも、パラオへの米軍上陸間近と見て、パラオ集合を命じる

 

l  不可解な夜間飛行

敵のパラオ上陸を予想して、司令部をフィリピンのダバオに移そうとしたが、先を急いだのか夜間飛行となり、惨事に繋がる

 

l  乙事件の真犯人

ダバオに向かった一番機は不明、二番機はセブで遭難、三番機のみ翌朝出発し無事到着

 

l  「古賀長官捕虜」の噂

大本営は5月になって古賀長官の「殉職」を公表。「戦死」でなかったこと、二番機の福留参謀長がゲリラの捕虜になって生存していたことから、長官生存説が流れ、捕虜になって自決したとの噂まで流れた

 

l  「古賀長官」救出の生き証人

海軍の要請でセブに捜索に向かった日本の民間人が福留を捕らえたアメリカ人ゲリラと捕虜交換に立ち会った際古賀を確認したという証言をしている

 

l  軍機書類亡失事件

戦後の福留の証言で、「付近に墜落した日本機について報告が入っていたが、東京では真相が不明」と言っているが、福留が捕捉された際古賀と名乗った可能性もあり真相は不明のままで、さらには福留の軍機書類亡失、敵の手中に渡ったという話も出てきた

 

l  浮かぶ基地群

元々日本の対米作戦計画では敵の長途の疲れをついて近海の遊撃決戦で勝利する戦略にあり、日本の艦隊は航続力、防御力、居住性を犠牲にしても、近海における決戦に最大の攻撃力を発揮できるよう設計されていた。アメリカに対する長途の渡洋攻撃計画はその伝統にはなく、その能力もなく、アメリカもそのことをよく知っていた。そこを逆手に取ったのが山本のZ作戦(真珠湾攻撃)

アメリカの艦隊は、いくつかの任務群に分けられたが、何れも浮かぶ基地のように機能し、多数の上陸用兵員と補給艦船を従えていた

 

l  Z作戦計画書の行方

戦後の戦記ブームでも、軍機書類亡失に触れた記事がなかったのは、旧海軍の名誉を守ろうという密かな努力があったから

福留は証言の中で、海底に沈んだと主張しているが、釈放直後は救出の指揮を執った参謀に対し、土民が持ち去ったと言っていた

 

l  魔の夜間飛行

福留の乗った二番機は、思わぬ熱帯低気圧にあって燃料を使い果たし、セブ近辺の海に墜落、13人が生存

 

l  捕らわれた福留参謀長

墜落を目撃していたのがゲリラで、土民の丸木舟に救助され、その際書類カバンは土民に取り上げられたが、オーストラリアの米軍司令部宛ての報告では、捕虜と暗号書らしいものの入った書類鞄を入手したとの報告が上がっている

 

l  疑惑の証言

ゲリラの本部に連行され、福留は負傷による高熱で病院に収容

 

l  マッカーサーの訓電

マッカーサーは、捕虜と書類鞄をすぐオーストラリアに送るよう訓電を出したが、ゲリラの隊長は福留に十分な治療と休養を与える

一方、ゲリラ掃討に動き出した現地駐屯の大西部隊がゲリラの本拠を包囲、捕虜救出に来たと思ったゲリラは、包囲解除と引き換えに福留を解放を考え、捕虜の1人を使者に立てる

 

l  「花園少将」の使者

ゲリラから、「花園少将以下10名の捕虜を引き渡す」と聞いて、初めて「乙事件」を知った日本軍は全員の救出を目指して交渉に臨む

 

l  旅団命令に激怒した大西部隊長

無事解放された福留は日本に戻り、何のお咎めもなく第二航空艦隊司令長官に親補

現地駐在の参謀は、機密書類確認のため暫く陸軍と行動を共にする

現地駐屯の大西部隊は、ゲリラ掃討を命じられ、停戦約束を反故にするものと怒って、旅団司令部を非難

 

l  見破られたスパイ

機密書類が敵に渡った可能性を否定できなかった現地参謀は、陸軍にゲリラ殲滅を要請

 

