近衛秀麿 亡命オーケストラの真実  菅野冬樹  2021.11.26.

 

2021.11.26. 近衛秀麿 亡命オーケストラの真実

 

著者 菅野冬樹 1955年東京都生まれ。日大芸術学部放送学科卒。映像、音楽作品の企画・制作を手掛けるプロデューサー。1993年、ハリウッド映画を統率する全米映画製作者連盟(ギルド)のライセンスを日本人として初めて取得。79年、作曲家水谷川忠俊(秀麿の三男)と出会った後、近衛音楽研究所からの信任を得て、秀麿の海外での活動に関する調査と研究を行う。15NHK BS1放送の《戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~》では、企画・調査・監修を担当。17NHK BSP《玉木宏 音楽サスペンス紀行~マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎~》及び《死の都に響いた未完成交響曲1948.9.28.戦火のワルシャワ公演を再現する》をプロデュース

 

発行日           2017.12.10. 初版印刷        12.20. 初版発行

発行所           東京堂出版

 

21-11 戦火のマエストロ 近衛秀麿』の続編

 

 

はじめに――指揮者・近衛秀麿「最後の人道活動」

2018年は秀麿生誕120年。いつの日か秀麿の名を誰もが知り、「ベルリン・フィルを初めて指揮した日本人」「ユダヤ人を命懸けで救った日本人指揮者」として、その業績までもが当たり前のように語られるのだろうか

15年にNHKのドキュメンタリー番組《戦火のマエストロ・近衛秀麿》を通じて秀麿の活動秘話を世に送り出したが、それはほんの一部に過ぎなかった

本書は、近衛家とNHK、番組制作のプロダクションの了解のもと、新発見の資料を分析してまとめたものだが、そのうち43年以降の動向を明らかにし、ドイツ占領下で行われた「最後の人道活動」に焦点を絞る

   19439月、秀麿が指揮したポーランド3都市での演奏会にまつわる謎

   19444月、秀麿がパリで結成した私設オーケストラの経緯と活動に秘められた謎

澤蘭子との話も後述。子供の養育費を巡るトラブルから澤が秀麿を訴えているが、新たに見つかったドイツ人男性の日記から、澤が子どもの面相を見ていなかったことが推察され、秀麿の名誉のためにも私生活について触れる

ユダヤ人の救出そのものが戦後タブー視されたことを想えば、秀麿の海外での活動秘話を全て解明するにはまだまだ時間が必要

 

 

プローグ

l  幼少期と父の教え

1つ目は「ノブレス・オブリージュ」

2つ目は、近衛家に生まれた男子たるもの、「ただ食って、寝て、死ぬだけの一生では、お天道様に申し訳ない。人のやらないことを50なり100なりやってから、生涯を終えてみよ」

l  音楽への思い――欧州へ

音楽を独学で学び、19年独立後は音楽家としての道を目指し、留学の機を窺う

1923年、兄の許可を得て1年の留学へ向かう。事前の準備のため現地での協力者として目をつけたのが、音楽雑誌に広告を載せている音楽出版社

l  カール・レーマンとの出会い

好意的な返事をくれたのがカール・レーマンで、楽譜の在庫の明細から楽器の調達先、さらには留学先としてシュテルン音楽学校を推薦

当時、ミュンヘンの歌劇場の新任音楽監督として地方から出てきたクナッパーツブッシュは、カールを助手のように利用、その代償としてカールには音楽家を紹介して楽譜の売上に貢献する仕事上のパートナーシップを結んでいたという

カールの口利きで、クナッパーツブッシュに推薦してもらい、シュテルン音楽院での秀麿の修業が始まる

l  1924年、欧州でのデビュー

カールは、ハイパーインフレに経営を圧迫されていたベルリン・フィルの窮状を利用、秀麿に彼等を雇って演奏会を振らせようと画策

 

