小津安二郎  平山周吉  2024.5.10.

 2024.5.10. 小津安二郎

 

著者 平山周吉 1952年東京都生まれ。雑文家。慶応義塾大学文学部卒。雑誌、書籍の編集に携わってきた。昭和史に関する資料、回想、雑本の類を収集して雑読、積ん読している。著書に『昭和天皇「よもの海」の謎』(新潮選書)、『戦争画リターンズ―― 藤田嗣治とアッツ島の花々』(芸術新聞社、雑学大賞出版社賞)、『江藤淳は甦える』(新潮社、小林秀雄賞)、『満洲国グランドホテル』(芸術新聞社、司馬遼太郎賞)がある。boidVOICE OF GHOSTより刊行中のKindle版『江藤淳全集』責任編集者。近刊として『昭和史百冊(仮題)』(草思社)がある

 

発行日           2023.3.30. 発行                 2024.1.25. 2

発行所           新潮社

 

初出 『新潮』 2020812月号、2181012月号、222,4,6,8,10,12月号

 

 

第1章      「無」と「無常」と「無藝荘」

毎年1212日の命日には、北鎌倉で小津会開催。円覚寺で墓参の後、「鉢の木新館」で宴会

遠い将来、20世紀の日本及び日本人を代表するのは「東京物語」の笠智衆ではないか

「東京物語」は、2012年英国映画協会の「サイト&サウンド」誌で、「映画監督(358)が選ぶ史上最高の映画」の第1位。1953年公開、58年ロンドン映画祭でサザランド杯。57年イギリス初上映の際の映画批評家リンゼー・アンダースンの評は「この映画にはがある」

ヴィム・ヴェンダースの「東京画」(1985)にも、墓碑銘の「無」は登場。ヴェンダースはこの「無」を「空虚・虚無」と解釈したが、墓は小津の死後3カ月たって建てられており、「無」は小津の兄弟と住職が相談して決めたもので小津の遺志ではない。1938年、中支を転戦していた小津伍長が南京の寺の住職に書いてもらって日本の友人たちに送ったのが「無」。小津の命名では蓼科の借り別荘に「無藝荘」と付けた

小津の支那事変従軍は予想よりも延びて2年に及び、無事に帰還後、小津の映画は「戦争」を抜きにしてはありえなくなる。語り得ぬ「戦争」をいかに映画とするか、「100年に1人」という映画監督/日本人に小津が成長するのには、「戦争」という巨大な協力者が介在

帰還後はジャーナリズムの注目の的となり、復帰後の第1作に喜劇を書くが事前検閲を通らず。また、インタビューでは「肯定的精神」など、小津の新展開を予感させる言葉が出てくる

戦後、作品意図など自由に喋ることができるようになって、「無常」とか「輪廻」とかいう言葉が出てくる。「劇的なものを減らして、表現されているものの中から余剰というものが何となく溜ってきて、そういうものが1つの物のあわれとなって、あとくちのいいものになる….というようなものが出来ればいいと思う」と語る。「物のあわれ」の語は、この後、小津に頻出。「浮草」(59)でも「秋日和」(60)でも、物のあわれや無常迅速がテーマだという

 

第2章      和田金と宣長と「東京物語」の松阪

小津前後の同時代人――昭和天皇(1901年生)、小林秀雄(02)、笠智衆(04年、小津の分身)、厚田雄春(05年、小津組のキャメラ番)

映画監督では、五所平之助、山本嘉次郎(黒澤の師匠)、田坂具隆(以上02)、清水宏(03年、生涯の親友)、熊谷久虎(04年、原節子義兄)、成瀬巳喜男、斎藤寅次郎、野村浩将、稲垣浩(以上05)

戦前の小津は『キネマ旬報』で3年連続1位となった批評家好みの監督。評論家は大学出が多いが、監督は旧制中学出が多く、活動屋の世界に身を投じた親不孝者の集団

小林秀雄の晩年の大作『本居宣長』は、1965年から『新潮』での連載が始まるので、小津がそれを読むことはなかった。第3回の冒頭には「宣長は松坂の商家小津家の出である」とある

小津と宣長に血縁関係があるわけでもないが、「宣長の実学を継いだ養子は松坂の豆腐屋の倅」だと小林は書き、小津が「豆腐屋」を自称していたのは衆知のこと。小津家は松阪でも屈指の分限者、応挙の蒐集家として名高く、小津安二郎の家は代々肥料を商っていた

食通の小津は「和田金」の松阪牛を賞味、宣長の旧宅「鈴屋(鈴廼舎)」も日記に出てくる

 

第3章      「麦秋」の不可思議なキャメラ移動

1951年は、小津の「東京物語」と並ぶ代表作「麦秋」の年であり、シスコの講和会議の年

原節子が最も溌溂と輝いていたのが「麦秋」の間宮紀子。小津も手放しで「日本の映画女優として最高。勘の鋭い女優は彼女と高峰秀子だけ」と評価

「麦秋」で気づくのは、小津映画としては異例の移動撮影の多さ。小津のキャメラは低い位置に腰を据えて動かない、と言われてきたが、特にラストの麦畑を花嫁行列が行くシーンの移動撮影は、戦死者へのレクイエムであり、小津はここで「国民映画」を作り得たように思う

小津は、画面の隅々まですべてを自らの意思と構図と趣味で覆い尽くさねばいられなかった映画作家だから、移動をほとんど封じ手にしているからこそ、移動撮影に特別な意味が潜む

「麦秋」のタイトルから、小津が意識したアメリカ映画がキング・ヴィダー原作・監督の「麦秋(むぎのあき)Our Daily Bread(1934)で、ヴィダーは小津が強く影響を受けた監督。小津はヴィダーの「南風(なんぷう)」を4回も見たという

 

第4章      「麦秋」の空、「麦秋」のオルゴール

「麦秋」のラスト近くに小津唯一のクレーン撮影の場面がある

山中貞雄は京都にいた時代劇映画の監督で、支那事変に小津と同時期伍長で召集され戦病死。享年28。小津を慕い、小津も期待の後輩として愛した。小津にとって「麦秋」は、山中を追悼する映画だったので、山中が「河内山宗俊」で15歳の原節子に惚れて抜擢したのを知って、原はギャラが高いと渋る撮影所長を押し切って出演させている

1951年のキネマ旬報ベストテンの第1位で、芸術祭文部大臣賞を受賞、高い評価を受けたが、素直に作品に反応したのは小説家たち。「日本的な良さであらゆる階級の人に訴える力を持つ」と絶賛。高見順は戦前からの小津映画ファンだが、それだけでは尽くせない共感がある

撮影所の監督個室では古風な優しいオルゴールの音が流れていたが、映画でも活用される

「麦秋」のオルゴールは《埴生の宿》。原曲はハ長調、《ホーム・スイート・ホーム》は変ホ長調だが、「麦秋」では嬰ヘ長調で、キラキラと色彩的。この調性の変化と音色の華やぎに元陸軍軍曹・小津の願いが託されているのではないか

小津にとってビルマという戦場は馴染みのある国名で、2本の挫折した映画を想起させる。市川崑により2度映画化された「ビルマの竪琴」(56年モノクロ、85年カラー)の主人公のキャスティングを見ると、モノクロ版は安井昌二、カラー版は中井貴一。安井は元四方正夫だったが、小津シナリオの「月は上りぬ」で「安井昌二」役を演じたのを機に役名を芸名に変更、中井は小津が名付け親。2人の「水島上等兵」が《埴生の宿》をを奏でたと知ると、小津の映画作家としての、あるいは昭和史を生きた日本人としての畏るべき執念を感じる

 

第5章      「大和はええぞ、まほろばじゃ」

表題は、「麦秋」の老夫婦の、大和に住む兄の台詞。ローアングルで撮るキャメラを覗き込むために小津が使っていたのが銭湯の流し台(椅子)で、まほろば(椅子)”と呼ばれていた

「麦秋」のラストに流れるテーマ曲は、信時潔の《海ゆかば》と同じ鎮魂歌で、ヘ長調とハ長調の違いはあるが、同じテンポで、双方とも変則的ヨナ抜き(半音なしの5)であり、似せて作ったともいえる。信時は、小津映画の音楽を多く担当した斎藤高順の師で媒酌人

 

第6章      人の如く鶏頭立てり「東京物語」

小津が生まれたのは深川区(現・江東区)9歳で松阪に転居するまでと、上京して撮影所に入ってからの13年を過ごす。古石場文化センターでは小津監督の常設展がある

トーキー第1作「一人息子」は「東京物語」の明らかな先行作

山中、小津と相次いで召集令状が来たが、両者とも予備役伍長で、映画界でも少数派。当時小津が母と住んだ高輪の一軒家に雁来紅(はげいとう)が咲いていたのを山中が褒めたが、出征した支那でも各地で雁来紅を見ては高輪と山中を思い出した。後に小津が書いた山中追悼文の表題も『雁来紅の記』。雁来紅と鶏頭では飛躍があるが、、、、、、、

