女人禁制の人類学  鈴木正崇  2021.10.18.

 

2021.10.18. 女人禁制の人類学 相撲・穢れ・ジェンダー

 

著者 鈴木正崇 1949年東京都生まれ。慶大大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。慶大名誉教授。日本山岳修験学会会長。『女人禁制』(2002)97年義塾賞。14年第11回木村重信民族藝術学会賞。16年第18回秩父宮記念山岳賞(日本山岳会)

 

発行日           2021.8.25. 初版第1刷発行

発行所           法藏館

 

軽井沢図書館新刊本より

 

まえがき

女人禁制を主題として、視野や視点を変えながら多角的に論じる

大峯山の山上ヶ岳の女人禁制が00年の役行者1300年御延遠忌に解禁される予定のところ、99年奈良県教職員組合の女性グループによる強行登山があり、地元などが硬化し解禁は頓挫。その後も世界遺産登録を巡って問題視され、05年の強行登山で問題は複雑化し、現在に至るまで禁制は維持

土俵の女人禁制も大相撲協会が伝統を守って維持し続ける。18年舞鶴の地方巡業にて市長が土俵上で倒れ、救命のために土俵に上がった女性が土俵から降りろと言われ社会問題化

女人禁制が問題視されるとき、常に伝統とは何かという問題がつきまとう

本書は、「女人禁制」に関して、文化人類学の立場からの考察を主軸にして、民俗学や宗教学の成果も応用し、歴史学や国文学の成果も取り込んで、総合的に考察する試み

1章では、相撲の女人禁制について検討。「土俵」の起源、「土俵祭」の発生と展開と意味付けを考察。國技館の成立が大きな影響を及ぼし、表彰式初め「近代の儀式」を創り出して現在至る。相撲は「国技」となってナショナリズムと同調し、天皇との繋がりを次第に強化。相撲がどのように伝統を創り出し維持してきたかを論じ、最後に今後の方向性を示唆して「相撲の女人禁制論」に終止符を打つ方策を提示

2章では、穢れの観念を考察。穢れと関わる「女人禁制」という用語の持つ意味を検討した上で、歴史的考察を展開し、穢れの変化の課程を検討。中世後期以降の文献に現れる用語で、根源には仏教寺院での戒律や禁忌としての禁制があり、結界、特に「堂舎の結界」として女性を忌避した形で顕在化。それとは別に、里に住む平地民と山に住む山地民の生活圏の境界があって、山の上部は「不入の地」だったが修行者によって越境の禁忌が発生、「山の境界」が仏教と山岳信仰の融合で「山の結界」となり、女性が忌避される「女人結界」となる。女人禁制や女人結界の理由付けである穢れについては、時代的変化を3段階に分けて論じ、1872年の女人結界解禁後、近代の展開の中での問題の変化を探る

3章では、山岳信仰を女人禁制の問題と絡めてジェンダーの視点から考察。最後は地域社会からの考察で、大峯山麓を中心に時系列に沿って変化の諸相を見る

本書の女人禁制に取り組む立場は基本的に4

   女人禁制を差別と捉える近代の言説を振り出しに戻し、歴史的な観点からの考察を重視して、経緯や背景を考察する

   日常性と連続性を持つ「習俗」としての女人禁制という視点を重視。「習俗」とは伝統よりも広義。地元の当事者の側に立って「土着の見方や考え方」に寄り添って再考

   「宗教」から距離を置く。日本の民間信仰や習俗は「宗教」として捉えられないものが多過ぎるからで、生活体験に根差す実践や観念として「信心」というべき

   ときとして正当性や真正性の根拠とされるが曖昧模糊たる概念である「伝統」の再検討

本書は、女人禁制や女人結界に関しての誤解を解くという実践的な試みを意図。開かれた議論を促すための基礎資料と考え方を提供。多様性を許容し、人間の理解の幅を広げることを重視

 

第1章        相撲と女人禁制

1.       問題提起

18年の舞鶴事件では、「土俵が女人禁制」であることに非難が殺到。女性差別という非難の一般論に発展。改めて女人禁制に関して考え直す機会

禁制問題に加えて、相撲に取って「近代」とは何か、相撲の「伝統」とは何かも検討課題

 

2.       大相撲の舞鶴巡業で起きた出来事

18年の舞鶴事件では、世間からの非難に対し相撲協会は不適切な対応を謝罪

翌日女性の宝塚市長が宝塚場所の土俵上での挨拶を希望したが伝統を理由に拒絶され、協会に対し見直しを求める文書提出

続く静岡場所では、ちびっ子相撲に女児の参加を拒否、安全確保という理由が問題視

公益法人による女性差別としても問題視

 

3.       主役はマスコミ

今回の主役はマスコミ。事件後の土俵に塩が撒かれた映像が流れ、穢れを祓うかのような印象を与え、ネット上で炎上。協会は力士が怪我をしないようにと祈る習慣の1つだと説明したが、多くの人は納得せず

研究者も問題。ネット検索で浮かび上がった論文は『相撲における女人禁制について』だが、「性別役割分業は近代的所産」という仮説が文化(スポーツ)でも立証されたという主張で、史料を深く検討していない

取材を受けて感じたのは、マスコミや指揮者による女人禁制の概念の拡大解釈と乱用で、歴史的経緯を考慮せず、「人権侵害」「差別」の視点一辺倒の意見が多いこと

 

4.       土俵の女人禁制の意識化

「相撲の女人禁制」ではなく、「土俵の女人禁制」

最初に議論の俎上に上ったのは1978年。わんぱく相撲の予選を勝ち抜いた女児が蔵前國技館での決勝大会への出場を否認され、労働省婦人少年局長の森山真弓が相撲協会を呼んで理由を質したが、協会は伝統を理由に女性が土俵に上がることを拒否

1989年、官房長官の森山真弓(21.10.死去、享年93)が総理大臣杯を授与したいと言った際も、相撲協会が伝統を盾に遠慮を要請

2000年、大阪府知事の太田房江が春場所での府知事賞授与、同様に拒否されたが、8年の在職期間中繰り返し要請。01年朝日新聞に協会の再考を迫る投稿に対し、横綱審議委員の内館牧子が「女人禁制は妥当、差別には当たらない」と反論を載せる

土俵が神聖視されるのは本場所の間のみ。場所ごとに神招きと神送りがなされ、祭神名は持たず、神社神道とは全く異なる。年間何度も大相撲が行われ、「聖性の日常化」が生じて「恒常的」な祭場となり、「土俵の女人禁制」が言説化された

