バルザックと19世紀パリの食卓 nka Muhlstein 2013.7.6.
2013.7.6. バルザックと19世紀パリの食卓
Garcon,
un cent d’huitres! Balzac et la table 2010
著者 アンカ・ミュルシュタインAnka Muhlstein 伝記作家。1935年パリ生まれ。夫で作家のルイス・ベグリーと共にニューヨーク在住。『James de Rothschild』(1982)や『Cavelier
de La Salle(カヴリェ・ド・ラ・サールーーアメリカをルイ14世に捧げた男)』(1992)でアケデミー・フランセーズ賞、1996年ゴンクール賞伝記部門賞
訳者 塩谷祐人(えんやまさと) 明治学院大学非常勤講師。明治学院大大学院博士後期課程満期退学。パリ第七大学博士課程に留学。専門はフランス現代文学、亡命文学
発行日 2013.1.15. 印刷 2.10. 発行
発行所 白水社
バルザックは、家の雰囲気や登場人物の性格を連想させるには、食卓を描くことに勝るものはないと考えていた
彼の時代はレストランが現れ始めた時代でもある
美食という部分を取り入れることが作家にとってメリットになると理解したのはバルザックが最初
19世紀のパリは、ヨーロッパの美食の中心
常に金に関心を持っていたブルジョワ大作家バルザックにとって、食卓が何よりのテーマだったのは、そこに計算づくの吝嗇振りや過剰な気前の良さが現れるから
皿に載っているものには興味を示さない ⇒ 注文する人の振る舞いや、料理の値段の方が話題の中心
果物と情欲が結びつくのは、バルザックの作品に終始一貫している
第1章
バルザックの食卓
飽くことのない食道楽振りや際限ない食欲、絶えざる渇望 ⇒ 過食と粗食を常に移ろっていた
3歳まで乳母の所に預けられ、8歳からは寄宿舎に入れられて6年間家族の元へは帰れなかった。60kmしか離れていないのに両親が会いに来たのもわずか2回。やせ細って病気になり漸く帰宅
学校を出た後アルバイトを探し、やがて文筆業に入るが、使う金以上に稼げたことは一度もない
猛烈に仕事をしている間は食を絶ち、創作が終わると行き過ぎるくらい食べた
国民衛兵の義務(パリに住む市民は年に何日か軍に上がらなければならなかった)を何度も怠ったために国民軍営倉に拘束されたが、牢獄に届けさせた食事の豪華さは驚くべきもの
第2章
レストランの食卓
革命以前の人々は、必要に迫られなければ皆家で食事をしたし、自宅に客を招いていた
食事はプライベートなことで、メニューもあまり気をそそられるものではなかった
本当の台所がある家はわずかで、カマドがあるのはとても例外的。多くの主婦は暖炉にかけるとぐらついてばかりいる炊事鍋1つで何とかしなくてはならなかった
18世紀には、美食を理由にフランスに滞在することなど、誰も正当化できなかった
宿屋の食事とは、料理を買うのではなく、共有のテーブルに着く権利を買うということ
レストランとは、場所のことではなく、体力を回復させる(原語: restaurer)ことのできる料理や飲み物のことを示していた
1780年頃、宿屋でも惣菜屋でもない、旺盛な食欲を満たすための場所でもなく、ブイヨンスープやサラダを注文できる場所がパリに登場、単に元気をつける場所だったので「レストラン」と名付けられた ⇒ 営業時間に関する厳しい規制の対象外(新種の商売)
ルソーは、食事の軽さと割り勘の勘定を特徴として、ピクニックのように参加する食事を「ディナー」と定義
フランス革命がパリの食事風景を一変させた
革命で亡命した王家に雇われていた料理人たちが市内に料理店を開く ⇒ 中心はパレ=ロワイヤルで、当時市内に溢れていた独り者の男が上得意で、瞬く間に3千を数え、新たな生活リズムが生まれ、パリの人々の日常生活を根本的に変えた
当時人々は膨大な量の酒を飲み、水を飲むことは稀