「東京物語」のシナリオには鶏頭は出て来ないが、小津の撮影プランで鶏頭は必須の登場植物となった。ホトトギス派の前田普羅の句に「人の如く鶏頭立り二三本」というのがあり、小津は山中を念頭に、鶏頭の鉢を画面に登場させ、笠智衆と原の会話をさりげなく立ち聞きさせている。モノクロで鶏頭の真っ赤な花が目立たなかったところが効いている

 

第7章      「晩春」の壷は、値百万両

77回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞した「スパイの妻」(2020年公開、黒沢清監督)の冒頭、「河内山宗俊」のタイトルが流れる。生涯二十数本の映画を撮った山中の映画でフィルムが残っているのは、他に「丹下作善余話 百万両の壺」と「人情紙風船」の3

原節子の「紀子」3部作には常に山中貞雄がいる

「晩春」(1949)では、山中を思わせる壺が小道具として登場。笠と原の父娘の間のエレクトラ・コンプレックスを描いた作品

エレクトラ・コンプレックス: 女子が異性の親である父親に対して強い好意感情を抱き、父親を自分のものにしたいという感情から、同性の親である母親に強い敵意や対抗心を抱くという子どもの時に見られる無意識の心理状態のこと

 

第8章      「戦争未亡人」紀子と「社会的寡婦」百万人

古井由吉の『東京物語考』の冒頭、小津の「小市民」の映画「東京物語」を観た感想が語られる。同じ日比谷高校で3年上の江頭淳夫(えがしら、江藤淳)や佐藤純彌(東映監督)、矢部恒(東映プロデューサー)なども冷めた感想を漏らしているが、彼らは少数派

1953年、松竹大船撮影所に助監督として入ったのは何千人の受験者から選ばれた8人で、篠田正浩や高橋治がいたが、彼らが衝撃を受けた映画は「東京物語」ではなく、木下恵介の「日本の悲劇」で、余りの質の差にとことん打ちのめされたという

9年先輩の小津は、「野心作ならんも一向に感銘なく粗雑、奇にして凡作なり」と一蹴

戦争未亡人で次男の嫁(原節子)とその義父・周吉(笠智衆)が、義母(東山千恵子)の葬式のあと、愛する者を亡くした2人がお互いを思い遣って別れていく場面は、日本映画の白眉

原「紀子」は、学徒動員によって結婚する機会を失った100万人の「社会的寡婦」の身代わりでもある

「東京物語」の分かりにくさはラスト近くに集中。20世紀アメリカを代表する批評家のスーザン・ソンタグは20回も見て、没後40年の’03年に、「日本映画の神髄は小津の「東京物語」の最後近くの原と香川京子の義理の姉妹同士の会話にある」といった。母の葬儀の後、末娘の香川は利己主義的に振舞う兄や姉に憤慨するが、義姉の原は、「そう。いやなことばっかり。み3

んなそうなるのよ」と静かに諭すようにいう。英語では”Life is disappointing”となっており、ソンタグは、「世の中いつもハッピイ・エンドにはならない。むしろ失望するようなこと、解決できないジレンマとどう折り合って生きていくかを日本映画は教えてくれる」というユニークな論を出した。ソンタグは、原、高峰、田中絹代を「世界の映画史の中で最も偉大な俳優の中に入る」と書き、特に原を熱愛

原は結果的には最後まで結婚せず、後半生は謎に包まれたまま表舞台には一切出なかったが、「東京物語」の1年前に砕けたインタビューの中で結婚について聞かれ、「結婚生活というのは女性の理想」といいつつ、今の未亡人には悪いけどと断ったうえで、「好きな人に死なれたら、目が潰れるくらい泣きはらし、とても生きてはいられないと思う」と臆せずに発言している

 

第9章      原節子結婚説―「痒い」平山「痒い」小津

小津の、初対面だった「晩春」以来の原節子への思い入れは、並ではないが、シャイネスは有名

原も、東宝の女優でありながら、小津映画には声が掛かれば万難を排して出演

2人の関係は、「麦秋」の封切り後、「朝日新聞」の「うわさを洗う」シリーズのトップで詳細に語られ、原は言下に否定したが、小津は満更でもなかったという。小津が原とのウワサを映画に取り込んだと思わせるのが「秋日和」(1960)で、旧友の未亡人・原「秋子」と「平山」が仲間におだてられて再婚しようとするが頓挫。「痒いところは依然として痒い」と空しく高笑いするとんだ道化役となった「平山」こそが小津自身で、小津映画の「平山」は小津を投影し得る人物であることが多い。「秋日和」にも鶏頭と葉鶏頭が並んで立ち、小津の「赤」への執着の証左

 

第10章   「秋刀魚」と「鱧」の三角関係

原は小津追悼文(1964、『婦人俱楽部』)で、「葬儀では取り乱したが、女優人生で欠くことのできない人」と偲ぶ。小津は「晩春」で原を抜擢したとき、原の「大根役者説」の否定に躍起

「秋日和」「小早川家の秋」に続く秋3部作「秋刀魚の味」は、小津と山中が唱和した佐藤春夫の詩から小津が思いついたタイトルで、旧制中学の教師が食べた吸い物が「鱧」、その鱧は谷崎によって関東でもポピュラーになった魚で、大正文学の宿命のライバルを映画の中に呼び込んでいる。小津は谷崎の愛読者であり、谷崎夫人の譲渡を巡る「小田原事件」で争った現世的な三角関係が念頭にあって、山中の無念に捧げられていたともいえる

 

第11章   加東大介と笠智衆の「軍艦マーチ」

小津の遺作となった「秋刀魚の味」は《軍艦マーチ》の映画でもある

名脇役の加東大介が初めて原に会ったのが「河内山宗俊」で、「大番」の永遠のマドンナで再会。小津の映画にも3作出演しているが、最初は山中映画で揉まれた

「秋刀魚の味」は、妻を亡くした男が、便利に使っていた娘を嫁に出すという話で、「晩春」の焼き直しみたいだが、「鱧」と「軍艦マーチ」が作品に輝きを与えている。本筋とは関係ない軍歌酒場の風俗スケッチだが、対話というはっきりした形を取らない、かすかなドラマがさりげなく進行している。《軍艦マーチ》が映画の主旋律となって全体を覆い、「麦秋」の《海ゆかば》のように、皮肉な滑稽味と深い悲哀感を作り出している。「東京物語」でもかかっていた

「秋刀魚の味」のラストシーンの、《軍艦マーチ》を口ずさむ元艦長・笠智衆の横顔には、職業軍人だった者の消えない責任感と失意の戦後を生きる悲哀がある。元軍曹の小津は、戦争責任を取る必要もないのに、戦後の小津作品には、昭和の叙事詩という側面がある。時間がたてばたつほどそれは強く感じられ、家族の崩壊は現実が行くところまで行ってテーマとしては古びたが、戦争の疼きは小津映画の中でいつまでも弱まることがない

 

第12章   照れ屋の小津が歌った「軍歌」

1959年、小津のカラー第2作「お早よう」完成試写会。第1作「彼岸花」が芸術院賞。映画が文学より数段下に見られていた時代の映画界初の快挙。祝賀会でなぜか軍歌を歌う。小津はよく《シンガポール入城の歌(戦友の遺骨を抱いて)》を歌っていた。その歌が使われたのは「お茶漬の味」(1952)で、日本が独立を回復した最初の映画で、軍歌を歌う映画が自由に作れる環境を満喫しようとしたが、元々小津が支那事変からの凱旋帰還第1作として書かれたシナリオで検閲を通らなかったためにお蔵入りとなっていたもの。設定を変えたが失敗作

小津のシンガポール滞在の最大の収穫は外国映画を存分に研究できたこと。特に「風と共に去りぬ」「市民ケーン」への驚愕を戦後語っている。国力の差を実感。一方で、その時小津が撮った「進め、デリーへ」は、チャンドラ・ボースを支援した日本軍による謀略映画、ボースによるプロパガンダ映画だったので、日本軍の撤退で没に。フィルムも焼却

 

第13章   「夫」山村聰が「妻」田中絹代を打擲する「宗方姉妹」

俳優として長い間不遇だった山村の出世作は小津の「宗方姉妹」(1950)。「東京物語」では、笠・東山夫妻の長男で開業医の平山幸一。小津を畏敬

小津映画に登場する夫婦のなかで、最も不穏で荒廃した夫婦関係にあったのが「宗方姉妹」の山村・田中コンビ。小津にとってこの映画は異例尽くめ。初の他社(新東宝)作品、初の原作もの(大佛次郎原作)文芸映画。小津と大佛は戦時中のシンガポールで会っている。興行的には成功したが、不芳な批評のなかで山村の演技だけは好評(1回ブルーリボン主演男優賞)

