だまされ屋さん 星野智幸 2024.12.11.
2024.12.11. だまされ屋さん
著者 星野智幸 1965年ロサンゼルス生まれ。横浜市立荏田小学校、世田谷区立八幡中学校、東京都立戸山高等学校を経て、早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。産経新聞社記者となる。1991年に産経新聞を退職、1991~92年、1994~95年の間メキシコシティに私費留学。1996~2000年頃まで太田直子に師事し字幕翻訳を手がける。1997年「最後の吐息」で第34回文藝賞受賞。2000年、「目覚めよと人魚は歌う」で第13回三島由紀夫賞受賞。2002年「砂の惑星」で第127回芥川賞候補。2003年『ファンタジスタ』で第25回野間文芸新人賞を受賞。同年より2007年3月まで早稲田大学文学学術院客員助教授。
2007年「植物診断室」で第136回芥川賞候補。落選後の1月16日、公式サイトにて「『新人』という範疇からは身を引き、自分に『中堅』としての立場を課したい」と記し、芥川賞の対象から外れることを自ら宣言する。同年すばる文学賞選考委員に着任。2011年、新潮新人賞選考委員。同年、『俺俺』で大江健三郎賞受賞、野間文芸新人賞選考委員。
発行日 2020.10.25. 初版発行
発行所 中央公論新社
初出 『讀賣新聞』2019.6.10.~2020.5.2.夕刊 単行本化に当たり大幅に加筆・修正
新天皇即位の長い連休中、うちに籠ってドラマを見続けるばかりで体がなまった夏川秋代は古希を迎え、団地で1人暮らし。震災の直後夫の膵臓がんが見つかり死去
そこに見ず知らずの若い男が訪ねて来る。娘(巴)の友人と名乗る中村未彩人(ミサト、日本国営放送・地域スタッフ)。秋代ともいずれ家族になるのだという
秋代は、半年前に3人の子供と別れて、戸建ての家を売却し古い団地に転居
星南が生まれたころ、秋代が子育てを手伝いに行くが、優志・巴・月美が結託して秋代と春好を追い詰めたため、春好の借金病が再発して、秋代は月美のために返済することを決め、優志の猛反対を押し切って自宅を売り、古い団地に移る
長男・優志(やさし、ヤッシ)、市役所勤務で40過ぎ、妻・池梨花(ち・りか、イファ)は5歳上の在日で事実婚、日本に暮らす外国人の支援をするNPO”ともくら”の理事、昔韓国ゲットーがあった湾岸の近くのマンション住まい
二男・春好(はるよし、ハリー)。スマホゲームにのめり込んで歯止めが利かなくなり、借金を重ね問題を起こす。離婚後に婚活サイトで見つけた妻・月美。4年前に生れた娘・星南(せいな)、下が光人(ライト)。月美の母は自殺。月美の復職が引き金となって、春好は自室に引き籠りゲームに熱中、2年で200万の借金を作る。もともと投資話に騙されて借金を背負い、さらに結婚した相手にも借金があって、両親が埋め合わせをしていた
長女・巴はシングルマザー。アメリカに留学。長女・紗良(サリー)はプエルトルコ人の内縁の夫との間に生まれたアメリカ生まれのアメリカ育ち。夫から堕胎を迫られ、拒否したらDVになり、夫の妹に救い出された。15年勤務先の日本進出の仕事で日本に戻る
ミサトの話を確かめようと秋代は月美に電話するが、春好だけで鬱積した不満をぶつけられる。それでも月美は巴に電話して、ミサトの存在を告げると、巴も久し振りに秋代に電話する。そこに、優志と喧嘩で家出した梨花が逃げ込んでくる。そこに月美も子供2人抱えて転がり込む。
月美は、子供のために春好との家庭を再構築しようとするが、どうしようもなくなって秋代に怒りをぶつけると、秋代から、春好には更なる300万の借金があったのを知って、金を渡して縁を切ったと告げられる
きっかけは、春好の小児リウマチで秋代がかかりっきりになったこと。優志はよく巴の面倒を見て、秋代に負担をかけないように振舞う。春好が元気になった後も、何かにつけ秋代は優志にお兄さんだからといって春好に譲るようにいったため、優志は秋代から離れていく。巴も勝手にアメリカに行って子供を作る。極めつけが春好の借金のために家を売ると秋代が一方的に宣言したこと。それを機に一家が離散
1人になった秋代のところに現われたのがミサト。シングルマザーの巴に近づいたのが同じマンションにいた山下夕海。ミサトと夕海は、細かいことを気にせずに何でもどうにかなると前向きに生きて来て、ミサトが春好と町の公園の緩いフットサル仲間になって知り合い、春好の話を聞いたことがきっかけで秋代一家が離散している話に興味をもって、家族関係の修復に乗り出す
