日本はなぜ開戦に踏み切ったか  森山優  2024.12.7.

 2024.12.7.  日本はなぜ開戦に踏み切ったか 「両論併記」と「非決定」

 

著者 森山優 1962年福岡県福岡市生まれ。歴史学者。西南学院大学卒業、九州大学大学院博士課程修了。静岡県立大学国際関係学部准教授。専門は日本近現代史・日本外交史・インテリジェンス研究。著書に『日米開戦の政治過程』。近年は日米交渉と暗号解読・情報活動の研究に取り組んでいる。

 

発行日           2012.6.20. 発行

発行所           新潮社 (新潮選書)

 

はじめに

日本の指導者たちは共同謀議により戦争を計画・遂行したとされ、侵略戦争として断罪されたが、東京裁判の過程で浮かび上がって来たのは、判決が指摘した一貫性よりも、リーダーシップ不在のまま状況に流されていく当時の指導者たちの姿。結果の重大さと、過程の虚しさ、このギャップをどのように理解したらいいのだろうか

本書では、複雑な戦争を理解する手掛かりとして、戦争が誰によって、どのような政治過程を経て決定されたかという問題に絞り、様々な角度から検討したい

 

第1章        日本の政策決定システム

戦争の責任を「軍部」に負わせることは、それ以外の政治勢力の責任から目を逸らせることと裏腹。「軍部」の糾弾は他の多くの政策担当者の責任を曖昧にしたのは明らか。免責された最大の存在は天皇。法的には無答責だが道義的責任は残る。海軍もしかり。悪玉陸軍が仮想敵国としたのはソ連で、対米戦を組織的利害としていたのは海軍。海軍がやると言わなければ対米戦は起こりようがなかったのに、なぜ「無謀な」戦争に踏み切ったのか

明治憲法体制の中で、当時の政策決定システムの運用状況を検証する

l  明治憲法と日本国憲法の相違点

天皇は無答責。政治的選択の結果責任は、内閣や統帥部、それ以外の超憲法機関(枢密院等)が担うが、それらの組織が個別に天皇に直結し補佐するような構造になっていた

首相は憲法上の存在ではなく、各閣僚も天皇に直結。閣僚は天皇を輔弼、統帥部は輔翼(ほよく)。輔弼と輔翼の違いは不詳

l  国務と統帥の分裂

陸海軍とも、軍政事項を担当する省と、軍令事項を司る統帥部の2本立てで、統帥部は内閣からも独立。1930年のロンドン軍縮条約の統帥権干犯が政治問題化して以降、統帥権独立が1人歩きし、国際的信用を大いに失墜させる。政治的統合力の脆弱性が明治憲法体制の制度的弱点。天皇は立憲主義的に振舞い、政治的統合の中心となることを避けていた

l  行き詰まりと混迷

維新の立役者がいなくなった後、政治的統合力は元老から政党に受け継がれたが、そのあと代位する存在が出てこなかった。陸軍出身者ですら組閣しても統合力を発揮できなければ古巣から見限られ、政治権力の中心は空っぽになってしまった

l  打開への模索

大本営政府連絡会議など、政治と戦略の統合・調整が図られたが機能せず、政府は統帥部との協議なしに日中戦争に対処しなければならなかった

近衛内閣の「新体制運動」や、国内新体制の中心として構想された大政翼賛会も、抵抗勢力の前には無力

l  大本営政府連絡懇談会(のち連絡会議と改称)

194011月に始まり、対外政策の実質的な決定機関とされる。メンバーは首相、陸・海・外の3相と陸海統帥部総長

l  目まぐるしく変更された「国策」

法制上の根拠もないまま「国策」が決定され、統帥事項を削除したものが閣議決定の対象

「国策」の過半は御前会議でも審議・決定されたが、国際情勢の激変に応じめまぐるしく変更。開戦直前の7月には南方進出態勢強化が謳われ、対英米開戦を辞せずとしながら、9月には外交交渉と戦争準備を並行して進め(両論併記)、開戦の判断は翌月まで先送り(非決定)されたが、近衛内閣は期限が来ても判断せず崩壊、東条内閣では「国策」が「白紙還元」

l  支離滅裂な文章

「国策」の持つ拘束力に疑問を持つと同時に、「国策」の内容表記自体にも問題が多い

対仏印強行策にしても、武力行使まで想定しながら期限は明言せず、外交上最善を尽くすべしとも併記され、要求内容にしても変更あるべしと付記、何が決まったのかすら不明瞭

l  「国策」の決定者たち

政府の方針を文書で決定して、それに拘束力を持たせようという発想そのものが、旧体制における政治的統合力衰退の象徴的表現。「国策」策定の中心は、陸軍参謀本部の中堅幕僚たちで、作戦担当の統帥部が、外交案件をも包括する「国策」を起案すること自体奇異

l  政党の凋落

政府が国会で多数を占めた政党人によって組織・運営されたのが崩壊したのは1930年代

l  帝国議会の行き着いた先

議会や政治家が、政府に対するチェック機能を喪失。議会は予算審議権で政府や軍事行動を掣肘できたが、軍のお先棒を担ぐことでその存在を示そうとしたため、政党政治に対する幻滅が広がり、その統合力の喪失が顕著となる。政党の復権を目指した動きが大政翼賛会となったのは皮肉な結果

l  参謀本部の発言力拡大

満洲事変で、関東軍の独断専行が陸軍・政府に追認されると、陸軍内部の統制も乱れていき、下克上や権力闘争が活発化。陸軍省トップは能吏型の東条。参謀本部は「便所の扉」といわれた調整型の杉山元で、下僚の強硬論が目立つ

l  「大角人事」の後遺症

海軍は伝統的に軍政系が優位だったが、統帥権干犯問題で、条約派を排除した大角人事以降、軍令部系の艦隊派が主力となりトップクラスの人材が払底

l  陸海軍の危ういバランス

情勢を動かそうと策動する陸軍中堅層と、それに手を焼きながらも制御・利用する陸軍省の首脳。穏健に事を運ぼうとすることなかれ主義の海軍首脳と、その統制下で組織的利害の拡充を模索する海軍中堅層。そんな陸海軍の危ういバランスの上に成立したのが「国策」

l  「国策」決定の手順

「軍部」や陸軍内部でも調整に手間取っていた

「国策」は、その後の取り扱い方によって拘束力が異なる。最も強いのは允裁(いんさい)

明確な意志決定が困難な場合の「国策」の決定の特徴が、「両論併記」、「非決定」(決定自体の取り止めや文言を削除して先送りする)、「相対化」(同時に他の文書を採択して機能を相殺)

政策担当者の対立が露呈しないレベルの内容で「決定したことにする」制度

l  天皇の意志表示

「国策」は一旦文章化されると、自己に都合が良い方向へ引っ張る根拠として使用できるという実利的な機能が期待された

天皇が立憲主義的に振舞った証左として、天皇の意志が政策決定に明確に現れた例外が、①二・二六事件への対応と、②ポツダム宣言受諾の聖断

それ以外にも、天皇は輔弼・輔翼の臣に対し影響力を行使。天皇の影響力行使の形態が、「国策」における「一致」の表現の追求に向かわせた側面も大きい

l  「船頭多くして船山に登る」

政治家や官僚特有のレトリックが駆使され、それが「国策」の文書化に現われる

何か有効な解決策を実行しようとしても、誰かが強硬に反対すれば決定できない

l  ゴミ箱モデル

このような混沌に満ちた意思決定状況は、アメリカでも「ゴミ箱モデル」と呼ばれ、場当たり的な決定の積み重ねと説明される。選択肢と予想される結果との関係が曖昧の上、選択に関与する集団の関心や目標も曖昧な状況下での選択は、ゴミ箱(選択機会)にゴミ(条件)が投げ込まれるように決定され、一旦決定されればゴミ箱は退場するが、状況に応じて新しいゴミ箱が登場し、同様の過程が生起するという

日米開戦の選択も、効果的な戦争回避策を決定することができなかったため、最もましな選択肢を選んだところ、それが日米開戦だったという事実に至る

 

第2章        昭和169月の選択

3次近衛内閣が3カ月で瓦解したのは、対米交渉を成功に導くために中国からの撤兵をまとめようとしたのに対し、陸軍が10月上旬頃までに対米交渉妥結の見込みがなければ開戦と明記した「帝国国策遂行要領」(9月の御前会議で決定)に従うよう主張したためであり、後継の東条内閣では「遂行要領」が天皇の命で「白紙還元」される

「遂行要領」自体は、珍しく海軍の提案で、対米戦を謳っていた

l  松岡の閣外放逐

3次近衛組閣の目的は日米交渉の推進。野村駐米大使のまとめた「日米諒解案」と、対ソ戦に備える「南北準備陣」の御前会議決定に対し松岡1人が反対し、対ソ開戦を強硬に主張したため、松岡を閣外に放逐するために第2次近衛内閣が総辞職して、組閣し直した

l  日米交渉に積極的だった閣僚

新外相の豊田貞次郎(元海軍次官)は日米交渉成立に奔走

l  虎の尾を踏んだ南部仏印進駐

7月下旬に南部仏印に進駐したのがアメリカを刺激。在米日本資産を凍結

l  対米開戦論の勃興

陸海軍中堅層に対米開戦論が勃興。海軍はそれまで対米戦は「自存自衛」のために限るとしていたが、対日全面禁輸の危機に直面し、抑止の論理が開戦の論理に転化

永野軍令部総長が早期開戦論を上奏。勝利の見通しがないことも説明したため天皇は閉口

l  「帝国国策遂行方針」の起案

陸軍の対ソ戦準備に対抗して、海軍は対米戦を念頭に戦備完整を主眼とした

l  近衛首相の決意

近衛は日米巨頭会談による危機打開を企図

l  出師(すいし)準備と「遂行方針」の提示

海軍は、すべての艦艇の整備(出師準備)完了の翌日、陸軍にこの「遂行方針」を示す

l  海軍部内の情勢判断

英米共同宣言が東洋に言及していなかったことから、日米交渉の先行きを楽観しながら、最悪の場合に備えようとする警戒感が「遂行方針」の提案を導く

l  「遂行方針」の文面をめぐる攻防

海軍提案は「戦争を決意せずに準備を進め、外交打開の途なきに於いては実力を発動(=開戦)」する骨子で前半に重点を置いたが、陸軍が注目したのは対米開戦決意の後半部分

l  陸軍の硬化と情勢の急転

対米開戦論に固まっていた参謀本部は、海軍の提案を機に「国策」を開戦決意へと引きずり始める。翌年の対ソ開戦に備え対米戦の早期決着を期して即時開戦論を唱えだしたところにアメリカの禁輸情報が入り、ロサンジェルス入港の日本船への給油拒否に直面

l  参謀本部の強硬論と陸海軍折衝

参謀本部は、海軍提案に対し、外交の相手をアメリカとし、期限を設けることを要求

ルーズベルトが日米会談に乗り気との情報が入って楽観したのか、新たな「国策」に10月上旬頃を最終決意の期限とすることに海軍も合意し、海軍の曖昧な「遂行方針」が、現実の行動を規定する具体性を持った「遂行要領」に変貌を遂げた

