ウィースキー・ウーマン  Fred Minnick  2021.11.19.

 

2021.11.19. ウィースキー・ウーマン 

~ バーボン、スコッチ、アイリッシュ・ウィスキーと女性たちの知られざる歴史

Whiskey Women: The Untold Story of How Women Saved Bourbon, Scotch, and Irish Whiskey   2013

 

著者 Fred Minnick 1978年生まれ。アメリカ人作家、ウィスキー評論家。従軍ジャーナリストを経て『ニューヨーク・タイムズ』『USAトゥデイ』などの一般紙、および『ウィスキー・マガジン』などの酒の専門誌に記事を寄稿。13年出版の『ウィスキー・ウーマン』が複数の賞を受賞。13年『フォワード・レヴュー』誌の女性研究部門金賞、14年『ブック・オブ・ザ・イヤー』のスピリット部門のファイナリスト、14年『インディペンデント・パブリッシャー・ブック・アラー土』の女性問題部門銀賞、16年「インター・コム」主催の酒に関する本の部門最優秀賞。バーボンを主に、酒の歴史に関する著書多数。『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙の書評でベストセラー入りも果たす

 

訳者

浜本隆三 1979年生まれ。同志社大学大学院アメリカ研究科(現グローバル・スタディーズ研究科)博士後期課程単位取得満期退学。徳島文理大学講師、福井県立大学講師を経て、甲南大学文学部専任講師。専門は19世紀アメリカの文学と文化

藤原崇 1980年生まれ。同志社大大学院文学研究科博士後期課程満期退学。同志社大嘱託講師を経て、摂南大外国学部専任講師。専門は英語学

 

発行日           2021.8.20. 初版第1刷発行

発行所           明石書店

 

 

はじめに

2011年、ケンタッキー州知事公邸にて、アメリカ初の女性によるドリンキング・クラブ創立――ウィスキーの歴史における女性たちの正しい地位を取り戻そうとするもの

国家的な目的を負った世界初の組織

トウモロコシが主原料のアメリカのウィスキー、バーボンは、その95%がケンタッキー州で製造

アイルランドとアメリカではWhiskeyだが、スコットランドとカナダではWhisky

飲む人の30%が女性

蒸留されたモルトと女性の関係を発展させた最大の功労者は、グレンフィディック社のジャネット・シード・ロバーツ・リザーヴという、創業者の孫娘の名を冠した55年物のシングルモルトのスコッチが、2012年のオークションで94,000ドルの値で落札されたという出来事かもしれない。たった11樽しか造られていないグレンフィディックのこの銘柄は、史上最高販売額のウィスキーの1つで、シード・ロバーツが110歳で亡くなる2週間前に売り出された

ウィスキーは、かつて女性たちの間で客人向けに出される飲み物の定番

17001800年代にかけて、スコットランドやアメリカの女性は、ウィスキーをお茶や砂糖と共にパンチ・ボウルで混ぜて飲んでいた

アイルランド系の女性たちは、ポティン、即ちアイリッシュ・ムーンシャイン(密造酒)によって家族の健康を守った

禁酒法の時代も、1950年代の末でも、女性はウィスキーを楽しみ続けた

本書の目的は、ウィスキーを嗜んでいた女性たちの歴史を辿ることにあるわけではない

「女性たちは最初の蒸留者だった」という言葉に関心を持った

ウィスキーの銘柄は、ほとんどが男性の名前

ウィスキーの蒸留より4000年も前に、シュメールの女性はビールを発明

エジプトの女性は期限前3世紀頃にアレンビック(蒸留器)を考案し、それが今日、密造酒業者が使っている蒸留器の原型。中世ヨーロッパの女性たちは、薬部屋に詰めて、薔薇の香水からジャガイモまであらゆるものを蒸留した。初期の蒸留物は命の水と呼ばれた

ウィスキーという語は、1500年代には使われていたが、1800年代まではそれほど一般的な言葉ではなかった

蒸留業が巨大産業へと成長を遂げた時には、女性のリキュール業者はごく限られていたが、アイルランドやスコットランドでは30人を超える女性たちが、税金を支払う合法の蒸留所を所有。17001950年代の蒸留所業界では、女性経営者たちが有力者に名を連ねた。ラフロイグ、ダルモア、ブッシュミルズ、ジョニーウォーカー、それぞれの歴史に登場する女性経営者なしに現代の姿はない

本書は、いま私たちが楽しんでいるウィスキーの製法を完成させ、数十億ドルの価値がある象徴的なブランドを育て上げた、ウィスキーの歴史の一翼を担った女性たちに捧げられる。その女性たちの名前を冠するウィスキーは存在しないが、ウィスキー業界が彼女たちへの恩義を忘れることは決してない

 

1.   ウィスキー以前

ウィスキーと聞けば色彩。スコッチのシングルモルトのような落ち着いた藻色からバーボンの深い朽葉色まで。色の豊かさはオーク材のキャスク(酒樽)の中で熟成することによって生み出されるが、その香りは原液の時点から変わらない

ビールや麦汁と呼ばれる原液は、熱湯に浸し発酵させた穀物をすり潰したものから抽出される。発酵した穀物は蒸留されて、瓶に詰められるまで樽の中で歳月を重ねる。この過程には地域差があるものの、ほぼすべての段階が200年の間変わっていない。三段階蒸留法や蒸気機関車が登場する遥か以前、シュメールの女性たちはウィスキーを生み出す第一段階を発明していた。彼女たちはビールを造っていた

