シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界 立花隆 2021.8.25.
2021.8.25. シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界
著者 立花隆 1940年長崎生まれ。64年東大仏文卒。文藝春秋勤務の後、66年退社。東大再入学。在学中から評論活動に入る。74年の『田中角栄研究――その金脈と人脈』(『文藝春秋』11月号)は首相の犯罪を暴いて社会に大きな衝撃を与える。社会的問題のほか、科学技術など、その活動領域は広い
発行日 2004.8.30. 第1刷 2004.10.30. 第4刷
発行所 文藝春秋
まえがき
本書は香月さんのシベリア・シリーズの全点を紹介しているが、主要なコンテンツはあくまでシベリア・シリーズを語る活字部分。シリーズがどのようにして生まれたのか、なぜこのシリーズを死ぬまで描き続けたのか、絵の背後にはどのような意味が込められているのか、我々はこれらの作品から何を汲み取らなければならないのか、あらゆる角度からシリーズを論じた「論」の部分である
香月泰男没後30年記念展が現在全国を巡回中(04年2月~12月)
実物と画集・図録の違いはあまりにも大きく、実物を見ないうちは本当の意味でシリーズを見たことにはならない。それは香月の絵が本質的に3次元的であるため
シリーズの主要な価値はその全体性にあるので、全57作品の全貌を見なければならない
故郷の山口県立美術館も全点を所蔵しながらスペースの関係で常時半数しか展示できていない
香月の絵の特徴は、実物を見ないとわからない3次元性にあるとともに、絵を3次元視覚情報体とだけするのでは捉えきれない別次元の情報体であるところにある
絵だけでは伝えきれない情念の塊であり、全点に「ことば書き」がついている。絵と言葉が一体であり、言葉によって付け加えられた情報と情念が一体となって初めてわかる絵
シリーズが世に知られるようになったのは1967年の『画集『シベリヤ』』からだが、この時点で全32点に自筆の解説が付され、その後も描き続けた。開設は都度一定ではない
自らシリーズについて語ったものが、70年刊行の『私のシベリヤ』(当時は41点)
本書の当初企画は、『私のシベリヤ』の復刻だったが、何倍にもふくれ上がった
最初は「シベリヤ」で一定していたが、50年代終わり~60年代初めにメディアが「シベリア」の表記に移行していったため、香月さんもシベリアと書くようになった
『私のシベリヤ』は、69年東大哲学科の学生だった私がゴーストライターとして書いたもので、初版2000部のみで版元切れに。没後10年の84年に筑摩叢書として出版された際、末尾に1枚1枚の成立過程を追う形で立花が香月から話を聞き出した裏話を披露
香月は、描くことが不可能なものがあることを痛感すると述懐、絵では伝えきれない「それ」を伝えるために絵に言葉を付加したのだ
第1部の『私のシベリヤ』では、47~70年の41点のテキストの復刻版
現在、作品は全点山口県立美術館に収蔵、93年に香月の故郷の三隅町の町立香月美術館に遺族がシベリア・シリーズ以外の作品やデッサン等446点を寄贈、同時にアトリエを移築・復元されている
94年、NHK山口放送局が香月をテーマにした番組を制作。それがベースとなってシベリア取材が行われ、翌年放送の『シベリア鎮魂歌』になった
オリジナルと複製画像の持つ情報量がこれほど異なる絵も珍しい。オリジナルを見た時に初めて見えてくるものがたくさんある。一例は絵の基調をなす独特の黒が、独自に開発した特殊なマチエールを厚塗りすることによって生み出されたものだからで、黒の中に驚くほど多様な階調が秘められ、ゆっくり目を馴らしていかないと画面に盛られた全情報を読み取ることができない
第2部以降は、NHKの『シベリア鎮魂歌』の資料と、その後の講演会の記録を編集し直して加筆したもの
第1部
再録『私のシベリヤ』(1970年、文藝春秋刊)
復員してから22年間、43点のシベリヤの絵を描き続けた
私にとってシベリヤとは一体何だったのか。シベリヤのことなど思い出したくもないが、白い画布にはシベリヤがあって、私はただそこに絵具を添えていくだけだった
同じ仲間でも、その体験の受け取り方は違う。1年半ほどの間に3つの収容所生活を体験したが、それぞれの生活には驚くほどの開きがある
ごく個人的な体験を語る気持で、画布に表現してきた
生まれてから58年間、ついに絵描きでしかなかった。必ず生き延びてやろうと思ったし、死ぬときは出征する時に持って出た絵筆を持って死ぬつもりだった
絵描き根性があったがゆえに、他の兵隊たちが完全に餓鬼道に陥っているようなときにも、一歩引いたところに身を持していることができたのだろう
自分のためだけに描いているが、出来上がったものは私の喜びとは縁遠いもので、出来上がった時にもいつも不満で、何かまだ足りないものがあるような気がする、だから描き続ける
私の”シベリヤ・シリーズ”は、純粋絵画の見地からは邪道といえるかもしれない。単なるフォルムと色を表現手段とする芸術作品という視点から鑑賞されてほしくない。いかに写実からは程遠い作品であろうと、そこに描かれた1本1本の線、1つ1つの色面は、それぞれに現実にあった情景がもとになって生まれたもの
自分に忠実であろうとすると他人にはわかりにくいものとなるが、一方で分かってもらいたいという気持ちもあり、解決策として説明文をつけることにした
復員後、故郷山口の日本海側の三隅町に住む。4代前からここに住み、代々続く漢方医の家系だったが、父は放蕩で朝鮮に流れ私が小学校4年の時客死
祖父母と医業を継いだ叔父に育てられた。母は再婚して、私が抑留中に死去