それぞれが思いのたけを打ち明けたのを契機に、家族の緊張関係は一気に溶解し、修復される
書評
『だまされ屋さん』星野智幸著 破綻に瀕した家族の物語
2020/12/20 10:30 産経
古希を迎えた秋代の家に、ある日一人の若い男が「ただいまー」と訪ねてきた。彼女は夫をがんで亡くし、3人の子供たちともすれ違いの末に仲たがいをして、今は公団住宅でひとり暮らしをしている。男は未知の他人だが、家を間違えたわけではないという。彼女の娘と家族になろうとしているのだと説明すると、図々しく上がり込んで話し込み、勝手に夕食まで作りはじめた。
警戒が解けないまま、ひとり暮らしの孤独のストレスが溜まっていた秋代は、フランクで聞き上手な男につい心を許していく。
タイトルがタイトルだけに、巧妙な詐欺師かと、読みながらハラハラするのだが、この未彩人と名乗る男の奇妙な明るさと柔軟さにはあっけにとられてしまう。一体何者なのか。出合い頭に読者を物語に絡めとる巧みな冒頭である。
一方、秋代の二男一女の子供は、それぞれの理由で母を憎み遠ざけてきた。何かと心配の絶えない次男に母は盲愛を傾けて逆にスポイルしてしまい、母に放置された優等生の長男は妹を母の代わりに支配してきた。妹の巴は海外に逃れ、プエルトリコ系アメリカ人との間にできた娘とともに帰国した。団塊の世代が築いたマイホームの夢の成れの果てである。
ところで巴の暮らす家にも、奇妙な同居人がいた。トイレを貸してと突然訪ねてきて以来、娘も懐いて家族同然に暮らしているのである。
閉塞した家族内の支配と依存の果てにバラバラになった人間と、他者とオープンに共生し共有する生き方を選んだ人間。本書は前者が後者に侵食され感化されたのち、全員が心のもつれを言葉にしあって、長年のくびきから解放されていく物語なのである。
象徴的な場所として、巴と娘がニューヨークで経験した人種の入り交じった下町のコミュニティーと、都内の大久保に自然発生したフットサルのサークルが出てくる。結婚や家族という枠組みが、格差と多様性にもみくちゃになって破綻に瀕している現在に、本書は一種のおとぎ話のように解放区の可能性を送り届ける。しかしそれは、リアルな手応えの未来図でもある。(中央公論新社・1800円+税)
評・清水良典(文芸評論家)
【書評】古希の母と3人の子どもたち。家族は再生するか〜『だまされ屋さん』著◎星野智幸
今日的な問いに答えてくれる「家族小説」
ジェンダーやエスニシティの多様化を受け入れる方向に時代が進むなかで、家族のあり方も大きく変わりはじめている。
だがその一方で、社会の劇的な変化についていけず、他者との人間関係に思い悩む人もいる。世代や文化的背景、価値観を異にする者同士の共生は、どうすれば可能だろうか。本作はそうした今日的な問いに答えてくれる、風変わりな「家族小説」だ。
夫を亡くし、古希も迎えた秋代は公団住宅に一人で暮らしている。ある日、彼女のもとを長女・巴(ともえ)の〈家族になろうとしている〉という若い男が訪れる。たくみな話術に乗せられ、秋代はその男、未彩人(みきと)を家に入れてしまい、彼が身近にいてくれることにいつしか安らぎさえ感じるようになる。
秋代の長男・優志(やさし)とその妻・梨花(りか)は互いを「政治的に正しく」理解しようと努めるあまり、関係がぎくしゃくしはじめていた。借金で身を持ち崩した次男の春好(はるよし)はゲームに惑溺し、妻の月美から見放されている。巴はニューヨークで産んだ娘・紗良(さら)を伴い帰国したが、他の家族から距離を置いている。彼らは気づかないうちに誰かを傷つけ、自らも深く傷つく。
それぞれが怒りや絶望、不安を抱えたまま、家族は解体へと進んでいくしかないのか。巴の家に住み着いている夕海(ゆうみ)という若い女はこの絶望的な流れを押し止める、文化人類学でいうところの「トリックスター」的な存在だ。未彩人と夕海の二人を媒介にして、秋代の家族はあらためて互いに出会い直す。
この小説の登場人物はいずれもDVや「毒母」、依存症といった社会問題の「当事者」たちだ。その問題解決は、人間同士の信頼回復からしか始まらない。「大団円」ともいうべきエンディングは、その可能性に賭ける作家の祈りでもあるだろう。
All Reviews(仏文学者/作家・鹿島茂)
このたび、出版不況に関して考えるところありまして、インターネット書評無料閲覧サイト「オール・レビューズ」を立ち上げることになりました。