l  奪われたZ作戦計画書

オーストラリア駐屯の米軍諜報のトップの記録によれば、司令部に届けられた暗号書はすぐに複写され、原本は気づかれないようまた付近の海域に沈められておくことになった

 

l  「古賀長官は生きては帰れなかった」

ゲリラを包囲して、書類奪還を目指したが、結局不発に終わる

戦後、現地で日本軍の諜報員だった男と現地駐在参謀だった男が進駐軍相手の商売で一緒になった時、「古賀が生きているのでは」と聞くと参謀は、「あの状況では生きて日本に帰れなかっただろう」とこぼしたという

 

l  福留参謀長は無罪

戦後編纂の『連合艦隊司令部の遭難』によれば、「書類は複製され、レイテ海戦に重大な役割を演じたが、当時の状況から敵の手に落ちたとは思われなかった」とあり、書類亡失も捕虜になったことも不問に付された

参謀は指揮官ではないので死刑には該当しないが、捕虜になったらただでは済まない。フィリピンは日本の完全占領下だったので敵は存在せず、福留もゲリラを現地土民と呼び、ゲリラとの交流があったことを明らかにしたのは52年で、既に海軍刑法は47年に失効していた。書類の紛失についても、敵に奪われたのではなく海中に没したとシラを切りとおしたので証拠はない。下級軍人に対してはあれほど厳しかった軍規が、この事件に限ってにわかに寛大だったことに反発を感じる人は戦後も存在

 

l  クーシンは敵にあらず

1か月後海軍人事局は、俘虜の定義がない以上俘虜査問会に付する要なきと認め、ゲリラも正規の敵兵でないとして軍法会議にも付する要なしと不問に付すと決定

翌月大本営が古賀長官の殉職を発表

海軍当局の秘匿努力にもかかわらず、発表の前後から各地の警察署から「乙事件」についての流言飛語が広まりつつあるとの情報が海軍省に寄せられた。多く語られたのが「古賀長官を見た」というもの

 

l  マニラ燃ゆ

449月、突然初空襲がマニラを襲い、マニラ港停泊中の艦船が炎上

独立したばかりのフィリピン政府がアメリカに対し宣戦布告する一方、ゲリラと民衆が一体となって抗日に動き出し、市内の治安が急速に悪化

連日の猛攻が始まり、南方総司令部はサイゴンに逆戻り

在留邦人の男子は1745歳まで現地召集となったが、武器も軍服もなく、いったん解除されるが、マニラ防衛隊の一員として悲惨な戦闘に巻き込まれる

 

l  渡名喜大佐の気働き

レイテ海戦は栗田艦隊が敵前逃亡で敗北、互角と言われていたレイテ島の陸戦でも敵の奇襲上陸で日本軍の補給基地が敵の手に落ちて劣勢に

私をマニラに派遣した東京の軍令部の渡名喜大佐が、置きっぱなしにしていることに気づいて、軍の輸送機を提供するよう指示してくれた

 

l  混迷するマニラ

軍票がほとんど反古とされ、物々交換がすべてとなったマニラでは食料の確保が至難

44年のクリスマスに東京に戻る

フィリピン政府もマニラを去り、日本の大使館も避難

 

l  さらば、マニラよ

飛行場を飛び立った後に着陸態勢に入った陸攻が1機いたが、待ち伏せしていた敵戦闘機に撃墜。軍令部で俊才をうたわれ、ルソン航空決戦の指導に駆けつけた航空参謀、岡田貞外茂(さだとも)中佐の乗機。中佐は岡田啓介海軍大将の令息(府立一中昭和9年卒の貞寛氏のご令兄?)

