伝説の編集者 坂本一亀とその時代 田邊園子 2024.12.2.
2024.12.2. 伝説の編集者 坂本一亀とその時代
著者 田邊園子 1937年東京都生まれ。日本女子大文学部国文科卒。61~78年河出書房新社勤務し、寺田透『藝術の理路』(毎日出版文化賞)、野見山暁治『四百字のデッサン』などを企画担当。退社後は自由な立場で編集・文筆に携わる
発行日 2003.6.25. 第1刷印刷 6.30. 第1刷発行
発行所 作品社
はじめに
2002年死去。80歳9か月。25歳から35年間出版社で文芸編集者として果敢に生きた
ファナティック、ロマンティスト、極めてシャイな人。私心のない純朴な人柄、野放図だが繊細、几帳面、潔癖。言動は合理性には程遠く、矛盾があり、無駄が多いように見えるが、本質を見抜く直観の鋭く働く人。言葉を費やして説明することを省き、以心伝心、推して知るべし、あ、うんの呼吸、といった古武士の世界に住んでいるように見えた
坂本を駆り立てていた、狂おしいまでの情熱とは何なのか、戦争体験と無縁ではない。青年期に死と向き合って日常を過ごさざるを得なかった世代の人々の中に、時々、共通するものを感じる。三島由紀夫の狂気、井上光晴の激情など。大戦中、死を決意して、まっしぐらに生きていたホットな若者たちであったことは共通する。三島の『仮面の告白』や井上の『地の群れ』の成功は、編集者坂本の真摯な情熱が相手に伝播し、彼等の中に潜んでいた力を引き出した
戦争体験によって軍隊を激しく憎悪し、野間宏の『真空地帯』を世に送り出すことによって幾分かが解消されたのか、発刊の成功の後目を真っ赤にしていた坂本を見たと同僚が証言
涙もろく、彼が掘り出した新人作家高橋和巳が早世したとき、どれほど泣いたことか
無邪気で素朴な面が素直に発揮されたのは、小田実の『何でも見てやろう』の場合で、小田が現れると、子供のように邪気のない、人懐っこい可愛い笑顔を見せた
『文藝』の編集長だったのは2年足らずだが、その間中身の濃い凝縮した仕事を残す。寸暇を惜しんで同人雑誌を読みふけり、新人の会を開き、意見交換を行う。そうした交流の中で、刺激し合い、競い合う彼らの将来を期待し、丸谷才一・辻邦生ら多くの作家を育てた
坂本は、文学への高い志を抱き、愚直に夢を追うことの出来た時代の編集者だった
1 戦地からの生還・河出書房入社
中村真一郎は坂本について、「一時代を代表した「編集者」の典型。彼には明確な理想があり、自分の編集する雑誌はその実現の場。戦争直後の日本の文化復興の燃えるような理想主義の一時期は、今日では想像もつかないような、高邁な―屡々現実離れした―名編集長を生んだ。その最初は雑誌『人間』に拠る木村徳三であり、若き坂本はその殿将(しんがり)」と書く
1943年、日大を繰り上げ卒業し、学徒出陣で満洲へ
まだ20代前半で終戦を迎えた坂本は、国威発揚の教育を真摯に受け止めていたのだろう。まだ状況を十分批判出来る冷めた視点は持っていなかっただけに、復員後は非常に荒れていたともいわれる。仕事でも、軍人のように語尾を終止形で命令を下した
軍人の名残は、彼の精神そのもの、仕事への情熱のありようが挑戦的だったことにも現れる
復員した九州の片田舎の本屋で見た埴谷雄高の『死霊』と野間宏の『暗い絵』を読んで、今までにない全く新しい時代が始まったのではと衝撃を受け、その後の進路が決まる
1946年、友人とガリバン刷りの同人誌創刊がきっかけで翌年河出書房入社
旧制高校の受験に失敗して逃げるように上京、敗戦の挫折と多くの仲間の戦死、46年も恋に破れて失意の上京で、シャイな内面に複雑な屈折を生じさせ、プライバシイを極端に押し隠す
「初めから売ることを考えるな! いいものは必ず売れるという確信を持とう!」が坂本の持論
坂本は、絶えず無名の人の中に可能性を探ろうとする努力を続けていた編集者であり、その姿勢を背後で支えたのが「新人作家に対する理解と認識」の深い社長の河出孝雄
2 野間宏『青年の環』と『真空地帯』
野間宏:1915年生まれ。北野中・三高・京大仏文。41年応召。翌年帰還後思想犯で入獄。敗戦後共産党入党。執筆活動に入り、兵営の真空状態を暴いた『真空地帯』で高い評価。大阪の名伯楽富士正晴の妹と結婚。91年死去
野間・坂本の出会いは47年。『近代文学』掲載の『華やかな色どり』の単行本化の許可を取りに行く。許可はとれたが、野間は2000枚位になりそうだと言い、最後は71年8000枚の巨篇『青年の環』として発刊。出版社が無名の新人に単行本の申し出をするのは異例
『華やかな色どり』2冊を本にした後、完結させられずに執筆を中断。別に木村徳三の『人間』で『真空ゾーン』を発表。坂本はその出版も申し出、『真空地帯』と改題、河出が丸1年間野間の面倒を見て51年末950枚の原稿が完成。坂本は自分の軍隊生活がオーバーラップして傑作を確信するが、初版は3000。瞬く間に1万を超え、フランス装(表紙を折り込んだ柔らかいハードカバー)にして価格を2/3にしたのもあって15万部を超える
2人は強い”使命感”を共有し、『真空地帯』を世に出したが、その関係は河出書房倒産後も続き、未完の『青年の環』の完結方法を話し合う
『真空地帯』の脱稿から2カ月で刊行。その間、野間は子供が疫痢で生死を彷徨い、坂本は長男龍一が生れているが、2人の間には互いの家族のことなど話題に上らなかっただろう
野間の没後10年を記念して刊行された『作家の戦中日記』は、三高から京大時代の1800枚の膨大な1人の若者の煩悩の記録。友人から”野獣”と呼ばれ、おぞましい痴漢行為に明け暮れる性犯罪者が描かれる。坂本はそれを知らずに逝ったが、『真空地帯』の成功によって、恥ずべき過去を抱えた1人の男を劣等感から解放し、作家としての自信を与え、大きな一歩を踏み出させた”功労者”は坂本だった
3 椎名麟三『永遠なる序章』
荒廃した瓦礫の焦土の中で人々は立ち上がった。物質的な貧しさの極まった時、逆に人は精神の充足を希求する。敗戦後の苦しい状況の中で挙って読まれた書物は、そうした人々の飢餓感を満たすものだったろう。長崎の被爆体験から自身を実験台に原子病の研究に尽くした永井隆の『この子を残して』、『きけわだつみのこえ』、笠新太郎の啓蒙書『ものの見方について』など生真面目な本がベストセラーに上がった。『真空地帯』もそんな時代状況の中で読まれ続けたし、椎名麟三の小説も1950年代にかけてよく読まれた