 

5.       土俵祭

相撲協会は、「大相撲の土俵」に限定し、「大相撲」を一般の相撲とは異なる特別な時空間と見做し、土俵が「神聖な戦いの場、鍛錬の場」であることを強調

相撲の伝統の言説は、慣習としての性格が強く、相撲が神事を起源とするという言説は文献を精査すれば必ずしも正当とは言えず、江戸中期以降の「土俵祭」の確立や明治以降の近代化の中で、相撲の権威付けのために徐々に形成されてきたもの

「土俵祭」の執行は立行司が斎主となり、文献上の初見は1763年だが、整備したのは「家職」として相撲を世襲で仕切っていた吉田司家で、1791年将軍家斉への上覧相撲に際しての「土俵祭」が現在の原型とされる

土俵は毎場所開幕の1週間前に40人の呼び出しが手作業で5日間かけて作り上げ、開幕前日の土俵祭

1955年五月場所から天覧相撲が始まり、天皇の観戦は大相撲の権威を高め、伝統の維持に正統性を付与することになった

 

6.       土俵の祭神の変化

土俵の神は常在して鎮座する神ではなく、場所の間だけ一時的な祭場としての土俵に去来する。神ではなくカミである

「土俵祭」は、カミを祭場に招いて供物を捧げ、祭文を唱えて五穀豊穣を祈る農耕儀式に淵源があると推定されるマツリで、招かれるカミは、「土のカミ」と「俵のカミ」、言い換えれば大地のカミと稲作のカミで、土の中に供物を埋める。祭神は元々は天神七代・地神五代の神統譜の12神だが、文献上祭神は一定していない。現在の相撲三神(戸隠大神・鹿島大神・野見宿禰)は、戦後第22代木村庄之助がGHQに忖度して祭神を変更して祀ったことが始まり。戸隠大神は手力男命で天岩戸を押し開いた力持ち、鹿島大神は武甕槌(たけみかづち)命で出雲で力比べをした、出雲の野見宿禰は初めて相撲を取った開祖

稽古場の土俵も、部屋開設に際し土俵中央に盛り土して立行司が御幣を立てて祀り、神事ではなく民間のマツリに他ならない

 

7.       表彰式

「土俵の女人禁制」が問題視されるのは、大半が表彰式に限定され、その後に神送りがある

相撲関係者以外が土俵に上がるようになったのは、1968年の内閣総理大臣賞創設以降

相撲界は、男性中心主義を中核にしてジェンダー化された世界で、根底には女性の「穢れ」を意識し清浄な土俵に上がることを忌避する発想はあったが、相撲協会は「穢れ」や「不浄」は理由ではないと否定、あくまで「伝統」だと答える

相撲の「伝統」とは何か。土俵をハレの場とし正装して上がるが、一般人の土俵上での作法は平服であり、二重規範が適用され、相撲協会の説明も首尾一貫していない

 

8.       神送り

表彰式は國技館開設を機に始められた近代の式典であり、土俵を巡る「儀礼」とは異なるので、式のやり方、場所を変えれば、「土俵の女人禁制」の問題は解消可能

神送りそのものも1957年勝負審判の胴上げで土俵に落としたため中止され、以降03年の復活まで空白、復活後は立行司の胴上げに変更

神送りは、元々千秋楽の最後に「弓取り」を行うのが正式な作法だったが、弓取りは52年から四本柱の撤去などと一緒の変更で毎日行うようになったため、新たな形に変貌

52年の変更は、土俵の意味や儀礼の性格を大きく変化させ、相撲協会は、相撲は神事に起源があり、伝統の遵守が大事というが、神送り1つとっても首尾一貫性がなく、伝統は変わり続けてきた

土俵では、「聖化」と「俗化」のせめぎ合いが見られ、単に「伝統」を変えるだけでなく、新たな意味付けもされた。究極の俗化が表彰式であり、両者のせめぎ合いは近代の文脈の中で再配置され、土俵の女人禁制という言説と禁忌の生成への遠因となる

 

9.       表彰式の再検討

内館も太田も協会に改革案を提示しているが、協会では動こうとしない

土俵上での行事に異質なものが混在していることが問題

土俵は大相撲の矛盾を凝結する近代的祭場に変貌

 

10.    國技館の開館

表彰式は、1909年に常設場になった國技館の本場所で「近代の儀式」として始まる

大相撲は、1905年の日露戦後のナショナリズム高揚の影響を受けて、兵士養成や心身鍛錬の理想形として重視され、軍部や政治家がパトロンになって常設館が完成。同時に、時事新報社が純銀洋盃と等身大肖像写真(現優勝額)を贈呈して表彰することとなった

アメリカのスポーツ界での表彰を真似たもので、相撲は疑似スポーツとなり、表彰式は「近代の伝統」として新たに創出

國技館開館以来、本場所の千秋楽の位置付けが重要性を増す

開館とともに、東西対抗制が確立。優勝制度・優勝旗が導入。東方と西方による団体戦で、10日間通算して勝ち星の多い方を勝ちとする。開館場所で東方が勝ち、優勝旗を授与し、賞金を贈与して、翌場所の東位置を与えたのが表彰式の始まり。パレードも行われた

相撲が国技となったのは、常設館の建物名に「國技館」という名称が与えられたという偶然の出来事に由来

國技館も、1931年に土俵屋根を入母屋造から神明(しんめい)造にして伊勢神宮を模した形に代わり、39年には君が代演奏が導入され、大相撲は「国技」として別格扱い

 

11.    土俵と土俵祭の歴史

「大相撲」の前身は、中世以降の勧進相撲だが、江戸時代には営利目的の「渡世稼業」の「興行」へと性格を転換

「土俵」の文献上の初見は1699年で、遅くとも元禄(16881704)には成立

「大相撲」の文献上の初見は1749年で、興行形式の「大相撲」が成立していたと推定

1757年には相撲会所が成立、制度化・組織化が進み、1枚番付作製。58年には相撲渡世集団を幕府が公認し、四季勧進相撲体制を確立

「土俵祭」の初見は1763

相撲の大きな転機は、1789年に第19代吉田追風(善右衛門)が「横綱」を制定し、深川八幡宮境内で谷風・小野川への伝達式を行い、土俵入りを披露したこと。吉田司家は、9か条の相撲の由緒を書き上げた「相撲故実」を幕府に提出して正統性を認められ、91年の上覧相撲では土俵祭を行司として執行し、相撲を「家職」とする地位を獲得

