諏訪根自子 美貌のヴァイオリニスト 萩谷由喜子 2013.7.27.
2013.7.27. 諏訪根自子 美貌のヴァイオリニスト その劇的生涯(1920-2012)
著者 萩谷由喜子 東京生まれ。音楽評論家。幼時からピアノと邦楽、日本舞踊を学び、立教大卒後カルチャー教室講師(筝曲)を経て音楽教室主宰。各地で多彩なテーマによるクラシック音楽講座を開講中。専門研究分野は女性音楽史、日本のクラシック音楽受容史。ミュージックペンクラブ・ジャパン会員。日本三曲協会会員。山田流協会会員
発行日 2013.3.6. 第1刷発行 2013.5.20. 第3刷発行
発行所 アルファベータ
プロローグ 根自子発見
戦前戦後を通じて音楽評論一筋を歩んだ楽壇の大御所野村光一(1895~1988)が、昭和の初めに見知らぬ人から自宅近くに素晴らしいヴァイオリンを弾く人がいるので聴いてみてくれと懇請され、諏訪根自子のすごいテクニックに感動してモギレフスキー(1885~1953)を紹介
モギレフスキーは、オデッサ生まれのユダヤ系ロシアのヴァイオリニストで、故国ではツアー・ニコライ・シンフォニー・オーケストラという皇帝直属のソロイスト兼名誉コンサートマスターで、皇帝からストラディヴァリウスを下賜されたほどの大家だったが、ロシア革命を逃れて1926年来日、27年から日本に定住。名門貴族の夫人で伴奏者だった女性との恋の逃避行でもあった
野村の記憶によれば、根自子の父は大金持ちの息子だったが東大在学中に共産党にかぶれて勘当されたが、娘にだけは芸術に親しませようと、小野アンナに頼んでヴァイオリンを習わせたという
1945年暮れに帰国、翌年日本で演奏活動を再開。「リサイタルを開いて欲しい演奏家」のアンケートで総数124票のうち18票を獲得、安川加寿子(13票)、原智恵子(12票)を抑えてトップ
第1章
天才少女
根自子の父親は鶴岡の出身。東洋大学で哲学を学び、大正モダニズムの洗礼を受けて白樺派の文学者たちとも親交を結ぶ。
カトリック教会に通ううちに、同郷の10歳下の声楽を志す女性と知り合い結婚、媒酌はクリスチャンの社会運動家、木下尚江(1869~1937)
結婚直後に実家の肥料問屋が倒産、広尾3丁目の新居でサラリーマン生活を始める。その間に父はビクターの赤盤で洋楽の演奏を蒐集。娘誕生後もレコードを聴きこんだおかげで根自子も音楽に合わせてリズムを取る
たまたま隣家の小学生が小野アンナにヴァイオリンを習っていることを知り頼み込む
小野アンナ(1890~1979)こそ、日本のヴァイオリン音楽史の大きな存在 ⇒ ペテルブルクに生まれ、音楽院でレオポルド・アウアー(1845~1930)の弟子となってヴァイオリンを学ぶ。興銀総裁小野英二郎の長男、俊一(1892~1958)が帝大動物学科を飛び出しドイツに留学の途上、第1次大戦の勃発でペテルブルクに足止めされ、そのまま同地の大学に留学、たまたま友人に誘われてアンナのコンサートに行く。1917年ロシア革命勃発で退避勧告が出たが、俊一は無視して勉学を続け、アンナと一緒になってから漸くモスクワに避難。俊一の弟英輔はピアニストから横浜正金に転身したがその長女がジョン・レノン夫人となった前衛芸術家のオノ・ヨーコ
1924年 4歳の根自子は小野アンナに入門 ⇒ 大正10年代はジンバリスト、ハイフェッツ、クライスラー等巨匠ヴァイオリニスト来日のラッシュ
小野アンナに手ほどきをしてもらった後で、モギレフスキーにもついたが、ペテルブルクのアウアー仕込のアンナと、モスクワ音楽院で学んだモギレフスキーとでは大分奏法が違ったようで、根自己自身もあまりいい生徒ではなかったと振り返っている
1930年 エフエム・ジンバリスト(1889~1985、アウアー門下生)が4度目の来日 ⇒ 同門で親しかったアンナが根自子をジンバリストに紹介、ヨーロッパ行きを勧められる。その模様が翌年の朝日新聞に「天才少女現る」という見出しで掲載
女性の洋楽演奏者は幸田延、幸姉妹や久野久子、遠山甲子(きね)等いたがいずれも10代後半以上で、「少女」とは言えず、26年に井上園子(1915~86)が天才ピアニストとして紹介されたのが初。井上は、井上眼科の第7代院長の長女で、亡命の白系ロシア人カテリーナ・トドロヴィッチに師事
