ウィーン1938年 最後の日々 高橋 義彦 2024.12.18.
2024.12.18. ウィーン1938年 最後の日々――オーストリア併合と芸術都市の抵抗
著者 高橋 義彦 北海学園大学法学部准教授。1983年生まれ、慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学、博士(法学)。主要著作:『カール・クラウスと危機のオーストリア――世紀末・世界大戦・ファシズム』(慶應義塾大学出版会、2016年)、『民主主義は甦るのか?――歴史から考えるポピュリズム』(共著、同上、2024年)ほか。
発行日 2024.8.10. 初版第1刷発行
発行所 慶応義塾大学出版会
序章 1938年の「輪舞」
本書の目的は、1938年に生じた「アンシュルス」を巡るウィーンの人々の「輪舞」を描くこと
「輪舞」のつなぎ目は、シュニッツラーのような性愛ではなく、友情・恋愛・敵対・師弟・家族など様々な関係であり、ヒトラーによる最初の対外侵略がオーストリアという国家の消滅に至った大事件を、同国の政治家や文化人たちがどのように受け止めたのかを、様々な人間関係の輪舞を軸に描いていく
アンシュルスに最後まで抵抗したシュシュニクを起点に1つの「輪舞」を作り上げてみよう
1934年以来首相のシュシュニクの一番の心の静養は、友人で詩人のヴェルフェルにゲーテの詩を朗読してもらうこと。ヴェルフェルのパートナーは、マーラーの未亡人でウィーンを代表するサロンの女主人アルマ。アルマは建築家のグロピウス、画家のココシュカなどと浮名を流したが、初恋の相手はクリムト
クリムトの代表作《マルガレーテ・ストーンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像》のモデルは、隻腕のピアニストのパウルと哲学者ルートヴィヒの姉。ルートヴィヒとリンツの実科学校で同時に在籍していたのがヒトラー。ヒトラーの大規模な焚書の対象になったのがフロイト
フロイトは、原因不明の腕痛で指揮棒が振れなくなったワルターを診察。ワルターもナチに追われてウィーンに逃れ、アルマのサロンで作曲家のアルバン・ベルクと親交を持つ。アルマとグロピウスの娘マノンが夭折したとき、ベルクは彼女にヴァイオリン協奏曲を捧げた。ベルクが通ったのが稀代の諷刺家カール・クラウスの独演会で、後のノーベル文学賞カネッティもクラウスの講演会で未来の伴侶ヴェツァ・タウプナー=カルデロンと出会う
クラウスの諷刺に敵対したのが作家のアントン・クーで、アンシュルス前夜には政治に目覚め、反ヒトラーの運動に参加。オーストリアの独立を維持するため左派から右派まで大同団結したこの運動にはマーラとアルマの娘アンナ・マーラーも参加。アルマに似て恋多きアンナにラブレタ―を送り続けたのがシュシュニク
第一章では、シュシュニクを中心にアンシュルス前史を描く
第二章は、ワルター・ヴェルフェル夫妻とカネッティ夫妻を中心にシュシュニク政権下の文化生活を描く
第三章は、ドイツ軍侵攻前夜である1938年3月11日の緊迫するウィーンの様子を描く
第四章は、ヒトラーを中心にアンシュルス後のウィーンの様子を描く
第五章は、フロイト一家、ウィトゲンシュタイン姉弟、ヴェルフェル夫妻を中心にヒトラー支配下の文化生活を描く
終章では、第2次大戦が終結する1945年のヒトラーとシュシュニクを描く
シュシュニクとヴェルフェルに関わる興味深いエピソード:
ヴェルフェル・グループの常連だった地元紙のジャーナリストが、ベルヒテス・ガーデンに行く直前のシュシュニクがヴェルフェルに会いにきた時の様子を書き残す。シュシュニクは、ヴェルフェルにゲーテの詩を数編朗読してもらって極度の緊張に苛まれる気持ちを抑えたというが、ヴェルフェルはすでにアルマとイタリアで静養しており、ジャーナリストの「記憶違い」。別人の書いたシュシュニクの評伝にも、シュシュニクの謹厳実直な教養人にぴったりのエピソードとして紹介されているが、ありそうであり得なかった話し
第一章 オーストリア併合(アンシュルス)への道
一 ハプスブルク帝国からシュシュニク政権まで
l ハプスブルク帝国
シュシュニク(1897~1977)家は、北イタリアの軍人一家
神聖ローマ帝国(962~1806)で15世紀ごろから皇帝を世襲することになったのがハプスブルグ家だが、帝国内の各領邦国家の独立により徐々に縮小、18世紀以降はプロイセンの台頭、さらにナポレオンによって1806年フランツ2世が退位して帝国は消滅。フランツはオーストリア皇帝フランツ1世を名乗る
1871年、ビスマルクによってドイツ諸邦を統一したドイツ帝国が建国されるが、オーストリア・ハプスブルグ帝国に住むドイツ系住民はドイツ国家から排除される
1867年、アウスグライヒ(妥協)によってオーストリアとハンガリーは同じ皇帝を戴く同君連合国家を形成するが、統合理念を欠いた多民族からなる国家
世にいう「世紀末のウィーン」は文化的爛熟の時代。皇帝が旧市街の城壁を撤去してリングシュトラーセという大通りを整備したことで、貴族文化と市民文化の入り混じった華やかな文化が咲き誇った。宮廷歌劇場、古典様式の帝国議会、ゴシック様式の尖塔が美しい市庁舎などが建てられ、各地から多くの才能が集まり、新しい文化を作り上げる。文学ではフーゴー・フォン・ホフマンスタールにアルトゥア・シュニッツラー、音楽ではマーラー、ヨハン・シュトラウス2世、シェーンベルク、建築ではオットー・ワーグナーにアドルフ・ロース、絵画ではクリムトやエゴン・シーレなど
l 第1次大戦と帝国崩壊