第1章        欧州での活躍

l  近衛秀麿 ベルリン・フィルを指揮する

秀麿が支払ったのは400円、今の価格にして160万円。日本でやるコストの1/10以下

座席数106670名ほどのオーケストラで2度のリハーサルを含む

演奏会の批評は相半ば、「彼のもがくように震え取り乱した指揮は、美学的な満足を人に与えない。フィルハーモニーの楽員たちがあの指揮を了解したとは考えられない。東京とベルリンとは何たる隔たった世界であろう」との酷評もあった

1926年、文麿の支援を受けて、新交響楽団設立

1929年、カールはバイエルン放送局へ転職し、音楽番組のプロデューサーになる

1930年、秀麿はカールの支援を得てベルリンに事務所を開設。フルトヴェングラーやクライバーとの交流が始まる

l  巨匠たちとの交流

フルトヴェングラーは1922年ベルリン・フィルの常任、27年にはウィーン・フィルの常任も兼務

カールは、1911年他界した伝説のワーグナー指揮者フェリックス・モットルの妻で、偉大な歌手のツデンカ夫人に紹介状をもらってフルトヴェングラーのアポイントを取る

フルトヴェングラーから練習場への招待状が届き、ポケット・スコア(小型版総譜)をもって指揮者の一挙手一投足を事細かく書き留める

6年前と違うのは20歳でコンサートマスターに就任したてのシモン・ゴールトベルク

この時秀麿は、かつてフルトヴェングラーの指揮で聞いたシューマンにスコアにない音が入っていた理由を尋ねると、「指揮者は自分の解釈に基づく〈独自のスコア〉を持っているべき」との答えが返ってくる。この大指揮者の助言が、これまで秀麿が試行錯誤を繰り返してきた「楽譜の解釈」に、決定的な結論と自信を与える。「近衛版」が誕生した瞬間

カールは秀麿にアドバイス。欧州での活動を確かなものにするには確かなが必要で、ドイツではオーケストラの指揮者より格が上とされている名のある歌劇場の音楽監督のうちからベルリン国立歌劇場の首席音楽監督のクライバーへの紹介状を手配してくれた

クライバーに初めて会ったのは、フルトヴェングラーに会う前日。昼の公演の後国立歌劇場の音楽監督室で面談。そのまま自宅での夕食に招待される。クライバーは秀麿のことも新響のこともよく知っており、秀麿が世界で初めて録音したマーラーの4番を聞かせ、批評までしてくれた。まだ生後数か月のカルロスが泣いていた

音楽の師として、秀麿をドイツの社交界に紹介、欧州での音楽活動の基盤が作られた

クライバーはユダヤ系ではないが、カリフォルニア出身の夫人はユダヤ系で、ヒトラー政権下で活動が制限されるようになると、35年のザルツブルクを最後にアルゼンチンに亡命

翌月、プラハのラジオ放送局でプラハ交響楽団を指揮して《越天楽》と自作の歌曲を披露。世界初演の《越天楽》はチェコの批評家から賞賛され、今後の秀麿の地位を欧米で確立させる重要な楽曲となる

l  ロシア人を魅了した《越天楽》

1931年、ベートーヴェン没後100年のあるレコード会社の企画で全交響曲を異なる指揮者で録音することになり、1番に秀麿を抜擢。ベルリン・フィルとの日程が合わずにミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮

直後に「ソ連対外文化連絡協会からの招待で、日ソ間公式行事として、前半が天皇即位祝賀演奏で秀麿の《大礼交声曲》と《越天楽》後半の目玉がソ連初演となるラヴェル編《展覧会の絵》。総勢103名の大編成オーケストラの演奏する《越天楽》は大喝采を浴びる一方、ラヴェル編は不評で、秀麿にスラヴ系の音楽への編曲を要請

ソ連での成功が秀麿帰国後の32年、ヨーロッパの一流演奏家の来日ラッシュに繋がり、ヴァイオリンのシフェルブラットを皮切りに、シロタ、エフレム・ジンバリスト、シゲティと続き、新響と共演を果たす

 