紀元前4000年、メソポタミアの楔形文字が刻まれた書字板にビールを造っていたとの記録があり、そのために大麦を栽培していた

シュメール人は、ビールを宗教的な儀式、薬、普段の飲み物に利用

知恵の神エンキはしばしば酩酊し、その娘ニンカシはあらゆるビールの製造を司った

エジプトでも女神ハトホルは「醸造の発明家」であり、「酩酊する女神」だった。エール(ビールの一種)が市中にはびこり酔っ払いの原因と非難され、販売店が締め付けの対象にされた

穀物がない時は硬くなったパンをすり潰して壺の水に浸し発酵するまで放っておいた

シュメールのビールはアルコールを含まないが、エジプト人は液状化した穀物の糖分を栄養分とする常在菌のイースト菌を使ってアルコールを造り出していた

ギリシャとローマでは、女性がワインを造ったりアルコールを摂取したりすることを禁止

古代ペルーでは、6001000年頃に栄えたワリ帝国の女性たちが、チチャというトウモロコシを発酵させてつくる酒を製造

中世でも、女性の醸造家は社会にとって重要な存在――1300年代のオランダでは、男性より女性たちが優れた醸造家と考えられていたし、1400年代中頃のロンドンでは醸造ギルドの30%を女性が占め、ブリュースターと呼ばれた。ビールは最も安全かつ造るのが簡単な飲み物であるが故に古代と同様女性が製造を担った。優れた解毒剤でもあった

妻殺しで名高いヘンリー8世の治世下では、男女とも自前で樽を創ることは禁止、都市ごとに課税や熟成過程の定めがあり、有資格の検査官が味を確認

16世紀、酒の秘匿は魔女裁判で魔女の証拠とされたし、違法な醸造が「製造魔女」や「エール魔女」として糾弾された

ホップは、ビールの香りを大きく改善し味を安定させるものとして使われるが、17世紀頃は痛風や肺病を引き起こすとして、特に女性醸造家は通常使用しなかった

ウィスキーは、「すり潰した穀物を発酵させ、それを蒸留したもの」と定められ、大手ウィスキーメーカーは全て穀物畑から始まっているが、その大本はシュメールの女性たちが大麦を発酵させビールを造ったところにあり、さらにメソポタミアの女性化学者がウィスキー造りの次のステップである蒸留を試み、香水を作り出した。今日でも使われる蒸留技術を発明したのはエジプト人女性マリア・ヘブラエ

 

2.   最初の蒸留

発酵した穀物に熱を加えて沸騰させると、アルコールと水が分離、そのアルコールを冷やして濃縮すると、スピリットの澄んだ雫となる。この蒸留の過程で、醸造所は特許を取った独自の製造技術を用いる

エジプトの蒸留技術は香水を作り、硫黄、水銀、ヒ素硫化物を溶解するために用いられたとされる。錬金術師だったマリア・ヘブラエは新しい加熱型の二層式の蒸留器具を考案

中世の暗黒時代、女性は宗教儀式からも学問からも締め出され、人目を避けながら蒸留を続けたが、1415世紀にかけて、蒸留して作った薬への需要が高まると、医者は女性たちに薬剤師の役割を求め、薬局でアルコールを主原料とした薬を製造

何でも蒸留してスピリットを作る ⇒ アクラヴィタエ(ラテン語)と呼ばれ、中世のアスピリンであり、万能薬とされたが、魔女狩りの対象となって地下に潜る

 

3.   不屈のアイルランド女性

1172年、イングランドがアイルランドに侵攻した時、ゲール語で「命の水」を意味する、ウヰスゲ・ベアサと呼ばれるアイルランドのアルコール飲料を発見。ウィスキーに間違いないが、どうやって蒸留していたのかは不明

17世紀はイングランド人がアイリッシュ・ウィスキーに熱狂した時代。家庭内の醸造による小規模な生産がビジネスへと発展。アイルランド産の「ウスキバーフ」(ゲール語で「命の水」)の広告が、1720年代にはロンドンで、後にニューヨークで新聞に現れる。痛風とリウマチの特効薬と謳われた

アイリッシュ・ウィスキーを渇望する声が高まると、生産規模にも変化

ゲール語の「ウスキバーフ」を発音できずに「イスケバハ」と発音し、「ウィスキー」となる

ウィスキーは、アイルランド産でもスコットランド産でも、滋養と強壮のための飲み物となる。1737年には68歳で妊娠したロンドンの女性が、夫のウィスキーを飲む習慣のせいだと非難

ウィスキーへの関心は、イングランドの貧困層から女王に至るまであらゆる層に広がる

1661年のクリスマス、アイルランド政府は1ガロンにつき4ペンスという最初のウィスキー税を課し、ポティンと呼ばれた熟成させないスピリットを非合法なものとし、蒸留を1度しかできない女性たちを廃業か非合法に追いやった

16世紀、ヘンリー8世がアイルランドを征服し、カトリックとの関係に楔を打った時には、田舎の蒸留家たちは課税を逃れていたが、1780年代には逃れられないほど儲かる商売に成長、増税は大規模蒸留業者に有利に働き、小規模業者が相次いで倒産

1800年、アイルランドが大英帝国の支配下に置かれると、イングランドと同じ徴税制度が敷かれ、厳格な取り立てが始まり、鼬ごっこで女性たちがパイオニアとなってポティンを売りまくった

1608年、ジェームズ1世は、地主で支配者でもあったサー・トマス・フィリップスにアイルランドで蒸留を行う権利を与え、後のブッシュミルズに結び付く。130年以上が経過してから違法蒸留業者が蒸留を始め、アイルランド全土に出回る密輸用のウィスキーを造り出した。ヒュー・アンダーソンが1784年、オールド・ブッシュミルズ蒸留所を公式に登録、密輸ウィスキーの土地が合法的に税金を納めるウィスキーを造り始めた