 

l  「腰抜け軍令部」に泣く

無事帰国後、海軍省に行って渡名喜大佐にフィリピンの在留邦人救出を訴えるが、軍令部第3部長は黙って引っ込んでしまう

渡名喜は、密かに高松宮と弘田弘毅元首相を中心にドイツ大使館を通じて和平工作をしていたが、ドイツ海軍省から情報が洩れ部内で白眼視され、死に場所を求めて福山航空隊司令に出るが、生きて終戦を迎え、出身地の沖縄に戻って、海軍陸戦隊が玉砕した地下陣地跡を発見して保存している

 

l  悲劇に終幕

本社で南方部長に任命されたが、現地との連絡も思うに任せないまま、ポツダム宣言受諾の外電が編集局内に流れる

海軍省経理局から、戦時中の海軍の未払い分を払いたいと言ってきたが、戦争責任追及の声が社内外から高まり、受け取れる状況にはなかった

 

l  「決戦報道隊」全滅す

毎日社員の殉職は47人。マニラで応召戦死した社員は含まれず

マニラで最後まで頑張った決戦報道隊は、後に全滅が伝えられた

 

l  恩讐を超えて

生き残った報道マンが最後にやった仕事は、終戦を知らずに山中をさすらう日本軍の将兵や民間人のために、降伏の心得をビラで伝達すること

福留を救出した大西部隊は終戦まで米軍と武装ゲリラ相手に苦戦

戦後大西はモンテンルパの刑務所に抑留、絞首刑を求刑されたが、ゲリラの隊長が証言に現れ、大西の対応と武士道精神を称え、恩讐を超えて手を握り締めたのを見て、絞首刑は免れ、内地に帰還

 

あとがき

軍人人種と文人人種が相互理解できないなか、私達の仕事に理解を示してくれた奇特な軍人の代表格が米内光政

戦後まもなく、米内は生存した29人の海軍首脳を集め、開戦の「真相」について記録させた。4回の座談会形式で行われたが、米内はあっけなく死去。記録はうやむやになったが、この度同僚が編纂して公刊される

 

付・提督座談会

l  御前会議

永野修身(軍令部総長・元帥) 近衛手記には、余の発言(天皇の開戦反対発言に対し、外交を主とすると答えた)に関し、陸海軍を代表して申し上げる云々と書いてあるが、それほど巧いことを言ったかしら

藤井茂(大佐) 121日、御前会議で外交交渉打ち切り決定

柴勝男(大佐) 1126日ハル・ノート到着の時、岡敬純軍務局長は落涙。海軍が最後の決意をしたのはハル・ノート以後

藤井 海軍が最後まで外交交渉に望みをかけた証拠は、近衛・ルーズヴェルト会談のため「新田丸」を準備し、電信員を配置し、開戦まで横浜に拘置せしことにて明瞭

(軍務局長・中将) 真に決意せしは121日の御前会議。近衛内閣崩壊前に首相から電話で「海軍は戦争が出来ぬと言ってくれ」との要請あったので、余は「南方作戦だけは出来る。その後は2か年だけは戦争が出来る」と返事した

及川古志郎(海相・大将) その電話は122,3日頃じゃないか。海軍作戦の持続力(2)のことは永野の意見によったもの

永野 近藤(信竹中将)など一戦を辞せずとか相当強いことを言っていた

岡 後宮(淳陸軍)大将は外交折衝を支持したが、武藤()が聞かず

永野 95日、御上はご気色強く、杉山参謀総長に対し作戦の見込みをご下問。「南洋は3か月で片付く見込み」と答えると、「支那事変発生当時1か月で片付くと言いながら、4年経っても片付いていない」とのお言葉。「支那は奥地が広くて」と言うと「太平洋は支那よりも広い」と御諚あり、杉山は恐懼一言もなし。永野より、「盲腸に罹った子がいて、30%でも生存の見込みがあれば断乎手術するほかなき場合がある」と申し上げたらご気色や和らぎたり

