黒牢城  米澤穂信  2021.10.13.

 

2021.10.13. 黒牢城

 

著者 米澤穂信 1978年岐阜県生まれ。01年『氷菓』で第5回角川学園小説大賞奨励賞(ヤングミステリー&ホラー部門)を受賞してデビュー。11年に『折れた竜骨』で第64回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)14年に『満願』で第27回山本周五郎賞。『満願』と15年発表の『王とサーカス』は3つの年間ミステリ・ランキングで1位となり、史上初の2年連続三冠達成。

 

発行日           2021.6.2. 初版発行

発行所           KADOKAWA

 

初出      雪夜灯籠 『文芸カドカワ』  201923月号

            花影手柄 『カドブンノベル』 202013月号

            遠雷念仏 『カドブンノベル』 202068月号

            落日孤影 『カドブンノベル』 20201011月号

 

序章 因

天正611月、武田上杉を退けた日の出の勢いの織田と、本願寺が組んだ片や陰陽10州を領する大毛利の戦の行方が注目

摂津国大坂にいつしか一向門徒が集い、念仏三昧の大伽藍を築いてこれを本願寺と称し、乱世のこととて堀や土塁を巡らし、寺とも城ともつかぬその要害に武具兵糧を運び入れ、織田打つべし、仏法護持のこの戦いに参じぬ者は波紋ぞと門主が檄を飛ばして8年が経つ

大坂の城の中でひと際目立ったのが伊丹の村ごと城内に取り囲んだ新城で、有岡城と改称

城主は、織田家から摂津一職(いっしき)支配を許された荒木摂津守村重

そこへ小寺官兵衛が来訪、鎗捌きの名手で元は黒田、播磨の主君の小寺家を織田方に味方させたが、今は毛利方についたはず

官兵衛の父美濃守は姫路を守るが、官兵衛の息子を羽柴に人質として差し出し

村重は織田方に謀反し戦支度をしているところから、羽柴の申しつけにより村重とは旧知の官兵衛がそれを翻意させるために来たもの。村重が頼りにする毛利輝元は動かいないと警告され、村重は官兵衛を土牢に軟禁する

 

第1章        雪夜灯籠

晩秋の頃、武庫颪(おろし)が猪名川に沿って吹く

茨木城の猛将中川瀬兵衛が、村重に謀反を勧め強気を貫いていたが、一矢も放たず織田勢に城を明け渡したとの報に有岡城は沸き立つ。それに先立ち高山右近の高槻城も開城

伊丹は京と西国を繋ぐ無二の要衝、城は猪名川の西岸、茫漠たる沼沢の西に位置

さらに熱心な一向宗徒だった南の大和田城が降る。城主の息子が寝返ったためで、息子の一子は人質として有岡城にいたが、村重は殺さずに牢に繋ぐが、すぐに射殺される

見分した村重は、矢がないことに気づく

犯人を特定できないままに、敵勢接近

村重は官兵衛に犯人特定を期待するが、逆に武士の習いを曲げてまで人質や官兵衛を殺そうとしないことを訪ねられる

村重は、人質殺しの謎を解き、家臣の前でそれを示すが、殺した者を処罰せず、それは信長なら必ず殺すことがわかっていたから、自分はその反対のことをすると決める

村重は、信長と違うことを家臣に示し、己がもとに家臣の団結を引き出した

翌日から織田の攻撃が始まるが、何れも大身の大名ではなく、有岡城に内応する者も出ず、荒木勢の完勝に終わる

 

第2章        花影手柄

村重は、千宗易門下の茶人

織田家中の名将・滝川一益から矢文で、信長の鷹狩りのお供をせよとの伝言

辱めを受けたとして主戦論を唱えたのが雑賀衆と、高山右近の父が率いる高槻衆

東の沼沢にも手柄を立てようと信長勢の一部が布陣

村重は、雑賀衆と高槻衆に沼沢の敵陣に夜討ちをかけるよう命じ、大勝を博すが、敵将を撃った手柄を巡って両派に亀裂が生じ、さらに一向宗徒と南蛮宗との争いが焼討に発展、村重は自らがなしたこととして両派の諍いを制する

矢文には、備前岡山を根城とし毛利方だった宇喜多が織田方に味方したとあり、村重は謀とは思ったが、将卒の目を逸らすために夜討ちを賭けた

 