肥沃な土地と豊かな水源に恵まれ、ブッシュミルズは瞬く間に世界で最も優れた蒸留業者となる。蒸留所は、当時としては珍しく男女平等を掲げ、1865年オーナーのパトリック・コリガンは夫人のエレン・ジェーンに遺贈。彼女はアイリッシュ・ウィスキーをさらなる高みへと引き上げる。現在は世界最大の蒸留会社ディアジオが所有しているが、ブッシュミルズは女性に最も嗜まれているウィスキーの1

今日のウィスキー市場で重要なもう1つのアイリッシュ・ウィスキーがタラモア・デューで、1800年代後半のオーナーはメアリー・アン・ダリーだったし、他にも女性経営者が何人かいた

 

4.   黎明期のスコッチ・ウィスキーと女性たち

スコットランドで最も古いウィスキーは、1494年王命によって修道士ジョン・コーがアクアヴィタエを造るためにモルト8ボール(当時の重量単位)を受領したのが最初。国としてのウィスキー製造方針が残されている

1506年、エディンバラの外科手術を行う理容師ギルドがアクアヴィタエの製造と販売を独占することが認められ、それ以外の「民間の薬」を造る女性を摘発し処罰

スコットランド議会は、1644年にモルトに対する税を導入、1707年イングランドと合併

1790年代のイングランドでは、1ガロン当たり0.09ポンドの酒税賦課、小規模業者の営業が禁じられ、多くの蒸留業者が地下に潜り、徴税人との鼬ごっこが続く

1820年、違法蒸留業者はスコットランドで消費される蒸留酒の1/2以上を製造、政府も1824年には税金を1/4ほどカットし、密輸業者の免許取得を促した結果摘発も激減

ジョニーウォーカーは世界で最も売れているブランディッド・ウィスキーだが、その蒸留所カードゥの操業を担っていたのは女性たち。1824年に酒税を払って合法なモルト・ウィスキーの蒸留業者として認められたジョン・カミングは農場を経営しながら酒の製造・販売を続け、32年息子に事業を譲るが、ジョンの妻ヘレンは「グラニー・カミング」の異名で事業を支え、息子の死後はその妻エリザベスに事業を継がせる。優れた実業家としての才能を発揮したエリザベスはブレンドウィスキーの品質向上に貢献、工場を拡張して旧醸造所を86年にウィリアムグラントに売却

後にジョニー・ウォーカーを名乗るジョン・ウォーカー&サンズ社は、1893年カードゥ蒸留所を買収し、中間業者を効率的に除去し、今日に至る一大帝国への第1歩を踏み出す

カミング一族はジョン・ウォーカー社内に留まり、エリザベスの孫は会長として1965年には世界のスコッチ売り上げの53%を占めるまでに成長を牽引

エリザベスを筆頭に、30人を超える女性たちが合法的な蒸留所を経営していたという記録があり、そのトップ3がダルモア、グレンモーレンジ、アードベッグ

スコッチの独特の香りを引き立たせているのがビートで、朽ち果てた植物の栄養分の塊を地中から掘り起こし、積み重ねて乾燥させたのち、ビートの火で大麦を乾燥させスコッチ独特のスモークと強烈な匂いをつけるが、ビートの使い方は地域によって異なる。地域の、成分が調整されていない水が、地域独自の特許とも呼べるフレイバーを醸し出す

ロウランドはスコットランドの南端で、軽いウィスキーには、ハーブを調合したような香りがある。ここでは18世紀末の最初期から女性がウィスキー造りに携わり、多くの女性が夫を亡くした後合法的に蒸留所を引き継ぎ経営者となった

 

5.   初期のアメリカ女性

アメリカでも独立前の移民や、植民地ではウィスキーを治療薬として用いる

女性が家庭でアルコールを造ったのは、医療用リキュールに対する需要があったからで、男が農場で働く間に、女は家でバターを造り、縫物をし、アルコールを造った

1800年代初めのアルコール造りのレシピが残っている

造られたアルコールはすぐに消費。ワシントンDCの社交界では、ケンタッキーのコーン・ウィスキーが政治家たちを魅了

ウィスキーは常にワシントンと強い結びつきがあった――ジョージ・ワシントンはアメリカ最初の蒸留業者と呼ばれている

農場の奴隷たちにウィスキーが与えられたのは、重労働の後の労いと体力滋養が目的

独立戦争に従軍志願した女性は前線で看護師となって自前のウィスキーを治療に活用

1791年、財務長官のハミルトンの提案で、ウィスキーへの酒税賦課が始まると、アレゲーニー山脈以西のライ麦からウィスキーを造っていた小規模業者が反発したため、1802年蒸留酒への課税を廃止。以降南北戦争までは無税が続く

南北戦争中は、徴兵でいなくなった男の穴埋めをして女性がウィスキーの製造・販売を担い、南軍では「ウィスキーを売る連中の手によって、敵の砲弾で亡くなった以上の命を失った」とまで言われた。医療用でないウィスキーには様々な有害物質が含まれていたり、特に劣悪な品質の酒類の販売は売春婦とも深く結びついていた

課税を逃れてウィスキー移住民の群れが北西部から南西部へと移動。メアリーとジェイコブのビーム夫妻はケンタッキーでウィスキー造りを始め、競合するラム酒の輸入関税を連邦議会が引き上げたことにも助けられ、今日の発展の礎を築く

州によっては女性が資産を所有することを認めなかったため、土地の登記はイニシャルだけで登録されたため、女性の蒸留業者を特定するのは困難だが、50名以上はいた

北部では1862年から連邦政府のウィスキー課税が始まり、徐々に上がっていったが、南部では戦争協力として蒸留器を溶かして供与するよう命じられた

戦後は密造が横行、摘発が続く

 