l  「目途」の問題

日米会談開催の雲行きが怪しくなり、戦争の前提条件を交渉不成立から、交渉成立の「目途」がない場合へと書き換えた「遂行要領」を可決し、御前会議でも決定

戦争・外交いずれの選択肢とも、細部が詰められておらず、矛盾を孕んだ曖昧な決定

l  曖昧なままの「遂行要領」

外交条件は、陸軍と交渉推進派の両論が並立した状況のまま、一本化されていない

戦争の見通しも、成算があるのは緒戦の資源地帯占領作戦のみ、長期見通しは不明のまま

l  天皇の不満

天皇はこの「国策」に露骨な不満を示すが、従来の意思決定システムの常道は越えず、外交努力を尽くすことを政府・統帥部に確認させたものの、外交交渉の条件については不問のまま、交渉が失敗した場合に備えての戦争準備までは拒否しなかった

l  「遂行要領」の「両論並立」性

外交交渉を優先するといっても、陸軍には譲歩する積りなどなかったし、「遂行要領は」意志統一の重要なポイントを先送りにした非()決定の文書

l  曖昧な対米条件

日本側の条件は、陸軍が主張する「限度」と、外務省が主導した「日米交渉に関する件」の2種類が併存し、肝心な点は曖昧なまま残された

l  外務省の奮闘と目論見

外務省(担当は寺崎アメリカ局長)は、日米巨頭会談実現のため、撤兵の条件を曖昧にする方針だったが、省内には枢軸派が動いて日米交渉を妨害。海軍も外交条件では陸軍に便乗して中国南部沿岸島嶼への駐留権確保を目指す

l  挫折した寺崎の意図

陸海軍との折衝の結果、撤兵については「日支間の協定」に従うという内容に後退

l  「日支間の協定」の真意

外相からの上奏では、今後新たに締結される協定と説明され、参謀本部は駐兵の確保が容易でないことを再認識

l  陸軍の対中和平構想

今までの権益は手放さず、第三国による新たな利権獲得を排除しつつ、撤兵の実を挙げる

l  外務省の抵抗と陸軍の強硬姿勢

外務省は米側が受け入れ可能な内容に変更しようとしたが、陸海軍の駐兵確保の要求に屈する

l  アメリカの照会

野村・ハル国務長官の事前会談で米側から出された疑問・照会を楯に、陸軍に反撃

l  「返電案」をめぐる攻防 「両論並立状況」の再構築

日支間の駐兵は今後の両国間協定によるとされたが、「両論並立状況」は未解決のまま続く

l  交渉推進派の策謀

アメリカを交渉の場に引っ張り出すための魅力的な条件をまとめる上で障碍になったのは参謀本部で、交渉推進派は参謀本部抜きで撤兵案を策定し、決定に持ち込もうとした

l  対米条件の一本化

参謀本部の強い抵抗で、逆に「遂行要領」で設定された期限の圧力が高まる

l  参謀本部の一方的勝利がもたらしたもの

参謀本部の意向を反映した「日米了解案」が連絡会で正式決定されたものの、交渉当事者の外務省は交渉成立のためにあえて駐兵地域や期間を曖昧なままに修正して臨むが、参謀本部の猛抗議によって覆される

l  窮地に追い込まれた近衛内閣

参謀本部は、外交に見切りをつける時期を、予定された10月上旬に実施するよう政府に圧力をかける。アメリカでも対日強硬派が巨頭会談を危険な賭けとみて、事前に駐兵問題の明確化を迫り、事前交渉は暗礁に乗り上げ、近衛内閣は総辞職に追い込まれる

 

第3章        なぜ近衛は内閣を投げ出したか

アメリカ側からは巨頭会談開催に否定的な回答がきたが、近衛らの交渉推進派は、アメリカ側に歩み寄って撤兵の期限を付ける方向で交渉を進めようとしたため、陸軍や両統帥部は期限の順守を要求、永野軍令総長も和戦どちらでも構わないが、開戦の場合は早急に決定しなければ戦機が失われると政府にプレッシャーをかける

l  近衛・東条会談

駐兵に絞って実利を取ろうとする近衛に対し、御前会議決定を形式的なものに押し止めてはならないという東条の形式的判断が対立し、会談は不調

l  「英米可分論」を主張し始めた海軍

海軍も駐兵問題で譲歩すれば交渉の「目途」ありと主張して陸軍と対立。さらには海軍内部に「英米可分論」が再燃。もともと「英米不可分論」を主張し、対米戦備拡充に努めてきた海軍だったが、全面禁輸によって危機に陥ったために、対米開戦の論理に転化

l  一致結束できない海軍首脳部

海軍内部は、陸軍の大陸利権に対しては極めて冷静な判断をし、「撤兵問題のみにて日米戦うは馬鹿なこと」だったが、陸軍と喧嘩してまで交渉継続を主張することもなかった

l  海軍が下駄を預けた先

陸軍も、撤兵問題のみにて対米交渉が纏まるならば考慮する意思を表明。下駄を預けられた格好の海軍は、その下駄を首相に預けるが、近衛は内閣総辞職による決定の回避を選択

l  内閣崩壊の原因

東条陸相は、御前会議決定を遵守して開戦を決意する御前会議を開催するよう主張、正論だが、「両論並立」という「国策」決定の慣例的状況からも、外交優先せよという天皇の希望からも逸脱し、陸軍の組織的利害のゴリ押しに他ならなかった

l  官僚組織の割拠性

東条は、「米国の主張に屈したら、支那事変の成果は壊滅、撤兵すれば軍は志気を失う。志気を失った軍は無いも等しい」と主張、国の利害と軍の利害を同一視する議論

国を危うくし兼ねない対米戦と、中国からの撤兵を天秤にかければ、結果は明らかだが、天秤にかけて判断する政治的主体が日本のどこにもなかったのが最大の問題

l  利害のねじれ

陸海軍とも、自分以外の組織の犠牲により問題を解決しようとした。陸軍にとっては、対米戦は海軍がやってくれる戦争で、自らの大陸の利害を守ることを優先したし、海軍も大陸の利害と陸軍の関係を自らの対米戦と同レベルの問題として捉えることができなかった

l  「皇族内閣」構想

近衛の後継に東久邇宮稔彦王が推挙され、天皇も陸海軍が一致して平和の方針に決定したならばやむを得ないとの意見だったが、東条は現状のまま東久邇宮に下駄を預けるとしたため挫折。にも拘らずその日近衛は総辞職を決定

l  大命は東条に

重心会議で木戸内大臣は東条を推すという奇策に出る。東条を現役のまま政権を担当させ、陸軍を統制下に置こうと考えた結果だった。天皇は東条に「(国策の)白紙還元の御諚」を下し、再検討を命じる。天皇は及川海相にも陸海軍の協力を命じる

 

第4章        東条内閣と国策再検討

東条にとって大命降下は予想外。急遽星野元企画院総裁と組閣人事を決める

l  海相人事に介入

海軍では後任の推薦は海相の職務であり、豊田副武呉鎮守府長官を推したが、陸軍に批判的人物として有名だったために陸軍が異例の忌避、軍政未経験の嶋田が選ばれ、金庫の中に「遂行要領」を発見し驚愕。避戦派次長の説明を受けるが、日和見の態度を示す

l  東郷外相の入閣

東条の入閣要請に対し、東郷は、新内閣の対米策について質し、東条が条件の再検討と交渉成立への希望を表明したのを確認して要請を受ける。東郷は外務省の本流とは言い難く、重光のような人脈も少なく、両者には溝があった。交渉推進に向けた人事を断行

l  賀屋の蔵相就任

大蔵から北支那開発会社総裁に転出していた賀屋も、就任要請に対し、外交交渉推進を確認したうえで引き受け。にも拘らず、国策再検討の結果開戦に傾斜していったのはなぜか

l  天皇の影響力行使

再検討の問題点は、「白紙還元」されるべき「国策」の内容で、対英米戦の成算に疑問を持つ勢力にとっては戦争という選択肢だったが、開戦を有利とする者たちからは、清算されるべき選択肢は外交交渉そのものだった

天皇の掣肘を恐れていたのは参謀本部だったが、天皇が再検討を命じたのは東条と及川だけで、あくまで従来の政策決定の枠組みに則った、輔弼の臣による再検討に下駄を預けた

l  硬化する統帥部と国策再検討の開始

再検討の命を受け、参謀本部は外交交渉を10月末まで継続することを容認しただけで、残り10日余りしかなく実質的な交渉打ち切り、即時開戦決定を表明

l  欧州における戦局の見通し

英独・独ソ戦とも長期戦化が予想され、ドイツからの支援期待できないとされる

アメリカ参戦問題を議論に組み込んだら、対英米戦争という選択肢は成立不可能になるので、アメリカ参戦の手前で思考停止に。日本が戦争に踏み切った場合も、長期戦化は不可避とし、アメリカに対して武力で勝利する手段がないことを率直に認め、あとは精神力と世界情勢の好転を当てにするという、希望的観測に根拠を置いた判断停止の産物

l  ソ連の動向と英米可分論の行方

ソ連参戦の可能性は少ないとされたが、戦争の帰趨を左右する問題との認識はなく、単に陸軍が対北方武力行使を正当化する論拠としてのみ扱われたに過ぎない。このような重大問題を判断材料から排除しない限り、戦争の目算は立たなかったのが実情

日本側は、既に米英蘭3国間で共同防衛の了解が成立しているとみており、英米可分論は無意味

l  開戦延期論の否定

開戦を延期した場合、国際環境的には有利となるが、その間の米英蘭の軍備増強の進展リスクの方が上回るとした統帥部の意見が押し切る

l  秀才集団・海軍の限界

英米可分論も開戦延期論も海軍が言い出す。対米戦の主役は海軍であり、これまで半年以上にわたり英米不可分論を主張、戦うなら早くと主張し続けてきたのも軍令部で、今更開戦の論拠を崩すには、自己矛盾に満ちた開き直りが必要だが、エリート集団にはできない

l  海上輸送能力

南方資源輸送の成算に関するシミュレーションでは、統帥部と企画院の船舶損耗量の数字が異なっていた

l  造船量と船舶損耗量の検討

海軍の損耗予想は初年度10%強から、年とともに漸減、方や造船量は3年目には倍増といずれも楽観的。不十分なデータに基づくやっつけ仕事での見積りだった

l  欠陥だらけの船舶損耗量算定

現実には、造船量は45年まで想定を上回ったが、損耗量は開戦強硬派が第1次大戦におけるドイツの潜水艦を使って成功した通商破壊戦の戦例を参考にしたもので、航空機による損害は想定外。そもそも海軍には海上護衛という発想がなかった。海軍は、長期持久戦を戦う能力もなければ、対策を構想して実行する意志も薄弱

l  曖昧な物資の需給予想

陸海軍ともに膨大な予算を要求してきたが、購入可能な物資は国内に半分しかなかったし、資源関係の数字自体水増しされ、その水増しの数字に希望的観測を加え、やっと成り立った戦争遂行能力だった