第3章        遠雷念仏

その後信長は、周辺に付け城や砦を続々と築いて遠くから包囲するばかり。城内に潜入して小競り合いを頻発させている。長い籠城で人々は疲れ倦んでいる

守りは堅固だが、勝ち戦の道はない。城内の士気を引き締めるためもあって、宇喜多の寝返りを将兵に伝える

村重は密かに息子の舅の明智光秀に使いを送り、降伏の口利きを頼む。村重が謀反した際、光秀の娘は離縁して光秀の下に送り返していた。丹波攻めの最中だった光秀に取り次いではもらえなかったが、光秀が一度は縁を結んだ者のむごい有様は見たくないと言っていたことが伝えられ、さらに茶壷の名品「寅申」を人質代わりに寄こせと言ってくる

1年半前、松永弾正が上杉を頼りに信長に謀反した際、「平(ひら)蜘蛛」の茶壷を渡せば

赦免するとの噂があったが、久秀は茶釜を渡すことなく自害し、茶壷は炎の中に消えた

旧知の旅僧に「寅申」と降伏を進めてくれるよう依頼する返書を託すが、城内の町家で何者かによって殺害。犯人は織田方に内通していた配下の将で、雷に打たれて死に、密書のことも露見せず、寅申も村重の下に戻る

半年前なら諸将は、村重の言うことを無条件に聞いたであろうが、毛利は来ず、戦の先行きが思うとおりにならぬことが明らかになってくると、村重の言うことならと黙って聞くようにはならない

寅申が戻ったことで、まだ光秀との談判の余地は残っているが、光秀の丹波攻めはほぼ峠を越え、村重翻意による織田方へのメリットは薄れ、降伏のタイミングを失う

 

第4章        落日孤影

5000人にも及ぶ兵の口を養うには城内の田畑では到底足りない

将兵の間に仲間内の刃傷沙汰にまで及ぶ諍いが起こり始め、その報告が村重に上がってこない。その上、将兵には不断の守りにほころびが見え始めている

将兵の僅かの規則違反を一罰百戒で咎めても、村重の言葉は諸将に届かない

配下の諸将を集めた軍議とは、村重が国衆を統べる場で、村重が白と言えば概ね白と答え、多少の無理も老臣に根回しをすれば思うように衆議を御して意を通すことができたが、今や村重が咎めても諸将はその言を全く重んじなかった

謀叛人はいないとなれば、城内の懈怠は何だったのか、軍議の乱れは何だったのか、諸将の冷ややかな目は何だったか

勝つことだけで家中を纏めてきたがゆえに、負けていないということだけでは求心力が働かない

官兵衛は、村重に生きたまま捕らえられたために、信長から謀叛の疑いをかけられ、人質に取られていた長子松寿丸を殺された。官兵衛が殺されたり生きて戻れば信長は官兵衛を殺したかもしれないが松寿丸が殺されることはなかった。武門を潰された官兵衛はその仇討に村重をたぶらかした。信長に対する勝ち目はないと思っていたが、さらに家中の離反を見抜いていて、時とともに官兵衛の読み通りになっていった

村重は3人連れて有岡城を抜け出る

 

終章 果

村重は尼崎城、花隈城を頼りに、1年近く戦い続け、花隈落城後は毛利領内に逃れて生き延びる。茶人として摂津に戻り、有岡落城から7年後に天寿を全う

信長は、有岡落城から3年後に光秀に討たれる

官兵衛は、有岡落城時、自らの家臣によって救出され、秀吉の勧めで有馬に静養

信長に松寿丸を殺せと命じられたのは官兵衛と知音の間柄だった竹中半兵衛で、殺し兼ねた半兵衛は命に背いて密かに匿う。官兵衛監禁の間に半兵衛は死ぬが、義弟が秀吉の許しを得て官兵衛と松寿丸を引き合わせる

官兵衛は自らの心得を、「神の罰より主君の罰をおそるべし。主君の罰より臣下百姓の罪をおそるべし」と言い、松寿丸は長じて黒田筑前守長政となり、博多一帯を領して町の名を福岡と変え、父の遺訓を治世の礎とし福岡を大いに栄えさせたという

 

 

 

(書評)『黒牢城』 米澤穂信〈著〉

2021724日 朝日

 荒木村重はなぜ城を脱出したか

 天正6年、織田信長に謀反した荒木村重を翻意させるため、黒田官兵衛が織田方の使者として有岡城を訪れた。しかし村重は官兵衛を拘束、一年間にわたって土牢(つちろう)に幽閉する――