この時期、他に2人の若い才能が芽を出しているが、いずれも自身でフランスに渡って才能を育んだ ⇒ 原智恵子(1914~2001、28年単身渡仏)と草間(安川)加寿子(1922~96、23年渡仏)
官立万能主義に対抗して「上野の音楽学校出」に代わるタイトルを与えてはどうか、という音楽評論家増沢健美の提唱を受けて、1932年時事新報社主催の音楽コンクールが発足 ⇒ 第1回はピアノ、ヴァイオリン部門とも外国人に師事した甲斐美和子(1914~)と鷲見四郎(1913~2003、兄・三郎が「日本のヴァイオリン教育の父」)が受賞、5年後の第6回でもピアノの藤田晴子(1918~2001)、ヴァイオリンの巌本真理(1926~79)が第1位となり、ともに外国人音楽家の弟子。特に巌本は11歳で大きな話題をさらう
このコンクールが毎日新聞主催の毎日音楽コンクールを経て、現在の日本音楽コンクールへと継承されている
1932.4.9. デビュー・コンサート ⇒ 日本青年館に2千の聴衆を集め、モギレフスキー夫人の伴奏で、タルティーニのソナタト短調、ヴュータンの協奏曲第4番、ヴィヴァルディの協奏曲イ短調(モギレフスキーとのデュオ)、4つの小品と言う構成のプログラム
この会場にいたフランス人ヴァイオリニストのルネ・シュメー(「女クライスラー」とも呼ばれ、宮城道雄の《春の海》をヴァイオリン用に編曲して紹介し世に出した大恩人)
1933年 アンナの1人息子でヴァイオリンの天才でもあった俊太郎(根自子の1つ上)が急性虫垂炎で急逝 ⇒ 2年後俊一と協議離婚するが、生涯俊一の後妻家族と一緒に暮らした
1933年 根自子の関西デビュー ⇒ 7歳の辻久子(1926~)が聴き、根自子を目標に奮闘した結果、5年後の第7回音楽コンクールで第1位文部大臣賞を手中にする
同年、山田耕筰指揮の新響との共演でブルッフの協奏曲を弾き人気演奏家の仲間入りを果たす ⇒ 直後に母親が4人の子どもを連れて家出、別居状態が続く
ベルギー公使のバッソンピエールや鈴木鎮一(鈴木メソッドの創始者)がバックアップして、家庭の内紛から早く引き離すためにもヨーロッパに送り出そうと動く
近衛秀麿の取り持ちで、録音も進むが、留学中の家族に印税が渡るという約束だったにもかかわらず、戦後になって母のもとには一銭も入っていなかったことが判明 ⇒ 近衛が実質的なオーナーだった新響が内紛とともに経済的苦境に陥り、近衛が流用・着服した可能性が高く、うやむやになってしまった
1936年 徳川義親侯爵の支援により、日本とベルギーの交換留学生(期間2年)の形で渡欧
後日談: 根自子という鎹で繋がっていたモギレフスキー夫妻は、根自子の渡欧後隙間風が吹き、夫人に若い恋人が出来て上海に出奔され、モギレフスキーも索漠とした自暴自棄めいたものとなり、新響指揮者のローゼンストックと曲の解釈を巡って有名な衝突事件を起こす
36.1.21.渡欧送別独奏会でモーツァルトの協奏曲7番ニ長調を弾いたとあるが、現在ではモーツァルトの真作でないことがほぼ定説化して演奏機会が激減しているものがモギレフスキーのレパートリーに入っているのも面白い
第2章
ブリュッセルに2年、パリに6年
ブリュッセルでは、宮廷ヴァイオリニスト、エミール・ショーモン(1878~1942)に師事 ⇒ リエージュ音楽院卒。5年前に没していたベルギーを代表する大ヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイ(1858~1931)と同門。イザイについてヴァイオリンを学んだベルギーのエリザベート皇太后も若い有望なヴァイオリニストの演奏を聴くのをこよない楽しみとしており、やがて根自子もその前で弾くことになり、忽ちのうちにベルギー社交界の寵児となる
すぐに直されたのが左手の親指の位置。根自子は〈マムシ〉と言われる、付け根の関節がへこんで谷折りになっているため、親指を深くして立てて演奏していたのを浅く構えるよう直された