6.   客層と初期の客

南北戦後から、禁酒運動は婦人参政権運動と共に世の関心を幅広く集めるようになった

女性キリスト教信者は皆、ウィスキーはもはや治療に役立つものとは考えなくなっていた

アメリカの入植者たちが西へと旅をした時、ウィスキーは毛皮の取引で重要な通貨となったが、同時に性の問題も引き起こした。酒と売春の商売は最も儲かるものとなり、両者への取り締まりが始まる

 

7.   禁酒主義の女性たち

アメリカの禁酒運動に大きな影響を及ぼすことになる活動の基礎を築いたのはアイルランドの司祭。1838年、飲酒癖と破滅から救うことは神の栄光に浴する崇高な行動と説く。敵対し合うカトリックとプロテスタントに共通する問題として禁酒を提示し仲を取り持った

1851年、メイン州で初のアルコールを禁じる「メイン酒法」成立

禁酒を主張する女性たちは、酒だけでなく奴隷制と参政権の改革も求めた

1848年、ニューヨーク市議会が「既婚女性財産法」を可決。結婚後も女性が単独で個人資産を保有することを認め、禁酒法への強い後押しとなる

1917年、レバー法成立。食糧・燃料統制法として知られ、食料品のアルコール生産への流用を完全に禁止。蒸留酒とビールを区別し、蒸留酒は禁じるが醸造酒は生産を歓迎

1918年までに禁酒法は27州で導入。同年連邦議会も「戦時禁酒法」可決、翌年からは憲法修正第18条で禁酒を定め、アルコール飲料の合法的な販売と生産を追放したが、禁酒法下でも水面下で「飲酒運動」は行われ、同じ性別の人達がより大きな役割を担うようになり、ウィスキー・ウーマンとしてこの国を酒浸りにしていた

 

8.   禁酒法時代に活躍した女性の密造酒家と密輸人たち

禁酒法下にあって、多くは自国で法を犯して密造酒を造りながら昔ながらの伝統を守る

税金を納める正規の蒸留酒製造業者との競争がなくなることで、より多くの利益を得ることができた。夫のいない母親が密造に手を出すのは多くの違法なウィスキー蒸留家に共通

ジョセフ・ケネディもヘイグ&ヘイグ・ウィスキーの販売で相当の儲けを得ていたはず

 

9.   禁酒法を廃止に追い込み、ウィスキーを守った女性たち

禁酒法施行から5年後、相次いで同法の廃止を唱える組織が結成される

ポーリン・モートン・セービンは、ルーズヴェルト政権の海軍長官ポール・モートンの娘で、モートン製塩会社の創設者の姪、J.P.モーガンの社長ハミルトン・セービンの妻、女性参政権を求めて政界入りし、1921年には全国女性共和党クラブを創設、女性で初めて共和党の全国委員会に加わる。当初禁酒法支持だったが、禁酒の徹底が却って憲法の弱体化と悪をもたらしているとする女性の意見が多くなるにつれ意見を変える

アルコールを合法とし、各州の自治権に委ねる

禁酒法を廃止に追い込んだのも女性の力の成果で、禁酒法の施行に年間40百万ドルもかかる一方、1億ドルもの税収を逸していることを訴えたことも後押し

 

10.      禁酒法廃止後の法を巡る闘い

禁酒法廃止後の混乱は予期しないものだった

州によっては禁酒派が優勢な地域もあり、テキサス州は完全禁止の軍が1/2以上残る

日曜の酒の販売を禁止したり、酒瓶に許可済の印をつけたり、女性のバーテンダーを禁止したり、(1ガロンの)1/5(750ml)に満たない小瓶の容器を禁止したり、カクテルを禁止したりと様々。州ごとに規制が異なり、多くが免許制を導入したため、海外の酒類販売業者にとって最も取引が煩雑な国となる

禁酒運動は活気を取り戻し、新たな圧力団体を組織。アルコール中毒への関心が再燃し、アルコール広告規制法案が連邦議会に提出され、州境を超えた出稿やアルコールの広告そのものを禁止しようとしたが1票差で却下

売春婦がウィスキーを密売していたこともあり、禁酒法廃止後も女性によるアルコールの提供が禁じられ、第2次大戦の間バーテンダーの職を女性に託したが、戦後男たちが復員すると女性に身を引かせた

48年、最高裁がバーの経営者の身内の女性に限り酒場で働くことを認めたミシガン州法を是認、53年にはカリフォルニア州でバーテンダー行為をした女性が州法違反で逮捕され、各業界で権利の平等を求めるロビー活動が展開されていた時代ではあったが、女性の憲法違反の訴えを判事は認めなかった

 

11.      禁酒法廃止後の女性密売人

禁酒法廃止後も女性たちの脱税は続く

合法的に作られた製品を、酒が禁じられている地域で販売することが密売とされた

女性の密売人の多くの逮捕理由は未成年への販売

 

12.      ウィスキーの進歩的な側面

ボトルド・イン・ボンド法は、BIBラベルが貼られたウィスキーが、蒸留されて税務署が認める倉庫で最低4年寝かせ、100プルーフ(アルコール度数50)にした蒸留所内のウィスキーだけを瓶詰にしてあることを保証するもので、1897年連邦議会が可決して以来、ウィスキー会社は樽売りから瓶売りへと販売形態を改める

このことが手先の器用な女性たちを瓶詰の担い手として集めるが、一般の企業が女性の雇用を考え始める半世紀も前にウィスキー会社は女性に活躍の場を与えていた

2次大戦中、アルコールの生産業者の重要性は両陣営で高まる。ドイツはフランスのワイン業者に生産の継続を指示し5大産地から相当の歳入を得た。スコットランドでは全土でウィスキーの製造業者が食糧確保のために操業停止を強いられた。アイラ島のラフロイグ蒸留所は重要な兵器庫となった。193945年連合国はアイルランドのブッシュミルズ蒸留所を宿泊施設として利用。アメリカの蒸留所は合成ゴム、パラシュート、ジープ、不凍液、レーヨン、手榴弾、弾頭、飛行機の燃料などを得るための工業アルコールを生産

