近衛秀麿 日本のオーケストラをつくった男  大野芳  2021.11.23.

 

2021.11.23. 近衛秀麿 日本のオーケストラをつくった男

 

著者 大野芳(かおる) 1941年愛知県生まれ。雑誌記者を経て作家・ノンフィクションライター。82年『北針』で第1回潮ノンフィクション賞特別賞。日本近現代史をテーマとして活躍。著著に『宮中某重大事件』『戦艦大和転針ス』『ハンガリア舞曲をもう一度』など

 

発行日           2006.5.20. 第1刷発行

発行所           講談社

 

21-11 戦火のマエストロ 近衛秀麿』で言及

「近衛秀麿」については、同ファイル参照

 

序章 忘れられたマエストロ

1992年から10年間芸術監督兼常任指揮者だったアバドが04年ベルリン・フィルに戻ってきた。終演後15分経っても「ブドウ畑(ヴァインヤード)」いっぱいの2400余りの聴衆のアンコールの声と拍手はなりやまないが、客演はアンコールに応えないのがエチケット

80年前の24年、ベルリン・フィルを振ったのが近衛秀麿。東洋人初の快挙だったばかりでなく、日本のオーケストラ史を切り拓く原動力にもなった

今、ベルリン・フィルのコンマス3人のうちの1人がアバドの懇請にも拘わらず立たなかった安永徹、ヴァイオリン奏者に町田琴和、首席ヴィオラが清水直子、ウィーン国立歌劇場の小澤征爾もほぼ毎年3回、ベルリン・フィルの定期を振っている

コンセルトヘボウには第一首席ヴィオラでソリストの波木井賢が、アムステルダム放送管弦楽団では秀麿の孫の一(はじめ)がファゴットとして活躍、ザルツブルクを中心にアンサンブルを率いるチェリストの水谷川(みやがわ)優子は一のいとこ

1982年ペーター・ムック編纂の『ベルリン・フィル百年史』には、33年秋を皮切りに秀麿が6回の定期演奏会を振ったと記録されている。最後は4010

24年の演奏会は『百年史』には記載されていない

当日の広告原稿では、2人のソリスト、曲目は近衛のオリジナル曲、カリニコフの《交響曲第1番》、ラロの《チェロ協奏曲》

ソリストの1人は都合でフリーダ・ランゲンドルフ夫人に差し替えられたが、ワーグナー歌いで有名なアルト歌手で、秀麿が作曲した北原白秋の《ちんちん千鳥》、西条八十の《犬と雲》、民話から題材をとった三木露風の《ふなうた》、有島武郎の小説『大洪水の前』の挿入詩《マアナの歌》4曲を日本語で歌う。もう1人は、フェリックス・メンデルスゾーンの曾孫で同名の教授、当代一流のチェリスト

『百年史』に載らなかったのは、小ホールにおける自主公演だったため

帰国後、新交響楽団(後のN)を結成。9年後、ドイツ音楽協会から招待され、正式に定期演奏会を振る

さらに、欧米を訪れること12回に及び、90余の交響楽団で客演した記録は、当時最長老のワインガルトナーの生涯記録を数回抜く世界記録

戦争よりも音楽の交流に懸命だったことを窺わせる

音楽を通じて世界の融和を図ろうとした芸術至上主義者

44年には「近衛伯爵管弦楽団(オーケストラ・グラーフ・コノエ)」をパリで結成、職場のない新人やナチスの弾圧から逃れたユダヤ人演奏家をバスに乗せ、フランスとベルギーを行き来しながら演奏活動を続け、その間ユダヤ人家族を匿い、海外に逃亡さえたりもした

戦後帰国した秀麿は「東宝交響楽団」を託され、オーケストラの再建に乗り出すが、必ずしも本意を遂げられず不遇に終わる

彼が遭遇した「事件」のほとんどは、彼が追求する芸術性と、楽員が求める労働条件とのせめぎ合いが原因。彼を知らない人は、貴族の道楽とか偉大なる趣味人(ディレッタント)と貶して真価を見ようとしないが、ドイツにおいてもベートーヴェンの交響曲や歌劇《フィデリオ》、モーツァルトの《魔笛》などのエクスパートに数えられていたし、親友ストコフスキーの推薦でフィラデルフィアの指揮台に立ったのも、ベートーヴェンの第二交響曲を振れる指揮者としてだった。日本の戦後のオーケストラ史の重要な部分を、豊かなキャリアで支えたが、残念ながらその真価を十分に活かすことができたとは言えない