再検討で長期戦が可能かどうかの議論が厳密に詰められていたとは言い難く、結論はどう転んでも不思議ではなかったが、連絡会議の空気は開戦やむなしの方向へと動き出す。それを導いた原因は以下の3

   臥薪嘗胆論への不安

   対米交渉の困難さの再認識

   鈴木企画院総裁の転向と嶋田海相の開戦決意

l  「臥薪嘗胆」という選択肢

海軍の試算では航空機用ガソリンは34カ月、自動車用は26カ月でゼロになると説明

先の見通しの暗い臥薪嘗胆では説得力もなく、対米交渉でも日本側が譲歩しない限り不可能であり、アメリカの提案を鵜吞みにすれば日本は3等国になるという判断でも一致しており、南方戦略による資源培養戦という選択肢は、思考停止と希望的観測の産物ではあったが前途に微かな希望を抱かせた

l  鈴木企画院総裁の「転向」

企画院の最終判断は、船舶量の維持は困難だが、2年目以降の損害量が大きく減少する仮定の上に立って、開戦は新造に必要な鋼材の調達という国内問題に過ぎないと嘯き、賀屋と東郷もその矛盾を追求しきれなかった

l  伏見宮の圧力と海相の開戦決意

「速やかに開戦せざれば戦機を失う」と嶋田海相に圧力をかけたのは軍令部総長伏見宮

伏見宮は天皇に開戦を上奏して詰問されながら、嶋田には陛下も「結局一戦避け難からん」の御決意だったと伝え、天皇の言葉を恣意的に利用した疑いが濃い。嶋田は伏見宮の信頼厚く、その庇護の下で異例の出世をしてきた人物であり、伏見宮の発言の重みは絶対的

l  戦争回避の説得と嶋田の拒絶

東郷は、海軍の強硬態度を是正すべく、海軍超老人の影響力行使に奔走する

l  分裂状態だった対米作戦構想

海軍には戦争全体を見通した戦争計画がなく、個別の作戦計画の寄せ集めしかなかった

山本は緒戦に全力投球を主張したが、作戦を指揮した南雲に山本の考えは浸透しておらず、艦隊決戦こそ勝敗を決するという発想に凝り固まっていた軍令部は緒戦の戦果を拡張することなく早々に帰投させている。永野軍令部長も長期戦化すると再三繰り返しながら、長期戦勝利の作戦計画はない

l  時代遅れの建艦計画

ワシントン・ロンドンの海軍軍縮条約が36年に失効して、アメリカは早々に大規模建艦計画を立案したのに対し、日本は依然として対米7割を目標にするのみで、日本海海戦の勝利に範をとった艦隊決戦思想から抜けられなかった

l  短期決戦の誘惑

海軍中堅層が対米開戦を主張した裏には、彼等が拘った主力艦の比率は、この頃が一番有利だったという事情があり、3年目以降の戦局に対する判断を放棄している

l  物資優先配当を要求した海軍

嶋田海相が開戦を容認した後でも、海軍の対米軍備拡充に全ての国力を集中することが政府や統帥部の共通了解となっていたわけではなかった。海軍は鋼材だけでも前年比5割増しを要求したが、陸軍は陸軍で対ソ戦準備に膨大な物量を必要としており、国運決定のぎりぎりの段階においてなお両者相譲らず

 

第5章        対米交渉案成立と外交交渉期限

日本側の混乱と並行して、アメリカ側の態度が硬化し、両者の対立は原則的なレベルに達して、個別具体的な譲歩で解決することは困難だったが、東郷の奔走で譲歩案2案の作成に成功。2年以内の撤兵を約するが、駐兵の例外は残すなど、玉虫色感は拭えず

l  東郷の交渉戦略とは

東郷は、ハル4原則を拒否する強硬姿勢をとる代わりに無差別原則(通商の機会均等)で譲歩する案で東条や陸軍の同意を取り付ける

l  対米交渉案の両論並立性

陸軍には譲歩したという認識がなく、単に表現の問題と考えていた。この段階になっても曖昧な両論並立状況が続いていた

l  最後の決断 111日の連絡会議

参謀本部は即時開戦決意、陸軍省と海軍は期限付きの外交交渉、賀屋と東郷が開戦反対

l  連絡会議での激論

会議の議論は、①臥薪嘗胆と戦争のどちらが有利か、②外交交渉の条件の2

①についてはアメリカが攻めて来るかどうか見通しがないままに結論が出ずに終わる

l  外交交渉の期限

東郷は、外交には期日を要するとし、参謀本部の即時開戦論を葬ったが、121日を期限とすることで妥協が成立

l  新たな妥協案

東郷は、期限を区切る条件として、中国問題を棚上げし、南部仏印の日本軍を北部に撤兵させることと引き換えに物資を獲得しようとする対米交渉案を主張。それであれば外交交渉に成算ありと考えた。参謀本部は猛反発し、アメリカの援將停止を追加させたが、身を賭した東郷の姿勢に陸軍も、援將停止だけでもアメリカが呑むはずがないと判断し妥協

決定は上奏され、御前会議で新たな「国策遂行要領」としての重みを加えた。121日までに外交交渉が成立しなければ開戦することが決められた

l  東郷外相の苦悩

賀屋も多数意見に従う旨を東条に伝え、東郷も連絡会議での決定を承認するとしたが、外交交渉でさらなる譲歩が必要になった場合は東条が外相を支持するとの条件付きで、まだまだ「非()決定」の状態が続いていた

l  陸海軍の部内統制

海軍は、上奏内容を平静に受け止めたが、陸軍は南部仏印からの撤兵条件に部長以下が猛反発。東条「変節」に対する不信任の声が満ちる

l  矛盾した最終決定

外交交渉と戦争との関係は明確に整理され、「交渉成立の目途がない場合」と明示、交渉条件も包括撤兵と仏印に絞った2段構えでいくことが確認されたが、戦機は今しかないとする論拠も、3年後は不明とした長期見通しもなしでは無責任極まりない

l  変化した昭和天皇の判断

天皇は上奏に対し、外交交渉の成立を期待していたことは疑いないが、損害の見込みや防空への懸念を質しながら、それ以上の突っ込んだ質問はなく、政府・統帥部の説明に満足気だったとされ、参謀本部は天皇が既に開戦を決心しているものと安堵

抵抗勢力だった陸軍を、政策決定に責任ある立場に据えることで、一定の統合力が生まれた。東条は忠臣を絵にかいたような人間で、統合力を回復した政府が一致した結論で天皇に裁可を求めた場合、問題なく裁可されるのが慣例で、天皇も東条に下駄を預けた

天皇の東条に対する信頼は戦時中も続き、更迭の最大の障碍となった

開戦3年目以降は不確定なままだったが、天皇は制度的な枠組みを超えてまで、このことを追及しようとはしなかった

天皇は戦後、自分が主戦論を抑えたらクーデターが起こったに違いないと証言しているが、天皇の意志に反してクーデターを起こして日本を開戦まで持っていくような政治的主体は具体的に想定できない

l  排除された臥薪嘗胆論

本質的な対立は、外交か戦争かの間ではなく、臥薪嘗胆か外交・戦争かの間にあった

両論併記や非()決定を特徴とする「国策」が必要とされたのは、強力な指導者を欠いた寄り合い所帯の政策決定システムが、相互の決定的対立を避けるためで、そのための重要なよう構成要素が「国策」の曖昧さだった。臥薪嘗胆だけは、日本が将来蒙るであろうマイナス要素を確定してしまったために、選択肢から排除されたが、外交交渉や戦争は、見通しが曖昧だったために、指導者たちが合意することができたという皮肉

l  3年目以降の見通しで落とされた要素

戦争に踏み切った場合の希望を持てる要素は国際環境の好転しかなかったが、臥薪嘗胆の場合は国際環境の好転を考慮に入れることはなく、政府と統帥部は3年目以降の見通しが不明の開戦もやむなしと判断し、総攬者の天皇自身がその説明を受け入れ

 

第6章        甲案と乙案

日本側の外交条件は甲乙2案。包括的に議論する甲案と、南部仏印に絞って暫定的な妥協点を見出そうとする乙案だが、アメリカは抜け穴の多い甲案は論外で一蹴

l  日本側の最後案 乙案

最低限英米の禁輸解除を得るための問題に絞って東郷が作成したのが乙案

仏印からの撤兵と引き換えに米国の対日石油供給約束の取り付けが中心議題

一定のインパクトはあり、ハル国務長官は連合国に乙案を内覧

l  東郷外相の不可解な言動

東郷は、周囲に諮らずに3度も乙案の改変を指示するという不可解な行動に出る

東郷は東条から、交渉の途中でアメリカが乗り気になってきた場合は、さらに譲歩を検討するという言質を取り付けているが、この非()決定の状況を根拠として最大限利用した

l  甲案をめぐる交渉

アメリカは4月頃から日本側の外交電報を解読していたため、日本側の2段構えは筒抜けで、最初から甲案は相手にされなかった

l  交渉のすれ違い

甲案を交付した際、日本が重大な譲歩と考えた撤兵問題の説明はハルに届かず、ハルが要求した三国同盟への要望は野村から東京に伝わらなかったという重大なすれ違いが起こる

l  東京でわかった認識のズレ

グルー駐日米大使からの情報で、日本側は初めて、ハルが三国同盟について日本の「具体的な声明」を求めていたと知り、またアメリカ側が正式な交渉ではなく予備的折衝だと認識していたことが判明。アメリカが日本との交渉に距離を置こうとしていることに気付く

l  甲案の拒否

ハルの回答は、日本側の用意した譲歩を完全無視・否定したばかりか、原則問題を蒸し返し、決裂必定が明白となる

 