椎名麟三は、1911年兵庫県生まれ。中三で家出、18で労働運動に従事、共産党入党。31年検挙。33年頃から執筆活動へ。『永遠なる序章』(48年刊)で死という極限に面して日常性への愛を導き出すという主題を描く。51年受洗。『美しい女』(55年)で文部大臣賞。73年死去
『永遠なる序章』の原稿を受け取った当時の坂本は、ドストエフスキーやボードレールなどの全集を担当、全て改訳の生原稿だったというが一手に引き受け、若い編集者を鍛えぬいていた
河出書房が伝統的企画として注力した”書き下ろし長篇小説”企画の第1回となった『永遠なる序章』の原稿331枚を受け取ったのは打ち出しの至上命令の迫るなか。すぐに装幀を高橋忠弥に依頼。刊行直前には太宰の入水死事件勃発
椎名は、「書き下ろし」の思い出の中で、書き下ろしは出版社にとっても冒険だが作家にとっても怖い。お互いやってのけるだけの情熱がないとできない。何度も絶望する中、作品が出来上がった背景には、前年亡くなった河出社長のバックアップもさることながら、編集担当者の情熱を忘れることはできない、と坂本への感謝を述べる
4 三島由紀夫『仮面の告白』
『仮面の告白』(49年刊)を世に送り出したのも坂本
前半の密度と後半の粗っぽさの対照を、三島はスタミナの配分を誤ったといったが、実は坂本の厳しい督促があり、締め切りを気にし過ぎた結果
晩年の坂本の告白。「僕にとって戦後は余命だった。戦争で死んだという感じがあった。でも、多くの同世代の仲間が死んで、その余命は彼らのためにもがんばらなければならないと思った。それで河出に入って同世代の若者を育てたいと思った」と。重い真実でもあるのだろう
5 中村真一郎『シオンの娘等』など『死の影の下に』連作
52年、過労から肺浸潤で倒れながら、3日の休息で出社。悲壮感と気迫で仕事に突き進む
中村との出会いも河出入社の年。河盛好蔵が『1946・文学的考察』の著者中村等3人を絶賛するのを聞いて読み、中村の『死の影の下に』に続く第2部『シオンの娘等』を書き下ろしシリーズに加え5部まで続くが、第4部は坂本が無断で刊行、社長の事後承諾だった
シリーズの途中で新聞に「企画全体の失敗」との批判記事が出たが、火元は社内からの坂本への中傷だった。温厚・円満・寛大などといわれる人柄とは無縁の坂本に敵が多いのも当然
中村が小田実を紹介してきて、まだ10代の若さで『明後日の手記』を河出から出していた
6 埴谷雄高、武田泰淳、梅崎春生、船山馨など―長篇小説を依頼しながら書けなかった作家
埴谷に書き下ろしを依頼したのは48年初め。1年後にもらったのはたった1枚
武田とは47年末の会合で出会い、武田も執筆を快諾したが、結局書かれず仕舞い
船山の『地下亭』は第4回で予定していたが、太宰の事件で別の仕事が持ち込まれ間に合わず
梅崎は第3回、テーマが2転3転した挙げ句、題名まで決まったが書かれず仕舞い
神西清は、題名を決めるのに2年かかった
檀一雄もいくつか題名を挙げて執筆のため閉じ籠ったが、書けなかった
刊行された長篇小説の好評とともに、紹介された原稿などが入るようになり、良いものが次々に刊行される――無名の新人望月義『ダライノール』(第2回)、谷本敏雄『暗峡』(第4回)
坂本は常々、「編集者はサラリーマン化してはならない」が持論。創造的編集者であり続けた彼の原点といえよう。純文学のジャンルの編集者として、河出の名を一躍高めた。河出倒産の危機を救った『現代日本小説大系』の担当者。「出版界の鬼才」(ジャーナリスト櫻井秀勲)
7 推理小説と水上勉の登場
坂本は、文壇ジャーナリズムの中を巧みに泳ぎながら仕事を進める型の編集者とは程遠い
1957年河出書房倒産、新社として再出発。社長から、社のお家芸の書き下ろし企画を打診された坂本は武田泰淳に甘えるが、武田は食っていくだけで精一杯として断り、坂本はその言葉に目が覚め、推理小説へと転換、2年後には『文藝』復刊の機運が生まれて来た
58~60年、戸板康二や水上勉などの短・長篇推理小説を立て続けに出す。松本清張の『点と線』に影響されたまだ駆け出しの水上が、川上宗薫の紹介で初の推理小説を持ってきて、坂本との戦いが始まる。『霧と影』と改題し、宇野浩二に序文を依頼したのは坂本であり、初版3万部を瞬く間に売り切り、一躍社会派推理作家のレッテルを張られ、売れっ子にしたのも坂本
水上が『霧と影』を読んで面白かったといって文藝春秋の池島新平から短篇を誘われて書いたのが水俣病を扱った『不知火海沿岸』で、それを読んだ坂本が、あれでは水俣病の追跡が不発だから、最後まで書いて見ないかといって出来たのが『海の牙』。他社の雑誌の短篇を読んで、長篇に書き下ろして本にするのは、坂本が『真空地帯』以来進めてきた果敢な姿勢の成果。雑誌社にしてみれば鳶に油揚げを攫われる話しで悔やまれるが、この時は水上が同じ文藝春秋に発表した『雁の寺』が直木賞を取ったのだから、版元の出版社は面目を保ったことだろう
8 小田実『何でも見てやろう』
「アノニマス(匿名性)の人」「人前に出るのが得意じゃない性格」の坂本が、抑圧から解き放たれて楽しそうに接していた相手の1人が小田実。56年頃、河出書房に現われた小田は、坂本と兄弟のような雰囲気にありながら、書き書かせるという関係でもない対等な2人
小田は、58~60年米欧インドを回って帰国、その土産話を聞いた坂本が、感じたことをそのまま書いて見ないかと誘う。堀田善衛の『インドで考えたこと』に触発され、当初350枚の予定が900枚にもなり、諸事倹約、社始まって以来の悪装幀だったが、爆発的に売れ続ける
その頃、坂本は『秩序』の同人で無名だった丸谷才一の初の著書『エホバの顔を避けて』を刊行
坂本は『秩序』の若い同人たちとの交流によって欧米の新鋭作家の最近の文学活動を聞き出し、「世界新文学双書」の企画を立て、本邦初訳を多数発刊
双書の刊行中、『文藝』の復刊が決まり、坂本は編集長として準備に奔走
9 『文藝』復刊と『文藝』新人の会