恵まれた幼少時ではなかったが、抑留中夢を見るのは必ず故郷の夢
出征前は、絵を描く以上中央に出なければだめと考え、師と尊敬する梅原龍三郎や福島繁太郎の教えも乞いたいと考えていた。35までにはひとかどの絵描きになろうと目標を掲げたが、32で召集された時は画家として死刑宣告された気持ちになった
アルチザン(職人)として死の宣告を受けたが、アルチスト(芸術家)として蘇った。両者を区別するのはモチベーションで、アルチザンは職業としての絵描きであるのに対し、アルチストは人間の生き方として絵を描くことを選ぶ者のこと
30の私は、主客が転倒して、対象に迫ることによって必然的にスタイルが生まれてくるのではなく、意識的にスタイルを確立しようとして、そのためによりよきモチーフを探し回っていたし、表現技術を学んだのも皮相のことでしかなかった
シベリヤがそんな私を徹底的に叩き直してくれた。絵を描くことができるということが何物にも代えがたい特権であることを知り、ただただ無性に絵が描きたくなった
指導者というものを一切信用しない。人間が人間に対して殺し合いを命じるような組織の上に立つ人間を断じて認めない。戦争を認める人間を私は許さない
講和条約に文句はないが、何とも割り切れない気持ちを覚える。我々の闘いは間違いだったのか。間違ったことに命を掛けさせられたのか。指導者の誤りによって我々は死の苦しみを受け、今度は別の指導者があれは間違いでしたと謝りに行く。この仕組みが納得できない。この仕組みが続く限り、いつ同じことが起こらないと保証できよう
シベリヤ、ホロンバイル、インパール、ガダルカナル、サンフランシスコ。三隅に住み、ここだけを生活圏としてはいるが、この5つの方位を決して忘れない。5つの方位を含む故郷、それが”私の地球”だ
絵描きになることを決心したのは小学校の1,2年。親類の中に雪舟の流れをくむ雲谷(うんこく)派の末流というのがあり、その素描をたくさん目にしていた
小学校4年で初めて知ったクレヨンに魅せられ買ってもらう。中学4年の時油絵の道具を買うため、初めて近在に住む再婚していた母に手紙を書き無心する
長門市の大津高校に通うが、絵以外は全くの劣等生で、授業をさぼって絵ばかり描いていた。何とか美校受験を認めてもらい、東京に下宿して3度目の挑戦で合格
美校に入るまではヴラマンクが好きで、その後ゴッホのプルシアン・ブルーにひきつけられ、ゴッホから浮世絵の世界に導かれ日本に回帰。広重から宗達に、さらに南画の石濤へと、東洋画の世界に深入りしていく。方法として油絵を選んだが、ヨーロッパ絵画を根底から捕(ママ)らえようとした時、あまりにも大きな伝統の重みを見て絶望、生まれのも育ちも日本の私に西洋的な油絵を描けるわけがないことを知らされた。日本人にとって、いかなる油絵を描くことが可能か、というのが私の絵描きとしての生命を賭けて追求し続けた命題。結局発見したのは、日本の絵画の伝統の中でしか仕事をできないということであり、言い換えれば、油絵具で東洋画の持つ精神を追求していくということだった
東洋画と西洋画の違いの1つは、余白にある。東洋画に独特の余白は、何とも融通無碍であり、見る人次第でどうにでもなる
真の芸術である限り、伝統の中から生まれその上に立つ。支える部分を持たない芸術は流氷に過ぎない。絵画の本格的な発生期である中世から初期ルネサンスンの中に、東洋画の伝統と同じものを見た
私の考えと同じ方向を目指していたのが国画会で、そのリーダーが梅原。美校4年で初めて国画会に入選。以後毎年入選を続ける。卒業後倶知安中に美術教師として赴任。宗達を知ってスランプから抜け、下関の女学校の美術教師として赴任
1939年、第3回文展で自らの主張に従って描いた作品が特選を獲得、賞も取り同人にも推挙。私生活も含めすべてが順調に回り出し、戦争とは無関係に絵を描き続けた
徴兵検査は丙種合格だったが、43年初め召集。丙種合格では最初の応召
軍事訓練の情けなさ、無念さを込めて描いたのが《雲》(1968)で、練兵場の真中にガスマスクが1つ転がっている。人間性を奪われた無機物と化した兵隊を象徴
3か月の訓練の後満州に送られるが、下関港からの出発風景を絵にしたのが《別》(1967)で、1つの象徴として黒い日の丸の小旗を描き込む
ハイラルに進駐して見る太陽は、軍隊という獄舎に繋がれた絵描きの私には、輝きを失った暗黒のものとしてしてしか見えず、それを描いたのが《黒い太陽》(1961)
復員して最初に描いて国画会に出品したのが《雨(牛)》(1947)で、夕立が上がった直後のホロンバイルの草原をセンチメンタルに描いた絵。色のないところを描くのに、鮮やか過ぎる彩になったのは、戦争と俘虜生活で荒みきっていた精神が、無意識のうちにその補いを求めていたのだろう。”シベリヤ・シリーズ”第1作の《埋葬》(1948)を華麗な色彩で描いたのも同じ理由からで、せめて絵の上で戦友を暖かく葬ってやりたいという気持ちから
終戦の知らせは朝鮮に移動する貨車の中で聞く。終わって当然と受け止め、最初にしたことが貨車のシートをナイフで切り取って絵具箱の袋を作ったことで、1人の絵描きに戻る
2日後鴨緑江沿岸まで来たが、国境を前に武装解除され、元来た道を戻りそのまま抑留
シベリアを転々と渡り歩く捕虜生活の日常を描く
第2部
シベリア抑留の足跡を追って ⇒ 立花の講演会
(i)
「北へ西へ」「アムール」――収容所到着まで
立花は終戦後北京から引き揚げ
“シベリヤ・シリーズ”全57店のモチーフの所在地別内訳
日本(召集、出征) 3点
満州(ハイラル時代) 11点
満州(敗戦以後) 8点
シベリア(アムール・収容所) 21点 ―― 収容所まで 3点
セーヤ収容所 10点
チェルノゴルスク収容所 8点