地方では選べるものが途端に少なくなる ⇒ 近代的な意味でのレストランはなく、前菜、ロースト(オーブン料理)、ヴォライユ(食用家禽類の総称)、アントルメ(かつては肉料理とデザートの間に供される軽い食事のこと、今日ではデザートのこと)と言った本当の昼食をとるのは不可能
田舎では、旅行者は宿屋の主人の所へ行く
第3章
宴の食卓
バルザックは小説家の中でも最も現実主義的であると同時に、夢想家の中でも最も激情的な人物。そんな彼の想像力を刺激するものに、食卓を思い描くこと以上のものはない
テーブルクロスの白さは、品の良さを示すのに欠くことのできない唯一の証、そしてもう一つ、クロスの長さもその証で、テーブルの足の周りにゆったりとかかるクロスを持つことは贅の極みを意味する
テーブルに置かれた銀のドーム状の蓋は、気前の良さを表す ⇒ 料理がすべてテーブルの上に並べられているということは、食事が古典的フランス式サービスに則って供されるということで、全ての皿は綿密で複雑なプランに従って左右対称にテーブルに置かれる
すべての料理が平らげられるとは誰も思っていない ⇒ 残り物の取引が盛んに行われていた
田舎の饗宴がとりわけ肉料理や鳥料理を積み上げるものだとするなら、パリの宴は料理の種類が豊富にあることを見せる機会であり、料理の見せ方の独創性も味と同じくらい重要なものとされた ⇒ 温度が常に悩みの種
ロシア式サービス ⇒ 何人もの給仕係がより少ない料理をそれぞれ客の左側からサーブする給仕の仕方で、ナポレオンとロシア皇帝が協定を結んだ時にパリに取り入れられた
演出の素晴らしさが宴の食事の主要な部分を構成
1820年代、社交界の虚栄が倹約よりも優先された時代、食卓こそが有力者たちにとって上り調子であることを示す方法の1つで、洗練された夕食会を催すことができる能力によって自らを判断されるということを意識
アントナン・カレーム ⇒ タレーランの厨房で培われた誰もが認める料理の天才。摂政皇太子、ロシア皇帝、ジェームス・ド・ロスチャイルドの有名シェフ。偉大なシェフの象徴としてバルザックの小説に登場
マリー=アントワーヌ(アントナン)・カレーム(Marie-Antoine(Antonin)Carême, 1784年6月8日 - 1833年1月12日)はフランスのシェフ・パティシエ。フランス料理の発展に大きく貢献し、当時は「国王のシェフかつシェフの帝王」と呼ばれていた。今日、カレームはいわゆる「有名シェフ」のさきがけ的人物として知られている。
カレームの影響[編集]
カレームは、フランスの外交官にして美食家のタレーランのもとで料理人として働いていた。タレーランはカレームをたびたび激励、カレームはタレーランのもとで料理の考案に没頭している。1814年に始まったウィーン会議の間、タレーランはたびたび夕食会を主催した。そこで出された料理は出席者の評判をさらい、カレームの名は一躍有名になった。ウィーン会議が終わったときヨーロッパの地図と上流階級の食べる料理は刷新される事になる。
カレームがフランス料理に与えた影響は重要なものから取るに足らないものまで様々である。例えば、彼はフランス料理のコックのかぶる帽子や新たな鍋などを考案している。またカレームは、ソースをベースとなるソースによって全てのソースを4つの基本ソース(ソース・アルマンド、ソース・ベシャメル、ソース・エスパニョール、ソース・ヴルーテ)に基づき分類した事でも知られている。また、カレームによる新しいフランス料理は帝政ロシアの上流階級の食文化にも影響を与えた。
カレームは料理の考案や作成のみならず著作にも情熱を燃やし、フランス料理レシピの百科事典的な書籍をいくつかものしている。1833年から34年にかけて全5巻(最後の2巻はカレームの弟子の手になる)が刊行された「19世紀のフランス料理術」はカレームの著作の中でも特に有名であり、本の中でカレームは何百ものレシピやテーブルセッティングを披露している。
