花園が燃えた日 鎮勝也 2013.7.8.
2013.7.8. 花園が燃えた日 高校ラグビー 北野vs.伏見工
著者 鎮(しずめ)勝也 1966年吹田市生まれ。スポーツライター。6歳から大阪ラグビースクールでラグビーを始める。摂津高校、立命館大産業社会学部卒。在阪スポーツ新聞2社に勤務の後独立
発行日 2013.5.20. 初版第1刷印刷 5.30. 発行
発行所 論創社
1988.1.1. 第67回全国高校ラグビー3回戦 市立伏見工 16-12 府立北野
地元北野の試合のほか、大阪の他の2校と、奈良の天理を加えた地元関西8校のうち5校までがベスト8を狙って勝ち残っていたこともあって、チケット販売数21,401枚は、1929年花園開場以来最大、球場の収容人員の2倍
北野は創立1873年、公立高校では天王寺と並び府内最難関、ラグビー部創部は1923年、46年ぶり6回目の出場で、全国大会初出場は1925年の第8回大会、42年度の24回大会で優勝。監督はラグビー部OBで豊中の開業医
伏見は創立1920年、ラグビー部創部は1960年、4年ぶり6回目の出場、日本代表だった山口良治(日体大出身、LOでキッカー)が75年に監督として赴任、熱血指導で79年度の第59回大会に初出場を果たし翌年には後の同大→神戸製鋼の平尾誠二を要して初優勝。87年10月の国体には京都選抜に10人を送り込み優勝し、今大会は西のシード(東のシードは山梨の日川)
伏見優勢の下馬評だったが、試合後の高校日本代表のイングランド遠征には両チームから異例の2人ずつが選抜されていて、選手の技量が優れたいたことを示す
フォワードの身長差で4cm、平均体重では12㎏と伏見が北野(大分サバを読んでいた)を圧倒
ラグビー自体の人気も高まっていた ⇒ 特に関西では、同大の大学選手権3連覇(82~84)、神戸製鋼の全国社会人と日本選手権の7連覇(88~94)と強いチームが活躍
前半5分、北野の反則を伏見がPKで先制
前半7分、ラインアウトからのルーズボールを拾った北野が伏見のゴール前10mで北野のラックオフサイドの反則を誘い、PGを決めて同点に追いつく ⇒ スクラムとモールで北野にプレッシャーをかけることに重点をおくあまり、サイドディフェンスが甘くなったところを北野につかれた
北野のオフサイドを伏見のキャプテン薬師寺大輔が驚異的とも言える43mのPGを決めて6-3と先行
この大会は、1,2回戦は25分ハーフで、3回戦から30分ハーフ(全試合30分ハーフになるのは75回から)
延長された時間の前半26分、伏見のバックスのマークの間隙をついて北野のフルバックが拾って独走、タックルされたところをフランカー、スタンドオフ、センターと繋いでトライ。当時のトライは4点(5点になるのは72回から)。左中間のゴールキックを決めてきたのが9―6と逆転
後半2分、北野のパントを処理した伏見の反則で得たPGを決めて12-6と北野リード
後半5分、北野のタッチを狙ったキックが失敗、伏見がフェアキャッチした後のスクラムからの展開でトライ、ゴールも決まって同点
その後北野はPGを狙って外し、さらに後半10分橋下のDGが惜しくも外れ、アドバンテージで得たPGも外して先行の機会を逃す
橋下のラグビー歴は長いが、真面目に練習しないために9月にレギュラーをクビになりかけたところを同級生に助けられた。遅刻の常習犯、下級生の時も下働きをさぼったが、人望があった。1浪して早稲田に入ったのも、卒業後司法試験に受かったのも、一旦スイッチが入ると凄かった証拠、との評価
後半は、伏見・薬師寺の得意のハイパント(高校生の場合、30m先、4秒後といわれる)から有利に展開
後半10分辺りから北野に体力の消耗が目立つようになる。伏見がシードで2戦目なのに対し北野は3戦目というハンディが現れてきた
後半22分にも北野はハイタックルの反則で得た39mのPGを外す(前半と併せて4本外したのは椎間板ヘルニアをおして出場していたせいもある)
後半は、伏見・薬師寺の得意のハイパント(高校生の場合、30m先、4秒後といわれる)から有利に展開
後半26分、薬師寺のノックオンをレフェリーが見逃す ⇒ タッチジャッジによるアピール制度はなく、レフェリーは絶対
後半29分、北野陣15mのラックから北野にハンドの反則。誰もがPGと思った瞬間薬師寺は左足にボールを当てて走り出し、一気に10m先のインゴールへ。不意を突かれた北野がタックルしたのはトライの後だった
山口監督からは、「勉強でもラグビーでも北野に負けてどうするんだ」と言われていた
ゴールキックは外れたが、その間に30分が経過、インジュアリータイムに入って伏見に反則が出たがゴールは遠すぎた
小さい体で立ち向かった北野の健闘が光る試合だった
北野の3年生(100期生)16人のうち、同志社に推薦入学が決まった日本代表の1人を除くと、現役合格者は立命のただ1人。キャプテンは2浪して大阪市大医学部へ
伏見は次の準々決勝で優勝した秋田工に19-0の完敗 ⇒ SHが北野戦で捻挫したため1年生に交代していたのも影響したが、全員の足が地についていない感じだった
北野出身で日本代表キャップ(出場試合数のこと)を得たのは3人 ⇒ 北野中卒で52年のオックスフォード大学戦に出場したCTB大塚卓夫(関西学院大→サントリー、80年サントリーのラグビー部創部に尽力、キャップ1)が初
北野は、日本代表主将を務める広瀬俊朗(113期生、31歳、13年2月現在で代表キャップ10)を最後に入部者が激減、12年度の部員は4人で、単独では公式戦に出場できない
薬師寺 ⇒ 2004年浜松大教授に転身した山口監督のひきで同大ラグビー部監督に就任、東海学生リーグで昇格を果たしたが、職場放棄他の不祥事で解任
花園が燃えた日 鎮勝也著 伝説の名勝負 対照の妙、凝縮
日本経済新聞夕刊2013年6月5日付
(論創社・1600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
決勝ではない。ただの3回戦。そこに最大瞬間風速のごとき空間は確かにあった。
1988年元日、大阪・花園ラグビー場の全国高校大会、地元の北野高校と京都の伏見工業高校がぶつかった。古くからの進学校が熱血青春ドラマのモデル校に挑む構図は広く関心を集めた。
当日の通しのチケットは「二万一四〇一枚」も売れた。併設の第二グラウンドの観客はごく限られている。管理者の証言では、記者席などを除けば「一万人が入れば満員」の会場にそれだけの数が押し寄せ、芝の上にまであふれた。伏見工の選手は振り返った。「ものすごく怖かった。タックルしたり、されたら、お客さんの中に突っ込んで行きそうだった」
北野の監督は、肛門科の医師だった。庶民の町で開業、赤ひげ先生と呼ばれていた。伏見工を率いるのは、元一流選手の名将である。万事に対照の妙があり、それぞれの方法が大接戦へと凝縮、ここに細部に届く筆致で再現された。
北野のメンバーに遅刻の常習で、でも本番にめっぽう強く、歓声を浴びると倒されても瞬時に起き上がる左ウイングがいた。現在の大阪市長その人(橋下徹:No.11 ウィング)である。
★★★★
(スポーツライター 藤島大)
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