当時のベルギー大使は来栖三郎(1886~1954) ⇒ アメリカ人の妻との間にいた2人の娘を同行、根自子の親しい友人となる
1937年 第1回ウジェーヌ・イザイ・コンクールを見学 ⇒ エリザベート皇太后が師のために自ら主宰。第1回は優勝したオイストラフ以下上位6人がロシア勢。3位のエリザベス・ギレリスはピアニスト、エミールの妹で後のレオニード・コーガンの妻。オイストラフは年齢制限ギリギリの満29歳、優勝の後はソヴィエト政権によって宣伝材料として酷使され、オランダ演奏旅行中に66歳で過労死
ヴァイオリン部門は4年に一度、戦後再開された時にピアノ・作曲など部門が拡張され国家行事に格上げされ、名称もエリザベート王妃国際コンクールとなる
1938年 パリの原智恵子から誘いがあり、たまたま民間外交の一翼を担ってヨーロッパに来ていた大倉喜七郎男爵がローマで主催した日伊交換晩餐会に根自子とソプラノの太田(旧姓荻野)綾子(1898~1944)を招聘、イタリア各地を一緒に歴訪する間に、大倉が根自子のパリでの生活の支援を約束
パリでは原の紹介で、ウクライナ生まれの神童だった元ワルシャワ放送管弦楽団のコンサートマスターで革命とともにパリに逃れていたボリス・カメンスキー(1870~1949)に師事
1939年夏 サル(ホール)・ショパンでのデビュー・リサイタル ⇒ プログラムは、ブルッフの協奏曲第1番、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティ―タ第2番の終楽章《シャコンヌ》、ショーソンの《詩曲》ファリアの《ホタ》他の小品
第3章
戦雲の下で
第2次大戦の勃発で、在留邦人には帰国が推奨され、ほとんどが引き上げを決意するが、根自子はそのまま南方へ避難、暫く動きがないためパリに戻る。パリ陥落を前に残った邦人は63名。根自子もカメンスキーの庇護のもとに残留を決意
1940年 マルセイユのオペラ座で公演、絶賛を博す
ついで、パリでジャン・フルネ(1913~2008)指揮のコンセール・ラムルーの演奏会への出演依頼があり、チャイコフスキーの協奏曲を弾き、聴衆の中にいたジャック・ティボーに固く抱きしめられた
ベルリン市長が企画したドイツ勢力圏の音楽家を集めた音楽祭に、近衛秀麿を通じて招聘がある。ドイツ軍にいい感情を持っていなかったので、「良い楽器を持っておりませんので」と言って断っていたが、断りきれなくなって42年末にベルリンの社交界の花形になっていた歌手兼女優の田中路子(1913~88)の屋敷で世話になる
音楽祭が開かれないうちに、根自子の独奏会が実現 ⇒ 路子の声楽の師と、大島浩・豊子の駐ドイツ特命全権大使夫妻の仲介
田中邸から大使公邸に移る ⇒ 大使がドイツ赤十字による慰問コンサートを通じて積極的に根自子の演奏機会を作り、43.2.22.慰問演奏への協力を謝してゲッペルスから1722年製ストラディヴァリウスが贈呈される ⇒ 真贋は不明だが、現在も日本にある
日本人で最初にストラディヴァリウスを持ったのは、1929年ベルリンに留学していた当時20歳のヴァイオリニスト貴志康一(1909~37)で、1716年製のアントニオ・ストラディヴァリウス『キング・ジョージIII世』をベルリンで購入(6万円+保険料5千円、1000円で家が建った時代)して日本に持ち帰る ⇒ 1933年頃手放され、現在はスイスのハビスロィティンガー・ストラディヴァリウス財団のコレクションとなって若いヴァイオリニストに期間限定で貸与されている
その直後、ベルリンに初の大空襲
在ベルリン大使館の若手官補の大賀小四郎(1910~91)は大のヴァイオリン音楽ファンで、パリに根自子を訪ねたこともあったが、ベルリンでの根自子の演奏会の世話を焼くうちにお互い心を通わせるようになるなか、根自子が贈呈されたストラディヴァリウスでベルリン・フィルとの共演の希望を洩らす
一旦パリに戻ったところへ、ベルリン・フィルとの共演の話が舞い込み、43.10.19/20.の両日、クナッパーツブッシュ指揮でブラームスの協奏曲を協演
その演奏会にスイス大使館から参加した与謝野秀(しげる、鉄幹・晶子夫妻の次男で、馨の父)参事官の尽力で、44.11.スイス各地での演奏会が実現