文芸雑誌『文藝』の創刊(62年)の準備には1年半を要す。売れる雑誌を作れという社長に対し、純文芸誌は売れないとして、作品の質と内容で勝負するべく、若い作家たちを支柱とする雑誌を目指すが、ジンクス通り2年にも至らず22冊で編集長は交替。ただその間坂本の肝いりで始まった「文藝」新人の会は1年続き、新人作家は40人にも上った。志を同じくする同世代の人々との交流によって、眠れるものが引き起こされ、刺激され、実りに結ぶつく機会になり、それが互いの連帯を生み出すことになればというのが坂本の狙いであり、次代を担う若者たちに夢をかけたに違いない
新人発掘のため、「文藝賞」を設け短中篇・戯曲・長篇の3部門、年3回新人賞の選考を行う。複写機もワープロもない時代、選考委員に送る候補作品をタイプ印刷で作成するのは激務。選考委員は埴谷、福田恒存、野間宏、寺田透、中村真一郎の5人。審査は長時間で激論に及ぶ。2年で終わったからいいが、それ以上続いていたらスタッフは体がもたなかったろう
10 高橋和巳、真継伸彦など
61~63年の「文藝賞」選考委員会の激論の中で、圧倒的支持を得たのが高橋の『悲の器』
坂本は、関西の同人雑誌『VIKING』から多くの新人作家を世に送り出した富士正晴の協力を得るが、その中から出てきた1人が高橋。900枚の原稿をもって上京
高橋に続いて『鮫』で受賞した真継伸彦も、坂本から応募を勧められ、何度も叱咤激励を受け、手を入れられて文章が矯められていくのを知る
第1回の短中篇で受賞した田畑麦彦も、坂本に勧められて応募。ぼろくそに言われながらもなんとか締め切りに間に合って受賞
11 山崎正和、井上光晴など
29歳の新人劇作家山崎正和のデビュー作『世阿彌』も坂本の『文藝』が残した足跡の1つ
日本の雑誌は、小説程の読者を得られないとして戯曲の掲載を歓迎しないので、坂本が『文藝』誌上に詩や戯曲を積極的に掲載し、幅広いジャンルの交流を図ったのは英断。山﨑も単行本化された際のあとがきに、「坂本の再三の尽力なしにはこの本はありえなかった」と記す
福田が「文藝賞」の選考委員を引き受けたのも、坂本が戯曲部門を設けたから
井上の『地の群れ』は、62年文藝編集部からの執筆依頼に応じたもので、4年前長崎の原爆廃墟の打ちこわしの現場を見た時に構想したマリアの首を盗む男を書く。題名や表現について坂本と激しくやり合った。「手を入れればもっと良くなる作品と直感した」坂本の注文を井上は受け入れる。坂本はその「直感」を「創造」に向って膨らませていく編集者だった
12 黒井千次(1932~)、丸谷才一など
新人の会に出ていた若い世代の黒井が初めて『文藝』に『二つの夜』の80枚の原稿を持っていったのは62年。1年半で4回書き直しさせられ、諦めていたところで突然『文藝』に掲載された。坂本が解任の決まった後に、自ら著者校正を代行して入稿したものと思われる
坂本編集長時代の最終号に短篇『闇の中の黒い馬』を寄せた埴谷雄高は、書き下ろし長篇企画(6章参照)の穴埋めに書いたものの、今度も15枚の超短編で、坂本は大きな絵などを入れて誤魔化していた。埴谷は後に坂本の悲願に応えるかのように、この超短篇を冒頭部分に同名の大作を書き上げる
坂本編集長の『文藝』は22冊に過ぎないが、坂本が同人雑誌『秩序』(8章参照)の人たちに依頼して翻訳作品の紹介を行ったことも、編集内容に幅を持たせた
毎号「日本文学消息」と「海外文学消息」の匿名ページがあり、執筆者の才筆ぶり、博識ぶりが話題になっていたが、それぞれ丸谷才一と篠田一士
『文藝』は小型版に変更し継続するが、連載は途中で打ち切って、以後は書き下ろしで進行
『文藝』の発刊準備中に新人の会に来ていた宇野鴻一郎が芥川賞に決まった途端、坂本は宇野から預かっていた小説を本人に返却。坂本は自分で新人を発掘したかったので、他社の後塵を拝するようなことは嫌だった。作家の卵が脚光を浴びた途端、彼にとっては色褪せた
坂本の退陣について遠藤周作は、「文藝誌が詩と戯曲を積極的に取り上げたこと、高橋や山﨑のような作品を発表した功績だけでも、あの雑誌の足跡を忘れはしない」と新聞に寄稿
三島由紀夫も、坂本の退陣を惜しむ。知らない人が次々と登場してくる『文藝』に興味を持ったのだろう
13 平野謙『文藝時評』・いいだもも、辻邦生など
文藝時評を1冊の本にまとめ索引をつけて単行本化したのは坂本の着想
作品月評的な文芸時評だけを18年分まとめて1冊の本にしたのは、坂本に勧められて63年に書いた平野が最初で(毎日出版文化賞受賞)、それまで批評家のウラ芸的なものからオモテ芸的なものに変わっていき、以後ほかの批評家の「文芸時評」も次々刊行された
編集長退陣を余儀なくされた坂本は、直ちに「文芸賞」から登場した高橋・真継などを糾合した”書き下ろし長篇小説叢書”の企画を推進。並行していいだ・ももの原爆投下のパイロットを主人公にした1500枚の野心大作『アメリカの英雄』の出版なども手掛ける
坂本の企画を小田切秀雄は、「マスコミの部品として多数の読者目当ての手慣れた才気ある作品ばかりが大量に生産される現代文学の世界の中で、注目すべき文学的な試みを組織しているという点で意義深いシリーズ」だと評価。坂本の狙いも現代文学界に対する抵抗と挑戦というまさにこの点にあり、企画推進の原動力にもなっている
参画した新人は、坂本によって本が刊行されている作家も多いが、すでに長篇『廻廊にて』(63年)で近代文学賞を受けていた辻邦生は埴谷の推薦。叢書に書いた『夏の砦』は3年半かけて精密なノートを取って用意周到に始めた750枚の2作目の長篇だが、3回も書き直しさせられた
新人の取り上げ方の1つに、著者や執筆者から推薦してもらうことを坂本は挙げるが、小田実は中村真一郎の、山崎正和は福田恒存の、辻邦生は埴谷の推薦
14 野間宏『青年の環』完結・高橋和巳の死
中断していた『青年の環』を復活、8000枚に完結させたのも坂本の執念であり、それに応えた野間の強固な使命感。71年全5巻が完結し読み終わって感動した大江健三郎は、「小説を読むことの喜びに包まれた」と推薦文を寄せた。最初の3年間で計20万部を売る。中田耕治は、「優れた作品にはいつも優れた編集者の努力が重なり合っている。優れた編集者の手にならなかったすぐれた作品はない」と評している。河出書房出身の作家竹西寛子も、「河出を辞めて30年後に、幅広い分野で先駆的ともいえる集大成の「全集」や「大系」を出版していることに気づいたが、経営者の文化に対する姿勢、出版人としての夢と志を仰ぎ見る」と感動