 有名なエピソードだが、米澤穂信の手にかかればこれが魅力的なミステリの舞台に変貌する。籠城長引く有岡城内で起きた事件を、牢の中の黒田官兵衛が解き明かすのだ。この発想には唸った。そんなの、面白いに決まってるじゃないか。

 処分保留の人質が密室で殺された謎や、名のわからぬ首級の中から大将首を探す話など、冬春夏秋に起きた四つの架空の事件が語られる。村重自ら現場を検分し関係者の証言を集める。そして迷った挙句に、知恵者と名高い黒田官兵衛に頼るのだ。官兵衛は話を聞いただけで真相を見抜くが、村重には謎かけのような言葉を告げるだけで――

 捕らえた者と捕らえられた者がまるで刑事と探偵のような関係になるのが興味深い。個々の謎解きも論理性と驚きに満ちて、ミステリの醍醐味たっぷりだ。

 ただし本書で最も注目すべきは、なぜ村重と官兵衛なのか、なぜ有岡城なのかという点にある。

 読者は、村重が家臣たちを残して有岡城を脱出するという史実を知っている。そう村重に決意させたものは何だったのか。それこそが本書の核たる謎だ。四つの事件はその史実に至る布石なのだと気づいたときにはため息が出た。籠城の中で戦況も人心も変わる。村重が何を考え、何に追い詰められていたのかが、事件を通して浮き彫りになる。

 そこに官兵衛を絡ませることで著者は、領主とは何か、民とは何か、ひいては戦国時代とは何かを見事に描き出した。読み進めるうちに、だから官兵衛なのかと膝を打った。村重の有岡城脱出の驚くべき絵解きであり、戦国時代でなければ描けない人間ドラマだ。

 米澤穂信初の戦国ミステリは斬新にして骨太。著者の里程標たる一冊である。

 評・大矢博子(書評家)

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 『黒牢城(こくろうじょう)』 米澤穂信〈著〉 KADOKAWA 1760

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 よねざわ・ほのぶ 78年生まれ。11年に『折れた竜骨』で日本推理作家協会賞。14年に『満願』で山本周五郎賞。

 

 

2021.8.25. 朝日 とれたて! この3

<ミステリー>精密な時代描写と謎解き ミステリー評論家・千街晶之

 今年のミステリーのひとつの傾向として、歴史ミステリーの秀作が多いことが挙げられる。ひとつの時代をありありと浮かび上がらせるには、史料の微細な読み込みと、時代の流れを把握する俯瞰(ふかん)的な視点とが必要とされるし、過去に生きる人間を説得力豊かに描くには、現代とは異なるその時代特有の価値観と、それでいて現代人にも共感できるキャラクター造型とを両立させなければならないだろう。歴史ミステリーとは、そんな高いハードルが設定されたジャンルなのである。

 織田信長に叛(そむ)いた戦国武将・荒木村重と、豊臣秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛。米澤穂信『黒牢城(こくろうじょう)』は、この二人を主人公とする歴史ミステリーだ。村重を翻意させるため有岡城にやってきた官兵衛を、村重は土牢に幽閉してしまう。やがて城内では、人質の変死、凶相に変じた敵の首などの怪事件が続発。困惑した村重は官兵衛の知恵に頼ろうとするが……。本作は複数のエピソードから成立しているが、フィクションであるそれらの出来事を、最後には史実へと収斂(しゅうれん)させてゆく構想が精密だ。普段の著者と異なる重厚な文体にも驚かされるし、知略縦横の城主としての表の顔と、誰にも頼れない孤独に悩む裏の顔を持つ村重の人物造型も印象に残る。

 『開かせていただき光栄です』『アルモニカ・ディアボリカ』と書き継がれてきた皆川博子の「エドワード・ターナー三部作」が、『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』でついに完結した。舞台は前二作の一八世紀イギリスから独立戦争期のアメリカに移動する。エドとクラレンスはイギリス軍の補給隊として渡米するが、エドは殺人の嫌疑で投獄されてしまう。独立をめぐる陰惨な争いを描きつつ、独立派と先住民の両方の血を引く者の複雑な立場など、単純な善悪の二項対立では割り切れない歴史の襞(ひだ)に分け入ってゆく細やかな筆致が著者らしい。