シベリア(ダモイ・ナホトカ) 10点
日本(全体回顧) 4点
“シベリヤ・シリーズ”がタイトルに謳われた最初の展覧会は1970年、北九州市立八幡美術館での「香月泰男“シベリヤ・シリーズ”展」
(ii)
「埋葬」「涅槃」――死の収容所体験
復員直後に描かれたのが《埋葬》
《雪》は物資不足のために死ぬ直前に衣服を剝がされて毛布にくるまれた遺体を描いたもの。戦友の死を悼む通夜の間に毛布の中の死者の霊が死体から抜け出して、日本に飛んで帰ってしまうという情景を描いた。《埋葬》や《涅槃》で描き切れなかったシベリアにおける死と埋葬の真実を、帰国後16年にしてようやく描き切った
(iii)
収容所群島の全貌
抑留者は総勢60万人、うち10%強の7万人前後が死亡
香月が収容されたセーヤ収容所は、新設・小規模で特に条件が劣悪、初期に死者が急増したため閉鎖された
ノーベル賞作家ソルジェニーツィンの『収容所群島』(1973)は、若い時の収容所体験を基に、収容所だらけの国家の実態を暴いた大作だが、香月が訳本の装幀をしている
第3部
〈別稿〉絵具箱に残された十二文字
絵具箱に記された、「葬、月、憩、薬、飛、風、雨、筏、道、鋸、陽、朝」の12文字のモチーフが“シベリヤ・シリーズ”の原点とされるが、それぞれの文字がどの作品に該当するのかについては異論もある
12文字の中には、“シベリヤ・シリーズ”とは香月にとって何だったのか、いかに成立していったのかという最も本質的な問題が潜んでいる
“シベリヤ・シリーズ”は、初めからシベリヤ体験を一連の作品群によって描こうと構想されたものではない ⇒ 描くたびに別のモチーフが浮かんできて描き続ける羽目になったもので、“シベリヤ・シリーズ”という呼称が生まれたのも1967年以降
第4部
鎮魂と救済
(i)
福島繁太郎と香月泰男
香月は作品発表の場として、戦前後を通じ国画会展を最重要視していたが、57年以降は小品のみの出展にとどまり62年退会。代わって49年から毎年開催の福島繁太郎の銀座フォルム画廊における香月泰男個展と毎日新聞主催の日本国際美術展(52年以降大作を出品)と現代日本美術展(54年以降大作を出品)
《北へ西へ》(1959)で長らく求めていた「香月泰男の顔」を掴む。自らの顔を創造することによって画家として完成したと言える
福島繁太郎は、近代日本が生んだ希代の画商兼美術評論家で、香月の最大のパトロン。兜町の3大相場師の1人で山叶証券創業者の長男。父親から巨額の遺産を譲り受け、第1次大戦後のヨーロッパに留学してエコール・ド・パリの新進青年画家の作品の蒐集を始め、一大コレクションを築く一方、パリで国際美術批評雑誌『フォルム』を創刊し、コレクターであると同時に批評家としての地位を確立
福島が日本で一番目をかけて育て上げたのが香月。1934年に初めて出会い、国画会展の入選を通じて香月の画壇デビューを実現させるとともにその作品を香月コレクションの最初の作品とする。戦争中も励まし続け、49年にはフォルム画廊を開き香月が活動の拠点とした。1956,7年にはヨーロッパ旅行をアレンジ、ロマネスク・ゴシックの中世彫刻の実物をたくさん見たことが「香月泰男の顔」の創造に大きく貢献している
1950年代から、フランスのサロン・ド・メエ展、ブラジルのサンパウロ国際美術展、ヒューストン美術館の現代日本美術展などに招待出品、60年代に入ると、ピッツバーグのカーネギー国際美術展(1961)、62年のノードラー画廊で外国で初めての個展を開いて油彩30点水彩24点を出品するなど、外国にも知られ始める
何度かシベリア体験を総括する絵があって、これでシリーズをお仕舞にしてよいと香月が思うに至った絵の1枚が《私「マホルカ」》、中央に自身を描き、抑留中に支給されたロシア産の煙草マホルカを自身で作ったパイプで吸っている
暫くするとすぐに不満になって、翌1966年本当にシベリア生活総決算の意味で描かれたのが収容所生活の冬と夏を印象深く描いた《海「ペーチカ」冬》と《星「有刺鉄線」夏》という200号の大作。終わってニューヨークのジャパン・ソサイエティの招待で長期海外旅行に出、帰国後は旅先でのスケッチ180点を基に全国で個展を開催、暗く悲痛な戦争体験の連作に終止符を打った解放感が溢れていると評され、シリーズを完結するシリーズ展も全国各地で開催されたが、それまでシリーズに入っていたのが32点に過ぎず、1974年の寿命が尽きた本当の”完結”まであと7年かけて25点を描かねばならなかった
(ii)
3つの救済
1950年代、自分の方向性がつかめず迷っていた香月は、説明を聞かないとよくわからない構成主義的な抽象画をよく描いていた
小説に挿絵があるように、挿絵風の説明文のついた絵があってもいいと思い、1954年の《鳩と青年》には、「近代の絵画には自作の開設は不要と言われるが、今度の私の出品がはこれまでの私の仕事とは少し趣を異にするので、あえて注釈を試みることにした」と自作解説をつける
絵描きであったが故の救いには2つの側面。1つは、絵描きであったが故に誰もが人間性を失い兼ねない収容所生活の苦難の中でも人間性を保ち続けられたことであり、もう1つは、絵描きとして“シベリヤ・シリーズ”の一筆一筆が自分に救済の心情を与えること
シベリア体験で一番の救いは、自分がいつも絵描きの目を持っていたことだという
美的救済に加えて、宗教的救済、さらには宇宙論的救済
文藝春秋2021年8月号『追討特集 立花隆 「知の巨人」の素顔』
柳田邦男『すべての仕事は立花氏の「死生観」に凝縮された』
「調査報道」の先駆者・確立者として、また政治思想の右にも左にもぶれないで、真実究明と権力悪の告発に命がけで取り組んだジャーナリストかつ作家として、歴史にその名を刻まれるだろう。10数年間注力した『田中角栄研究』や「日本共産党の研究」は、政治学者もなし得なかった「歴史の扉を開く作業」だが、彼がそうした政治悪の告発を自らの表現活動の頂点や「存在証明」と位置付けていたわけではない
