消えた国 追われた人々 池内紀 2013.7.9.
2013.7.9. 消えた国 追われた人々 東プロシアの旅
著者 池内紀 1940年姫路生まれ。ドイツ文学者、エッセイスト。20代の頃マグリスとウィーンにあって同じ「オーストリア文学協会」の奨学金をもらった間柄。『風刺の文学』で亀井勝一郎賞、『海山のあいだ』で講談社エッセイ賞、『ゲーテさんこんばんは』で桑原武夫文学賞、ゲーテ『ファウスト』で毎日出版文化賞、『カフカ小説全集』で日本翻訳文化賞ほか
別ファイル『12-07 ドナウ ある川の伝記』の訳者
別ファイル『12-10 恩地孝四郎』の著者
発行日 2013.4.26. 印刷 5.10. 発行
発行所 みすず書房
初出 『すばる』(集英社) 2003.1.~2004.3.「東プロシア紀行」
ギュンター・グラスの『蟹の横這い』の翻訳で知ったグストロフ号の悲劇が契機
「日本は日本人の国と思い定めて、ごく身近なマイノリティであるアイヌ人すら忘れがちな国民性にとって、多民族・多言語の国や土地は想像が難しい。だが、自称〈単一民族〉国家こそ、地球上の例外であって、それを最良と考える方が異常なのだ。私は覚束ない東プロシアという消えた「国」の中に、すこぶる現代的な「国の選別」のヒナ型を見た。生まれた国と育った国、今や、人が国を選び、あるいは捨てる、国そのものが人によって選び取られ、また捨てられる。第二次大戦末期に、力づくで捨てさせられた時、12百万人を超えるドイツ「難民」が生まれた。それは図らずも、いち早く21世紀を先取りしていた」
東プロシアという聞きなれない国はいつ成立し、またいつ、どのようにして消えてしまったのか? 首都はケーニヒスベルク、古くは中世に遡る歴史を持ち、多民族が共存し、豊かな文化を維持してきた。コペルニクスが星を見上げ、カントが『純粋理性批判』を書き、ドイツ・ロマン派の作家ホフマンが酒場に入り浸った国。しかしこの国も戦禍を免れることは出来なかった。わけてもヒトラーやスターリン、第二次大戦はこの国土を一変させた。著者はギュンター・グラスの翻訳を機に、いまはなき国の歴史を求めて3度の旅を重ね、闇に埋もれた過去の諸相と現在を探ってゆく。時の熟成の中で完成された紀行記の名品
Ø はじめに
東プロシア ⇒ 現在のロシアの飛び地カリーニングラード州と、リトアニアの一部、北部ポーランドに重なる地域で、ドイツ人が作った国
人口2百万近く、初まりは700年の歴史を持つ
第一次大戦のヴェルサイユ条約によって東プロシアはドイツから切り離され、海伝いに隣り合った軍港ダンツィヒは「自由都市」となったが住人の大半はドイツ人。ヒトラーの「ポーランド回廊」要求を蹴ったために第二次大戦の端緒に
45.1. ソ連軍侵入の際、2百万ドイツ系住民の一斉避難が始まったが、遅すぎた
全てが終わった時、国は消え、追われた人々は戻ってこなかった
Ø ヴィルヘルム・グストロフ号出港す
45.1. ナチス・ドイツが誇った当時世界一の豪華客船グストロフ号が1万を超えるドイツ避難民を乗せてグディニア港を出港、魚雷で沈没、公式発表では「6千人余り」が死んだ
グディニア港 ⇒ 第1次大戦でポーランドが独立し、バルト海沿いの多くの土地がポーランドに組み込まれたが、ダンツィヒがドイツ人の自由としてとして存続したため、バルト海交易の拠点を失ったところから、新たに港湾都市として建設された。3等船客として多くのポーランド人が出国して成功を収め、1等船客として里帰りしアメリカ国旗をなびかせた車に山のような土産を積んで広い道路を疾駆した
グストロフ ⇒ スイスにおけるナチス思想宣伝の指導者。36年ユダヤ人に射殺され、ドイツによる犯人引渡要求にスイスが拒否して18年の刑に、理由不詳のまま獄死。2年後にもパリで同様の事件が発生。ナチスによるドイツ労働戦線所属の船団の1隻として建造された客船にグストロフの名前を付けた
38年 ヒトラーがダンツィヒのドイツ返還と、自動車道(ポーランド回廊)建造を要求、拒否したポーランドを蹂躙 ⇒ 第二次大戦は39.9.ダンツィヒ近郊で始まる
ポーランド占拠とともに、東プロシアの中心部に東部司令部として「狼の巣」を建設
ゆかりの人物
l カント ⇒ ケーニヒスベルク大で教鞭
l コペルニクス ⇒ 元々はカトリックの司祭で行政官。トルン生まれ。
l ホフマン ⇒ ドイツ・ロマン派の作家。裁判官。小説中の風景は、ロマン派の想像力というより、作者自身が目にしたそのもの
l ヴェルナー・ハイマン ⇒ 映画『会議は踊る』の主題歌《ただ一度だけ》の作曲家
l ケーテ・コルヴィッツ ⇒ 画家
l ヨハネス・ボブロフスキー ⇒ 戦後ドイツのもっとも優れた詩人。自らの生国の歴史を「不幸と罪の長い繋がり・・・・」と呼び、「消すことも償うこともできないが、詩の中では語ることができる・・・・」
プロシア王の二男や三男が来て宮廷を作る ⇒ ケーニヒスベルクの公の建物の正面には王冠を戴く紋章がある
たくさんの民族がそれぞれ自らの村を作り、緩やかな住み分けができ、それぞれの風習や伝統に従って生きてきた ⇒ どの町にも少数のよそ者がいたがその多くがユダヤ人
海沿いは潟が広がり、冬季には国土が2割がた増える
45.1. 戦況を知らされていなかった東プロシアのドイツ人がグディニアに殺到、ソ連の空爆の中を船で脱出を図るが、潜水艦の魚雷受けて沈没 ⇒ 史上最大の海難事故
グストロフが生まれたのが1895.1.30.、ヒトラーの権力掌握が1933.1.30.、船の沈没が45.1.30.