略伝[編集]
カレームの一生は、絶望的な貧困から、ヨーロッパの国々の元首や政治家の食卓を任せられるまでに立身出世を遂げた驚異の物語といえよう。 パリで子沢山の貧しい家庭に生まれたカレームは、10歳になるかならないかのうちに、貧困にあえぐ両親によって、フランス革命の余波に揺れていたパリの路上に放り出された。生きていくため安食堂に住み込んで見習いとして働き始めたカレームは、その刻苦勉励によってやがて頭角を現し、1798年、後にパトロンになるタレーラン邸にも出入りしていたシルヴァン・バイイ(Sylvain
Bailly、パレ・ロワイヤルの近所に店を構えていた有名パティシエ)に弟子入りし、才能を認められ、出世への階梯を登り始めた。
カレームは、バイイによってアミアンの和約成立記念祝宴のデザートを任されるという大抜擢を受け、またピエスモンテ(Pièce montée)によってパリで名声を得る。ピエスモンテとは、全て食品(砂糖、マジパンと焼き菓子など)からできており、これらの素材を用いて建築物のように積み上げた精巧かつ装飾的な意味合いの濃厚なもので、バイイの菓子店のショーウィンドーをも飾っていたが、カレームのピエスモンテはときには高さ数フィートにも達し、道化がその上に乗って踊って王を楽しませることができるほどだったという。カレームは建築の知識と料理の才能を駆使し、また近くのビブリオテーク・ナショナルで読んだ建築史の本から発想を得て、寺院やピラミッドや古代の遺跡を象ったピエスモンテを創造した。
ナポレオンは美食にはどちらかといえば無関心であったが、食卓外交の重要性はよく理解しており、タレーランがヴァランセ城を購入する際にも資金援助を行なっている。ナポレオンやタレーランの狙いはヴァランセ城を食卓外交の根城とする事だったと言われており、ヴァランセ城購入に伴いカレームもそちらに異動している。
カレームにとってタレーランは、単にパトロンと言うにとどまらず、課題を課され結果を吟味する審判者としての役割も兼ねていた。カレームは、重複した料理のない、かつ季節物の食材のみを使用した1年間のメニューを作る事をタレーランに命じられ、台所で試行錯誤をさせられたという。
ウィーン会議が終わるとカレームはイギリスの摂政皇太子(後のジョージ4世)の料理長としてロンドンに赴く。その後カレームは、サンクトペテルブルクでロシア皇帝アレクサンドル1世、ウィーンでオーストリア帝国皇帝フランツ1世などに仕えた後、パリに戻って銀行家ジェームス・ロスチャイルド邸の料理長に就任した。
料理文化の普及にも努力し、多数の著作がある。
バルザックの作品におけるパリに住む登場人物たちは必ずしもシェフを必要としていなかった ⇒ “シュヴェ”がいたからであり、バルザックもシュヴェの常連
シュヴェとは、惣菜屋であると同時に大きな食料品店であり、最も優れた料理人たちが集まったアトリエ
「シュヴェはある意味で内閣である」(美食家レソン著『新食道楽年鑑』) ⇒ 国の伝令係や公共部門の担当者、大使が来ていて、政治の状況を測ることが出来た。店主のシュヴェは国家機密の内部に殆ど通じていたと言える
シュヴェは、革命前は園芸家でヴェルサイユにバラを納めていたが、革命で逮捕されるものの17人の子供を養うために釈放され、バラの代わりにじゃがいもを栽培。生活苦を打開するためにパレ=ロワイヤルに店を借りパテの専門店を開き、惣菜屋へと発展、帝政下ではタレーランの出入り商人となって財産と名声を築く
バルザックの獄中に食事を届けたのもシュヴェであり、『人間喜劇』の中で、あらゆる喜びを与える、類のない商人として登場させている
プチブルの世界と上流社会の間、あるいは高官の社会の間にさえある階級の違いを消すには、費用のかかった夕食だけでは十分ではなく、品の良さというものは長い修練なくしては得られるものではない ⇒ あとからくる莫大な請求書に打ちひしがれるばかり。バルザックの小説には、見積りはいつも軽んじられ、最終的な値段との違いが出るが、これは彼の作品では例外なく起こる決まり事