第2章        活動の軌跡を追って

l  近衛家に残された秀麿の資料

目白の近衛音楽研究所には近衛の音楽活動の足跡が残る

「サイン帳」 ⇒ 1936年にシアトル交響楽団の署名が最初

クライバーからの手紙 ⇒ 1936年新響の10周年の祝辞。シゲティ、フルトヴェングラー、ケンプ、ブルーノ・ワルター他からも祝辞が届く

FORGET-ME-NOT」の手形帳3冊 ⇒ 193240年に350ほど蒐集。生年月日と名前が楷書で書いてあり、手形を取ってサインしてもらう

l  秀麿、活動を禁止される

サイン帳が437月のポーランドで途切れたのは、秀麿のユダヤ人救済の風聞が聞こえたため、駐独大使の大島とゲッペルスによってドイツ国内での演奏を禁じられたから

l  欧州での最後の拠点 オーダーベルク

活動禁止から捕虜投降までの間は「空白期間」で、オーダーベルクにいた以外の記録が全く残っていない

l  新たな調査の開始――「空白期間」とポーランド公演

その後の調査で秀麿が夏の保養地であるオーダーベルクに避難していたことを突き止め、さらに近衛が借りていたアパートの親戚が郷土史家で、近衛のことについても調べているという

l  謎の日記の発見

オーダーベルクにはレジスタンスの地下組織が頻繁に出入りしており、その中心人物だったパウル・パーゲルの書いた日記が残されていたが、近衛とも親しく交流しており、名前が頻出する。近衛の斡旋で読売の特派員となり、近衛が保証人となって日本大使館から身分証が発行されている。近衛は、ポーランドでの公演に先立った澤蘭子と曄子の身の安全をパーゲルに頼み、自らも組織の助けを借りてポーランドに乗り込む

 

第3章        ナチス占領下のポーランド公演

l  ポーランドでの3つの演奏会

時はワルシャワのゲットー蜂起一掃の直後

l  死の都に響いた《未完成交響曲》

ワルシャワ公演で敢えて《未完成》を選んだのも謎。フルトヴェングラーもクライバーも歳と共につかみ処がなくなって、弾けば弾くほど難しいといわれる曲

l  ポーランド公演を裏付ける資料

ワルシャワ占領4周年記念イベントとしてポーランド総督のハンス・フランクがクラクフとレンベルクでドイツ軍人を対象とした演奏会を企画

l  ポスターの発見――ポーランド劇場とナチスのオーケストラ

その後にワルシャワで公演。市立劇場で、ナチス・ドイツの宣伝省とポーランド総督府が組織した市立オーケストラを振っている

l  ワルシャワ公演のサイン帳の解読

なんとサイン帳の一番最初に署名していたコンサートマスターは、ポーランド人で戦後日本にもシュピルマン(戦場のピアニスト)らと秀麿の招きで公演に来ているタデウシュ・ヴロンスキで、メンバーの大半がポーランド人

l  ステファン・カマサ氏からの証言

戦後日本に公演に来たワルシャワ・ピアノ五重奏団の最年少のカマサの証言で裏付けられたが、ヴロンスキから公演の話を聞いたことはないという

l  「秘密演奏会」に参加した音楽家の証言

戦時中ポーランドの演奏家たちは、町のカフェで少人数の室内楽などの演奏が認められていたが、時々地下組織などで「秘密演奏会」が開催されていたという

l  秀麿のポーランド公演とタデウシュ・ヴロンスキ

ヴロンスキ夫妻も地下組織に属し、仲間の救出などをやっていたというので、秀麿とも交流があったことがわかる。シュピルマンの息子やカマサ氏の証言でも、秀麿がヴロンスキたちにとって尊敬できる特別な存在だったと言っている