山村が田中を7発続けて平手打ちする凄惨なだけの鬱屈した激情表現は小津映画の常識を覆すものだが、大佛から小津に許された自由を駆使して、華やかな話題性から一転暗い映画にしたヒリヒリとする問題作。田中は小津映画には戦前7本、戦後3本出演しているが、「日米親善使節」としてハリウッドからアメリカかぶれして戻った田中の「宗方姉妹」での演技に失望した小津と決定的な溝ができ、撮影中に自殺まで考え、もう二度と小津映画には出ないと言っていたが、5年後には監督推薦で「月は上りぬ」に出演

 

第14章   敗戦国の「肉声のない男」たち

「東京物語」の長男の山村にはまともなセリフがない。その場を進行させるだけの説明的なものばかりで「肉声のない男」の役で目立たない存在だが、胸の中で長く重い尾を引く人物として意外にも山村を挙げ、「つかみどころのない表情」に注目している評もある

戦後10年間の「戦後」は、「戦中」を色濃く抱え込んだ「戦後」だった。山村も敗戦前の1年間、内地で兵隊だった。戦争経験者の陰鬱な顔が戦後の小津映画の特徴ともいえる

 

第15章   「日本一のサラリーマン」と「勤続31年」の映画監督

「東京物語」の「肉声のない男」山村は、敗戦国の戦後を生きる「戦中派」の小津にとって、密かに自らの感慨を託し得る存在だったのではないか。他にも感慨を託し得た役者としては、佐分利信、佐野周二、笠智衆らがいる

「早春」(1956)は、小津のフリーとしての第1作で、自分の世代の前後、30代、40代、50代の3つのグループそれぞれに自らの感慨を分散させて、託した映画だが、スタッフの技術は申し分ないのに対し、映画の内容は、当時最も脂の乗ったシナリオライターの水木洋子(1910年生)からは、「日常会話の現実感でのみ描写した平面的な浅い作品」と酷評されている

「早春」は戦後初のサラリーマン物だが、エピソードのみの連続で、劇的な高まりがみられない

山村が、三井の大番頭で「日本一のサラリーマン」と言われた池田成彬に言及する場面は、小津が池田の『私の人生観』を読んで、その清廉潔白な生き方に感銘を受けたからで、小津の感慨そのもの。かたや、東野英治郎(1907年生)31年勤務で定年間近のショボクレたサラリーマン。31年に拘ったのは小津の松竹在籍の年数と同じ

 

第16章   「神様」志賀直哉と小津「助監督」

1956年、小津は尊敬する志賀と里見弴のお供をして浜松、蒲郡、京大阪への旅行に出る。マネージャー格の小津は、助監督時代にやらされたので馴れているといって、細々と世話を焼く

支那事変従軍で小津のいた部隊は毒瓦斯部隊だが、1枚だけ小津軍曹の写真が残る

小津にとって志賀直哉は映画作法上の師であるだけでなく、芸術精神上の師でもあった

親しくなったのは戦後、「長屋紳士録」(1947、戦後第1)の試写会のあとの対談がきっかけ

志賀は、「映画というものは映画のために拵えたようなものが結局一番面白い。どうも小説を映画にしたというものはなんだか隔靴掻痒な気がしてまだるっこしい」といい、小津はそれを聞いて、後に様々な方面から『暗夜行路』の映画化の話が出るが絶対拒否を貫き通す

次作「晩春」は原作物(広津和郎)だが、広津の経済的苦境を救うべく志賀に頼まれたもの

小津は、『志賀直哉全集』(1955)に推薦文「爽やかな後味」を寄せた――「後味」は小津自身の映画で追求していたもので、「芝居も皆押し切らずに余白を残すようにして、その余白が後味の良さになるようにと思った。この感じ、判って貰える人は判ってくれた筈」と語る

『暗夜行路』に触発されたと思えるシーンは、小津映画にも散見される。「東京物語」で老夫婦の暮らす町が尾道に設定されたのも『暗夜行路』へのオマージュであり、上京する荷造りの最中に空気枕がないと口喧嘩になりかけるが、空気枕も『暗夜行路』に登場

 

第17章   「劇術と台詞」里見弴「小」先生への傾倒

小津が志賀の弟分・里見弴と初めて話したのは1941年、支那事変帰還第1作「戸田家の兄妹」公開後の座談会で、日本映画における「劇術」と「台詞」について語りあう

1930年代には、文学と映画が接近するが、里見は小説家としては例外的に、「文学の映画化は、映画作家のほうで原作の部分々々に拘泥せず、映画的にやった方がいい」と主張

小津は中学時代から、里見の愛読者であり、日本映画の開拓者として、手本としたのが志賀や谷崎、里見などの作品。新作映画の試写会の後、映画人と作家が一緒になって批評し合ったが、その場でもよく映画の一部に文学から引いた場面のことが話題になった

小津がテレビ・ドラマの脚本を書くという珍事が起きたのは1962年暮れ。里見のところにNHKから依頼が来て、その場に小津が居合わせ、話の弾みで共同脚本ということになって書いたのが「青春放課後」で、里見「小先生」の玉稿を小津が遠慮会釈なく書き直す

里見の私小説『善心悪心』は、2人で歩いている時に志賀が山手線にはねられて重傷を負ったことを書いたもので、志賀は城之崎に療養に行き、2人の8年間の絶交が始まり、それを機に里見が兄貴分の志賀からの自立を漸く果たす。最大の危機とそこからの蘇生が、志賀と里見という2人の小説家を作った。志賀「大先生」の生命の危機、里見「小先生」の文学の危機、「大先生」と「小先生」の友情と芸術のクライマックスが、小津の「東京暮色」で有馬稲子が電車に轢かれるシーンの間接描写であり、踏切にある大きな眼鏡屋の広告看板は、事故の一部始終を見ていたが、志賀と里見の目に匹敵する勁い目だった

 

第18章   「道化の精神」と里見、谷崎の老年小説

「東京暮色」は、情け容赦のない稀に見る冷酷な救いのないドラマで、「小津安二郎の家族劇」の終焉を告げる作品。以後、崩壊することが運命である「家族」を描くことをやめ、家族の中で起こる事件を巡る「アヤ」をユーモアを籠(から)めて描く「家庭劇」へと主題を転換

それは、10歳年長の共同シナリオ作家だった野田高梧との関係にひび割れを孕ませただけでなく、作品の評価も得られないまま、興行成績も無残に終わる

次の映画「彼岸花」(1958)は、原作・里見で野田と小津の共同シナリオ、プロデューサー山内静夫は里見の四男。小津が里見に持ち掛けて実現したが、「青春放課後」の4年前のこと

里見は15歳下の小津に先立たれ、弔辞で小津の晩年を彩るキーワードともなった「道化の精神」について2度も言及しているが、小津が「道化の精神」を言い出したのは「早春」(1956)辺りからで、小津映画の「道化の精神」を体現するのは「小早川家の秋」(1961)の中村鴈治郎。鴈治郎の小津映画への初出演は「浮草」(1959)で、すぐに第2作「小早川家の秋」が決まる

里見は早くから無類の芸達者と言われ、語り口のうまさは絶品、その最高峰が自らの兄弟3人の一生を愛惜を込めて一気に語り下ろした『極楽とんぼ』で、小津も愛読し手本にした

谷崎の芸術観表白の随筆集『饒舌録』(1929)も再読。1947年初対面、谷崎からは「道化」よりは「戯作者の精神」を学ぶ。「小早川家の秋」は『細雪』へのオマージュもあった

野田高梧との関係でも、小津と「秋刀魚の味」のストーリーを模索している時に「道化の精神」が光明となり、もやもやが吹っ切れ、居直る気持ちとなって2人の気持ちに弾みがついた

 

第19章   臨終近し、日本映画界

「小早川家の秋」のラストは、死の枠組みに黒々と縁どられ、死がダメ押しされ、小津の中の切迫感がそうさせたのか、抑制を欠くほど、主人公亡き後の詠嘆に時間と場面を要し過ぎる

当時の小津の日記には知人の死を記すことが増えている。1959年古川ロッパの急死は、同年生れ、同県出身で浪人中から親交があっただけに堪えた。62年には同居の最愛の母も逝去

松竹の城戸は、大谷竹次郎の愛人の養子となってその娘と結婚、蒲田撮影所長として松竹蒲田調、大船調を指導して松竹の全盛期を築くが、テレビの普及がもとで57年から業績が斜陽となり60年相談役に退く。小津は蒲田調を社会との安易な妥協の産物で安手と批判しながら、「彼岸花」で松竹トップの成績を上げ、さらに次作も頼まれて書いたのが「秋日和」(1960)で、松竹の興行成績第1位で城戸の期待に応える。城戸にとっては言うことを聞かない部下だったが、一目置かざるを得ない存在で、弔辞でも「頑固なケンカ友達を失った」と回顧