「土俵祭」は、四方の「方位」の確定と「土」を祀ることが基本で、土俵では四季と四方、時間と空間の聖化による境界設定を強化。「方堅め」は仏教の結界儀礼

土俵の成立以来、意味付けが次第に整えられ、大相撲の近世以来の伝統の1つとなる

 

12.    大相撲の伝統と近代①――國技館以前

大相撲の伝統については、「国技」の名称が権威付けとして使われるが、国技と名付けられたのは1909年以後

1869年、東京招魂社(現靖国神社)の第1回勅祭の祭典で奉納大相撲を行い、この慣行が現在まで続く近代の伝統行事となったが、東京府達では力士の丁髷と裸体を公序良俗に反するとされ、相撲無用論まで出た

1881年天覧相撲が始まり、行幸の娯楽として公認され、格調高いものと見做されるようになり、危機を脱出

1889年には東京大角力(おおずもう)協会発足――1757年以来の相撲会所が改組

 

13.    大相撲の伝統と近代②――國技館以後

1909年竣工の常設館は、当初「本所元町常設館」だったが、翌年場所から「國技館」と表示され、その根拠として奈良時代の聖武天皇の御代に始まる相撲節会以来の皇室との深い関わりが挙げられ、日露戦勝後のナショナリズムの高揚にマッチした

1925年、摂政宮(後の昭和天皇)生誕祝賀で赤坂東宮御所での台覧相撲を奉納。その時の御下賜金(1000)で摂政賜盃が作製され、東西の角力協会が合併して財団法人大日本相撲協会が成立、翌年から摂政賜盃が東宮記念盃として拝戴され、以後恒例化され天皇賜盃拝戴となって現在に至る

國技館開館と共に改革断行――①東西対抗制と優勝制度導入、②優勝額掲示、③炊き出し制度廃止、④力士、行司の服装整備、⑤番付・階級整備

同時に、吉田司家により、品位や品格重視が始まり、相撲道の改革が進み、大相撲の「伝統」の多くはこの時に創造され再構築された。現在問題視される「土俵の女人禁制」の舞台装置はこの時に整えられた

江戸時代の勧進相撲では、女性が境内で観覧したという記録はなく、千秋楽のみ女子供が観覧したが、当日は「おさんどん相撲」といって十両以下の取組みのみ。制限がなくなったのは1877年から

江戸時代、民間では女相撲が盛んだったが、1872年男女相撲は禁止に

 

14.    大相撲とナショナリズム――伝統の再構築

國技館開館は天皇との繋がりを強化し、「伝統」を再構築したが、重要なのは玉座の設定で、初めて人前で天皇が観覧され、さらに31年には土俵屋根を神明造に改装、神聖性を高める。皇大神宮(内宮)の祭神は「女神」の天照大神で鰹木(かつおぎ)は偶数の10本だが、國技館の鰹木は奇数の5本で千木(ちぎ)も尖形の神明造で「男神」を強調

戦後も、相撲好きの天皇を迎えた天覧相撲は40回に及び、戦前とは異なる形で大相撲は皇室と結びつき、相撲を「国技」とする権威の上昇に寄与

相撲の中核に古代以来の本質的に変わらない伝統があるのではなく、常に社会変化と連動して「創られた伝統」がいつの間にか浸透して正統性の根拠となった。「伝統の再構築」こそ大相撲の根幹

 

15.    大相撲の伝統とは何か

日本相撲協会は、相撲を古代からの伝統文化で、1500年の歴史があると主張。相撲の発祥を、『日本書紀』の垂仁天皇7年野見宿禰と當麻蹴速(たいまのけはや)による「 (すまい) ()らしむ」に根拠を求める

伝統は近代との関係性で創出された対抗言説で、近代は定義しやすいが、伝統は定義しにくい。言説相互のせめぎ合いを通して、聖域としての土俵が意識化され、相撲に留まらず女人禁制が拡大解釈されて議論が沸騰

ひとたび「伝統」の実態が構築されると、いつの間にか独り歩きして、強固な持続性や固有性を持つ場合も多く、その結果「伝統」の名の下に権威が構築され権力を行使する制度が出来上がる。伝統の語り方の中にジェンダーの視点を入れて再考することも必要

 

16.    伝統の行方

大相撲は前近代と近代との混淆が魅力

一般的な用語として「伝統」が定着したのは大正時代半ばで、「守るべき価値のあるものということを強調するために、単なる伝承や伝説を超えたものとして登場」したと言い、昭和になって多用され、伝統が連綿と続くものとして強く意識される時代を反映したが、伝統が伝えるに値するものか、本当に伝えるべきものを見失っていないかを自問しつつ、伝統を取捨選択していくことが望ましい

伝統は、時代の流れに合わせて微妙に変えていかないと生き残れない。「創られた伝統」こそが継続の原動力

相撲の本質は興行であり、「近代」の変動の中で紆余曲折を経て様々に形成されたもの。その「近代」もたゆみなく変化し、「伝統」は「近代」との葛藤・融合・抵抗を通じて生成され、再帰的は作用の中で、「しきたり」「言い伝え」「古層」が浮かび上がってきた

極論すれば、相撲の女人禁制は、1909年國技館開設による土俵上での表彰式導入を遠因とし、68年の総理大臣杯創設が発生因となって顕在化したもので、「本場所では力士と相撲関係者以外は土俵に上がらない」という規則を作れば解決する

相撲協会が主張する「伝統」についてはその内容が問題で、近世・近代・現代の異種混淆こそが実態であり、外部からの批判に応え時代の変化に合わせた柔軟な対応が求められる

 

第2章        穢れと女人禁制

1.       女人禁制への視点

女人禁制には常に穢れの問題が関わる

本章では、穢れの言説・表象・実践の歴史的変化を考察し、穢れに関する一般化を試み、比較研究の可能性を探る

霊山や聖地・社寺などの信仰に関わる場所や地域は「清浄地」で、女性の生理は穢れとされて立ち入りを禁じられるところが多かった。里と山の境界に女人結界が設けられ、女性の山岳登拝は恒常的に禁じられた(=女人禁制)

現代では、性差別撤廃の観点から女人禁制の場所は少なくなったが、穢れを巡っては常にアンビバレンス(両面価値)な感情がつきまとう

1872年太政官布告「女人結界の解禁」指令により、山々の大半は女性に開放

現在、全面的に女人禁制とするのは大峯山の山上ヶ岳と美作市の後山(うしろやま)のみ

山自体が広い意味で禁忌の対象であり、男性でも特定の時以外は登らないのが普通だった

女人禁制は法制用語で女人結界は経典用語

 

