戦中戦後の軽井沢疎開生活と千ヶ滝分校の記憶  倉石文彰  2021.9.22.

 

2021.9.22. 戦中戦後の軽井沢疎開生活と千ヶ滝分校の記憶

                    軽井沢小学校千ヶ滝分校同窓生文集

 

編集 倉石文彰 1939年東京生まれ。61年同志社大卒。66JETRO入会、サンフランシスコ、ニューヨーク、岡山、デンバーに勤務。0307年米国GTI日本事務所長。08年以降軽井沢と市川を往復しながら生活

 

発行日           2021.8.1. 発行

発行所           軽井沢新聞社

 

軽井沢小学校千ヶ滝分校同窓生が75年前の記憶を頼りに綴った後世に伝えたい物語

終戦と食糧難、物不足、厳寒の中での苦しい疎開生活の記録

「どの家庭でも一様に貧しく同じ境遇で子供たちは仲良く助け合い陰湿ないじめは皆無だった」

家を焼かれ父を失っても明るく生きた子供たち/ベルリンの父から最初で最後の電話、家族で助け合った疎開生活/軽井沢に残って農家暮し――父の奮闘と母の闘病/最初のカラー映画《カルメン故郷に帰る》撮影のエピソード/北原白秋の見た落葉松林はどこか、軽井沢が一番美しかった時代/忘れられない草軽電鉄最後の旅、ほか

《カルメン故郷に帰る》の中で走っていた子供たちが80代の高齢者になってこんな夢物語のような文集を作られていることに感銘を受けた(40代、ワープロ文集の読者)

 

はじめに

2020年夏、軽井沢文化協会発行の創立50周年記念『軽井沢120年』改訂版を発行するので昔の軽井沢についての寄稿募集があり、私の小学校時代を描いた『戦中戦後の軽井沢疎開生活と千ヶ滝分校の思い出』と題する原稿を投稿した際、それを読んだ同級生から文集を作ろうという話が持ち上がる

寄稿してくれたのは昭和13,14年生まれ。75年前に東京で家を焼かれ、空襲を逃れるため昭和19,20年に着の身着のままで軽井沢に疎開。学齢期の疎開児童は、沖野岩三郎師(小説家、牧師、教育者)が堤康次郎と第二次大戦前の昭和14年頃に建てた千ヶ滝学園の校舎で開校した軽井沢第1国民学校(現東小学校)千ヶ滝分校に通学

昭和31年の閉校以来忘れ去られようとしている母校の歴史を残そうとして企画

 

l  戦中戦後の軽井沢疎開生活と千ヶ滝分校の記憶     倉石文彰

軽井沢の祖父の別荘を訪ねたのは1939

457月疎開、分校入学、51年卒

沖野氏が別荘の子弟の夏季教室として戦前に建てた千ヶ滝学園の木造校舎が軽井沢国民学校の分校として認められ、正規の公立学校となった

戦後は食糧難と、冬は零下20度を下回る寒さに震えあがった。衛生状態も悪い

三鷹の陸軍航空技術研究所にいた父は公職追放、母は結核の闘病中で、戦後も引き続き軽井沢で生活を続ける                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

1950年日本初のカラー映画《カルメン故郷に帰る』の撮影が分校で行われ、町中総出で協力。監督木下恵介。助監督松山善三、小林正樹。高峰秀子、笠智衆、佐野周二、佐田啓二出演。木下忠治作詞作曲の主題歌《ああわが故郷(そばの花咲く)》は分校の愛唱歌に

松竹の田中絹代主演の《不死鳥》(47)、岸恵子の《三つの愛》(54)の撮影も分校で行われた

 

l  家を焼かれ父を失っても              川城(旧姓岩崎)智恵子

本籍は千代田区三番町。鹿島屋という屋号の酒店だったが、父はニューギニアで戦死、455月の大空襲ですべてを失い、千ヶ滝東区に疎開。51年川崎に転居

 

l  千ヶ滝分校時代の思い出              饗場晴雄

38年軽井沢生まれ、51年分校卒業

両親は小諸出身、東区にあった神田の山本書店の別荘管理のため移り住む

 

l  家族が助け合った疎開生活           (旧姓芹澤)玲子

453月疎開、461月転出

叔母の父・小山松壽(当時衆議院議長)に連れられて星野温泉に疎開

父は芹澤光治良。別荘は星野23

 

l  マラソン人生60                    有賀吉正

44年疎開、51年分校卒業

父は浅間町(現・佐久市)出身、日大ではマラソン選手で箱根にも出場

両親が戦争で死去。高校入学前に上京、日大に入ってマラソンをし、三越では実業団トップクラスに

 

l  赤坂の家は強制疎開で取り壊され、軽井沢へ                  川島治

44年疎開、51年卒業

赤坂の400坪の家に住んでいたが、すぐ近くの広大な宮家の敷地に高射砲が設置された関係で強制疎開となり軽井沢へ

 

l  入ったり出たり、行ったり来たり            香山(旧姓龍江)玲子

39年の避暑からそのまま疎開、45年分校入学後、48年再入学

鬼押し出しに向かう国道から門を入る

新渡戸稲造がラスキンの言葉を引いて、「戦争の中に道徳は生まれ、平和の中に死ぬ」といったが、その言葉を実践したのがここでの生活

この地も今や観光地化し、その観光客の大集団はバッタの大群のように荒らして去っていく。星野入り口から分教場跡地に至る道の脇にはいくつもの駐車場が作られ、分教場のあったところには観光バスが並ぶ。浅間山はほとんど見えなくなり、木々も伸び過ぎ、こういう殺伐たる光景は、沓掛という駅名が中軽井沢と改名して強められたように思う