徴兵兵士に代わり女性が蒸留所のあらゆる作業を担う

女性労働者の数は141%も増加、19百万にも上ったが、復員が始まると家庭に戻ることを強いられた中で、ウィスキー業界は例外的に女性に対する評価を高めた

さまざまな抵抗や迷信を潜り抜け、女性は瓶詰以外の業務にも徐々に進出

50年以上も前に新たなバーボンの創出を目指したメーカーズマークのボトルのデザインは、経営者の妻で、化学の学位を持って同社の事実上の研究開発責任者に着任。フランスのコニャックのボトルをイメージした芸術性の高い外観で、コニャックと同様コルクを封じるために蝋を使用。1959年発売されると、似た様な瓶の形とラベルの中でひと際異彩を放つ。彼女は1805年の製粉所兼蒸留所だった古い物件を再興し、国立公園局を通して合衆国国定歴史建造物として最初の蒸留所の史跡となった。2012年には裁判所が赤い垂れた蝋の封印をトレードマークとして認定。現在も一族のヴィクトリアが事業部長を務め、スコットランドで最も愛される女性に与えられるウィスキー・ウーマンの称号を持つ

 

13.      ラフロイグの才女

1934年の休暇のアルバイトのつもりでラフロイグのタイピストに応募してアイラ島にやってきたエリザベス・ウィリアムソンは、勤務態度を気に入られ正社員として入社

シングルモルトのほか、大手にブレンディング用の優れた品質のウィスキーを供給

38年オーナーが発作で倒れた後の香りを極め、経営を仕切る。社員が召集された時も会社にとって重要人物だとして免除を勝ち取り、軍による施設の接収に際しても必要最小限にとどめた。弾薬の集積地になり、社員が弾薬の上げ下ろしなどに動員されたが、ドイツ軍の標的になることはなく、ウィスキーの在庫も守り切った

1954年、オーナーの死去により会社の将来はウィリアムソンに託され、まずはアイラのウィスキーを最も人気のあるブレンディング用ウィスキーにしたあと、ラフロイグの力強くスモーキーな香りを特徴とするシングルモルトを売り出す

スコットランドのウィスキー協会は196164年、ウィリアムソンをアメリカでの宣伝担当者に任命。彼女は全土を回ってスコッチ・ウィスキーを売り歩き大評判をとると同時に、スコッチと言えばモルトとグレインのブレンド・ウィスキーだったものから、香りがより強いストレートモルト・ウィスキーをより高級品として売り込むことに成功

全米旅行の間にカナダで最も愛された美形バリトン歌手ウィッシャート・キャンベルと出会って結婚

1963年、女王から「聖ヨハネ騎士団の騎士」に叙任

設備拡張のために大半の株を手放し、ロング・ジョン・ディスティラーの傘下に入る。そのおかげでライバルを一気に追い抜いたが、経営への支配力は弱体化、72年引退

今日、ラフロイグのボトルにはすべてウィリアムソンへの賛辞が記されている

 

14.      現代の女性たち

1980年代には女性進出が顕著となった反面、ウィスキー産業では7080年代は失われた20年。女性たちは依然として瓶詰めの作業場で働き、一部女性の活躍もあったが、成長軌道にあった蒸留業者は従来の路線を守っていた

90年代こそ、ウィスキー・ウーマンにとってルネサンス時代となるはず

大卒の女性が化学とマーケティングの分野に仕事を求めて蒸留会社にやってきて、風味から包装まで、ウィスキー産業の全てを変えていった

レイチェル・バリーは、1995年スコットランドで近代以降初となる女性マスター・ブレンダーの称号を与えられる。地元で生まれ、7歳で耳痛のためにウィスキーを飲み、91年愛好家の1人としてスコッチ・モルト・ウィスキー協会に入会、エディンバラ大で化学を学ぶうちにウィスキー造りに魅了され、卒業後はスコッチ・ウィスキー研究所に就職

キャスク内の熟成の過程を分析し、100以上のアロマをウィスキーの中から見つけ出す

1995年、グレンモーレンジ蒸留所が彼女をブレンダーとして採用、ウィスキー製造に科学的手法を導入し、ウィスキー産業に変化をもたらす。チョコレート・モルトと通常のモルトの割合を変えて実験を行い、キャスクも様々な材質を試す。30年ものウィスキーと若いウィスキーを、ラム酒の樽、バーボンの樽、シェリーの樽を用い、モルティングの方法を変えた結果、新しいコンセプトのウィスキーを造る

グレンモーレンジ・シグネットの蒸留者によるテイスティングの覚書には、

香り:プラムプディングと豊かなシェリーの香り、オレンジピールの砂糖漬けが溶け合った強いアルバエスプレッソ

味わい:豊かな甘さと、焼けるようなスパイスと爆発的に弾ける苦味のモカとのコントラスト

後味:明るい柑橘系のレモングリ-ンのようなミントの新鮮な春風

1997年、グレンモーレンジはアードベッグの蒸留所を購入、その在庫を取り入れ、より強い香りを持ち込む。「アードベック・スーパーノヴァ」は2010年ジム・マレーによる『ウィスキー・バイブル』で100点中97点の評価をうける

2012年、モリソン・ボウモアのマスターブレンダーに転職したバリーは、さらにアロマの幅を広げ、12年、15年、18年、25年もののボウモア・アイラ・シングルモルト・スコッチ・ウィスキーを市場にもたらす――「ブラックボウモア1964年」は5000ポンド