2.       堂舎の結界

山の女人禁制/結界は9世紀後半に現れ、1011世紀初頭に確立されるが、四字熟語として登場するのは1475年の周防興隆寺法度が初見

仏教でいう「不邪淫戒」が奈良時代の律令制化で厳格化し、僧院への女性の立ち入りや尼寺への男性の立ち入りが禁止された(=堂舎の結界)

女人禁制が差別的事象に転化する時期は、寺院や山岳霊場などで女性排除の理由を血の穢れで説明づけるようになる中世後期

 

3.       山の境界と開山伝承

堂舎の結界論に対し、筆者は山岳霊場での仏教以前の野外での「山の境界」の慣行に由来すると見る。元々「開山伝承」といって、僧侶や行者が狩人に導かれて山頂登拝を遂げ、神仏に出会って帰依して祭祀者になると言われ、「山の境界」を越境して山の聖性を新たに開示する実践というものが存在していた。他方、山の神や霊は女性であり、山では一般の女性が排除され、女神は畏敬されるという両義性が顕在化

農耕を営む平地民は「山の境界」を強く意識。狩猟民も山での境界の禁忌を守りつつ山中で暮らしを営み豊穣をもたらす女神を産神として祀る

「山の境界」は「野外の境界」であり、仏教の影響も加わって「山の結界」や「女人結界」に転化

開山年は、無名の者による山頂登拝の史実を反映している可能性があり、近年は、開山以来何百年など区切りの年が訪れて記念行事が行われ、開山伝承が新たな地域文化の展開の核になり、起源を語る神話的言説として機能している

 

4.       山林修業・山林寺院・山岳寺院

山岳霊場の創出や山岳寺院の建立には「山林修業」が大きな役割を果たす

密教の行法で、大和葛城山で活躍した役行者(えんのぎょうじゃ)は山岳行者として有名

開山者が活躍した時代は、8世紀に始まった「神仏習合」の時期とも重なり、山岳信仰と仏教が融合し、山が仏菩薩の世界に変貌。仏教の影響で山頂と山麓の「境界」が結界に変化

平安時代になって、最澄が比叡山、空海が高野山を拠点とし、天台と真言の寺院を開創して、山岳仏教が本格的に展開し、「山岳寺院」が形成された。何れも女人禁制で開創以来の禁制として維持され、禁制は山の開創に根差すという意識が定着し、聖地や霊山の霊験・滅罪・成仏を支える言説となる

 

5.       「山の境界」を巡る女性の伝承

平安時代中期には、山を舞台とする女性の伝承が語られる。仏教の末法思想と浄土思想が、死者の魂が死後に山に登るという山中他界観と結びつき、地獄や極楽が山中にあり、女性は山中の地獄に堕ちるという語りが現れた

『今昔物語』にも、「女人の悪心の猛きことかくの如し」とか「女の賢きは悪しきことなり」とし、末尾に「女に近づくことを仏が戒め給う」と付記し、女性蔑視感が現れている

山は「戒」の地とされ、戒律と禁忌を遵守する聖地で、現在でも山腹には、比丘尼石や姥石など、禁忌を侵して女人結界を越えた女人が石になったという伝承が残る

境界に関しては女性の両義性が顕在化、山では生殖や出産が強調され、里では穢れや劣位が強調される。母性を体現する山の神には安産・子授けが祈念される

 

6.       境界を巡る女性性

山と里の境界の場には、磐座(いわくら)や樹木の信仰が残り、仏教以前の山の神の祭場の様相が濃厚。山と里とは異なる世界で、聖域と俗域に対応し、女性性の価値付けが逆転、山では女性の生殖に関わる豊饒性、里では女性の月水の穢れが強調される。境界には禁忌が発生し、男性中心の権力作用が強く働く

柳田國男は、女性が石と化した伝説を「老女化石譚」とするが、女性の禁忌侵犯の伝承は近現代でも語られる。1919年富山女子師範の立山登山で大落雷に遭遇し、女学生2名が気絶した際は地元紙が「山神の怒りに触れた」と書き、2014年の木曽御嶽山噴火でもネット上で「だから女は山に入ってはいけない」という投稿に多くの人が「いいね」を押したという

仏教寺院に関わる「堂舎の結界」と、仏教以前の山岳信仰や世界観に由来する「山の結界」とは展開の在り方が異なり、山の結界では男性と女性の間に分割線が引かれ、禁忌を強調する「女人結界」が生成されるが、根源には女性の両義性があり、穢れの認識に関わる

 

7.       女性の穢れの時代的変化①――山岳登拝の規制

穢れ観の変化は3段階――①9世紀後半以降、従来の禁忌が法制化され、仏教の影響で女性の山岳登拝の規制が確立した時代、②室町後期以降、女性の生理的出血を罪業と結びつけ、女性のみが堕ちる血の池地獄を説いて女性の負性が強まった時代、③江戸中期以降、講の発達で民衆の山岳登拝や女性参詣者が盛んになり禁忌が意識化され民衆化した時代

 

8.       女性の穢れの時代的変化②――規定の精緻化

文献に現れる穢れの変遷は、701年の『大宝令』で唐の令にはない国家祭祀での「穢れ」の排除が重視され、平安時代には律令の補助法令として弘仁・貞観・延喜の格式が編纂され規定が精緻化。死穢30日、産穢7日として区別され、女性が「一時的穢れ」から「恒常的穢れ」とされるのは室町以降

 

9.       女性の穢れの時代的変化③――仏教の影響

女性の穢れの顕在化には仏教の影響が大きい――仏教の教義には女性の穢れや男女の不平等を説く教説があり、その影響が社会に及んだ

初期仏教は、生まれや男女の平等・無差別を説いたとされたが、教説は一貫せず、女性蔑視や不浄への言及も散見

大乗仏教では女性差別や忌避言説が強化され、日本で広く影響を持った『法華経』では「女身垢穢」として女性の穢れ観の定着に大きな影響を及ぼす

『梁塵秘抄』では、「女人には5つの障(さわ)りあり、無垢の浄土は疎けれど、蓮花し濁りに開くれば、龍女も仏に成りにけり」とあって民衆にも広がっていた

「女人誘惑」説もあり、初期仏教でも出家者の戒律では「不邪淫戒」が最も重視され、女性が男性の修業を性的誘惑で妨げるので排除するという思想があった――現在の大峯山の女人禁制維持の理由として修験3(聖護院、醍醐寺、金剛峯寺)が主張するのもこの論理