代表作は『宇宙からの帰還』、『臨死体験』と『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』で、最初は人間が宇宙を飛行したことによって人格や生き方がどう変わったのかという人間ドラマを多くの飛行士にインタビューして考察したもの、2番目は人が死に至るプロセスへの強い関心から死に至る時どんな意識を経るのか怖くないのかといったことを極めた記録であり、3番目は氏の感性の豊かさと人間洞察力の深さが見事に結実した作品
香月氏は、旧満州に派遣されていた関東軍兵士だったため、ソ連軍の捕虜となってシベリアに抑留され、2年間極寒と飢えと強制労働の限界状況を体験した。帰国後、苛酷なシベリアでの日々を、魂の叫びともいうべきタッチで描き続けた。それらの絵は、単なるスナップ写真的なものでなく、(筆舌に尽くしがたいからなのだろう)「描けないもの」を精一杯の思いで描いたのだという。氏は香月氏との深い交流と絵画1点1点の徹底的な分析的鑑賞によって、シベリア抑留が人間精神にもたらしたもの、作品の「描けないもの」の深淵などを深く読み解いて、”人間・香月泰男”の彫像を彫り上げた。氏の涙する心情が時折伝わってくる作品
Wikipedia
香月 泰男(かづき やすお、1911年10月25日 - 1974年3月8日)は、山口県大津郡三隅町(現・長門市)出身の洋画家。昭和を代表する洋画家の一人。
l 略歴[編集]
開業医の息子として生まれるも、幼い頃両親が離婚。厳格な祖父に育てられる。
山口県立大津中学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業後、川端美術学校を経て1931年に東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。
1936年、美術学校卒業後、北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)の美術科教師として着任。その後、山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任する。
1942年、太平洋戦争勃発により召集を受け、兵として満州へ。
1945年、ソ連に抑留され、シベリア、クラスノヤルスク地区のセーヤ収容所で強制労働に従事。これが原体験となり、その後の作品全体の主題・背景となる。
1947年、シベリア抑留から引き揚げ、下関高等女学校へ復職。
1948年、郷里の三隅へ戻り、山口県立深川高等女学校(後に大津中学校と統合)に転任。
1960年、大津高等学校を依願退職。その後しばらくは創作活動に専念していたが、1966年に九州産業大学に新設された芸術学部油絵科の主任教授を委嘱される。
1969年、「シベリア・シリーズ」で第1回日本芸術大賞を受賞する。
没後、遺族によりシベリア・シリーズ57点のうち45点を山口県へ寄贈、残り8点が山口県に寄託され、1979年開館の山口県立美術館に展示されている。
香月泰男美術館[編集]
香月は、創作活動のほとんどを「<私の>地球」と語った三隅町の自宅で行っていた。その泰男の功績をたたえる目的で、1993年10月26日に、生家に近い三隅町湯免に三隅町立香月美術館として開館。2005年に三隅町の合併により香月泰男美術館に改名の上、長門市に運営が移管された。最晩年まで香月の手元にあった作品や、香月のアトリエ(復元)などが展示されている。
なお、香月泰男美術館ではシベリア・シリーズの一部について常設展示を県に希望しているが、専属の学芸員が館にいないことを理由とし山口県が難色を示しており、完成作の展示が出来ない(原画のみが展示されている)。
また、画作の一方で油絵の作品の他、晩年は海外での風景作品や身の回りの針金、空き缶などを再利用して製作した子どものためのおもちゃが複数あり、これらも同様に展示されている。
定期的に「<私の>○○展」という企画展を開催しているほか、小中学生を対象とした絵画コンクール「香月泰男ジュニア大賞絵画展」を主催している。
所在地
山口県長門市三隅中湯免226番地
l 著書・画集[編集]
『画集シベリヤ
1943-1947』求龍堂 1967
『香月泰男のおもちゃ筐』福島慶子編 求龍堂 1970
『私のシベリア』文藝春秋 1970
『私のシベリヤ 香月泰男文集』筑摩書房「筑摩叢書」 1984
l 文と学芸員解説
『香月泰男 〈私の地球〉を描き続けた 別冊太陽 日本のこころ』木本信昭監修 平凡社 2011
l ドキュメンタリー[編集]
NHKスペシャル「立花隆のシベリア鎮魂歌〜抑留画家・香月泰男〜」(1995年6月4日、NHK)[1]
立花 隆(たちばな たかし、本名:橘 隆志 1940年〈昭和15年〉5月28日 - 2021年〈令和3年〉4月30日)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家である。執筆テーマは、生物学、環境問題、医療、宇宙、政治、経済、生命、哲学、臨死体験など多岐にわたり、多くの著書がベストセラーとなる[1]。その類なき知的欲求を幅広い分野に及ばせているところから「知の巨人」のニックネームを持つ[2]。
1974年、月刊『文藝春秋』に「田中角栄研究~その金脈と人脈」を発表し、田中角栄首相失脚のきっかけを作り、ジャーナリストとして不動の地位を築く。2007年暮れ、膀胱がんの手術を受けるが、その後も世界の最前線の研究者たちを取材し、がんの正体を根源的に見つめ直す活動を続けた[3][4]。