第7章        乙案による交渉

暫定協定的な解決はアメリカ側も模索しており、乙案という構想も的外れではなかった

新たに来栖を特使として派遣するが、甲乙案とも事前に野村大使に打電されており、特使が新たな提案を提示するわけでもなく、グルーも失望

l  乙案の「奇妙な」送られ方

乙案は、御前会議の前から野村に送られ、度々修正されていた。特使到着前でもまだ譲歩の重要部分は秘匿されたまま。交渉開始の訓令電により初めて全貌が明らかになった

l  東郷の意図はどこにあったか

陸軍の目を誤魔化すための小細工か

l  本省と出先のギャップ

野村は交渉役として不適任だったし、野村他在アメリカ駐日大使館に対する不信感が積み重なっていた外務省は、グルー大使からの情報で在米駐日大使館を監視していた

l  野村の独断と乙案の提示

野村は独断で、乙案からさらに譲歩した私案をハルに提案。南部仏印からの撤兵と資産凍結解除のバーター案で、来栖も現地の情勢の厳しさを感じて野村案に同調

現地からの情報に東郷は叱責し、当初の乙案を最終案として交渉するよう指示。せっかくの譲歩案も、幅を狭めてしまった

l  来栖も譲歩案に協力

野村と来栖は、乙案の順番を入れ替え仏印からの撤兵を前にもってきて提示。さらに妥協成立見込みがつくまでは秘密にするよう訓令されていた三国同盟に関する妥協案(独米開戦の際の参戦は義務ではなく日本が独自で判断する)を米側に説明。ハルの対応に来栖は手応えを感じる

l  謎が残るハルの対応

ハル自身の会談録によると、何の助けにもならないと却下したことになっているが、記録係が受け取ったのは1218日となっている。不自然な遅延の裏に何があったのかは不明

l  ハルは乙案をどう捉えたか

ハルは乙案を英豪蘭中の大・公使に提示、援將停止は拒否、仏印撤兵後の駐兵は最小限とし、禁輸解除も僅かに留めるとの考えを伝える

l  暫定協定案とハル・ノート

ハルは4国に対し、乙案への回答ではなく、別途国務省作成の暫定協定案と包括的な協定(ハル・ノート)をセットで提示する方針を伝える

暫定協定案は、3カ月限度に、仏印の撤兵と引き換えに限定的資産凍結・禁輸解除を約す

ハル・ノートは、目前の危機への対策としては非現実的な対応だったが、ハル自身はまだ交渉に望みをつないでいた

l  東郷外相の二正面作戦

東郷は、アメリカと陸軍を敵に二正面作戦を展開し続ける。最大のネックは援將停止

対内的には東郷は強硬な姿勢を崩さず、参謀本部の矛先をかわしたが、乙案成立の場合の物資の数量問題については石油以外の資源について未定

l  暫定協定案をめぐる攻防

ハルは、4か国代表に暫定案を示し、蒋介石だけが駐兵力の更なる削減を要求したが、兵力量を削除することで合意に持ち込む

l  中国による暫定協定案の漏洩

暫定協定案成立阻止を目論む中国側が内容をマスコミにリークし、東郷は改めて乙案貫徹を訓令するが、ハルが突然方針を変更し、交渉は挫折へ

l  ハルの変心

ハルは、暫定協定案を放棄し、包括案(ハル・ノート)のみを日本側に手交。その背景は未だ謎のまま。理想主義者ハルが暫定協定への各国の消極的態度に不満を抱き、希望なき任務の遂行を放棄。陸軍長官スチムソンが日本の大船団が南下中と伝えたことも、ハルに対日不信感を抱かせたともいわれるが、日本の軍事行動の事実はなく誤報だった

 

第8章        ハル・ノート

第1項        政策に関する相互宣言案 ⇒ ハル4原則

    一切の国家の領土保全と主権の不可侵

    他国の内政への不関与

    通商の機会均等

    紛争の防止及び平和的解決等のための国際協力及び国際調停の遵拠

第2項        1項の原則に沿って両国がとるべき具体的措置

    英中日蘭ソ米タイの多辺的不可侵条約締結

    仏印の領土主権の尊重とそのための協定締結と貿易経済関係の平等待遇

    中国・インドシナの日本軍・警察の撤収

    蒋介石政府以外の中国政府の否認

    中国における一切の治外法権の放棄、同様のことを英国等の政府に働きかける

    日米通商協定締結協議の開始

    資金凍結解除

    円ドル為替安定のための出費

    第三国と締結した条約がこの協定の根本目的(太平洋地域全般の平和確立及び保持)に矛盾すると解釈されることに同意(三国同盟の廃棄)

    他国政府に対してこの協定の基本的な政治的経済的原則の遵守と適用を働きかける

最大の焦点は③項。例外を認めさせる条件闘争が可能とは読めない。さらに、第4項も重要で、汪兆銘政権や日本の傀儡である満洲国の否認など、日本の立場を根本的に無視

l  戦争準備段階に入ったアメリカ

アメリカ側は、最終交渉の直前の時点で、日本との交渉に希望を抱いているとは思えず、自身が過大な危険に晒されない範囲で、日本側に最初の一弾を撃たせるような立場に追い込む方策を協議。ハルはノートを提出する前に、陸海軍に下駄を預け、両軍内では「戦争警告」が発信されていた。ただ、開戦には日本が侵略戦争を始めたという証拠が必要

l  若し暫定協定案が提案されていたら

日本側は、ハル・ノートをアメリカが日本に突き付けた「条件」と解釈、余りの唐突さと不可解さに衝撃を受けたが、その溝を埋める役割をしたのが暫定協定案であり、一緒に提示されていれば、日本側の受け止め方も違っていただろう。ハル・ノートは余りにも不寛容

l  ハル・ノートの衝撃

アメリカが譲歩を小出しにしてくれば、日本は戦争に踏み切れず、戦機は失われ、アメリカは血を流さずに目的を達成できたに違いないが、原理原則の貫徹を選択

参謀本部中堅層はハル・ノートを国論一致のための「天佑」と歓迎したように、日本にとってハル・ノートは、アメリカにとっての真珠湾攻撃に匹敵する作用をもたらした

l  最後の開戦阻止活動

政府部内の異論は、ハル・ノートによって完全に粉砕されたが、外務省OBらを中心に重臣会議に開戦回避を働きかける動きもあった

天皇も重臣会議への諮問を東条に提案するが、重臣への説明は政府が行い、天皇と重臣は陪食懇談に留まる

l  空振りに終わった重臣会議と高松宮の進言

政府の説明を受け入れたのは陸軍出身の元首相2人のみで、他は消極的だったが、政府は解散後直ちに連絡会議を開催し、開戦決意の御前会議開催の奏請を決めている

御前会議の前日、軍令部作戦課勤務の高松宮が海軍内の避戦の雰囲気を感じて天皇に直訴。木戸の進言もあって天皇は嶋田と永野を呼び確認するが、2人は作戦への自信を述べる

いずれも、法的な制度の外からの反撃であり、東条がそれを食い止めたのは「合法」性の観点からは正当だったが、合法的に採択されたのは国家そのものを失いかねない政策だった

l  開戦決定 何のための戦いか

121日の御前会議で開戦決定。指導者層の完全な「一致」が表明され、破滅への第1歩を踏み出す

英米による既存の国際秩序を日独伊の提携によって打破しようとする松岡らの「革新」外交、タイと仏印を勢力圏として確保しようという「小南方」構想を実行した末の日本の最低限の要求は「現状維持」程度に過ぎなかった。「革新派」によって政治権力から英米派などが排除されてしまった日本が行き着いたのは、現状維持すら覚束なくなった窒息寸前の状況

中国からの撤兵に陸軍が抵抗したのは、手ぶらでは引けないという論理に拘束されたためで、日本は自らの政策が破綻したツケを、自らが傷ついてまで支払う責任感に欠けていた

最低限度の現状維持すら確保できなくなった日本は、それまでの「成果」を無にしないため、英米の世界秩序に挑戦する、さらなる「革新」へと突き進むことを選んでしまった

 

 

おわりに

日本が開戦に向かう政治過程を検証すると、これでよく開戦の意思決定ができたと、感心せざるを得ない。その道程は決して必然的ではなく、どこかで1つ何かのタイミングがずれたら、開戦の意思決定は不可能だっただろう

戦争と外交という2つの選択肢が、「国策再検討」の末に採択されたのは、相手の出方次第という不確定要素に依拠していたからで、アメリカの強硬な態度が明確に示されたことで、残された選択肢は、欧州情勢の好転とアメリカの戦意喪失という希望的観測に期待をかけた対米英蘭開戦しかなかった

外交交渉に対する当事者の希望的観測が、要所要所で戦争に踏み出してゆく結果に繋がったのも皮肉な事実。日本の指導者は不都合な未来像を直視することを避けた上、内的な軋轢のリスク回避を追求した積み重ねが、開戦という最もリスクが大きい選択だった。開戦決定は、非()決定から踏み出した決定に見えるが、非()決定の構造の枠内に留まる

陸海軍は解体されたが、官僚制は生き残り、戦後は一貫して増大し続けた。戦前に比較して内閣の権限が強大な新憲法の下でも、政治主導の困難さが叫ばれている。戦前に日本の政策担当者がどのように時局に立ち向かったのか、検証することは無駄ではない

 

 

あとがき

本書は、0506年度科学研究費補助金「日米開戦と情報戦 政策決定システムとの関係を中心に」及び0911年度同様補助金「第2次世界大戦と日本の情報戦」による成果の一部

自分の研究は、海軍と開戦過程を対象としていた。海軍善玉論をイメージしていたが、現実に海軍が採った行動を検討していくに従い、そのイメージを修正せざるを得なくなった

組織の意思決定の現場では、現在でも「非決定」の状況が展開されている

 

 

 

 

新潮社 ホームページ

矛盾だらけの文書、決められない組織。「国策再検討」の迷走は昔話ではない!

第三次近衛内閣から東条内閣まで、大日本帝国の対外軍事方針である「国策」をめぐり、陸海軍省、参謀本部、軍令部、外務省の首脳は戦争と外交という二つの選択肢の間を揺れ動いた。それぞれに都合のよい案を併記し決定を先送りして、結果的に対米英蘭戦を採択した意思決定過程をたどり、日本型政治システムの致命的欠陥を指摘する。

 

波 20127月号より 「合意」のための「非(避)決定」

小谷賢(防衛省防衛研究所主任研究官)

太平洋戦争が勃発したのは単純に軍部が暴走したからではない。陸軍参謀本部の一部組織を除けば、天皇、政府、海軍、陸軍省ですら対米戦には及び腰であった。東条内閣の成立も軍部による戦争遂行目的などではとてもなく、東条は対米戦を回避するため首相に抜擢されたのである。さらに言えば、「なぜ日本はあんな無謀な戦争を行ったのか」という問いかけ自体、戦争の悲惨な結末を知っているが故の後知恵であり、当時「対米戦」という選択は最も有望と考えられていたのである。

ではなぜ皆が開戦に消極的なのに対米戦が有望とされ、それが実行されたのか、この一見すると矛盾だらけの問いに対して、本書は戦前の政治、官僚システムの「非(避)決定」という構図から明快に論じている。

本書は一般読者を想定して執筆されているため、まず政策決定の仕組みや弊害について紙幅が割かれている。第一章を一読しておけば、当時の政策決定過程には国策を決定する政治主体というものが欠けており、国策は政府や陸海軍、外務省などの曖昧な合意の産物であったことが理解できる。ただしこの仕組みでは、それぞれが「組織の利益」を主張し出すと国策などまとまらない。そしてそのような状況が実際に生じていたのである。各組織はお互いが納得するまで膨大な「紙の上での戦い」を繰り広げ、落としどころを模索することになる。こうして組織間の合意を目指した両論併記の国策だけが文書として残されるのである。

この意思決定の根本さえ理解しておけば、第二章以降の戦争への道も難解ではない。基本的な構図は、対米戦を回避したい政府、中国からの撤兵を受け入れない参謀本部強硬派とそれをコントロールしようとする陸軍省、対米戦は回避したいが対米戦用の予算や物資は欲しい海軍、枢軸派と米英派の入り乱れる外務省が、それぞれの省益を戦わせながら曖昧な合意を形成していくというものである。しかし対米戦という対外的な、しかも国家の命運のかかった問題を、省益を優先する非決定の構図から論じていればいずれ行き詰まることは想像に難くない。曖昧な合意と議論の先送りしかできなかった政府にとって唯一合意に達することができたのが、「開戦」という悲劇的な結論であった。そこには国家としての長期的な展望や合理的な対外戦略といったものは見られない。