ポーランド政府には東プロシア市民を悼む理由はなく、現在は事故を想起させるものは何もない
Ø 水の国
第二次大戦以前、東ヨーロッパ全域にわたって「ドイツ人の町」が散在、いずれも中世以来の東方政策によって順次広がっていったもの。そこにあった建物の所有権、遺してきた絵画や貴金属などの返還を求める運動 ⇒ 「失地回復同盟」
東プロシア ⇒ もっともまとまりのある広大な土地(2百万)
ズデーテン地方 ⇒ チェコ北部からポーランド南部にかけての辺り(2.9百万)
シレジア ⇒ ポーランド南西部(3.2百万)
ガリチア ⇒ ポーランド南東部からウクライナ西部の辺り
ブゴヴィナ ⇒ ルーマニア北東部から黒海に近い辺り
大戦終了とともに帰還したのは12百万と推定
水の道=ヴィスワ(ヴァイクセル)川 ⇒ ポーランド人にとっての「母なる川」 チェコとの南の国境に始まり、古都クラクフ、ワルシャワ市中を流れ、グダニスクの東でバルト海に注ぐ、総延長1087㎞。この川のお蔭で、内陸部でも交易が盛ん
東プロシアは、ヴィスワ川と、現リトアニアのクライペダ(旧メーメル、メーメル川の河口の町)の間。全域に無数の川があり、主だった都市はどれも川沿い
「ヴァイクセルのかなた」は「千の湖の国」とも呼ばれ、無数の湖沼が点在。氷河期の置土産と言われるが、特に内陸部のマズーリ地方に多く、ショパンはこの地方の伝統的踊りのリズムを取り入れて《マズルカ》を作曲
ワルシャワの北西の町トルンは戦災を免れ、「ドイツ人の町」がほぼ原形のまま残る ⇒ 戦後ポーランド政府に召し上げられて市立博物館に飾られるトルン伯のコレクションの返還訴訟が進行中
Ø 城のある町にて
マリーエンブルク(「マリア城」、現マルボルク) ⇒ かつてドイツ人住民の強固な砦、現在はポーランドきっての名城
東プロシア建国の拠点の1つとなった町 ⇒ 12世紀末、ドイツ騎士団がパレスティナに病院を建設したが、宗教上の目的がなくなった後、ハンガリー王の要請で国境警護に当たるが、これが東方進出の皮切りとなり、北ポーランドで無人の地に城を築き、自分たちの町を作った ⇒ 2つの川の分岐点にあたり、網の目のように細い水路を作り、広大な野を拓いて行った
Ø マレンカの町
東プロシアには4つの地方が存在
メーメル地方(現リトアニア) ⇒ リトアニア人、ロシア人が多かった
l サム地方(現ロシア) ⇒ ロシア人が多かったが、中心のケーニヒスベルクは圧倒的にドイツ人
l エルム地方(現ポーランド) ⇒ ドイツ人多数派
l マズーリ地方(現ポーランド) ⇒ ドイツ人多数派
異なる民族、人種が共存しながら、民族紛争は起こさなかった ⇒ 第一次大戦後の帰属問題でも人々は投票で解決、90%が「東プロシア」を選択。言語や伝統、生活習慣が違っても緩やかな「民族共同体」が実現していた
コペルニクスが最も長く住んだのは、マズーリ地方のアレンシュタイン(現オルシュティン)で、同じ様に14世紀にドイル人移住者たちが作った町
その町で生まれたのが高校教師兼作家のエールンスト・ヴィーヒェルト ⇒ 33.5.ナチスによる焚書の際「好ましからざる作家」として挙げられ、強制収容所へ送られたが、辛うじて釈放されスイスに亡命 ⇒ 彼の短編小説の主人公がマレンカ(ドイツ名マルゴ)という少女。ソ連軍が迫る44.12.祖母を残して避難するが、戦後戻った時にどこにも祖母の名前はなかった
Ø 狼の巣
ケーニヒスベルクの南東の国境近くのケントシン(旧ラステンブルク)という町の郊外の湖沼地帯に東部戦線作戦本部として40年建設
ヒトラーが、若き日に自らを一匹狼の「狼殿下」と称していたところからの命名
設計と建設は、フリッツ・トート率いるトート組 ⇒ すべてコンクリートの塊だったため湿気に悩まされ、作戦会議は地上の木造の建物でするようになったため、暗殺計画が未遂に終わった
ヒトラーが滞在したのは、5年間で850日
現在は遺跡公園で、ソ連軍侵入に際して爆破されたままの状態のコンクリートのブロックが無秩序に重なり合っているだけ ⇒ 片隅に小さな記念碑が1つ。果敢に行動し無念の死を見た人々を讃えるもので、市当局が暗殺未遂事件の48年目の1992年に建立。たとえ敵国の人であれ、誠実な勇気を讃えるのに国籍は関係なかった
Ø ヒトラー暗殺未遂事件
湖沼地帯故に、特に夏場は蚊やハエの攻撃に悩まされた ⇒ 蛙の鳴き声に悩まされて石油で焼き殺したことも蚊の増殖に火を注いだ
ベルリンの総司令部がラステンブルクに移動してきたのは、41.6.対ソ宣戦布告の直前
44.7.20. ヴァルキューレ作戦失敗 ⇒ 首謀者のシュタウフェンベルク大佐は旧プロシアきっての名門の出。前年チュニジア戦線で重傷を負っていた。死者4名。ヒトラーは奇跡的に助かる。机が樫の厚板でできていたことも幸い。700人が逮捕され、まず150人がピアノ線による絞首刑に。計画発案者のトレスコウ少将は失敗を知って自殺したが、腐乱死体が掘り起こされ尋問の武器に使われた
Ø 水陸船第1号
ショパンは、パリにあって故国の踊りを作曲に取り入れた ⇒ マズルカはナショナリズムを訴えるための音楽でもあった
マゾヴィア(マズーリ)地方、別名「千の湖の国」 ⇒ 湖沼の周囲は丹念に耕し、森にも手を加えるが、湖沼だけは氷河期の名残として自然のままに留めてきた
中心都市の1つがオストルダ、旧オスターローデで、「ローデ」とは「森を拓いて作った」という意味
幾つもの湖沼を越えて移動するのに運河が作られたが、水位の異なる湖沼間ではトロッコのような台車をワイヤーで引く水陸両用の船が作られた ⇒ 戦争で陸上を引く大車輪が鉄資材として徴用されたために陸上航行は中止となり、戦後47年になって復活
Ø カントの町
カリーニングラードはロシアの最も西の町。1946年誕生。終戦まではケーニヒスベルクでドイツの最も東の町。1255年誕生。36年の人口38万、8割近くがドイツ人。現在は人口40万、8割近くがロシア人
ケーニヒスベルク大学は16世紀半ばの創立で、北ヨーロッパでは最も由緒ある大学
町も14世紀にはハンザ同盟に加わり商都として栄えていた
辺境の地故に、ヨーロッパの戦禍から免れた
町造りにはブレーゲル川の豊かな水が使われ、運河が四通八達、「バルト海の真珠」と言った名で讃えられた