「オール・レビューズ」は活字メディア(新聞、週刊誌、月刊誌)に発表された書評を再録するサイトです。
『だまされ屋さん』(中央公論新社)
2021/03/25
中島京子 1964年東京都生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。出版社勤務を経て渡米。帰国後の2003年『FUTON』で小説家デビュー。2010年『小さいおうち』で直木賞、2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞、2015年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ作品賞、柴田錬三郎賞、同年『長いお別れ』で中央公論文芸賞、2016年日本医療小説大賞を受賞した。他に『平成大家族』『パスティス』『眺望絶佳』『彼女に関する十二章』『ゴースト』等著書多数。
内容紹介:
七十歳の秋代の家に、ある日現れた謎の男。これは新手の詐欺なのか――。家族のあり方や人々のつながり方を問う渾身の長編。
家族の解体と再定義の物語
とある家族の物語である。夫と死別した七十歳の夏川秋代と、絶縁状態の三人の子どもたち。
長男の優志(やさし)は在日コリアンの梨花と事実婚をしているが、二人して「正しさ」の呪縛にがんじがらめになり、夫婦の危機を迎えている。次男の春好はゲームにのめり込んで借金を抱え、性格の弱さゆえに妻の月美との仲は最悪。一人娘の巴(ともえ)は、アメリカでシングルマザーとなり、プエルトリコ人との間に生まれた娘を連れて帰国したが、日本での子育ての壁にぶち当たる。
その大元に、母・秋代の存在がある。優志には育児放棄、春好には溺愛、巴には優志に丸投げからの一転過干渉をやらかしている秋代は、「子育てを間違えた」と自分を絶えず責めているものの、何を間違えたかの認識が大幅に間違っている。
小説は、この家族の再生の物語――とは少し違う。そういうステレオタイプには回収されていかない、読んだことのない家族小説に向き合わされる。
物語は、巴の奇妙な友人である夕海(ゆうみ)の画策もあり、巴、梨花、月美という義理姉妹が集まって、それぞれが胸に抱えていたつらさを吐露することで動き出す。この女たちの行動は、やがて男たちを、そして母をも、語りの場に引き出すことになる。
長男の優志、という人物は、小説中もっとも複雑なキャラクターだが、「男らしさ」を強要する文化の中で徹底的に痛めつけられ、否定され、それこそ猿ぐつわを嚙まされて声を封じられてきた優志が語りだす場面は圧巻だし、優志のような人物が小説中に描かれたことも画期的なのではないだろうか。
小説が肯定するのは、「自分の声を発する」という行為だ。
最初のうちはみんな、声を出すのがうまくない。やむにやまれず発される声はしばしば悲鳴に近く、聞く者を萎えさせ傷つけもする。それでもだんだん、なんとか言葉を出せるようになり、自分の声を獲得したことに安らぎと自信を覚える。
それができるようになるのは、聞き手がいるからだ。聞き手は辛抱強くなければならない。遮って話し出したり、耳を塞いだりしては元も子もない。登場人物からはしばしば、「私の声を奪うな」というメッセージが発せられる。だけど、人間、身内だと思うと我慢がきかなくなる。近距離で聞く声はうとましい。そこで登場するのが「他人」だ。巴の家に現れる夕海、秋代の家に現れて「家族になっちゃいましょうよ」と妙なことを言いだす未彩人(みさと)は、身内ではなく距離があるゆえに、よい聞き手になれる。秋代が未彩人に依存していく姿は、どこか危なっかしいけれど、人は誰も聞き手を必要としているという真実を突く。
家族の再生の物語、ではない。むしろ解体の物語だ。家族の構成者は、ひとり一人他人なのだという現実を直視した上で、「血縁者は他人ではない」という幻想を解体し、家族という概念を再定義する物語なのだ。家族の崩壊をテーマにした小説はさんざん書かれてきたが、その先を描いたものはあっただろうか。
ラストまで読んで、「家族」の定義の変化を実感すると、前半に登場する未彩人のこんな言葉が、脳裏に蘇る。
「相手を遠ざけちゃう迷惑は、たんに人間関係の終わりですよ。家族の終わりとか。寂しいじゃないですか」。
(寄稿)言葉を消費されて 作家・星野智幸
2024年8月27日 朝日新聞