著者の森山優は前著『日米開戦の政治過程』でもこのような非決定の構図について論じているが、本書は一般読者向けに柔らかく書かれており、また東条内閣による国策再検討や東郷外相の外交について新たな知見を提示してくれている。本書を一読すれば、「組織の利益」、「玉虫色の結論」といった問題が昔話ではなく、それが現在にも通じていることに気付かされる。

(こたに・けん 国際政治学者)

担当編集者のひとこと

日本はなぜ開戦に踏み切ったか「両論併記」と「非決定」

リーダーシップ不在はいまも同じ 本書のサブタイトルを見て、ニヤリとされた方もいるかもしれません。特にサラリーマンの方なら、いっこうに決まらない検討課題、堂々巡りの議論、意見を言うだけの場となった会議など、まるで自分の勤める会社のようだと……
 昭和16年夏から秋にかけて、第三次近衛内閣と東条内閣では、大日本帝国全体の対外軍事方針である「国策」をめぐって喧々諤々の議論が繰り広げられました。しかし、よく見てみると、政府、陸海軍省、参謀本部、軍令部、外務省の首脳らは、それぞれに都合のよい案を併記し決定を先送りして、戦争と外交という二つの選択肢の間を揺れ動いただけでした。そして、それぞれの意見を取り入れていくうちに、結果的に対英米蘭戦という最悪のオプションを採択してしまいます。

 敗戦後、連合国は東京裁判を開廷し、日本の指導者たちは共同謀議により戦争を計画・遂行したとされて、東条英機ら七名の被告が死刑に処せられましたが、実際は「共同謀議」どころか、お互い「足の引っ張り合い」をした結果の戦争であったことが本書を読むとよくわかります。

 著者の森山優氏は、その過程を振り返って、次のような感想を述べています。

「日本が開戦に向かう政治過程をつぶさに検証して行くと、これでよく開戦の意思決定ができたものだと、逆の意味で感心せざるを得ない。その道程は決して必然的ではなく、どこかで一つ何かのタイミングがずれたら、開戦の意思決定は不可能だっただろう」

 リーダーシップ不在のまま、状況に流されていく当時の指導者たちの姿は、いまの日本の現状(企業、政府、教育機関など……)と重ね合わせてみても、昔の話でも他人事(ひとごと)でもありません。

 

 

 

朝日新聞 夕刊連載『現場へ!

1      20242月     側近が記した「昭和」

2      202412     側近が記した「昭和」 II

秘められた天皇の実像 焼却免れ公開 侍従長と初代長官が記録

編集委員・北野隆一202425 1630分 朝日新聞

昭和天皇=1988

初代宮内庁長官を務めた田島道治(右)=1964

初代宮内庁長官の田島道治が昭和天皇とのやりとりを記録した「拝謁記」などのノートや手帳=20198月、東京都渋谷区のNHK放送センター

百武三郎侍従長の日記や手帳=202111月、東京都文京区

現場へ! 側近が記した「昭和」①

 国立国会図書館(東京都千代田区)の4階にある憲政資料室には伊藤博文や岩倉具視(いわくらともみ)ら、幕末以降の政治家や軍人、官僚の手紙や日記など、日本政治史を物語る文書が保管されている。

 そこに昨年11月、田島道治(たじまみちじ)の文書168点が寄託され、12月から閲覧可能となった。敗戦直後の初代宮内庁長官だった田島は、昭和天皇との会話を「拝謁記(はいえつき)」と題した大学ノートと手帳計18冊に書きとめていた。

 田島は1968年に死去する何カ月か前、拝謁記のノートや手帳を自宅の庭で焼却しようとしたが、次男の恭二が押しとどめた。長男の譲治とともに「決して悪いようにはしないから」と説得した。

 拝謁記の存在は、元共同通信記者の橋本明が87年、雑誌記事で明らかにした。ノンフィクション作家の加藤恭子(94)は2002年に田島の伝記を書いた際、拝謁記について「もう公開は可能ではないか」と遺族に促したが、恭二はこう断ったという。「ノートを焼こうとした父を止めたとき、『ぼくたち兄弟が生きている間は絶対に公表しないから』と約束したのです」

この記録はいつか世に出なければ

 譲治は03年、恭二は13年に死去する。19年の天皇代替わりの際にNHKから依頼を受け、譲治の長男で道治の孫にあたる慶応大名誉教授の田島圭介(81)ら遺族が公開を承諾した。「それまでは、公開すると迷惑がかかる人がまだ存命中である懸念があった。だが父も叔父も亡くなり、この記録はいつか世に出なければいけないと考えた。縁の下の力持ちに徹し、目立つのが嫌いだった祖父に叱られるかもしれませんが、専門の研究者の編集で世に出たことで許してくれるでしょう」と語る。

 「昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録」という題で岩波書店から出版され、全7巻の刊行が完結した23年に毎日出版文化賞を受賞した。編集や解説を手がけた歴史研究者を代表し、日本大教授の古川隆久(61)は昨年1218日、贈呈式のあいさつでこう述べた。「象徴天皇制や戦後政治を考えるうえで、重要でかけがえのない史料です。田島が昭和天皇に向き合い、象徴天皇制をどのように形づくったかが見える」

 編者の一人、志學館大教授の茶谷(ちゃだに)誠一(52)は振り返る。「初めて中身を開いたとき、内容の生々しさに驚きの声をあげずにはいられなかった。ふだんから歴史資料に接する歴史研究者にとっても、一生に一度あるかないかの貴重な体験だった」

 19年には、もう一つの重要史料が遺族から東京大に寄託された。昭和の戦前戦中期の侍従(じじゅう)長を務めた百武(ひゃくたけ)三郎(さぶろう)の日記だ。

昭和史研究でも超弩級の貴重な記録

 注目されたきっかけは14年。宮内庁書陵部が編纂(へんさん)した「昭和天皇実録」の脚注に、典拠として「百武三郎日記」の題が繰り返し記されたことだった。

 百武は1936年に着任し、第2次大戦中の44年まで79カ月間、侍従長の職にあった。

 日記は、実録の編纂に協力するため遺族から宮内庁に提供された。19年に東京大大学院法学政治学研究科付属近代日本法政史料センター原資料部(げんしりょうぶ)に寄託され、21年から公開された。日記の所在を知ったNHK21年に内容を報道した。

 古川は百武の日記についても「そばにいた侍従長だからわかる天皇の言葉や表情が記されている。昭和史研究でも超弩(ど)級の貴重な記録だ」と評価する。

 側近が焼却を考えたほどの貴重な史料で明らかになった天皇の実像とは。今連載では、昭和戦前期から戦後にかけての「歴史」という現場を歩く。=敬称略

この記事を書いた人

 

北野隆一 編集委員 専門・関心分野:北朝鮮拉致問題、人権・差別、ハンセン病、水俣病、皇室、現代史

 

 

 

侍従長に海軍大将 天皇に国際情勢伝える 「一本気」との評も

編集委員・北野隆一202426 1630

現場へ! 側近が記した「昭和」②

 193712月、中国の南京で日本軍による非戦闘員の殺害や略奪があったとされる「南京事件」が起きる。1カ月後の翌38131日、昭和天皇の侍従長だった百武(ひゃくたけ)三郎はこう日記につづった。

 「南京における陸兵暴行に関する英紙情報は皇軍の将来のため(略)支那統治のため大影響あるにつき、あえて聖聴(せいちょう)に呈す」。軍や中国統治に影響が大きいため、英国紙情報をもとに天皇に伝えたという意味だ。

 戦後、宮内庁長官の田島道治(みちじ)が記した「拝謁(はいえつ)記」にも52220日の天皇の言葉が残されている。「南京でひどい事が行われてると(略)薄々聞いてはいたが(略)市ケ谷裁判(東京裁判)で公になった事を見れば実にひどい」

 百武は海軍で日清、日露戦争に従軍した。ドイツやオーストリアの在外公館赴任や佐世保鎮守府長官などを経て、軍に在籍したまま社会に戻る「予備役(よびえき)」となる。

二・二六事件で前任者重傷

 36226日、陸軍将校らによるクーデター未遂事件「二・二六事件」が発生。大蔵大臣の高橋是清(これきよ)らが暗殺され、侍従長の鈴木貫太郎も重傷を負った。百武は11月、後任の侍従長に就任し、戦時中の448月に藤田尚徳(ひさのり)に交代するまで79カ月の間、天皇に仕えた。

 鈴木から藤田まで3人続けて予備役海軍大将が侍従長を務めた理由について、天皇が戦後語った言葉を、田島は521218日の拝謁記に書いた。「侍従長を海軍のバックで(陸軍を)いくらかおさえる意味で、現役では余りいかんので予備(略)海軍大将にしたのだよ」

 「昭和天皇の戦争」などの著書がある明治大教授の山田朗(あきら、67)は「天皇に奉仕する軍人の長である侍従武官長を陸軍が握ったため、昭和戦前期の侍従長は、国際・軍事情報や海軍戦略の助言役という『第二侍従武官長』の役割も期待された」と解説する。「昭和天皇の終戦史」などの著書がある一橋大名誉教授の吉田裕(ゆたか、69)も「天皇の補佐役の職務の境界はあいまいで、身の回りの世話役である侍従長が政治や軍事に首を突っ込むこともあった」と語る。

 百武は太平洋戦争開戦後、海外の短波放送をもとに最新の国際情勢を天皇に伝えた。開戦1カ月後の42130日の日記には「短波放送は宣伝戦にしてこれをいちいち御覧あるは有害無益なるに付き従来通り侍従長より選択のうえ聖聴に達する(天皇に報告する)」とある。

 43318日には「短波のヒットラー神経疲労放送につき言上(ごんじょう)せるに、その責任の重大に鑑(かんが)み事実なるやも知れずと同情的御言葉あり」と書き、ナチスドイツの独裁者ヒトラーの健康状態に関する放送内容を伝え、天皇が同情的だったと記した。

 田島の「拝謁記」によると、昭和天皇は戦後、「私は百武は侍従長として多少一本気(いっぽんぎ)の癖があることを知ってた」と49413日に語っている。

軍の政治介入に憤り辞職願

 百武が侍従長就任後間もない371月、宮内大臣の松平恒雄(まつだいらつねお)にあてた辞職願の下書きが残っている。軍部の暴走を抑えるよう期待された予備役陸軍大将の宇垣一成(うがきかずしげ)が、天皇の命令を受けて組閣を試みたが、石原莞爾(かんじ)ら陸軍内の反対派に阻止された。百武は陸軍の政治介入に憤って辞意表明を考えたとみられる。