第1次大戦では、片田舎の全寮制寄宿学校生だったシュシュニクも志願してイタリア戦線で参戦。苦戦のオーストリアはドイツに支援を求め、ドイツ帝国への依存度が急速に高まるが、1916年皇帝フランツ・ヨーゼフの崩御で一気に崩壊に向かい、ヴェルサイユ条約やサン・ゲルマン条約などの講和条約によりハプスブルグ帝国は解体される。民族自決に従って多数の民族国家が誕生する中、ドイツ系住民は社会民主党のカール・レンナーを首班としてドイツ・オーストリア共和国を宣言、ドイツとの「アンシュルス」を望んだがフランスの反対にあって挫折
l オーストリア第一共和国
シュシュニクは父とともにイタリア軍の捕虜となり、戦後解放されインスブルック大を出て弁護士となるが、1927年地元政界に推されてオーストリア国民議会選挙にキリスト教社会党から出馬し、最年少議員となって生活は一変。国内は3党鼎立によるイデオロギー闘争が過激化し、実力行使からデモ隊への発砲事件へとエスカレート。アンシュルスの是非も政治的争点に
l ドルフスとオーストロ・ファシズム
1932年、ドルフス内閣でシュシュニクは法相に抜擢されるが、オーストリア・ナチの急激な台頭に危機感を覚えたドルフスは議会を閉鎖し戦時経済授権法に基づく統治を始める
ナチ党は過激化し爆弾テロを繰り返したため政府は非合法化し、反主流派の社会民主党系の武装組織も摘発したため、内戦状態になり、武力によって鎮圧しドルフス独裁が確立
ドルフスの後を継いだシュシュニクも同様のスタンスを取り、ナチスの侵略には抵抗したが、抑圧者であることには違いなく、2人の統治体制を「オーストロ・ファシズム」と呼ぶか、独自の「権威主義体制」と呼ぶか、未だ議論が分かれる。1934年新憲法の前文では、「オーストリア人民はシュテンデ原理(ローマ教皇の回勅に基づくもので、職能団体を重視するカトリック的な理念)に基づく、キリスト教的・ドイツ的連邦国家の為の憲法」と謳う。アンシュルスは拒否するが、自らのアイデンティティをドイツ人として規定せざるを得ない、当時のオーストリア人の苦悩が読み取れる
l シュシュニク政権へ
1934年、ナチ党による一揆で暗殺されたドルフスに代って首相になったのがシュシュニクで、当時ヒトラーと一定の対抗関係にあったムッソリーニを頼り、ムッソリーニも支援を約束。さらにムッソリーニは英仏にも声をかけ、オーストリアの独立を維持することを3国で確認
翌年交通事故で、自身は一命をとりとめるが同乗の妻が死亡。ナチによる陰謀説も出る。直後に母親も亡くなり、悲嘆にくれるが、やがてそれまで以上に政務に邁進
l オーストリア包囲網
1935年、イタリアがエチオピアに侵略、英仏と対立関係に陥る
翌年、ヒトラーのラインラント進駐で、オーストリアにも一気に暴力的な併合の危機が迫る
独墺間に「7月協定」が結ばれ、ドイツが内政干渉をしない代わりにナチシンパの要職就任を約束させられ、ヒトラーによるオーストリア併合の動きが始まる
直後にスペイン内戦が勃発すると、独伊は反政府軍のフランコ支持で合意。ベルリン五輪の聖火リレーがウィーンに来ると、ナチスの示威行動の場となった
シュシュニクは、権威主義的な統治から議会を経た立法へと移行し始め、「シュテンデ的民主主義」ともいうべき独自の体制の完成を目指す
シュシュニクは、ドイツではありながらナチ・ドイツとは異なるオーストリアという複雑なアイデンティティの重要性を強調。それは神聖ローマ帝国にまで遡るヨーロッパ文明の懸け橋としてのアイデンティティ
二 ベルヒテスガーデン会談
1938年2月、シュシュニクは外相のシュミットと共にヒトラーと会談。仲立ちしたのは、ドイツの元駐墺大使パーペン。たまたま3人の将軍が同席
シュシュニクが、ドイツとオーストリアに共通するドイツ民族のための政治の実行を決意すると言ったのに対し、ヒトラーはハプスブルク家とカトリック教会こそがドイツ民族統一の障碍だったとし、自らに課せられた使命であるドイツ民族の真の統一を目指すと明言
ヒトラーからは、オーストリア国内でのナチの活動解放が要求され、3日以内の回答を強要
三 シュシュニクの抵抗
l ザイス=インクヴァルトという男
大統領もヒトラーの要求に屈して、ナチの2人を入閣させ、多くの国民社会主義者を解放
内相になったインクヴァルトは、ナチ・シンパで、党に資金援助を行ってきたが、漸進的な統合を目指す穏健派
ヒトラーは、会談の後の議会演説で、改めてウィルソンの民族自決権がドイツ民族にだけ認められていないことへの不満を述べ、国境外の民族同胞への迫害というロジックを開陳。国境外の全ドイツ人居住地域の併合の正当性を主張
l オットーからの手紙
1938年、ハプスブルグ家当主で反ナチだったオットー・フォン・ハプスブルグ(ヨーゼフの弟の孫)からシュシュニク宛てに手紙が来て、自分の首相職を譲るよう主張してきた
l シュシュニクの演説
シュシュニクもオーストリア連邦議会で演説、オーストリア国家の理念と独立維持への明確な意志を世界に向けて表明。後に「ここがロドスだ、ここで跳べ」の心境だったと述懐したが、要点は3つ。①ドイツの平和を歓迎、②これ以上の譲歩はない、③オーストリアの自主独立
「ここがロドスだ、ここで跳べ」は、イソップ寓話。五種競技の選手が外国から帰り、海外での自分の成績のほら話をした。特にロドス島で大変な跳躍の記録を出し、ロドスへ出かけて聞いてみればそれが本当であることがわかると言った。しかし聞いていた人のひとりは「実際にそんな力があるのなら、ロドスへ出かけるまでもない。ここをロドスとして跳んでみろ」と言った。教訓は「事実による証明が手近にある時は、言葉は要らない」であり、「論より証拠」に近い。
ドイツ的ではあってもナチ的ではない、権威主義的ではあっても全体主義的ではない、自国の理念をナチ・ドイツと対比させ独立維持を訴え、初めて全国民の意志が1つにまとまる