岡 128日と決まった経緯の詳細は誰も知らぬ

永野 あれは図演で決まった

大野竹二(少将) あれは統帥部に一任だった

岡 統帥部一任のことも、大本営・政府連絡会議は知らなかった

近藤信竹(大将) 三国同盟には、海軍は日米戦争をせぬために同意したり

及川 昭和16年独ソ開戦により、海軍としては同盟の廃棄を主張せり

柴 独ソ開戦するや、松岡は対ソ開戦をも主張せり。これには海軍大いに反対せり

永野 あの時、永野の言う対米戦争は出来るが、対ソ戦は出来ないというのは訳が分からぬ、と言って松岡に叱られたが、分らぬのかなあと思って黙っていた

岡 日米戦争なかりせば、国内に大騒動が起こっただろう

豊田貞次郎(大将) その通り

及川 近衛はずるい。何とかして陸海軍を利用して、国内問題を処理せんとした

近藤 近衛は他人に何とか言いながら、自分の意見を言わない

永野 お終いには宿命的に進んでいった

 

l  三国同盟

井上成美(大将) 第1次三国同盟の主目的は、防共協定の延長として、ソ連を目標とし、副次的に国際的孤立回避のため何とか見方を得たしという気分も作用。米国では嫌独が強く、これと同盟することは必然的に日米国交の悪化を予想せられ、同盟の利益と代償を比べて不利にならぬようにというのが海軍の意見。陸軍は対ソ戦一点ばりに対し、海軍は対米戦を考えた。米内さんも日ソ親善を主張、防共協定にも反対だったが、陸軍が無知な国民を騙した。第1次大戦後は、大英帝国さえも二国標準主義(世界の2位と3位の合計以上の海軍力)を捨てたのに、日本は陸軍がソ連、海軍が米を目標とし、国策に統一性なく、国家のあらゆる政策が紛糾せり

竹内馨(少将) 当時の陸海軍のソ連及び米国に対する気持ちや態度如何

井上 陸軍の偽らぬところは、満州は取ったがソ連は怖い。海軍は支那事変を巡り、日米関係の破裂は時間の問題で、どうしてもこれに備えねばならぬというにあり

岡 陸軍から三国同盟の問題でしつこく交渉に来た。出来たばかりの軍務課の3代目課長の岩畔(豪雄中佐)が最強硬で、「ヒトラーと手を握ったらあとで日本が困るぞ」と反対したら、あまり来なくなった

榎本重治(海軍書記官) 最初は防共協定の強化だったのがいつの間にか三国同盟に変わり、海軍の考えとは違った。米内海相の頃、海軍は「同盟は米国に対抗するものにあらず」との声明を出すことを強く主張、陸軍もドイツも猛烈に反対し、平沼内閣はこれで倒れた

近藤 対米戦には備えるが、戦ってはならぬということで海軍省・軍令部は一致

榎本 かつて山本長官は、世間は自分を三国同盟反対の親玉というが、根源は井上だと言われたことあり

岡 二・二六事件直後、陸軍石原(莞爾大佐)作戦課長らと懇談した際、北支への謀略行為の中止を提案したら同感だとしながら、板垣(征四郎)参謀長が満州がうまくいかぬのでカモフラージュに動いていると答え、だんだん石原が少数派となって追い出された。陸軍は満州も抑え、北支にも勢力を伸張せんとし、ドイツの力を借りてソ連に対抗せんとしたものと思われる

井上 陸軍は北支に手を焼いて、ドイツを味方にけりをつけようとし、ドイツも北支大使トラウマンを仲介に、日支和平工作に乗り出し、ほぼ成功が見えてきたのに、最後の総理官邸の会議で杉山陸相が賛成せず、多田(駿)参謀次長も弱って落涙。同会議での末次(信正)大将の態度も不可解

大野 陸軍の若手連中は独ソ戦必至と考え、ドイツと連合してソ連を撃ち、沿海州を攻略して国境線を整理してから、南に行くべきとの強硬論あり

岡 満州を保つために沿海州を押さえるという意見は強硬だった

及川 日本がバイカル湖まで、ドイツがウラルまで出れば、ソ連は成り立たぬという意見

井上 町尻陸軍軍務局長が、陸軍のひどい装備を整えるために海軍に1年装備を待ってくれと言って来たので跳ね返した。出先では対ソ強硬論大有り。張鼓峰事件の時は、陸軍がどうしてもやるなら海軍は陸軍を爆撃するといってやっと止めた。政府は首相(平沼)も外相(有田)もはっきりとしないが、三国同盟は結びたくなく、海軍が止めてくれるので大丈夫と思って、消極的に陸軍の言うことに賛成していたらしい