このエッセーは、朝日新聞の編集委員から、安倍晋三元首相が亡くなって2年というテーマでインタビューの依頼を受けたことから始まった。2013年に私がこの欄に寄稿した「『宗教国家』日本」をもとに、この11年間を振り返りながら考えてほしい、と。
私は返信のメールで、次のようにお断りした。
《(「『宗教国家』日本」を)久しぶりに読み直して、いまだに同じようなことを同じような語彙で考えているなと確認しました。
ただ、変わったこともあって、これを書いたころの自分はまだ世の中を信頼していたんだな、と懐かしくも虚(むな)しく思いました。
現在のぼくは、政治や社会を語るこういった言葉が、単に消費されるだけで、分断されていくばかりの社会において、敵か味方かを判断する材料でしかなくなっていると感じています。「敵」と見なされれば攻撃の口実にされ、「味方」と見なされれば、共感したい人たちの読みたい方向に強引に読まれるばかり。いずれにしても消費財の役割しか果たさず、分断をむしろ加速させているという、自分の目指す方向と真逆に作用している実感があります。言葉の通じなさにぶつかるたび、リベラルな言論まで含めて、この社会全体のカルト化が進んでいるように感じます。ぼくが社会や政治について言葉にしてきたのは、共感する者同士の居場所を作るためではなく、境界をなくして少しでもマシな状況へと変化させるためであったので、それが内輪の居場所のためにばかり使われていくことにすっかり失望してしまいました。
このため、数年前から、政治や社会についてダイレクトに語ることをためらうようになってきました。小説という形かそれに準ずる言語でないと、言葉を出すことをやましく感じるようになっているというか。》
■ ■
では、私のその「虚しさ」を詳しく書いてくれないだろうか、と返事があった。
私は迷った。正直に書けば、これまで好意的だった読み手から不快に思われるだろうし、それを避けようとすればまたぞろ消費されるだけの文章を書いてしまうだろう。それでも、失意を表せることが希望だと感じて引き受けた。
11年前に書いた「『宗教国家』日本」の要旨はこうだ。
長年の経済的停滞等で疲弊したところに、東日本大震災と原発事故が起こって自分を支えられなくなった日本のマジョリティーの人たちは、絶対に傷つかないアイデンティティーとして「日本人」という自己意識にすがるようになった。個人であることを捨て、「日本人」という集合的アイデンティティーに溶け込めば、居場所ができるから。それは依存症の一形態であるが、誰もが一斉に依存しているから自覚はない。日本社会がそうしてカルト化していく傾向を変えるためには、強権的な政権への批判だけでは不十分で、一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要がある――。
11年たって、この傾向はもはや日常化している。日本だけでなく、世界中で。私が期待した、個々人が自分は何に依存しているのかを探るという作業は、あまり進まなかった。その実例が、ほかならぬ私自身だった。
自分は「普通の人」だと思っている人たちが、ナショナリズムに寄りかかることで、誰からも非難されず、こぼれ落ちたり突き落とされたりすることのない安定を手に入れようとする。その様子は私にも見えたけれど、自分自身を含め、外から「普通」と見なされなかったり、「日本人」をアイデンティティーにすることに違和感を覚えたりする人たちが、ではどんな自我の意識で自分を支えているのかについては、曖昧なままだった。いかに自分を客観視しても、必ず見えない死角があるから。
私がそのことを次第に意識するようになったのは、18年あたりからだ。当時は、大相撲の白鵬バッシングを必死で批判したり、「新潮45」という雑誌がセクシュアルマイノリティーを差別する記事を掲載した件であちこちからコメントを求められたりと、私の言論生活の中でも社会批評的な発言が最も盛んな時期だった。そして、かなり疲れてもいた。そんな私に、ある友人がこう尋ねた。
「ずっと社会派を期待され続けて、嫌になったりしないんですか」
私の頭は真っ白になった。そんなこと、考えたこともなかったので。「自分の考えを述べているだけで、心にもないことを言ってるわけじゃないし、それはないかな」というような答え方をした。
しかし、死角から襲ってきた友人の質問は次第に頭の中を旋回し始め、脳内を占領していった。