l 国民投票へ
多くのナチ活動家が釈放され、各地でナチスによるデモや騒擾が頻発
シュシュニクは、挙国一致体制を確認するために、独立維持を問う国民投票を実施
l ヒトラーの逆鱗
国民投票実施を裏切りと判断したヒトラーは、投票前の軍事侵攻を命じる
第二章 併合前夜の芸術家たち
一 ワルターとオペラ『ダリボル』
シュシュニクは、音楽を通じた人心掌握に努め、国立歌劇場の芸術監督だったワルターには3年間の契約更新を依頼
l 魂のウィーン人
ワルターとウィーンの縁を取り持ったのはマーラー。ハンブルク国立歌劇場の助手になったワルターはマーラーと出会い、ウィーンの宮廷歌劇場に拠点を移したマーラーの招きで、1901年には同劇場のカペルマイスターに就任。ワルターはウィーンの街に惚れ込み、マーラーの右腕として活躍。マーラーを看取った後もその遺稿の管理者として『大地の歌』『交響曲第9番』などの世界初演を実現。その後ドイツに拠点を移したワルターは、1933年ヒトラーの首相就任直後、ナチスにコンサートを中止させられ、オーストリアへの移住を決意
マーラーもワルターも、ヒトラーはユダヤ人音楽家の活躍を羨望と憎しみの目で見続け、シュレジンガー(あえてワルターの本名であげつらうことでユダヤ的出自を強調)の指揮は「ビアホールの音楽」に過ぎないと貶めた
「ザルツブルクかバイロイトか」という選択肢は、この時代非常に重要な意味を持っていた
政治史的に興味深いのは、ナチスによる支配を逃れてきた芸術家たちが、時に「オーストリア・ファシズム」と呼ばれるこの国の権威主義体制は甘んじて受け入れたこと。ワルターは、アルマを通じてシュシュニクとも個人的に交流
l 残る者、去る者
ワルターは、シュシュニクを深く信頼し、契約更新を受け入れたが、トスカニーニは断固たる反ファシストとして独伊での演奏を拒否してオーストリアに活動御拠点の1つを置いていたが、独墺間の暗雲を見逃さず、1938年のザルツブルクへの出演を拒否
ヴァイオリニストでパレスチナ管弦楽団(後のイスラエル・フィル)の創設者のフーベルマンも同じ時期ワルターに別れを告げる。ワルターにも出国を勧めたが拒否
l スメタナの『ダリボル』の上演
1938年2月、ワルターの指揮で、マーラーによって再発見された『ダリボル』の新プロダクションを上演、前評判通りの大成功だったが、オーストリアとチェコ政府の代表が旧ハプスブルグ帝国の首都ウィーンの歌劇場に集い、ユダヤ系の指揮者により奏でられたチェコ国民音楽の父の作品に耳を傾けるという、まさに消滅の間際にあった世紀末ウィーン文化の最後のあだ花が咲いた夜となった
二 ヴェルフェル(1890~1945)夫妻の愛憎
その頃、ナチ勢力の拡大に対する精神的不安などのためイタリアに静養に来ていたヴェルフェル夫妻は、ベルヒテスガーデンでの会談の記事を読んで「爆弾が炸裂した」衝撃を受ける
l プラハのボヘミアンとウィーンの女神(ムーサ)
ヴェルフェルはプラハの裕福な商人の家の生まれでオーストリアを代表する人気作家
妻のアルマ(1879~1964)は、画家シントラ―の娘でマーラーの未亡人でグロピウスの前夫人。世紀末ウィーンの「女神」とも「魔女(キルケ)」ともいわれる。多くの芸術家と付き合い、浮名を流し、「作品なき影響力」と呼ばれたように、自身の作品はないが、彼女の存在によって生まれた作品は数多い。ヴェルフェルも1詩人からベストセラー作家へと成長した陰には彼女がいたが、アルマの影響で別人のような「サクセス・ボーイ」に成り下がったとの評もある
l サロンの女主人
1929年、ヴェルフェルと結婚、31年から新居で夜な夜なサロンを開催、一大社交場とする
この場を通じた出会いから、ヴェルフェルとシュシュニクの強い友情の絆が生れる
l 聖職者との情事
サロンは、聖職者ホルンシュタイナーとアルマとの情事ももたらす。シュシュニクの贖罪司祭・霊言助言者でもあったホルンシュタイナーは、ヴェルフェル家に深く入り込み不倫関係に落ちるが、それ以上にアルマの政治思想の反動化を誘引。スペイン内戦では人民戦線を支持するヴェルフェルと娘アンナに対し、アルマはフランコを支持、徹底した反ユダヤ主義だった
l 脱出の準備
アンシュルスを巡る危機がヴェルフェルの夫婦関係を修復。単身ウィーンに戻ったアルマは財産をスイスに移す
三 カネッティ夫妻の精神不安
エリアス・カネッティ(1905~94、ブルガリア出身、81年ノーベル文学賞を受賞)にとっても、アンシュルスを巡る危機の日々は、夫妻にとっての危機の日々でもあり、その原因は前年から悪化したエリアスの精神不安
l 狂気の発作
精神不安は数年来のもので、参加していた映画製作の失敗、経済的苦境などを原因とし、37年の母の死で決定的に。母の死で閉じられる自伝3部作は、母と息子の愛憎の歴史そのもの
l 母との愛憎
31歳で夭折した父に代わって母親はカネッティを厳しく育て、結婚を機に訣別
結婚後のカネッティは、夫人ヴェツァの友人で彫刻家だったアンナ・マーラーに夢中になるが、拒絶される。作家のヘルマン・ブロッホやシュシュニクもアンナに夢中になった1人
l ヴェツァの精神不安
ヴェツァがカネッティと結婚したのは、ユーゴ国籍で、ハプスブルグ帝国崩壊後国外退去を求められていたためもあり、アンナも入れた三角関係は奇妙なバランスの上にあり、ヴェツァにとっても精神的な負担だった。それでもまだウィーンはのどかな状態にあった
第三章 オーストリアの一番長い日(1938年3月11日)
l 早朝
ザルツブルク付近の国境が閉鎖され関税官が撤収し列車の往来も停止との報告がシュシュニクに入る。在ミュンヘン大使館からもドイツの侵攻が迫るとの暗号が入電
l 8時