ブッシュミルズのヘレン・マルホランドはもう1人のブレンダー。90年代、まだ学生だった頃から同社の研究所で働き、05年アイルランドで初のマスター・ブレンダーに任命。同社の400周年に向け、倉庫に眠っていた結晶化させたモルトの在庫を、特別版ウィスキーに用いる。様々な樽のウィスキーとブレンディングを試みながら、完璧な組み合わせの「ブッシュミルズ1608」を造り出し、08年のワールド・ウィスキー・アワードで「最優秀アイリッシュ・ブレンド・ウィスキー」を獲得。新しいパッケージングも宣伝。シングルモルトも素晴らしい味わいで、スコッチとは違ってスモーキーの風味は一切なく、モルトの風味を正面から味わえる

2000年代は、女性がマスター・ブレンダーやその見習いとして働くようになった萌芽期

デュワーズのマスター・ブレンダーも066代目で初めて女性に交代

ウィスキー業界の家系に生まれた女性は、家族が背負うウィスキーの歴史を引き継ごうとする強い傾向を持つ

ヴァン・ウィンクル一家創業のオールド・フィッツジェラルド蒸留所(別名スティッツェル・ウェラー蒸留所)1972年売却されたが、一家の歴史を1999年一族の孫娘が本にした頃、彼女の兄弟はパピー・ヴァン・ウィンクルの名を蘇らせる素晴らしいバーボンを世に送り出し復活を遂げる

ジャック・ダニエルの創業者の曽孫もウィスキー造りを続ける女性で、80年からこの道に入りマスターテイスターもこなす

伝説的ブランドのうぃれっとも1930年代以来常に女性を雇用

女性は、世界市場においても、著名なウィスキーブランドを牽引

世界で最も大きなスピリット会社ディアジオ(ジョニーウォーカー、スミノフ・ウォッカ、ギネスビール、クラウン・ロイヤル・カナディアン・ウィスキーなど)の財務記録の監督責任者は女性。元々シーグラムの上級財務担当

ブラウンフォーマン(ジャックダニエル)の生産工程責任者も女性。ケンタッキーでは暑い夏の蔵の中で熟成される際35%が蒸発によって失われ「天使の分け前」と呼ばれるが、「企業秘密」の樽の製法によってこのウィスキーの消失を減らしたのも彼女の功績

ウィリアムグラント(グレンフィデック)CEOも女性。アイリッシュ・ウィスキー買収を決断

 

15.      ウィスキーにまつわるさまざまな努力

レストランはウィスキーをワインと同様に、それぞれの料理に合わせて扱っている

このような料理界の流行に10年も先だった、ケンタッキーのシェフはバーベキューのソースにバーボンを加えていた

1980年代、一般にウィスキーと共に出てくる食事といえば、ジャック・アンド・コーク(ジャックダニエルのコーク割り)にハンバーガーとフレンチフライだった。スピリット会社は主にプロによるテイスティングに狙いを定めており、大衆消費者のことは気にかけていなかった。96年まではテレビコマーシャルすら打たなかった

1998年ある業界誌に読者参加型のウィスキーの試飲会ウィスキー・フェストの企画が登場。会場のニューヨークのマリオットホテルで行われた第1回は、味覚力やテイスティング力の研鑽を目的とした愛好者の間で人気を博し、毎年規模を拡大して一定規模以上の小売業者は蒸留業者がこぞって参加

1回のフェストの後サンフランシスコでも同様のショーが開催され、それが引き金になって今日のベイエリアでのウィスキーの熱狂に繋がるが、ショーを考えたのも女性で、何よりの功績は女性にウィスキーを飲ませることに成功したこと

バーボンをカクテルにしたのも女性の功績。女性のウィスキー愛飲家の力になることを期してバーボン・ウィメンという消費者団体も創設された

女性限定のスコッチ・ウィスキー・クラブは世界中で立ち上げられている

女性とウィスキーを結びつけたのは、ソーシャルメディアの多くの投稿で、その中にはワイルドターキーの親会社カンパリの「ウィメン&ウィスキー」のフェイスブック・ページがあり、女性をターゲットにしたマーケティングが功を奏した

1950年代に生じたアルコールの宣伝に反対する運動を招かないように、ウィスキー会社や蒸留酒業界は、広告には女性を起用しない、テレビ広告は放映しない、女性が酒を手にしている姿を広告やイラストに記載しない、などの自主規制を強いていたが、87年以降順次撤廃、10年後にはテレビコマーシャルも解禁

蒸留酒会社は、自主規制撤廃と共に、既存の商品ではなく、新しい味とブランドを作り出そうとした

 

16.      女性のための、女性による

フレーバー・ウィスキーというアイディアは、愛飲家には馴染みが薄いが、女性にまず始めてもらうために行ったのがウィスキーの風味付け

70年代後半のワイルドターキーが出したアメリカン・ハニーが嚆矢

2010年代から急増。大半のフレーバーがハニー

排卵はエストロゲンの分泌を促し、嗅覚の感度を鋭敏にするという説があり、匂いは男性と比較して、女性の脳においてより大きな部分を活性化させるとの研究発表がある

テイスティング班が全員女性というブッシュミルズに限らず、蒸留会社は女性の鼻を男性より信用

ホテル・ウィン・ラスベガスやウィン・アンコールの女性ミクソロジストは世界で最も重要なスピリット・バイヤーの1人であり、ジャックダニエルをカクテルベースとして復活させた功労者

女性は蒸留酒産業のあらゆる職種でその地位を固めたばかりか、自ら事業を手掛ける者も出始めた。

2011年バーボン・ウィメン設立以降、女性たちはアメリカ版ムーンシャイン、アイルランドのポティン、ブレンド・スコッチ・ウィスキー、そしてフレンチ・ウィスキーを造り始めた