城戸の存在がなければ小津安二郎という映画監督は存在しなかった。城戸は脚本を重視、脚本研究所を作って脚本家を養成、俳優研究所を作って大部屋俳優をプール、小津映画の主要な役者・笠智衆や吉川満子もそこから育った

次作「秋刀魚の味」は、松竹に帰り、5社協定もあって、松竹の俳優陣で撮ったので、派手さは少なく、「死」は控え目にされ、「老い」が全面に出た映画だが、小津の最後を飾る秀作

葬儀委員長は松竹に返り咲いた城戸で、葬儀終了後本願寺に払った残りの100万円をお骨と一緒に鎌倉へ届けようとしたときに、城戸から、「小津には貸しがあるので香典は本社に収めるよう」指示がくる。小津の死を契機に、松竹監督の契約打ち切りが始まり、木下恵介や渋谷実までが松竹を去る。小津は生前から、監督やライターがプロデューサーと企画を持ち寄って映画を作る世の中になっていくと、既に日本映画の未来を見据えていた。翌年自動車事故で死んだ小津の秘蔵っ子佐田啓二も、独立プロを計画し小津に相談していた。小津の死は、未完、未発のプロジェクトをいくつも終了させた

 

第20章   「いま」への執着、「日米映画戦」へ

戦後の小津映画で不思議なのは、徹底して「いま」しか描かれなかったこと。伝統と趣味の世界に立て籠もって、「戦後」という時代を描いていないと、同時代には批判され続けていた

「豆腐屋だからトウフしか作らない」が口癖。梅原や安井を尊敬し、「何枚も同じバラを描き続ける画家と一緒」だとも言っている。安井は「彼岸花」で、梅原は「秋日和」で使っている

戦時中シンガポールでアメリカ映画を見て、ソフィスティケーションから「現実を見詰める厳しい目の」写実主義に変わりつつある動きを察知、特に、オーソン・ウェルズの監督第1作「市民ケーン」は最大の収穫

高浜虚子は、小津の「晩春」がいいという。自分たちが書いた写生文に大変感じが似ているという。小津がローアングルから撮影した「いま」の謎は解けない

 

第21章   「紀子」3部作と「春子」3部作

小林秀雄の『私の人生観』を小津が読んで共感したのが53年。小林が「憐れな敗戦国風景」の一例として挙げたのが文部省主導で多くの文学者が「尻馬に乗っ」た性急な国語改革で、小林の指摘した「軽薄な精神」を小津映画は描く。そこに「いま」の謎を解くカギがあるのでは?

「憐れな敗戦国」の「精神風景」を描いた小津の傑作は、「麦秋」と「東京物語」にとどめを刺す。戦争と死者の記憶を密封し戦後の日常を忙しく生きる人々と、いつまでも死者の記憶と共にある人々とが鮮やかに対比さるが、その中に埋没した死者たちへの鎮魂こそ大事なテーマ

「紀子」3部作「晩春」「麦秋」「東京物語」は、「女性の戦中派」ともいえる「社会的寡婦」世代の女性たちと、支那事変に出征したために最長老の「戦中派」となった小津とは「戦中派」同士

戦後の小津は、シナリオの共作者・野田高梧、絶対的ヒロイン・原節子、枯れ切った父・笠智衆の「3種の神器」を得て小津調を作り上げた。出発点が「晩春」、複雑な味わいの高みが「麦秋」、到達点が「東京物語」。その成功を下支えしているのが、「晩春」から小津映画の常連となった文学座の杉村春子で、「紀子」3部作は「春子」3部作と見做せる

無声時代の小津はコメディの名手。「生まれてはみたけれど」「出来ごころ」「浮草物語」はどれも喜劇で32年から3年連続1

小津に原節子と杉村春子の起用を勧めたのは志賀直哉。あくまでも自然な演技を目指す小津の要求にぴったり応えたのもこの2人で、小津映画には無くてはならない存在となった。杉村は小津と9本撮っているが、他も含めて143本に出演しており、誰からも重宝がられている

セットでの撮影を好み、ロケは最小限に抑えられていた小津映画だが、撮るとなると最大限のエネルギーが注がれた

小津は戦後日本の「いま」を自覚的に撮り続け、「戦後日本の年代記作家」であり続けたが、次第に東京の町から小津の馴染みの風景は失われつつあった。遺作「秋刀魚の味」は1962年、翌年死去、翌64年が東京オリンピックで、東京はかつての東京ではなくなった

 

エピローグ

死の1年前、映画人で初の芸術院会員となる。会員の互選を得るために奔走したのが菅原通済。芸術院賞(12章参照)と会員には名誉と年金のほかに皇居での陪食があり、59年に出席。天皇や皇室をこよなく愛した小津が人間天皇を直に観察したのは言を俟たない

 

あとがき

自分が小津についての本を書くとは思いもしなかった。若し書くと予感があれば「平山周吉」のペンネームなど付けるはずもない

田中眞澄(1946年釧路生、慶大国文修士修了)は小津会会長で、小津研究の第1人者だったが2011年急逝、享年65。御存命であれば、本書の出る幕はない

本書は、小津と小津映画を昭和史の中に置いて見るという方法をとる

 

 

 

 

新潮社 ホームページ

「晩春」「麦秋」「東京物語」――世界に誇る傑作群には、盟友への鎮魂歌がいつも静かに流れていた。鶏頭、麦畑、未亡人、粉雪、京都東山、龍安寺、そして壺……。激動の戦後史の中で、名匠は画面のディテールに秘められた想いを託す。生者と死者との間の「聖なる三角関係」が織り成す静寂の美の謎を解き明かす決定的評伝!

 

書評 戦争体験者としての小津

川本三郎

 いま小津安二郎について書くのは難しい。実に数多くの小津論が出ていて、語り尽されている観があるから。
 平山周吉は、そんな小津論氾濫のなか、あえて小津論に挑んだ。当然、ぜひとも書かなければならない新しい思い、視点があった。私見では、それは戦争体験者としての小津だった。
 正直なところ、原節子との関係や城戸四郎との軋轢、「晩春」における父と娘の関係など、すでに多くが語られる問題については、おさらいになっている。
 それより、本書を読んでいていちばん心高ぶるのは、平山が小津を戦争体験者、より正確にいえば「同世代の中では少数派の支那事変出征者」ととらえるところ。
 小津は中国戦線で多くの死を見た。盟友の山中貞雄監督をこの戦争で失なっている。一方、自分は無事に帰還できた。しかし、それで小津のなかで戦争は終わらなかった。「以後、小津の映画は『戦争』を抜きにしてはありえなくなる」。
 戦争は本書の重要な通奏低音になっている。平山はまず、昭和26年(1951)に公開された「麦秋」の同時代の批評を読んでいると、「『麦秋』に強く影を落とす戦争について、言及されることが少ない」と疑義を呈し、自らは、「麦秋」に影を落とす戦争について指摘してゆく。とくに圧巻は、尊敬する小津研究の第一人者、亡き田中眞澄の論に導かれながら、ラストの大和の麦畑のなかを花嫁行列が行くシーンを、戦争で死んでいった者たちを追悼していると指摘するくだりだろう。「麦秋」はあきらかに戦争で亡くなった者たちへの悲しみにひたされている。
 その流れで、平山が「麦秋」で、時折りスクリーンにあらわれる空に着目するのも心を衝かれる。「空」といってもよく言われる小津の「(から)のショット」ではない。文字通り、人の世の上に広がる空である。
「麦秋」では、しばしばカメラは空をとらえる。平山は、その空は、中国大陸で戦死した原節子の次兄、省二の両親である菅井一郎と東山千栄子によって見上げられる、いわば死者のいる彼岸であると語る。この指摘は説得力がある。
 戦争を否定することと、戦争で死んでいった者を追悼、慰藉することは別のことである。あの戦争は否定しても、兵として取られ、死んでいった者は追悼しなければならない。生き残った者が死者を想わないで、誰が追悼するのか。平山は「麦秋」の同時代評が、死者を語らず、鎌倉での中流の生活、二十八歳の原節子の縁談にばかり興味がいっていることに違和感を覚える。そして書く。「戦争の傷跡はまだまだ残っていても、戦後を生きる日本人の関心は目の前のことに集中してしまっていたのだろうか」。
 ここには、昭和史研究家である平山周吉の静かな怒りのようなものを感じる。その怒りがあるから「麦秋」で、鎌倉を一人歩く、老いた菅井一郎が横須賀線の踏切りの手前で疲れて歩みをとめる。その時、カメラはまさに菅井一郎の末期の目で見られたような空をとらえる場面に敏感に反応する。戦争でわが子を失なった父親にとって、空を見ることは祈りになっている。この場面に着目した平山は素晴しい。