青年の環。47年『近代文学』に発表されて以来、2回の中断と改作の末1970年に完成。野間が提唱した「全体小説」の実践であり、事実に基づいたフィクションで、野間自身が大阪市職員としてかかわった被差別部落解放運動を、恋愛や性、戦争とからめて描く。市役所吏員矢花正行と富家の息子・大道出泉を中心に1939年7月から9月までの大阪を舞台とし、100名をこえる人物が登場する。1971年谷崎潤一郎賞受賞。1973年アジア・アフリカ作家会議の制定したロータス賞を受賞。
71年の高橋和巳の死を坂本は深く悲しむ
15 構想社設立と引退・島尾敏雄の死
1976年、坂本は河出書房新社を労組に追い出されるように退社した後、昔の仲間3人と新しい出版社構想社を起こし、81年末まで出版活動を続け、健康を害して引退
一本気で、初志を貫く直情型の坂本は、打算や功利性とは無縁の人物。昔風の精神重視主義で、安易な成功よりも苦難の過程を重んじる生真面目な編集者
島尾の書き下ろし長篇『贋学生』(1950年刊)も、”書き下ろし”シリーズの1冊。野間が富士正晴の『VIKING』に出ていた島尾を坂本に推薦。『贋学生』は売れなかったが、後年学生作家としてデビューした大江健三郎が、「高校生の時に『贋学生』を読んで感銘、自分も小説を書こうと決意した」といわれ、坂本も素直に嬉しかったという。文芸編集者にとっては、多数の読者に乱読され読み捨てられるよりも、1人の読者でもその人生に大きな影響を与えるような書物が出せたらどんなに嬉しいことか、坂本の回想には私(著者)も共感を覚える
おわりに
本稿の成立は、10年前に息子の坂本龍一から、父が生きているうちに父のことを書いてほしいと依頼があったこととが発端。坂本に資料拝借などの協力を依頼したが拒絶され、そのまま放置していたが、その後埴谷と接触する機会があり、その話をすると、戦後文学史を辿る時に役立つだろうから、勝手にやっちゃえばいいと言われる。坂本のように多くの人々に書かれ、語られてきた編集者は珍しく、それらの声を収集し、本人の記述と合わせることで構成すれば、本人を取材しなくても何とかなると思って書き始めた
依頼から2年かかって漸くかたちをつけることができ、本人に見せ、大まかな指示と細かい要望をもらうが、それをみて坂本は引退後も、最後まで編集者魂を持ち続けていた人だったと実感した。龍一は出版しようとしたが、坂本が「自分が死んでからにしてくれ」と頼んできた
坂本の功罪については一言では言えないが、長い年月を経てみたとき、彼の仕事は功績として残るものが多いだろう。戦争を生き延びた自分の”余命”を賭けた、1人の編集者の努力と情熱によって、無名の新人の作品が世に出ていくまでの過程を知ることは、関心のある読者には興味をそそられることだろう。これは紛れもなく、現場からの証言なのである
日本近代文学館「編集者かく戦へり」展 名作の舞台裏
2024年11月2日 5:00 [会員限定記事] 日本経済新聞
日本近代文学館(東京・目黒)が異色の特別展を開いている。主役は作家ではない。「黒子」であるはずの編集者だ。一つの作品が世に出るまでに、編集者は作家をどう励まし、助け、ときに叱るのか。そのすさまじい仕事ぶりを知れば、作品の読み方もちがってくる。
◇
9月14日に始まった特別展のタイトルは「編集者かく戦へり」。
夏目漱石や芥川龍之介を担当した中央公論の滝田樗陰(1882〜1925)、「文藝春秋」を創刊した菊池寛(1888〜1948年)、戦後文学の担い手たちを育てた河出書房の坂本一亀(1921〜2002年)ら、一時代を画した編集者と作家の生々しいやり取りを紹介する。
かつては編集者が作家に原稿の執筆を依頼する場合、まず手紙を出すところから始まるのが当たり前だった。
菊池寛が「旗本退屈男」などで知られる佐々木味津三に出した手紙が残っている。
「今度、道楽半分に小さい文藝雑誌を出さうと思ってゐるのだ」に始まり「雑文ばかりで、十六頁(ページ)」「一部十銭で賣(う)り賣上高を原稿料として配分する」などとある。何を書いてほしいかより、いきなりお金の話になるところがおもしろい。
日付は1922年12月5日。菊池が文藝春秋を創刊する1カ月ほど前である。同じような手紙を出しすぎて、思いのほか多くの原稿が集まったのか。創刊号は予定の「十六頁」でなく、28ページに増えていた。
作家からみれば編集者は最初の読者であり、よき相談相手でもある。23歳の三島由紀夫が代表作の「仮面の告白」を書き始める際、執筆を依頼した坂本一亀に送った48年11月2日付の手紙がある。作家と編集者の関係を知るうえで興味深い。
三島は初めから題を「仮面の告白」にするつもりでいたが、少し迷いもあった。そのころ「仮面天使」という小説がはやっており、同じ「仮面」がついているので「一寸癪(しゃく)です」と坂本に心情を吐露している。
きちょうめんな字でつづられた手紙はこう続く。「もつとよい題ありませんかね。完成したら何とか考へて下さい。右は完成迄(まで)の仮題としておきます」
文面からは三島が坂本に寄せる厚い信頼がうかがえる。最終的に題は原案どおり「仮面の告白」となった。決めたのは坂本にちがいない。
軍隊を経験した坂本の熱血指導は語り草だ。河出書房で坂本の部下だった田邊園子さんは「とにかく締め切りに厳しい人だった」と振り返る。
「飢餓海峡」などの作者である水上勉は、坂本からの激しい督促に耐えられなくなったのだろう。「もうひと晩、時間をくれませんか。(中略)助けて下さい。かならずお届けします。助けて下さい」。60年(月日不明)に坂本に送った手紙には悲壮感が漂う。
坂本は2023年3月に亡くなった世界的な音楽家、坂本龍一さんの実父でもある。
田邊さんは龍一さんに頼まれて一亀の評伝を書き、03年に出版した。その帯にはこうある。「比類なき新人錬成の鬼」
情熱あふれる編集者との出会いがなければ、どんなにすぐれた作家も世に出られないかもしれない。坂本の生きざまから浮かんでくるのは、文学史における編集者の重要な役割だ。