 奇(く)しくも、東京在住のイギリス人作家デイヴィッド・ピースの『TOKYO REDUX 下山迷宮』も「東京三部作」の第三作だ。前二作では小平事件、帝銀事件という戦後占領下の有名犯罪を扱っていたが、今回のテーマは、一九四九年、国鉄総裁が轢(れき)死体となって発見された下山事件。当時から識者の見解も自殺説・他殺説に分かれ、陰謀論も囁(ささや)かれている怪事件だが、デモーニッシュな熱狂を内包した文体を駆使し、GHQの捜査官や元刑事の私立探偵らの視点からこの事件を描いた本作は、戦後にとどまらない昭和という時代そのものの闇を浮かび上がらせた犯罪小説であり、文体の実験を繰り広げた意欲的な前衛小説とも言える。

 

 

 

 

 

Wikipedia

荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名利休十哲1人である。

生涯[編集]

池田・織田家臣時代[編集]

天文4年(1535)、摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)[1]の嫡男として池田[5]に生まれる[6]。荒木氏は波多野氏の一族とされ[7]、先祖は藤原秀郷である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。

最初は池田勝正(長正の次の当主)の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。しかし、三好三人衆の調略に乗り田知正(長正の長男)と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。

その後、元亀2年(1571828日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573)には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。

一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となった(下克上)。

天正2年(15741115日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。

翌年には有馬郡の分郡守護であった赤松氏を継承する摂津有馬氏を滅ぼして同郡を平定する。

村重は細川政権三好政権を通じての摂津統治の中心であった芥川山城越水城の両城を廃して有岡城(伊丹城の改称)を中心とした新たな支配体制を構築した。

天正3年(1575)には宇喜多直家に離反された浦上宗景を支援し、「宇喜多端城」(所在地不明)に浦上宗景を入城させる。

以後も信長に従い、越前一向一揆討伐・石山合戦高屋城の戦い王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。この間、従五位下摂津守に任ぜられる。

謀反[編集]

詳細は「有岡城の戦い」を参照

有岡城跡

天正6年(157810月、三木合戦羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(理由は後述)。一度は糾問の使者(明智光秀松井友閑万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。

以後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功するが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年(157992日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ移ってしまった[8][9][10]

1119日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わした。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。

1213日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。この事は

百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。信長公記

と記されている。1216日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。立入宗継はその様子を、

かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。『立入左京亮宗継入道隆佐記』

と記している。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していった。天正9年(1581817日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。

しかし肝心の村重本人は息子・村次と共に、親戚の荒木元清がいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされる[11][12]

茶人として復活[編集]

天正10年(15826月、信長が本能寺の変横死するとに戻りそこに居住する。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されなかった。さらに、秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し[13]、荒木道薫(どうくん)となった[14]

天正14年(1586年)54日、堺で死去。享年52

謀反の理由[編集]

村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではない。ただ、信長は村重を重用していたため、その反逆に驚愕し、翻意を促したと言われている(『信長公記』、『フロイス日本史』など)。

村重は足利義昭石山本願寺とも親しかったため、両者の要請を受けて信長に反逆した。村重が支配していた摂津は当時、中国方面に進出していた羽柴秀吉と播磨丹波方面に進出していた明智光秀らにとって重要な地点であり、村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、前掲2者の意向を受けての謀反だったのではないかという説。(幕府奉公衆の小林家孝が有岡城に入城して連絡係を務めていた)

村重の家臣(中川清秀と言われる)が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説。

信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説(『当代記』)。同書では秀一が村重に対して小便をひっかけたとしている。これは竹中重治と同じ逸話であり信頼性は乏しいが、信長の側近衆と何らかの対立があったとみる説がある。

天正元年(1573)、村重は信長を近江国瀬田で出迎えたが、この時に信長が刀の先に突き刺して差し出した餅をくわえさせられるという恥辱を味わわさせられたという怨恨説(後述の『絵本太閤記』二編巻之禄六「荒木村重が餅を食らう」場面を謀反の理由に関連づけたもの)。

黒田孝高(当時は小寺孝隆)と相談の謀略説。信長暗殺のため(後に成功した本能寺のように)手勢が手薄なところへ誘き出し夜襲する計画であったという。そのため信長の遺産を継いで天下人となった豊臣秀吉・徳川家康などからは厚遇されることになったとされる説。実際、信長は孝高を村重方に寝返ったと決めつけ、人質としていた孝高の子・松寿丸(のちの黒田長政)の処刑を秀吉に命じている。

将来に希望が持てなくなったからという説。石山合戦では先鋒を務め、播磨国衆との繋がりもあったが、本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になり、播磨方面軍も羽柴秀吉が司令官に就任したことから活躍の場がなくなったからといわれる。