ベルリンでの演奏会の成功をきっかけに、ハンス・ワイスバッハ指揮のウィーン・フィルとの協演も実現するが、こちらは手放しの賛辞というわけにはいかず、ゲッペルスから贈られた楽器に対して嫌悪の反応も見られたという
44.6.6.連合軍のノルマンディ上陸とともに、在仏日本人はパリを去らなければならなくなりベルリンへ落ち延びる
更に大使館員と一緒にバード・ガスタインまで避難して終戦を迎え、一時アメリカ軍に拘束され、ル・アーブルから近衛秀麿とも一緒に船でニューヨークに移送、アパラチア山系の鉱泉地ベッドフォードで185名の同胞と共に3か月の抑留生活ののち、11月シアトルを出港して日本に戻る
第4章
花形ソリスト
母や弟妹と無事再会を果たす
体力が回復してコンサートを開催しようと、在日外国人ピアニストに伴奏をお願いしたところ、「ナチスから贈られた楽器の伴奏は出来ない」と拒絶
根自子は独自で調査し、ゲッペルスがシレジア地方の楽器商から購入したという入手経路を確認したという
46.1.3. 帝国劇場で帰朝第1回記念演奏会開催。伴奏はユダヤ系ドイツ人指揮者のマンフレッド・グルリット(1890~1971、39年から日本定住)。東宝と朝日の共催。プログラムはタルティーニのソナタ《悪魔のトリル》、ヴィエニャフスキの協奏曲第2番、クライスラーの小品とラヴェルの《ハバネラ形式の小品》、サラサーテの《サパティアード》
続いて各地で演奏会を開催、いずれも満員札止め
クラシック音楽に力を入れた東宝の専属。新設の東宝交響楽団の定期にも5回目から登場
ギャラは1回につき1万円 ⇔ 芸大の非常勤講師の月額手当が300円
ピアノ伴奏は井口基成が多かったが、50年頃から若い田村宏(1923~2011)が加わる ⇒ 後に芸大教授として小山実稚恵、田部京子らを育て、室内楽シリーズの主宰によってこの分野に金字塔を打ち立てる
東宝のクラシック事業は、労働争議と高額の入場税(100~150%)の煽りでわずか5年で終焉
51年秋 ハリウッドボウルに招かれ渡米。レス・ブラウン指揮のロスアンゼルス・フィルとメンデルスゾーンの協奏曲を共演
53年 ジャック・ティボーが17年ぶり3回目の来日に当たり、根自子宛に手紙が来たが、一行を乗せた飛行機は離陸後まもなく悪天候のためアルプスに激突
昭和20年代後半から根自子のマネージャーとなったのは吉田音楽事務所。藤原義江、大谷洌子、平岡養一らを抱える。伴奏は田中園子に三石精一(その後指揮者としてデビュー)が加わる
世間が根自子のライバル視したのが6歳下の巌本真理 ⇒ 技術では根自子が一歩上を行くが、豊かな表情と激しい情熱では巌本が勝る。真理は、アメリカ大使館勤務の日本人父とアメリカ人母の間に生まれ、幼少時のいじめへの対策として小学校を4年で退学しヴァイオリンの道に進む。戦時下でもNHKラジオの専属演奏家として全国への慰問演奏会に駆り出される
小野アンナの門下からは2人のほかにも、前橋汀子、安芸晶子、潮田益子、今井信子らが出る。1960年元夫の俊一の死もあって帰国するが、根自子もこの翌年辺りを境に長い休眠期間に入る
第5章
近道なき道
1966年 モギレフスキーの追悼文集に根自子も性分を寄稿 ⇒ 「芸術には近道はない」
1968年 大賀小四郎(外交官から東大教養学部教授に転身)と結婚 ⇒ 講談社野間省一夫妻が媒酌。この頃芸大教授の声がかかるが、一介の演奏家に過ぎないと拒否。巌本真理が20歳でいきなり芸大教授になって芳しからざる結果に終わったことも影響
1969年 田中路子から、交流のあった作家の角田房子宛てに、日本人留学生のために根自子が弾かなくなったストラディヴァリウスを貸してもらえるよう頼んでほしいとの手紙が来る
同年 大賀がケルンに開館する日本文化会館初代館長として根自子とともに赴任。彼を推薦したがベルリン大使館時代の同僚で駐西ドイツ大使の内田藤雄(1909~92、大島を弁護するため弁護士資格を取って無期懲役に導くのに一役買う、長女が内田光子)
第6章
バッハ、無伴奏ソナタとパルティ―タ
1972年帰国 大賀は独協大学教授に