インクヴァルト(内相・治安担当大臣)はヒトラーから、「国民投票は認めない。強行するなら大規模デモを行い、治安維持名目でドイツ軍が進駐する」旨の手紙を受け取っていた
l 9時
シュシュニクに、ナチ党員による各地での不穏な動きと、ドイツ軍の大規模な国境集結が報告される
l 9時半
インクヴァルトが官邸に現われ、ドイツの様子を報告、ヒトラーの要求を伝えるが、シュシュニクは内政干渉だとして憤るが、2時までの返答を求められる
同じ頃、ヒトラーはムッソリーニに特使を送り、オーストリアへの武力侵攻の不可避性を説く
l 11時
救国の民間外交の試みもあった。ドルフスの未亡人が、亡父の盟友ムッソリーニを訪れて支援を求め、同時にドルフスの支援者で「パン・ヨーロッパ運動」の指導者だったリヒャルト・クーデンホーフのもとも尋ねるが、時すでに遅すぎた
l 午後
インクヴァルトからは、国民投票が憲法違反の疑いがあり、4週間延期の最後通牒が来る
答えは、戦争か無条件降伏の両極端しかなく、戦争回避の観点から無条件降伏を選択
l 14時45分
インクヴァルトからシュシュニクの回答を聞いたゲーリングは、単なる時間稼ぎだと断定し、今こそ合邦実行の時だとヒトラーに告げる
l 15時5分
ゲーリングは、インクヴァルトへの政権交代と拒否した場合は19時半にドイツ軍が侵攻すると告げ、シュシュニクは辞任の決意を固めるが、積極抗戦派の声に押されてフランスやイタリアに支援を求めるが、フランスは国内事情で手一杯、ムッソリーニはそもそも国民投票に批判的
l 16時
イギリスにも支援を求めるが、オーストリアの防衛は保障できないと拒否
l 17時
ゲーリングからの催促の電話に対し、駐墺独大使館が首相に任命されたとかいとうしたが、ミクラス大統領は強硬で、独自に首相候補を探すがいずれも辞退。一方で、国内のナチ党員らによる蜂起の可能性も高まる
l 17時26分
インクヴァルトがゲーリングに電話し、首相就任が誤報と判明。大統領に直接軍事侵攻の用意があることを伝えさせられる
l 18時
イギリスはなお戦争回避の努力を傾注、訪英中のリッペントロップ外相に、「むき出しの暴力」だとして厳重に抗議。仏政府とともにイタリアにも呼び掛けるが、イタリアは英仏とエチオピア侵攻を巡って対立を深めており、呼び掛けを無視
l 18時半
ゲーリングの督促にもミクラスは強硬な態度を変えず
l 19時
シュシュニクもミクラスに、インクヴァルト首相就任を「ナチスの中では、まともな人間」だと判断し次善の策として推薦。オーストリアの独立を維持する一縷の望みをつなぐ
国立歌劇場ではアルヴィンの指揮で『エフゲニー・オネーギン』が開演。コンサートマスターはマーラーの妹と結婚したアルノルト・ロゼ
l 19時半
シュシュニクは、執務室から全国民に向けて、ナチスによるプロパガンダのうそを暴き、武力による威嚇によりやむを得ず屈したことを、ラジオを通じて訴える
ワルターは、アムステルダムでコンセルトヘボウの練習中。ラジオにかじりついていた
トスカニーニは、ニューヨークでシュシュニク辞任のニュースを聞き、自室に籠って嗚咽
l 19時57分
ゲーリングは、インクヴァルトがまだ首相に任命されていないとの報告を受け、軍事行動を決意。ミクラスはなお強硬な態度を崩さず
l 20時
グデーリアン中将は、侵攻の準備を開始し、ウィーンから280㎞のパッサウに到着したところでオーストリア進駐の命令を受ける
インクヴァルトもラジオを通じて、国民の冷静な行動を呼びかけたが、平和的な併合を考えていて、内務大臣として暴徒化しつつあるナチ同胞への呼び掛けでもあった
l 20時45分
ヒトラーがオーストリア侵攻を指示する命令書にサイン。翌朝夜明けを待って侵攻開始を指示
l 20時48分
「侵略」ではなく、あくまでオーストリア政府の「要請」による進駐の体裁を整えようとしたドイツにとって、最大の障碍は大統領
21:10、機能停止のオーストリア政府に代って、「自称首相」インクヴァルトが、ゲーリングに指示された内容の「進駐要請」電報をドイツに送ったとされるが、後の裁判では本人も否定しており、優柔不断な大統領とインクヴァルトに代ってナチ党関係者が勝手に出した可能性が高い
l 22時
ゲーリングは、駐独英大使にオーストリアの要請によりドイツ軍が一時的に進駐することを伝えるとともに、チェコ大使には安全を保障したが、半年後にはその噓がばれる
l 22時25分
ヒトラーのもとに、ムッソリーニがヒトラーを支持する旨の伝言が入り、ヒトラーは感謝の念を伝え、今後どんなことがあってもムッソリーニの味方であると伝えるが、あらゆる外交的約束を破ったヒトラーがこの約束だけは守り、43年ムッソリーニが解任・幽閉された際には救出作戦を命じ、ムッソリーニの北イタリア社会共和国(サロ共和国)成立宣言を助ける
l 23時
大統領が抵抗を断念、インクヴァルトを首相に任命
インクヴァルトは、自らの首相就任でヒトラーの最後通牒はすべて満たされドイツ侵攻の必要はなくなったと考え、ベルリンに独軍が国境を越えないよう要請したが、ヒトラーは激怒
l 2時
シュシュニクは官邸を去り、続々と国外への亡命が続く中、亡命の勧めを拒否して自宅に戻るが、翌朝から自宅軟禁状態に置かれ、その後終戦までザクセンハウゼン強制収容所へ収監
第四章 ヒトラーのウィーン
一 挫折の街
ヒトラーが初めてウィーンに来たのは1906年、17歳の時。単なる物見遊山
1903年の父の死で実科学校を退学、ボヘミアン生活に。07年、造形芸術アカデミー受験のためウィーンを再訪するが、不合格。年末には溺愛してくれた母も死去
l ウィーン文化とヒトラー
1908年、ヒトラーはウィーンに移住。地元リンツの歌劇場で知り合った家具職人の息子で音楽を愛するクビツェクとの共同生活が始まる