Ø 海の道
ケーニヒスベルクがハンザ同盟に加わり、東プロシアの首都として栄えたのは、氷結しない河港を持っていたから。河港が広大な潟に面しているが、18~19世紀後半にその潟のなかに水深10m、2万トンクラスでも航行可能な海の道が造られた。干潟を深々と掘って石を敷き詰めた「道」が外海まで数十キロ続く。市の財政と町の豪商たちの懐具合とが成し遂げた大工事が施され、水先案内人が船長よりも権限を持って誘導する
ハンブルク、ブレーメン、リューベック等のドイツの港湾都市と同じシステムで、町自体は内陸部にあって、川が港と結んでいる=海の道
Ø カントの墓
1944.8. 英米軍の爆撃機が大編隊で襲来、旧市街の98%が炎上、一夜にして瓦礫の山となったが、そこへさらにソ連軍が侵入、過酷な戦禍を受ける ⇒ 1896年開設の動物園は、ベルリン以北最大で2100種の動物がいたが、終戦時に生き延びたのはワニ他4匹
過去を偲ばせるものは何一つない ⇒ 市街そのものが消し去られ、道が新しくできた
西ドイツやポーランドは、戦後の復興にあたり、「復元」を原則とした。石の文化は壁画の飾り1つまで詳細な設計図を残しており、また古くから修復の技術を養ってきた。その結果「ハンザ都市の女王」(リューベック)や世に知られたダンツィヒ大通りが蘇ったが、ソ連はまるきり逆の政策を取り、全てを更地にして計画経済に基づき新しい町並みを作った
ブレジネフ書記長の一声で旧王宮は吹き飛んだが、さすがに大聖堂の爆破までは命じなかったため半壊のまま残され、2001年ドイツから、ということは旧市民からの寄附によって復元工事が施された ⇒ 大聖堂祭壇側、北の一角(「教授たちの会堂」)にカントの廟があり、戦時中も聖堂の塔と大屋根が吹き飛んだのに廟だけは無傷で残った
Ø 琥珀の木箱
琥珀の90%がバルト海で産出されるため、「バルト海の黄金」と呼ばれる、特にケーニヒスベルク近傍の海岸で多く産出
水に浮く軽さ、「包裹(ほうか)物」と分類される虫の殻や花びらを中に閉じ込めたものが珍しい、海に網を投げて拾う、磁力を持つ
初代のプロシア王フリードリヒ1世が熱心なコレクター
ナチスが持ち去って以来行方不明となっている
ピョートル大帝が「ヨーロッパの窓」(=サンクトペテルブルク)に新宮の建造を始めたのが1703年、その300年記念とドイツ・ロシア友好の印としてドイツの財政的援助の下、03.9.ペテルスブルクの旧王宮に琥珀の間が贈られた
Ø タラウの娘
南はライン、北はメーメル、2つの川の間がドイツの大地といわれた(旧ドイツ国家)
現在はメーメル川(ネマン川)が、ロシアとリトアニアの国境だが、13世紀の半ばメーメル以北にドイツ騎士団が砦を作って移住
17世紀の30年戦争で、新教徒側の盟主スウェーデン国王が軍隊を率いて出陣してきたのがメーメル、旧橋の賀状の南ドイツ、ボヘミアから新教徒が逃げ込んできたのもメーメルだった
第一次大戦後、メーメル一帯が切り離されて連合国管理下に置かれたが、その連合国とは仏英伊日の4か国。フランスが軍隊を派遣、他の国は軍人行政官を派遣(日本に記録はない)
23年 フランスのルール占拠の間隙をついてリトアニア義勇軍が軍政庁を占拠、フランス軍は明渡して「メーメル講和」が成立。38年の選挙でドイツ復帰が実現
メーメル生まれの詩人ジーモン・ダッハ(1605~59)の記念碑を台座にして、ケーニヒスベルク近郊の村タウラの娘アンナの像が立つ ⇒ 中年の詩人が恋した娘で、婚約者がいると知って断念し代わりに詩を作ったのを記念して1912年に建立。第二次大戦中に消え、新しいリトアニアの誕生とともに、装いを新たにして戻された
Ø メーメルのほとりで
ロシアの飛び地で2番目に大きい町ソヴィエック(「ソ連町」の意、旧ドイツ名ティルジット) ⇒ 1807年ナポレオンとアレクサンドル1世の間で「ティルジットの講和」が結ばれ、束の間の平和がヨーロッパに訪れたが、数年で破られる
15世紀にドイツ人街として都市権を獲得、水運によってバルト海と結ばれ、ミニ多民族国家の性質を帯びていたため、講和を全ヨーロッパに告知するには相応しい土地だった
詩人ボブロフスキーはこの町の生まれ
Ø 風のホテル
ラトヴィア名リエパーヤ(旧ドイツ名リーバウ、ラトヴィアの西端にある第2の港町)
ダンツィヒを起点とするドイツ人用バルチック航路の終点
ドイツ騎士団が開拓 ⇒ バルト海に面して細長い砂州が延び、その西に冬でも氷結しない汽水湖を抱き込む地形は、ケーニヒスベルクに酷似
1918年 リーバウ一揆 ⇒ リーバウのドイツ人・ラトヴィア人同盟が一斉蜂起してボルシェヴィキを追放、バルト海沿岸に共和国を樹立。人口15万、うちドイツ人6万
40年 ナチスがラトヴィアを占拠、44年ソ連軍侵攻に際しドイツ人・ラトヴィア人同盟が再結成され抵抗、戦後もソ連はほとんど手付かずのまま残した
後のリガを首都とするラトヴィア共和国とは直接の関係はないが、ロシア人嫌いのラトヴィア人には誇らかな名誉となっている
現地で紹介されたドイツ系のホテル(「風のホテル」と呼んでいた)が旧ドイツ人町に立つ
Ø 黄金の門
グダニスク ⇒ ポーランド民主化のきっかけとなった町として知られる
1970年 港湾労働者が自由と民主化を求めてストライキを宣言
1980年 同地のレーニン造船所で労働組合結成、委員長にワレサが就任。「連帯」と称して自由と民主化を勝ち取り、80年代に東欧全体を巻き込む大いなる変革の皮切りとなる
ドイツ騎士団が城を築いて以降640年のダンツィヒの歴史 ⇒ 城の正門に金色の紋章があるところから「黄金の門」と呼ばれ、そこをくぐると旧市街が続く
ハンザ同盟の中心都市として栄え、西プロシアという属州の首都だったが、第一次大戦で町に住む30万のドイツ人の住家を確保するため苦肉の策として国際連盟の管理による自由都市となった
ノーベル賞作家ギュンター・グラスは1927年ダンツィヒの生まれ ⇒ 故郷を舞台に「ダンツィヒ3部作」を書く。受賞後に、戦争末期親衛隊に所属していたのを黙っていたとして非難された。受賞前の小説にも、東プロシアにいたことのある主人公が、そろそろ祖父や父の遺産を請求しても悪くはなかろう、と書いて非難
