舌を抜かれる女たち  Mary Beard  2024.12.25.

 2024.12.25.  舌を抜かれる女たち

Women Power    2017, 2018

 

著者 Mary Beard ケンブリッジ大学古典学教授、ニューナム・カレッジ特別研究員、「ロンドン・タイムズ」紙文芸付録の古典文学編集者。英国学士院会員、アメリカ芸術科学アカデミー特別会員。著書に国際的ベストセラー『SPQR ローマ帝国史』(邦訳、亜紀書房)のほか、Confronting the Classics』、『Pompeii: The Life of Roman Town(ウルフソン歴史賞)など多数。アストゥリアス皇太子賞受賞、大英帝国勲章(デイム・コマンダーDBE)受勲

 

訳者 宮﨑真紀 英米文学・スペイン語文学翻訳家。東京外国語大学外国語学部スペイン語学科卒業。訳書にメアリー・ビアード『SPQR ローマ帝国史』、ルイーズ・グレイ『生き物を殺して食べる』(ともに亜紀書房)、ビクトル・デル・アルボル『終焉の日』(東京創元社)、ニナ・マクローリン『彼女が大工になった理由』(エクスナレッジ)など多数

 

挿画 Pablo Picasso's Struggle between Tereus and his sister-in-law Philomela (1930)、 from The Metamorphoses of Ovid

 

発行日           2020.1.10. 初版

発行所           晶文社

 

 

はじめに

母は小学校の校長。結婚しても仕事を続け、子どもを持つ事も出来た。それ以前の世代は、妊娠は仕事を辞めることを意味した

本書は、2014年と17年に『ロンドン・レヴュー・オブ・ブックス』誌主催の講演内容をまとめたもの。西欧社会には、女性を黙らせ、女性の言葉を軽んじ、権力の中枢から切り離そうとするメカニズムが根深く存在してきたという事実について述べる

 

第一部   女が発言すること

3000年前にホメロスの書いた『オデュッセイア』では、オデュッセイアとペネロペイアの息子のテレマコスが、公衆の面前で吟唱詩人に暗い歌より明るい歌を歌ってくれと頼んだ母のペネロペイアに向い、「母上は部屋で自分の仕事をしてください。人前で話すのは男たちの仕事、とりわけ私の仕事です」と母に向かって口をつぐめと命じている

公の場での発言権をコントロールし、女という種にはしゃべらせないようにすることこそ、男が大人になる上で欠かせない要素だった。テレマコスのいった人前での話とは、公的な場での権威ある発言の意

私の関心は、女性の発言を封じるホメロスの古典の一場面と、女性の公的発言がやはり阻まれがちな現代の傾向との関係にある。現代の傾向は、古い『パンチ』誌の漫画でも辛辣に皮肉られている。「それは素晴らしい提案ですね、ミス・トリッグス。多分ここにいる男性諸君の誰かが同じ提案をしたいはずです」(ミス・トリッグス問題と呼ぶ)

現代でも、様々な政治的な場において、女性は黙らされている。公に発言したことで女性たちの多くが嫌がらせを受ける、その事実と古典との間に何か関係があるのではないか

女性の声と、公的な場での演説・議論・発言の間には、文化的不和がある

ミソジニー(女性嫌悪)だと簡単に片づけがちだが、もっと複雑な事情が背景にあるのではないか。古代ギリシャ・ローマ時代を通じて、女性に公的発言をさせないばかりか、女性の口を封じる場面を敢えて見せつける試みが延々と行われ、大抵の場合は成功していた

女性の公的発言を封じる古典世界の傾向には、例外が2つしかない。1つは、人身御供や殉教者になる女性には、死を迎える前に公に発言することが許され、自分の信念について主張してからライオンの前に進んだ姿が描写されている。また、強姦者を糾弾し、自殺を予告するために独りで演説する機会を与えられたケースもあるが、レイプ犯は女の舌を切った