秀麿がいかに正しく西洋音楽を受け止め、鋭い感性と洞察力で見ていたかを示すものとして、当時現代作曲家の部類に入れられていたマーラーの才能を見抜き、帰国後すぐに交響曲第1番を紹介、1930年自らの指揮で新交響楽団を率いて第4番を録音。欧米のマーラーブームに先駆けて世界初の録音をした。生存中に演奏したのは自身を除いてR.シュトラウスだけ、死後も弟子のブルーノ・ワルターだけだったというから、秀麿の4番は世界で2番目の演奏

秀麿には「近衛版」と呼ばれる独自の楽譜がある。原曲を秀麿の解釈で修飾・改変したもので、彼の演奏会は全て「近衛版」による。特に心酔したベートーヴェンの曲は終生楽譜に手を入れ続ける。楽器の補強までやるところから、「近衛版」に否定的な指揮者も多い

秀麿と親交のあったカール・レーマンの甥で生命工学者のユルゲン・レーマン博士に言わせると、「(近衛版)は確かにドイツで聴くベートーヴェンではないが、近衛の明確な意思、哲学が表現され、それはそれで完璧な作品といえる。これを聴いて文句を言うドイツ人はいない」ということになり、音楽家によっては自らの解釈を前面に押し出す人もいる

その後、楽器の性能と編曲技術の向上によって、原曲の美しさを引き出すのが指揮者の教養であり、能力だとされる時代になり、秀麿はそうした時代の真っただ中にあったヨーロッパで活躍し、戦後の日本でもそのスタイルを貫いた。時代は原典主義になった

「指揮者の本当の仕事は、自らが解釈した音楽を聴かせることだ」とは、秀麿が亡くなる2年前に残した言葉

未整備で残された近衛家所蔵の資料と、カール・レーマン宛ての膨大な秀麿自筆の書簡の全文を翻訳して調査・検討した結果から秀麿の実像を浮き彫りにした

 

第1章        公爵の家

I.    やんちゃ坊主

1898年、近衛家の次男として麹町に誕生

近衛家の幕末の当主は左大臣忠煕(ただひろ)。王政復古で参朝停止を命ぜられ政界から引退。その子忠房も左大臣に任ぜられたが2カ月で辞官

睦仁幼帝が東下したが、近衛家は京都に留まる

70年、政府の要請で忠房が上京、麹町に住む

73年、嫡子不在のまま忠房他界。家督は9番目の弟篤麿を忠房の養嗣子(ようしし)として世襲。家系上秀麿は、伯父忠房が祖父となる

1879年篤麿は大学予備門に入学。新華族令制度施行により公爵になり、前田公爵の娘衍(さわ)子を娶り、翌年オーストリアに留学。90年帰国、貴族院議員

91年、長男文麿誕生、産後の肥立ちが悪く衍子逝去し、妹の貞(もと)子を後妻に迎える

篤麿は学習院院長を兼任、日清同盟を提唱、アジア人によるアジアの構築を主導、清国の留学生を学習院で引き受けたり、家には汎アジア主義の巨頭頭山満らが寝泊りしていた

こうした秀麿の家庭環境を無視するわけにはいかない

篤麿は学習院の改革を断行。当時学習院には「皇族・華族の子弟は軍人に」という不文律があったが、外交官こそ華族に相応しい業務だとして、養成学校設立の勅許を得、目白に大学科を開設したが、死後は廃止

 

II.  父篤麿の死

1904年、篤麿は体中の腫瘍で逝去。満12歳の文麿が家督を継ぎ、秀麿は学習院初等科へ

 

III.   飛行機とヴァイオリン

中等部では、犬養毅文相の次男健(たける)と一緒に悪戯をして乃木院長に叱られていた

1910年、日本で初めて飛行機が飛び、先輩の徳川航空大尉が学校で飛行熱を煽ったため、秀麿も学友と一緒に所沢通いに現を抜かしていたため、家族が将来を心配して止めさせ、代わりにヴァイオリンを与えた。末吉雄二と来日したベルリン・フィルのクローンについて習う

 

IV.    師に出会う

作曲家を夢想した秀麿は、末吉の計らいで楽器だけの受講生として東京音楽学校の分教場の「別科」に潜り込んでクローンの教えを受けていた

学習院では、硬派の生徒から袋叩きにあったが、文麿からの激励もあって音楽に集中

1916年、音楽学校で知り合った先輩から山田耕筰を紹介され、作曲家修行が始まる

山田は、音楽愛好家だった岩崎小弥太の支援でドイツに留学、帰国後小弥太が財界の支援を募って「東京フィルハーモニー会」を発足させ、その管弦楽部を山田に任せたが、岩崎の紹介で結婚した最初の妻を裏切り、さらに芸者遊びのツケまで三菱に回したため、支援を打ち切られていた

 