岡 外務省の事務当局の中には賛成者がいた

井上 外務も事務官級には同盟賛成者が多く、神(重徳)中佐が賛成意見を持って来た時も悉く拒否

吉田善吾(大将) 近衛公からも、若い者はこういうぞ、といわれた

井上 ある実業家から、海軍も遂に賛成されたそうだというから、自分の目の黒い間は絶対に賛成しないと答えた。陸軍は泣き落としを掛けてきて、米内さんも閉口。憲兵隊では山本(五十六)次官に護衛をつけ、副官から私にも拳銃と催涙剤を勧めてきた

榎本 月刊誌『維新公論』には山本次官に対する脅迫文が掲載

近藤 オットー大使が、陸軍士官を丸め込んでいることは、外国も含め皆知っている

井上 独大使はずいぶん金も使い、陸・外・内を丸め込んだ。第1次同盟が潰れた時、内奏に参内した米内大臣に対し、「海軍のお陰で国が救われた」とのお言葉があった

 

l  2次三国同盟

岡 松岡(外相)に同盟の目的の真意を質したところ、同盟は米国と戦争せぬことを目的とするもので、日本は同盟の力で強気に出て、米を押さえる以外に手がない、これが唯一の避戦の途だと答えた

榎本 松岡は、同盟を結ばねば、ヒトラーが在米1,000万の独系人を扇動し、日米戦を起こさせる恐れありと述べたことがある

吉田 近衛組閣前、近衛、東条、松岡、海相候補の私が会談した際、枢軸強化の話が出たので、それは結構だが三国同盟など夢想だにせぬよう、また同時に南方を一気にとるべしとの空気に対しても釘を刺した。独伊と情報交換を緊密にやるというが一向に実現しないままに、突然同盟成立を聞かされた。松岡は気狂い。彼を外務の要職につけたのは大失策。独ソ開戦当時、畑陸相が千載一遇の好機の乗ずべしとの記事が出たが、軽率極まる

及川 松岡から、日米通商条約回復のため野村(吉三郎)大将に大使になってほしいと頼まれたが1か月もかかった

豊田 次官に就任直後スターマーが来朝、軽井沢で松岡、白鳥、斎藤(良衛)に会った後帰京して三国同盟の話が出た。同盟の主眼点は、英独戦争に日本の援助を要しないことと、ソ連を加えた4か国にて米の参戦を牽制し早く世界平和を回復すること。ここ1年の間に不可避の日米戦を防ぐためには4国同盟しかなく。ソ連の引き入れにはドイツが責任を持つとの松岡の説明だった。当時駐米大使には、外務畑に引き受け手がおらず最後の切り札として野村大将を起用した。支那事変を解決し、日本の孤立を防ぎ、米参戦を阻止するための同盟で、自動的参戦の条件もないので、第1次で海軍が反対した理由は解消したとのことだった

近藤 松岡は、和戦は天皇の大権に属し、スターマーも納得ずくだというので、反対の理由はなくなり、次長として困ったことになったという気持ちだった

豊田 陸海軍の対立が激化、陸軍内にはクーデターの可能性もあり、股肱の皇軍として国内動乱などの事態は極力回避せねばならぬ

井上 敢えて一言。過去陸軍に追随せし時の政策はことごとく失敗。二・二六事件を起こす陸軍と仲良くするは、強盗と手を握るが如し。もう少ししっかりしてもらいたかった。事件の時自分は米内長官の下で横須賀鎮守府参謀長だったが、陸軍が生意気なことをやるなら、陛下に「比叡」に乗っていただき陸軍に対抗する覚悟でいた。兵学校長の時も陸海軍仲よくせねばならぬと士官学校生徒から兵学校生徒に文通しきりになりしが、校長の責任で両校生徒間の文通を禁止