1976年 三越名人会への出演依頼に応じ、田中園子と出演し、バッハ、クライスラー、ドヴォルザーク、シューマン、サラサーテを弾く
義弟で講談社に勤務する信木三郎が、講談社参加のキングレコードで、自費でも歴史的演奏家の演奏記録を残すべきと根自子を説得、バッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティ―タ》バッハが、ヴァイオリン一挺で複数の声部を同時進行させ、和声までも実現することを狙いとして書き上げた古今のヴァイオリン音楽の金字塔(奇数番号がソナタ、偶数番号が舞曲の組曲であるパルティ―タとする6曲からなる)であり、日本には1919年に小野アンナが紹介 ⇒ 1978年秋からキングレコードのスタジオで録音開始。80年4月ほとんど無編集で完成。81.11.3枚組LP発売(キングレコードが発売を懇請)
1979年 大阪女子大同窓会の求めに応じて神戸でコンサート
1980年 京都でのチャーチル会(アマチュア画家の全国組織)全国大会に出演
1981年 神戸市の招聘でピアニスト伊藤ルミとのデュオ・コンサート
1983年 田中園子夫妻の求めに応じて、「ブラームス、ソナタの夕べ」で共演
同年 音楽の友社の依頼で、同社が神楽坂に新しくオープンさせたホールでも演奏
1984年 その演奏を聴いた茅ヶ崎楽友協会の主宰者の要請でも演奏 ⇒ 大島夫人と再会
同年 「ピアノ・トリオ名曲の夕べ」では田中園子のほかに青木十良とも共演 ⇒ シューベルトの変ロ長調作品99、ブラームスのロ長調作品8、メンデルスゾーンのニ短調作品49がプログラムを飾る。「200歳トリオ」と言われたが、唯一の機会となった
1984.10.2. 町田市民ホールでのリサイタルが最後のコンサートに
1985.7.~86.5. 最後の足取りとなったのが、茅ケ崎で演奏した《スプリング・ソナタ》と音楽の友と町田で演奏した《クロイツェル・ソナタ》の録音 ⇒ CDリリースは94年
1985.10. 深田祐介著『美貌なれ昭和――諏訪根自子と神風号の男たち』の刊行とテレビドラマ化 ⇒ 根自子がブリュッセル滞在中の1937年、東京―パリ100時間飛行記録を樹立した神風号の2人の英雄と、ブリュッセル空港で花束を渡した根自子との一瞬の人生の交錯を、昭和という時代の1つのハイライトとして描いたもの。ドラマのサウンドトラック盤LPレコードには根自子の演奏が収録されている
エピローグ
1991年 夫逝去
2012年 根自子死去
諏訪根自子のストラディヴァリウス――あとがきにかえて (本書は根自子死去の前に脱稿していたが、発刊が遅れている間に訃報に接し、しかもその発端となった外紙の報道から、あえて付け加えられたもの)
根自子の訃報の発端となったのが12.9.21.付けNew York Timesに掲載された”Nejiko Suwa and
Joseph Goebbels’s Gift~A Violin Once Owned by Goebbels Keeps Its Secrets”なる記事(ヴァイオリン研究家カーラ・シャプロウによる寄稿) ⇒ 43年諏訪はゲッペルスからストラディヴァリウスを贈呈され、日本の新聞も1722年製として報道したが、楽器の起源は謎のままで、ナチスによって略奪されたか、強制的な方法で入手された多数の楽器の1つである可能性がある。1946年にはKibihiko Tanakaと言う日本の法律学者が、略奪楽器であれば元の持ち主に返すべきだという公開意見を新聞紙上に開示している。今年の3月に亡くなった諏訪は楽器について滅多に語ることはなく、ゲッペルスがシレジアの楽器商から合法的に購入したものとしてきた。ナチスによる明記、財宝略奪に関する探索研究は現在も続けられている。ヴァイオリンでは、例えば、オスカー・ボンディと言う著名なコレクターから没収されたAntonius Stradivarius Cremonensis Faciebat Anno 1722と言う楽器は今どこにあるのか? また彼のユダヤ人の養女から強奪された、かつてヨハン・シュトラウスII世のものであった2挺のヴァイオリンは今どこにあるのか?