 「一本気」と評された百武は退職前の447月、「陸海空軍の統一指揮」に関する所見を天皇に伝えたと日記に記した。手帳には、天皇の弟の高松宮(たかまつのみや)に進言する内容として「武人をして政治の困難なるを自覚せしめこれより退却し武事専門に返(略)ること」と書いている。大日本帝国憲法上、陸海軍が天皇に直属し、両軍を統合して指揮する機関がないことや、軍人による政治介入を問題視していたようだ。=敬称略。表記は原文の一部を改めた。

百武三郎、田島道治の在任期間と主な出来事

 

百武三郎の手帳=202111月、東京都文京区

組閣辞退の声明を発表する陸軍大将の宇垣一成=19371

陸軍軍服姿の昭和天皇=撮影年月日、場所不詳

 

 

 

率直に進言 信頼した天皇が語った本音 リアルタイムに記録

編集委員・北野隆一202427 1630

昭和天皇の侍従長を務めた百武三郎=1937年ごろ

大元帥(だいげんすい)正装の昭和天皇=1928

田島道治=1955年ごろ

皇太子さまの立太子の礼で、立太子宣言を読み上げる田島道治・宮内庁長官(前方左から2人目)。御座に立つのは昭和天皇と香淳皇后=195211月、皇居・宮内庁、代表撮影

現場へ! 側近が記した「昭和」③

 戦前戦中期に天皇の侍従長を務めた百武(ひゃくたけ)三郎の日記の史料価値は何だろうか。日本大教授の古川隆久(61)は「木戸日記では分からない昭和天皇の様子が書かれていること」をあげる。

 木戸幸一は百武と同時期の194045年に内大臣として天皇の政務を補佐し、6680年に「木戸幸一日記」が出版された。「百武の日記には木戸日記にない天皇の表情の微妙な変化や会話の詳しい内容が書かれている」と古川は解説する。

 太平洋戦争開戦後の42657日、中部太平洋の制海権を争ったミッドウェー海戦で、日本は主力空母4隻と熟練航空兵多数を失う大敗を喫した。8日に天皇に会った木戸は「天顔(てんがん)を拝するに神色自若(しんしょくじじゃく)として御挙措(きょそ)平日と少しも異(こと)らせ給(たま)わず」として、天皇の平然とした様子を日記に記した。しかし百武は同日の日記で「平静に拝せるも御血色(けっしょく)御宜(よろ)しからず」と書き、天皇の顔色の微妙な変化を感じ取っていた。

 428月から432月にかけての南太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島争奪戦でも百武は828日、「ソロモン戦 意の如(ごと)くならず御軫念(しんねん、心配)拝察し奉る」と書いた。天皇は苦悩するとしばしば独りごちた。916日、「大声 何か推論あらせらる 『ソロモン作戦』の失敗に因するか」として、攻撃失敗の報告を受けて大声で独り言を言う天皇の様子を記している。

人物評、政局…口調そのまま

 百武の日記と、戦後の初代宮内庁長官・田島道治(みちじ)の「拝謁(はいえつ)記」の意義について明治大教授の山田朗(あきら、67)は「天皇のそばに常時いた者が天皇の発言を聞いた直後に記したリアルタイムの記録」と評価する。「とくに拝謁記は、天皇の語った口調や言い間違い、田島が答えた内容もそのまま書きとめている。そんな記録は今までなかった」

 拝謁記が他の側近の記録と大きく違う点は「天皇が人物評や政局などで本音を率直に語っていること」だという。その理由を山田は「耳の痛いことも率直に進言した田島を天皇も信頼し、腹を割って話した」ためだとみる。論語を愛読した田島の誠意が天皇にも伝わり、信頼関係が築かれたとみられる。

 拝謁記に記された本音の一つとして山田があげるのが、521218日の「武官程(ほど)いやなものはないとしみじみ思った。(略)ほとんど軍のスパイで、私の動静ある事ない事を伝えるだけの者でこんないやな者はない」という言葉だ。

 天皇と、戦前戦中の軍部、とくに陸軍や陸軍出身で軍事面の補佐をした侍従武官長との関係は、決して良好ではなかった。歴代武官長の日記からも、それはうかがえる。しかし侍従武官を「軍のスパイ」と嫌っていたとまで述べた天皇の発言は、拝謁記以外の史料には見当たらないという。

立太子礼を戦後に延ばした理由

 天皇は、明仁(あきひと)親王を皇太子として宣明する儀式「立太子礼(りったいしれい)」を戦中に行わず、戦後の5211月に行っている。その理由も、同年1218日に語った。「立太子礼を行えば東宮(とうぐう)職内に東宮武官が出来るから、私は立太子礼を成年後に延ばそうと終始考えてやってきた」

 山田はこう推測する。「軍の引力は強く、軍人が近くにいると、皇族もからめとられてしまう。天皇は3人の弟のうち、秩父宮(ちちぶのみや)と三笠宮(みかさのみや)が陸軍、高松宮(たかまつのみや)が海軍の将校として軍人になりきったのを見て、皇太子もそうなるのではないかと危惧したのだろう」=敬称略。表記は原文の一部を改めた。

 

 

天皇の「反省」の言葉 反対され削除 首相は退位説再燃を警戒

編集委員・北野隆一202428 1630

現場へ! 側近が記した「昭和」④

 田島道治(みちじ)は19486月、宮内府長官に就く。皇室と無縁の経済人だった田島を起用したのは、首相の芦田均(あしだひとし)である。

 民主化の一環として、475月施行の日本国憲法にもとづく宮中改革を進めるためだ。芦田と田島、侍従長に就いた三谷隆信(みたにたかのぶ)の3人は旧制一高から東京帝大に進んだ同窓生であり、一高校長を務めた新渡戸稲造(にとべいなぞう)の門下生だった。

感激し泣きじゃくる長官

 終戦時に6200人の職員がいた宮内省は戦後、1500人に縮小された宮内府を経て宮内庁に改編され、田島は初代長官となった。戦前からの天皇の補佐役のうち、内大臣と侍従武官長は敗戦で廃止され、宮内庁長官と侍従長だけになった。

 「陛下と国民との距離を近づける」のが任務と田島は考え、退位を求める国民からの手紙を天皇に見せていた。

 49210日の「拝謁(はいえつ)記」によると手紙を読んだ天皇は「(開戦の宣言で)朕(ちん)が志ならんや(私の真意ではない)と言ってることなど少しも読み分けてはくれない」と不満を述べた。

 田島はこう直言し、天皇をいさめた。「陛下としてはそうお感じかも知れませぬが(略)日本には承詔必謹(しょうしょうひっきん〈天皇の命には必ず従う〉)の風がありますし、『朕が志ならんや』は宣戦の詔(みことのり)には決まり文句で(略)陛下の御真意に背いてやむを得ず出すとは考えませぬが普通です」

 田島は当初、天皇は戦争責任をとって退位すべきだと考えていたが、長官就任後、「政情が安定しない中で退位して未成年の皇太子に即位させるのは不適切」と考えを変えた。

 ただ拝謁記によると491219日、天皇から「講和(条約)が締結されたとき、また退位等の論が出ていろいろの情勢が許せば退位とか譲位とかいうことも考えらるる」と聞いた田島は感激して泣きじゃくり、こう述べた。「旧憲法の文面では陛下が万機(ばんき)を総攬(そうらん)遊ばしまする建前で、御責任は陛下にないと申し難く(略)大元帥(だいげんすい)陛下の馬前に戦死したものの心およびその遺家族の(略)心情を考えますれば、陛下のただ今のようなお考え方を拝しますることは悲しいことではありまするがまた実にうれしいことでございます」

戦争責任 現在につながる問題

 天皇は5253日、サンフランシスコ講和条約発効と憲法施行5周年の記念式典で「おことば」を読み上げた。文案は51年末に田島が起案し、少なくとも11回書き直されている。

 首相の吉田茂は、過去の反省に言及したいという天皇の強い希望を受け田島がまとめた文案を524月に見て、戦争への反省に触れた以下の箇所の削除を求めた。「兵を交えて破れ、人命を失い、国を縮め、かつてなき不安と困苦を招くに至ったことはまことに遺憾」

 吉田は、「いま声をひそめている御退位説をまた呼び覚ますのではないか」と田島に述べたという。田島は驚いたが、憲法上、天皇は「内閣の助言と承認」に従うほかないと考え、削除を渋る天皇を説得した。

 文案通り、天皇が「過去の反省」に言及したらどうなったか。日本大教授の古川隆久(61)は「天皇の戦争責任が問われ、吉田ら政府首脳が総退陣を迫られれば、東西冷戦下の日本は欧米の自由主義圏にとどまれなくなる、とまで吉田は考えたのだろう」と推測する。一方で明治大教授の山田朗(あきら、67)はこうみる。「アジアに対する戦争責任の問題は、少しは前進したかもしれない。責任を取るべき立場の人が取らなかったことが現在につながっているからだ」=敬称略。表記は原文の一部を改めた。

田島道治の「拝謁記」から。サンフランシスコ講和条約発効による独立回復を祝う19525月の式典で読み上げる「おことば」について、昭和天皇が同年1月、「反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と語ったと記されている=2019819日、東京都渋谷区のNHK放送センター

サンフランシスコ講和条約発効と憲法施行5周年記念の式典で「おことば」を読み上げる昭和天皇=195253日、皇居前広場

首相を務めた芦田均(左)と吉田茂=19481015日、首相官邸

昭和天皇=1952年ごろ、皇居

 

 

 

戦前引きずる天皇の政治発言 「憲法ゆえ、できませぬ」といさめる

編集委員・北野隆一202429 1630

鉄道車両工場を訪れた昭和天皇。右端が宮内府長官の田島道治=19495月、福岡県小倉市(現北九州市小倉北区)

首相の吉田茂=1954412日、国会内

田島道治が昭和天皇とのやりとりを記録したノートの表紙には(秘)と朱書きされていた=2019819日午前、東京都渋谷区のNHK放送センター

読書する秩父宮親王=1946年ごろ

 

現場へ! 側近が記した「昭和」⑤

 初代宮内庁長官の田島道治(みちじ)が天皇との会話を記した「拝謁(はいえつ)記」には、政治や外交に口を出そうとする天皇を田島が押しとどめる場面が何度も出てくる。

 天皇は1952218日、「吉田(茂首相)には再軍備のことは憲法を改正するべきだということを、質問するようにでも言わんほうがいいだろうネー」と改憲や再軍備に触れた。

 53518日には、吉田の失言で衆議院が解散した「バカヤロー解散」などをめぐり、吉田が鳩山一郎や重光葵(しげみつまもる)らと政争を繰り広げていたことを背景に「認証をしないということがある」と繰り返した。憲法上、天皇が政府の方針をそのまま追認しなければならないとされる首相の任命や大臣の認証に、異を唱えたいとの思いがにじむ発言だ。

 そのたび田島は「憲法ゆえ、それはできませず、大問題になりますゆえ、やはりご静観願うよりほかない」と説得する。在任中、国政に関与しようとする天皇の言動をいさめ続けた。

「沖縄メッセージ」の苦い教訓か

 日本大教授の古川隆久(61)は「天皇の言葉は影響力がある。当時首相だった芦田均や吉田は、戦前のように天皇が政治の道具に利用されてはいけないと考え、天皇を政治に近づけないよう田島に求めた」という。