作家にとって編集者は同志であり、戦友であり、人生の師でもある。
思想家の吉本隆明は講談社で「群像」の編集長を務めた橋中雄二(1935〜2021年)に、次のような手紙を書いている。「貴方の編集人としての生き方から沢山のことを学びました」。橋中が講談社を定年退職してすぐの1996年10月3日付である。
坂本一亀も同じ編集者として橋中には一目置いていたようだ。橋中が81年に「群像」の編集長を退任した際に「(橋中時代の群像には)文藝に対するすさまじい愛情があふれていた」とたたえる手紙を送っている。
自筆の手紙のやり取りが少なくなり、編集者と作家もメールや電話で連絡を取り合うのがふつうになった。今回の特別展で編集委員を務めた文芸評論家の武藤康史さんは「この先、このような展覧会はもう成り立たないだろう」と話す。
それでも、文学がなくならない限り、作家とともに作品を生み出す編集者という仕事もなくならない。「展示をみて、一人でも多くの若者に編集者をめざしてもらいたい」。武藤さんの願いである。11月23日まで。
(編集委員 高橋哲史)
(チェック)名編集者、文章への熱情
2024年11月8日 5時00分 朝日
東京・駒場の日本近代文学館で開催中の「編集者かく戦へり」は文芸作品の黒衣役に光をあてたユニークな展覧会だ。「中央公論」の滝田樗陰(ちょいん)ら、明治~昭和の名編集者の仕事ぶりを、作家の書簡などから振り返っている。
〈冒頭の部分を五度目の書き直しをしています。もうひと晩、時間をくれませんか〉
作家の水上勉が河出書房新社の坂本一亀(坂本龍一の父)にあてた1960年の手紙はせつない。〈助けて下さい。かならずお届けします。助けて下さい〉と続いている。坂本は前年、何度も書き直しを求めた「霧と影」によって、水上を一躍、流行作家へと導いた名伯楽。さぞ厳しいダメ出しと取り立てがあったのでは、と想像が膨らむ。
中上健次の芥川賞受賞作「岬」冒頭のゲラも壮絶だ。文芸春秋の高橋一清が朱入れし、欄外に鉛筆で細かく指摘を記した校正刷りに、中上が青字で手を入れたあとが生々しく残っている。
卑近な例だが、新人記者時代、原稿をデスクに原形をとどめないほど直された記憶がよみがえる。何度も書き直しては突き返されたことも。一つの文章を世に出すまでの、書き手だけでない多くの人々の熱情が伝わってくる。
23日まで、日・月曜休館。(野波健祐)
「坂本龍一」生んだ伝説の編集者 父・一亀の業績に脚光
2023年6月24日 2:00 [会員限定記事] 日本経済新聞 「活字の海で」
坂本龍一さんの死後、文庫化されたり重版されたりした2冊
この人がいなければ、三島由紀夫は『仮面の告白』を書いていなかったかもしれない。この人が父でなければ、3月に死去した坂本龍一さんは、世界的な音楽家になっていなかったかもしれない。
坂本一亀。旧河出書房の名編集者として知られ、三島のほか野間宏や高橋和巳、埴谷雄高ら戦後文学を彩る作家たちの作品を世に送り出した。息子の龍一さんが亡くなり、一亀の業績にも改めて光が当たっている。
その猛烈で、情熱的な仕事ぶりは4月に重版となった『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』(河出文庫)に詳しい。
新人の発掘に熱心で、寸暇を惜しんで同人誌を読みふけっていたという。ほれ込んだ作家とはとことんつき合い、ぶつかり、納得するまで書き直させた。「伝説」と呼ぶにふさわしい逸話がちりばめられ、こんな編集者はもう出てこないだろうと思わせる。
著者の田邊園子さんは、かつて一亀の部下として働いた。「とにかく怖い人だった」と振り返る。とりわけ、原稿の取り立てはすさまじかったらしい。「督促スル! 督促センカッ!」と軍隊式の命令口調でまくしたてた。あの三島由紀夫をして『仮面の告白』は「締め切りを気にしすぎた」ために後半が粗くなった、と言わしめたほどだ。
田邊さんに一亀の本を書いてほしいと頼んだのはほかでもない、龍一さんだった。「父のことを書けるのは田邊さんです」。1993年の春に「お父さんとそっくりの声」で電話をかけてきた。
悩んだ田邊さんが相談した相手は一亀が心酔していた埴谷雄高だった。「戦後文学史のためにぜひ書きなさい」。埴谷に背中を押され、1年半で書き上げた。
まだ元気だった一亀は田邊さんの原稿を丁寧に読み、細かい要望を出したそうだ。本人の願いで、出版は2002年に一亀が80歳で亡くなったあとになった。
「ぼくが父に似ているような気がするところは、いろいろあります。(中略)2人とも人やものごとにほれ込みやすく、すぐ夢中になるんです」。龍一さんはこの春に文庫化された『音楽は自由にする』(新潮文庫)にこう記す。21日に出た新著『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(新潮社)でも、同じように父への思いをつづっている。
文学と音楽という違いはある、それでも、同じ創作者として2人がめざした場所は限りなく近かった。
(編集委員 高橋哲史)
新宿高校① 校長室突入の朝、坂本龍一は 「沸騰」の街で送った青春
佐藤太郎2024年4月9日 8時00分 朝日
1969年11月5日朝、東京都立新宿高校の校長室に、十数人の生徒が押しかけた。3年生はヘルメット姿、1、2年生は覆面で顔を覆っていた。
先頭に立つのは、この年の春まで生徒会長で、のちに厚労相などを務めた塩崎恭久(73、1970年卒)。一番上の姉が戸山高校へ進学。「比較されるのが嫌で新宿高校を選んだ」。1年間の米国留学から前年秋に帰国し、「個性を無視し、受験一辺倒になっている日本の教育を変えたい」と考えるようになった。
同学年となった1年下の後輩に、のちに世界的音楽家となる坂本龍一(故人、70年卒)と、著書「アクション・カメラ術」が大ヒットした馬場憲治(72、70年卒)がいた。坂本の自伝「音楽は自由にする」によると、塩崎、馬場とは「3バカトリオを組んでいた」と回想するほど仲がよかった。
塩崎は米国からジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリンらのLPレコードを持ち帰り、坂本に聞かせた。塩崎は「坂本の音楽人生に刺激を与えたのは間違いない」と自負する。
