エンジェルフライト 国際霊柩送還士
2024. エンジェルフライトAngel Freight 国際霊柩送還士
著者 佐々涼子
Wikipedia
1968年横浜市出身。ノンフィクション作家。本名渡辺有美子。早稲田大学法学部を卒業と同時に結婚し、専業主婦として2児を育て、夫の転勤に合わせて各地で暮らした。 日本語教師を経て、39歳でライターズスクールで学びフリーライターになる。2012年、『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』(集英社)で第10回開高健ノンフィクション賞を受賞した。
東日本大震災(2011年)で被災した日本製紙石巻工場の復旧を追った『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』(早川書房、2014年) は、紀伊國屋書店主催の第12回キノベス!第1位、 月刊誌『ダ・ヴィンチ』のBOOK OF THE YEAR第1位、新風賞特別賞などに選ばれた。
2020年『エンド・オブ・ライフ』(集英社インターナショナル)で第3回Yahoo!ニュース本屋大賞ノンフィクション本大賞を受賞した。 2022年3月、Amazon Prime Video Japanの記者発表会PRIME VIDEO PRESENTS JAPANにおいて、『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』を原作としたAmazon Originalドラマ「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」の製作が発表された。
2019年に、大学の同窓生で在留資格がない外国人の支援に取り組む弁護士の児玉晃一と再会したことを機に、日本語教師時代に触れた在日外国人の苦境への関心が甦り、日本の入国管理問題を取材した『ボーダー:移民と難民』(集英社インターナショナル)を22年に刊行した。
同年11月下旬、持病の頭痛が耐え難くなり診療を受けたところ脳腫瘍が見つかって摘出手術を受け、12月13日にTwitterで公表し[12]、闘病を続けながら日記などを執筆した。
2023年1月、Amazon Originalドラマ『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』の主演・米倉涼子ほかのキャスト、ならびに同年3月17日世界同時配信であることが発表された。
2024年9月1日午後4時8分、悪性脳腫瘍のため横浜市戸塚区の自宅で死去。56歳没
発行日 2012.11.30. 第1刷発行
発行所 集英社
l 遺体ビジネス
エンバーミング(防腐処理)
l 取材の端緒
2003年、外国人や日本人の遺体を故国へ搬送する国際霊柩送還の専門会社エアハース社設立。本社は国際線貨物ターミナル内。それまでは葬儀社の1事業として扱われていた
l 死を扱う会社
1年に400~600人の邦人が海外で亡くなり、エアハースでは約200~250体を扱う
l 遺族
フランス人と結婚した日本女性が、日本で産んだ子供が亡くなり、フランスの祖父母に会わせるために遺体のままフランスに送る
突然の事故死などの場合には、喪失感が癒えるまで遺族の面倒を見ることもある
l 新入社員
家族経営のエアハースに青年が新卒入社。遺体の処置に興味があるという
葬儀関係の職業は昔から差別の対象
マニュアルのない仕事を、気を利かせながらこなす
l 「国際霊柩送還」とは何か
海外の事故や事件で法人が亡くなった場合、本人確認の後出国手続きが取られ、現地の葬儀社やエンバーマーが適切な処置をして日本へ送る。日本に到着した遺体はエアハースが必要な処置をして、自宅や葬儀社へ送り届ける。日本で外国人が亡くなった場合は、専門のエンバーマーが処置をして役所などで必要な手続きを取り、エアハースが故国へ送り出す
アメリカでは、エンバーマーはライセンス制で、ほとんどが土葬のため、90%以上はエンバーミングが施されるが、日本では99%が火葬なので、アメリカほど一般化されていない
葬送とは、理屈では割り切れない遺族の想いに応えるために存在し、エアハースを始めとした世界中の国際霊柩送還の事業者たちは遺族の願いを叶えるために働いている
l 創業者
出来る限り早く故人を待ちわびる遺族のもとへ帰すことが求められる
遺族の悲嘆のプロセスは12段階――①精神的打撃と麻痺状態、②否認、③パニック、④怒りと不当感、⑤敵意とルサンチマン(うらみ)、⑥罪意識、⑦空想形成・幻想、⑧孤独感と抑鬱、⑨精神的混乱とアパシー(無関心)、⑩諦め・受容、⑪新しい希望―ユーモアと笑いの再発見、⑫立ち直りの段階―新しいアイデンティティの誕生
遺族ケア(グリーフケア)が重要な役割
社長の木村利惠は東京港区の板金工の娘。返礼品(香典返し)会社でのアルバイトが今の仕事に繋がる。葬儀の現場に立ち会って、遺族に慕われた
葬儀社で初めて国際霊柩部門を立ち上げていた山科と、2003年エアハース設立
利惠の仕事を理解しない夫と別れ、2人の子供とともに独立。直後にスマトラの大地震勃発、日本人の死者が40名に上り、一気に仕事がパンク状態に
l ドライバー
新聞搬送のトラック運転手から最近入社してきたドライバーが転職した契機は、両親との死別
l 取材者
国際霊柩送還の取材をしている自分には、家族との死別体験すらない
3歳の時に、生れた弟がその日に亡くなったことが、今になって私の心を動かし始めたのだろう
l 二代目
利惠の息子は、立派に跡を継げる力を付けつつある。利惠が死んだら、さすがと思われるような葬儀を挙げてやりたいというのが念願
l 母
60代初めにパーキンソン症候群に罹患し日に日に体の機能を失っていく母を前に、尊厳死の問題に直面。当然のように尊厳死を認めていたが、自分の母親の死に行く姿を見て、簡単にできることをしないことで、死なせてしまうことなど、とても考えられない
l 親父
海外の工事現場で不慮の死を遂げた壮年の会社社長の無言の帰国に立ち会う
l 忘れ去られるべき人
国際霊柩送還とは、不思議な行為。腐りやすい遺体を遠い国から家族の所へ戻し、生きているときと同じ顔に修復してお別れをする。我々はいくら科学が進歩しようとも、遺体に執着し続け、亡き人に対する思いを手放すことはない。人は人を諦めきれない
エアハースの処置を見ていると、アメリカのエンバーミングとは意図するものが異なっていると感じる。遺体のたたずまいの何かが決定的に違う
遺族にとって一番いい形で亡くなった人を連れて帰ることが国際霊柩送還士の仕事であり、いつか亡くなった時の一番辛い記憶は薄れ、一番いい思い出とともに遺族は亡き人を思い出す。そこでは国際霊柩送還士たちの仕事はきちんと忘れられようとしている
l おわりに
佐々涼子さん死去 ノンフィクション作家
2024年9月3日
5時00分 朝日新聞
災害の現場や死をテーマにした作品で知られるノンフィクション作家の佐々涼子(ささ・りょうこ、本名渡辺有美子〈わたなべ・ゆみこ〉)さんが1日、悪性脳腫瘍で死去した。56歳だった。葬儀は近親者で行う予定。喪主は夫渡辺健夫(たけお)さん。