 前述したように、小津は日中戦争で、自分より年の若い盟友、山中貞雄を失なっている(病院でなくなった)。その山中の若い死は小津にはつらいことだった。
 平山は、戦後の小津の映画には、戦争の影ならぬ山中貞雄の影が落ちていることも語ってゆく。
 山中は小津の家の庭に植えられた鶏頭(あるいは葉鶏頭)の花に目を留めて、戦場へと出て行った。小津はそのことを覚えていた。だから戦後の小津の映画には、随所にさりげなく鶏頭の花がカメラでとらえられる。麦と並んで鶏頭は、小津の山中への哀悼の思いがこもっている。
 あるいはまた、「風の中の牝鶏」に突然出てくる紙風船、「晩春」における有名な壺、「麦秋」における歌舞伎の「河内山」は、それぞれ、山中貞雄の「人情紙風船」、「丹下左膳余話 百万両の壺」、「河内山宗俊」を意識しているという指摘も面白い。
 いちばん敬服したのは、「小早川家の秋」のラスト、葬列が伏見の橋を渡るシーン。伏見は日露戦争以後、第十六師団が置かれた軍隊の町だった。そして第十六師団とは日中戦争に召集された山中が属した部隊だった。この指摘には驚いたが、平山がこれを知ったのが、沼田純子という学者が大学の紀要に発表した論文だというのにも、氏の丹念な資料渉猟があらわれている。
 さらに新鮮なところがある。通常の小津論では語られることの少ない、「宗方姉妹」と「東京物語」における、地味な存在の山村聰に着目したところ。
 この二作の山村聰が地味なのは、彼が戦争体験者であり、日本の戦後社会にうまく溶けこんでいないからだという指摘にも納得する。いま小津映画を見ることは、あの戦争をもう一度考え直すことに他ならない。

(かわもと・さぶろう 評論家)
波 20234月号より
単行本刊行時掲載

 

 

平山周吉「小津安二郎」

 原田 マハ 作家

2023/05/26 文藝春秋BOOK倶楽部

どんな映画にも似ていない映画

 英国映画協会主催の「史上最高の映画」というのがある。1952年から10年おきに発表されるこのランキングは、世界の映画関係者の投票による「推し映画」リストになっているのが興味深い。その最新ランキング(2022年)が昨年発表された。堂々第4位にランクインしたのが、小津安二郎監督「東京物語」である。実はこの作品、前回(2012年)「監督が選ぶベスト100」でなんと1位に選ばれた。没後約50年、昭和の名匠が「世界の小津」として甦ったのである。

 そんなこともあって、最近集中的に小津作品のDVDシリーズを観ている。三度の食事より映画が好きだった亡き父が、晩年に私に贈ってくれたものだ。多い時は日に3本の映画を観ていた父が、人生で一番好きだった映画監督が小津安二郎だった。私も若い頃に(父の勧めで)観ていたものの、その時分には良さがよくわからなかった。が、小津が没した年齢に達して観てみるとしみじみと好い。おそらく父も、はたまた世界の映画関係者も似たような感慨を抱いたのだろう。小津作品の曰く言い難い魅力はいったい何なのか。その謎に深い洞察力と独特の解釈をもって答えたのが本作である。

 本作の著者名を見てすぐにピンときた人はかなりの小津マニアだ。そう、「平山周吉」は「東京物語」で笠智衆が演じた主人公の名前である。著者はさまざまなカテゴリーから昭和史を読み解く著作で知られているが、本作は満を持して上梓したに違いあるまい。隅々まで「小津安二郎」という名の「昭和」に照射し、そして小津を通してあの戦争の記憶をあぶり出しているからだ。

 令和のいま、小津作品をあらためて観てみると驚かされるのは「どんな映画にも似ていない」ということだ。なんということのない家族の風景を小津は執拗に撮る。独特のローアングル、棒読みのごとき会話と台詞回し、シュールレアリスムの絵画のような空や街なかの風景の空(から)カット。平山は、これらのあらゆる場面が小津の戦争体験を下敷きに演出されていることを看破した。小津は松竹で監督として活躍し始めた頃、日中戦争に出征した。後輩の映画監督、山中貞雄も同様だったが、小津と違って山中は戦争で命を落とした。戦後の作品の中で、小津は山中へのオマージュとして鶏頭の花、麦、紙風船、壺などの小物を配しているという。山中作品を知り得ない者にはわからないことではあるが、自作の中で後輩への鎮魂の念を込めていたのかもと思うと、小津作品ににじみ出る不思議なせつなさも腑に落ちる。

 時代を経てなお観る者の心に小津作品が響き続ける理由が何なのか、本書を通じて私はようやく知るに至った。亡き父に本書を贈りたかったとしみじみ思う。

 

 

 

<お知らせ>大佛次郎賞に平山周吉さん

20231220 朝日

 日本を代表する映画監督・小津安二郎の作品に刻まれた戦争の傷痕を読み解き、昭和史という大きな視点から捉え直した平山周吉さんの「小津安二郎」(新潮社)が、第50回大佛(おさらぎ)次郎賞(朝日新聞社主催)に決まりました。

 

20231220 朝日

 優れた散文作品を顕彰する第50回大佛(おさらぎ)次郎賞(朝日新聞社主催)は、平山周吉さんの「小津安二郎」(新潮社)に決まった。一般推薦を含む予備選考を経て、選考委員5人が協議した。賞牌(しょうはい)と副賞200万円が贈られる。贈呈式は来年126日、大佛次郎論壇賞、朝日賞、朝日スポーツ賞とともに東京都内で開かれる。

 ■昭和史の真実、フィルム内外に探し 浮かぶ戦争の影、後輩への哀惜

 「小津安二郎の特別な記念の年だから、下駄を履かせていただいたのかな」と、意想外の受賞決定を喜ぶ。日本を代表する映画監督は60年前、60歳の誕生日に死去。受賞作はスクリーン内外の出来事を往還しながら、小津映画に新たな光をあてた評伝だ。

 論考の序盤は「麦秋」から始まる。「東京物語」「秋刀魚の味」と並ぶ重要作と思っていたが、ひかれる理由はよくわからない。唐突に会話に出てくる火野葦平の「麦と兵隊」、ラストシーンの麦畑で花嫁行列が進むなかで流れる「海ゆかば」を想起させる音楽……奇妙に感じた点が多かった。

 「画面に偶然を入れることを拒んだ小津ならば、映ったものには意図があるはず」と、多くの文献をひもときながら考察を重ねた。浮かび上がってきたのは画面に残る戦争の影と、6歳下の監督、山中貞雄への強い哀惜の念だ。2人は相前後して中国戦線に召集され、山中は28歳で戦病死する。「麦秋」のみならず「晩春」「東京物語」といった作品群に、亡霊のように刻まれた山中の痕跡をたどる筆運びがスリリングだ。

 筆名は「東京物語」で笠智衆が演じた老父の名そのまま。文芸春秋社の編集者を長く務め、定年後に文筆活動を始めるに際し、大好きな小津にちなんでつけた。これまで、昭和天皇の御前会議や藤田嗣治の戦争画などを題材に昭和史を掘り下げてきたが、小津については全く書こうと思わなかった。執筆は「題名と筆名が並んだ時の人を食った感じが面白い」との編集者の熱意に乗せられた結果。でも、調べるほどに小津がフィルムのあちこちに戦争の痕跡を残していることがわかってきた。

 「僕の最大の関心は、日本人だけでも300万人以上が亡くなった戦争を、なぜ日本がしなければならなかったのかにあります。普通に語られている歴史だけでは、なかなか真実にアクセスできない。小津映画という搦(から)め手から、昭和の日本人や昭和史の真実に迫れないかと思ったんです」

 受賞作には大佛次郎原作の「宗方姉妹(むねかたきょうだい)」についての考察も出てくる。受賞の報を受けて、大佛が近代日本の夜明けを精細に描いた史伝「天皇の世紀」を読み始めた。

 「小林秀雄が朝日新聞の追悼文で、最上等の歴史記述だといった趣旨のことを書いています。実は30代と50代に読もうとしては途中で挫折して、これが3度目の挑戦。次に書こうとしているテーマのヒントになる気がするので、贈呈式までに必ず読み終えます」(野波健祐)

     *

 ひらやま・しゅうきち 1952年、東京都生まれ。雑文家。文芸春秋社の編集者を経て独立。「江藤淳は甦える」で小林秀雄賞、「満洲国グランドホテル」で司馬遼太郎賞。

 【選考委員5氏の選評】

 ■博覧的蓄積が考察に奥行き ノンフィクション作家・後藤正治

 日本映画の中心軸を担った一人、小津安二郎監督の足跡をたどる書籍は複数あるが、「昭和史の中に置いて見る」という視点から新たな光を当てている。登場人物は多彩で、著者の近現代史と映画への博覧的蓄積が奥行きを与えている。