問いの答えを探すうちにほの見えてきたのは、確かに私は自分の考えを発言しているのだけれど、それを言葉にするときには言わないようにしている部分がある、という現実だった。なぜ言わないかというと、私の発言に同調している人たちの神経を逆なでするかもしれない内容だから。自分の考えを発言用に滑らかなものとして編集することを、私は無意識のうちに行っていたので、自分でも気づかなかったのだ。
■ ■
でも、一度気づいてしまうと、もう知らんぷりはできない。私は、自分が社会批評的なことを述べているとき、自ら世のリベラルな言説に合うように、もっといえば美味しく消費されるように盛りつけて差し出している、という嫌悪感をぬぐえなくなった。
それで理解に至ったのである。リベラルな考え方の人たちは、「正義」に依存しているのだと。
リベラルな考え方に理があるかどうか、現状に即して公正かどうかという判断と、リベラルな思想は「正義」であって絶対的に正しく否定されることはありえない、という感覚を持つことは、まったく別の問題である。自分を含めリベラル層の多くが、じつは後者を求めていると私は気づいた。
「日本人」というアイデンティティーが、「人種も生まれ育ちも日本だ」と思っている人にとっては、ごく自然で決して否定されない絶対的な真実だと感じられるように、リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え方をする自分には否定されない尊厳がある、とリベラル層は思いたいのだ。いずれも、普遍の感覚によって自分を保証してほしいのだ。
「日本人」依存というカルト化が進んでいることに、11年前の私は強い不安を覚えたわけだが、じつは同時に、ずっと小規模ながら「正義」依存のカルト集団もあちこちに形成されて、その依存度を深めていったわけだ。
個人を重視するはずのリベラル層もじつは、「正義」に依存するために個人であることを捨てている。「正義」依存の人同士で、自分たちが断罪されることのないコミュニティーを作り、排外主義的な暴力によって負った傷を癒やしている。私が自分の発言に無意識に制限をかけていたのは、その居場所を失って孤立することを恐れたのだろう。「正義」依存者であれ「日本人」依存者であれ、そもそもは弱って自分一人ではどうにもならない苦境から脱するために居場所を必要としたのであり、そこには理がある。問題は、その居場所が無謬化していくことだ。
無謬とは、間違いがない、という意味である。カルトの本質は無謬性にある。教祖が掲げた教義を、信者たちは決して疑ってはいけない。無謬性に完全服従し全身を預けることで、自分も間違いのない存在だというお墨付きを得る。絶対的な真実だから、それを批判する者は排除してよい。
それぞれのカルトが、そうして無謬性の感覚をベースに否定しあい攻撃しあっているのが、この世の現状なのだろう。この状態はもはや民主的な世界ではない。
民主制とは、それぞれ考えや気分の違う者同士が、互いに耳を傾け、調整して制度を作っていく仕組みだ。政治とは、自分たちの正しさ競争ではなく、話し合いで合意するための手段である。
けれど現状は、政党が、そこに所属したり支持したりする人にアイデンティティーを与える集団へと変質しつつある。政党が居場所化し、カルトに乗っ取られようとしている。旧統一教会と自民党という例だけでなく、立憲民主党も左派の「正義」依存のコミュニティー化しかけている。だから、依存者のゆがんだ認知で現実を見てしまうし、政党の目的である対話の場をうまく作れない。作っているように見えたとしたら、それは同じ考え方の者たちが集って共感し合う居場所であり、価値観の異なる者と制度を作るための対話の場にはなっていない。
■ ■
それにしても、誰もが自己を放棄し無謬性にすがりついてまで、安心できる居場所を欲している現在は、どれだけ殺伐としていることか。あらゆる発言が攻撃できるか感動できるかで消費される状態では、対話はおろか言語も成立しない。そこに呑み込まれたくなければ、文学の言葉を吐くしかない。他人に通じるかどうかも定かではない、究極の個人語だから。私はそうした発話にのみ、未来を託している。
*
ほしのともゆき 1965年生まれ。新聞記者を経て、97年「最後の吐息」でデビュー。著書に「目覚めよと人魚は歌う」(三島由紀夫賞)、「俺俺」(大江健三郎賞)、「焔(ほのお)」(谷崎潤一郎賞)など。最新刊は「だまされ屋さん」。
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