 

l  1,994年霧積温泉でのクラス会の報告                志方(旧姓久住)トヨ子

終戦前に疎開、51年卒業。数年前逝去

1994年のクラス会の記録。東京から12日で霧積温泉へ。8人参加

 

l  父は公職追放で苦しい疎開生活               島野(旧姓鈴木)雅子

44年の避暑から引き続き疎開、51年卒業

37年千ヶ滝西区に別荘を建てる

芝白金の自宅が455月の大空襲で焼失

戦後は三井物産で兵器関連の工場長だった父が追放に遭い、6年間の疎開生活は大変苦しかった

 

l  ベルリンから最初で最後の父からの電話              (旧姓吉岡)ノブ子

44年東京から疎開、51年卒業

ベルリンの日本大使館勤務の父からの指示で、中区の叔母の別荘に疎開

父は出張中に飛行機が撃墜され戦死

 

l  いろいろなことがあった疎開生活と千ヶ滝分校               樋口(旧姓中島)千恵子

44年東京から疎開、51年卒業

桔梗が丘に住む。473年生の時、田中絹代の《不死鳥》の撮影が分教場で行われ、先生役の田中絹代の弾くオルガンで輪になってお遊戯をした

 

l  留学経験、政治家の原点              与謝野馨

2013年読売新聞『時代の証言者』より転載

生後すぐ父の赴任で北京に行ったがすぐに帰国して、祖父鉄幹の死後1人暮らしの祖母晶子の家に同居千ヶ滝の親戚の家を借りて疎開

自らの戦争体験は「ひもじい」の一言

終戦後、新龍土町の家に戻り、港区立麻布小から私立麻布中へ。父の赴任していたエジプトに呼ばれカイロ郊外のイングリッシュ・スクールの寄宿舎に入れられた

カイロでのジェトロ開催の日本製品の展覧会で、友人から「みんなアメリカ人が教えて作っている」と言われ、日本は経済も文化も一流にしなければいけないと子供心に思ったのが政治家としての原点

寮内で喫煙を寮長から咎められたが、仲間のことは一切口にせず、鞭で叩かれたが、以後寮長が目を掛けてくれるようになる。仲間を売るような告げ口はいけないというのが3年余りの寄宿舎生活で学んだことの1

 

l  急激に増えた昭和204月の児童数                 川原(旧姓辻)佳子

44年疎開、453月転校

44年第一師範女子部附属(現竹早)入学後、空襲激化で疎開

分校は1部屋に6年生まで10人ほどが一緒に学ぶ

古都鎌倉は爆撃しないとの情報で、4月には鎌倉に転居するため、学校に挨拶に行ったら急に疎開児童が増えて、何十倍もの生徒が遊んでいたのを思い出す

 

l  苦しい疎開生活と妹たちの分校通学         藤井多恵子

45年東京から疎開、千ヶ滝西区から小諸高女に通う。45年に4年・1年の妹2人の代筆

34年東区のグリーンホテルの上の伯父の家を借りたのが最初、翌年西区に家を買う

3月の東京大空襲で焼け出されて軽井沢に疎開、医者だった父は手回しの蓄音機を背中に背負っていた。終戦の玉音放送の後、蓄音機で《会議は踊る》を大音量でならし、これでまた子供たちに音楽の勉強がさせられると言った

2人は分教場へ通い、私は終戦になってから小諸高女に汽車で通うが農作業ばかりで勉強はなかった。終戦の前の日(ママ)の作業の後の点呼で軍曹が泣き出して皆もらい泣き

六本辻の鳩山一郎の娘の松室みどりが一番の親友

終戦後の最初の冬を越せずに会津若松に再疎開、白いお米に涙した

妹たちはヴァイオリニストとチェリストで健在

 

l  学童疎開の静岡から軽井沢に再疎開                   松井(旧姓相馬)佐多子

453月疎開、同年11月転校

44年秋静岡の姉妹校に学童疎開、1年後(ママ)軽井沢の千ヶ滝西区に疎開し4月から分校に通う

終戦後東京に引き揚げたが、下落合の家が米軍に接収されたため、軽井沢の家を解体して東京に運んで建て直して住んだ

 

l  終戦後の千ヶ滝分校生活              三浦恭志郎

46年分校卒業

終戦後食事調査が行われ、「朝食は食べたか」「弁当の中身は」など、先生もやりたくない調査だったのでは

旧日本軍の放出物資の粉味噌を使い、皆で持ち寄った野菜で作った味噌汁を飲んだ

 