 小津の代表作は原節子が主演した「紀子三部作」(「晩春」「麦秋」「東京物語」)であろうが、中国戦線で戦病死した小津の弟分、山中貞雄監督への想いがちりばめられているとの指摘は新鮮だった。それは、同時代を生きた戦中世代への鎮魂でもあったろう。欲をいえば、小津自身の原点を成した戦争体験を伝える記述がほしいとは思ったが――。

 三部作の制作は昭和20年代、未だつつましき戦後だった。遺作「秋刀魚の味」は昭和37年、経済成長が本格化していく。小津映画を貫く背景としてあった、旧(ふる)き良き日本的家族が変容していく時代と重なっている。小津は「戦後日本の年代記作家」でもあった。

 久々、小津作品の、抑制された品格ある映像を浮かべ、さまざまな想いに誘われつつ読了した。

 ■ディテールの意味、探り当て 文芸評論家・斎藤美奈子

 小津映画には珍しく「麦秋」にカメラの移動が多いのはなぜ? 同じく「麦秋」の最終場面のロケ地に奈良が選ばれたのはなぜ? 「東京物語」で最後に真っ赤な鶏頭(けいとう)の花(モノクロだから色はわからないが)が映された理由は何? 同じく「東京物語」の老夫婦(笠智衆〈りゅうちしゅう〉・東山千栄子)はなぜ尾道在住?

 こんなトリビアルな疑問にとことんこだわり、「どうだ、これでもか」というほど熱心に答えているのが本書である。

 往年の映画ファンにとって特別な意味を持つであろう小津安二郎映画については、すでに作品論も数多く書かれ、もう語ることはないだろうと思っていた。だが著者は、小津の戦前戦中の足跡や交友関係をたどることで、作品のディテールに隠された意味や背景を探っていく。とりわけ中国で戦病死した年下の映画監督・山中貞雄に向けられた小津の追悼の念は本書を貫く重要なモチーフだ。

 動画配信サービスなどの普及で古い映画が視聴しやすくなった現在、小津映画にも新しい視聴者がつき、新しい光が当たる可能性が開かれている。その意味でも時宜を得た1冊だろう。

 ■「託された無数の人生」発見 法政大学前総長・田中優子

 本書は、小津と小津映画を昭和史の中に置く、という方法を貫いている。その意味で、今までの小津論とは異なる。

 昭和史の中に置いてみると、同世代あるいは当時の文学者たちとの交差が見える。そればかりか、本居宣長という遠い存在まで、筆者は引き入れてくる。それらを入れることで、小津映画の中に幾つもの秘密の小箱が潜んでいることが感じられるのだ。

 その小箱は、外側は特定のものだが、開けてみると無数のものに繋(つな)がっている。例えば「鶏頭は小津にとっては山中貞雄だが、映画を見る当時の観客たちにとっては、身近で失われた戦死者のだれかれであっていい」という文章がある。本書の書評では山中貞雄の霊の象徴という面が強調されていたが、大事なのは「戦死者のだれかれ」の方なのだ。

 本書は小津映画のディテールを丁寧に取り出す。それらは皆、昭和に生きた人々の無数の体験がそこに託された「見立て」になっている。それがわかると、小津映画はそれぞれの人生そのものになる。このような方法の発見は、実に称賛に値する。

 ■戦後作品の深遠、正体に得心 作家・辻原登

 平山周吉氏の“評伝”シリーズには、山水画にいうところの“深遠”がある。豊富な資料渉猟による博識と見識をコラージュ、モンタージュして、深さと遠さを透視せしめる類稀(たぐいまれ)なる叙述の妙と言うべきか。「昭和天皇『よもの海』の謎」「江藤淳は甦える」「満洲国グランドホテル」然(しか)り。今回の「小津安二郎」更に然り。

 私は小津映画のファンだが、彼の戦前の映画と戦後の映画は何か違う。戦後作品には深遠があり、非凡だが、戦前はどこか浅く、凡庸だ。それが一体、具体的に何なのか分からなかったのだが、平山氏の著作で得心がいった。

 例えば鶏頭のワンカットから解かれるのは、戦後の小津映画に映り込む戦病死した親友山中貞雄の死の影だ。

 小津映画の戦後は、夭折(ようせつ)した天才映画監督山中貞雄追悼なのである。何故、そう言い切れるのか。フィルムに焼き付けられた光と影の戯れに過ぎない映画そのものに対する平山氏の溢(あふ)れるような愛が、生(光)と死(影)、深と遠の世界へと読者を誘ってくれるからだ。

 ■奥に宿る心、読み解く補助線 元本社主筆・船橋洋一

 小津安二郎の映画の最高傑作である「晩春」「麦秋」「東京物語」の封切りは、敗戦後の占領から独立直後にかけての時期に集中している。

 それらに共通している背景は、戦争で国民が負った深い傷である。小津は2年間、中国大陸に従軍した。小津の同志で天才的映画監督だった山中貞雄は戦病死した。映画は、残された者たちの、戦争で没した者たちへの鎮魂の譜となった。小津は、先だった者たちへの哀悼と追慕の念をさまざまな実物と事象――鶏頭、寡婦、オルゴール、軍歌――を通じて伝えようとした。画面の奥に心の内面が宿っている。小津の謎を解く作図。そこで著者が引く何本もの「補助線」が真実、いや時代を浮かび上がらせる。見事である。

 江藤淳は高校生として、小津の映画を観(み)た。「映画なんだけれども映画じゃないというようなね」との感想を抱いた。「かすかなドラマが、さりげなく」進行している。彼は、声を押し殺した精神を観ていたのである。国民映画が誕生していたのだ。小津映画によって、私たちは戦後の再出発へと旅立つことができた。

 

 

小津安二郎監督生誕120年、先人を敬って 河本清順のシネマチ通信

シネマ尾道支配人20231218 1700

 今年は、小津安二郎監督生誕120年、没後60年のメモリアルイヤーです。尾道が舞台の映画「東京物語」製作から70周年の年でもあります。

 9日に尾道市主催でシネマ尾道を会場に「小津安二郎監督生誕120周年記念特別企画 映画のまち・尾道で映画の未来を語る」と題したシンポジウムが開催されました。満席に近い、地元をはじめ全国からの映画ファンを迎え、盛況のうちに幕を閉じました。

 ゲストは、映画監督の深田晃司さん、脚本家の渡辺あやさん、俳優の尚玄さん、アーティストで尾道観光大使のヴィヴィアン佐藤さんでした。それぞれの視点から、小津作品の魅力を語っていただきました。後半は、現代の日本の映画制作の現場の話も飛び交い、小津監督が活躍していた映画黄金時代から現代に至る日本の映画業界について語っていただきました。

 シンポジウムの最後には、小津監督のめい小津亜紀子さん、小津組の名カメラマン厚田雄春さんの三女・菅野公子さん、尾道出身で実家が「東京物語」のロケ地となった戸田芳樹さんらとの記念写真を撮影しました。

 小津監督は、サイレント映画時代から戦後に至る約35年のキャリアの中で54本の名作を誕生させました。小津監督をはじめとする映画の先人たちが培った日本映画の歴史の延長上に、今日も映画が作られ、私たちが多くの映画と出会えることを実感し、あらためて先人たちへのリスペクトの気持ちを嚙(か)みしめる時間になりました。

 シネマ尾道では「小津安二郎監督生誕120年記念特集上映」と題し、笠智衆、三宅邦子、佐田啓二出演作、1959年製作「お早よう」を公開中です。メモリアルイヤーに、ぜひスクリーンで小津作品に触れてください。(シネマ尾道支配人

 

 

朝日賞など4賞受賞スピーチ

2024127日 朝日

 2023年度朝日賞と第50回大佛(おさらぎ)次郎賞、第23回大佛次郎論壇賞、23年度朝日スポーツ賞の合同贈呈式が26日、東京都千代田区の帝国ホテルで開かれた。朝日賞の戒能民江さんや倉谷滋さん、大佛次郎賞の平山周吉さん、スポーツ賞の野球WBC日本代表の監督を務めた栗山英樹さんらが受賞の感慨を語った。

 小津と大佛、戦下で酌み交わした酒 雑文家・平山周吉さん(大佛次郎賞)

 昨年は小津安二郎の生誕120年と没後60年、そして大佛次郎賞が50回という節目に受賞できて大変うれしく思います。

 小津と大佛は関係が深い。原作がある作品は基本的に撮らない小津が、数少ない原作ものを昭和25(1950)年に撮っています。それが、大佛原作の「宗方姉妹(きょうだい)」です。2人は戦時中に日本占領下のシンガポールで会ってお酒を酌み交わしているんですね。去年の夏に出た、大佛の「南方ノート・戦後日記」という本で詳しい日付を調べたら、すぐ出てきました。昭和18年の11月10日。そういう事実が一つ確認できるだけで、僕はすごくうれしくなってしまう。