ヒトラーが心酔したのはワーグナーのオペラだが、当初の歌劇場監督はマーラーであり、新レパートリーの導入や楽器編成の変更などの音楽的な面に加え、上演中の入場禁止や喝采役の「さくら」の追放などのマナー的な面まで様々な改革をした後、前年末にはニューヨークに去ったので、ヒトラーがマーラーの指揮を見たかどうかは不明。ヒトラーの過激な反ユダヤ主義の起源は不明だが、少なくともウィーン時代にはマーラーに「最大限の賛嘆」を寄せていた
マーラーは盟友の舞台芸術家アルフレート・ロラーと新演出を試み、オペラ改革を断行、オペラを総合芸術へと高める。ヒトラーのリンツ時代の家主はヒトラー母子に好感をもって、ヒトラーがウィーンに行く際、知人を通じて伝手のあったロラー宛の紹介状を書いてあげたが、ヒトラーは会えず仕舞いで紹介状を破棄。34年ヒトラーはバイロイト音楽祭に向けてロラーをワーグナーに推薦、ロラー演出の『パルジファル』は大成功するが、その最中にドルフス暗殺事件が勃発、ロラーの息子ウルリヒは首謀者の1人として逮捕。老ロラーは息子に会ないまま翌年死去するが、ウルリヒは36年の恩赦で釈放され、ヒトラーお気に入りの舞台芸術家として活動
l ヒトラーの失踪
クビツェクが音楽院に合格し、受験に失敗したヒトラーは失踪。以後の数年間がヒトラーの人生の最暗黒期で、浮浪者収容施設などで暮らす
1913年ミュンヘン移住後もその日暮しは変わらなかったが、第1次大戦勃発で戦場に居場所を見つけ、勲章を授与される活躍をして終戦を迎える
クビツェクは、卒業後マールブルク市立劇場の指揮者となるが、敗戦後は音楽家の道を断念してリンツ郊外の役所に奉職。ヒトラーと再会するのは首相就任後
二 勝利の街
l リンツ入城
1938年3月のドイツ軍侵攻は予想外の歓喜で迎えられる。リンツ経由でウィーンに向かい、ヒトラーは最初の逗留地に生地を選び、生家にも立ち寄り、市庁舎で熱狂的な歓迎を受ける
ヒトラーは民衆の反応を見て完全なアンシュルス実現を決断。オーストリアは政府命令により憲法を改正してドイツの1州となり、大統領は抗議して辞任
シュシュニクの国民投票宣言からわずか4日でオーストリアは消滅。ヒトラーは自らの外交的・軍事的直観力を過信、「最初の侵略」を止めなかった「ツケ」は想像以上に大きなものとなった
ヒトラーは、母の主治医だったユダヤ人医師だけは特別扱いし、強制移住の対象からも除外
l ウィーン入城
オーストリアは「オストマルク」と呼称を変え、最後の抵抗の砦と期待されたカトリック教会も、ドイツ・ライヒに誓いを立てるのは「国民的義務」だとしてアンシュルスへの賛成を呼び掛ける
l 友との再会
クビツェクは、翌月ウィーンでヒトラーと再会。ヒトラーは、復活した「友情」にこの後も忠実
三 暗黒の街
l さまざまな賛成(ヤー)
4月10日のアンシュルスの是非を問う国民投票では99.73%の「賛成」票が投じられたが、その理由は;
①
「ドイツ・ナショナリズム」というイデオロギーの抗しがたい魅力。左右両派の共通した夢
②
ドルフス・シュシュニク体制の不人気。キリスト教社会党政権の抑圧への不満
③
慢性的な経済不況。アンシュルス後は失業率が大幅に改善
音楽界でも急速な「アーリア化」が進む。ワルターは帰国できなくなり、ベームはウィーンでのコンサートで「ハイル・ヒトラー」式の挨拶を行う
学問の世界でも、後のノーベル医学・生理学賞の動物行動学者コンラート・ローレンツは、ナチ支持者で、アンシュルス直後に自らの学問的業績を、「国民社会主義的思考の実践」と意味不明の宣言。アンシュルスという「夢」の実現に我を忘れたオーストリア人の歓喜が読み取れる
一方、非ナチ的な賛成派には「リベラル」な知識人の代表格の公法学者アドルフ・メルクルがいる。ドルフス時代から権威主義化に学問的抵抗を示しアンシュルスも支持してきており、ナチ・ドイツへの併合は双方の国民意志に基づくものと言祝ぐ寄稿を地元紙に寄せる。そこには「リベラル」と「ナショナリスト」が重なり合う19世紀以来のドイツ政治思想の伝統が読み取れる
政治的に最も衝撃だったのが左派の大物政治家カール・レンナーの賛成表明で、普墺戦争後に独墺が切り離された状態こそが例外で、アンシュルスは歴史の必然だとした
l メトロポリスから田舎都市へ
アンシュルス実現の瞬間に「同床異夢」であることが露呈
インクヴァルトは、カトリック的でありかつナチ的な独立国家オーストリアとドイツの緊密な協力関係を念頭に置き、ミクラスやシュシュニクもそれゆえに期待して支持
地方長官に格下げされたインクヴァルトに代ってアンシュルスを取り仕切ったのは、ザール地方のドイツ編入を巡る住民投票を成功させたビュルケルという古参党員で、オーストリアの急速な解体が始まる。オーストリア・ナチ党員も激しく反発し、40年にはシーラッハへと交代
オーストリア人たちは、自分たちのメトロポリスが一介の「田舎都市」扱いされたことへの恨みが募る
l 「最悪」の到来
多くのユダヤ人にとっては「最悪」の始まりであり、「妬みや嫉み、恨みといった情念の蜂起」
アンシュルス当初の興奮状態の中で行われたユダヤ人迫害の例の1つが「道路磨き」
「普通の」オーストリア人によるものだけに、余計におぞましく、ドイツ人もショックを受ける
「アーリア化」が進められ、ユダヤ人は職も住居も財産も奪われ、多くが国外に追い出された
第五章
ヒトラー支配下の文化生活
一 フロイト一家の脱出
l 1938年のフロイト
当時81歳のフロイトは、年初に悪性口腔がんの再発が見つかり手術して安定を取り戻すが、フロイトはユダヤ人というだけでなく、彼の創出した精神分析学をナチスは嫌悪
l フロイトと政治