l 来歴[編集]
生い立ち[編集]
1940年、長崎県長崎市に生まれる。父は長崎の女学校教師で後に編集者を務め、母は羽仁もと子の信奉者で、クリスチャンの家庭。戦前の右翼思想家・橘孝三郎は、父のいとこに当たる。1942年(昭和17年)、父が文部省職員として北京の師範学校副校長となったため、一家で中国・北京(当時は中華民国)へ渡る。
1946年、引き揚げで日本へ戻り、一時母方の茨城郡那珂西に住み、のちに父の郷里茨城県水戸市に移る。茨城師範学校(茨城大学)附属小学校、中学校を経て、1956年(昭和31年)に水戸一高、さらに千葉県に移ったため東京都立上野高等学校への転入を経る。小学校時代から読書に熱中し、自らの読書遍歴を記した文章を残している[5]。また、中学時代は陸上競技にも熱中。俳優の梅宮辰夫・モータージャーナリストの徳大寺有恒は中学時代の先輩であり、3人とも陸上競技選手だった。
1959年(昭和34年)、東京大学文科二類へ入学。在学中は小説や詩を書き、イギリスで開かれた原水爆禁止世界会議に参加。卒業論文はフランスの哲学者メーヌ・ド・ビラン。
l 雑誌記者として[編集]
1964年(昭和39年)、東京大学文学部フランス文学科卒業後、文藝春秋に入社[2]。岩波書店とNHKの試験も受けたが不合格だったという[6]。入社後は希望通り『週刊文春』に配属される。上司に堤尭がいた。先輩記者の導きで、文学青年時代から一転ノンフィクションを濫読して多大な影響を受けるが、もっともやりたくないプロ野球の取材をさせられたことから3年足らずで文藝春秋を退社[7]。
1967年(昭和42年)、東京大学文学部哲学科に学士入学。翌68年に東大紛争が勃発し休校となる。
l ルポライターとして[編集]
東京大学休校中に、文春時代の仲間の誘いで文筆活動に入りルポライターとして活動を開始する。創刊時の雑誌『諸君!』に「生物学革命」、「宇宙船地球号」、「石油」などをテーマとしてノンフィクションや評論を書く。1968年、「立花隆」のペンネームで文藝春秋増刊号「素手でのし上がった男たち」を発表。『諸君!』の初代編集長田中健五(後の『文藝春秋』編集長)との交友が後の「角栄研究」に繋がる。1969年、『文藝春秋』や『週刊文春』に「60年安保英雄の栄光と悲惨」、「東大ゲバルト壁語録」、「この果てしなき断絶」、「実像・山本義隆と秋田明大」などを発表[8]。1970年、東大紛争中の学費支払いを巡り大学事務と衝突。東大哲学科を中退。
デビュー作『思考の技術』で、「人間は進歩という概念を盲目的に信じすぎている」として、生態学に学ぶ思考法を披露。現実の自然は常に具体的で、無限に複雑かつ多様で、そこには測定不能のもの、つまり数量化できない要素が満ち満ちている。現実はムダとムラに満ち満ちているが、これに対して、人間の作ったものは、ムラなくムダなく、実にスッキリと、合理的にできている。さながら、自然の作るものより、人間の作ったものの方が、はるかに上等なものであるかのように見えるが、これは人間の価値観の狂いにほかならない。理論は常に純粋なものを扱うが、技術はものを現実に操作する必要上、かなり純度の低いものまで扱う。ここで現われてくるギャップが、いわゆる理論と実践のギャップであり、技術の面では、公害などの問題として現れる。自然界には、生物個体にも、生物群集にも、さらには生態系全体にも、目に見えないホメオスタシス維持機構が働いている。文明にいちばん欠けているのはこの点で、進歩という概念を、盲目的に信仰してきたがゆえに生まれた欠陥である、とする基本的な考えを発表している[9]。
数名の友人と資金を出し合い、新宿ゴールデン街にバー「ガルガンチュア立花」をオープンさせた[10]。このバーでは経営だけでなく、バーテンダーとしてカウンターにも立ったが、報道・出版業界の知り合いが客として訪れるようになり「それなりに儲かった」[10] という。編集者の川鍋孝文や映像作家のブリス・ペドロレッティらも、客として通っていた[10]。のちにペドロレッティが新宿ゴールデン街をテーマにしたOV『フェスク・ヴドラ』を撮った際には、バーの店主として出演している[11]。バーを経営していたのは1971年前後だが、店自体は現在も残っている[10]。
1972年、講談社の川鍋孝文(のちの『週刊現代』編集長)の紹介でイスラエル政府の招待をうけ2週間イスラエルに滞在。招待期間終了後は自費で中東各地、地中海・エーゲ海を中心としたヨーロッパ諸国を放浪する。放浪期間中に偶然テルアビブ事件が発生。東大紛争以後中断していたジャーナリスト活動を現地で再開した。
l 田中角栄研究[編集]
1974年(昭和49年)10月9日発売の『文藝春秋』11月特別号に、立花の「田中角栄研究〜その金脈と人脈」と、児玉隆也の「淋しき越山会の女王」が掲載される。田中金脈問題として大きな反響を呼び、田中角栄首相退陣のきっかけを作ったとされる(ただし、立花本人は自らのレポートについて、「田中退陣の必要条件の一つであったことは否定できないが、十分条件でなかったことはたしかである」と述べている)[12]。「特集 田中角栄研究」により児玉隆也とともに第36回文藝春秋読者賞を受賞。
文藝春秋は角栄批判から手を引くが(その為単行本は講談社で出された)、その後も発表場所を変え、折に触れて田中の問題を取り上げ、ロッキード事件で田中が逮捕された後は東京地裁での同事件の公判を欠かさず傍聴し、一審判決まで『朝日ジャーナル』誌に傍聴記を連載した。また同誌上で「ロッキード裁判批判を斬る」を連載し、俵孝太郎、渡部昇一ら田中角栄擁護論者を「イカサマ論法にして無知」と非難した。なお渡部は後年には、立花のことを評価するコラムを雑誌に発表している[要出典]。