 贈呈式までに大佛のライフワーク「天皇の世紀」を読み終え、得るものがありました。それはまた別の機会に話すか書くかしたいと思います。

     

 ひらやま・しゅうきち 1952年生まれ。受賞作は「小津安二郎」

 

 

生誕120年 お父さんのような小津監督

 岩下 志麻 女優

2023/12/07 文藝春秋 20241月号

「俺、酒くさいか?」なんて時々息を吹きかけられた(聞き手 平山周吉・雑文家)

 ──岩下さんは昭和37年(1962)に小津安二郎監督の最後の映画『秋刀魚の味』で主演されましたが、その後に「婦人倶楽部」(昭和383月号、講談社刊)で、対談もされています。小津監督ときちんと対談した俳優さんは岩下さんだけで、いかに特別な存在だったかがわかります。

 岩下 その対談が私、記憶にないの。不思議ねえ。よっぽど緊張していたのかしら。若かったんですね。

岩下志麻さん(本人提供)

 ──小津監督の125日の日記には、「晴 婦人倶楽部 岩下志麻他くる」とありますから、間違いありません。北鎌倉の小津監督の家で撮影と対談が行なわれています。

 岩下 対談記事を読みますと、私がズケズケと質問しているんですね(笑)。「どうして結婚なさらないんですか」とか、「家庭が嫌いだからなんですか」とか。ずいぶんすごいこと、先生にうかがってしまったんだって。この対談のコピーは大事に保管しておきます。

 ──対談の後、小津監督は新年の松竹監督会があって、吉田喜重監督に酒の席でからんだという伝説の夜になるんです。

 岩下 ああ、有名な話ね。

 ──岩下さんが4年後に結婚する篠田正浩監督も同席していて、酒に酔った小津監督を送り届ける役を押しつけられていますよ。

 岩下さんはまず昭和35年(1960)の『秋日和』にちょこっとだけ出演していますね。

 岩下 私の3本目の映画です。その前に篠田の『乾いた湖』で主役だったので、篠田は小津監督から岩下志麻はどうかと、聞かれたそうです。「すごく正確な芝居をする子ですよ」と篠田は答えたそうです。

小津組が磨き上げる廊下

 ──小津監督に初めて会ったのはいつですか。

 岩下 大船撮影所の所長室に呼ばれてお会いしました。「岩下志麻です」ってご挨拶しただけでした。

 ──『秋日和』では佐分利信さんの会社の受付嬢の役で、廊下を歩いて部屋をノックし、「どうぞ」とセリフをいう。3回登場しますが、いつもそれだけですね。

 岩下 ただ歩いてきて、コンコンってドアを叩き、お客さまを案内するだけでしたが。小津組って大道具さんがピッカピカに廊下を磨き上げるから滑るんですよ。それが怖くて怖くて。転んじゃいけないと思って、そっちばっかりに神経がいってました。演技どころじゃなかった。私はその時はまだ3本目の新人で、何の癖もついてないからか、1回か2回のテストでOKでした。あまり注文もなさらなかった。とにかく私は転ばないようにまっすぐ歩こうということばかり気にしてましたけど。

 ──タイトスカートでハイヒールですね。

 岩下 難しいですよね。ローアングルだから全身が映る。脚がけっこう目立ちますから。歩き方もきれいにしなくちゃ、という意識はありましたね。

 ──やはり小津日記で、『秋日和』の撮影が昭和35年の920日からとわかるのですが、そこに「昼から出社 小道具の都合で二時すぎからセット 佐分利 北[龍二]岩下志麻 3カットにてやめる」とあって、チョイ役にも関わらず、小津監督の中では岩下さんをもう女優さんとして認められているんです。

 岩下 ありがたいですねえ。『秋日和』は私のテストだったのかな。

 ──『秋日和』の時に、小津監督と話されたことはありましたか。

 岩下 ド新人でしょう。だから、何もお話しした記憶はないですね。ただ、すごく優しい監督さんだなという感じはありました。

 ──それまでの木下惠介監督(『笛吹川』)と篠田監督とは肌合いが違いましたか。

 岩下 そうですね。『秋日和』をやらせていただくに当たって、小津組というのがどういうものかって、撮影の見学に行ったんです。そうしたら、テストを最低30回ぐらいやってらっしゃる。ベテランの方でもこんなにテストするんだと、「私、大丈夫かな」なんて思って行ったら、私はすぐOKだったから、なんかちょっと拍子抜けしたような感じがしましたけど。きっとまだ癖がついてなかったからでしょうね。

 ──いろんな方が、小津監督が岩下さんのことを「あの子はいいよ」と言ったと聞いています。昭和36827日の報知新聞の「上昇株 岩下志麻」という記事の中で、小津監督が撮影所長の白井昌夫さんに「岩下君は大事に使いなさいよ」と耳打ちしたとあります。

 岩下 本当にありがたいことですね。そんなことをおっしゃってくださっていたんですか。

 ──それで『秋刀魚の味』になるわけですけれども。笠智衆さんと並ぶ主役ですね。

岩下さんと父親役の笠智衆(『秋刀魚の味』 1962年、小津安二郎監督、松竹)

 岩下 お話をいただいて、ビックリしました。「エッ、私で大丈夫なの?」って。原節子さんがずっとおやりになっているのに、なんで私なんだろう。できるかしらと思って。でも、あの頃はあんまり、「やるぞ」みたいな欲がなかった。駆けずのお志麻と呼ばれるぐらいのんびりしていたので、「じゃあ頑張ってやらせていただきます」みたいな感じでした。ドキドキ緊張することもなく撮影に入った記憶がありますね。入ったら大変でしたけど。

 ──シボられましたか。

 岩下 テストテストでね、絞られました。小津先生の独特の美学と、独特のリズムがありますから。それにはまらないと、何回もテストして。12回でOKだったのは、ラストの花嫁のシーン。あそこだけはすぐOKでしたね。まあ、あんまりセリフもなかったんですけど。で、「花嫁姿はいいね」なんておっしゃってくださって(笑)。

 ──小津映画では松竹の女優さんで花嫁姿になった人はいなかった。

 岩下 「初めてだよ」とおっしゃってました。

 ──花嫁姿は、かつて東宝に所属していた原節子さんの『晩春』のイメージがすごく強い。そういう意味でも、小津監督にとっても特別な女優さんだったと思います。

 岩下 ありがたいことですね。本当に。

これまでにないヒロイン役

 ──ただ、岩下さんは、それまでの小津映画に出てきた若い女性とは何か違う。

 岩下 わりとはっきりものを言う現代っ子ぽい女の子でしたね。

 ──そうですよね。だから、これは今まで小津映画で登場してこなかった新しいヒロインです。

 岩下 小津映画の娘役はわりとお父さんの言いなりになってやっていたんですけど。あの「路子」の役は「お父さん、早く帰ってきてよ」とか、「お父さん、ご飯ないわよ。電話かけてよこさないんだもの」とか、ハキハキと言う女の子でしたね。

 ──それで家では不機嫌そうで。

 岩下 いつも不機嫌そうでね。ただ、ああやって恋をしても、父親の勧めた縁談で結婚していくわけですから、やっぱり昔の女なんだなっていう感じはしますけどね。

 ──笠智衆さんがお父さん役です。

 岩下 笠さんはいつも自然体ですよね。笠さんそのままでキャメラの前に立ったという感じで。だから、テストもあんまりないんです。わりとすぐOKが出ちゃって。あと、弟役の三上真一郎さん。三上さんは自然体でやっていたからか、お芝居もすぐOKでしたね。「真公、真公」ってかわいがられてました。

 ──三上さんは小津監督を「師匠」と慕っていましたから。

アイロン50回、巻尺で100

 岩下 私はやっぱりどちらかというと段取りになっちゃって、自然にいかなかったんですね。緊張してたのかな。アイロンをかけるシーンでも、例えばこっち2回かけて、こっちはワイシャツをパッとやったら、今度はこっちのほうをさっきの倍の速さでかけて、それから置いて、左手でうなじをこう撫でて立ち上がるとかね。そういう細かいご指導をなさるんですよ。それがどうしても段取りになってしまって。こっち2回、こっちは3回というような。自然にできてなかったんだろうと思って。あそこのアイロンのシーンも50回ぐらいテストだったかしら。