V.   兄と弟

秀麿は山田について基礎から学び直す必要を感じたが、山田は小山内と組んだ「新劇場」の企画が失敗に終わり、翌年末アメリカに旅立ってしまう

この頃既に秀麿の脳裏には、「我々が目指すべき新しい音楽とは、日本人の手による日本の伝統音楽とヨーロッパ音楽との融合である」との発想があり、後に《越天楽》を日本を代表する交響曲に編曲したり、ムソルグスキーのピアノ曲だった《展覧会の絵》がラヴェルによる編曲で演奏され、ロシア的でないと不評だったのを聞き、ロシアの楽理博士と共同で編曲し直したりした伏線になっている

 

第2章        青年指揮者

I.    志はベートーヴェン

1917年、浅草六区の「日本館」に和製オペラ開花、田谷力三や藤原義江を要して浅草オペラの一大ブームを現出。山田も作曲したがすぐに渡米。秀麿も出入り

1919年、秀麿が子爵となり一家を創立。東京帝大文学部美術科に合格するが、音楽に熱中し、作曲家を目指すと宣明

 

II.  東京帝大音楽部

美学の講義に失望した秀麿は、学習院を中心の「東京アマチュア・オーケストラル・ソサィエティ」に所属していたが、1920年東大の音楽部創設に参加

1919年、山田が一時帰国した際の歓迎演奏会で、秀麿が最初の指揮をしている

その頃から作曲に専念し始める

1920年結婚。相手は兄文麿夫人の妹泰子

1920年、山田を総監督として日本楽劇協会立ち上げ、秀麿も合唱指揮に指名。同年山田は日本作曲家協会も設立、秀麿や成田為三、小山内薫らが加わる

 

III.   《ちんちん千鳥》

北原白秋の詩《ちんちん千鳥》に成田為三が曲をつけた辺りから、成田と秀麿の路線の違いが顕著に。安直な童謡の道を進む成田に対し、秀麿は児童の世界を借りた大人のための芸術歌曲を目指す

山田は、自らのオーケストラの創設を目指して、交響楽団の運営方法を学びに再度渡欧

1922年、秀麿は東京帝大管弦楽団を率いて演奏旅行に。総勢35人。楽団80年史には掲載されていないので、勝手に名付けたものかもしれない

周囲が相次いで留学するなか、1922年初には神様と仰ぐニキシュが亡くなり、焦った秀麿は1923年初に留学を決める。4歳下で上智にいて帝大オーケストラを手伝っていたチェロの斎藤秀雄を同行、姉2人と東京音楽学校で親しかった秀麿は兄弟のように付き合った

 

IV.    ヨーロッパへ

秀麿はパリで演奏会を漁る。ドイツ系の諸都市も回るが、音楽の退廃振りに失望

ハンブルクで新任のムックを聞いてようやく満足

ベルリンに落ち着き、シュテルン音楽学校で指揮法をフェリックス・メンデルスゾーン教授に、作曲法を学長のフィーリッツ教授に学ぶ

小弥太と耕筰によるオーケストラ造りの失敗に学んだ秀麿は、本格的なオーケストラの運営を視野に入れ、西洋音楽の理想を追い求める

 

V.   ベルリン・フィルを振る

1923年、関東大震災の2か月後になって長男と家財の全てを失ったことを知り、帰国を急いだところにベルリン・フィル指揮の話が舞い込む

曲目選定の段になって、同時のロシアブームに乗ってカリニコフの第1交響楽の総譜が入手出来たらやるが、できなければチャイコフスキーの4番と言われ、ニキシュのようなチャイコフスキー名人に指揮されたフィルハーモニーでの初舞台が自分にとって不利と考えた秀麿は何とかして総譜を手に入れる

241月の演奏会は大成功裏に終わり帰国するが、長男の詩は相当ショックだったようで、その責を妻泰子に負わせ別居

 

第3章        オーケストラの黎明

I.    日露交驩大演奏会

1922年末、帝国ホテル社長の大倉喜七郎男爵が中心となって「東京シンフォニー・オーケストラ」が編成され、帝国ホテルで室内楽を演奏していたロシア人楽士数名を核に80名を集め、翌年第1回演奏会を開催

耕筰はその1カ月後、日本交響楽協会を着想、フリーの楽士が集まる「同好会」で、それを基盤に日露交驩交響管弦楽大演奏会を企画、日本の交響楽団史の中でも特筆すべき出来事