また「田中角栄研究〜その金脈と人脈」では、ロッキード事件の「丸紅ルート」、「全日空ルート(これを立花はロッキード事件から独立した「全日空疑獄」であると論じている)」についても詳細な取材、記述を行っている。『朝日ジャーナル』での担当者は筑紫哲也。以後、筑紫の番組に出演するなど公私ともに親交を持つ。なお、1984年には、「田中角栄と私の9年間」で第45回文藝春秋読者賞を受賞した。
田中角栄研究以降[編集]
1976年(昭和51年)には『文藝春秋』に『日本共産党の研究』を連載。これに対して日本共産党側が組織的な反立花キャンペーンを展開して反論し、大論争に発展する。なお、立花自身は後年、この時の大論争によって学習・論争能力が鍛えられ、上記のロッキード裁判での田中擁護論者との論争に役立ったと述べている。また、「総合商社」、「農協」、「中核・革マル」、脳死問題などの究明を行う。また、『諸君!』時代に書いていたサイエンス関係のテーマにも手を広げ、1981年には『中央公論』に「宇宙からの帰還」を発表。平凡社『アニマ』に連載された「サル学の現在」、ノーベル賞受賞者利根川進との対談『精神と物質』、『科学朝日』に連載された「サイエンス・ナウ」「電脳進化論」「脳を究める」、などのテーマを手がける。また、NHKやTBSなどにおいてドキュメンタリー番組制作にも携わり、連動した臨死体験などの著作もある。これらにより、1983年に菊池寛賞、1998年に司馬遼太郎賞をそれぞれ受賞。
1995年、スタジオジブリの長編アニメーション作品『耳をすませば』で主人公の父親役を演じた。同年、東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。1996年 - 1998年、東京大学教養学部で「立花ゼミ」を主催。ゼミは2005年に再開され、現在も続いている。この時期にも、「画家香月泰男」関連など様々な形でNHKなど放送メディアに出演した。2002年12月25日に大きな大腸ポリープがS字結腸に発見され切除するが、癌化を疑い自らを被写体として健康状態の患者からポリープが発見され切除、がんかどうかの病理検査、診断、告知までのドキュメンタリー番組の制作をNHKに提案。NHK側も同意して撮影開始。このとき、約束をしながら果たしていないことが7つほどあると判明。簡単には死ねないと感じる。いちばんの大仕事は1998年から連載していた『わたしの東大論』を本にする仕事であった。1999年頃には前妻が末期がんに侵され、彼女の依願で病院に同行を繰り返したりするが、1年間の闘病の末2000年に死去。この頃よりがんへの関心を深める。
2005年に東京大学大学院総合文化研究科特任教授に就任。2007年、東京大学大学院情報学環特任教授、立教大学大学院特任教授に就任。同年12月に膀胱癌の手術を受け、『文藝春秋』2008年4月号に手記「僕はがんを手術した」を発表。
2009年11月27日、鳩山由紀夫内閣の事業仕分けで大型研究プロジェクトに交付される特別教育研究経費が予算要求の縮減と判定されたのを受けて、全国各地の国立研究所長らと共に東京大学で記者会見を開き、「民主党は日本をつぶす気か」と仕分け結果を非難した。「資源小国の日本は科学技術による付加価値で生きていくしかない」と指摘した上で、「目の前で起きている出来事を見て怒りに震えている」と話した。作業風景の印象について「訳のわからない人たちが訳のわからないことを論じている」と評し、仕分け人を「バーバリアン(野蛮人)」と形容した[13]。
2012年10月11日、ふらっと'92 20周年記念シンポジウム「日本の宇宙飛行士が語る20年の歩みと今後の展望」で、パネリストとして「ヒトはなぜ宇宙に行くのか?」というテーマでパネルディスカッションにて有人飛行に反対意見を表明。「大事故が起こる可能性があるが、有人宇宙開発を行うに足る覚悟が日本人にはまだない。失敗に耐えられる体質がない」「膨大なカネが必要だが、日本は国家として破綻状態だ。中国はすさまじい金がある。失敗に耐えられる体質がある」「成果がない。費用対効果がない」と発言し、秋山豊寛に費用対効果などと、いつから大蔵省の役人みたいになったのかと批判される場面があった[14][15]。
ドキュメンタリー番組『旧友再会』(NHK)にて、梅宮辰夫と出演し、かつての住まい茨城県水戸市を訪問。2014年『読書脳 ぼくの深読み300冊の記録』で第68回毎日出版文化賞書評賞受賞。2016年『武満徹・音楽創造への旅』で吉田秀和賞受賞。
2021年4月30日、急性冠症候群のため死去。80歳没。訃報は6月23日になって主要メディアで報じられた[16]。
l 人物[編集]
幼少期より人の生と死の問題に関心を持ってきた。あるいは人間存在の本質に興味を抱き続けてきた。立花自身は次のように述懐している。「人生というのは、いつでも予期せぬことに満ち満ちている。計画など立てたところで、計画通りの人生など生きられるはずがないのである。もし自分の計画通りの人生を生きた人がいるとしたら、それはたぶん、つまらない人生を生きた人なのだ…(略)」[17]。
脳研究に尋常ならぬ興味を抱き脳関係の著書も多いが、その理由のひとつとしてより良い頭の使い方というものが存在して、それを習得することで自分の知的生産能力が向上するのではという実用的、功利的な興味があった[2]。
臨死体験、脳死、異常性格者、超能力などを科学的な視点から論じることで、一部の者からオカルト主義者との評価が生まれた。
知りたいという根源的欲求は人間にとって性欲や食欲と並ぶ重要な本能的欲求であると位置づけ、その強い欲求が人類の文化を進歩させ科学を発達させた根源的動因と考える。「知の巨人」のニックネームでも知られている[2]。