本書の取材中に、根自子のヴァイオリンがアントニオの次男オモボノの作かもしれないという情報もあり、訃報の後根自子の妹で国立音大名誉教授の諏訪晶子に確かめたところ、あっさりと「あれは贋作。つい最近判明したが、姉はそれを知らずに、ストラディヴァリウスと信じたまま亡くなった。私には弾きにくい楽器だが、姉は、私だから弾きこなせる、と言って終生強い愛着を抱いていた。どんな楽器を弾こうとも、ヴァイオリニストには皆、その人の音というものがある。あの楽器で奏でられたのは諏訪根自子の音だった」と言われた。真相は闇の中
朝日 2013年05月28日
戦前の「天才少女」に再び脚光 諏訪根自子の評伝・CD
戦前、「天才少女」として名をはせ、昨年3月に92歳で死去したバイオリニスト諏訪根自子の評伝やCDが相次いで発売され、再び注目が集まっている。
1920年生まれの諏訪は、幼少時からバイオリンを習い、12歳でデビュー。「天才少女」として国民的な人気を博す。16歳でベルギーに留学し、戦禍に翻弄されつつも、パリやベルリンなど欧州各地で活躍した。
戦後に帰国し、日本のクラシック界を牽引したが、61年ごろに突如、表舞台から姿を消す。長い沈黙を経て、81年にバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全曲」のLPレコードを発表し、一線への復帰を果たした。
萩谷由喜子著『諏訪根自子 美貌のヴァイオリニスト その劇的生涯』(アルファベータ)は、沈黙期間の活動や復活劇の経緯など、謎に包まれた諏訪の人物像に迫る一冊だ。
「諏訪根自子の芸術」(日本コロムビア)は、33~35年の少女時代に録音された小品26曲を初CD化。「永遠なれ、諏訪根自子」(キング)は、復活後の85、86年の録音。サラサーテ「サパテアード」、モーツァルト「ロンド~ハフナー・セレナードより」の未発表音源2曲も収めている。(神庭亮介)
諏訪根自子 [著]萩谷由喜子
■ナチスから贈られた名器の謎
ショックだったのは、この人の死が半年もたってから報じられたことだった。それも外国の新聞が亡き人として取り上げていたため、確認して判明したのである。わが国では彼女は忘れられた「天才ヴァイオリニスト」だった。無理もない。若い音楽ファンでさえ、多く名前を知らない。独特の名は、根を養えば木は自(おの)ずから育つ、の意を込めて両親に命名されたという。
会社員の娘である。来日した大ヴァイオリニスト・ジンバリストにその才能を認められ、十歳の天才少女と一躍はやされる。十六歳でベルギーに留学、パリからベルリンへ。
ナチス政権下、宣伝相のゲッベルスから名器ストラディヴァリウスを贈られる。
戦後この一件が彼女を苦しめた。名器はナチスの略奪品と非難され、返還すべきとの声もあった。彼女は沈黙する。
本書は伝説の演奏家の初の評伝だが、根自子が大切に愛用した名器については、実妹が興味深い証言をしている。これも衝撃の意外さである。
◇
アルファベータ・2520円
ショックだったのは、この人の死が半年もたってから報じられたことだった。それも外国の新聞が亡き人として取り上げていたため、確認して判明したのである。わが国では彼女は忘れられた「天才ヴァイオリニスト」だった。無理もない。若い音楽ファンでさえ、多く名前を知らない。独特の名は、根を養えば木は自(おの)ずから育つ、の意を込めて両親に命名されたという。
会社員の娘である。来日した大ヴァイオリニスト・ジンバリストにその才能を認められ、十歳の天才少女と一躍はやされる。十六歳でベルギーに留学、パリからベルリンへ。
ナチス政権下、宣伝相のゲッベルスから名器ストラディヴァリウスを贈られる。
戦後この一件が彼女を苦しめた。名器はナチスの略奪品と非難され、返還すべきとの声もあった。彼女は沈黙する。
本書は伝説の演奏家の初の評伝だが、根自子が大切に愛用した名器については、実妹が興味深い証言をしている。これも衝撃の意外さである。
◇
アルファベータ・2520円
朝日 2013年06月09日11時28分
天才バイオリン少女・諏訪根自子、全盛期の音源見つかる
【田玉恵美】美貌の天才少女として一世を風靡したバイオリニスト、諏訪根自子(1920~2012)の全盛期の演奏を記録した音源が見つかった。少女時代や晩年の演奏は残っているが、国際的にも活躍した青年期の録音が見つかるのは初めて。