横浜市出身。異国で亡くなった人の遺体や遺骨を遺族の元に届ける仕事に密着した「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」で2012年に開高健ノンフィクション賞を受賞した。14年には東日本大震災で被災した製紙工場の復興を描いた「紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている」を出版。終末期がん患者を7年越しで見つめた「エンド・オブ・ライフ」は20年の本屋大賞ノンフィクション本大賞に選ばれた。
22年12月に発病を公表後、闘病を続けていた。
佐々涼子さん死去 ノンフィクション作家「エンジェルフライト」
(惜別)佐々涼子さん ノンフィクション作家
2024年12月21日 朝日新聞
衰えゆく自宅ベッド上でも「楽しい人生で全く後悔はない」「ありがとう」と毎日夫に伝えていた=集英社インターナショナル提供
■もがきながら追った、生と死
9月1日死去(悪性脳腫瘍) 本名・渡辺有美子 56歳
悪性脳腫瘍をSNSで公表したのは2022年12月上旬。1カ月後、東京・築地の本社でインタビューした。向かいの国立がん研究センターに通院中で、頭蓋骨の一部は外れたまま。夫の渡辺健夫さん(55)に手を引かれて「頭がボーッとしている」と言った後、息子や孫に囲まれて闘病する幸せや入管行政の闇に斬り込む新刊「ボーダー 移民と難民」への思いを口にした。
12年出版「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」で開高健ノンフィクション賞に輝き、その名を世間に刻んだ。異国で逝った人を祖国へ運ぶ仕事を描いた作品は23年ドラマ化。当時から最期まで伴走した編集者の田中伊織さん(65)は「取材帰りに『もし本が売れて映画になったら』と主人公の女傑社長役の人選で論争に。結局、彼女の言葉通りになった」と懐かしむ。
死に向き合う人々を丹念に追い、その過程でしたたり落ちる滴のような物語を紡いだ。ノンフィクションでは異例のベストセラーを連発したが、器用な人ではなかった。
早大法学部卒業後、司法浪人を始めた直後に妊娠発覚。迷わず産むと決め、在学中だったサークルの後輩と結婚した。転勤族の夫と地方を巡りつつ男児2人を育てる生活は窮し、専業主婦という生き方にも迷う。00年代半ば、あきらめていた「社会で働く」夢に動く。日本語教師にスーパーのレジ打ち、駅構内での婦人服販売……。どれもなじめず稼げもしなかった。
40歳目前でライターの道へ。頭角を現すきっかけは東京・新宿歌舞伎町で「駆け込み寺」を営む玄秀盛さん(68)との出会いだった。修羅場から逃げてきた人々の話をメルマガに書く仕事で、「世間知らず」と怒鳴られ続けた。過酷な現実を目の当たりし、取材力を鍛えられたが、その後も執筆中「書けない」ともがき苦しんだ。7年越しで出た本は70回以上推敲した章も。地道な努力家だった。
冒頭の取材中「優先順位が変わった」と繰り返し、その後ずっと家族と過ごした。末期がん患者を描いた「エンド・オブ・ライフ」発売後の20年秋「在宅で逝く自分を想像できない」と語っていたが、2年弱、自宅で夫に手厚くケアされ、息子2人にも見守られ息を引き取った。(高橋美佐子)
折々のことば:2941 鷲田清一
2023年12月17日
5時00分
「お父さん。やるじゃないの」 (佐々涼子の母)
◇
祖父が昔、給料袋を掏(す)られたと言っていたのは実は競馬で擦(す)ったのだと知らされた母が、棺の前で発した言葉。葬儀では、お経をあげる坊さんの後頭部の皺(しわ)が笑い顔に見え、思わず吹きだした。葬儀は人に悲嘆とは別の感情をもたらしもするとノンフィクション作家は言う。このちぐはぐは、人の哀(かな)しみをそっと包(くる)む天然のヴェールなのかもしれない。『夜明けを待つ』から。
母のために残した380文字 18歳で急逝した息子からのメッセージ
若松真平2023年5月1日
6時30分
高校の卒業式まで残り半月を切った2022年2月17日。
群馬県内に住む石田龍之介さん(当時18)は「急性出血性白質脳炎」で救急搬送された。
当初は何の病気かわからず、脳の炎症を抑える薬を投与したものの、5日後に脳死状態と診断された。
病院で説明を受けた母の裕子さん(49)は「突然、龍之介だけが死への道を猛スピードで走り出してしまった」と思った。
4月から、東京電機大の理工学部で学ぶことが決まっていた。
次男も高校進学を控えていたし、夫は人生最後と決めた転職の予定だった。
「それぞれに門出を迎える家族3人を応援する」
裕子さんが思い描いていた未来は一変した。
搬送から約1カ月後の3月19日、龍之介さんは病院で息を引き取った。
500字詰め原稿用紙に
「私がもっと早く気づいていたら、龍之介は助かったかもしれない」
裕子さんは自らを責めて「たら」「れば」ばかり考えていた。
次第に、自分が起きているのか寝ているのかもわからなくなった。何もできず、時間だけが過ぎた。
「前を向かなくちゃ」と現実に戻ると、今度は嫉妬心にさいなまれる。
「なぜ、私の子どもが死ななければならなかったのか」
他人をねたむ気持ちを抑えられないことが苦しかった。
そんな裕子さんを救い、再び生きるための道しるべになったものがある。
ふいに見つけた、龍之介さんからの「メッセージ」だ。
きっと息子は、こんな人生の閉じ方を予期していなかったはずだ。
なのに、自らを責める母のために言葉を残してくれていた。
500字詰め原稿用紙に見慣れた丸文字で計380文字。こんな文章が記されていた。
◇
後悔先に立たずとはよく言ったもので、ふと思い馳せると様々な失敗が頭を巡ります。
「あの時の選択は本当に正しかったのだろうか?」「もしああしていれば…」
なんて、これまでのことをずっと考えてしまいます。
これを読むあなたも、きっと私と同じ轍を踏むことになるのです。
避けて通ることはできません。
いずれ必ず、そうなるのです。
人はそういう生き物です。
思い通りにいかなかった時、自身をその状況へ導いた自分の選択を恨み、悔やむのです。
けれども、大事なのはそこからです。
過去を悔いても仕方がないと気付き、そこから立ち上がれるかどうかです。
変えられぬ過去を考えるより、変えられる未来を変えるのです。
困難は幾度となく貴方の行く手を阻むでしょうが、乗り越えるか否か、そして「後悔先に立たず」の先に何を見つけるか、全ては貴方次第です。
励みなさい。応援しています。
息子から出された難題
見つけた場所は、学校の私物がまとめられた段ボールの中。
受け取れなかった卒業アルバムや上履きなどを、先生がまとめてくれたものだ。
一番上にピンクのファイルが置かれていて、成績表や学校で書いた作文などがとじられていた。
思わず手をとめた作文のタイトルは「『後悔先に立たず』の先にあるもの」。
私が病院に連れて行く判断が遅れたから、息子は死んだんだ。
私が殺したようなものなんだから、この罪を背負って生きなければならないんだ。