l  ポーランド人音楽家を動かした秀麿の人脈

ドイツ軍のプロパガンダのための演奏会にポーランド人が出演すること自体異常だが、その裏にはワルシャワ・ピアノ五重奏団のヴァイオリニストのブロニスワフ・ギンペルの存在があった。秀麿旧知のギンペルはレンベルク出身で、37年米国に亡命、クレンペラーの下でロサンザルス・フィルのコンサートマスターを務め、米陸軍にも従軍した後、63年シュピルマンらと五重奏団を結成。秀麿がクレンペラーから、ギンペルのロサンゼルス・フィル宛ての推薦状を書いて亡命を助けてほしいと懇請された可能性がある。37年の秀麿のハリウッド・ボウルでの演奏会はギンペルがコンサートマスターとしてサイン帳に署名

l  そして《未完成交響曲》は演奏された

秀麿のコンサートを聞きつけたヴロンスキが、音楽による蜂起の実現を期して仲間に呼びかけ、50人余りが集まったところでカール・レーマンに働きかけ実現の運びとなる

秀麿は回顧録『わが音楽30年』で、「破壊し尽くされた死の都に鳴り響いた《未完成》は、単なる感傷や悲哀ではなかった。ある楽句は瀕死の呻きのように聴きとれた。それから全曲は羞恥、絶叫、諦め。愛と祈りと成仏、それらの交錯だった。多くの楽員は目を泣きはらしたり、興奮のあまり顔が蒼白になっているのを見た。そして音楽からこんな感銘を受け容れられる民族を、ぼくは心から羨ましく思わずにはいられなかった」と回想

l  現代のワルシャワに蘇った《未完成交響曲》

17年《玉木宏 音楽サスペンス紀行~マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎~》でその時の《未完成》の一部を再現。焼け残った資料から「近衛版」総譜を復元し、当初、ポーランド放送交響楽団を起用し、ポーランド劇場で演奏しようとしたが、ナチのプロパガンダに協力していたかのような印象を与え兼ねないとして難色を示され、趣旨に賛同する演奏家だけで「近衛メモリアル・オーケストラ」を急造、ポーランド放送交のクラウザの指揮で、背景には当時のワルシャワの様子をフィルムで映し出して収録

 

第4章        謎のオーケストラ「コンセール・コノエ」

l  秀麿のユダヤ人救済を物語る新たな資料

1934年、秀麿は初のユダヤ人音楽家コンラート・リーブレヒトを招聘、新響と共演。そのまま日本に残って新響のコンサートマスターに就任。39年アメリカに亡命。46年アメリカの市民権を得て、ホノルル交響楽団のコンサートマスターを務める

1933年秋、秀麿がベルリン・フィルの定期にデビューした直後、スイスのエドヴィン・フィッシャーがリーブレヒトからの相談を受けて秀麿に支援を求めていることが判明

20世紀最高のモーツァルト弾きと賞賛されたリリー・クラウスは、ナチス政権からユダヤ系を理由に国外追放となり、イタリアに亡命、同じユダヤ系のシモン・ゴールドベルクとデュオを組んで演奏活動をかいし。42年からアジアの演奏旅行をすると、43年日本軍に逮捕されるが、半年後から待遇が一変し、ピアノ生命が戻り、終戦直前英国により救出され家族と再会を果たし、後に自伝で待遇改善の裏に日本人指揮者の支援があったと書く。リリーもシモンも手形帳にサインがあり、シモンも80年日本人と再婚し、新日本フィルの指揮者として日本で生涯を終えているのも、秀麿との繋がりを示唆している

l  「コンセール・コノエ(正式名称は近衛伯爵オーケストラ)」調査開始

19444月の「サイン帳」の31名の署名以外何も残されていないが、戦後著名になった演奏家やフランス人ユダヤ人が多く含まれていた

l  オーケストラ発足までの空白の6か月

パーゲルの日記によれば、ベルリンへの大規模空襲の最中でも、秀麿が指揮をしていたことが記され、441月のパリ放送局グランドオーケストラを指揮したのが日記に秀麿が登場する最後でドイツに戻っていないことから、パリに留まってオーケストラを設立するために奔走していたと推察される