NHKのスタジオで東宝交響楽団(現・東京交響楽団)と共演したブラームスの「バイオリン協奏曲 ニ長調」が、同局のアーカイブスに残っているのを音楽評論家の片山杜秀さんが見つけた。NHKによると、1949年11月28日に放送したラジオ第2「放送音楽会」の録音だという。
12歳でデビューした諏訪は、かれんな容姿もあって国民的な人気を得た。36年に渡欧し、戦中にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演するなど各地で活躍。ナチスの高官ゲッベルスからバイオリンを贈られたことでも知られる。
NHKで演奏したのは帰国の4年後。くしくもベルリン・フィルで披露したのと同じ曲だった。61年ごろこつぜんと表舞台から姿を消した諏訪の演奏記録はただでさえ少ないだけに、音楽評論家の萩谷由喜子さんは「欧州で彼女がどんな演奏をして称賛を浴びたのかをしのばせる、意味のある音源だ」と話す。NHK―FM「クラシックの迷宮」で29日夜に放送される。
諏訪根自子さん死去 日本人初の国際的バイオリニスト
諏訪根自子さん=1936年撮影
諏訪根自子さん=1981年撮影
美貌の天才少女として一世を風靡し、日本人で初めて国際的に活躍したバイオリニスト、諏訪根自子さんが3月に死去していたことが24日、分かった。92歳だった。葬儀は近親者だけで行った。
3歳でバイオリンを始め、ロシアの名教育者、小野アンナらに師事。品格と情熱を併せ持つ演奏が巨匠ジンバリストに高く評価され、12歳でデビューする。かれんな容姿も相まって、日本中に「天才少女」ブームを巻き起こした。
1936年、16歳でベルギーに留学し、39年に欧州デビュー。開戦をきっかけにドイツに移り、クナッパーツブッシュ率いるベルリン・フィルとも共演する。日独友好のシンボルとなり、ナチス高官のゲッベルスから名器ストラディバリウスを贈られたというエピソードも。終戦後に帰国し、井口基成や安川加寿子らとともに日本の楽壇を率いたが、ここ数十年は表舞台から遠ざかっていた。
Wikipedia
諏訪 根自子(1920年(大正9年)1月23日 - 2012年3月6日[1])は、日本の女性ヴァイオリニスト。本名:大賀 根自子[2]。東京府出身。 可憐な容姿であったことから国民的な人気を得て「美貌の天才少女」と一世を風靡したほか、ヨーロッパに渡ってベルリン・フィルなど各地の交響楽団と共演を果たして国際的に活躍した[3]。
来歴[編集]
父親の諏訪順次郎は庄内地方の大きな肥料会社を経営する資産家・諏訪八右衛門の子供。母親の滝は酒田高等女学校時代に声楽家を志望するほど音楽に傾倒するが、両親の取り決めで順次郎に嫁ぐ。その直後、肥料会社が倒産し、夫婦は東京へ出て、そこで根自子が生まれる。
順次郎は、有島武郎、有島生馬など白樺派の作家、芸術家と親しく、クラシック音楽のレコードを購入してきた。これを聴いた幼い根自子が正確な音程でこれを歌うのを聴き、滝は1923年、満3歳の根自子を小野アンナの弟子、中島田鶴子に入門させ、一年後、その才能を認めたアンナに直接師事しヴァイオリンを習う。またやはり白系ロシア人のアレクサンドル・モギレフスキーにも習い、1927年生馬の紹介で一条公爵家の園遊会で演奏会を行い、1929年小野アンナ門下生の発表会で演奏して次第に注目を集め、1930年秋、来日したエフレム・ジンバリストに紹介されてメンデルスゾーンの協奏曲を演奏して驚嘆させ、1931年朝日新聞に「天才少女」として紹介される。
1932年初リサイタルを開き「神童」と呼ばれる。だが1933年、滝が根自子を連れて家出する事件が起こり、新聞は順次郎が根自子に暴力を揮うと書きたてたが、実際は順次郎の浮気による夫婦不和が原因であった。1934年から、生馬の弟の里見弴はこの事件をモデルに長編「荊棘の冠」を発表。別居には鈴木鎮一、所三男、山科敏が相談相手として手を貸していた。
ベルギーの駐日大使バッソンピエールが彼女に注目し国王らも歓迎したため、外務省が後援して1936年ベルギーに留学、1938年パリに移って、原智恵子の紹介でカメンスキーに師事するが、翌年第二次世界大戦が勃発。しかし帰国せず、ドイツ軍によるパリ占領後もとどまって、1942年田中路子を頼ってドイツに移り、クナッパーツブッシュ指揮のベルリン・フィルと共演、ゲッベルスからストラディヴァリウスと伝えられるヴァイオリンを贈られる。以後ベルリンとパリを往復するが、パリ滞在中、ノルマンディー上陸作戦があり、パリを脱出してベルリンへ向かい、スイスで演奏会を開いたりするが、ベルリンが陥落してアメリカ軍に拘束され、米国を経て帰国する。