高校をシリーズで紹介する企画。東京都立新宿高校の1回目です。新宿騒乱や東大安田講堂事件など、街が騒然としていた時代。校長室に「突入」するはずだった坂本龍一は…
「沸騰」していた新宿の真ん中で
馬場は坂本から「ヘーゲルを読め」と難しい本を薦められたことを覚えている。坂本の父は当時の河出書房の名編集者坂本一亀。自宅には文芸だけでなく多くの思想・哲学書もあった。3人は、よく授業をさぼってはジャズ喫茶「ピットイン」や名曲喫茶「ウィーン」で、音楽や哲学、映画や芝居の話をしていた。
校長室の突入組に連座した1年下の文筆家平井玄(71、71年卒)は、ギリシャ思想本を読んでいたところ、坂本に「珍しいもの読んでるね」と声をかけられたことから、親しくつきあうようになった。「当時、新宿は『沸騰』していた。そのど真ん中に新宿高校があった。僕らも(突入は)『やるしかない』という高揚した気持ちだった」
68年10月、ベトナム戦争反対を訴える学生らが新宿駅のホームを占拠する「新宿騒乱」事件が起きた。69年は1月に東大安田講堂事件が起きるなど、各地で学生と警官隊が衝突を繰り返し、時代も街も騒然としていた。馬場は「催涙ガスで前が見通せないなか、高校に通った日もあった」と振り返る。
そんななか、先のトリオが中心となり校長への直談判は決行された。複数の生徒が学校に泊まり込み、迎えた翌朝。打ち合わせを終えた教師らが校長室から出てくるのを見計らって、なだれ込んだ。
馬場は突入前、朝日新聞東京本社に電話を入れた。「新宿高校の生徒です。これから校長室に突入します」と。自分たちの行動の証拠を残すためだった。
制服の自由化、5段階評価の廃止、政治活動禁止の廃止……。校長を前に、「改善要求」を読み上げる。制服の廃止ではなく自由化にしたのは「当時は誰もが好きな服を着られる時代ではなかったから」(馬場)だ。
馬場によると、「いつもニコニコしていた校長が阿修羅のようになって『何だ、貴様らぁっ!』と一喝した」。生徒らは一瞬、ひるんだ。
緊迫の校長室に聞こえたノック音 「ママが…」
その時、校長の前にいた塩崎が「何だっ、てめぇっ!」とやり返した。その気迫に、みんなが気を取り戻した。「あの一言は大きかった」と馬場。1時限目を終えた教師たちも校長室に集まってきた。要求項目をめぐり、学校側と生徒側の交渉が続く。
緊張感が充満する校長室。そのとき、ドアをノックする音がした。
気まずそうに入室してきたのは坂本。寝坊し、遅刻したのだ。「ママが起こしてくれなかった……」。そばにいた国語教師の前中昭(故人)が、思わず坂本の足を蹴飛ばした。前中は生徒の行動に一定の理解を示し、生徒にも教師にも抜群の人気があった。同校の六十周年記念誌に、後日談を書いている。
「(校長室占拠から)四、五日たって坂本が、『僕らは民主教育の申し子なんですヨネ。駄目ということですかネ』と、ビールをのみながら、私の目をみて呟いていた」
音楽家人生に影響を与えた出会い
坂本と中学からの同級生で、前掲の自伝本でもその秀才ぶりを挙げられているのが、日本装削蹄(そうさくてい)協会特別参与の楠瀬良(72、70年卒)。校長室突入などには加わらなかったが「個性のある生徒が多かった」。生物の石川太郎の授業の半分は戦争体験の話。まだ戦争を語れる教師がいた時代だった。
画家志望だったが、東大農学部から獣医師に。その後、JRA競走馬総合研究所で馬の行動学や心理学を研究し、「サラブレッドに『心』はあるか」などの著書もある、サラブレッド研究の第一人者となった。
「僕も含めて、高校時代にアーティストや作家を目指していても、様々な変遷を経て違う職についている人がほとんど。坂本は高校時代から作曲を手がけていたが、それを職業にし、大成した一番いい例」と話す。
そんな坂本の音楽家人生のスタートで、大きな影響を与えた卒業生がいる。(敬称略)
東京都立新宿高校
1921年、東京府立第六中学校として設置され、翌年に開校した。2022年に創立100年を迎えた。「全員指導者たれ」の校是のもと、「自主・自律・人間尊重」を掲げる。
国内最大のターミナル駅、新宿駅から徒歩4分の好立地で、都内各地から生徒が通う。隣には広大な新宿御苑があり、自然環境にも恵まれている。
男女比はほぼ半々で、東京都の進学指導特別推進校。国公立大や難関私大への進学に力を入れる。単位制でもあり、進路や関心に合わせて授業を選択できる。多くの企業などと連携した活動があるのも特色だ。
創立当初から続く「臨海教室」が有名。ほぼ全員が海で1・5キロ泳ぐ。都立戸山高校と行う部活動対抗戦「新宿・戸山対抗戦」なども長く続いており、年間を通じて行事が盛んだ。
◆創立 1922年
◆生徒数 958人(2023年4月7日現在)
◆進路 3割が国公立大に進学する。昨春の入試では、東京大や京都大、東京工業大などに合格
◆主な卒業生(敬称略)
中村敦夫(俳優)、小林節(憲法学者)、坂本龍一(音楽家)、塩崎恭久(元厚生労働相)
坂本龍一さん 未知の音探す苦しみの先
(NIKKEI The STYLE 2018年のインタビューを再掲)
2023年4月3日 14:20 [会員限定記事] 日本経済新聞
坂本龍一さんは2018年、日本経済新聞のインタビューに応じ、自身の人生について語りました。謹んでお悔やみ申し上げ、2018年9月2日付 NIKKEI The STYLE「My Story」の記事を再掲します。
テクノポップ、民族音楽と電子音楽の融合、人民のための音楽……。音楽家として活躍する坂本龍一さんの底流には不屈の反骨精神がゴロリと横たわっている。「鬼の編集者」と呼ばれた父から託された「人生のバトン」。がんから復帰した今、創造の原点を振り返る。
昔から反骨精神が強かった。
小学校の頃、自宅でピアノを弾きながら、独りで憤慨していたのを覚えている。
「右手に対し、左手が不当におとしめられている。これは平等ではない」
坂本さんは左利きである。
古典のピアノ曲は右手でメロディーを弾き、左手はもっぱら伴奏という形式が多い。「主役は右手ばかり。左手はいつも脇役に追いやられていた。僕は左利きだから、これが納得できなかった。『差別じゃないか』とか言ってね。かなり生意気な子どもでした」