大戦末期に町の95%が破壊されたが、大半が復元されたが、ドイツ騎士団の横にポーランド王の紋章が入ったりしている
Ø 死せる魂
グストロフ号が沈没した際、救助された人が上陸した記念碑が、50周年を記念してポーランドのバルト海沿岸コウォブジェク(旧ドイツ名コルベルク、ナポレオン軍から町を守ったドイツ人の勇敢な行為をナチスがプロパガンダに利用した映画の舞台)の東寄りの保養町に立つ
ゴーゴリの小説『死せる魂』 ⇒ 地主が農奴の死を届け出ないため戸籍上は生きている「死せる魂」を買い取る小悪党の物語。ポーランドやバルト3国のEU加盟が実現して、ドイツ人のノスタルジーを利用、ドイツ統一後に旧東ドイツ政府管理の文書がどっさり出てきた中から旧権利書などを収集してひと儲け企む旅行業者を見て思い浮かべた
第二次大戦末期に始まるドイツ人難民は、数百年の歴史を背景とし、総数10百万を超える規模 ⇒ 戦後60年経ってようやく「被害」を語れる状況になってきた
背景に戦後のドイツの「過去の克服」の実績を見ていた ⇒ とりわけ、ポーランドとの和解の歴史を辿り、関係改善の軌跡を纏めていた。謝罪と補償を続け、歴史認識を共有、様々なレベルでの結びつきを深めてきたし、ポーランドのEU加盟もドイツの強い支援があって実現
「歴史の直視」の先例として、02年グラスの小説『蟹の横歩き』が挙げられた ⇒ ナチスの過去を最も厳しく糾弾してきた作家がグストロフ号の悲劇を描く(翻訳池内紀)
消えた国 追われた人々 池内紀著 現代史の隠れた物語
日本経済新聞朝刊2013年6月9日付
第2次世界大戦によって長い歴史を持つ国が一つ消えた。東プロシア。今日、語られることが少なく歴史から忘れ去られている。
(みすず書房・2800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
ドイツ文学者の著者はその消えた国に興味を持ち旅をする。
ただの旅行記に終わらず、現代史の隠れた物語になっていて読みごたえがある。多くを教えられる。
いま東ヨーロッパの地図を見るとバルト海に面して不思議な一画がある。リトアニアとポーランドに挟まれたところでロシア連邦になっている。ロシアの飛び地。
ここがかつて東プロシアだった(リトアニアとポーランドの一部も含む)。ドイツ領。
約700年にわたってドイツ人が町を作ってきた。哲学者のカントを始め、作家のホフマン、さらには天文学で名を残しているコペルニクスも東プロシアで暮らしたという。
その国が消えたのは、第2次世界大戦の末期、ソ連軍が侵攻してきたから。現在、ロシアの飛び地になっているのはそのため。
おそらくソ連に備えたのだろうヒトラーは東プロシアに「狼の巣」と呼ばれる作戦本部をひそかに作った。1944年、未遂に終わったヒトラー暗殺が企てられたのはここだったというのも意外な事実。著者はゆったりと旅しながらさりげなく現代史を語ってゆく。
45年の1月、ソ連が東プロシアに侵攻する。ドイツ軍は敗走する。そしてこの時、多くのドイツ人が犠牲になった。
ドイツの悲劇だが、ナチス・ドイツは第2次世界大戦の加害国だったからこの事実はほとんど語られず歴史から消えた。
著者はギュンター・グラスの新作の翻訳を機に、グラスの故郷ダンツィヒ(現在はポーランドのグダニスク)に接する東プロシアの歴史に興味を覚え、3度にわたってこの地を旅したという。
加害国のドイツにも国を失う悲劇があったのかと現代史の複雑さを教えられる。
日本人にはなじみのない町を旅する。ヨーロッパの辺境をこれほど旅した人は少ないのではないか。その意味でも貴重な書。
(評論家 川本三郎)
Wikipedia
東プロイセン(ドイツ語:
Ostpreußen; ポーランド語:
Prusy Wschodnie; ロシア語:Восточная Пруссия)は、ヨーロッパのバルト海の南岸にある地域の歴史的な地名。東プロシア、あるいはオストプロイセンとしても知られている。現在は大部分がポーランドとロシア、北端の一部分がリトアニアの統治下にある。
概要[編集]
元々バルト系のプルーセン人が住み、古プロイセン語が話されていた。1226年に始まるドイツ騎士団の武力による宣教(カトリック化)とドイツ人の東方植民によりドイツ系住民が増大していき、ポーランドやリトアニアからも移住者が増え、それらの人々が原住民と混血してバルト・ドイツ人が生まれていった。プレーゲル川の河口の港町ケーニヒスベルク(ハンザ同盟都市)は、琥珀など流域の物資を集散しバルト海を通じて交易するこの地域の中心都市として繁栄していた。
歴史[編集]
ドイツ騎士団はマリエンブルクの町に建てられたマリエンブルク城に本拠を構えたが、在地の貴族と農民達はしばしばドイツ騎士団の支配に対して反乱を起こした。バルト・ドイツ人の諸都市もドイツ騎士団の専制支配に強い不満を抱いていた。ドイツ騎士団との間でたびたび紛争が起こったポーランド王国とリトアニアでもドイツ騎士団に対抗すべく(リトアニアがキリスト教を受け入れてリトアニア大公国となることで)ポーランド=リトアニア連合が誕生した。リトアニア大公国の大公ヤギェウォがポーランド王国の女王ヤドヴィガと結婚し、この二人が夫妻共同君主となってポーランド王国を治めることになった。1410年のグルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)に続く15世紀前半の戦争を経てドイツ騎士団国家は弱体化した。1440年には都市、諸侯、(ドイツ騎士団に属さない)僧侶がドイツ騎士団に反発してプロイセン連合を結成しポーランド王国と同盟した。1466年の和睦(第二次トルンの和約)でドイツ騎士団は西プロイセンをポーランドに譲り、東プロイセンはポーランド国王の宗主権下に入った。プロイセン連合加盟の諸都市や諸侯の自治権が勝利者のポーランド王国によって保障された。