ムーンシャインは、禁酒法時代にアメリカで作られていた高純度蒸留酒の総称。夜月光のさす中、こっそりとお酒を作っていたことから「Moonshine」の名がついたと言われる。トウモロコシが主原材料。ウイスキーと違い、熟成させないので無色透明。熟成させたもの(樽に一定期間寝かせたもの)はウイスキーと呼ばれ、さらに原材料のトウモロコシが51%~で且つ特殊な樽に熟成させたものはバーボンと呼ぶ

2000年以降、アメリカでは320以上のクラフト・ディスティラーズが開業、地産地消の動きが盛んになり始めると、アイルランド生まれの女性は生まれ故郷の手作りのスピリットをアメリカに持ち込むチャンスと見てポティンの輸入を開始

フランスでも、コニャック、アルマニャック、カルバドスといったブランデーの蒸留技術をウィスキー造りに活かすことを考えた女性が、コニャック地方で大麦を育ててコニャックと同様の蒸留を行ったあとコニャックの樽に入れると、ドライアプリコットのはっきりした香りを含む果実の強いアロマを身につけたウィスキーに仕上がり、2012年から市場に出すとたちまち人気を博して品薄に

女性の活躍は目覚ましいが、現在でもケンタッキー州には女性のマスター・ブレンダーはいないし、スコットランドでも数名の女性のマスター・ブレンダーはいるが、ブレンダーの仕事の大半は男性によって占められている

また、元tもよく売れているウィスキーブランドの大半は、男性の名前にちなんだもの――テネシー・ウィスキーではジャックダニエル、バーボンではジムビーム、ブレンディッド・スコッチ・ウィスキーではジョニーウォーカーが各部門トップ

男女平等の権利が与えられている社会にあって、女性は男性と同様、ありとあらゆる面でウィスキーに対して重要な役割を果たしてきた。我々はもはや、このスピリット業界の歴史において、女性の存在を無視することはできない

 

 

明石書店HP

紀元前のシュメール時代から、女性たちはビールを発明し、エジプト文明では蒸留器を考案、中世では薬草を扱い「命の水」を蒸留した。アメリカでは独立戦争で傷ついた兵士を女性たちが蒸留したウイスキーで癒した。南北戦争中、戦地に駆られた男性に代わって、バーボンの味を守ったのは女性たちだった。
男性中心の酒の歴史を相対化するだけにとどまらず、酒の歴史に登場する女性たちの実像に迫り、ヴァイタリティ溢れる不屈のその姿を浮き彫りにする。

 

 

じんぶん堂(出版社と朝日新聞社が共同して人文書の魅力を伝えていく読書推進プロジェクト)  2021.8.25.

酒の歴史に女性あり――酒瓶に秘められたウイスキーと女性たちの知られざる物語

フレッド・ミニック著『ウイスキー・ウーマン-バーボン、スコッチ、アイリッシュ・ウイスキーと女性たちの知られざる歴史』(明石書店)

フレッド・ミニック著『ウイスキー・ウーマン-バーボン、スコッチ、アイリッシュ・ウイスキーと女性たちの知られざる歴史』は、古代シュメールから現代まで、お酒の歴史を作り上げてきた女性たちの物語を紹介する文化史本です。男の飲み物と思われがちな酒の歴史には、女性たちの知られざる活躍が詰まっています。ヴァイタリティあふれる女性たちの魅惑的なエピソードを訳者の一人、浜本隆三氏が紹介します。

ラフロイグの才女、ベシー・ウイリアムソン

 スコッチ・ウイスキーの6大産地のひとつ、アイラ島のラフロイグ蒸留所は、ピートと呼ばれる泥炭で香りづけした強烈な風味のウイスキーで知られる。「潮風の香り」あるいは「薬品臭」とも表現されるその個性的な風味は、好みがはっきりと分かれる。

 ラフロイグはウイスキー好きで知らない人はいないブランドである。だが、いまでは当たり前の、ブレンドされていないシングルモルトのウイスキーを楽しむという文化を世界に広めた立役者が、この蒸留所の女主人、ベシー・ウイリアムソンであったと知る人は多くない。

 ウイリアムソンが活躍したのは第二次世界大戦の前後。大学の夏季休暇中にアイラ島を訪れていた彼女は、偶然、ラフロイグ蒸留所が地元紙に掲載した速記者募集の広告を見て応募し、採用される。経営者に気に入られた彼女は、やがて蒸留所の経営を任されるまでになる。

 時代は第二次大戦の真っ最中。ウイリアムソンは蒸留所の経営に腐心するだけでなく、軍から酒と施設を守らねばならなかった。彼女は政府からの施設接収の要求をあしらいながら、軍への協力は惜しまず、巧みに蒸留所を守りぬいた。熟練の蒸留技師に召集がかかったときには、課税価格300万ポンドの貯蔵品の保管を一手に担う自社に欠かざる人材だと訴え、兵役免除を勝ち取って、蒸留所とその風味を守りぬいた。

 大戦後、ウイリアムソンはアイラ・ウイスキーのブランド確立に奔走する。ラフロイグは当時、ハイランド・クイーンやデュワーズ、ジョニーウォーカーといった有名ブランドに向けてブレンディング用の原液を出荷する、いわば下請けの蒸留所であった。だが彼女は、それら有名ブランドの人気に、自社のピートの香りが果たす重要な役割を理解していたようである。