だからバッハが好きになった。
バッハの曲は右手に出てきたメロディーが左手に移ったり、また形を変えて右手に戻ってきたりする。「左右の手が役割を交換し、同等の価値を持ちながら進行するのが良いと思った」
マイノリティーの反発、常識への懐疑……。平等とか、正義には子どものころから人一倍敏感だったという。
学園闘争のリーダー 試験や通信簿を「解体」
高校に入ると学生運動にのめり込むようになった。ベトナム反戦機運の高まりで学園闘争が吹き荒れていた時期だ。ジャズ喫茶に入り浸り、ヘルメット姿でデモや集会に参加した。気が付くと、闘争のリーダー格になっていた。
「学校を解放し、民主化せよ」
高3の秋、学校側に制服制帽、試験、通信簿の廃止など7項目の要求を突き付け、校長室を占拠したことがある。学校制度を「解体」する挑戦だった。闘争は4週間続き、ついに学校側が折れ、要求をのますことに成功する。
音楽に向かう姿勢も「解体」を意識するようになる。音楽好きの母の影響でピアノを習い始め、やがて専門の先生の元で作曲も学び始めた。だが東京芸術大学作曲科に入学する頃には「西洋音楽ではなく、電子音楽と民族音楽を学び倒す」と決めていたそうだ。
バッハからドビュッシーを経て現代音楽まで西洋音楽を時代の流れに沿って学んできたが、「西洋音楽はすでに袋小路に行き詰まり、その先には何も発展がないように思えた」からだ。
過去を解体し、未知の地平を切り開く。テクノポップ、民族音楽と電子音楽の融合、人民のための音楽……。後に世界的な音楽家として活躍する下地がこうして形作られてゆく。
反骨心、そして創造への執念を受け継いだのは、おそらく父親からだろう。
音楽とは全く無縁の人である。
坂本一亀。旧河出書房「文藝」の編集長を務め、日本の戦後文学界の礎を築いた伝説の編集者だった。三島由紀夫の「仮面の告白」、野間宏の「真空地帯」、高橋和巳の「悲の器」など多数の名作を世に送り出したことで知られる。
苛烈な人生の陰には、癒えることのない苦悩があった。学徒出陣で通信隊員として満州に送られ、「潔く死ぬ」との決意で任務に励んだ日々。だが本土決戦に備えて通信隊員だけが終戦直前に帰国。幸か不幸か、命拾いする。
苦楽を共にした多くの戦友が荒野に倒れ、シベリアの強制労働に苦しんでいるのに自分だけが助かってしまった罪悪感……。そんな「どん底の虚無」が新人作家の発掘に駆り立てた。
「バカヤロー、妥協するな」。作家を次々に怒鳴りつけ、何度も原稿を書き直させたのは有名な逸話だ。「怖くて目もろくに合わせられなかった」。父は多くを語らなかったが、戦後日本の文学界に貢献することで自分なりに罪滅ぼしをしようとしたのではないか。
少年時代のこんな情景を思い出す。東京に珍しく雪が降った日。突然、父から「表に出ろ」と木刀を手渡された。「かかってこい」という。寒稽古だった。「唐突で驚いたが、あれは何だったのか……。僕が情けない人間にならないように根性を鍛え直そうとしたのかな」
「人生のバトン」「男のバトン」を受け取った――。そんな感触がある。
坂本さんが世界的な名声を得た後も、父は「奇抜な格好をするな」「音楽で勝負しろ」などと叱り続けたそうだ。
死を意識した治療後 「音が違って聞こえた」
自分の「死」を初めて意識したのは2014年6月末のことだ。喉の調子が悪いので検査を受けたら突然、中咽頭がんだと宣告された。激痛を伴う3カ月の集中治療に歯を食いしばって耐え、がん細胞の恐怖と向き合った。
「何とか生き延びた」と悟った時、音がまるで違って聞こえたという。もの自体が持つ音の響きに関心が向かっていた。ドラやシンバルを弓でこすり、瓶やバケツを棒でたたく。「楽器だってもともとは鉱物や木でしょう。ものの音として捉え直すと発見がある」
バァーンと鳴り響いたシンバルの音が逓減しながら静寂の闇に消えてゆく。その音に自身の人生を重ねてみる。生死をつなぐ輪廻(りんね)の世界……。永遠の音への憧れがあるのかもしれない。
ニューヨークの工房には、宙に浮かぶオブジェのような鉄板、火箸やヒシャクが屏風や生け花のように並ぶ風変わりな音響装置などが雑然と置いてある。まるで理科の実験室のようだ。
父も母もすでに亡くなった。自分に残された時間は確実に減っている。「恥ずかしくないものを残しておきたい。いつ逝ってもいいように……」。長年、座右の銘にしてきた「Less is more」が重みを増したように感じる。
昨年、自ら出演したドキュメンタリー映画「CODA」が公開された。「最終楽章」という意味だ。「人生の最期みたいで嫌だった」というが、未知の地平に進む前向きな覚悟を示したのだろう。
その映画に撮影監督として参加したのが一番末の息子。米国の大学で哲学と映画を学び、現在は映像作家として活動している。「なぜか父によく似ていてね。僕がヘラヘラしていると『しっかりしろ』なんて怒られるんだ。隔世遺伝かな」と照れ笑いを浮かべる。
「頂に登ると、次の山が見えてくる。まだ聞いたことがない音を聞いてみたい」。次は「時間」をテーマにしたオペラ制作に取り組むという。
さかもと・りゅういち 1952年東京都生まれ。東京芸術大学大学院修了。78年音楽ユニット「YMO」を結成。「戦場のメリークリスマス」で映画に初出演し音楽も担当、「ラストエンペラー」でアカデミー賞作曲賞を受賞。
(語る 人生の贈りもの)佐佐木幸綱:5 人柄ゆえに、おのずと「志賀先生」
2021年3月9日 5時00分 朝日
■歌人・佐佐木幸綱
――早稲田大学での卒業論文は「初期万葉」、修士論文は「柿本人麻呂」をテーマに執筆。卒業後、河出書房新社に入りました。
河出孝雄社長が声をかけてくれましてね。ところが急逝され、僕と同世代の朋久さんが社長に就きます。半年ほど社長室付として司馬遼太郎さんや井上靖さん、野間宏さんらのお宅に一緒に伺いました。その後、日本文学編集部を経て、文芸誌「文藝」の編集部に。
志賀直哉先生は当時80代前半で、「もう書かない」と言っておられた。短い文章でも、とお願いすると「大津事件についてなら書けるかもしれない」とのことで、何度か伺いました。ご自分で玄関に出てこられ、部屋に通されて。まだ冷房もない時代で、僕が汗をぬぐっていると、扇風機の向きを一生懸命、調節してくださった。