1525年、騎士修道会総長でホーエンツォレルン家のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクはプロテスタントに改宗し、世俗の「プロイセン公」となって東プロイセンにプロイセン公国を創設した。1618年にプロイセン公の後継者が絶えると、ブランデンブルクを領地とする同族のブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムント(在位1608-1619)がプロイセン公を兼ねる同君連合体制となり、ポーランド国王の宗主権下に東プロイセンを統治した。この頃からスウェーデンがバルト海に勢力を伸張し、東プロイセンにも影響を与え、1626年には、スウェーデン王グスタフ2世アドルフによって一時制圧された。しかし1660年には、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が東プロイセンをポーランド国王の宗主権から解放し、1680年までにスウェーデンの影響力を完全に排除した。そして1701年、大選帝侯の子ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクに赴き、フリードリヒ1世としてプロイセン王に即位、プロイセン公国は「プロイセン王国」となった。ホーエンツォレルン家の主な領土はベルリンを中心としたブランデンブルク選帝侯領であったが、飛び地の東プロイセンは名目上神聖ローマ帝国の範囲外であり、ここでなら皇帝の臣下である選帝侯フリードリヒ3世も王となることができたのである。1772年プロイセン王フリードリヒ2世(大王)はポーランド分割で西プロイセンを併呑し、ブランデンブルクと東プロイセンを地続きにし、飛び地を解消した。以後、プロイセン王国は北ドイツからドイツ各地に勢力を広げ始めた。1871年にはついにプロイセン王がドイツ皇帝に即位する。
ポーランドのオルシュティン(アレンシュタイン)
第二次世界大戦後にポーランド市民の手で修復された「ドイツ騎士団のアレンシュタイン城」
第二次世界大戦後にポーランド市民の手で修復された「ドイツ騎士団のアレンシュタイン城」
第一次世界大戦初期において侵攻してきたロシア軍に対しドイツ軍がタンネンベルクの戦いで勝利した。第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約により西プロイセンが再びポーランドへ割譲され(ポーランド回廊)、東プロイセンはまた飛地となる。1933年に政権をとったナチス・ドイツはポーランドにポーランド回廊の割譲を要求し、ポーランド側が拒否すれば軍事的手段に出ると述べた。この要求を呑めばバルト海への出口を断たれるポーランドはヒトラーの要求を拒否した。1939年、ナチス・ドイツは旧ドイツ帝国領の北辺の地、いったん国際管理となり隣国リトアニア領になっていたメーメル地域を東プロイセンに併合。同年、ポーランドがポーランド回廊の割譲要求に応じないことを名目に宣戦布告のないままポーランドに侵攻した。この際に東プロイセンはドイツ軍の出撃基地となった。ポーランド侵攻の結果、ドイツは西プロイセンを実効支配し、東プロイセンは再びドイツ本土と地続きになった。東プロイセンを含むすべてのナチス・ドイツ占領地域に住んでいたポーランド人住民(正確にはナチス・ドイツの法令で「ポーランド人」と認定された者)はポーランド総督府と名づけられた東部の狭い地域にすべて追放された。独ソ戦開始とともに東プロイセンのラステンブルク郊外に「総統大本営」(いわゆる「狼の砦」)が置かれ、ヒトラーは東部戦線に近いここから軍隊を指揮した。ベルリンへ向かうソ連赤軍が東プロイセン攻勢を行った1945年1月から4月の間に、迫り来る赤軍を恐れて東プロイセンの住民260万人(1939年時点)のうち200万人以上がドイツ西部に逃れ、残った人々も戦後シベリアに送られるか、オーデル・ナイセ線の西側に追放された(ドイツ人追放)。
カリーニングラード市
ケーニヒスベルク城を取り壊して建てられたビジネスセンター「ソヴィエトの家」
ケーニヒスベルク城を取り壊して建てられたビジネスセンター「ソヴィエトの家」
カリーニングラード大聖堂(ケーニヒスベルク大聖堂を最近再建したもの)
第二次世界大戦後、ケーニヒスベルク(カリーニングラードと改称)を含む北半分はソヴィエト連邦(カリーニングラード州)に、南半分はポーランド(ヴァルミア県とマズルィ県)に分割併合され、東プロイセンという地名は消滅した。旧東プロイセンの主要都市は第二次世界大戦でほとんどが激しく破壊されたが、その後の経緯はソ連側とポーランド側で大きく異なる。カリーニングラード州の諸都市はソ連の政策によりファシストや帝国主義者の遺物だとされ、ケーニヒスベルク城をはじめとして多くの歴史的建造物が撤去されてしまった。ポーランド側ではポーランドの政府と市民が協力し、戦後の時代を通じて歴史的建造物や街並みを次々と調査して再建し、その多くが中世の姿を取り戻した。現在カリーニングラード州はロシア共和国の州、ポーランドのヴァルミア県とマズルィ県は自治体合併によりヴァルミア=マズルィ県となっている。カリーニングラード州は1990年代終わりごろからロシア共和国随一の産業地帯として繁栄している。近年は、ケーニヒスベルク大聖堂などといった一部の歴史的建造物の再建が少しずつ行われている。ポーランドのヴァルミァ=マズルィ県は自然と古い街並みが調和する風光明媚なリゾート地の多い地方として内外の観光客が多数訪れ、ドイツ人もやってきてはバカンスを楽しんでいる。初夏から夏にかけてはグルンヴァルトの古戦場跡(グルンヴァルトの戦い)やマルボルク城で壮大な歴史祭りが開催され、ポーランドやドイツをはじめとしたヨーロッパ各地から集まったたくさんの人々が騎士や歩兵に扮して昔の戦いを再現する。
ヴィルヘルム・グストロフ(Wilhelm Gustloff)はドイツのナチス党が工場労働者・農民・会社員等の一般勤労者に安価な海外旅行を提供するために建造した客船である。1945年1月30日にゴーテンハーフェン(現ポーランドのグディニャ)の港から東プロイセンの避難民や傷病兵を乗せて出航した後にソ連海軍の潜水艦に撃沈され、海事史上最大の犠牲者を出した。
建造と変遷[編集]