帰国間もない時期の録音としては、NHKラジオ第2放送『放送音楽会』(1949年11月28日)に出演し東宝交響楽団(現・東京交響楽団)との共演でブラームスの「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」を演奏した音源がNHKアーカイブスにて保存されている[3]。
戦後は日本で井口基成、安川加寿子らとコンサートを開くが、60年以後、演奏の第一線から引退する。その後の消息はほとんど聞かれず、伝説中の人物となっていた。病身の夫[4]の介護などで忙殺されていたとされるが、1978年~1980年録音のバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」がキングレコードより発売された。1990年代になって、ごく少ない機会ながら私的なサロン・コンサートで演奏する様になり、1994年録音の幾つかがCD化されて、変らず気品と迫力のある演奏が話題になった。
ゲッベルスから贈られたヴァイオリン[編集]
宣伝相ゲッベルスは帝国音楽院で音楽分野の施策を統轄する中、最高級の楽器を収集し、それをドイツ人の音楽家に貸し与えた。ゲッベルスは日記に「ヴァイオリンの名器を購入した」などと記しているが、収集された楽器の中にはユダヤ人などの被迫害者、あるいは被占領地域の市民から略奪した楽器も含まれていたと推定される。コペンハーゲン大学の日本研究者マーガレット・メール(Margaret Mehl)がベルリンの連邦公文書館で調査したところ、「ナチスが楽器を盗んだ証拠も、著名な仲買人から楽器を完全に合法的に購入した証拠も、両方存在する」という[7]。
またアルフレート・ローゼンベルクが率いた全国指導者ローゼンベルク特捜隊(ERR)という部隊は、被占領地域から文化財を略奪するための特殊部隊であり、ERRの下に楽譜や音楽書、楽器など音楽関係の財産を略奪する専門部隊(Sonderstab Musik)が存在したことが知られている[6]。
諏訪自身は生前のインタビューで「盗品ではなく、ゲッベルスの部署がシレジアの仲介業者から購入した」と説明していた[6]。ゲッベルスから贈られたヴァイオリンの由来は今のところ不明であり、現在の所有者である諏訪の甥は、カリフォルニア大学バークレー校の講師で法律家であるカーラ・シャプロウ(Carla Shapreau)の鑑定の求めに応じていない[6]。
補足:なお、カーラ・シャプロウは自身を当初は法律家としてではなく「楽器研究者」として自己紹介していた。また、「鑑定の求め」ではなく、楽器写真の提供を求めるものであり、非公式のものであった。このような愛好者からの要望に対して対応することはわたくしの好意や義務の範囲をこえているため、丁寧にお断りした。諏訪は晩年を静かに送るためマスコミを避けた。そのため、一切の情報を管理し、マスコミの注視を得ないように努力していた。この点でも、カーラ・シャプロウの取材は非常に困惑せざるを得なかった。カーラ・シャプロウの記事に記載されている「甥」より。
CD・レコード[編集]
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『ベートーヴェン』- 1994年、キングレコード
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『諏訪根自子の芸術』 - 2013年、日本コロムビア
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『永遠なれ 諏訪根自子』 - 2013年、キングレコード
諏訪根自子を描いた作品[編集]
出版物
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『諏訪根自子~バッハに甦った天才少女』 萩谷由喜子・著 - アルファベータ
テレビドラマ
ラジオ番組
家族親族[編集]
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父:諏訪順次郎
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母:諏訪滝
脚注[編集]
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