そう思っていた時に、目に飛び込んできた「変えられぬ過去を考えるより、変えられる未来を変えるのです」の一文。
真っ暗闇の中にいた裕子さんの心に、再び明かりをともした言葉だった。
悲しんでいる暇なんてない。
「お母さんはどう生きる?」という問いを突きつけられているんだ。
息子から出されたこの難題に答えを出さなくちゃ。
そう決めると、息子が書き残した小説や部屋に残されたメモ書き、パソコン内のファイルなどを片っ端から読もうと決心した。
亡き息子と母との「対話」が始まった。
息子の椅子に座って
龍之介さんの部屋で、龍之介さんが使っていた椅子に座り、机に向かう。
読み返す時のために線を引こうと鉛筆を探すと、机のすぐ手の届くところにあった。
鉛筆を手に読み進めると、線を引こうと思ったところに龍之介さんが線を引いていた箇所がいくつもあった。
まるで、2人で一緒に読んでいるような気持ちになった。
高校の文芸部に所属していた龍之介さんは、いくつもの小説を書き残していた。
「ヒューマンズ・レフュジア(人類が局地的に生き延びた場所)」という作品には、こんなくだりがある。
◇
立派な大人に育てる責任もあるだろう。
子供はいつまでも子供じゃない。
自立した、その先を見据えて教え育まなくては。
子供を産んだからといって、親になれるわけじゃない、ということだ。
子育ての中で親もまた育っていく。
◇
これを読んで「テストで100点○○枚とったらニンテンドー3DSを買ってあげる」という約束をほごにしたことを思い出した。
定期テスト前にライトノベルばかり読んでいたので、本箱ごと捨てようとしてケンカになったことも。
そういえば、誕生日プレゼントとして手に入れた「広辞苑」をテスト前に読破しようとしていたので、とがめたこともあったな。
スマホのメモには「正解なんてない 間違いもない 自分で決めるのだ」と残されていた。
幸せとは何か
「思考販売(仮題)」という未完の短編小説もあった。
男が自販機の中に「幸せ」と書かれた飲料を見つける。
うさんくさいと笑いながらも、その缶が気になり始める。
あれこれ考えた末、自らの境遇を振り返ってこう思う。
「こういうものに縋(すが)らなければ、俺はもう、二度と幸せに巡り合えないのではないか」
結局買った男は、その場で缶を開けることはなかったが、口元に笑みを浮かべていた。
その姿を遠目に見ていた設置者2人が会話している場面で物語は途切れている。
この作品を読んだ裕子さんは、今ここにいない龍之介さんと対話してみることにした。
龍之介「どう? あなたならこの缶飲料買いますか?」
裕子「目の前にそれがあったら……私は、買っていると思う」
龍之介「え、なんで? なんでか聞かせてよ」
裕子「あなたが死ぬ前の時点に戻れたらね、買いたい。即買いだよ」
そんなやりとりを思い浮かべながら、「幸せとは何か」について考えた。
こうして残された資料を読み込むことで、母である自分が知らなかった「もう一人の龍之介」と出会えた。
生きている時、そこにいて触れることができた龍之介は、自ら「もう一人の龍之介」について明かすことはなかっただろう。
今はもう体に触れることはできなくなったが、一生知り得なかったであろう「もう一人の龍之介」と出会うことができた。
これは幸せと呼んでもいいのではないだろうか。
もしかして私は、自販機の前で「幸せ」の缶を手にして笑っている男と同じなのだろうか。
息子を失ったら一生すべてが不幸でなければいけないのだろうか、いやそんなことはないはずだ。
死ぬことは負けではないし、無になることでもない。
今こうして息子の存在を感じることに幸せを感じながら、これからも対話を続けていこう。
すべての資料を読み終え、改めてそう誓った。
今なら言える
息子が残したものを通じての対話は、中途半端な気持ちではできなかった。
悲しい、苦しいといった気持ちを捨てて、書かれている内容と向き合った。
読むたびに疲れ、休憩してはまた読み返す。
作業を続けることができたのは「息子ともっと対話したい」という思いがあったからだ。
今できることは「これだけ」ではなく、「こんなにたくさんある」と気づくことができた。
理不尽な別れによってねじ曲げられた道を、自分の力でもう一度まっすぐに戻したい。
そうした思いをまとめた本が今、書店に並んでいる。
発売日は3月19日、龍之介さんが亡くなってちょうど1年の日だ。
本を作り終えた今、心からこう言える。
「龍ちゃん、人生卒業おめでとう!」
◇
本のタイトルは「探すんだ!もう一度生まれて 僕の死んだ理由を 生きる意味を」(遊行社、税込み1980円)。
一冊の本でつながった物語 亡き姉から届いたサイン、著者に贈る言葉
若松真平2023年2月7日
6時30分
ノンフィクション作家の佐々涼子さんが、2020年に出版した本のタイトルだ。
在宅での終末期医療を7年にわたって取材し、「理想の死の迎え方」に向き合った作品。
福島県いわき市に住む「ぴの」さん(45)にとって、大切な一冊だ。
昨年12月、佐々さんがツイッターで悪性脳腫瘍を公表した時にはショックを受けた。
生と死を取材してきた大好きな作家が、自身の病と向き合うことになるなんて、と。
◇
3姉妹の末っ子だったぴのさん。
2017年10月、年が4歳離れた一番上の姉が亡くなった。
がんと診断されてから約10カ月間の闘病を経てのことだった。
病院に見舞いに行くと、姉は「ごめんね、心配かけて」「みんな仲良くしてね」といった言葉ばかりを口にした。
読書家だったが、亡くなる数カ月前には「内容が全然入ってこないんだよ」とぼやいていた。
ほぼ毎日のように面会に行ったが、亡くなってから残ったのは後悔ばかり。
抗がん剤治療の日は付き添って、少しでも不安を和らげてあげればよかったのに。
自分の話ばかりせずにもっと姉の気持ちに寄り添って、何を望んでいるのかを聞けばよかったのに、と。
亡くなる2カ月ほど前に
数ある後悔の中で、ふとした時に思い出すのが、亡くなる2カ月ほど前の出来事だ。
姉の希望で退院し、両親と1週間ほど過ごしたことがあった。
体調はあまり芳しくなく、「次に入院する時は緩和病棟も視野に入れて」という状況だった。
いつも気丈に振る舞っていたが、両親に甘えたかったのかもしれない。
その1週間のうちの1日、ぴのさんともう一人の姉も加わって家族5人で過ごした日があった。
久しぶりの家族だんらんは、思い出話で盛り上がった。
晩ご飯を食べ終えたころ、冗談っぽく「このまま泊まっちゃおっか?」とぴのさんが言った。
姉は「そうしなよ、泊まろうよ!」とうれしそうだったが、実現しなかった。
ぴのさんも2番目の姉も、家で待っている子どもたちのことを気にしていたからだ。
今思えば、夫に「泊まってくるから子どもたちのことよろしく」とお願いすればいいだけだったのに。
いや、心の奥底では弱っている姉の姿を見続けるのがつらかったのかもしれない。
姉妹2人して迷った末、結局その日は帰ることにした。
引き留められはしなかったが、姉は寂しそうな顔をしていた。
その出来事から程なくして再入院。そのまま病院で亡くなった。
「あの時泊まっていれば、思い出がまた一つ増えたのに」