成り上がり者たちがごく最近身に着けたばかりの薄っぺらな礼節と外面は、食べ物と酒が多量にあると砕けてしまう。昔からの貴族たちの途方もない威信は一朝一夕に培われたものではなく、パリでの宴や祝典での夕食は、もてなす側と同様客の方にとってもある種の社会的な緊張を引き起こす場となることがよくある
大宴会における主人の権威、趣味、野心は小説家の関心事であり、宴が日々の生活に場を譲ると、主婦が場面に登場してくる
第4章
家庭の食卓
バルザックの描く家庭の生活の大部分は食卓で繰り広げられる
家庭の食堂は、作家に正真正銘の心理学を学ぶ機会を与えている
裕福な金融業者の家でも、日常生活はかなりつつましやかに過ごしている ⇒ 鉄道によって交易が盛んになる前は、食材の種類が少なかったからでもある。ロスチャイルド家でも牛フィレは元旦のみ、まれにタラが出る以外は毎日鶏肉
19世紀の半ばに鮮魚を運ぶ列車が登場するまでは、160㎞以上離れたら魚は台無しになるものとされた
ブルジョワ社会での一般的は特徴は、質や数に差はあっても常に使用人がいること。もっともつましい商人の家庭でも、使用人でなくとも料理人か少なくとも住み込みの女中を頼りにした ⇒ 女たちがシェフに代わって登場
出入り商人や雇われ人の盗みという大問題に突き当たる ⇒ 「あらゆる金銭上の損失の中で、使用人たちによる災いが最も大きい」と書いている(『従妹ベット』)。料理係の女をしかりつける母親を見て学ぶことが女の子の躾にとって大切だった
パリでは頻繁に盗みが横行
プチブルの家庭が蓄えている食料の量とワインの質には驚かされる
田舎では、料理人の女たちが簡単で値の張らないものを使う術を知っていた ⇒ 夕食はただの食事ではなく、気晴らしであり、日々の生活のちょっとした憂さを晴らす娯楽
第5章
吝嗇の食卓と食道楽の食卓
バルザックの書く守銭奴たちは、全員が食べ物に対して同じ妄想を抱いている
第6章
女たちと食卓
いつの時代にも、食事の喜びと愛の喜びは結びついていた
バルザックにとっての食べ物とは、どんなに美味しいものであっても、恋の序幕とはならない ⇒ フロベールやモーパッサン、ゾラでは、食卓からベッドへという流れはしきりに起こる
訳者あとがき
19世紀を代表する作家の1人バルザックが生きたのは、まさに町の人々の食事風景が変化を遂げた時代の直後だった。筆者は、こうしてバルザック本人と彼の小説に描かれている「食」に関心を寄せ、本書を完成
食文化の花が咲いたのがバルザックの時代
19世紀に端を発する「食と人」との繋がりをバルザックの小説で例証し、同時に「食」という軸を設定することでバルザックの小説にスパイスを利かせ、バルザックの小説を手に取ってみたくなるように読者を刺激する
バルザックは、『人間喜劇』を通してフランスの風俗に言及し、あらゆる階層の人々を描き出し、人々の日常の姿に迫った作家 ⇒ バルザックの小説を読むと、食事が人間の内奥を垣間見せ、人間と人間の繋がりを雄弁に語るものだということに気付く
バルザックと19世紀パリの食卓 アンカ・ミュルシュタイン著 「食」を作品に取り入れた作家
日本経済新聞朝刊2013年3月3
フランスに外食産業がうまれたのは19世紀前半、ちょうどバルザックの時代だった。
それまで王侯貴族に召しかかえられていた料理人が革命と共に独立し、レストランを開店しはじめたのである。
(塩谷祐人訳、白水社・2200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
バルザックはこの新しい主題を嬉々として作品に描いた初の作家である。「食」は服装や住まいと同じく人物の社会的ステータスを表し、時には運命さえ決してしまう。美食小説『従兄ポンス』の作者は語る、「食卓で身を滅ぼした人の数ははかりしれない。その点においては、パリの食卓は高級娼婦のライバルといえる」と。