フロイトにとってナチスは唾棄すべき存在。最初の被害は33年の焚書
オーストリアのファシズムにも批判的だったが、何とか甘受。国際連盟や周辺諸国の支援を期待したが、孤立が明らかになるとシュシュニクとカトリック教会に期待を寄せた
l 迫害と救援
アンシュルスでは真っ先にナチスの家宅捜索を受け巨額の金を強奪される
欧米からフロイト救援の手が差し伸べられたが、フロイト自身がウィーンを離れようとせず
l 最悪の1日
3月22日、最愛の末娘で精神科医のアンナがゲシュタポに連行されたが、ユダヤ人軍事組織と無関係とわかって釈放。この直後に一家はウィーン脱出に向け準備開始
l ウィーン脱出
アンナは、煩雑な出国許可取得に奔走。6月4日オリエント急行でイギリスに向かう
l 最期の日々
フロイトはイギリスで大歓迎を受ける。多くの来客の中で特筆すべきはツヴァイクが連れてきたダリで、この時有名なカタツムリ状のフロイトの頭部像をスケッチしている
39年漸く『モーセと一神教』を刊行、耐え難い郷愁と病の痛みに悩まされ、9月にはモルヒネの投与開始、2日後に死去。ウィーンに残された高齢の4人の妹は強制収容所で死去
二 ウィトゲンシュタイン家の姉弟喧嘩
l ラスト・クリスマス
1937年のクリスマス、オーストリアを代表する大富豪のウィトゲンシュタイン家ではヘルミーネ、ヘレーネ、マルガレーテとパウルとルートヴィヒ5人の姉弟が揃って祝う。姉弟は決して仲が良かったわけではなく、アンシュルスを巡る政治的危機が姉弟仲に決定的なひびを入れる
l 隻腕のピアニスト
3人の兄の自殺で実質的な家長になったパウルは、1913年ピアニストとしてデビューするが、第1次大戦に参戦して右腕を失い、シベリア抑留も経験。帰還後、著名な作曲家に左手のための協奏曲作曲を依頼してピアノを続ける
元々ハプスブルグ君主国への忠誠心を持つパウルは、社会主義もナチズムも嫌って、ドルフス=シュシュニク体制を支持するが、アンシュルスによって音楽院での職を奪われる
ナチの規定では「完全なユダヤ人」と見做されたが、祖父母の代でキリスト教に改宗していた一族は、ユダヤ人と見做されるという意識はなく、パウルは一族の特別待遇を請願するが認められず、亡命を考えるパウロと残留を続けたい姉たちとは引き裂かれていく
l 孤高の哲学者
哲学者だったルートヴィヒは、バートランド・ラッセルに学び、第1次大戦後もイギリスに戻って学究生活を再開。アンシュルス自体に懐疑的で、一族のことについては楽観的だったが、現実に直面して帰国は思いとどまり、ドイツ国籍を嫌ってイギリス国籍取得に動き、ケインズにも助力を求めるが、当局の許可は簡単には下りなかった
l クリムトのモデル
ウィーンの一族の牽引車となったのはアメリカ人と結婚したアメリカ国籍も持っていた3女のマルガレーテ(愛称グレートル)。クリムトが彼女が結婚の時肖像画を描いている
パウルは、家柄の壁を越えて労働者階級だった弟子のアーリア人との間に2人の娘を設けたが、「人種汚染」として親権剥奪・禁固刑の恐れがあったため、家族を国外に出したうえ、自身も忠告を聞かない姉たちを捨ててスイスに脱出、アメリカに向いパナマに亡命して正式に結婚
l 3姉妹の奮闘
財産を引き渡してもウィーンに残りたい姉妹に対し、パウルは財産処分の同意を拒否
ルートヴィヒは漸くイギリス国籍が取れて姉妹救済に向かう
ヒトラーも介入して、大金と引き換えに「混血ユダヤ人の血筋」が認められ、終戦後まで留まることができたが、パウルの姉弟への怒りは生涯解けなかった
三 ヴェルフェル夫妻のピレネー越え
アルマは、3月13日にはウィーンを出発。ミラノで待つヴェルフェルと再会
l フランスへの移住
娘のアンナはイギリスの居を構えていて、ヴェルフェルは住みたがったが、アルマがドイツ語の本もピアノもない国は嫌だと反対、もともとチェコ国民のヴェルフェル一族は、「ビフテキにケチャップをかけるような国で何をしろというんだ」とアメリカ移住には反対、英語では自分自身を真に表現することはできないという、多くのドイツ語作家が共有する不安もあった
結局夫妻は、ドイツ人亡命者が多く集う南仏マルセイユ近郊に居を定めた
l 第2次大戦の勃発
ドイツ軍のフランス北部占領により、休戦協定で、「仏政府は独政府の要求あり次第、在仏ドイツ人(オーストリア人を含む)を引き渡す義務を負う」とされ、あらゆる亡命ドイツ人はナチスに引き渡される不安を抱えることになる。さらに、ヴィシー政権が出国ビザの発行を停止したため亡命者は合法的に出国できなくなった
ヴェルフェル夫妻は、太平洋岸のボルドーに出てスペインへの亡命を敢行するが、ビザの入手に失敗、一時的にピレネー山中ルルドに逗留
l ルルドの奇跡
ルルドは巡礼の街。ルルドの奇跡がヴェルフェル夫妻にも訪れ、米国務長官のハルが、ブラックリストの筆頭に載っていたヴェルフェル夫妻の救出に個人的に介入、ビザを発給したが、フランスの出国ビザが下りない
l 救世主フライ
アメリカで結成され亡命者の緊急救助委員会の若きジャーナリストのフライが、ヴェルフェル夫妻、トーマス・マンの兄や息子などの救出に奔走。出国ビザが出ないので地中海沿いをスペインへ密出国しようと計画。徒歩で山を越え出国に成功。リスボン経由でアメリカに向かう
l 新世界への到達
2週間後に同じルートでピレネー越えを試みたベンヤミンは、スペイン当局からフランスへの強制送還を勧告され、絶望して自死
ヴェルフェル夫妻ほかの一行は1ヵ月後無事ニューヨークに到着
終章 それぞれの1945年
l 総統地下壕のヒトラー
最後にヒトラーが執着していたのがリンツの改造計画。模型を作らせ、着工は終戦後とした
l ニュルンベルクのインクヴァルト