姉の寂しそうな顔を思い出すたびに、何度も後悔が湧いてくる。
「エンド・オブ・ライフ」との出会い
しばらくして母も病に倒れ、父とぴのさんとで介護することになった。
そんな時、書店で目にとまったのが「エンド・オブ・ライフ」だった。
本の中でつづられている佐々さんの両親のエピソードに、自分の母の介護を重ね合わせて読んだ。
終末期医療のくだりでは「可能なら姉の最期もこうしてあげたかったな」と思った。
読了して「よりよく生きるために、いつか必ず訪れる死を思うことは避けられないんだ」と痛感した。
前向きに死んでいく、という言い方は適切じゃないかもしれない。
でも人は必ず死ぬんだから、より良く生きなくちゃという気持ちが強くなった。
本のあとがきには、こんな文章が記されている。
「身近な人がいなくなれば、世界は決定的にその姿を変えてしまう」
「それでも不思議なもので、亡くなった人を今まで以上にとても近く感じる日もある」
これらの文章について、ぴのさんには思い当たるエピソードがあった。
姉が亡くなって2週間後に
闘病中の姉から「死後の世界はあると思う?」と聞かれたことがあった。
ぴのさんは「あると思うし、生まれ変わりもあると思う」と返して、こう付け加えた。
「もし私より先にお姉ちゃんが死んだら、何かのサインを使って『死後の世界はあるよ』と教えてね」
姉からのサインが届いたのは、亡くなって2週間後だった。
子どもが通っている学校のバザーを手伝っていたときのこと。
提供品を並べていると、手塚治虫の漫画「ブッダ」の全巻セットが目についた。
病床の姉から「もう一度読みたいから」とリクエストされて差し入れた漫画がブッダだった。
この機会に読み返そうと、持ってきた人にお願いして全巻買わせてもらい、自分の車の中に運び込むことに。
車のエンジンをかけると、今度はラジオから聴いたことがある曲が流れてきた。
姉が大好きだった「カーペンターズ」の曲だ。
姉は緩和ケア病棟で亡くなる直前までベスト盤を聴いていた。
ブッダで「もしや」と思っていた気持ちが、カーペンターズで確信に変わった。
他の人にはわからなくても、私には確実にわかる伝え方。
「やっぱり姉が知らせに来てくれたんだ」
あとがきに書いてある通りに
このエピソードをツイッターでつぶやいたことがきっかけで、新聞社から取材を受けた。
デジタル版で配信された記事のタイトルは「亡くなって2週間後に届いたメッセージ 妹の私だけにわかる伝え方で」。
それから10カ月後、今度は記事を読んだという女性が、ぴのさん夫婦が経営するカフェを訪ねてきた。
姉の小学校時代の親友で、ピアノ講師の「もも」さん(50)だ。
記事は姉妹とも匿名だったし、店の名前も出ていない。
それでも、ももさんは「もしかしてこのお姉ちゃんって……」と感じて、確証もないまま訪ねてきたそうだ。
ピアノの教え子である80代の女性から「先生、いわきに行くべきです。きっとその子が呼んでいるんですよ」と後押しされたという。
まるで姉が導いたかのような出会いに、思わず顔を覆って泣いてしまった。
「不思議なもので、亡くなった人を今まで以上にとても近く感じる日もある」
佐々さんが本のあとがきに書いていた通りだった。
本人は亡くなっても、今生きている人の中で影響を与え続けている。
それが何かのタイミングで、どこかにつながることがあるんだな、と思った。
◇
ももさんとは、姉について3時間も語り合った。
幼い頃の思い出から闘病中の出来事、亡くなった時の様子まで話し、「生きた証し」が残ったように感じた。
別れ際、ぴのさんは店内にあった一冊の本を選び、ももさんに手渡した。
佐々さんの「エンド・オブ・ライフ」だ。
ももさんの母が亡くなったと聞いて、ぜひ読んでほしいと思ったから。
帰りの電車内で読んだももさんは「人は、生きてきたようにしか死ぬことができない」という一節が心に残ったという。
親友だった姉の生涯を思いながら「今このタイミングで読んだからこそ響いた言葉なんだ」と感じたそうだ。
◇
そんな思い入れのある本の著者が、自らの病と向き合っている。
闘病告白のツイートを見て、いても立ってもいられず、ダイレクトメッセージを送った。
「エンド・オブ・ライフ」にまつわる姉のエピソードや、この本に励まされたことなどを書き連ねた。
応援したい一心で書いたが、送った後になって「気分を害してしまっていたらどうしよう」と不安になった。
姉が病を克服したのならまだしも、亡くなった話を闘病中の方に送ったのはまずかったのではないか。
それでも、この思いだけは伝わってほしい。
私だけじゃなく、たくさんの人が佐々さんの本に励まされ、考えさせられて、より良く生きようという気持ちになっていることを。
軽々しく「がんばって」なんて言えないけれど、どうか、佐々さんの毎日に少しでも笑いや癒やしがありますように。
「私は脳腫瘍」5年生存率16%の現実 佐々涼子さんは夜明けに思う
高橋美佐子2023年2月1日
8時00分
終末期がん患者との日々をつづった『エンド・オブ・ライフ』などで知られるノンフィクション作家の佐々涼子さん(54)が、昨年末に悪性の脳腫瘍と診断され、闘病しています。最近は、重い病気の子どもたちが過ごす「子どもホスピス」に通って取材をするなど、いのちの現場を見つめてきた文筆家。命にかかわる病の当事者となった今、何を思うのか。通院の合間にインタビューに応じていただきました。
佐々さんは今、横浜市の自宅から都内の病院へ毎日のように電車で通い、放射線治療を受けている。脳を手術した時に外した右側の頭蓋骨の一部はそのままの状態で、頭を保護する専用の帽子をかぶって外出する。会社員の夫、渡邉健夫さん(53)がいつも付き添い、その手を握り、ふらつきに備える。渡邉さんは「この年齢になって、夫婦でゆっくり手をつないで歩く時間ができるとは思いませんでした」と照れ笑いで明かす。病気の知らせに急きょ、単身赴任先のインドネシアから戻った。
〈残念ながら私の病気は悪性の脳腫瘍。待ち時間は延長線に入りました。でも、何ひとつ憂いはなくて(以下、略)〉
そんなツイートで深刻な病を気丈なメッセージとともに公表したのは昨年12月13日。
手術後の告知に動揺「私は生き残ってしまった」
11月下旬、持病の頭痛に耐えかね近所のクリニックへ駆け込んだ。すぐに大きな病院へ移され、3日後の開頭手術で右の側頭葉にできたゴルフボール大の腫瘍の8割を摘出した。12月上旬、病理検査で確定診断が下った。5年生存率16%、患者の半数が亡くなる「生存期間中央値」は1年と告げられた。
「術後はずっと頭がボーッとしていて、衝撃よりも『うそでしょ?』という気持ちが今でも強いです」
淡々と語る佐々さんだが、腫瘍の2割が残ると聞いた直後の動揺は激しかった。「腫瘍を全部取ってしまったら植物状態になるから残したと医師に言われた時、『なぜ自然に死なせてくれなかったのか』と。本当に悲しくて、安楽死についてもすごく考えた。私は生き残ってしまったんだと思いました」
佐々さんはこれまで死をテーマにした作品を手がけてきた。