 

10.    女性の穢れの時代的変化④――疫病と王権

女性排除の理由は、触穢思想と仏典の女性罪業観が融合し、家父長制原理の浸透で王朝貴族女性の劣位性が顕在化、併せて都市での穢れ観の肥大化が起こる。疫病の蔓延が穢れと結びつけられて拡大

1052年を末法とする説が流布して人々の不安感が高まり、貴族の間には欣求浄土・厭離(おんり)穢土の志向が広まる

穢れや差別は都市から始まり、ケガレやキヨメは中世の身分制の核心的原理となった

女性の穢れの顕在化には様々の要因があり、仏教寺院での男女の戒律の弛緩、仏教思想での女性蔑視や差別言説の影響、仏教の浄穢観、神祇思想の清浄観、疫病と穢れ観の結合、吉凶・浄穢の概念操作、禁忌重視の陰陽道の展開などが絡まり合っている

 

11.    女性の穢れの時代的変化⑤――室町時代以降

中国で10世紀に作られた偽経『血盆経』は、女性が出産や月経の血で地神や水神を穢し、その罪業で死後に血の池地獄に堕ちると説き、日本にも室町の頃もたらされ広く普及

女性の血の穢れが神々の怒りを引き起こすという民衆が納得しやすい思考で、女性の穢れを「一時的」ではなく「恒常的」なものに変貌させ、女性を焦点とするジェンダー化が強化

史料での初見は、「女人禁制」は1475年、「女人禁制」を不邪淫戒の意味で使用したのは1571年、女性に対する禁忌の表現は謡曲での用例が目立つ、女人結界は江戸時期から始まる、何れも理由は明確ではない

 

12.    女性の穢れの時代的変化⑥――江戸時代以降

江戸時代には、女性の穢れ・不浄、女性の罪障・罪業、が社会通念になり、女人禁制・女人結界が定着

民衆への穢れ観の定着は、綱吉が1684年『服忌(ぶっき)令』で死穢や血穢を法的に確定させたことの影響が大きい

江戸中期以降民衆の間に霊山に上る登拝講が成立するが、男性が中心だが、寺社参詣では近世後期には女性も増加しており、女人禁制が顕在化したのは近世の民衆の山岳登拝や参籠が組織化され一般化して以降

富士山の場合、江戸中に富士講として発展し、八百八講と呼ばれたが、男女平等を説いたが、一部には神仏の怒りを引き起こすとして山麓住民の反対もあった

高野山では、7つの登拝口の夫々に女人結界が設けられ、参籠所である女人堂を作り、女人堂を結ぶ女人道を辿って御廟を遥拝した。結界地点は「女人高野」として女人の「結縁の場」となり、穢れを浄性や聖性に転換する場となった

近世の女人禁制の禁忌の伝承は、各地の山々の縁起や霊験記に残る――美作市の後山は大峯山より古いという由緒を誇る霊場で、『後山霊験記』には出産・死産、月水を入山禁止の理由として挙げる

 

13.    修験道と女人禁制・女人結界

日本の山岳信仰の特徴は、山での修行を体系化した修験道の展開

修験道は、山を男性中心の修行場とし、女人禁制・女人結界を維持してきた

修験道の長期にわたる展開と民衆化が女人禁制の維持に果たした役割は大きい

「山林修行」が鎌倉中期以降修験道に発展、密教の影響を受け、山を曼荼羅と見做し、仏菩薩と神霊の世界の山中に分け入って峰々を踏破し、「即身成仏」を目指す

発祥の地は大峯山で、熊野と吉野を結ぶ峯入りが修行道となる

山の女人禁制は役行者の創始とされる

江戸時代には1613年の修験道法度により、大峯山を根本道場とする修験が天台系で聖護院中心と、真言系醍醐寺中心の2大組織に再編成され、全国の修験の霊場や旦那場が決められそれぞれの支配下に入る。各地の霊山には女人結界が設定され、境界の意味が強まる

 

14.    近代の諸問題

明治新政府は近代化促進に当たり、旧来の多くの慣習を文明開化に反すると判断して民間習俗の廃止を進めたが、1872年の「女人結界の解禁」もs1つであり、『神仏判然令』によって廃仏毀釈へと進む

女人結界を守り抜いて山岳を修行地としてきた修験道も壊滅に追い込まれ、同年の『修験宗廃止令』によって17万いたとされる修験は廃絶

女人結界解禁は日本の長い山岳信仰の歴史や民間信仰に関する真摯な議論を踏まえたものではなかったため、各地で大きな混乱をもたらし、内務省は通達で、各宗派に対処を委ねたため、一部に旧来の風習が残ったが、徐々に「山の大衆化」へと向かう

女人禁制に関し伝統を改変したのは出羽三山。大峯山、英彦山と並ぶ修験道の三大山岳霊場として知られるが、1993年の開山1400年を期に、山伏の専門家養成の修行で女人禁制だった「秋の峯」を女性にも開放。「山伏」とは言わずに「神子(みこ)修行」とした

 

15.    結界と禁制、忌避と排除

現在でも女人禁制を維持する大峯山では、女性の聖域内への立ち入りが依然として生理的レベルの不快感として残り続けている。穢れとは言わず、修験道の祖師役行者以来の「伝統」と主張するが、女人結界門の手前の橋には「清浄大橋」の名が付され、浄穢観の意識は残る

 

16.    彦山の中世

女性と山岳信仰について記す中世文書が残る2つの霊山が福岡の彦山と伯耆大山

彦山の開山伝承には、

彦山は修験道の3大根拠地の1つだが、女人結界の記録がない。統括する座主は妻帯世襲だが、結界はあった

女性の穢れの認識は「一時的」で「恒常的」には排除されなかった

 

17.    伯耆大山の中世

13世紀までは、「潔戒」を遵守する者は「浄穢」を隔てず僧俗・男女を問わず入山を認めた

一時白拍子が「夫婦和合」を行い大騒動に発展したが、中世の山岳霊場や仏教寺院は、厳格な男女分離によって戒律を遵守する場所と、戒律を守れば浄不浄を問わず男女雑居を許すという世俗の生活が浸透しやすい場所が共存しており、伯耆大山では柔軟な解釈がなされていたことが窺える

 