秀麿は、24年の帰朝とともに自らのオーケストラ「近衛シンフォニー・オーケストラ」を立ち上げ、帰朝記念音楽会を開催。翌年にはJOAKの本放送でも演奏

さらに耕筰から、日本交響楽協会(日響)の共同指揮を打診され、松竹が興行元を引き受け、日露交驩演奏会が全国行脚する。近衛シンフォニーも日響に参加して応援、文麿も本格的音楽ホールを持つ日本青年館を建てて支援

 

II.  山田耕筰との訣別

1926年、日響は耕筰の乱費と会計不正から分裂、秀麿が身を引く形で収めようとしたが、楽員の大半が近衛についたために日響は崩壊。耕筰はこの屈辱を生涯忘れない

 

III.   新交響楽団の船出

山田が解雇した会計責任者から訴えられたため、NHKは山田との専属契約を解除、山田の後任の番組企画委員になった堀内敬三から秀麿は新たな専属契約を提示され、日響のメンバーを率いて「新交響楽団」を設立(今日のN響の誕生)

秀麿と一緒にオーケストラのレベル向上に貢献したのがチェコのヴァイオリニストのヨーゼフ・ケーニヒ。マリインスキー劇場のコンサートマスターとして活躍後、25年日露交驩演奏会にロシア側メンバーとして参加、翌年NHKの招聘で来日、29年不祥事で強制退去させられるまで新響の常任指揮者。その後ハルピン交響楽団に移動。後任の独奏者兼指揮者はニコライ・シフェルブラット

 

IV.    《越天楽》誕生

1927年夏、新響のホルン奏者だった直麿は、日本の伝統音楽を演奏に取り入れるべく、雅楽を学ぶ。1年後には《越天楽》を五線譜に採譜し、宮城道雄と共同して《越天楽変奏曲》を作り、さらに数年後秀麿によって管弦楽曲となる

1928年、天皇即位大礼。総責任者「大礼使長官」は文麿。新帝に奉祝曲(カンタータ)を献じるアイディアをドイツ人から示唆された秀麿は《大礼交声曲》を作曲し、前年明治節の奉祝演奏会で自らの指揮で、《越天楽変奏曲》ともども演奏

1929年、近衛家からNHKに、オーケストラの資金負担の見直しの要請があり、新響の責任出演回数を決めた定額謝金制度とし、新響の全ての資産と権限を持つ近衛家との間に正式な契約が結ばれたが、オーケストラが誰のものかを巡る認識の違いは秀麿と楽団員の間に溝を作り、2年後コロナ事件となって暴発

 

第4章        開眼

I.    二人目の「妻」

秀麿の愛人坪井文子に秀健(1931)、忠俊(1935)が誕生

1930年、秀麿はヨーロッパの音楽家の招致のための事務所をベルリンに開設

同年、ソ連から国賓待遇での招聘がある

訪欧の直前、人を介して山田の25周年祝賀演奏会を機に和解の話が起こるが、秀麿の予定がすべて埋まっていたことに加えて、 耕筰が日本で「唯一」の作曲家でありながら小歌曲ばかりしか作曲してこなかったことへの不満を伝え、友情出演は流れる

 

II.  フルトヴェングラー

193010月、シベリア鉄道経由でヨーロッパへ向かう

車中で、佐藤春夫作詞の法政大学校歌《若きわれら》を作曲

ベルリンではフルトヴェングラーに面会、彼が演奏する《マイスタージンガー序曲》と《シューマン交響曲4番》の練習を聞き、全く違った解釈に度肝を抜かれる

フルトヴェングラーは、指揮者は「自分自身のオーケストレーション法」を持つべきだといい、作品の全体像をとらえて指揮者独自の「解釈」を持つべきだという

シューマンは、自作の曲をオーケストラに編曲するのが不得意だったため、指揮者によっていくつものオーケストレーションが試みられている

元々改編はワーグナーが言い出したもので、オケの編成で弦楽器が増え、管楽器は複雑な音階が出せるようになったので、もしこの新しい楽器があったら作曲者はこうしただろう、と補うようになった

普通指揮者は自ら使った楽譜は見せないが、近衛が頼むと、フルトヴェングラーでもクライバーやクレンペラーでも見せてくれ、それを書き写す

終生の師となるエーリッヒ・クライバーに初めて会ったのも11月末。国立歌劇場の音楽総監督で、新響に関心を持っていて演奏曲目などよく知っていた

翌年初にはミラノのスカラ座交響楽団を指揮してレコーディング。ベルリンでは近衛の曲の出版の声が掛かり、翌年のウィーン・フィル出演も決定

311月、モスクワ訪問。1927年ソ連名誉楽団の称号を与えられたペルシムファンス管弦楽団を指揮。100人余りの団員で常任指揮者を持たない

《展覧会の絵》のラヴェル版の初演がプログラムにあったが、近衛は改編を提案

広田弘毅大使も出席、《越天楽》が大うけ。急遽レニングラード管弦楽団の指揮も決まる

 