2012年に開高健ノンフィクション賞を受賞した『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』では、異国で亡くなった人の遺体や遺骨を遺族の元に届ける仕事に密着した。気圧が影響する航空機で搬送する様子などの現場ルポにとどまらず、国境を越えて「最後の別れ」に寄り添おうとする日本人の死生観に踏み込んだ内容は高く評価された。今年3月17日には、米倉涼子さん主演の同名のドラマがアマゾンプライムビデオで配信される。
『エンド・オブ・ライフ』は7年越しで書き上げた労作だ。佐々さん自身も神経難病の母の在宅死を経験した。しかし当初は終末期医療というテーマの重さと自分の更年期も重なり、筆がなかなか進まなかった。そんな中で取材で親しくなった訪問看護師の男性ががん末期を告げられる。だが、代替医療に傾倒したり、黄疸が出て痩せてきたのに「がんの言い分を聞けば治る」と言ったり。そんな彼の医療者らしからぬ言動に戸惑いつつも、丹念に耳を傾け、行きたい場所に同行し、その旅立ちまでを見届けた。20年の「Yahoo!ニュース本屋大賞ノンフィクション本大賞」に選ばれた。
命の瀬戸際までとことん追いかけていき、壁に突き当たって悶絶しながらも、真摯な人柄が随所にうかがえる文章表現で1冊を仕上げていく佐々さん。「取材するのは自分に想像力がなく、人の気持ちがわからないから」と謙虚だ。
かつては専業主婦 日本語教師、婦人服販売のバイトも
大胆に取材テーマへ飛び込んでいく作品にはファンが多いが、文筆家に至る道のりは平坦ではなかった。早大法学部で学んだものの、最初の職業は「専業主婦」だ。
法律サークルで一緒だった渡邉さんと卒業とともに結婚し、すぐに長男が誕生、2年後には次男を出産した。転勤族の夫と各地を転々としながら育児に追われ、家計は苦しかった。就職難の中、得意だった国語で働き口を探そうと日本語教師の資格を取得。東京・新大久保などの学校で働くが、教職になじめず10年で辞めた。
それでも稼がねばとスーパーのレジ打ちや駅構内での婦人服販売などのアルバイトをしたがうまく立ち回れない。子どもたちの教育費はかさむし、主婦という生き方にも心のどこかで満足していない。もやもやした気持ちを抱えながら、自分が自由にできる8万円をつぎ込んでライターズスクールの門をたたいたのが39歳。「誰でも必ず1冊の本が書ける。自分の人生を書けるのは、自分だけ。半径3メートル以内の出来事を書きなさい」。講師の言葉は、ごく平凡な人生と思い込んできた佐々さんの背中を押した。そうして初めてペンを握った。
あれから十数年、佐々さんのノンフィクションを読んだ人々は、佐々さんと同じように驚き、同じように心を痛め、直視してこなかった「現実」をも突きつけられる。
最新刊の『ボーダー 移民と難民』にも、やはり日本語教師時代の忘れられない光景がつづられる。それは都心に雪が降った日の授業のこと。無口で日本語が不自由な40代の中国人コックが、こんなたどたどしい文章を発表した。冬の休日は暖房のない部屋にはいられず、山手線に乗って何周もぐるぐると巡る、すると故郷へ帰れるような気がする――。佐々さんの胸には、ひとりぼっちで列車に揺られるコックの姿が焼き付いた。
日本の入管問題を告発、最新刊「ボーダー」
働きづめの外国人の孤独に触れた遠い日の記憶は、大学の同窓生、児玉晃一弁護士(56)に19年に再会した際によみがえった。児玉さんは長年、在留資格がない非正規滞在の外国人の救済に奔走していた。
佐々さんも東日本入国管理センターへ通って話を聴いた。体調不良のパキスタン人男性は自身の吐血入りのペットボトルを見せた。難民認定を求めながら3年以上拘束され、うつ病になったイラン人男性は「普通の暮らしが欲しい」と言った。難民申請中の人たちが生活する施設に1カ月間泊まり込み、フィリピンやベトナムなど日本で働く人々を送り出す側の国も訪ねた。取材は『ボーダー 移民と難民』に結実し、昨年11月下旬に発売された直後、佐々さんの脳腫瘍が見つかった。
この作品は、外国人を労働力としてしか見ない政府の方針や、入管施設で複数の死亡事件が起きても不気味なほど静まりかえった国内世論に強い疑問を投げかける。
「『ボーダー』を書いて、私はすごく甘かったと猛省した。自分こそ無知と無関心で外国人差別を放置してきた張本人なんだと。だから私たちは手をつなぎ、この問題を終わらせねばならない。それが、かけがえのない命に向き合う始まりだから」
佐々さんは今、夜8時には意識がプツッと切れるという。「漆黒の闇で空気もない。何も感じず夢も見ないんです」。そして朝5時に、必ず目が覚める。しばらくベッドに横たわったまま、窓の外を眺めていると、6時半過ぎに白々と空が明けていく。
「それを眺めていると、『あー、生きてる。今日を生きるんだ』っていつも思う。年老いたって、若くたって、どんな病気の人だって、皆それぞれのつらさを抱えて生きてる。それが今、ようやくわかったんです。生きることはすごい大事。だから、どんな人だって1日でも長く幸せに過ごしてほしい」。そう言って泣いた。
最近ようやく少しずつパソコンで文章を打てるようになり、手書きでも日記などをつづっている。主治医に運動や読書を勧められ、「必死になって楽しく生きてください」とも言われる。週末ごとに息子たちが孫を連れて会いに来る。
「残された時間は短いかもしれないが、5年生存率が16%もあるとも考えられる。深刻な顔で暗く過ごすより、楽しく生きて、文章も下手は下手なりに書こうと。実際、どうなるかを見てやろうと興味も尽きないんです。これは、私に与えられた宿題だからかもしれません」
脳腫瘍と闘病、生きて書いて 終末期がん患者など題材、作家・佐々涼子さん
2023年2月1日
5時00分
終末期がん患者との日々をつづった『エンド・オブ・ライフ』などで知られるノンフィクション作家の佐々涼子さん(54)が、昨年末に悪性の脳腫瘍(しゅよう)と診断され、闘病している。最近は重い病気の子どもたちが過ごす「子どもホスピス」に通って取材をするなど、いのちの現場を見つめてきた。当事者となった今、何を思うのか。
佐々さんは今、都内の病院へ毎日のように電車で通い、放射線治療を受けている。会社員の夫、渡邉健夫さん(53)が付き添い、ふらつきに備える。病気の知らせに急きょ、単身赴任先のインドネシアから戻った。
〈残念ながら私の病気は悪性の脳腫瘍。(中略)でも、何ひとつ憂いはなくて〉。そんなツイートで自身の深刻な病を気丈にも公表したのは昨年12月13日。
11月下旬、持病の頭痛に耐えかね近所のクリニックへ駆け込んだ。すぐに大きな病院へ移され、3日後の開頭手術で右の側頭葉にできたゴルフボール大の腫瘍の8割を摘出。12月上旬、病理検査で確定した。5年生存率16%、患者の半数が亡くなる「生存期間中央値」は1年という。
「術後はずっと頭がボーッとしていて、衝撃よりも『うそでしょ?』という気持ちが今でも強いです」
淡々と語るが、腫瘍の2割が残ると聞いた直後は動揺したという。「なぜ自然に死なせてくれなかったのかと。安楽死も考えた」
佐々さんには死をテーマにした作品が多い。