 ウイリアムソンは、巧みに市場戦略に打ってでた。スコットランドのマスコミに向けアイラ島のウイスキーは人気で、「その需要には応えきれないほど」だと発信し、手に入りにくいブランドというイメージを確立した。そしてスコッチ・ウイスキー協会の宣伝大使としてアメリカ全土を旅し、スコッチのシングルモルトを売り込んだ。

 いまでこそ、ウイスキー愛好者のあいだでは、スコッチはシングルモルトが格上、ブレンドは棚の下へと追いやられているが、このシングルモルトの人気は、偶然、旅先で休暇の小遣い稼ぎを始めた、一人の女性の情熱に負っていたのである。

禁酒法時代に活躍した女性たち

 禁酒法時代のアメリカには、個性的な女性たちが出そろう。まず特筆すべきは、禁酒を訴えて手斧を携え、単身、酒場に殴り込みをかけたキャリー・ネイションである。信心深い彼女は、「飲酒を止めさせるためには手段を選ばなかった」ことで知られる。酒場の窓に石を投げつけ、扉を手斧で叩き壊し、店内では片っ端から酒瓶を空けて回った。警察が駆け付けたとき、ネイションの服からはビールが滴り落ちていたという。

 禁酒運動は一般に、女性たちが酒場の扉の外に立って並び、賛美歌を唱えて暗に抗議する、といった平和的なものであった。しかしネイションは、過激な実力行使に打って出た。彼女は何度、警察の世話になっても酒場の襲撃をやめなかった。評判は広まり、彼女が講演会を開くと、シンボルの手斧が手土産として飛ぶように売れた。

 ネイションの死後、禁酒運動の輪はさらに広まった。やがて第一次大戦下、敵国ドイツと国内酒造業者とが結びつけられると、州単位で導入されていた禁酒法は全国へ拡大し、連邦政府は191811月、「戦時禁酒法」を可決して、翌1910月には恒常的な禁酒法「ヴォルステッド法案」が成立する。

 酒が違法になると、ケンタッキー州のウォーターフィル&フリージア蒸留会社の女主人メアリー・ダウリングは、アメリカでの事業を早々に畳み、国境を越えたメキシコの町シウダーファレスで合法的に稼業を再開した。ヨーロッパから質の高いスコッチ・ウイスキーを密輸したのは、密輸船のオーナーで「バハマの女王」ことガートルード・リスゴーであった。美貌で知られた彼女のもとには、数百通のラブレターとともに、金を貸してもらおうとしたり、息子を紹介しようとしたり、誕生日パーティーに招待したりする手紙が世界中から舞い込んだ。

 アメリカ国内では、女性の密輸人が全国に酒を送り届けた。紳士然と振る舞う男性の査察人は、女性密輸人の取り調べに躊躇したのである。ある新聞は、同乗者として「抜群の美女を連れていた場合、10ガロンでも運びきることができた」と書いている。末端での密売を担ったのも女性たちだった。器量の良い女性たちが少量のウイスキーを小瓶にいれて、スカートのなかやブラウスに忍ばせた。女性は男の密売人よりも5倍は売り上げたという。

 こうした女性たちの活躍で、禁酒法時代も酒飲みたちは飲んだくれていた。水面下の「飲酒運動」が度を越しはじめると、禁酒法の効果に疑念が生じ始める。禁酒法を廃案に追い込んだ一人、JP・モルガンの社長夫人ポーリン・モートン・セービンらは、禁酒を続けるか飲酒を認めるか、その判断を国ではなく州や地方に委ねる、という対案を掲げ、1933年、禁酒法は廃止されるにいたる。

酒の歴史と女性たちのヴァイタリティ

 さて、コロナ・ウイルスの蔓延で、外出自粛が奨励されて、人びとは酒場から自宅へと河岸を変えた。「家飲み」や「宅飲み」という言葉が流行し、自宅でゆっくりと酒と向き合う時間を楽しんでいる人も少なくないだろう。だが、口元で傾けるその一杯の酒に、このような歴史があったと知る人はきっと少ないはずである。

 『ウイスキー・ウーマン』の著者で、ジャーナリストでウイスキー評論家のフレッド・ミニック氏は、古代から現代にいたる酒と女性たちの物語を詳らかにする。その一方で同書は、女性たちが貧しさに迫られて酒を密造し、子供や家族を養うために酒を密売していた事情も見逃さない。

 ただ、当の女性たちに貧しさを恨む素振りはない。あるボストンの女性は、密造を疑う査察官から、家庭で消費するには規模が大きすぎる25ガロンの蒸留器の使途を問いただされたとき、「うちの亭主はザルなのよ」と言ってのけた。本書に登場する女性たちには、みな時代や社会に飲み込まれずに生きるヴァイタリティがみなぎっている。

 ウイスキー・ウーマンたちのヴァイタリティは、現代のウイスキー業界にも生きている。グレンモーレンジ、ブッシュミルズ、デュワーズといった名だたる蒸留所では女性たちがマスター・ブレンダーとして活躍し、CEOになり経営の才能を発揮したり、「ウイスキー・フェスト」の開催に尽力したり、カクテルの専門家ミクソロジストとして新しい味を追求したりする人もいる。

 酒の歴史に登場する女性たちは、それぞれ独自の考えに立って時流を見据え、信念を貫いて生きた人たちであった。禁酒法を支持する者、それに反対する者、あるいは禁酒法で儲ける者、選ぶ道はさまざまであるが、その誰もが自らを信じ、力強く生きたがゆえに魅力をもつ。

 ウイスキーの琥珀色には、無数の物語が溶け込んでいる。『ウイスキー・ウーマン』を通して気になる銘柄に出会ったら、その酒とともに、改めてこの本の物語を味わい直してみるとよい。熟成した樽酒がもたらす豊かな余韻のなかに、ウイスキー・ウーマンたちの活躍する姿が映し出されることだろう。

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