l  別荘にいた人たちが集まって作った小学校           増田(旧姓鈴木)麻子

44年避暑のまま疎開、50年卒業

一時期各学年4050人まで膨れ上がった

芝白金三光町の自宅が5月の空襲で焼けたので軽井沢に留まる

 

l  懐かしき千ヶ滝分校                   荒木久美子

43年千ヶ滝西区生まれ。56年卒業

クラスは15名ほど、疎開家庭は全体の2割程度

私達の卒業を最後に558月閉校。その年の2月父逝去

今の酒店は、終戦後に陸前高田生まれの父が叔父とともに堤の別荘開発関係の仕事のために移住したあと始めた味噌醤油店が原点で、64年から酒販売業者となる

 

l  北原白秋が見た落葉松林はどこか            星野裕一

45年星野生まれ、51年入学

「終戦子」と言われ、小学校入学時は僅か9名。568(ママ)閉校となり、東小学校の一部と千ヶ滝分校、南小学校を統合して中部小学校となり転校

1921年、内村鑑三の令息だった東大の名投手がコーチを務める早大チームが分教場のあったグラウンドで練習したが、それをスタンドで眺めていたのが北原白秋

白秋が足を踏み入れた落葉松を植栽した国有地は、グランドから北へ1丁ほど。今では樹齢100年を超す林になっていて、一部伐採された一角には、「一級採種林、面積11.1ha、人工林、植栽明治44年、海抜10501100m」の看板がある。白秋が見た頃は植栽後10年の高さ4,5mの若い落葉松だった

白秋が見た落葉松林はもう1カ所、星野温泉の材木小屋から見たもの

落葉松林は軽井沢にとって、景観として、資源として大切なものだが、25年ほどまでの大型台風で大きな被害を受けて以来、小中学生にドングリを拾ってもらい苗木に育てて国有林に植える「どんぐり運動の会」を結成し、豊かな森作りを提案

ブナ系の若木を植えて、小動物にも優しい森にしようと、「どんぐり返し」という植樹作業を毎年5月に続けている

 

l  沖野岩三郎の千ヶ滝学園から千ヶ滝分校へ           倉石文彰

沖野岩三郎の避暑客の子弟を対象として設立した千ヶ滝学園が疎開児童と地元の子弟を受け入れるようになったのは449月。翌年4月には国民学校の分校として正式認可

和歌山出身の沖野は、郷里の学校や教会で働いた後、牧師になるため明治学院神学部に入り。夏季伝導講習で和歌山県新宮教会に派遣され、大逆事件犠牲者の大石誠之助と運命的な親交を結ぶ。この教会は、大石の兄で、文化学院創立者の西村伊作の父が建てたもの

沖野は米加で医学を勉学し郷里で開業、進歩的生活の実践と啓蒙活動を行っていた大石に大きな影響を受けともに活動していたため、大逆事件では嫌疑を受け、事件後は大石ら犠牲者の遺族支援に奔走。大逆事件を題材にして長編小説『宿命』は新聞の懸賞に当選

以後全国的な講演・執筆活動を活発に行い西村伊作の活動に与謝野夫妻らと関わって、自由な教育、芸術教育の理念が方向づけられた

1920年、千ヶ滝に別荘「惜秋山荘」を建てたのが55年に亘る軽井沢との関わりの始まり

子供がいない沖野夫妻は、西村の子供達を家族同様に可愛がる

24年、箱根土地(国土計画)が千ヶ滝学院を開設、沖野を院長に迎え、別荘滞在の子弟の教育を行う。土地は、8万坪を所有していた堤が提供、沖野がソフト面で陣頭指揮し協力

星野に滞在した作家芹澤光治良も、『戦中戦後日記』の中で、「同学園は454月から分校として正規に認められ、県の指令に従わねばならなくなったと沖野先生が寂しそうに話された」と書いている

本校の転入者は44年に480人、45年には683人。去年の東部、中部、西部各小学校の生徒数は142人、463人、322人で、分校の疎開時の転入学の多さが際立つ

閉校から5カ月後の81(ママ)、沖野は80歳の生涯を閉じる

 

l  もう一つの分校、軽井沢第一国民学校小瀬分室               倉石文彰

小瀬・長日向地区に小瀬造林事業村という集落があり、第一国民学校の小瀬分室があった

1895年営林署が浅間大造林計画を実施する際、各地から優秀な造林業者を募集して定住させたもので、開戦までに浅間山麓5000町歩の赤松の森の造成に成功

21年開校、60年閉校。託児所のように機能

 

l  忘れられない草軽電鉄最後の旅               倉石文彰

新軽井沢から旧軽井沢、三笠から小瀬温泉、県境を超えて北軽井沢、上州三原から草津温泉へ。全行程55.5

 

l  おわりに

軽井沢町から、みんなの力でつくるまちづくり支援事業補助金支給

補助金の申請母体は、「戦中戦後の歴史を語りつぐ会」

 

 

 

 

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