18.    一般論への展開

穢れは実体(血・腐敗物・汚物)と観念(負性を帯びた対概念)の間を揺れ動き、儀式・図像・言説・表象によって操作され、正負双方に動く

 

19.    機能論と構造論を超えて

穢れの概念は、明確に定義し一元的な概念で把握しようとすると膠着してしまう

本書では、モデルとしてのケガレ論と歴史の中で変化してきた穢れ論を統合する試みを行う

ケガレあるいは穢れは関係性の中で変化し、政治・社会・経済と連動して多義性を帯び、歴史的に変化する流動性を持っていたことに留意したい

日本語で穢れと呼ばれる現象や観念には、2種類の概念が包摂・混同されているので分析概念として整理が必要

   「実体的嫌悪感」で、女性の月経・出産など出血を伴うものと、「生理的忌避」で男女を問わず死に対するものがあり、出血や腐敗に対する脅威であり、汚いものとして排除する血・糞便・唾液などは汚物となり、匂いや色で嫌悪感を増殖。触れたものは「不浄」とされ危険な力を持つとして忌避される一方、血は生命の源とされ、供犠の儀礼では大地に血を注ぎ豊饒性を喚起させる力となる

   「観念的畏れ」の観念があり両義性で流動性を伴うもので「ケガレpollution」とする。「分類」できないもの、「場違いなもの」であり、「境界性」「無秩序」として禁忌の対象になる。社会が「文化秩序」を構築する時に顕在化し、「分類」に当てはまらないものや秩序から外れるものを「ケガレ」や危険なものとして排除や浄化の対象にしてきた。実体としては被差別民、先住民、女性などが充当された

女人禁制・女人結界は「穢れ+ケガレ」が意識化され、操作されることで生成され、不均等なジェンダー・バイアスが生じ、イデオロギー性を帯びると負性を持つ「不浄」と結合し、「浄」と対立的な関係性を構築して、社会の階層化や固定化に向かう

 

20.    海外との比較①――スリランカ

日本の穢れと類似の事例は、東南アジアなどでよく見られる

スリランカでは、血や死体など肉体に関わる負の現象や状況を「キッラ」といい、女性の出産は30日、月経は3日、死は90日隔離。特に少女の初潮は厳重に管理

 

21.    海外との比較②――南アジアと東南アジア

インド文化圏は、穢れを強く意識化する世界

ヒンドゥー文化圏のカーストは、浄・不浄の原理からなる階層制

 

22.    穢れ研究の可能性

人間の集団に特化した穢れの研究は、インドのアウト・カーストの不可触民、西欧の賎民、日本の被差別民や特定の病気感染者など、広く展開

新型コロナウィルスでも、穢れの表象が感染者に適用され、差別・隔離・黴菌扱いされ、人権侵害も生じている。「清潔」と「不潔」の注意書きで峻別された対応は、姿を変えて現れた現代の穢れであり、穢れは身近で現実のものとなった

 

第3章        山岳信仰とジェンダー

本章では、女人禁制を焦点として、山岳信仰をジェンダーの視点を入れて考察し、担い手、地域社会、研究活動等を総合的に問い直す

ジェンダーとは、社会的・文化的に作り上げられた性別に関する知識や実践のこと

1.       ジェンダーの視点

ジェンダー論に先行して、女性への差別と抑圧の是正を求めるフェミニズムの運動が広く展開され、大峯山の女人禁制に対しても反対運動の原動力になっている

女人禁制という言葉には、男性優位・女性劣位の視点が内包され、男性から女性へ向かう一方向的な見えざる権力が働き、ジェンダー・バイアスが強く、ジェンダーの不均衡な非対称性が強く働く慣行や制度

暗黙裡に受容してきたジェンダー規範の内面化を再帰性で覆さないと、議論を前に進めることはできない

ジェンダーの概念の導入とともに、「伝統」に関する言説の再検討も必要。「伝統」は先人たちの慣行や観念であり、「古来からの習わしやしきたり」であり、昔から続いてきて変えられないものとされるが、同時に、時代に合わせて創意工夫を施して継承・伝達・発展していくものでもある

 

2.       女人禁制・女人結界の外観

山岳信仰が仏教と融合し、山が修行場になると、山と里の境界の禁忌が顕在化したが、女人禁制の禁忌の発生起源は不明、禁忌の理由も様々だが、女性への不浄感が大きい

女人禁制は長い歴史的伝統とされ、創始者を「山岳寺院」に祀られる宗祖や開祖、各山の開山者に求めるところも多い

江戸時代までは、神と仏の関係性は、本地垂迹(すいじゃく)に基づき、本地をインドの仏菩薩、垂迹を日本の神とする神仏混淆の世界で、神社の御神体も仏像が普通、女人禁制も江戸時代までは問題視されることは少なかった

 

3.       女人結界の解禁

1872年の太政官布告は女人結界の解禁で、女人禁制の廃止ではないが、文明開化の観点から布告されたもので、日本人の文化を覆し、人々の思想と行動を激変させた大変革

修験は大勢力を擁していたが、修験寺院は天台か真言への帰属を迫られ、身分秩序も解体

山の女人禁制や女人結界は、遅れた習俗と否定され徐々に消滅へ。戦後は人権問題にもなり、女人禁制を維持する大峯山は集中的に非難の対象となった

 

4.       女人結界の解禁とその後

高野山も1905年正式に女人結界を解禁

現在も女人禁制が残るのは、大峯山(1719m)と、美作の後山(1345m)2カ所のみ

穢れとは切り離され、「伝統」に基づくと読み替えられ、近代と接合して「創られた伝統」による新たな言説を紡ぎ出す。「創られた伝統」は民衆に浸透し、正統性の根拠となった

山上ヶ岳での修験道は672年役行者が開山・開祖して以来1300年続く伝統とされるが、文献上は見当たらず、修験道の開祖に祭り上げられたのは鎌倉中期以降とされ、女人禁制も開祖が定めたという言説に展開していった可能性が強い

 

5.       歴史の中の女人禁制①――史料の再検討

女人禁制の最古の用例は、1355年の「寺内尼女禁制」で、四字熟語としての女人禁制の初見は1475年の『氷上山興隆寺法度』、女人結界の初見は江戸時代の仮名草子

女人の山岳登拝禁止の初見は、886年の比叡山での女人禁制で、仏教の戒律である「不邪淫戒」に由来すると言うが、筆者は「山の境界」が始まりと主張。修行者から見ると「堂舎の結界」であり、神仏から見ると「山の結界」

 