2012年に開高健ノンフィクション賞を受賞した『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』では、異国で亡くなった人の遺体や遺骨を遺族の元に届ける仕事に密着した。『エンド・オブ・ライフ』は7年越しの労作だ。取材で親しくなった訪問看護師の男性ががん末期に。医療者らしからぬ言動に戸惑いつつ丹念に耳を傾け、旅立ちを見届けた。20年のノンフィクション本大賞に選ばれた。
文筆家への道のりは平坦ではなかった。早大法学部で学んだものの、最初の職業は「専業主婦」だ。卒業と同時に結婚、2子を出産。転勤族の夫と各地を転々としながら育児に追われた。日本語教師を経て39歳でライターズスクールの門をたたいた。
日本語教師時代に働きづめの外国人の孤独に触れた記憶は、大学の同窓生、児玉晃一弁護士(56)に19年に再会した際によみがえった。児玉さんは、在留資格がない非正規滞在の外国人の救済に奔走していた。
佐々さんも入国管理センターへ通った。体調不良のパキスタン人男性は自身の吐血入りペットボトルを見せた。難民認定を求めながら3年以上拘束され、うつ病になったイラン人男性は「普通の暮らしが欲しい」と言った。支援施設にも1カ月間、泊まり込んだ。取材は『ボーダー 移民と難民』に結実した。
「ボーダーを書いて、私はすごく甘かったと猛省した。自分こそ無知と無関心で外国人差別を放置してきた張本人だと。だから私たちは手をつなぎ、この問題を終わらせねばならない。それが、かけがえのない命に向き合う始まりだから」
佐々さんは今、夜8時には意識がプツッと切れるという。「漆黒の闇で空気もない。何も感じず夢も見ません」。そして朝5時には必ず目が覚め、空が白々と明ける。「窓の外を眺めて『あー、生きてる。今日を生きるんだ』っていつも思います」。そう言って泣いた。
最近ようやく少しずつパソコンで文章を打てるようになり、手書きでも日記などをつづっている。主治医に運動や読書を勧められ、「必死になって楽しく生きてください」とも言われる。週末ごとに息子たちが孫を連れて会いに来る。
「残された時間は短いかもしれないが、5年生存率が16%もあるとも考えられる。深刻な顔で暗く過ごすより、楽しく生きて、文章も下手は下手なりに書こうと。実際、どうなるかを見てやろうと興味も尽きない。私に与えられた宿題だからかもしれません」
(高橋美佐子)
姉が亡くなって5年、出会いに涙した昼下がり つながり合った細い糸
若松真平2023年1月5日
6時30分
三姉妹のわがままな末っ子として、両親だけでなく2人の姉にもいっぱい世話をしてもらった。
四つ上の一番上の姉は「母親よりも母親らしい世話焼き」で、その愛を重く感じた時期もある。
結婚前に手書きのレシピノートをくれた時は「そこまで心配しなくても……」と苦笑してしまった。
そんな姉が2017年10月、がんでこの世を去った。
診断されてから約10カ月間の闘病生活。
見舞いに行っても、姉は「ごめんね、心配かけて」「みんな仲良くしてね」といった言葉ばかりを口にした。
ぴのさんは励ますことに躍起になり、幼いころの失敗談を面白おかしく話したり、漫画を差し入れたり。
亡くなる数カ月前、リクエストを受けて手塚治虫の「ブッダ」全12巻を持って行ったが、何日か経ってこう言われた。
「おかしいなぁ、内容が全然入ってこないんだよ」
すでに文字を読む力がなくなっていたのだと思う。
姉が逝ってからしばらくの間はぼんやりと過ごし、後悔だけが残った。
「もっと気持ちに寄り添って、何を望んでいるのかを聞くべきだったのに」
1人で来店した女性
それから5年が経った2022年10月中旬。
夫婦で営むカフェに、ぴのさんと同い年ぐらいの女性が1人で来店した。
午後2時過ぎで、お客さんがほとんどいなかったから「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」と声をかけた。
しばらくして注文をとりに行くと、彼女は思いがけない質問をしてきた。
「失礼ですが、お姉さんって『さくら』ちゃんですよね? 私、同級生だった『もも』です。ネットで記事を読んで、東京から来ました」
それを聞いた瞬間、ぴのさんの両目に涙があふれてきて、とっさに手で顔を覆った。
ももさん(50)の名前を聞いて、幼いころに遊んでもらった時のことや、実家があった場所など、いろんな映像が次々と頭の中に浮かんだ。
実は、この10カ月前に新聞社の取材を受けていた。
記事が配信されたあと、夫婦で「お姉ちゃんの友達が読んで会いに来てくれないかな」と話していたことが、まさか現実になるなんて。
いったん厨房(ちゅうぼう)に戻って涙を拭いていたら、お客さんはももさんだけになった。
ぴのさんは「隣に座ってもいいですか」と声をかけ、姉の思い出話を始めた。
きっかけは1本の記事
ももさんが読んだ記事のタイトルは「亡くなって2週間後に届いたメッセージ 妹の私だけにわかる伝え方で」。
亡くなって2週間後に届いたメッセージ 妹の私だけにわかる伝え方で
ぴのさんのツイートがきっかけとなって取材を受けて書かれたものだ。
闘病中の姉に対し、ぴのさんはこんなことを話していた。
「もし私より先にお姉ちゃんが死んだら、何かのサインを使って『死後の世界はあるよ』と教えてね」
すると、姉が亡くなってから2週間後に不思議な出来事が起こった、という内容だった。
ももさんはその記事を読み、東京からいわき市まで訪ねてくれたという。
記事は姉妹とも匿名だったし、店の名前も出ていない。
それでも、ももさんは「もしかしてこのお姉ちゃんって、さくらちゃん?」と感じたそうだ。
実は配信直後に一度読んでいたが、その時は「世の中、そういうことってあるんだな」ぐらいにしか思っていなかった。
半年以上経って2度目に読んだとき、「いわき」「三姉妹」「母親よりも母親らしい世話焼き」といった文章に目がとまったらしい。
記事を手がかりにネットで店を調べたが、さくらちゃんの妹という確証は得られなかった。
そんな時、ピアノの教え子である80代の女性から言われた言葉が、ももさんの背中を押してくれたという。
「先生、いわきに行くべきです。きっとその子が呼んでいるんですよ」
事前に店に電話をかけて確認しようとまでは思わず、「違っていたらその時はその時」という気持ちで来てくれたらしい。
3時間話し込んで
思い出話は盛り上がり、気づいたら3時間が経っていた。
ぴのさんから見た姉は、真面目で融通が利かない、説教くさい、といった印象だった。
ところがももさんにとっては「すごく優しくて、気も利いて、話もよく聞いてくれる友達」だったという。
意外だった。姉の新たな一面が見えた気がして、新鮮だった。
くしくも、ももさんがはるばる来た理由はそこにあった。
「友達だった私だけが知っていることを、たくさん伝えたい」
半年ほど前、ももさんの母が亡くなり、母の友人たちから母の青春時代のエピソードを聞く機会があったそうだ。
自分が知っていたのは母親としての顔だけで、個人として、ひとりの女性として、いろんな顔を持っていたことに気づいた。