l  私設オーケストラ結成の経緯

元々43年から、三国同盟を機に日独外務省が文化交流を目的に組織した「独日協会」が、各地での戦地慰問演奏会の成功をきっかけ「近衛のためのオーケストラ」の結成を提案したが、楽員の不足とユダヤ人救済の噂の煽りもあったのか宣伝省から難色が示されて挫折

l  もう1人の立役者 オットー・クール

カール・レーマンが応召中、代理でマネジメントを務めたのがオットー・クール。ケルン在住で自分の音楽出版社を持っていた

441月、独日協会から占領下の音楽大学7校宛に慰問演奏会のためのオーケストラ結成を呼びかけるが、いずれからも拒絶されたため、秀麿は自ら楽員を集めることを決意

秀麿、レーマン、クールの3者が協力して楽員を集め演奏したことを謝す手紙が、演奏会後の44日に独日協会からクール宛に出されている

l  秀麿の計画――コンセール・コノエ結成へ

秀麿の『わが音楽30年』に、「占領地の欧州では珍しい白仏独伊人の混成管弦楽団が結成され、指揮者で難航していたのを、自分が10日あまりの稽古で第1回の旗揚げに持ち込む。以後2台のバスに分乗してフランス、ベルギーの地方の小邑を巡歴、終始地方民の大歓迎を受けた」と、コンセール・コノエ結成の経緯がわずかに述べられている

秀麿が客演したパリ放送局グランドオーケストラの常任指揮者ジャン・フルネにも楽員スカウトの支援を要請、代わりに対独協力者として排斥が予想されたフルネに、戦後日本での活動を約束

l  不思議な手形

親日のチェリストとして後に有名になるピエール・フルニエの手形帳は、日付けと名前が貼り付けられている。戦時中もパリ音楽院教授として残り、近衛の要請で教え子をオーケストラに送る

l  「コンセール・コノエ」31名の署名

「コンセール・コノエ」の活動記録は、活動期間がノルマンディ上陸までの3か月足らずだった以外何も残っていない

署名した中でも、フランス人演奏家のその後の経歴書には、「コンセール・コノエ」で演奏した記述はどこにも見られないし、家族の証言を聞いても言い残していないという。当時のフランス人演奏家の置かれた状況の特殊性に改めて気づく

l  194344年、ドイツ軍占領下のフランス人音楽家の活動状況

435月、全国抵抗評議会(反ナチ・レジスタンス)が設立されると、レジスタンス運動が国中に拡散。「コンセール・コノエ」のユダヤ人救出活動にもレジスタンスの協力が不可欠

パリに限って言えば、当時はコンセール・コロンヌやコンセール・ラムルーなどパリを代表するオーケストラの演奏活動は継続していた

音楽家によるレジスタンス活動の一環として、「コンセール・コノエ」への参加があった

l  明かされたコンセール・コノエの活動

「コンセール・コノエ」に加わった楽員の中で唯一手形を残したのがヴァイオリニストのジャック・パレナン。手形は1957年パレナン弦楽四重奏団日本公演の際のもの

パレナン弦楽四重奏団の結成は、連合国軍によるパリ解放直後の449月。「コンセール・コノエ」解散のわずか3か月後のことを考えると、4人が一緒に参加していた可能性大

パレナンの娘の証言から、父親が属していたオーケストラは「コンセール・コノエ」だけで、そのお陰で強制労働を免れたこと、ユダヤ人の救出活動参加は当然の責務だったこと、日本には人間として心から尊敬できる特別な人がいることなどが判明

 

第5章        亡命オーケストラとユダヤ人音楽家の国外脱出

l  「コンセール・コノエ」活動の足跡

戦後の雑誌に近衛が楽員の数を約50名と発言している

l  ユダヤ人音楽家の越境とレジスタンス

リール郊外のレジスタンス博物館には、「コメット」「ゼロ・フランス」などと呼ばれる抵抗活動の記録が残る――ユダヤ人救出に協力したのは「ゼロ・フランス」で脱出ルートは2つ。ピレネー越えとスイス行き

l  ピレネー山脈の越境ルート

2,3000mの山を越える山岳ルートと、大西洋側の1000m程度を越える西ルートの2

越境支援者の山の案内人がいて、捕まっても国際赤十字に引き渡される

l  屋根裏に残された楽譜

1980年、近衛音楽研究所にフランス国境近くのガソリン給油所のオーナーから秀麿に宛てた手紙が届き、「コノエ・オーケストラ」のスタンプが押されたたくさんの楽譜の処分についての指示を求めてきた