III.   苦い握手

帰国途中ハルピンで、自らの曲を持って渡欧する山田と同宿となり、苦い杯を共にする

持ち帰った楽譜により新曲を積極的に演奏しようとした結果、楽員への負担が過重となり騒動に発展

聴衆の耳は肥えているのに、実力は一流に遠く及ばないにも拘らず、実力のある楽員が集まって脱退の動きが出たため、近衛が先手を打って、私有物件を提供して身を引くから自分たちだけでやってみてはと提案するが、財政的に秀麿におんぶにだっこのため成り立たず。結局不満分子を中心に大量の解雇者を出して決着

帰国した山田を迎え、新響と日響が合同で演奏会を開催

 

IV.    直麿死す

1932年、小学校6年の諏訪根自子登場に沸き立つ

直麿が結核性肋膜炎で入院。1929年のNHK出演が最後。雅楽同志協会を設立させ、貞明皇太后の支えもあり、一般愛好者を募って雅楽普及に尽力

1932年、秀麿が貴族院議員に当選した直後、直麿死去。享年32。雅楽・舞楽の採譜は60余曲に上り、うち58曲を演奏している

ドイツ芸術家協会から、33年秋からのベルリン・フィル定期演奏会での指揮者に正式に招聘され渡欧。BBC放送交響楽団とのラジオ出演の話も決まる

ナチスの圧力でユダヤ人音楽家の海外亡命が始まり、ベルリン・フィルも大幅に減員

シュトラウスの《ドン・ファン》の演奏では、作曲者自身が舞台に上がってコンサートマスターと握手させてくれ、「正確だ、素敵素敵。私の考え通りだ」と繰り返した

シューベルトの室内楽の管弦楽化については賛否両論だったが、クライバーが激励、初対面のケンプが額に青筋を立てて擁護論を弁じる

秀麿は、クロイツァーから日本亡命の相談を持ち掛けられる

年末には、ベルリン放送局管弦楽団を指揮して、日本向けの国際放送をする

 

第5章        恋と栄光の日々

I.    クーデター

1934年、秀麿帰国

副指揮者の斎藤秀雄を中心に新響運営委員会が運営主体の明確化を期して改革を断行

新響は、近衛家が事実上のオーナーだが、形式上は楽員のオーケストラというダブル・スタンダードが行き違いの原因で、楽員の自主を認めろというのが不満分子の言い分

秀麿の片腕だった支配人の原善一郎が解任され、組合組織が成立。秀麿の定期での指揮も356月の《フィデリオ》が最後となる

秀麿も組合との訣別を宣言、NHKも組合としての出演を拒絶

 

II.  芸者喜春

3511月、文麿の次男道隆を秀麿の継嗣とし、秀健を認知して水谷川忠麿の継養子に(後離縁して秀麿の嫡子に戻り、弟の忠俊が代わる)

36年、文麿がシャリアピンを荻外荘に招き、英語が話せる新橋の芸者(中村)喜春を呼んだときから秀麿との密会が始まる

363月、NHKが組合員個々人と契約することで妥協、秀麿は身を引く。クロイツァーをNHKが嘱託雇用

ベルリン・オリンピックの直後、フィラデルフィア交響楽団音楽総監督ストコフスキーから秀麿に客演の要請があり、広田首相は秀麿を音楽使節として欧米への派遣を決定。併せてフランスの武者小路公共大使を通じてヨーロッパでの客演可能な交響楽団探しまで行う。秀麿年来の海外雄飛の夢は、国家事業にまで発展

 

III.   ストコフスキーの友情

当時のストコフスキーは、アメリカの音楽の代名詞

《越天楽》の楽譜が国際文化振興会から海外の主だった指揮者に贈呈され、ストコフスキーも一目置いていた。ハリウッドのパラマウント映画から現代版《蝶々夫人》の作曲を頼まれていたところ、秀麿の助言で構想がまとまる。一方、ストコフスキーは秀麿の依頼で全米各地の20を超える交響楽団の指揮者を紹介してくれる

その時、後任のオーマンディにも紹介され、新任の指揮者としてベートーヴェンをやるのに2番に自身がないと言ったら、ストコフスキーが近衛にどうかとお鉢が回ってきた

ニューヨークでは、ニューヨーク・フィルを辞めたばかりのトスカニーニにも面会。翌年NBCがトスカニーニのために創設準備中の交響楽団の副指揮者に秀麿が招かれる

その後ヨーロッパに回って、3611月のBBC交響楽団を皮切りに各地で客演

翌年初アメリカに戻り、フィラデルフィアで約束のベートーヴェンの2番を振るが、ベートーヴェンらしさがまだ現れていない2番を「墨絵」と解釈して楽団員に演奏を求めた

この時、秀麿からストコフスキーに、フルトヴェングラーの亡命の希望を持ち出したが、オーマンディの反対にあって立ち消えに

 