6.       歴史の中の女人禁制②――伝承の再検討

歴史の中の女人禁制は穢れの言説の変化と連動し、男性優位の権力を次第に強化。ジェンダーの見えざる権力が操作してきたともいえる

1段階は、貴族中心に法令の普及や仏教の影響で山岳登拝の「規則」が成立

2段階は、室町以降で、『血盆経』の教義が一般に及び、女性の血穢の観念や罪業観を強めて「恒常的穢れ」となり、女人禁制や女人結界の用語が文献に現れる

3段階は、江戸の民衆化の時代で、登拝講が盛んとなり「組織」が整備され女性も参加、登拝の禁忌の再検討や再確認が行われた

ジェンダー化は、第1段階では「規則」による発生と普及、第2段階では「教義」による強化と固定、第3段階では「組織」による流通と定着の過程を経て変化してきた

女人禁制は各時代の政治・社会・文化の変容と連動しており、過去との連続性と非連続性を見極める視点が重要で、単純に現代の言説を前近代の過去に遡って適用することには問題が多い

 

7.       習俗としての女人禁制①――恒常的規制と一般的規制

女人禁制は、近代以前では習俗として無意識のうちに代々受け継がれてきた

習俗としての女人禁制の規制の在り方は2種――聖地や寺社に関する「恒常的規制」と、生理や出産の期間に限定される「一時的規制」であり、空間への規制と時間への規制でもある

山岳登拝は男性に対して「一時的規制」が適用されるが、土俵や麹造り、漁業や狩猟にも女性の参加を拒む風習は存在するが、状況や文脈によっては遵守されない

 

8.       習俗としての女人禁制②――拡大と適用

酒の醸造の女人禁制は近世中期以降と推定されるが、神事では処女や巫女が米を口に含んで造る「口噛み酒」で神に捧げたという伝承もある。酒造りの「杜氏」の語源も、家事を司る女性の刀自(とじ)や、酒を管理する女性の尊称ともされる

女性を忌避する伝統的職業としては、日本刀の鍛冶、タタラ製鉄などがあり、原子力発電所も女人禁制(東海村で朝日の大熊由紀子が立ち入りを拒否された)

女性を不浄とする信仰は、女性の霊力に守護される信仰と一体で、女性の生殖能力に関わる現象であり、両義性で反転する可能性を持つ

他方、男子禁制もある――女性が祭祀の主役を担う慣行は琉球文化圏に顕著

女人禁制は、ジェンダー言説の規制的実践として顕在化――1985年森山真弓外務政務次官が小金井カントリー倶楽部が会員資格を「35歳以上の日本人男子」に限定、女性はビジターとしても土日は不可としていたことを問題視。同年の男女雇用機会均等法公布の直前

トンネル工事への女性の立ち入りを禁ずる伝承もある

スイスやオーストリアのトンネルでは、坑夫・消防士・建築家らの守護聖人である聖バルバラを祀る風習も残り、安全祈願が行われる

2006年までは労働基準法でトンネルや坑内での女性の労働が禁じられ、1989年に初の女性土木技師が鴻池組に誕生したが、トンネル工事現場への立ち入りは許されなかった

 

9.       習俗としての女人禁制③――海外の事例

世界でも、特に屋内の規制として顕著に残る

キリスト教の修道院は典型で、女人禁制も男子禁制もある――ギリシャのアトス山は正教会の修道院として1406年以降法令で女人禁制。動物の雌も禁止。1988年ユネスコの世界遺産に認定され、EU03年男女同権、域内自由通行違反としたが、山もギリシャも応じていない

イスラムでもパルダー(男女隔離)の慣行があり、男性優位が守られている

スリランカの上座部仏教は、男性の出家僧中心、戒律で女性を規制

ブータンの牧畜民は守護する女神の居所である山には年1回登るが、山は女人禁制

バリ島では、女性主体に血の禁忌があって、寺院の境内に入れない

女人禁制は、信仰の世界に留まらず、時代風潮や社会が構成する男性像や女性像の在り方の影響を受ける――西欧社会の社交クラブの伝統では女性会員を認めず、ウィーン・フィルハーモニーも1997年まで女性の団員は採用せず、イギリスのパブも長い間男性のみの社交場

女人禁制の歴史的経緯を考慮し、多様な男女のジェンダーとして社会的に構築され、習俗として固定化されていった文脈を丁寧に見るべきで、個別の存続理由を検討し、文化や社会の文脈に即してハビトゥスとして習俗化した女性に関する禁忌や禁制を解読するという課題が残されている

 

10.    社会運動の中の女人禁制

インドのヒンドゥー教では女性の血を穢れと見做し、寺院への立ち入りを禁じていたが、「国連女性の10年」(197685)の運動以降、フェミニズム運動が高まりジェンダー差別の人権侵害として差別撤廃への声が高まるなか、2019年南部での聖地巡礼での女人禁制を巡る反対運動が激化、最高裁も違憲としたが、女性が参拝を強行したことで暴動に発展

現在では大部分の寺院が女性の立ち入りを認めているが、参拝を強行した1人は不可触民であり、急進的なヒンドゥー・ナショナリズムの政治的動きの中にジェンダー差別が巻き込まれた面もある

 

11.    差別としての女人禁制

女人禁制はジェンダー・バイアスが強く、性差に基づく差異は差別を引き起こす

女人禁制に関しての現代の動きは、慣習や習俗、制度の否定に留まらず、思想や観念を徹底的に批判する方向へと向かっている。世界的な広がりを持つグローバル・フェミニズム運動の影響が大きい

1975年国連がジェンダー平等社会の実現を目指して国際女性年の世界会議を開催、日本でも「男女共同参画」と翻案され活発な活動が展開された

「差別としての女人禁制」の言説の特徴は、差別と人権を結びつけ、徹底して近代の言説で相手を批判することにあり、人権に関わる「主な課題」の最初が「女性」

ただ、「人権」は西欧近代化の思想や歴史を基底において創られた概念で時代や社会に応じて変わるにもかかわらず、普遍的であるかのように扱われてきた

人権論者には「信心と人権」の折り合いは視野にない

他方、女人禁制の維持を主張する側も、人兼論には対応せず「伝統」の継続を正統性の根拠にするが、伝統とは「説明できないもの」を説明するためのブラック・ボックスのようなもので、決して伝家の宝刀ではない

土俵の女人禁制にしても、マスコミやSNS上での議論は、歴史的背景を無視し、複雑で多岐にわたる慣習を女人禁制という強い言説で一元化した上で拡大解釈し乱用している

 