及川 三国同盟締結は着任早々だったので、山本(五十六)司令長官の意見を求めたところ、情況ここに至ればやむなしと答えた

藤井 日本の政治組織と当時の情勢を考える必要あり。輔弼の責めを有するのは外相、陸相であり、海相としては責任外。海軍は政治力貧弱にして、刀折れ矢尽きて屈服

井上 閣僚は連帯責任で、他の閣僚の所管に対しても意見をいうべきであり、意見が合わねば内閣が倒れる。国務大臣はそれができる。大臣の現役大・中将制も伝家の宝刀

榎本 法理上も井上大将の言う通り。近衛公手記に、政治のことは海相心配せずともよい、とあるは公の誤解

井上 永野元帥も、仏印進駐の時は、宝刀を抜くべき時に抜かなかった

吉田 陛下から、海軍の言うことはよく判るが、陸軍の言うことはよく判らぬというお言葉があった

川井巌(少将) 北部仏印進駐の時も、陸軍が無茶をやるので、海軍は協力しないと、藤田類太郎(少将)が言ってきた

三代辰吉(大佐) 陸軍になぜ武力進駐したのかと詰問したら、作戦部隊を待機させておいて平和的に進駐せよと言って押さえることは、統帥上出来ぬといった

及川 松岡も、日米戦回避は相当考えていたようだ。米側では財務長官モーゲンソーや国務省極東課長バレンタインの強硬論に引きずられた。戦争挑発の責はむしろ米にある

吉田 陸軍も民間も、ドイツの動きに乗り遅れてはならないとの考えが強かった

豊田 欧州から帰った後の松岡は態度一変

吉田 彼は論理一貫しない。ロジックが飛躍する危険人物

及川 近衛は真に世界平和を考え、自ら乗り出そうとしたがうまくいかず投げ出した

井上 近衛手記には日時の関係に間違いあり。40年と41年で錯覚あり

榎本 三国条約が出来たが、「?」だらけで困った。大橋外務次官も、相談がなかったので質問されてもよく判らぬと言っていた

 

l  日米交渉の経緯

井上 日米交渉回答案が回ってきたとき、海軍はどんなことがあっても米英との戦争を避けるべきと進言したが、海軍省や軍令部は何とか理由をつけて戦争の方向にもっていこうとしていることに危惧を覚えた

澤本頼雄(大将) 海軍次官になると、陸・海・政府とも日米交渉成立を希望したが、外務省は強硬。松岡帰朝後ますます難しくなり、日米関係悪化に拍車をかけた。独ソ戦起こり、陸軍は概ね熟柿主義でソ連の参るのを待つべしとの意見。72日の御前会議で国策要綱を決定したが、対米英開戦も辞せずとあり、及川大臣に確認したところ、避戦だがあのくらいにしておかないと陸軍を押さえきれぬということだった。結局松岡追い出しのために近衛公は内閣を投げだす

竹内 米提案中、「日本は武力南進せず」を日本が削って米を刺激したが、その経緯は?

澤本 仏印進駐は1月の処理要綱にて決定しており、仏印進駐は既定方針だった

豊田 松岡が帰ってきて削除したと記憶。独ソ戦が始まったら、日本もソ連を討つということを大島(浩駐独大使)からも言ってきた

近藤 連絡懇談会で、独ソ開戦すれば日本はシンガポールを攻略するという約束の話が出た時、松岡はそれは統帥事項で何も知らないと答えたが、何か約束してきたような印象を受けた

澤本 松岡は総理に信用なく、その時々で気分が変わり、外国使臣にも信用なく、海軍に言ったことも終始変わっていた

豊田 米英と一戦を辞せずという文句は、72日の御前会議で初めて正面に出てきた

大野 一戦を辞せずとは開戦を意味しない。独ソ戦に関し陸軍は2,3か月で終わると考え、熟柿のみならず渋柿までもぎ取ろうという積極論者がいて、これでは予算も資財も陸軍にとられるので、海軍としては戦備充実のため、南にも備えるようにもっていかざるを得なかったので、本当に戦争をするということを考えたものではない