IV.    女優澤蘭子

19376月、NHKの仲介で秀麿と新響が妥協。ヴァイオリニストのピアストロの来日公演を控えてのごたごた回避のためで、新響の秀麿に対する負債をNHKが肩代わりすることで、新響の伴奏と秀麿の指揮が決まる

山田はベルリン・フィルを指揮して自作の数曲を演奏しているが、これも『百年史』には載っていない

この頃貴族院議員を辞職しているが、喜春とも別れ、文子から忠俊を取り上げて、嫁に行かせていることなど、無関係とは思えない

37年、渡米する船に同乗していたのが東宝の女優澤蘭子。ハリウッドで再起を期して《蝶々夫人》のオーディションに向かうところ。秀麿はその音楽を担当

ハリウッドボールでの「日本人の夕べ」は大成功だったが、日中戦争勃発でアメリカの世論が一変、《蝶々夫人》も秀麿の公演もすべて中止

38年、首相の文麿は国民政府との交渉の仲介をルーズヴェルトに求め、プリンストンに留学中の息子文隆に持たせ、秀麿が介添えで同行したが、色よい返事はなく、その後秀麿を日本に呼び戻し、再び「親善大使」として米欧に派遣。9月秀麿は、戦後帰国するまでの8年の旅に出る

 

第6章        戦火のタクト

I.    《新世界より》に祈りを込めて

3810月、先ずニューヨークに行って指揮の可能性を探ったが、機会なしと分かってドイツに向かう。定住するつもりで澤蘭子を伴い、伯爵夫人と紹介、ドイツ語と歌の教師をつけ、「マイ・フェア・レディ」に育てようとした。翌々年には曄(あき)子誕生、認知

ヨーロッパ各地を回って指揮

 

II.  ユダヤ人救出

日本にいたクロイツァーからの送金が届かなくなったため、秀麿が代わりにドイツに残っていた夫人に資金を届けようとしてナチに拘束されたが、ゲッペルスに直訴して無事釈放されると、それを聞きつけたアメリカ大使館の顧問弁護士だったユダヤ人のリーブレヒトからユダヤ人救出の支援を求められ、秀麿は人道上の問題として協力を約する。新響に客演したヴァイオリニストの兄だった

40年秋の新楽季を迎えたベルリン・フィルで秀麿は、フルトヴェングラーの後に続いて指揮をするが、それが秀麿にとってベルリン・フィル最後の指揮となる

その頃ソ連から秀麿に公演の依頼があったが、ソ連攻撃を準備していたナチの宣伝省が出国を許可せず、これがきっかけで秀麿とナチは決別

友好国以外への出国を禁じられたが、41年春ヘルシンキ交響楽団から招待を受け、シベリウスとの面談をアレンジ。シベリウスは強力な受信機を設置し、全世界のラジオ番組から流れる自身の曲を聴くのが楽しみで、2年前の秀麿の演奏も聞いていた

 

III.   ベルリンの孤独

4110月、ベルリンの空襲が激しくなってバーデンバーデンに疎開

日米開戦を、モーツァルト没後150年祭に招待されていたウィーンで知る

開戦後も、ドイツ赤十字社主催の慰問音楽会を年間28カ所、すべて客演を引き受け

42年、大島浩陸軍中将が新任大使として着任すると、「近衛一派」を締め出しにかかり、ゲッペルスにも睨まれて演奏の機会を失う

 

IV.    オーケストラ・グラーフ・コノエ

439月、ポーランドから演奏依頼が来てワルシャワ交響楽団を指揮。その後ブリュッセル・フィルでも客演するが、それはドイツ軍情報部に応召、占領地で音楽会の仕込みをしていたカール・レーマンが動いていた節がある

441月、ライプツィヒの隠れ家に楽譜を運び、パリ放送局の大管弦楽団(グラン・オーケストラ)を振った後、白仏独伊31人の混成管弦楽団が結成され、指揮者の選定で難航していたところに秀麿に白羽の矢が立ち、4月に近衛伯爵管弦楽団としてパリで公演、その後バス2台の配属を受け、主にフランスとベルギーの地方の小都市を巡歴する。その舞台造りに貢献したのがレーマン。1980年、甥のユルゲンが交換研究員として来日した際、79歳のカールに頼まれて秀麿を探す。秀麿は7年前に他界していたが秀健に会い、ヨーロッパでの水先案内人がレーマンであったことが初めてわかった