楽譜は、「コンセール・コノエ」のユダヤ人楽員が国外脱出の際残していったパート譜が多く、給油所はレジスタンスの連絡場所の1つになっていた

l  亡命支援とスイス人音楽家アンセルメの手形

スイスは国としては難民受け入れに消極的だったが、人道上の観点からユダヤ人に同情的な国民感情が強かった

スイス人音楽家でロマンド管弦楽団の創設者エルネスト・アンセルメの手形がある。日付は38年。秀麿はロマンド管弦楽団に客演したことはないにもかかわらず、手形が残る

アンセルメは人道家としても活発に活動、441月のフルトヴェングラーなど多くの音楽家のスイス亡命を手助けしている

秀麿とアンセルメの接点はユダヤ人音楽家の救済。2人とも自らの楽団に招聘した上で亡命させているやり方が似ている

l  スイス越境ルート

秀麿が助けたスイス越境とは、フランス東部にあるスイスとの国境の小さな町のフィアットの整備工場経由のルート

l  2人の貴重な証言者

1人はベルギーとフランスでレジスタンス活動に加わりユダヤ人の越境を助けた女性、もう1人はワルシャワでナチスの弾圧から逃げ続けたユダヤ人女性

 

第6章        「コンセール・コノエ」解散から終戦まで

l  新たな計画

ノルマンディー上陸で「コンセール・コノエ」が解散した後、秋には国営以外の音楽活動が全面禁止になる

l  空襲下のベルリン

戦時下にあっても在留邦人の生活はキップによる食糧の配給でまかなうことができた

秀麿は、ドイツや日本の状況を見聞きするにつけ、在留邦人の救出に加え日本の本土を戦禍から守るために動き出す。新型爆弾の噂も耳にしていたが、ちょうどそのころ文麿からのメッセージが届き、戦争終結に向けアメリカの国務長官代理のグルー元駐日大使とのコンタクトを取るよう命じられる

l  計画実行の時

ベルリンの在留邦人は、終戦後はソ連がベルリンを統治するとの情報から、日ソ中立条約を背景に、一時的にベルリン郊外に逃れることになるが、秀麿は兄からの任務遂行のために市内に留まり、グルー陣営と連絡を取りながら、米軍のドイツ前線基地に投降

l  地獄の捕虜生活

投降したが、何かの行き違いから、前線司令部と米国務省の連絡はとれておらず、一般の捕虜に交じって過酷な抑留生活を送る

ドイツの降伏後漸く軍事裁判に向けた尋問が始まり、秀麿が米国務省と協議・合意していた日米停戦工作に関する提案資料を担当官に説明。待遇は格段に改善される

l  米国務省の焦り

秀麿の行方を見失った国務省がようやく居所を把握したのは5月下旬

l  日米戦争早期終結案

秀麿のまとめた戦争早期終結案は、兵と国民へ向けた心理プロパガンダが中心で、戦争をやめようとしない軍閥と国民を切り離し、軍部と天皇を完全に分離する内容

ラジオを通じて国民に呼びかける役割を担える人として秀麿が挙げたのは、崎村茂樹(政治移民)、浅井一郎(満州重工業)、淡徳三郎(満州日日)、笠信太郎(朝日)、嬉野益男(読売)

l  終戦 日本への帰還

もう1人、秀麿の待遇改善に寄与した人物としてギンペルがいる。秀麿の支援でロサンゼルスに亡命したヴァイオリニストで、42~終戦まで米国陸軍に従軍して欧州へ赴任。音楽家のネットワークが機能していた可能性がある