同船は当時ドイツの政権を担っていたナチス党のロベルト・ライの率いるドイツ労働戦線(DAF)の下部組織である歓喜力行団(KDF)の客船としてハンブルクのブローム・ウント・フォス造船会社において総工費2,500万ライヒスマルクをかけて建造された。新造時の総トン数は25,484トン。歓喜力行団の所有する13隻のうちの一隻で、地中海クルーズやノルウェーのフィヨルド・クルーズを提供した。
船名は、1936年2月4日にユダヤ系クロアチア人の医学生ダヴィッド・フランクフルターに射殺されたスイスにおけるナチス党の指導者ヴィルヘルム・グストロフ に由来する。本来、「アドルフ・ヒトラー」と命名することが予定されていたが、ヒトラーの希望によりヴィルヘルム・グストロフに変更された。これは、ユダヤ人に殺害された最初のナチス党員の名を利用したプロパガンダであった。
兵営としての繋留時から沈没までの塗装を再現したヴィルヘルム・グストロフの模型
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1939年9月22日-1940年11月: 病院船"D"(Lazarettschiff
D)として就役し、ポーランド及びノルウェーからドイツへの傷病兵輸送に従事
沈没[編集]
1945年1月21日、ソ連軍の猛攻(東プロイセン攻勢)にさらされる傷病兵や民間人200万人を、客船や貨物船、軍艦などあらゆる種類の船を動員してドイツ西部へ海路脱出させる為の海上避難輸送計画「ハンニバル作戦(en)」が発動された。ヴィルヘルム・グストロフも同作戦に投入される事となり、1月30日午後にゴーテンハーフェンを出港した。
公式記録では、乗組員173名、第2潜水艦訓練部隊の海軍軍人918名、海軍女性補助員(de)373名、傷病兵162名、難民4,424名の計6,050名が乗船していたとされているが、元乗組員のハインツ・シェーン (Heinz
Schön) が戦後調査したところに拠ると、当時乗客は10,582名、うち8,956名が難民で、殆どが女性・子どもであったと判明している。船は2,000名弱の乗客を想定して建造されていたが、レクリエーションのための共用空間の多い豪華クルーズ船だったため、そこに多くの乗客たちを押し込めることができた。ただし装備されていた救命用具は1万名を越える乗客の半数分に満たない数であった。
ヴィルヘルム・グストロフは同様に難民を満載した客船ハンザと共に、潜水艦訓練部隊が使用していた訓練魚雷回収艇、TF-1とレーヴェ(元ノルウェー海軍水雷艇)の2隻を護衛として航海する予定であった。しかし、ハンザは機関故障によりダンツィヒ湾(現グダニスク湾)で航海を断念、TF-1も船体溶接部の亀裂が発見されてゴーテンハーフェンに帰投した為、ヴィルヘルム・グストロフはレーヴェただ1隻のみを伴って航海を続ける事となった。船は民間人3人、軍人1人の4人の船長有資格者を乗せていたが、彼らはソ連軍の潜水艦攻撃から身を守る航路について合意できなかった。その中の一人で海軍乗船者の代表であるヴィルヘルム・ツァーン(Wilhelm
Zahn)少佐は潜水艦が行動しづらい海岸近くの浅い海を無灯火で進むよう進言したが、最年長(67歳)のフリードリッヒ・ペーターゼン(Friedrich
Petersen)船長は大量の乗船者による過積載で船の喫水が深くなっている点を憂慮していた。最終的には、悪天候により視界が殆どきかない点に期待して水深の深い航路をとる事となったが、18時頃に海軍からヴィルヘルム・グストロフと反航する掃海艇部隊の存在について通信連絡を受けたペーターゼンはそれら艦艇との衝突を恐れ、ツァーンの反対にも拘らず船に赤色と緑色の航海灯を点灯をさせた為、暗闇の中で敵からも視認されやすい状態となってしまった。ちなみに現在では、当時その海域に掃海艇船団は存在せず、通信内容が何らかの原因による誤りであった事が判明している。
ヴィルヘルム・グストロフは21時頃、ポンメルン地方沿岸の 30km 沖合、グロッセンドルフ(Grossendorf、現ポーランドのヴワディスワヴォヴォ
Władysławowo)とレバ(Leba、現ポーランドのウェバ Łeba)の中間地点でソ連潜水艦S-13に発見された。レーヴェに装備されていた探針儀は厳寒により作動状態になく、ドイツ側はS-13を探知できなかった。約15分後、約700m離れたS-13から放たれた4本の魚雷の内3本がヴィルヘルム・グストロフの左舷に命中した。船内にパニックが起こり、多くの難民が救命ボートや救命胴衣に殺到した。救命用具のいくつかは混乱の中で失われた。無線機は使用不能となり、ツァーンは発光信号でレーヴェに救援を求めた。
魚雷攻撃から約1時間後の22時15分頃、ヴィルヘルム・グストロフは沈没し、多くの人々が凍る海に投げ出された。この時期のバルト海の水温は通常摂氏 4℃だが、この日はとりわけ寒さの厳しい日で、気温はマイナス10℃からマイナス16℃にまで下がり、海上には氷が漂っていた。レーヴェが472名を救出し、沈没直後に駆けつけた水雷艇T-36は564名を救出した。更に掃海艇M-341が37名、魚雷練習艇TS-IIが98名、貨物船ゲッティンゲンが28名を救出した。翌31日朝、難民輸送中の貨物船ゴーテンラントが9名を海から救い上げ、訓練魚雷回収艇TF-19が7名、監視艇VP-1703が乳児1名を救出した。沈没での生存者は1,216名(ドイツ語版では1,252名)、犠牲者は9,343名(ほとんどが一般市民で、半分以上が子供)とされているが、これは乗組員の生存者、ハインツ・シェーンの調査結果で、もっとも信頼できるものと評価されている。しかし、もともと何人乗っていたかが不明なため、実際の死者の数もはっきりとはわかっていない。
ある証言者によれば、一発目の魚雷攻撃の1分後、船の通路は乗客の悲鳴や興奮で一杯となった。船内のスイミングプールだった場所に乗っていた別の生存者は、両手首を切った女性を見た。ほかの人々は甲板や階段で押し潰され、たくさんの人が暗く凍ったバルト海に飛び込んだ。さらに別の目撃談によれば、子供たちは大人にしがみつき、女性は乳児を守ろうとしていたが、次々に押し寄せる波が彼らをばらばらに飲み込み、多くの人はそのまま姿が見えなくなった。また、大人用の救命胴衣を着用した小さな子供達は脚が浮き上がって頭が水面下に沈み、溺れてしまったという。