近衛管弦楽団には若い人が多かったが、オーボエのピエール・ピエルロなど後に著名な演奏家となった人も何人もいるが、フランス人にとってドイツ人のために演奏したことは記憶から拭い去りたい屈辱

連合軍のノルマンディ上陸とともに楽団は解散

 

第7章        再起に賭ける

I.    文麿の最期

454月、秀麿はライプツィヒに向かい、自ら名乗り出て米軍の捕虜となる

秀麿がシアトル交響楽団を指揮した時にエキストラで参加していたヴァイオリン科の教授ネルソン中尉が秀麿の名前を見て訊問を志願、秀麿は日本の徹底抗戦をやめさせるための提案をネルソン中尉に提案する

他の日本人捕虜と共にフランス経由ペンシルバニアに移送、終戦を迎える

126日、横浜帰着。その時の顔は諏訪根自子。秀麿は一緒に写真に写っていただけ

同日文麿に逮捕通告。16日早朝、出頭の期日に自決

 

II.  立ちはだかる壁

澤蘭子母娘は5月にシベリア経由で満州に向かうが、そのまま日本に帰らずパリに戻る決心をし、その旅費を稼ぐために満州に留まる。直後にソ連参戦。残留組の共同生活が始まるが、劣悪な環境で曄子死去

19464月、秀麿は日本交響楽団(旧新響、敗戦時まで生き残った唯一のオーケストラ。51N響に)から客員に招かれ「臨時演奏会」を指揮するが、朝日新聞の演奏後記で、温かく迎えてくれたことに感謝しつつ、交響楽運動再興のために大同団結するよう訴える

秀麿に最初に声を掛けたのは東宝の社長秦豊吉。本格的なオーケストラの結成を目指し、東宝交響楽団の常任指揮者に近衛を招聘するが、アメリカ移住も考えて迷う

46年末、日本交響楽団創立20周年記念の特別演奏会に招かれ、成功裏に終わると、翌年漸く日響の定期を振ることになるが、斎藤秀雄の後を追って事務長になった声楽家崩れの有馬大五郎が徹底した近衛嫌いで定着せず

東宝交響楽団を本格的に指導し始め47年の旗揚げを目指すが、48年東宝の労働争議の煽りで楽員も窮地に陥り、秀麿は彼等を救うために小規模の「ポータブル」交響楽団の結成を思いつき、私財を投じて赤坂台町に練習所まで建てる

 

III.   スキャンダルの嵐

宝響を中心にめぼしい楽員を20名ほど集めて「エオリアン・クラブ」と称し、朝日新聞の後援を得て定期の合間に地方都市を回る。神童・小林武史は5年後に東京交響楽団(宝響の後身)のコンサートマスターに

1950年、朝日が秀麿夫妻の離婚をスキャンダラスに取り上げる。次いで、パリから戻って神戸にいた澤蘭子が秀麿に会いに上京するが、同棲していたソプラノの北沢栄を見て復縁を断念しながら、朝日の記事を見てメディアに自分を「騙された」として売り込む

宝響も、労働争議の後東宝から支援を打ち切られ再建案が練られたが、秀麿が外されたため、支援した朝日麦酒の山本為三郎が激怒、秀麿残留となるが、東京交響楽団として再発足した楽季末をもって退団。東響のあとは斎藤秀雄らが担当

秀麿は、純粋に音楽を愛する楽員だけの自分の楽壇を持ちたいと思い、学習院の同級生で第一生命の常務だった斎藤斉(二・二六で暗殺された斎藤実元首相の継養子)と会う。同席した社長の矢野一郎は帝大の1年後輩で音楽愛好家、戦争で地に堕ちた生命保険のイメージ回復のための企画を待ち望んでいて、すぐに寄附の受け皿として財団法人近衛音楽研究所の設立を勧め、自らも出資とラジオ番組の提供を約束。第一生命は新たに開局したラジオ東京の筆頭株主でもあり、近衛管弦楽団が誕生。52年から「音楽の星座」を放送

フランクフルト歌劇場のコンサートマスターだったウォルフガング・シュタフォンハーゲンを招聘、藝大でティンパニを叩いていた岩城宏之、若手作曲家として注目されつつあった山本直純らを集める

53年、指揮生活30周年記念公演は、若き日の2人の約束を実現した念願の藤原歌劇団とともに《リゴレット》を乗せ、藤原と北澤栄が共演

神武景気と共に音楽の需要も大幅に伸びたが、秀麿は時代の波に乗れずにいて、追い打ちをかけるように、第一生命が監督官庁から「保険会社の広告は好ましくない」と注意を受けスポンサーを降りる