ヒトラーは、遺言でデーニッツを後継者にしたが、外相はインクヴァルト。開戦後のポーランド総督代理から、40年には占領後のオランダのライヒスコミッサールに就任。総統に忠実に統治をおこない、外相就任後デーニッツと連合国への抵抗の継続を確認し合った後、イギリス軍の捕虜となる。ニュルンベルク裁判での戦犯容疑はオランダ統治下での活動にあり、多くのユダヤ人を強制収容所に送った。そのうちの1人がアンネ・フランク。アンネの死の責任者のインクヴァルト、隠れ家時代のフランク家を支えたレジスタンスのメンバーの1人、隠れ家に踏み込んだゲシュタポの1員がみなオーストリア人だった。オーストリア人は様々な場面で「被害者」でもあり「加害者」でもあった
インクヴァルトは、死刑判決後も模範囚であり、エッカーマンの『ゲーテとの対話』を読んで精神の均衡を保つ。インクヴァルトのポーランド時代の上司ハンス・フランクも死刑判決で同じ獄中にいたが、最期の日々に愛読したのは、ヴェルフェルが戦後書き上げた小説『ベルナデットの歌』。ナチ支配により踏みにじられた『神の神秘と人間の神聖さ』を賛美するために亡命作家が書いた小説が、死に直面したナチ党幹部の男の魂の救済に役立ったとすれば何とも皮肉
インクヴァルトは最終弁論でも、アンシュルスは「ドイツの内部の問題」であって侵略戦争への準備行為ではなく、全てのオーストリア人にとて目的そのものだったと正当化。「ヒトラーはドイツ史において大ドイツを現実化した人物」だとし、最後まで総統と大ドイツ・ライヒに忠実
l シュシュニクの解放
自宅軟禁の後ゲシュタポ本部で過酷な交流生活を送るが、獄中で亡妻の友人と再婚したのが精神的支えとなり、ミュンヘンでの拘留は自由度が認められ子どもまでできる
終戦近く、何カ所かの収容所を転送された後、5月1日南チロルのホテルで解放
l オーストリアの再生
45年4月13日、ウィーンはソ連軍により解放。隠棲していたカール・レンナーが臨時政府の首相となり、5月1日に独立を宣言。38年のアンシュルスは「国外からの軍事的脅威と少数派のナチ・ファシストによる国事犯的テロル」により強要されたものと認定。1920年憲法の精神において構築されるとした
1943年のモスクワ宣言で米英ソ首脳はオーストリアを「ヒトラーの侵略の犠牲者となった最初の自由国家」と位置付け、戦後の再独立を既定路線としていた
オストマルク人たちのアンシュルスへの熱狂を冷まし、「オーストリア人」意識を生み出したのは、ヒトラーの戦争。戦局悪化はドイツとの一体感を喪失させ、とりわけ多くのオーストリア人兵士が犠牲となったスターリングラードの敗北以降、厭戦意識が急速に高まり、戦争犠牲者は37.3万人、人口の5%にも達する
オーストリア社会民主党の党是はアンシュルスだったが、かつて不倶戴天の敵として対立したキリスト教社会党員と社会民主党員たちは、獄中で反ヒトラー意識と共にオーストリア国民意識を育んだ。「オーストリア理念は、ナチの収容所で再生した」といわれる所以
こうしたオーストリア理念の復活には実利的な思惑も絡んでいた。スターリングラード戦後、多くのオーストリア人捕虜が「ドイツ兵」ではなく「オーストリア兵」だと赤軍に名乗り、ヒトラーの共犯者としての過去を隠蔽しようとした
オーストリアを愛することで彼らはヒトラーの犠牲者という資格を得で、過去を忘れることができたが、こうした「犠牲者神話」は、1980年代になってヴァルトハイム問題(大統領候補の元国連事務総長が、かつてナチの突撃隊に所属していたことが判明)で再度問い直される
オーストリア第二共和国の初代大統領にはレンナーが選出。アンシュルスに賛成したレンナーが大統領になる一方、最後まで抵抗したシュシュニクは帰還を許されずアメリカに移住、戦後初めて祖国に戻ったのは67年。ティロルに隠棲して10年後に死去。享年79
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ウィーン1938年 最後の日々 オーストリア併合と芸術都市の抵抗
高橋 義彦 著
フロイト、カネッティ、ウィトゲンシュタイン一家に迫る危機
1938年2月、ヒトラーの山荘ではオーストリア首相シュシュニクとの緊迫したやりとりが行われていた。
その後の、オーストリア独立を問う国民投票の挫折とナチスによる武力侵攻……。
独立を守ろうとする首相たちや、文化人や芸術家の抵抗や亡命を軸に、芸術都市ウィーンの緊迫した日々を描く注目作。
「日本の古本屋」メルマガ(2024.7.25)「大学出版へのいざない20」に高橋義彦先生のエッセイが掲載されました。(末尾参照)
三田評論
執筆ノート】『ウィーン1938年 最後の日々──オーストリア併合と芸術都市の抵抗』
2024/11/08
高橋 義彦(たかはし よしひこ) 北海学園大学法学部准教授・塾員
かつて日本では「ブーム」といっていいほど、19世紀末から20世紀初頭のウィーン文化に関心が高まった時期がある。ショースキー『世紀末ウィーン』、ジョンストン『ウィーン精神』などの名著が次々翻訳され、また世紀末ウィーンをテーマにした美術展も開催された。
「世紀末ウィーン」と聞いて、クリムトやシーレの官能的な絵画、ワーグナーやロースの非装飾的建築、マーラーやシェーンベルクの新しい音楽、フロイトによる無意識の「発見」、シュニッツラーやホフマンスタールら文学の「若きウィーン」派などを思い浮かべる方も多いのではないだろうか。
シュトラウスのオペレッタ『こうもり』では「どうしようもないことを忘れられる人は幸福だ」と歌われるが、淫靡で豊かで退廃的な世紀末ウィーンの雰囲気が、バブルの絶頂から崩壊へと向かう当時の日本の雰囲気とあっていたのかもしれない。
ではこの芳醇なウィーン文化はいつ滅んだのだろうか?