実際、当時のパリは美食の巷だった。通好みの「ヴェリ」や牡蠣で名高い「ロシェ・ド・カンカル」、水いらずで楽しめる個室が魅力の「カフェ・リッシュ」など、『人間喜劇』の名士たちは豪華なレストランで宴をはっている。
その一方で、貧しい文学青年が通ったソルボンヌ付近の食堂「フリコトー」も忘れがたい。安くて実質があるこの店は、思想青年や職にあぶれたジャーナリストたちのゆきつけの場で、そのうち時流にのった連中は、一転、豪勢な店で気炎をあげた。レストランのランクはそのまま身の浮沈を表していたのである。
さて、作者のバルザックといえば、決して美食家だったとは言えない。そもそも一日15時間も執筆する彼に美食を堪能する時間があるだろうか。まさに極端な「粗食と過食」が常態だった。濃いコーヒーをがぶ飲みしつつようやく原稿を仕上げると、さっと「ロシェ」に飛びこみ、何ダースもの牡蠣や肉料理をたいらげてゆく。すごい額にのぼる勘定書は編集者に送りつける。でなければ、店や名料理人の名前を作中に書きこんで、「名誉代」で支払うか。
そうして『人間喜劇』に不朽の名を残したのが、パリに冠たる美食の総合プロデューサー、シュヴェである。彼の店にはカレームはじめ名だたる料理人が集まるアトリエもあり、そこは政局筋に近しい「内閣」でもあった。
内閣とはいかに――と思う読者はどうぞ本書を。下手な料理の歴史本よりもずっと面白い。
(仏文学者 山田登世子)
Wikipedia
オノレ・ド・バルザック(Honoré de
Balzac 発音例, 1799年5月20日 - 1850年8月18日)は、19世紀フランスを代表する小説家。なおド・バルザックの「ド」は、貴族を気取った自称である。
イギリスの作家サマセット・モームは、『世界の十大小説』のなかで、バルザックを「確実に天才とよぶにふさわしい人物」と述べている。バルザックは90篇の長編・短編からなる小説群『人間喜劇』を執筆した。これは19世紀ロシア文学(ドストエフスキー、レフ・トルストイ)のさきがけとなった写実的小説群である。
生涯・人物[編集]
トゥールで生まれた。父親はトゥールの要職にある実務家、母親はパリ育ちで夫より30歳あまり年下だった。幼少時代からあまり母親に愛されず、生後すぐにトゥール近郊に住む乳母に預けられた。その後、寄宿学校に入れられて1807年から1813年まで孤独な少年時代を送る。その6年間に母親が面会に訪れたのは2度だけだった。母親からの愛の欠乏と、その後の彼の人生における女性遍歴の多さは、関連づけて言及されることが多い。
母親アンヌ=シャルロット=ロールは神経質な人物であり、宗教家サン=マルタンやエマヌエル・スヴェーデンボリらの神秘思想やフランツ・アントン・メスメルの動物磁気に傾倒する神秘主義者でもあった。そのことがバルザックに多大な影響を与え、「セラフィタ」などの怪奇・幻想的なバルザック作品にも受け継がれた。なお、バルザックは自分の母親について「おれを滅茶苦茶にしたのはお袋の奴だ」と終始主張していたという。
1814年、父の仕事がきっかけで一家はパリへ引っ越す。バルザックはソルボンヌ大学に聴講生として通い、法科大学の入学試験に合格。父の退官によりパリ郊外へ引っ越すことになったとき、1人でパリに残り創作活動を始める。両親は息子が公証人になることを希望したが、バルザックはそれを拒んだ。当初は屋根裏部屋で生活し、その生活の様子は『あら皮』などの初期の小説に反映されてもいる。1829年以降、『ふくろう党』、『結婚の生理学』、『私生活情景』を発表し、1831年の『あら皮』で成功する。
バルザックの小説執筆スタイルは以下のようなものであった。まずコーヒーを牛飲し、主として夜間に長時間にわたって、何回も推敲を繰り返しながら執筆した。執筆が終わると、疲れをおしてすぐに社交界に顔を出した。