当たり前のことながら、ももさんにとっては大きな発見だったし、母のことを誰かと共有できたことで「生きた証し」になったと思えた。
だからこそ、さくらちゃんが亡くなったのであれば、家族と会って話がしたかった。
友達だった自分が知っていることをいっぱい共有して、さくらちゃんが生きた証しを残したい。
そんな思いでいわきに来た、と教えてくれた。
姉が仕向けたことだとしても
ももさんが帰るとき、ぴのさんは店内にあった一冊の本を手渡した。
佐々涼子さんの「エンド・オブ・ライフ」。
「理想の死の迎え方」に向き合ったノンフィクション作品で、ぴのさんが母の介護をしていた時に買った本だ。
ももさんの母が亡くなったと聞いたから、とっさに選んで「ぜひ読んで」と渡した。
帰りの電車内でその本を読んだももさんは、「人は、生きてきたようにしか死ぬことができない」という一節が心に残ったという。
親友の生涯を思いながら「今このタイミングで読んだからこそ響いた言葉なんだ」と感じたそうだ。
今回の再会について、ぴのさんは「姉が仕向けたことなんじゃないか」と思った。
記事のきっかけになったツイートも、取材を受けたことも、ももさんが記事を2度目に読んでピンと来たことも、すべては姉に導かれた結果なのではないか、と。
ただ、それだけで片付けちゃいけない気がする。
だって、最後に「いわきに行かなきゃ」と一歩を踏み出したのは、ももさんの決断なんだから。
どれだけお膳立てされても、そこで行動できるかできないかで、結果は大きく違ってくる。
姉さんに届くのなら、こう伝えたい。
「これから私も一歩を踏み出せる人でいるから、ちゃんと見ててね」
亡き親友に導かれての出会い 35年前の気まずい別れ、謎が解けた日
若松真平2022年12月28日
6時30分
東京都内でピアノ講師として働いている「もも」さん(50)。
小学4年生の冬、父親の転勤で、八王子市から福島県いわき市に引っ越した。
東北のイメージは「寒い」「地の果て」。
実際、青空なのに雪が舞う「風花」の日は特に寒く感じた。
標準語の子は珍しく、文章を朗読すると先生から「アナウンサーみたい」と褒められた。
喜びつつ、クラスメートのクスクスという笑い声が気になった。
いじめられたわけではないが、居心地が悪かった。
そんななか、学級委員長を含む3人組がよく声をかけてくれた。
その1人が「さくら」ちゃんだった。
通学のバスが一緒で、5年生で同じクラスになると一気に距離が縮まった。
流行していた交換日記をしたり、お互いの家に遊びに行ったり。
漫画雑誌は、ももさんが「なかよし」派で、さくらちゃんは「りぼん」派。
持ち寄って、回し読みをするのが楽しみだった。
中学生になると、違う部活に入ったこともあり、会う機会は減っていった。
高校は、ももさんは女子高で、さくらちゃんは共学。
どっちも地元だったから、駅で顔を合わすこともあった。
だが、入学してまもなく「ある出来事」があって、ももさんから話しかけることはなくなった。
そして、2人が話すことは、ついになかった。
偶然、目についたのは
今年8月。ももさんはピアノ教室に向かうため、路線バスに乗った。
いつもは電車だったが、「たまにはバスで」と思ったら渋滞に巻き込まれた。
しかし、この選択が思いがけない展開につながることになる。
目的地まで時間がかかりそうだったので、スマホで新聞社のアプリを開いた。
目に入った記事のタイトルは「亡くなって2週間後に届いたメッセージ 妹の私だけにわかる伝え方で」。
配信されたのは1月で、確か、そのころに一度読んだ記憶があった。
亡くなって2週間後に届いたメッセージ 妹の私だけにわかる伝え方で
がんで亡くなった姉と、残された妹の話。
「もし私より先にお姉ちゃんが死んだら、何かのサインを使って『死後の世界はあるよ』と教えてね」
生前にそんな話をしていたら、姉が亡くなって2週間後に不思議な出来事が起こった、という内容だ。
最初に読んだ感想は「世の中、そういうことってあるんだな」だった。
この日、もう一度読んでみると、「いわき」「三姉妹」「母親よりも母親らしい世話焼き」といった文章が目にとまった。
ふと、「もしかしてこのお姉ちゃんって、さくらちゃん?」と思った。
根拠はまったくなかった。
記事に登場する姉妹は匿名だったし、いわきはそんなに狭くない。
数年前、さくらちゃんが亡くなったと同級生から聞いていたが、がんだったかどうかは知らない。
妹が夫婦でカフェを営んでいるとあり、店名も調べられたが、夫婦の名前まではわからなかった。
電話をかければ確認できそうだった。でも、そこまでしようとは思わなかった。
しばらく経ったころ、ピアノの生徒である80代の女性と話していて、記事の話題になった。
「2度目に読んだ時、もしかして親友のことなんじゃないかって思ったんですよ」
彼女はすかさず、こう言った。
「先生、いわきに行くべきです。きっとその子が呼んでいるんですよ」
言葉に背中を押され、10月中旬にカフェを訪ねた。
顔を覆って泣き出した店員
アポを入れてから行くのはやぼだと思った。
行ってみて、違っていたらその時、という気持ちだった。
カフェの場所は、高校時代の通学路。
当時を思い出しながら歩き、昼の忙しい時間を外して、午後2時ごろに入店した。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
声をかけてきた店員の女性を見て、「さくらちゃんの妹だとしたらこの人だ」と思った。
話を切り出すタイミングは食事を終えてからか、会計を済ませてからか。
そう思っていたはずだったのに、注文を取りに来た時に思わず聞いてしまった。
「失礼ですが、お姉さんって『さくら』ちゃんですよね? 私、同級生だった『もも』です。ネットで記事を読んで東京から来ました」
聞いたとたん、店員は顔を両手で覆って泣き出した。
やはり彼女は、さくらちゃんの妹(45)だった。
記事が出た後、夫婦で「お姉ちゃんの友達が読んで会いに来てくれないかな」と話していたそうだ。
まさか実現するとは思わず、うれしくて泣いてしまったという。
その姿に、こちらまで涙があふれてきた。
彼女は「姉と一緒に私も遊んでもらいましたよね」と、ももさんのことも覚えていた。
そして「隣に座ってもいいですか」と腰掛け、姉のことを話し始めた。
高校時代の話から、闘病中の出来事、亡くなった時の様子まで。
気づいたら3時間も話し込んでいた。
◇
高校入学直後、ももさんとさくらちゃんの間で起こった「ある出来事」についても話が及んだ。
ももさんが駅でさくらちゃんを見かけて「元気?」と声をかけたが、目をそらされてしまったこと。
「またね」と足早に去られてしまい、それを機に話しかけづらくなったこと。
そして、これが最後に交わした言葉になったこと。
当時思い当たった理由は、自分が着ていた女子校の制服だった。
さくらちゃんの第一志望が、自分が通う女子高だったことは知っていた。
進路を決める三者面談で受験を反対され、泣きながら教室から出てきた話も級友から聞いていた。
きっと、憧れていた学校の制服を着た友人の姿を見るのがつらかったのだろう。
そのことをさくらちゃんの妹に伝えると、素直にうなずいて教えてくれた。