旧知の間柄の人たちの中に僕が交じっていたときは、何度も会話を中断して解説してくださって。誰かが疎外されている状況が耐えられなかったんでしょう。当時、自分の習った先生以外は「さん」付けで呼ぼうと意地を張っていましたが、おのずから「志賀先生」と呼んでしまうような方でした。
――名編集者として知られる坂本一亀(かずき)さんが上司でした。
毎晩のように新宿のバーで、1時すぎまで小説家を交えて飲んでいました。坂本さんを家まで送ると、当時高校生だった龍一さん(69)がピアノを弾いていた。僕らが入るとやめてしまうから、ちゃんと聞いたことはないけれど。
徹底的に読む人で、新人の発掘が生きがいだった。小田実も辻邦生も高橋和巳も坂本さんが発掘した方です。世に出る前の三田誠広さん(72)の原稿も見たことがありました。よく分厚い生原稿を手渡して、「明日の朝までに読む! 会社に来たらすぐに感想を言う!」と命じて。情熱と迫力のある方でした。(聞き手・佐々波幸子)
*
ささき・ゆきつな 1938年、東京生まれ。123年続く歌誌「心の花」編集発行人。朝日歌壇選者。
「金閣を焼かなければならぬ」書評 語り得ぬものに迫る臨床医の筆
評者: 石川健治
/ 朝⽇新聞掲載:2020年09月05日
金閣を焼かなければならぬ 林養賢と三島由紀夫 [著]内海健
金閣を炎上させた若き僧侶・林養賢に対して、精神科医の「メタフィジカルな感性」を駆使して肉薄し、人間と社会、文学と制度、主観的精神と客観的精神の根本問題に迫ろうとした、全体化的モノグラフの傑作。
各分野の古典へ目配りを怠らず、常に地図を示しながらのナビゲーションは、読者に安心と納得を与える練達の臨床医の筆である。なかでも三島由紀夫の名作『金閣寺』を携えての道行きであることは、主人公溝口の科白(せりふ)から採られた書名からも知られよう。「リアリティーへの回路が半ば閉鎖」された言語を駆使した「離隔」の作家を探る第一級の三島論にもなっている。
放火犯養賢は、著者の見立てでは統合失調症の無症状患者(著者はあえて「分裂病」という当時の呼び名で通している)。犯行の7カ月後の発症は、すでに回復への折り返し地点である。養賢の「ねばならぬ」はカントのいう定言命法であって、「零度の狂気」の動機を問うても仕方がない。
他方、「分裂病にはなりえない」青年三島は、編集者坂本一亀(音楽家坂本龍一の父)にしぼられて、やむなく書いた「一人称単数」の小説『仮面の告白』で文壇の寵児(ちょうじ)になる。その彼もまた、小説『金閣寺』を通じて、「ナルシシズムの球体」としての金閣を滅ぼさなければならなかったのだ。
出来事としての「分裂病」へのアプローチは、「了解が挫折したところから始まる」。「社会というフレーム」にぶつかって初めて像を結ぶ「狂気」を主題化するためには、彼が抗(あらが)った「得体(えたい)の知れぬ他者」としての「言語」「社会」「制度」「権力」を問うと同時に、そこで彼が示した「実存の強度」そのものに向き合う必要がある。
著者は、「語り得ぬもの」としての金閣放火にとどまらず、養賢と三島のその後をも執拗(しつよう)に追跡する。問題意識の拡がりは、1968年のパリ5月革命に想いを馳せるあとがきにも明らかだ。何を引き出すかは、読者次第だということだろう。
◇
うつみ・たけし 1955年生まれ。精神科医、東京芸術大教授。著書に『自閉症スペクトラムの精神病理』など。
Wikipedia
坂本 一亀(さかもと かずき、1921年12月8日 - 2002年9月28日)は、日本の編集者。坂本龍一の父。
来歴・人物
旧制福岡県立朝倉中学校を卒業後、上京。1943年に学徒出陣により、日本大学法文学部文学科(国文学専攻)を繰上卒業し入隊。佐賀と満洲の通信隊にいたとされる。福岡県筑紫野の通信基地で敗戦を迎え、3ヵ月後に復員。故郷に帰り、近所の鋳物工場でなどで働く。文学書に読み耽りながら『朝倉文学』という小さな同人誌をやっていたところ、甘木に療養に来ていた元河出書房社員の眼にとまったのがきっかけとなり、1947年1月に河出書房に入社。1947年7月、待望の編集部に移り、『ドストエフスキー全集』の訳者米川正夫の担当となる。同月、伊藤整、瀬沼茂樹、平野謙の三人を揃えて文芸評論全集を企画。
以後、野間宏『真空地帯』、椎名麟三『赤い孤独者』、三島由紀夫『仮面の告白』、島尾敏雄『贋学生』、高橋和巳『悲の器』、水上勉『霧と影』など戦後文学の名作を次々と手がけ、純文学編集者として名を馳せた。
小田実は1950年代に河出書房から2冊の小説を出版していたが売れなかった。その後、米国旅行から帰った小田は2千枚の小説を河出に持ち込んだ。坂本は「小説より旅行談のほうが面白い。それを3百枚ほどに書いてみたら」と言い、「旅行記なんか」と当初ばかにしていた小田だったが、9百枚で書き、たちまちベストセラーになったのが『何でも見てやろう』だった。
1957年、河出書房は1度目の倒産を経験し、同年5月、河出書房新社が設立。坂本は残務整理にあたる再建要員として残された。1962年から1964年まで雑誌『文藝』の編集長。1978年に退社。構想社を設立した
家族
父親の坂本昌太郎は甘木の料亭「料理坂本」の長男で、店で働いていたタカと結婚し、長男の一亀をはじめ6人の子を儲けた。素人歌舞伎を嗜み、趣味が高じて「甘木劇場」を経営するも劇場内の喧嘩で死者が出たことから経営から身を引き、福岡の生命保険会社に転職、外回りの営業中に知り合った女性と暮らし始めため、タカは一人で子供たちを育てた。
妻の敬子(大阪府立夕陽丘高等女学校出身)は共保生命保険取締役だった下村彌一の長女で、一亀の父昌太郎が下村の部下になったことから知り合い、一男三女を儲けた。
音楽家の坂本龍一は長男(一人っ子)で、一亀のことをインタビューなどで語っている(下記の評伝も龍一の発案)。孫の坂本美雨も歌手として活動している。
評伝
田邊園子 『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』 作品社、2003年6月/河出文庫、2018年4月
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