米国経由で日本に送還される途上、米国務省でユダヤ人移民問題を担当していた事務官が、ユダヤ人救出への協力に米国政府が感謝していると告げる

 

エピローグ

l  終戦 そして兄の死

終戦の日、母貞子の死も後に告げられる

終戦後、海外の音楽家から復帰の要請が届くが、一切返事をせず、楽譜を預けた家とも連絡を取らず、あえて戦前戦中の欧米での音楽活動以外の記憶に触れようとしなかったのは燃え尽き症候群か

戦後も、「自分のオーケストラ」での指揮を夢見て何とか自分の居場所を造ろうとしたが、物心両面で支えてくれた兄を失った打撃は大きく、将来の選択を決断する背景となったことは間違いない。近衛家を守るためにも国内にとどまって家系を背負うことを決意

l  「曄子」の消息

戦後、澤蘭子は結婚不履行と養育費未払いで秀麿を訴えているが、秀麿はドイツ人女性と一緒になった後も澤母娘の面倒は見ている。パーゲルの日記から推察されるのは、一時的に養育を放棄したのは蘭子の方で、蘭子の主張で母娘2人で秀麿が手配した隠れ家に疎開したとなっているが、蘭子が住民票を移したのは曄子が移してから9カ月後と空白がある

 

欧州演奏批評~新聞や雑誌に投稿された批評の抜粋              訳 津川良太

1938.4.24. ベルリン・フィル特別演奏会 於:ベートーヴェン・ザール

l  ヨーロッパ音楽を我が物顔とする彼の能力の並々ならぬ高さは、常に我々の驚嘆の念を惹き起こしてきた。近衛が我が国で勉強し、我々の音楽的表現法の本質をしっかり身につけた。異質な内容を単に外形的に把握する以上のことで、他国の文化的本質に直接入り込もうとする精神の柔軟性はほとんど信じ難い

l  ヨーロッパ音楽に対する彼の感情移入力の高さ、徹底的に理解し、技術的に具体化する卓越した能力から生まれる全く的確な演奏は驚嘆に値する。どんな細部にもどんなニュアンスにも丁寧に考慮を払いつつ、近衛は活き活きと雄弁な腕の動きで音楽の進行を支える。その際、彼の指揮は作品の忠実な再現という大筋も決して外してはいない。その結果一流の指揮者という印象が直ちに生み出されるのだ

l  異なる音楽文化の出身者がドイツ音楽文化の神髄に触れ、それに習熟し、深く体験し、その証ともいうべき作品を再現できるまでになるということは、そもそも芸術家にとって最も困難な課題の1つに違いない

l  今回の演奏会は、東郷茂徳大使閣下が出席されたことでも重要な意味を持つものであることは明らかだが、何回も演奏会を開き、ベルリンの聴衆にはすっかり馴染みになっているこの芸術家が我らがフィルハーモニーの先頭に立った。ブラームスのヴァイオリン協奏曲でのソリスト、ジークフリート・ボリースは非の打ち所のない演奏を披露した。この伴奏には技術的に非常に難しい要素があり、中でもオーボエは重要な課題を解決しなければならないが、才能豊かな指揮者の感嘆に値する音楽家魂が明確に姿を現していた

l  どうしてヨーロッパの音楽、とりわけドイツ音楽をその本質的核心において理解し演奏することが日本人に可能なのか

 

1938.12.16.  ベルリン・フィル特別演奏会 於:フィルハーモニー・ホール

l  ベルリンで教育を受け、それゆえにドイツ芸術には特別な義務を負っている日本人指揮者近衛秀麿は、フィルハーモニーでの自らの演奏会において専らドイツ音楽の傑作を指揮することでこの義務を見事に果たした。シューベルトの《未完成》を聞いただけで近衛がドイツ音楽の本質をいかに深く追及できているかがわかる

l  近衛が故国においてヨーロッパ音楽を広める偉大なる先駆者であることを理解する。彼がそのような任務に必要な、純粋技術面を見事にマスターしていることは言わずもがな。驚嘆すべきなのは明確で断固たる考え方で、これこそが彼が他に類のない人物であることを示している。すべてが驚くほどの正確さを持ち、大編成にも拘わらず生み出される響はほとんど室内楽のような透明感を持っていて、まるでインデックスのようにアインザッツが続くが、しかし和音の色合いが有機的な統一を形成し、抑制された表現力の切り替え効果を上げている