「お姉ちゃん、女子高に行けなかったことをずっと後悔してましたから、その通りだと思います」
真面目で、いつも凜(りん)としていたさくらちゃん。
闘病中も自分のことより、家族のことばかり気遣っていたというさくらちゃん。
あの日、ひがんだりねたんだりする姿を見せまいと足早に去っていったのも「さくらちゃんらしいな」と思った。
◇
店を訪ねる前、ももさんはこう思っていた。
「もし本当にさくらちゃんの家族だったら、友達だった私だけが知っていることをたくさん伝えたい」
昨年3月、ももさんの母が肺血栓で急逝していた。
2時間前までLINEでやりとりしていたのに、突然倒れて帰らぬ人となった。
亡くなった後、母の友人たちと話す機会があり、母の青春時代のエピソードが聞けた。
自分が知っているのは母親としての顔で、個人として、一人の女性として、いろんな顔を持っていた。
当たり前とはいえ、どれも新鮮だったし、母のことを誰かと共有できたことで「生きた証し」になったと思えた。
だからこそ、35年前に気まずい別れ方をしたさくらちゃんの家族に会いたかった。
友達だった自分が知っていることをいっぱい共有して、さくらちゃんが生きた証しをずっと残したい、と思った。
◇
帰り際、さくらちゃんの妹から一冊の本を手渡された。
佐々涼子さんの「エンド・オブ・ライフ」。
「理想の死の迎え方」に向き合ったノンフィクション作品で、ぜひ読んでほしいと言われた。
電車の中で読み始めて「人は、生きてきたようにしか死ぬことができない」という一節が心に残った。
聞く限り、さくらちゃんは、さくらちゃんらしい最期を迎えたそうだ。
だからこそ、この言葉が響いたんだと思う。
どんなにいい言葉も、どんなにいい曲も、心にスッと入ってくる時とこない時がある。
出会うべくして出会う瞬間があるということなのだろうか。
もしかして、あの日の記事に気づいたのも、こうやっていわきに足を運んだのも、さくらちゃんが仕向けたことなのかな。
きっと「ももちゃんはどう生きる?」という宿題を出されているに違いない。
答えはまだ見つからないから、とりあえずこう答えておこう。
「私、死ぬまで目いっぱい生きるからね」
好書好日 2020.11.10.
『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている』(佐々涼子、早川書房、2014年)
2011年3月11日、日本製紙石巻工場は津波に呑みこまれた。本の紙の供給にはなくてはならない工場だ。閉鎖が噂されるほどの壊滅的被害だったが、工場長は半年での復興を宣言。その日から、従業員の壮絶な闘いが始まった。工場のため、地元のため、そして本を待つ読者のために!絶望から立ち上がる者たちのドラマを徹底取材した、傑作ノンフィクション(早川書房ウェブサイトより)
・津波により壊滅的な被害を受けた日本製紙石巻工場の再生にかける思いとそれを実現させたパワー、「本の紙」づくりへの情熱と誇り、そして著者の渾身のリポート、すべてに感動し、力をもらいました。(もがなさん)
母みとり「死」書けなくなった作家 自由になれた一言
2020年10月26日
17時22分
人間は生まれてきた以上、必ず死んでいく――。そんな自然の摂理を、老いた親をみとる場面で実感する人も多いかもしれません。終末期とは。「生きる」とは、命とは何なのか。人生100年時代の今、大切な人との別れを通じて貴重なメッセージを受け継いだ佐々涼子さんに聴きました。
ノンフィクション作家・佐々涼子さんの別れ
「母さんが死んでしまったよ」
佐々涼子さん(52)は2014年夏の早朝、近くの実家に住む父の電話を受けました。その8年前に神経難病と診断され、全身の筋肉が次第に衰え、最後はまぶたしか動かせなかった母。明け方に息をしていないのに同居する父が気づき、佐々さんが駆けつけた家の中には母の気配がまだ漂っていたそうです。享年72。
「つっかけを履いて庭に出るように」、母はあの世への境界を越えた。佐々さんはそう感じました。
ただ、それは父の完璧な在宅介護があってこその最期でした。「朝は母の顔を蒸しタオルで丁寧にぬぐって化粧水で保湿し、毎日2時間の入浴時は全身を念入りにマッサージし、1日おきに下剤を飲ませて肛門(こうもん)に指を入れて便をかき出す。私には到底まねできないと思いました」
「『家が一番』と手放しで礼賛できない」
自分たちの世代は家族の終末期をどう支えたらいいのか。正解を求め、訪問医療を行う京都の診療所を拠点に13年から取材を続けていた佐々さん。小5の娘と潮干狩りを決行して帰宅直後に逝った37歳の胃がんの女性など、何人も同行取材しました。でも筆は進みません。かつては母の介助に苦闘していた父の姿も重なり、「『家が一番』と手放しで礼賛できなかった」と言います。
母の在宅での死を消化しきれないまま、佐々さんは更年期の不調に悩み、癒やしを求めて海外の仏教施設などを渡り歩きました。帰国後も「死」を書く気になれなかった18年9月、京都の診療所取材で親しくなった40代の男性看護師から「末期がんを宣告されたので、患者目線で在宅看護の教科書を作りたい。共同執筆者になって」と頼まれました。「200人以上をみとったプロの命がけの願いを断れませんでした」
しかしその後の男性は、終末期患者のケアに奔走していた現役時代とは別人のように見えました。代替医療に没入し、好きな場所へドライブしたり、好きなものを食べて雑談したり。黄疸(おうだん)が出て痩せてきたのに「がんの言い分を聞き、自分が変われば治るはず」と言い張ります。
男性が自宅ベッドから起きられなくなった19年4月、佐々さんは「在宅医療の話をまだ聞けていない」と焦りました。すると「全部見せて、伝えてきたじゃない」と笑って返されました。「ハッとしました。常々、職業の枠を超えた人間としてのケアを目指していた彼は、それを実践していたんです」。好きなように今を生きていい、いつか死ぬんだから。正解を追うことから自由になった時、母の死もつづることができ、7年越しの著書「エンド・オブ・ライフ」(今年2月刊行)を書けたそうです。「亡くなる人が残してくれた『贈り物』だと思っています」
大切な人の死、4割超「心残り」
身近な人を見送った際、私たちは何を思うのか。厚生労働省が2018年に発表した調査結果によると、過去5年間に大切な人を亡くした人の4割以上が「心残りがある」と答えています。心残りなく見送る条件としては「苦痛がもっと緩和されていたら」(39.8%)、「あらかじめ人生の最終段階について話し合えていたら」(37.3%)、「望んだ場所で最期を迎えていたら」(25.3%)などが上位を占めました。
最期を迎える場所がない「みとり難民」は10年後には47万人とも推計されるなか、受け皿となる在宅での死を支える人材養成が全国で始まっています。「看取(みと)り士」の資格認定を行う12年設立の「日本看取り士会」(本部・岡山市)、15年から始まって現在1100人を超えた「認定エンドオブライフ・ケア援助士」を育てる「エンドオブライフ・ケア協会」などがあります。
コメント
コメントを投稿