 明治大教授の山田朗(あきら、67)は「芦田らの念頭には天皇の沖縄メッセージの苦い教訓があったのではないか」と推測する。天皇は479月、宮内府御用掛(ごようがかり)の寺崎英成(ひでなり)を通じ、連合国軍総司令部(GHQ)経由で「沖縄の軍事占領の継続を希望する。米国の利益にもなり、ソ連や中国が類似の要求をし得なくなる」と米国に伝えた。当時外相だった芦田ら日本政府を通さない頭越しの「二重外交」だった。

 山田はこう考える。「天皇は、自分が憲法を上回る存在だという大日本帝国憲法時代からの意識を、戦後も引きずっていたのだろう。日本国憲法で定められた象徴天皇制もまだ手探りで内実が伴っていない中、天皇の言動を憲法の枠に収めることが田島の使命だった」

遺品から皇族の手紙発見

 「昭和天皇拝謁記」全7巻の刊行は、思わぬ果実も生んだ。2022年初め、田島の遺品から新たな資料が見つかる。昭和天皇の弟の秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王が52219日付で田島に送った手紙だ。孫の圭介(81)が実家の押し入れの天袋で見つけた。掛け軸の形で表装されていた手紙には「雍仁」の署名があった。

 手紙は、536月に行われる英女王エリザベス2世の戴冠(たいかん)式に皇太子明仁(あきひと)親王を派遣すべきだという意見書だった。田島は秩父宮本人に真意を確認したうえで52229日、天皇に内容を伝えたと拝謁記に記す。戴冠式には天皇の末弟の三笠宮(みかさのみや)も出席を希望していたが、秩父宮の手紙が皇太子の派遣を後押しした。

 「祖父は元首相の吉田茂や若槻礼次郎(わかつきれいじろう)ら重要人物の手紙で感銘を受けたものを保存していた。秩父宮の手紙もその一つだろう」と圭介はいう。研究者らによる「拝謁記」の編集会議に参加していたため、手紙の意味をすぐ理解したという。編集を担当した古川は「手紙の価値を見いだせたのも出版の効果でしょう」と話す。

 一橋大名誉教授の吉田裕(ゆたか、69)は拝謁記について「戦前と戦後、二つの憲法の下で一身に二生を生きた天皇の意識が生々しく記され、史料価値が高い」と評価する。「歴史資料には、研究のため公開しようという力と、政治的意図や関係者への配慮から封印しようという力がせめぎ合ってきた」とも述べ、拝謁記や百武(ひゃくたけ)三郎日記の公開で「『昭和』がようやく『歴史』になったということ」と説く。=敬称略。表記は原文の一部を改めた。(おわり)

 

 

 

(現場へ!)側近が記した「昭和」II:1 「終戦首相」、天皇は託した

2024122 1630

鈴木貫太郎の肖像写真の前に立つ孫の鈴木道子

二・二六事件で鈴木貫太郎が銃撃された侍従長官邸=1936年2月26日、東京市麹町区三番町(現東京都千代田区)

首相就任後に国民向けラジオ放送に臨む鈴木貫太郎=1945年4月8日

百武三郎

 1936年2月の寒い朝。4歳だった鈴木道子(93)は風邪を引き、自宅でこたつに足を入れて寝ていた。突然電話のベルが鳴り、父が大急ぎで家を飛び出していった。

 父の鈴木一(はじめ)が聞いたのは、祖父の鈴木貫太郎が危篤という知らせだった。祖父は当時、昭和天皇の侍従長。青年将校らに襲撃されて銃弾4発が命中し、瀕死(ひんし)の重傷を負った。「二・二六事件」である。

     *

 貫太郎は一命をとりとめたが、療養が続いた。後任は貫太郎と同じ海軍出身の百武三郎(ひゃくたけさぶろう)に決まった。

 百武が記した日記によると、百武は36年11月17日、宮内大臣の松平恒雄(まつだいらつねお)から打診された。「すでに天聴に達し(天皇にも知らせ)、ご嘉納(かのう)ご満足(喜び満足)の由」と聞き、「最後のご奉公」と就任を決意。前任者の貫太郎から「陛下は明敏胆勇にあらせられ、また非常に寛大にあらせらるる実に明君なり」と引き継ぎを受けた。

 貫太郎は45年4月に首相となった。戦前、首相は天皇の命令(組閣の大命)によって決めていた。貫太郎は固辞したが、天皇から「この重大な時にあたって、もう他に人はいない。頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい」と言われ、覚悟を決めた。

 軍部はなお徹底抗戦の構えだった。貫太郎は天皇の意思を推察し、戦争を終わらせる決意をひそかに固め、家族にだけ「自分はバドリオになる」と告げた。

     *

 ピエトロ・バドリオはイタリアの軍人。連合国と休戦協定を結び、日独伊三国軍事同盟から離脱した裏切り者とこき下ろされていた。

 当時女学校2年生だった道子は直接話した際、祖父の真意に気づいた。東京の空襲を避けるため秋田県への疎開に参加するよう通知が来て、45年5月に祖父にあいさつするため首相官邸を訪れた。「秋田に行きたくない。このまま東京で家族と一緒にいたい」と母に駄々をこねた。

 すると祖父に呼ばれ、こう諭された。「道子はお友だちと一緒に秋田へ行きなさい。若い人は安全な場所で暮らさなくてはいけない。次の時代を築いていってもらわなければならないからね」

 当時は子どもも「お国のために犠牲になる」ことが推奨されていた時代。道子は祖父の言葉で初めて「ああ、次の時代があるのだ。おじいちゃまは戦争を終わらせようとしている」と悟った。秋田県へ旅立ち、終戦まで過ごした。

 鈴木貫太郎は日本の降伏を見届けて、在任4カ月で内閣総辞職した。鈴木一は戦後、「終戦首相」についての講演を重ねた。貫太郎に関する著書を書き残すことなく93年に亡くなったため、語り継ぐ役割が「孫の私のところにまわってきた」と道子は感じた。

 道子は音楽評論家やプロデューサーとして活動。東京都文京区の祖父の邸宅は終戦に反対する人々に放火され全焼。道子はその跡地に住む。音楽一筋で日本の歴史や政治とは縁遠かったが、祖父について書き残したいと考え、今年3月、「祖父・鈴木貫太郎 孫娘が見た、終戦首相の素顔」として出版された。「平和を願い、戦争終結につくした祖父を知ってほしい」

     ◇

 昭和天皇側近の記録で歴史をたどる企画。2月に掲載した連載の続編となる。=敬称略。原文の表記は一部改めた。(編集委員・北野隆一)

 

 

(現場へ!)側近が記した「昭和」2:2 日中戦争、頓挫した和平案

2024123 1630

中国・北平(現在の北京)郊外の盧溝橋を占拠した日本軍=1937年7月

海軍軍人だった高松宮宣仁親王=1935年

中華民国の国民政府を率いて抗日戦争を戦った蒋介石

 昭和天皇の侍従長を務めた百武三郎(ひゃくたけさぶろう)の日記が東京大に寄託され、2021年から閲覧可能となった。早稲田大教授の劉傑(りゅうけつ)(62)=近代日本政治外交史=は「船津工作」に関する記述がないか探した。

 1937年7月7日、中華民国北平市(現北京市)郊外で日中両軍が衝突した「盧溝橋(ろこうきょう)事件」が起きた。8月初め、日本政府は早期停戦をめざし、蒋介石(しょうかいせき)が率いる国民政府の外交部(外務省)高官と接触。水面下で和平を探った。交渉役として、元外交官の実業家である船津辰一郎を上海に派遣したため「船津工作」と呼ばれている。

     *

 劉は中国・北京出身。東京大に留学し、日中戦争期の外交交渉や和平工作について研究した博士論文をもとに、1995年に「日中戦争下の外交」を出版した。「船津工作」については、早期解決を望む昭和天皇の意思が働いたことが、外交官の日記などで明らかになっている。

 百武日記の37年8月2日に以下の記述があった。

 「高松宮(たかまつのみや)殿下参殿あり。両陛下とご対面後、予(百武)をお召しあり。時局につき非常に心配あらせらるる様子にてお話あり。1、今が時局を収拾するも最良の時機なり」

 「誠にみごとなるご意見感激に堪えず。委細内府(内大臣)にも伝達しご意見のごとく実現せんことを祈る旨申し上げたり」

 天皇の弟である高松宮が、天皇や皇后と面会した後で百武を呼び、「今が時局収拾に最良の時機だ」などと語った。発言を百武は箇条書きし、天皇の政務を補佐する内大臣の湯浅倉平(ゆあさくらへい)に詳しく伝えた――などと書かれている。

 天皇が事態収拾のための外交交渉を首相の近衛文麿(このえふみまろ)に促していたことは、別の記録でも明らかになっていた。当時外務省東亜局長だった石射猪太郎(いしいいたろう)は37年7月31日の日記に「一昨夜近衛首相お召(めし)になった時、陛下からもうこの辺で外交交渉は出来ぬものかとお言葉ありたる」と書いた。

     *

 外務省と陸海軍の当局が協議して「停戦交渉案」や国交関係に関する「国交調整案」をまとめ、船津を上海に派遣することが決まったのは8月3日。百武を介して高松宮の発言が伝えられた翌日だ。劉は「事態の急展開は、昭和天皇ら宮中からの働きかけがあったからにほかならない。日本側にとって停戦交渉案がかなり本気度の高いものだったと読み取れる」とみる。

 船津は8月7日に上海に到着し、親交があった国民政府外交部亜州司長(外務省アジア局長に相当)の高宗武と9日から交渉を始めた。ところが直後の13日に上海で「第2次上海事変」と呼ばれる交戦が始まり、工作は頓挫した。

 日中は全面戦争に突入。停戦への努力は続いたが、いずれも実を結ばなかった。

 劉によると日本側は、準備不足のまま船津を上海に派遣した。これに対し中国側は「中途半端な講和はしない」という姿勢だった。

 劉は「日本歴史」誌2022年6月号に「『船津工作』の周辺」という文章を書いた。わずか数日で挫折した船津工作になぜ注目したのか。「船津工作は、天皇の意思が示されて外交ルートで停戦交渉をしようとした数少ない試みだった。うまく解決できていれば、日中戦争は拡大しなかったのではないか」=敬称略。原文の表記は一部改めた。(編集委員・北野隆一)

 

 

 

(現場へ!)側近が記した「昭和」II:3 対米開戦、回避論なぜ一転

2024124

百武三郎の1941年12月7、8日の日記。「対米英宣戦布告」と書かれている

昭和天皇が米英両国への開戦を宣言した1941年12月8日の「宣戦の詔勅」。天皇の署名と印(御名御璽〈ぎょじ〉)がある=国立公文書館提供

内大臣を務めた木戸幸一=1938年

 