摂津国内では信長勢力の進出まで国衆や寺内町・郷村などが比較的独自の支配体制を築いてきたが、信長はこうした勢力を統制下に置こうとしたために織田政権への反発が強まり、その矛先が村重に向けられつつあった。村重は国衆や百姓からの突き上げに追い込まれた結果、却って信長に叛旗を翻して彼らの支持を受けた方が摂津支配を保てると判断したとする説。実際、村重の反逆の直後にこれまで石山本願寺の目の前にありながら石山合戦に中立的であった摂津西部の一向一揆が蜂起し、尼崎城や花隈城の戦いではむしろ彼ら百姓主導による抵抗が行われて、信長軍も西宮から須磨の村々を焼き討ちにして兵庫津では僧俗男女の区別なく皆殺しにしたと伝えられている[15]

太平記英雄伝[編集]

歌川国芳画の「太平記英雄伝廿七 荒儀摂津守村重」や、落合芳幾画の「太平記英勇伝三十八 荒木摂津守村重」で描かれている場面は、『絵本太閤記』二編巻之禄六「荒木村重が餅を食らう」の話を基にして描かれたものである。

嘉永期になると幕府の規制が緩み、太閤記関連の版本が多く出るが、それでも江戸時代の武者絵の通例で名前をもじって記載している。

『絵本太閤記』が何らかの史実に基づいてこの場面を描いたのかは不明であるが、これによると、織田信長に拝謁した時に、村重は「摂津国は13郡分国にて、を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上した。これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭35個を突き刺して、「食してみろ」と村重の目の前につき出した。周りにいたものは青ざめてしまったが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、その胆力を賞して摂津国を村重に任せたという。

村重はこの時38歳。信長は村重が高槻城を攻略した(高槻城攻城戦)事を激賞して、村重がどのような人物なのか、どのような態度をとるのか試したのではないか、とも想像できる逸話である。

子孫[編集]

江戸時代初期に絵師として活躍し浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、信長による処刑から乳母の機転によって生き延びた子孫の一人とされている[16]

荒木善兵衛も荒木村重の子であり、有岡城落城の際に幼い善兵衛を細川忠興が預かって家中で育てた。成長すると無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めた[17]

現在の大阪府岸和田市荒木町には、伊丹城陥落時に村重の子の岩楠が乳母と共に当地へ逃れ来て、吉井村の荒地だった当地を開墾して土着し、後に荒木村が成立したという伝承がある[18]

熊本藩に息子・荒木村勝の子・荒木克之の系統が仕官している。

荒木流拳法は創始者を村重の孫・荒木夢仁斎源秀縄としている[19]

主な家臣[編集]

(*有岡城の戦いで村重が没落するまでの家臣。従属者も含む。)

高山友照

高山右近(友祥・長房・重友) … 高槻城主、友照の子

中川清秀 … 茨木城主、高山右近の従兄弟、一説に村重の従兄弟とも

池田知正(荒木久左衛門) … 元々は村重の主君の立場にあったが実質上の克上により村重の配下となる。

吹田村氏(荒木村氏) … 吹田城主。村重の実弟(異母弟)で、有岡落城に際して信長の命により殺されたという[3]

野村丹後 … 村重の義弟(妹婿)[2]。有岡開城時に切腹(斬首されたとも)。

荒木重元 … 荒木一門。

荒木元清(荒木志摩守)重元の子(父は村重の叔父・村正とも[2])で村重の従兄弟とされる。花隈城主。玄孫に荒木政羽

荒木重堅(のち木下姓)

荒木五郎右衛門

荒木越中守 … 妻はだしの妹とされる(『寛政重修諸家譜』)。

池田和泉守

大河原具雅

塩川国満 … 多田城

能勢頼道 … 能勢城

加藤重徳

安部仁右衛門 … 大和田城

渡辺勘太郎 … 有岡開城時に切腹

郡兵大夫

鷹山頼貞

郡宗保

荒木村重を題材とした作品[編集]

遠藤周作『反逆(上・下)』(講談社文庫

黒部亨『荒木村重命惜しゅうて候』(PHP研究所

新宮正春『兵庫の壺異聞・本能寺の変』(新人物往来社

羽山信樹『我やさき、人やさき』(新人物往来社『滅びの将』収録小学館文庫『滅びの将』収録)

岳宏一郎「風の武士荒木村重」(講談社『花鳥の乱 利休の七哲』収録)

神坂次郎「道糞流伝」(新潮社(新潮文庫)『兵庫頭の叛乱』収録)