ヴィルヘルム・グストロフが投入された避難民輸送では、2月10日に客船シュトイベン、4月16日に客船ゴヤもそれぞれソ連潜水艦の雷撃を受けて沈没し、難民などに大勢の犠牲者(シュトイベンでは4,500名、ゴヤでは6,666名)を出している。1945年4月はじめまでに、ドイツ海軍は東プロイセンからドイツ西部への250万人の軍民を避難させることに成功したが、その過程で33,000人の難民や軍人が亡くなった。
ヴィルヘルム・グストロフはポンメルン地方(現ポーランド領ポモージェ)の沖30km、北緯55度07分、東経17度41分の深さ45mの海底に眠っている。
論争[編集]
第二次大戦中、避難民を乗せた船舶多数が連合国側・枢軸国側によって沈められた。ヴィルヘルム・グストロフはその中でも犠牲者数が最大のものであった。これが戦争犯罪に当たるかについては今もなお議論がある。難民船であるグストロフ号を沈めたのはあきらかに犯罪という意見がある一方、この船は軍の施設として利用され、海軍の潜水艦要員も乗せていたので軍の船舶であり、攻撃対象としては犯罪にならないという見方もある。
ソ連海軍の潜水艦S-13の艦長だったアレクサンドル・マリネスコ(Alexander
Marinesko)はヴィルヘルム・グストロフ撃沈の後、同じく避難民や傷病兵を輸送する客船シュトイベンも沈め、ソ連潜水艦長としては沈めた船のトン数が最大という戦果を挙げた。しかし撃沈規模による報告書を上官たちは信用することを拒み、さらに彼の沈めた船が正しい攻撃対象であったかについて論争があったため、「英雄としてふさわしくない」として、ソビエト連邦英雄の称号は与えられず、赤旗勲章だけが贈られた。彼は45年9月には潜水艦長を解任されその後予備役に回された。
大きな海難事故[編集]
船名
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ゴヤ
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ヴィルヘルム・グストロフ
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シュトイベン
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ティールベク
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呉淞
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遭難年
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1945
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1945
|
1945
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1945
|
1948
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1987
|
1912
|
1954
|
1915
|
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国名
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ドイツ
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ドイツ
|
ドイツ
|
ドイツ
|
ドイツ
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中国
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フィリピン
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イギリス
|
日本
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イギリス
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犠牲者数
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~6,000
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~9,343
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~4,500
|
~4,500
|
~2,800
|
~2,750
|
~2,000
|
~1,503
|
~1,430
|
~1,198
|
映画[編集]
·
『グストロフ号の悲劇』(ドイツ映画、フランク・ヴィスバー監督、1959年、原題:Nacht
fiel über Gotenhafen。株式会社ケンメディアからDVD発売)
来歴・人物[編集]
ギュンター・グラスはダンツィヒ(現ポーランド領グダニスク)で生まれた。父はドイツ人の食料品店主、母は西スラヴ系少数民族のカシューブ人。当時、ヴェルサイユ条約によりドイツから切り離され、国際連盟の保護下に形式上独立国だったダンツィヒ自由市で、ドイツとポーランドをはじめとする様々な民族の間で育ったことが、その後のグラスの作品に大きく影響することになった。
15歳で労働奉仕団・空軍補助兵を務め、17歳で武装親衛隊に入隊した後、敗戦を迎え、米軍捕虜収容所で半年間の捕虜生活を送る。その後、デュッセルドルフで彫刻家・石工として生計をたてながら美術学校に通い、詩や戯曲なども書く。1958年には朗読による作家・批評家同士の作品発表の場「47年グループ」で才能を認められ、1959年発表の長編小説『ブリキの太鼓』で一躍有名作家となった。