 静岡県立大教授の森山優(あつし)(62)は「日本歴史」誌2023年8月号に「『百武三郎(ひゃくたけさぶろう)日記』に見る昭和天皇の対米開戦決意」との一文を寄せた。歴史学者として、1941年の日米開戦にいたる政治過程を研究。2012年には「日本はなぜ開戦に踏み切ったか」を著している。

     *

 戦前から戦中に昭和天皇の侍従長を務めた百武三郎の日記は、子孫により19年に東京大に寄託され、21年から閲覧可能となった。戦前、統治権の総攬者(そうらんしゃ)で軍の大元帥という絶対的な立場にあった天皇が、1941年の開戦決定にどんな役割を果たしたか。森山は百武の日記で昭和天皇の言動を改めてたどった。

 従来、天皇は開戦直前まで戦争回避を願っていたという印象が強かった。41年9月6日、政府と軍の幹部が国策を決めた御前会議では、祖父の明治天皇が日露戦争開戦時に戦争回避を願って詠んだ歌「四方(よも)の海」を朗読。10月9日には皇族軍人の伏見宮(ふしみのみや)が米国に対する開戦やむなしとする「主戦論」を唱えたのに対して議論となり、百武の日記に「やや紅潮ご昂奮(こうふん)あらせらるる様拝す」と記された。

 しかし百武の日記を精査した森山が実感したのは、天皇が41年10月中旬以降、開戦に前のめりだったということだ。10月13日の日記によると、天皇と会った宮内大臣の松平恒雄(まつだいらつねお)が「すでに覚悟あらせられるご様子」と述べ、天皇の政務を補佐する内大臣の木戸幸一も「ときどきご先行をお引き止め申し上ぐる」と語っていた。

     *

 開戦回避をめざして米国との外交交渉が大詰めを迎えていた41年11月20日。百武は、天皇の「決意が行き過ぎのごとく見ゆ」との話を木戸から聞いたと書く。木戸は天皇に対し、交渉の責任者である外相の東郷茂徳から報告を受ける際には「あくまで平和の策を尽くすべき」との印象を与えるようお願いしたという。

 木戸や東郷は11月下旬まで、日米交渉成立への望みを捨てていなかった。だが天皇の姿勢は必ずしも同じではなかったことになる。森山は「天皇は開戦にもっと慎重だったと思っていたので、ショックを受けた」という。

 森山によると41年の百武の日記で、天皇の憔悴(しょうすい)した様子を記しているのは、6月にドイツとソ連が戦争を始めたときと、9月の御前会議前まで。10月以降は煩悶(はんもん)の様子がうかがえないという。

 ただ、天皇自身は開戦前の心境について、百武ら側近の観察とは異なる形で記憶していたようだ。終戦後間もない46年に側近に語った言葉をまとめた「昭和天皇独白録」では、「私が主戦論を抑えたらば、(略)国内の世論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであろう」と回想。初代宮内庁長官の田島道治(たじまみちじ)が記した「昭和天皇拝謁(はいえつ)記」では、52年5月28日に「若(も)し戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になったかも知れず、また東条(英機)の辞職の頃があのまま居れば殺されたかも知れない」と述べている。

 これに対し森山は「天皇の意志に反してクーデターを起こし、日本を開戦に持って行く政治的な主体を具体的に想定するのは難しい」と指摘。開戦当時の日本国内について「客観的にはクーデターが起こるような情勢ではなかった」と論じている。=敬称略。原文の表記は一部改めた。(編集委員・北野隆一)

 

 

          (現場へ!)側近が記した「昭和」II:4 戦犯合祀前、「社格」に言及

2024125 1630

7年ぶりに靖国神社を参拝する昭和天皇。後ろは侍従長の三谷隆信=1952年10月16日、東京・九段の靖国神社

A級戦犯合祀についての昭和天皇の発言が記された元宮内庁長官・富田朝彦のメモ

田島道治=1948年ごろ

 明治大大学院で日本近現代史を専攻する佐藤大雅(たいが)(26)が靖国神社に関心を持ったのは、自身が戦没者遺族と知ったのがきっかけだった。曽祖父が中国北部で戦死し、靖国に合祀(ごうし)されていたことを、2012年ごろ知った。靖国神社崇敬奉賛(すうけいほうさん)会の会員となった経験から、靖国神社の歴史を研究したいと考え、明治大教授、山田朗(あきら)のゼミに入った。

     *

 20年の学部卒業論文では「靖国神社の内部対立」について書いた。23年の修士論文では、「昭和天皇拝謁(はいえつ)記」に記された天皇による靖国神社に関する発言をとりあげた。

 「拝謁記」では、初代宮内庁長官を務めた田島道治(たじまみちじ)が天皇との会話を書きとめている。1953年3月10日、天皇は「靖国神社は別格(官幣〈かんぺい〉社)であり、明治神宮は官幣大社(たいしゃ)である。祭神からいっても私としては明治神宮を先にし、(靖国神社は)これと同等というよりはちょっと低い位に致したい」と語った。51年3月27日にも明治神宮について「官幣大社で明治天皇が祭神」、靖国神社について「別格でいわば大元帥(だいげんすい)の部下」と述べている。

 戦前に全国の神社を格付けした「社格」で、明治神宮は最高位の「官幣大社」。優先して参拝したいというのが天皇の認識だった。靖国神社は天皇の臣下である戦没軍人をまつる「別格官幣社」で、明治神宮より下位とみていた。

 これまで知られていたのは、宮内庁長官の富田朝彦(とみたともひこ)が記した「富田メモ」の記述。昭和天皇が88年4月28日に述べたとみられるものだ。

 「私は或(あ)る時に、A級が合祀され その上 松岡(洋右〈ようすけ〉元外相)、白取(白鳥敏夫元駐伊大使)までもが」「だから私あれ以来参拝していない、それが私の心だ」

 戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯とされた軍人や、独伊両国との三国軍事同盟を推進した松岡、白鳥らを78年に合祀した靖国神社に対し、天皇が不快感を抱いたことを示している。

     *

 ただ、一連の記録や証言はA級戦犯合祀後のものだ。合祀前に天皇が靖国神社に抱いていた感情は「『拝謁記』で今回、初めて明らかになった」と佐藤はいい、発言から「戦後廃止された社格制度が、天皇のなかで残っていたことがわかる」と分析する。

 田島は天皇が靖国神社を参拝すべきだと考えていた。53年1月30日に天皇から「やはり靖国神社に行くのか」と聞かれ「わが国の戦死者のためには当然」と答えている。佐藤は「戦犯訴追された旧軍人や戦没者遺族らから、天皇に戦争責任をとって退位するよう求める声が出るなか、靖国神社に参拝することで国民との関係を修復する必要があった」とみる。

 78年にA級戦犯を合祀した松平永芳(まつだいらながよし)・第6代宮司と異なり、1946年から30年余り第5代宮司を務めた筑波藤麿(つくばふじまろ)は旧皇族。A級戦犯を合祀せず、「戦後平和主義路線」をとったといわれた。

 天皇は戦後、45年11月から75年11月まで8回、靖国神社に参拝した。佐藤は「国家や皇室のため命を捧げた戦死者をまつる靖国神社に、かつて大元帥だった天皇が参拝することで道徳的責任を果たし、国民との紐帯(ちゅうたい)を修復できるというのが、田島ら宮内庁幹部の考えだった」という。=敬称略。原文の表記は一部改めた。

 (編集委員・北野隆一)

 

 

(現場へ!)側近が記した「昭和」2:5 改憲再軍備、唱えた「象徴」

2024126 1630

新憲法に署名する昭和天皇=1946年11月3日

1946年11月3日に公布された日本国憲法の原本。昭和天皇の署名と天皇御璽(ぎょじ)の押印があり、首相の吉田茂らが副署している=東京都千代田区の国立公文書館

首相を務めた幣原喜重郎=1945年10月

 明治学院大名誉教授の原武史(62)は10月、「象徴天皇の実像」を出版した。初代宮内庁長官の田島道治(たじまみちじ)が天皇と交わした会話を記した「昭和天皇拝謁(はいえつ)記」を読み解いた。

 1950年9月4日、天皇は「私は憲法上の象徴として、道義上の模範たるよう修養を積んでいるつもりだ」と発言。51年5月16日には「私は象徴として自分個人のいやな事は進んでやるように心がけてる」と述べた。原は「象徴を儒教的な『天子』と同一視している」と分析する。

     *

 51年2月15日、改憲や再軍備が話題になった際、軍の「中心の人」はどうなりますかと田島が尋ねると「それは元首(げんしゅ)象徴だろうね」と答えた。だが大日本帝国憲法下で天皇が軍の「大元帥(だいげんすい)」だった時代と違い、天皇は自衛隊の最高司令官ではない。47年施行の日本国憲法に、国家元首についての規定はない。

 原は「天皇は大元帥と元首と象徴の区別ができていなかった」とみる。首相を務めた吉田茂の著書「回想十年」などによると、連合国軍総司令部(GHQ)の指示で憲法案が審議された際、天皇を「象徴」とする第1条をめぐり論争となった。首相の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)から報告を受けた天皇が「象徴でいいじゃないか」と「鶴の一声」を発し、議論がまとまった――とされる。

 「憲法を深く理解して言ったのではない。第1条から第8条まで天皇条項が残ったことで、よしとしたのだろう」と原はみる。

 「天皇は『象徴』などの抽象的概念より具体的な体験を重視した」と原は指摘する。天皇が自信を深めたのは、敗戦後の46年2月から始めた全国巡幸(じゅんこう)(訪問)で「人々の奉迎(ほうげい)の様子が戦前と変わらなかった」からだという。「各地の広場で『君が代』斉唱や万歳を通じて万単位の国民と天皇が一体となる『君民(くんみん)一体』の光景。これこそが天皇にとっての『国体』(天皇を中心とする国家の成り立ち)だった。戦後も『国体』は護持(ごじ)されているとの確信があったから、『象徴』について深く考える必要もなかった」

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 「拝謁記」によると天皇は、第9条に不満をもっていた。田島に対し、憲法改正による再軍備の必要性を繰り返し説いている。52年2月11日には憲法について「他の改正は一切ふれずに、軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやった方がいい」と語った。

 自由民主党は保守合同で55年に発足し「自主憲法制定」を党是に掲げた。だが昭和天皇が内々の席で改憲再軍備を求める発言を繰り返していたことは、ほとんど知られていない。発言を日常的に聞いていた田島や、田島を信任した芦田均(あしだひとし)、吉田茂の両首相が口外しなかったとみられる。

 天皇について「国政に関する権能を有しない」とする憲法にのっとり、政治から遠ざけることで天皇を守った側面もある。「軽武装・経済重視路線をとった吉田にとって、天皇の本音が公になれば自分の政治的立場が不利になりかねなかった」と原はいう。

 原は今後を危惧している。「平成の明仁天皇は過去の戦争の反省を強調し、護憲のシンボルとなった。これに対し改憲と再軍備を唱えた昭和天皇は、保守派からは戦前からの『大元帥』の面影をとどめる理想の君主と映り、都合よく利用されるのではないか」=敬称略(おわり)(編集委員・北野隆一)

 

 

 

 

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