もう1つの例外は、自分や周囲に限定される利益を守るためなら公然と発言できたが、男性陣やコミュニティ全体を代表して話すことは出来なかった。「女性は、裸にされないよう身を守るのと同様、声を人に聞かれないよう慎むべき」とされた

公的発言や演説は、古代の女性がしなかったことであると同時に、男性性を定義する男専用の行為であり技術だった。エリートの男性市民とは、雄弁術を身につけた立派な男を意味した

低い声は男らしい勇敢さを、女性の甲高い声は臆病さを表した

現代にいたる西欧の演説の伝統を見るにつけ、大事なのは、古典から引き継がれた伝統が、演説というものの概念や、いい演説か悪い演説か、説得力があるかないか、誰の演説に聞く価値があるかを定める、強力なテンプレートを私たちに授けたのだということで、そのテンプレートにおいてジェンダーが重要な基準となっているのは明白

政治以外のあらゆる方面でも、伝統的に男性のものとされる領域を女性が侵犯しようとすると、徹底的に抵抗される

彼女の話に耳を貸さなくなった過程と偏見に、どうしたら私たちが気付けるか、ジェンダーの問題は、ネット荒らし(インターネット・トロール)や悪口から殺害予告までオンラインで伝わってくる敵意にも絡んでいる

現実的な解決策は? 批判的な目で問題を自己認識する伝統が古代にきちんと存在していた。公的発言の話法、誰の声が相応しく、それはなぜなのかといった問題を表面化させる努力をすべきで、必要なのは、威厳のある声とはどういう意味なのか、私たちはどういう過程を経てそう考えるようになったのか、問題意識を高めること

 

第二部   女がパワーを持つということ

10年前と比べても、権威ある地位をより多くの女性が占めていることは間違いないが、権力者というときに思い描く典型や文化的なテンプレートは、やはり断然男性ではないかというのが、私の基本仮説。文化的ステレオタイプの威力はそれだけ強力

女性が権力に手を伸ばそうとする時のメタファー ――「ドアをノックする」「城塞を襲撃する」「ガラスの天井を壊す」「レッグアップする(騎乗する女性の足に手を添えて支える)」――は、女性が外野にいるという事実を強調する

2017年初の『タイムズ』紙の1面見出しは、ロンドン警視総監、BBC会長、ロンドン大主教の座に間もなく女性が座るという予測について、「女性が権力奪取か」と謳う。実際その年警視総監が実現、翌年には大主教も女性になったが、権力奪取と紹介すること自体、女性と権力の関係について文化的にどんな思い込みがあるのか、注意深く見ていかなければならない

古代ギリシアの神話や物語にはかなりパワフルで印象的な女性が何人も登場する

現実には自立していなかったが、演劇では権力を濫用する者として描かれ、それによって現実世界で女を権力から遠ざけ、男が支配することを正当化している

『アガメムノン』(初演はBC458)では、トロイア戦争に出征した留守を王妃が守るが、王妃は男のように振舞い、アガメムノンが帰還したときには殺害して政治を混乱させ、最後は子どもたちによって殺され、ようやく家父長制の秩序が取り戻される

パンテオンの女神アテナの命でペルセウスは、海の神ポセイドンの愛人で見たものを恐怖で石にしてしまうメドゥーサを征伐。その首を掲げるペルセウスの像がフィレンツェのシニョリーア広場に立つが、驚くのはこの生首のモチーフが未だに女性のパワーを貶める文化的シンボルになっていること。メルケルの顔はメドゥーサに何度も画像合成され、保守党党首で首相になったテリーザ・メイは、「メイデンヘッド(彼女の選挙区)のメドゥーサ」と呼ばれ、労働党大会の漫画ではメイドゥーサが描かれた。ヒラリー・クリントンは最大の被害者で、フィレンツェの像のペルセウスがトランプの顔に、メドゥーサの顔がヒラリーに塗り替えられて出回った

どうやったら女性を権力の内部に再配置できるのか?