火坂雅「うずくまる」(文春文庫『壮心の夢』収録)

米澤穂信『黒牢城』(20216月、KADOKAWA)

脚注[編集]

1.    a b 異説として荒木高村(たかむら)を父とするものもある。『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』では高村は義村の父、すなわち村重の祖父としている。

2.    a b c 系図纂要』より。

3.    a b 寛政重修諸家譜』より。

4.    ^ 寛政重修諸家譜』では嫡男・村次の母とされる。だしがこの北河原三河守の女ではないかとする説もあるが、今のところだしと村次が年齢が近いということになっているため有力とは言えない。

5.    ^ 現:大阪府池田市

6.    ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 5版』、株式会社三省堂、2009年 60頁。

7.    ^ 『荒木略記』『寛永諸家系図伝

8.    ^ ただし、これは闇雲に逃走したわけではなく、毛利軍の将・桂元将の詰めていた尼崎へ援軍要請に向かった為である。現にその後も西へ逃亡することなく半年以上も尼崎に留まり抗戦している。

9.    ^ [1]天野忠幸氏は、自身の書籍にて、乃美文書には村重は御前衆数百騎と共に織田方の包囲網を突破する形で尼崎城に向かったと記されていることを主張している。

10. ^ 小川雄は著書『水軍と海賊の戦国史』の中で通説で言われるような恐慌からくる敵前逃亡ではなく第二次木津川口の戦いや中川・高山の降伏により補給路を絶たれたため、まだ毛利方(村上水軍)が補給路を確保していた尼崎城花隈城を確実に抑える事で、本願寺・毛利方との連携を維持するための戦略的撤退だったとする見方をしている

11. ^ 「軍師官兵衛」にも登場、荒木村重しのび茶会 : ニュース : 新おとな総研- 読売新聞[リンク切れ]

12. ^ 中国新聞 201422812

13. ^ 『完訳フロイス日本史』

14. ^ はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われている。

15. ^ 天野忠幸「荒木村重の摂津支配と謀反」『増補版 戦国期三好政権の研究』(清文堂、2015年) ISBN 978-4-7924-1039-1 P130-136

16. ^ 『岩佐家譜』など。近年『寛永諸家系図伝』所収の荒木家の家系図を根拠に、又兵衛は村重の末子ではなく、村次の長男で村重の孫とする説もある(畠山浩一「岩佐又兵衛伝再考血縁関係の再検討を中心に」、『国華』第1364号第114編第11冊所収、2009年)。

17. ^ 熊本藩細川家の家譜『綿考輯録』(『細川家記』)巻五(『出水叢書一 綿考輯録 藤孝公』所収、出水神社 ISBN 978-4-7629-9323-7

18. ^ 岸和田市:市史史料目録「荒木家文書」

19. ^ “荒木流拳法”. 日本古武道協会 (2010119). 2010119日閲覧。

 

 

(ひと)米澤穂信さん 「黒牢城」で直木賞に決まった

2022126日 朝日

 「こんなに辞書を引いたのは初めて。読者の没入感を妨げないよう、一語一語、ことばを選んだ」

 作家生活20年、当代きってのミステリーの書き手が初めて戦国時代を描き、大きな賞を射止めた。

 幼いころから「おはなし」を作るのが好きだった。できるたびに妹に話して聞かせた。今回の受賞作は、有岡城に幽閉された戦国随一の知将、黒田官兵衛を「安楽椅子探偵」にしたら、との発想から生まれたおはなしだ。

 とはいえ、書き慣れない戦国もの。新たに歴史小説の文体を作ろうと、自作の「辞書ノート」にびっしりとことばを連ねていった。

 「すべてを古いことばに置き換えるだけでは読者に伝わらない。ことばを研磨するような作業に評価を頂けたのかもしれません」

 おはなし好きの少年は大学卒業後、書店で働きながら小説を書き続け、やがてデビューに至る。妹に聞かせていたおはなしは見ず知らずの読者に届くようになった。学園もの、恋愛もの、怪奇もの、今回の歴史ものと、様々に趣向を凝らした作品を発表しながら、ミステリーの軸ははずさない。受賞作は四つの主要なミステリーランキングの1位も獲得している。

 「本来いろんなおはなしを書きたい人間なのですが、読者はミステリー作家・米澤の新作を楽しみにしてくださっている」。その期待に、こたえ続けていきたい。

 (文・野波健祐 写真・上原佳久)

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