猫好きで、東京都文京区小石川に「猫ビル」(島倉二千六により巨大な猫の顔が壁に描かれている)の別名で呼ばれる地上三階地下一階建の事務所兼書庫を保有。数万冊にも上る蔵書を抱える。地下にはワインセラーを設置しており、無類のワイン好きである。猫ビルについては、妹尾河童が『ぼくはこんな本を読んできた』で図解で紹介している。また、猫ビルはNHK『探検バクモン』でも紹介された。
兄は朝日新聞社監査役を務めた橘弘道(たちばな ひろみち、1938年 - )。
1995年公開のジブリ作品『耳をすませば』で声の出演をしている(主人公の父・月島靖也[18]役)
l エピソード[編集]
『週刊文春』の記者時代、プロ野球にだけは全く興味が無いため、その関係の仕事だけはさせないでほしいと宣言したが、「あの野郎は生意気だ」ということで、見せしめにプロ野球の取材を1週間させられたことから、退社する決意を固めた。自分がやりたくもないことを上司の命令というだけでやらねばならない事実に我慢ができなかった。現在もプロ野球には一切関心はなく「私は、プロ野球というものに、昔も今も一切関心がない。」と自著『生、死、神秘体験』に記している。
漫画家赤塚不二夫と『週刊プレイボーイ』で対談したが、初対面ながら共に、満州から引き揚げ出身でもあり意気投合している。立花自身それなりに面白い体験だったと自著に記している[19]。
中華人民共和国の北京大学で特別講義を行なって、中国経済を「躍動する経済」と評価している。
l 批判[編集]
科学関連の仕事は、文系と理系のクロスオーバーとして評価されているが、自己満足でしかないという批判も受けている[20]。
講談社から出版された『文明の逆説―危機の時代の人間研究』における、「だいたい女は男にくらべて脳細胞の数が少ないせいか(中略)浅はかさと愚かしさをもってその身上とし」「多淫な女、複数の男性を望む女は例外なく冷感症、不感症」「女性が真に解放されたいと望むなら、早くオルガスムスを味わわせてくれる男を見つけることだ」といった立花の記述に対し、右派の評論家日垣隆は「男根主義」と皮肉った[21]。
ライブドア前社長堀江貴文は、「堀江被告の保釈・幕引きで闇に消えたライブドア事件」(2006年5月10日)の記事で暴力団と関係があるように書かれたとして、立花と「日経BPネット」を運営する日経BP社を相手取って5000万円の損害賠償請求訴訟を起こした[22]。2008年10月3日、東京地裁は、「記事の内容は真実と認められない」として、立花らに200万円の支払いを命じた[23]。
2007年2月21日付の「日経BPネット」に、「政権の命取りになるか 安倍首相の健康問題」として、「安倍首相は紙オムツを常用せざるをえない状態」「安倍一族は短命の家系。一族の墓誌を丹念に調べた人の報告によると、40代50代で死んでいる人が沢山」などと記述し、「J-CASTニュース」は、それに対する安倍事務所の怒りの声と、ネット掲示板2ちゃんねる上の立花批判の書き込みを取り上げている[24]。
自民党の鳩山邦夫の元秘書であったジャーナリスト上杉隆は、小沢一郎民主党幹事長の政治資金問題を挙げ、立花が検察や小沢や民主党など事件当事者への取材を一切行わず、新聞・テレビの報道や過去の経験を基に憶測で記事を書いている点、更には、10年以上永田町で取材を行っていない点などを批判した。
日本共産党は、著書『日本共産党の研究』などに対し「戦前の特高警察や検察が弾圧に使った資料を用いてのでっち上げ」と激しく非難している[25]。
l 教育・執筆・講演活動[編集]
2010年2月現在、東京大学大学院情報学環特任教授、立教大学21世紀社会デザイン研究科特任教授、大宅壮一ノンフィクション賞の選考委員も務める。
文系や理系などの垣根を乗り越え、学問の総合・融合・全体像という俯瞰的な視点から、その時代の最先端科学の現場へ足を運んで取材し、一般市民でも理解できるような執筆・出版・ネット発信活動を行ってきた。
宇宙飛行士の野口聡一は高校3年生のときに立花の著書『宇宙からの帰還』を読み、宇宙飛行士になる決心をした[26]。2005年12月、野口・立花の対談が実現[27]。
2007年に膀胱癌が見つかってから、癌をテーマにした執筆・講演活動が増えた。
ほぼ毎年行われている自然科学研究機構シンポジウムに、プログラムコーディネータとして参加している。
第1回 「見えてきた!宇宙の謎。生命の謎。脳の謎。」
第2回 「爆発する光科学の世界 量子から生命体まで」
第3回 「生物の生存戦略 われわれ地球ファミリーは いかにして ここに かくあるのか」
第4回 「宇宙の核融合・地球の核融合」
第5回 「解き明かされる脳の不思議 脳科学の未来」
第6回 「宇宙究極の謎 暗黒物質、暗黒エネルギー、暗黒時代」
第7回 「科学的発見とは何かー『泥沼』から突然『見晴らし台』へ」
第8回 「脳が諸学を生み、諸学が脳を統合する」
第9回 「ビックリ4Dで見るサイエンスの革新」
第10回 「多彩な地球の生命-宇宙に仲間はいるのか」
第11回 「宇宙と生命-宇宙に仲間はいるのかII」
第12回 「知的生命の可能性-宇宙に仲間はいるのかIII」
l 著作[編集]
※文庫版は版元や巻数が、単行初版と同一の場合は記述省略
『素手でのし上がった男たち』番町書房 1969
『思考の技術』日経新書
1971、中公文庫 1990、中公新書ラクレ 2020
『日本経済・自壊の構造』日本実業出版社 1973。菊入龍介名義
『中核 vs 革マル』全2巻 講談社 1975、講談社文庫 1983
『田中角栄研究』講談社
1976(のち新版+文庫 全2巻)
『文明の逆説 危機の時代の人間研究』講談社 1976(のち文庫)