 

1939.1.4. ベルリン・フォルクス・オーパー 《魔笛》

l  初めてのオペラの指揮台だが、ここでもまた我々は東洋の精神が西洋の音楽を把握し、モーツァルトの精神と形式を自分の中に取り入れ、自らの本質の内部に反映させる共感能力に感嘆する。明確なタクトと個々の細部を全て正確に、明白に演奏することに非常に心を砕いている。型通りの滑らかさとは無縁の、程よいテンポを大事にしながら、彼は誠実な厳格さでオーケストラ・パートを展開し、歌い手たちに原則を指示する

l  皆が期待したセンセイション以上だった。驚くべき天賦の共感能力と音楽的インテリジェンスを示して指揮。指揮者として優れているのは、メロディに関する合図が明晰であることと、テンポにぐらつきがないこと。騒々しく強烈な情動を求めはせず、彼が好むのは何よりも静かで、親密な印象であり、幅広いテンポを駆使してそれを存分に作り上げていた

 

1939.4.17. ケムニッツ市立劇場 《フィデリオ》

l  今回の客演指揮は疑いなく興味深い事件だった。近衛は、自分とは異質の筈のベートーヴェンの音楽を確実に自分のものにしていることを示しただけでなく、彼自身が情熱的な音楽家であり、重要な指揮法の名人であることをも示した。打ち合わせのリハーサルを1度しただけで、舞台とオーケストラをしっかりと把握することに成功してしまう様子を見聞きするのは驚嘆に値する。その結果、音楽的な正確さ、精密さという点で高い要求を満足させる上演が実現した。響の強弱性もアンサンブルの明晰さも非の打ち所がなかった

l  初めてケムニッツにも登場、生き生きとした、表現力溢れる、変化に富んだ指揮ぶりを見ただけで大いなる信頼感が沸き起こったが、さらに一層魅了したのが、驚くほど様式の整った、堅実な、そしてヨーロッパ的感覚に合致した音楽的解釈だった。それは抒情的な部分でもドラマチックな部分でも、すべて徹底して明晰に考え抜かれており、常に確信に満ちて生み出されるテンポからも、この日本人指揮者が諸般の状況から判断して必ず模範としたに違いない偉大な手本たちに沿っていることを証明するものだった

 

1939.3.11. ヘッセン州立劇場(ダルムシュタット) 《蝶々夫人》

l  オリジナルな日本の旋律が含まれている《蝶々夫人》を近衛が振ると聞くと、特別な魅力を感じる。ドイツ音楽と日本音楽の共通の基盤について乏しい情報しかなかった。近衛自身、自らの芸術家としての資質には古い日本音楽との結びつきはあまりないと言い、自らの心を一義的にドイツの古典派及びロマン派の巨匠の音楽に捧げられており、《フィデリオ》のスコアは彼にとっての「バイブル」だという

 

1938.12.15. ミュンヘン・フィル 於:ミュンヘン

l  魂に触れる体験で、その演奏は、スコアの細部に至るまで分け入った完璧な知識と、それを決して揺るがせない指示の出し方が特徴として目についた。活き活きとした溢れるような活力に恵まれ、頭の先からつま先まで純粋に音楽家であるこのゲストは、彼に献身的に従っているフィルハーモニー・オーケストラを、心を打つ躍動感と共に、長い間聴くことができなかった炎のような激しさをもって指揮。ベートーヴェンの第2交響曲は非常に優れた解釈を示しており、ヴァイオリン協奏曲のオーケストラ部分の仕上がりについても交響的作法が輝かしい真価を発揮、協奏曲の伴奏かくあるべしと言えるものだった

 

 

 

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.