成功した女性を見ると、単に男性の流儀を猿真似するだけが戦略ではなく、普通は女性を馬鹿にするのに使われる類のシンボルをむしろ自分の武器に変えていることに気づく

サッチャーは、政治に携わることを「ハンドバッグする」と表現、女性用装身具を政治権力を表す動詞に使った。私も学者としての仕事について初めてのインタビューで青いタイツを履いて臨み、「インタビュアーが私のことを青踏目と考えることなど先刻お見通しだ」と先取りした

テリーザ・メイの靴へのこだわりとキトゥンヒール(35㎝のローヒール)は、男たちのテンプレートにひとまとめにされるものかという彼女なりの闘い方なのではないか

私の仮説通り、女性の権力からの除外が文化に構造的に根付いているのだとすれば、漸進的な進歩を待っていたら時間がかかり過ぎる。女性が権力構造に完全に入り込めないのなら、権力の方を定義し直すべき。女性の成功を何で判断するかという問題に答えるのは難しい

権力を、おおやけの威光から切り離す、リーダーだけのものではなく、フォロワーたちが団結すればそこにパワーが生まれると想定する。パワーは所有物ではなく、そこに備わる属性であり、動詞でさえあると考える。影響力を持ち、世の中を変えることができる力、個人だけでなく女性たち全体の言葉を軽視させない権利を想定、それこそ多くの女性が欲しいと思っているものではないか

この数年間で最も影響力のあった政治運動の1つがブラック・ライヴズ・マターで、3人の無名の女性の声から始まった

 

 

あとがき 講演を本にすること―そして、失敗する権利について

講演でしゃべった内容を半永久的に形が残る印刷媒体にするのは難しい。どれくらい客観的になり、再考し、議論を洗練させるか?

女性への嫌がらせの最近の例を知りたければ、ネット上にいくらでも見つかる

ネット上でのダブルスタンダードは枚挙にいとまがない

母ペネロペイアが人前で何か言おうとしたときにテレマコスが𠮟責した、この出来事は、21世紀になった今でも頻繁過ぎるほど繰り返されている

 

本から#MeTooへ―そして、レイプに関する考察  2018.9.(ペーパーバック版のあとがき)

1年前、初版のあとがきで本書は締めくくられ刊行されたが、その後#MeTooが世界一有名なハッシュタグとなり、ハーヴェイ・ワインスタインが成功した映画プロデューサー以外の意味を持つようになり、レイプやセクハラの問題がこれまでになくおおやけに、そして真剣に話し合われることになった

MeToo運動がどこまで広がるか不透明だが、その精神が広がれば女性たちはもう黙ってはいないし、それ以上に重要なのは、これが男たちの目を覚まさせる警鐘になってくれること

MeToo運動は、いくつかの面で、本書の中の私の主張と重なる

自分も1978年夜行列車の中でレイプされたが、私の人生の中でその出来事の位置付けが様々に変化していった。同時に、MeToo運動の流れの中で報告された男たちの行動についても疑問を持つ。彼等は自身のしたことについて自分にどう説明しているのか? 男たちの話を注意深く聞いて、その言い分の根拠となっている搾取の図式や腐ったヒエラルキーを明らかにしないと、それに対抗できない

 

訳者あとがき

著者が言うミス・トリッグス問題――女性の声や発言が何かと軽視される現象――は、近年とみに注目されている

フェミニストとして歯に衣着せぬ言動をとってきたビアードは、「イギリス一有名な古典学者」とも呼ばれる

「ミス・トリッグス問題」の源は、実は古代ギリシア・ローマ時代に遡ることができるとし、ホメロスやギリシア神話などを読み解くことで、問題の意味や解決の可能性について、独特の切り口から掘り下げていく