竹内 米は6月前後より、日本の暗号を解読していたと思われる

澤本 9月ごろ、山本長官上京の際、長官としては11月までに戦備は完成、現在の300機の零戦でも戦争初期は戦えるというが、一大将としては日本は戦ってはならぬ、結局は総力戦で負けるという。軍令部次長も第一部長も、翌年になれば兵力差が大きくなるので、戦争をやるなら早く決めなければならないという意見に変わっていった。主戦的な永野総長と、反戦の及川大臣の間には思想上のギャップあり。不敗の策あるが、屈敵の策はない、日米戦については慎重な態度をとらねばならぬが、戦備は進めなければならぬとして奏上

川井 (山本さんは)石油を禁輸されたら海軍戦力は2年しか続かない。禁輸4カ月以内に開戦せねば不利になると考えていた。その他の資財でじり貧は見えてきたので、交渉が長引くようなら、やらねばならぬと考えが動いていた

三代 軍令部は作戦本位に考え、遅くとも11月末にはやらねばならぬという結論。戦争の見通しについては、屈敵の目途なく、ドイツが圧倒的勝利で独英和平が実現すれば、日米戦争終結の転機となり得ると考えられた程度。負けるかもしれぬが、戦わずして4等国に堕するより、潔く戦って2600年の日本歴史を飾るべきとの意見が有力

榎本 海軍としては、面子にかけても仮想敵国たる米と、戦争できぬとは言えなかった

及川 近衛・ルーズヴェルト会談で、近衛は成功しなければ日本に帰らぬと言っていた

豊田 近衛公との話し合いで、会談は上手くいってもいかなくても日本とはおさらばと決めていた。行けば必ずやり遂げる覚悟で、撤兵も何も出先で決めて御裁可を仰ぐ覚悟

及川 乗船までは海軍が引き受け

高田 岡局長より船の準備を命ぜられ、支那事変のための徴用として「新田丸」を準備し、横須賀から横浜に回航

澤本 近衛手記に、海軍は和戦の決を首相に一任とありしが、「海軍は戦えない」などと言いうる情勢にあらざりき

井上 なぜ男らしく処置せざりしや。いかにも残念なり

及川 私の全責任なり。海軍が戦えぬと言わざりし理由は2つ。かつて軍令部長谷口(尚眞)大将が満州事変を起こすべからずといったところ、東郷(平八郎)元帥から、毎年作戦計画を陛下に奉っていながら戦が出来ぬとは言えないと面罵されたこと、もう1つは近衛さんに下駄を履かせられるなという言葉あり、総理が先頭に立って閣内を押さえなければいけないと首相に進言。首相が押さえ得ざるものを海軍が押さえ得るや

井上 内閣を引けば可なり。伝家の宝刀なり

澤本 中国よりの撤兵に関し、会議にて及川大臣が、「いよいよとなれば陸軍と喧嘩する心算」だと言ったのに対し、永野総長は「それはどうかな」と言ったため、大臣の決心が鈍ったという。海軍も必ずしも団結しおらざりき

井上 大臣には人事権があるので、総長を変えればよい

及川 (それをやれば近衛は)内閣を投げだせり

澤本 嶋田大将は東条大将に、海軍は統帥部と共に外交交渉にて行く旨、明言せられ、東条首相も認めたり

竹内 歴代海相の努力にもかかわらず、結局対米戦を防ぎ得ざりしは、結局雷落としの遊戯と同様にして、嶋田大臣の際運悪く落ちたということとなるや

吉田 開戦決定の最後の御前会議情況を聞きし所では、最後まで開戦反対は東郷外相と賀屋蔵相で、東条は閣議まとまらざるを弱り嶋田に加勢を求め、嶋田が2人を説得して決定

榎本 永野総長が、日米交渉の期限を切り、開戦時期決定を要求するを以て、政府も陛下もお困りのこと故、幸い永野さんは心臓悪きこと故、米内または山本五十六に総長を代えてはという問題ありしことあり・・・・

 

 

 

 

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