作家・評論家とも活発な交友を持ち、グラスを高く評価した著名人にウーヴェ・ヨーンゾンやマルセル・ライヒ=ラニツキ、ハンス・ヨアヒム・シェートリヒなどがいる。政治家とも交流が深く、のちのブラント政権で大蔵大臣、経済大臣を兼務したカール・シラーが西ベルリン市経済大臣を務めていた当時(1966年)に、「税金を追加請求されてしまったのだが、西ドイツの記者のインタビューに答えるのは市のためでもあるので、これを労働時間と見なして3年前に遡り、3万マルクを基礎控除してほしい」という私的な請願書を贈ったこともある(朝日新聞社「論座」2007年1月号」)。
その作風は非現実的な奇怪さと、詳細なデータに裏付けられた現実性の両方が同居する特異なもので、作品の発表ごとに物議をかもしている。その一方で、ドイツ社会民主党の応援など積極的な政治活動でも知られている。1990年のドイツ再統一の時には、「ドイツは文化共同体としてのみ統一をもつべきだ」、と政治的統一には徹頭徹尾反対を唱えたことが大きな議論を呼んだ。1999年にはノーベル文学賞を受賞した。また2002年に起こったアメリカのアフガニスタン侵攻を「文明にふさわしくない」と述べ、武力をもって武力を制するやり方を批判した。
武装親衛隊所属の告白[編集]
78歳を迎えた2006年8月、自伝的作品『玉ねぎの皮をむきながら』において、第二次世界大戦の敗色の濃い1944年11月、満17歳でもって志願の許される武装親衛隊(陸軍・海軍・空軍は義務兵役年齢に達していないと入隊できない)[1]に入隊、基礎訓練の終了を待って1945年2月にドイツ国境に迫るソ連軍を迎撃する第10SS装甲師団に配属され、同年4月20日に負傷するまで戦車の砲手として務めた過去を数ページに渉り記述した。同月11日付け日刊紙フランクフルター・アルゲマイネのインタビューで、この記述が事実と言明[2]。この言明はドイツ国内に大きな波紋を呼び、国際的に広く報道された[3]。大手ニュース週刊誌デア・シュピーゲルも同15日付で、米軍文書からその事実を確認[4]したと報道している。
自伝は注文が殺到したため、公刊予定を前倒しし同16日、ドイツ、オーストリア、スイスで出版され[5]たが、ポーランドの元大統領レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)[6]や与党法と正義が名誉市民の称号返上を求め[7]、グラスの出生地グダニスク市から説明要請を受けている[8]。またドイツのグラビア週刊誌シュテルン (雑誌)は表紙にグラスの顔写真と親衛隊兵士のイラストを並べ「モラリストの失墜」と見出しを掲載。大衆紙ビルトは「ノーベル賞を返還すべきだ」と主張するなどマスコミから強い批判を浴びた。
報道によれば、文壇、歴史学者や政界で賛否両論が飛び交ったとされているが、ドイツ国内に於けるテレビ世論調査によれば七割近くはグラスへの信頼を表明[9]、主に批判側に回ったのは、グラスが一貫して支持し続けた社会民主党と対立するキリスト教民主同盟であったとする指摘[10]も多く、ニュース専門テレビ n-tv の世論調査によれば、ノーベル賞の自主返還すべきだとする意見も三割にとどまっている。
問題の火種となった自伝は8月下旬からベストセラーとなり出版部数は20万部を突破し、ポーランドでは批判が収束しているが[13]、グラスは、一連の抗議を懸念して12月に予定されていた「国家間の和解に貢献した人物」に与えられる「国際懸け橋賞」の受賞を辞退している[14]。取り沙汰された名誉市民の称号も、グダニスク市議会は剥奪の決議案を取り下げた。
脚注[編集]
2.
^ FAZ.net: Günter Grass enthüllt: Ich war Mitglied der
Waffen-SS (11 Aug 2006) [1]
FAZ.net: Günter Grass im Interview: Warum ich nach sechzig Jahren mein Schweigen breche (11 Aug 2006) [2]
FAZ.net: Günter Grass im Interview: Warum ich nach sechzig Jahren mein Schweigen breche (11 Aug 2006) [2]
3.
^ 『朝日新聞』2006年8月12日付「ノーベル賞作家グラス氏『ナチ武装親衛隊にいた』と告白」[3]
『読売新聞』同年8月12日付「ナチス親衛隊所属を告白 ノーベル賞作家のグラス氏」
『産経新聞』同8月13日「『ナチス親衛隊だった』 独ノーベル賞作家が告白」[4]
『日本経済新聞』同8月12日付「ナチス親衛隊所属を告白、ノーベル賞作家のグラス氏」(共同通信社配信)[5]
『東京新聞』同8月14日付「G・グラス氏『親衛隊告白』」
BBC News: Guenter Grass served in Waffen SS (11 Aug 2006) [6]
――など各紙が報道
『読売新聞』同年8月12日付「ナチス親衛隊所属を告白 ノーベル賞作家のグラス氏」
『産経新聞』同8月13日「『ナチス親衛隊だった』 独ノーベル賞作家が告白」[4]
『日本経済新聞』同8月12日付「ナチス親衛隊所属を告白、ノーベル賞作家のグラス氏」(共同通信社配信)[5]
『東京新聞』同8月14日付「G・グラス氏『親衛隊告白』」
BBC News: Guenter Grass served in Waffen SS (11 Aug 2006) [6]
――など各紙が報道
4.
^ SPIEGEL exklusiv: Grass räumte als Kriegsgefangener
Waffen-SS-Mitgliedschaft ein [7](2006年8月15日)
8.
^ CNN.co.jp: 「ナチ親衛隊の過去告白のグラス氏、グダニスク市に説明」[9](同8月24日)
BBC News: Grass admits confession 'mistake' (23 Aug 2006) [10]
BBC News: Grass admits confession 'mistake' (23 Aug 2006) [10]
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