1部では、古代ギリシア・ローマでは「公の場での発言=男のアイデンティティ」という論理が成り立ち、脈々と「権威ある発言」と「男の声」が結びつく伝統が受け継がれてきたとし、「権威」とは何か、なぜ低く太い声の方が「権威がある」と思えるのか、そこに女性を権威から遠ざけようとする文化的・伝統的意図があるのではないか、考え続ける必要があると訴える

2部では、古代ギリシア・ローマの文学や神話に登場する「パワーを持った女」は「世を乱す存在」とされ徹底して討伐されたことを取り上げ、もし女性をパワーから切り離そうという圧力があるなら、パワーそのものの意味やそれが存在する場所を変えてしまおうというのが著者の提案で、名もない人々の小さな力でも、結集すれば「パワー」になる。その実例がMeToo運動。著者はペーパーバック版のあとがきで、自らのレイプ体験に触れ、「語ること(ナラティブ)」の大切さを訴える。自ら語り、人や相手の語りを聴き、団結して対抗するパワーを生むこと、そして何より、運動を一過性のものとせず、継続して問い続けていくこと、それが重要

女性のパワーや発言に対する抑圧が太古の昔からいかに文化や伝統に刻み込まれて来たかを知り愕然とするが、無意味な権威主義には公然と逆らい、「何を着ているかではなく、何を語るかで判断してほしい」と主張するビアードの言葉に、きっと勇気をもらえると思う

 

 

 

 

晶文社 ホームページ

舌を抜かれる女たち

メアリー・ビアード 著 宮﨑真紀

英ガーディアン紙が選ぶ<21世紀の100冊>に!

メドゥーサ、ピロメラ、ヒラリー・クリントン、テリーザ・メイ……。

歴史上長らく、女性たちは公の場で語ることを封じられ、発言力のある女性は忌み嫌われてきた。古代ギリシア・ローマ以来の文芸・美術をひも解くと、見えてくるのは現代社会と地続きにあるミソジニー(女性嫌悪)のルーツ。軽やかなウィットをたずさえて、西洋古典と現代を縦横無尽に行き来しながら、女性の声を奪い続けている伝統の輪郭をあぶり出す

#MeToo運動を受けて追記された二つめの著者あとがきも収録。

●英ガーディアン紙が選ぶ<21世紀の100>に選定!

「このコンパクトなマニフェストは、たちまちフェミニズムの古典となった」

●英サンデー・タイムズのベストセラー第1!

NYタイムズのベストセラーにランクイン!

「権力とは何か、何のためのものか、その大小をどうやって測るべきか、そういうところから考えていかなければならない。別の言い方をすれば、女性が権力構造に完全には入り込めないのなら、女性ではなく、権力のほうを定義し直すべきなのです。」——本文より

 

 

 

 

2020.2.1. 朝日

(書評)『舌を抜かれる女たち』 メアリー・ビアード〈著〉

 男が女に〈黙れ、女は人前で発言してはならぬ〉と告げた最初の例は、3千年前のホメロスの叙事詩『オデュッセイア』だった。息子のテレマコスは母のペネロペイアにいった。人前で話すのは男の仕事だ。〈母上、今は部屋に戻って、糸巻きと機織りというご自分の仕事をなさってください〉。同様の思想が今も根強く残ることを、古典などの豊富な例から鮮やかにあぶり出した本である。

 例外的に女性が発言を許されるのは、彼女が「女ではない」とみなされるか、女性の私的領域に関する発言の場合だけ。そのためマーガレット・サッチャーは低い声を出すトレーニングを受け、ヒラリー・クリントンはネット上のひどい悪意にさらされた。議会から職場まで、公の場での女性の発言を封じる力学!

 男女平等度が世界最低ランク(121位)の日本も例外ではない。女性は「あるある」、男性は冷や汗タラーッ。女たちよ負けるなという静かなエールだ。

 斎藤美奈子(文芸評論家)

    *

 『舌を抜かれる女たち』 メアリー・ビアード〈著〉 宮崎真紀訳 晶文社 1760円

 

 

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