教科書的にはハプスブルク帝国が第1次世界大戦に敗北し崩壊した1918年といえるのだろう。しかし小国として存続した戦間期のオーストリアにおいても、フロイトは娘のアンナとともに精神分析の探究を続けたし、マーラー未亡人のアルマは再婚相手の作家ヴェルフェルとともに文化活動にいそしみ、マーラーの弟子であるワルターは国立歌劇場の指揮台で活躍し、ホフマンスタールはザルツブルク音楽祭の創設に尽力した。帝国は滅んだといえども、文化は生き延びていたのである。
この19世紀末以来の文化の決定的な「終焉」こそが、1938年に生じたヒトラーとナチ・ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)であった。自らオーストリア出身であり、世紀末ウィーン文化の空気の中で育ったにもかかわらず、ヒトラーは祖国を憎み、その消滅を願った。
本書はオーストリア併合を巡るヒトラーとオーストリア首相シュシュニクの対決を描くと同時に、併合前後の文化状況を作家・音楽家・哲学者など様々な文化人の動向から描き出している。政治・文化と幅広い観点から、この時代に関心を持つ読者に読んでいただければ幸いである。
(書評)『ウィーン1938年 最後の日々 オーストリア併合と芸術都市の抵抗』 高橋義彦〈著〉
2024年9月28日 朝日新聞
■ナチスの傷痕、終わらぬ「輪舞」
現代美(アート)術の世界でウィーンが話題になることはあまりない。だが、現代美術かどうかを問わず、日本で美術に関心を持つものにとって、ウィーンは最重要の意味を持つ。「美術」という語そのものが、1873(明治6)年に日本政府がウィーンで開催された万博に初めて参加する際に翻訳語として作られたものだ。
わたしはかねてウィーンに関心を持ち、訪ねてきた。が、そこで目にするのは、ヒトラーのナチス・ドイツによる「アンシュルス(オーストリア併合)」が残した傷痕でもあった。本書は、このアンシュルスの前後に、かつてヨーロッパで最大級を誇った芸術都市で、政治家や芸術家により、どのような「輪舞」(19世紀末ウィーンを代表する作家シュニッツラーによる戯曲)が繰り広げられたかを描き出したものである。
精密な資料研究にもとづきながら、著者の筆致はそれこそ輪舞調で、専門書にありがちな味気なさはまったくない。ノーベル賞作家カネッティ、精神分析の祖フロイト、『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインといった巨人はもちろん、かれらの周囲にいた数々のウィーンの人々が「友情・恋愛・敵対・師弟・家族」をめぐって、終わりの見えない「輪舞」を繰り広げる。オーストリアに生まれ、リンツを故郷として育ち、ウィーン造形芸術アカデミーの受験を二度にわたり失敗。「美術」家としての志を断ち政治家へと転身したヒトラーがその中心にいるのは言うまでもない。
ほかにも、これらの「輪舞」を通じて、あのアンネ・フランクに死をもたらした責任者がアンシュルスの担い手で、のちにオランダ統治の責任者となるオーストリア人の政治家ザイス・インクヴァルトであったのを知った。本書をめぐる「輪舞」の舞台は、かつて自国に侵攻するヒトラーを「花と喝采と歌」で熱狂的に歓迎したオーストリアそのものの光と闇で強烈に縁取られている。
評・椹木野衣(さわらぎのい)(美術評論家・多摩美術大学教授)
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『ウィーン1938年 最後の日々 オーストリア併合と芸術都市の抵抗』 高橋義彦〈著〉 慶応義塾大学出版会 2970円
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たかはし・よしひこ 1983年生まれ。北海学園大准教授。著書に『カール・クラウスと危機のオーストリア』など。
日本の古本屋
メールマガジン記事大学出版へのいざない
ヒトラー最初の侵略【大学出版へのいざない20】
高橋義彦(北海学園大学法学部准教授)
自らの野望のために、ヨーロッパそして世界を破滅の淵に追いやったアドルフ・ヒトラーの、最初のターゲットとなった国がどこかご存じだろうか。第二次世界大戦の着火点となったポーランド、その前年ズデーテン地方を奪われたチェコスロヴァキアを思い浮かべる方も多いだろうが、ヒトラーの対外侵略の最初の犠牲者となったのは彼の祖国でもあるオーストリアだった。
1938年3月12日、オーストリアはドイツ軍に侵攻され瞬く間に併合される。本書はこのナチ・ドイツによるオーストリア併合(「アンシュルス」)を軸に、当時の政治家や文化人たちがこの歴史的大事件にどう向き合ったのかを描き出すことをテーマとしている。
では簡単に各章の内容をご紹介しよう。第一章ではアンシュルスに最後まで抵抗したオーストリア首相クルト・シュシュニクを中心に、前史となるドイツ=オーストリア関係を解説している。1934年に首相に就任したシュシュニクは、度重なるドイツの圧力にも耐え1938年2月にヒトラーと直接会談(「ベルヒテスガーデン会談」)したあとには、オーストリア独立維持の是非を問う国民投票を企画した。第一章ではベルヒテスガーデン会談の詳しい内容や着々とオーストリア併合を目指すドイツ側の計画などにも言及している。
第二章はアンシュルス前夜のウィーンの文化生活を、指揮者であるブルーノ・ワルター、作家フランツ・ヴェルフェルとアルマ・マーラー夫妻、エリアス・カネッティとヴェツァ・カネッティ夫妻を軸に描いている。ワルターは国立歌劇場の監督としてシュシュニクの信頼も厚く、またヴェルフェルはシュシュニクの個人的友人であり、アルマの主宰するサロンにもシュシュニクは頻繁に出入りしていた。一方カネッティ夫妻のところには政府と対立する野党社会民主党のシンパが集っていた。
第三章はドイツ軍侵攻前夜である1938年3月11日の様子を、時系列にドキュメンタリー風に描いている。国民投票中止とシュシュニク辞任を求めるドイツからの最後通牒にはじまり、ナチ系のアルトゥア・ザイス=インクヴァルトの首相就任で幕を閉じるこの日は、まさに「オーストリアの一番長い日」であった。
第四章はヒトラーを中心にアンシュルス後のウィーンの様子を論じている。1906年に初めてリンツから上京したヒトラーにとってウィーンは憧れの街であるとともに「挫折の街」でもあった。造形芸術アカデミーの受験に失敗した若きヒトラーはこの街で浮浪者のような生活を送った。しかし長じてドイツ首相にまで昇りつめたこの男は、1938年3月15日ウィーン王宮前でアンシュルスの成立を高らかに宣言する。このあと行われたアンシュルスの是非を問う国民投票では、実に99%以上の賛成票が投じられた。
第五章はヒトラー支配下の文化生活をフロイト一家、ウィトゲンシュタイン姉弟、ヴェルフェル夫妻を軸に論じている。ユダヤ系というだけでなくその理論もナチに嫌われたフロイトは、マリー・ボナパルト、アーネスト・ジョーンズなどさまざまな人の手を借りてウィーン脱出に成功した。
一方大富豪ウィトゲンシュタイン家では、亡命を拒む姉たちと一刻も早い脱出を説く弟のパウル、そしてイギリスで身動きの取れないルートヴィヒら姉弟間の関係が悪化し、アンシュルスは家族の絆をも破壊してしまう。1938年の段階でフランスに脱出していたヴェルフェル夫妻は、ドイツ軍のフランス侵攻を受け最終的に徒歩でピレネー越えをしてアメリカへと亡命する。
終章ではヒトラー、ザイス=インクヴァルト、シュシュニクそれぞれの1945年を描いている。ヒトラーはソ連軍の侵攻が迫る中ベルリンの総統地下壕で自殺した。ザイス=インクヴァルトは戦犯として捉えられ、ニュルンベルクで刑場の露と消えた。アンシュルス以来長い拘留生活にあったシュシュニクは、1945年5月にようやく解放されたが、祖国オーストリアは彼の帰国を望まなかった。終章ではドイツからのオーストリア「再独立」の経緯も説明している。
このように本書はアンシュルスという歴史的事件を、政治史だけでなく文化史も絡めながら描いたものである。政治史的観点からシュシュニク、ヒトラー、ザイス=インクヴァルトなどに関心を持つ読者、文化史的観点からワルター(音楽)、ヴェルフェルやカネッティ(文学)、フロイト(精神分析学)などに関心のある読者も、ぜひ手に取っていただければ幸いである。
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