小説を書いている以外の時間は、社交界でご馳走をたらふく食べるか、知人と楽しく過ごすかのいずれかに費やされた。もはや伝説になっているバルザックの大食いは、(糖尿病が原因と思われる)晩年の失明や、死因となった腹膜炎を引き起こしたと思われる。借金も豪放、食事も豪胆であった。事業の失敗や贅沢な生活のためにバルザックがつくった莫大な借金は、ついに彼自身によって清算されることはなく、晩年に結婚したポーランド貴族の未亡人ハンスカ伯爵夫人の巨額の財産がその損失補填にあてられた。
作風[編集]
バルザックの小説の特性は、社会全体を俯瞰する巨大な視点と同時に、人間の精神の内部を精密に描き、その双方を鮮烈な形で対応させていくというところにある。そうした社会と個人の関係の他に、芸術と人生、欲望と理性、男と女、聖と俗、霊肉といった様々な二元論をもとに、時に諧謔的に、時に幻想的に、時にサスペンスフルにと、様々な種類の人間を描くにあたって豊かな趣向を凝らして書かれた諸作品は、深刻で根源的なテーマを扱いながらもすぐれて娯楽的でもある。高潔な善人が物語に登場することも少なくなく、かれらは偽善的な社会のなかで生きることに苦しみながら、ほぼ例外なく苦悩のうちに死んでいく(『ゴリオ爺さん』、『谷間のゆり』など)。長くはない一生において実に多彩な傾向の物語を著しつづけた天才的な才能の持ち主であり、その多作・速筆にも関わらずアイデアが尽きることはなかった。社会におよそ存在しうるあらゆる人物・場面を描くことによってフランス社会史を形成する壮大な試み『人間喜劇』を構想したが、その死によって中絶。
主な作品[編集]
日本語訳作品集[編集]
伝記研究[編集]
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鹿島茂・山田登世子編 『バルザックを読む』〈1、2〉 藤原書店
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高山鉄男 『バルザック』〈新書 人と思想〉清水書院
バルザックと交際した貴族女性達[編集]
バルザックは華やかな女性遍歴を繰り広げたが、その多くは貴族階級の年上の女性が相手であり、正式に結婚したのは最晩年のハンスカ夫人のみである。
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ベルニー夫人 - バルザックが自分の母親の如く最も愛した女性。『谷間のゆり』の主人公モルソフ伯爵夫人のモデルとなった。
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ダブランテス公爵夫人
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カストリ侯爵夫人
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ギトボニ=ヴィスコンチ伯爵夫人
発言[編集]
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「あらゆる人智の内で、結婚に関する研究が最も遅れている」
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「もしジャーナリズムが存在しないなら、間違ってもこれを発明してはならない」
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「孤独はいいものだという事を我々は認めざるを得ない。けれどもまた孤独はいいものだと話し合う事のできる相手を持つことはひとつの喜びである」
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