群馬交響楽団をモデルにした映画《ここに泉あり》が大ヒット。アマチュア・オーケストラが荒廃した農村に希望をもたらすドラマで、山田耕筰が出演。群響は直純の父山本直忠が私財を提供して育てたもので、秀麿も「伊香保温泉に入れる」とみんなを集めて応援した。発足当時のコンサートマスターの鷲見三郎も新響時代の秀麿子飼いにも拘らず、秀麿の役を耕筰が演じている。今井正監督に近かったせいか、秀麿の活動さえも無言のうちに消されようとしていた

55年夏、アメリカ帰りの元東響指揮者渡邉暁雄に声を掛け、シュタフォンハーゲンを軸に日本フィルハーモニー交響楽団の設立を持ちかけると、独自の楽団を持たなかった文化放送が興味を示し、労働争議に見舞われた後の社長に乗り込んできた国策パルプの水野成夫が、財界から借金をしまくっていた近衛を外せと言って、渡邉だけの楽壇として繰り上げ発足させた

秀麿は、すぐに大阪朝日放送に駆け込み、シュタフォンハーゲンのコンサートマスターを条件に支援を取り付け、水野を提訴

近衛管弦楽団は、山田一雄に任せていたが、56年の第23回定期演奏会で幕を閉じ、2か月後にABC交響楽団を立ち上げ、「改名披露演奏会」を開催

翌月、泰子と離婚、楽団の事務を仕切っていた永井和子と結婚

57年、ロン・ティボーの審査員に招聘され戦後初の渡欧

58年、朝日の招きで来日したニューヨーク・シティ・バレエ団の伴奏をABC交が引き受けた際、ABC交のアメリカ公演の話が持ち上がる

59年新楽季立ち上げ直後にABC交が分裂。マネージメントを任せていた藤原歌劇団の音楽事務所の使い込みによる不祥事で高まっていた不満が爆発、シュタフォンハーゲン以下8割が脱退してインペリアル・フィルを結成(後の読売日本交響楽団の中核となっていく)

 

IV.    ヨーロッパ公演

ABCのアメリカ公演の話がヨーロッパに変わり、NHKが放送開始35周年記念事業としてN 響の海外遠征ツアーを取り上げ、ABCのスケジュールを横取りして608月出発

秀麿もメンバーを揃え、朝日新聞の後援を取り付け、楽団名を「東京アサヒ・シンフォニック・オーケストラ」(A)として2か月後に出発。最初の公演がスイスのロマンド管弦楽団の本拠地ヴィクトリア・ホールで大成功裏に終わり、順調に巡演のスタートを切る

55カ所の公演を終えたが、帰国の旅費をまたもや音楽事務所に持ち逃げされ、朝日に前借して漸く帰国、帰国記念演奏会を最後に、秀麿はついに自前のオーケストラの継続を断念

 

終章 読まれなかった弔辞

ヨーロッパに残った秀健から、著名指揮者の多くが他界した今こそ秀麿復活のチャンスとして誘われたが、返事はなかった

秀健はドイツでシュタフォンハーゲンの弟子で近衛の元でもヴァイオリンを弾いていた日本人女性と結婚、長男一(はじめ)は後に藝大を出てアムステルダム放送管弦楽団のファゴット奏者に。翌年には長女も設ける

64年、京都大学交響楽団の指揮を頼まれる

オケの大衆化がスターの質を変えたが、秀麿は時代の変化をいささかも気にせず

「うまい話」に無防備の秀麿は、様々な詐欺話に巻き込まれる――67年の音楽院設立に伴う手形事件

674月、20年ぶりにN響定期を振る

68年、参議院選挙京都地方区で民社党から出るが次点。秀健によれば公認料欲しさの出馬

71年、日本フルトヴェングラー協会の会長に推挙

73年、逝去。享年75。本葬は引っ越したばかりの野毛の借家で挙行。司会は團伊玖磨

パーキンソン氏病に冒された藤原義江に頼んだ弔辞は、秀麿の女遍歴を話題にしたもので、司会の團も「読めない」と絶句

 

あとがき

カラヤンより望まれたレコードは、1937年に近衛がベルリン・フィルを振ったもので、ヨーロッパ全域で話題になった

秀麿がなぜここまで忘れられてしまったのか

本書を書かないかと勧めてくれた音楽プロデューサーの中野雄は、近衛を双葉山とすれば、朝比奈は前頭か十両だという。近衛を超える指揮者はまだ日本に出ていないともいう

今回、秀麿がレーマンに宛てた書簡の全文を甥のユルゲンの好意でコピー、近衛音楽研究所に寄贈する

 

 

 

 

 

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