12.    フェミニズムと山岳信仰

「差別としての女人禁制」の言説に大きな影響を与えたのはフェミニズムの第2

1960年代後半に始まり、70年以降に本格化して現在まで続く運動で、性差別的な制度だけでなく、制度を支える思想を批判し個人の認識の変革も推進してきた

フェミニズム信奉者による大峯山の強行登山は、地元に不信感を増大させ大きな後遺症を残した。彼等の言う「封建制の遺物」という一方的な決めつけは禁句

2波のフェミニズムの特徴は、家父長制の概念の導入であり、性差別・性支配の根源と見做した

 

13.    大峯山の女人禁制

山岳信仰と女人禁制に関してよく取り上げられる奈良県天川村洞川(どろがわ)は、現在も女人禁制を維持する山上ヶ岳の西山麓に位置し、修験教団の寺院などとの繋がりが濃密に維持されている。修験教団は、聖護院・醍醐寺・金峯山寺の3本山からなる緩やかなまとまりで、2000年の役行者1300年御遠忌を契機に合同の動きが見られる

大峯山は、明治の神仏分離以後、廃仏毀釈の中でも女人結界は「宗規」によって維持され、1889年には5か寺が護持院として存続、戦後も修験宗が復活

洞川は、修験道上の山上ヶ岳への登拝の根拠地として栄え、多くの宿泊施設があり、女人禁制を維持して女人結界の施設があった

1965年、洞川が国立公園内に追加編入されたのを機に観光投資に目覚め、徐々に女人禁制区域縮小の動きが始まる

現在4カ所の結界門には1992年設けられた「宗教的伝統により女人禁制」との表示があるが、女人禁制は「宗教的伝統」ではなく、非日常と日常が交錯する広義の「習俗」に含めるという立場を筆者は主張。女人禁制を支えてきたのは「信心」であり、生活の中に埋め込まれ、暮しに定着した規範・信念・表現・実践などで、慣習やしきたり

大峯山も、地元の女の人は登ろうという気持ちは全然ないという

大峯山の女人禁制への挑戦の最初は、大正から昭和にかけての第1波フェミニズムで、信仰・歴史・生活を根拠に禁制を維持

次いで1929年の女性による強行登山、地元民によって即刻退去させられた

1932年、国立公園編入を機に議論が活発化。「公共性」という新たな枠組みとの葛藤

1946年、GHQ関係者の登山が計画され、村の生活と全国信者のために伝統を守るとして説得、GHQから女人禁制承認のお墨付きをもらう

戦後、スポーツ登山という新しい近代スタイルの出現で、禁制解禁の動きが始まる

昭和30年代半ば、都市的生活様式が浸透して、生活の在り方や人間の意識を大きく変え始めるころ、洞川内部でも女人禁制を村内で維持してきた龍泉寺が1960年の本殿完成の落慶法要を期に解禁に踏み切る

吉野では、女性信者の維持・獲得を目指し、1950年に一連の行場の女人禁制を解く

洞川の地元の主張のポイント:

   信仰と伝統への強い愛着――女性不在で男性だけが修行する精神修養の場所

   女人禁制の維持は、地元というより講社の信者の意向が強く、大半は存続を望む

   信仰と経済の問題――「信仰の山」だからこそ講社の信者が来て、地元の経済が成り立つ

   日本で唯一の女人禁制の山を将来にも残したいという強い意志。山上ヶ岳は大峯山寺が8合目以上を所有し、行場は境内地

女性の側にも、女人禁制を許容した上で、独自の修行を行う活動が始まる――龍泉寺が中心となって、稲村ヶ岳を「女人大峯」として正式に登拝を承認して行場を拡大

1970年の万博に伴う観光客誘致が女人禁制区域の縮小に大きく影響

2000年の役行者1300年御遠忌の節目に、修験3本山は護持院と協力合同して女人結界の見直し検討を始めたが、その動きをマスコミがスクープしたことと、解禁前の1999年に奈良県教職員組合の女性が強行突破したため、信徒や講社からの反発で白紙撤回に

修験道信仰に対する危機感に始まりが3本山の大同団結を生み、男女同権の世情への配慮、穢れ論の否定があって、「解禁」ではなく「撤廃」まで議論が進むも、新聞のスクープで萎む

2004年の「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録を巡っても女人禁制が問題視されたが、地元の伝統の尊重と地域文化重視の意見が多数を占め押し切る

2017年の沖ノ島の世界遺産登録でも、「神宿る島」の女人禁制が問題との指摘があったものの、大きな問題にはならなかった

世界遺産により伝統文化の「資源化」が始まり、「遺産化」によって「文化資源」の中に取り込まれた女人禁制は新しい難問として浮上。信仰と文化遺産を巡る新たな課題

維持派と開放派の主張は平行線を辿るが、伝統を根拠にする維持派の見解が焦点。説明し得ない伝統に拘る維持派は、常に受け身で曖昧な受け答えになりがちだが、開放派が持ち出す「憲法」や「実定法」ではなく、地元で伝承されてきた「慣習法」や「習俗」の理解が肝心で、前近代と近代の調整と調和が問われる

 

14.    女人禁制の行方とジェンダー

山岳信仰とジェンダーを巡る問題の中核には、伝統という概念や慣行がある

伝統の概念自体が近代の創出であり、両義性を考慮しつつ、政治や社会の変動の中で揺れ動く伝統への問いかけを通じて、男女の在り方や生き方を問うという課題が残されている

女人禁制を維持してきた当事者は多様で複雑――修験教団、護持院、教団の信徒、講社、地域社会の人々、個々の行者など異なる歴史、思想、組織、体験を持つ。大峯山の女人禁制に関わる地域社会は吉野山と洞川だが双方共に異なる。女人禁制に関与する社会関係には、地域社会の血縁・地縁の凝集性、講社という任意結社、教団という信仰組織があり、特に講社の中核にある「阪堺役講」は強固な団結力を持ち、総講員数も数百を超える

地域社会が中心となって、土地の自然や文化や歴史が育んできた生活者の暮らしによる体験知を現代社会の動きに合わせていかに調整していくかが問われる

行為主体として注目されるのは女性。特に修験教団では女性信者の積極的関与は必須

最終的な選択や判断は当事者に委ねられており、外部者ではない。洞川では過疎化、少子高齢化、講社の減少、教団の衰退、信仰の希薄化など不安定要因は多く、女人禁制再考の時期は近づいている

 

 

 

 

 

 

 

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