『日本共産党の研究』講談社 全2巻 1978(のち文庫 全3巻)。第1回講談社ノンフィクション賞受賞
『ジャーナリズムを考える旅』文藝春秋 1978(のち「アメリカジャーナリズム報告」文庫)
『アメリカ性革命報告』文藝春秋
1979(のち文庫)
『ロッキード裁判傍聴記』全4巻、朝日新聞社 1981〜85(のち「ロッキード裁判とその時代」文庫)
『田中角栄いまだ釈明せず』朝日新聞社 1982(のち「田中角栄新金脈研究」文庫)
『宇宙からの帰還』中央公論社
1983、中公文庫 1985 新版2020
『「知」のソフトウェア』講談社現代新書 1984
文庫)
『100億年の旅3 脳とビッグバン』朝日新聞社、2000(のち文庫)
『人体再生』中央公論新社、2000(のち文庫)
『21世紀 知の挑戦』文藝春秋、2000(のち文庫)
『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本』文藝春秋、2001(のち文庫)
『東大生はバカになったか 知的亡国論+現代教養論』文藝春秋、2001(のち文庫)
『解読「地獄の黙示録」』文藝春秋、2002(のち文庫)
遺著、講演と大江健三郎との対談
l 対談・編著・共著[編集]
『遊びの研究』三一書房 1976
9つの討論会の司会を務め、「現代人における<遊び>の構造」を執筆
『われらが青春―安東仁兵衛対談集』現代の理論社 1979
安東仁兵衛が立花や、吉村昭、坂本義和、柴田翔、丸山真男と対談集
『ロボットが街を歩く日』吉川弘之との対話、三田出版会 1987
『精神と物質』文藝春秋
1990、文春文庫 1993
l 脚注[編集]
1.
^ 上原佳久 (2018年5月30日). “上り坂への郷愁、今なお 立花隆「田中角栄研究」”. 好書好日 2020年8月2日閲覧。
2.
^ a b c d 立花隆『脳を究める』(2001年3月1日 朝日文庫)
3.
^ “がんサポート - がん闘病中の「知の巨人」VS「がん検診の伝道師」 がん徹底対論、立花 隆(評論家) × 中川恵一(東京大学病院放射線科准教授)”. 2020年9月18日閲覧。
4.
^ “NHKスペシャル 立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む”. 2020年9月18日閲覧。
6.
^ (人生の贈りもの)わたしの半生 朝日新聞2016年4月6日夕刊
7.
^ “分野も時間も軽々越えた「知の巨人」 立花隆さんが残したもの”. 毎日新聞. (2021年6月23日) 2021年6月23日閲覧。
8.
^ 『立花隆のすべて (下)』文春文庫[要ページ番号]
9.
^ “「文明のベクトルは速度を上げながら破局に向かっている」人類は自然をもっと恐れるべきだ”. PRESIDENT ONLINE (2020年9月3日). 2021年4月4日閲覧。
10. ^ a b c d 立花隆「フランス・ユマニスムの精神」『文藝春秋』94巻9号、文藝春秋、2016年6月1日、77頁。
11. ^ 立花隆「フランス・ユマニスムの精神」『文藝春秋』94巻9号、文藝春秋、2016年6月1日、78頁。
12. ^ 真山仁『ロッキード』2021年1月、文藝春秋
14. ^ “宇宙飛行士と立花隆の大激論!有人宇宙開発の意味とは?”. 室山哲也公式YouTube(元NHKプロデューサー・解説委員、日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)副会長) (2012年10月11日). 2021年7月1日閲覧。
15. ^ “ふらっと'92 20周年記念シンポジウム「日本の宇宙飛行士が語る20年の歩みと今後の展望」”. JAXA. 2021年7月1日閲覧。
16. ^ “ノンフィクション作家 立花隆さん死去”. NHK NEWSWEB(首都圏). NHK. (2021年6月23日) 2021年6月23日閲覧。
17. ^ 『生、死、神秘体験』
18. ^ “耳をすませば”. 金曜ロードシネマクラブ. 日本テレビ. 2017年1月12日閲覧。
19. ^ 『赤塚不二夫の「これでいいのだ!!」人生相談』(集英社、1995年)
20. ^ 『立花隆先生、かなりヘンですよ - 「教養のない東大生」からの挑戦状』谷田和一郎著(洋泉社 2001年11月)
21. ^ 『通販な生活 一生を1ギガで終えないための買い物学』(講談社 2008年4月)
22. ^ “堀江氏が立花隆さんを提訴”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2007年8月24日). オリジナルの2007年8月26日時点におけるアーカイブ。 2020年11月16日閲覧。
23. ^ 立花のコラムについて堀江被告、立花氏に勝訴=コラムの名誉棄損認定-東京地裁[リンク切れ] 時事通信 2008/10/03-19:36
24. ^ “首相は「紙オムツ常用」状態!? 立花隆の超過激コラム”. J-CASTニュース (株式会社ジェイ・キャスト). (2007年2月26日) 2020年11月16日閲覧。
25. ^ 闇から出てきた亡霊 立花隆氏の新版“日共”批判をきる
26. ^ “野口聡一 宇宙飛行士”. 宇宙ステーションキッズ. JAXA|宇宙航空研究開発機構. 2020年11月16日閲覧。
27. ^ 『宇宙を語るI 宇宙飛行士との対話』(中公文庫)
28. ^ 元版は立花が代筆した、香月泰男『私のシベリヤ』文藝春秋 1970 のち筑摩叢書。没後の新版で明らかにした。
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