 ──OKが出る時というのは。

 岩下 全然わからない。どこが悪いのかもわからない(笑)。何回もやることで、最初は段取りになっていたのが、やっているうちに自然になってきて、先生の映画の中にはまってきたんだろうとは思うんです。それと、失恋のシーンでも、顔を上げて、話を聞いて、また顔を下げるというのがあったんですけど、このテンポが私は速かったらしいんです。で、「ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり」と言われて。だから、あそこも何回やったか。頭を上げて下げるだけなのに、ずいぶんテストを繰り返しました。

 ──そうなんですか。

 岩下 先生のリズムに合うまで。一番駄目だったのは巻尺のシーン。あそこは、失恋した女の子が巻尺をいじっている、それで悲しみを表現するというシーンだったんだけれども。あれ、右手に2回、左手に2回半だったかな。また右手に巻いて、パラッと落とすという。それだけなんだけど、それができなくて。あれは100回以上やりました。あのシーンは本当にできなかったですね。

なぜOKかわからない

 ──100回もテストすると、どういう心境に追い込まれるんですか。

 岩下 わりと私、図太かったから、全然平気だった(笑)。だけど、家に帰って、「なんであんなにできなかったんだろう」とちょっと落ち込みました。それも本当に先生がおっしゃるように、段取りになっていたんですよね。もう一つは、私がメロドラマをそれまでずいぶんやっていたために、失恋だからと悲しい顔をしていたんだと思うんです。その表情が抜けてなかったんじゃないかなと思うんですよね。それで100回になったのかしらという気がするんですけれど。ラッシュを見て悲しみが表現できていて、小津先生の素晴らしい演出をあらためて知りました。

 撮影が終わって、先生とお食事へ行った時に、「悲しい時に悲しい顔をするもんじゃないよ。人間っていうのはそんな単純なもんじゃないんだよ」とおっしゃったんです。私、その時に「ああ、たぶんあの時私はきっと悲しい顔をずっとしてたんだろう。それが100回もやっている間に無表情になってきてOKになったんだろうな」と思いました。

 ──OKという声がかかるとホッとされるんですか。

 岩下 そうですね。でも、なんでOKなのか。なんで前のと違うのか、自分ではあまりよくわからなかったです、当時は。今だったらわかるでしょうけれど、当時は本当にレールに乗っかって、おっしゃるようにやっていたような感じがあるので。朝から夜まで一日中それをやってましたからね。お昼の休憩も入ってしまって。だから、普通だったらこんなになっちゃってどうしよう、となったんでしょうけど、私はわりと鈍感で。

 ──それはすごい(笑)。

 岩下 いい意味で鈍感だったのか知らないけれど。だから、先輩にもよくいじめられましたよ。ちょっとどこか抜けてるところがあったんだろうと思います。

 ──その強さをもしかしたら小津監督は見抜いていらしたのかも。

 岩下 そうでしょうか?

 ──強さを見抜いていたのか、鈍感さを見抜いていたのか(笑)。

 岩下 鈍感さを見抜かれていた。そうですね。『鈍感力』(渡辺淳一)とかいう本もありますものねえ。

本当にお酒がお好きだった

 ──小津監督は撮影時に、お酒を飲んでから演出していたとか。

 岩下 そうらしいですね。「俺、酒くさいか?」なんて、ハーハーって時々息を吹きかけられたりして(笑)。それで、えー? と思って。その頃は「お酒飲んでいらしているのだ」なんて思ったぐらいでしたけれど。本当にお酒がお好きだったみたいですね。

小津安二郎監督 ©文藝春秋

 ──『秋刀魚の味』は岩下さんとすると、終えてみてどんな感じでしたか?

 岩下 監督の「悲しい時に悲しい顔をするもんじゃないよ」とおっしゃったそのお言葉が、私の演技の原点になってますね。じゃあ、悲しい時に怒った顔をしたらどんなになるかなとか、悲しい時に泣かないで、笑うわけにもいかないけれど、無表情にいったらどうなるのかなとか。そういうふうに、演技をひっくり返して考えるようになって。延々と、それはいまだに、先生のお言葉が演技の原点になってますよね。それで「もう一本やろうね」とおっしゃっていただいて、それを楽しみにしていたんですけど。

 ──それは次回作の『大根と人参』のことですか。

 岩下 らしいですね。

 ──『大根と人参』は佐分利さんの娘さんの役ですね、小津監督のプランでは。笠智衆さんの息子が吉田輝雄さんで。で、吉田さんと岩下さんがまた恋愛相手です。

 岩下 ああ、そうですか。じゃあ吉田さんも気に入ってらしたんですね。

 ──『秋刀魚の味』で岩下さんの衣装も全て小津監督の見立てで。

 岩下 そうそう。森英恵先生が全部やってくださって。小津先生はどの作品でも衣装にすごいこだわって、生地から全部選ばれます。それで、デザインを森先生と打ち合わせして、全部デザイン画を見て。生地から仮縫いもして洋服を作って。だから、あれは全部あつらえですね。

 小津先生の映画って、ワンカット、ワンカットが小津美学なんですよね。だから、その中に人間が入る場合に、人間が着ている服の色がものすごく重要なものになってくるわけです。どの作品を見てもそうですけど、赤が必ず出てくるんです。赤いネオン、赤い煙突、赤いヤカンとか赤い座布団とか。食器でも、何かちょこっと赤い器があったりとか。私も赤いスカートを穿いて。

 着物は浦野理一さんという鎌倉の有名な染織研究家のかたのところで先生が全部反物からご覧になって、役者の身体に当てて決めるんです。

 ──作品を撮るとなると、小津監督とすごく濃くご一緒するということですね。

 岩下 そうですね。小津先生は野球がお好きでね。よくライティングの間に野球のお話をなさってましたね。どこどこが何対何でどうだったとか。私、今、すごい野球好きだから、野球を夢中になって見てるんですよ。だから時々、「ああ、小津先生も野球好きだった」と思い出して。「あの頃、撮影の合間におっしゃってた」なんて。どこのファンだったのか、うかがっておけばよかったなと思ってますけど。

 ──ちなみに岩下さんはどこの?

 岩下 いまは阪神です。

 ──おめでとうございます(笑)。

 岩下 この間、優勝したのでうれしくて。

亡くなる朝、夢枕に

 ──『秋刀魚の味』では川崎球場のナイターが大洋対阪神戦ですね。現場を離れて、素顔の小津監督ってどういう感じの方なんですか?

 岩下 あんまり変わらなくて。とにかく怒った顔を拝見したことがない。優しい監督ですね。やり直しをする時でも優しい。「もう1回」「はい、もう1回」。次回作では自然体でやれるようにしたいと思っていたんですけど、実現しないで残念でした。

 ──三上真一郎さんに『巨匠とチンピラ──小津安二郎との日々』(小社刊)という著書がありまして。

 岩下 真ちゃん、本を出していたんですか。

 ──三上さんの本を読むと、小津監督のお見舞いに一緒に行った時のことが書いてあります。

 岩下 そう。一緒にお見舞いに行きました。

 ──浜松にロケに行く前に、病院に2人でお見舞いに行ったと。

 岩下 そうでした。それから最後にお目にかかった時は1人でした。「僕は何も悪いことしてないのに、どうしてこんな病気になっちゃったんだろうね」と言って、ベッドでポロッと涙をこぼされて。私は若いから何も慰め方を知らなくて、ただ茫然とうなだれていただけでした。

「これ、この病気にいい飲み物なんだよ」といってアミノ酸を出して、私にも半分くださって、こういう長椅子に2人で横に、小津映画みたいに並んで座ってアミノ酸を飲んだ記憶がすごく鮮明に残っていますね。

 小津先生が亡くなる時に、私の夢枕に立たれて、「志麻ちゃん、やっと僕、楽になったよ」っておっしゃったんです。「楽になったよ」という言葉は、20代の女性からは思い浮かばないですよね。だから、あれは本当だったのかしらと思ったりしているんですけど。

 ──もともと霊感が強いということですが。

 岩下 そうですね。亡くなる日の朝ですね。「志麻ちゃん、やっと楽になる」って。それで私、小津先生亡くなるんだなと思って、母に「小津先生、亡くなるかもしれない。いま夢枕に」と話しました。

 ──それだけ岩下さんとのつながりを大切にされてたんですね。

 岩下 きっとね。ありがたいことですね。今思うと、60歳なんて若いじゃないですか。本当に優しい、私にとってはお父さん的な温かさを感じる先生でしたね。「志麻ちゃん」という呼び方でしたから。

パリでの小津先生ブーム

 ──松竹では大巨匠なんですけれども、当時は小津監督はもう古いと助監督たちはそういう目で見ていた人が多い。篠田さんはその中で例外的に、小津さんはすごいと当時からおっしゃっていたみたいですね。

 岩下 そうです。「当時、小津監督をどう思ったの?」って以前に聞いたら、「素晴らしい監督だと思った」と。当時は外国では溝口健二監督とか黒澤明監督が評価されていたけれども、小津監督はいずれ海外で必ず評価されるだろうと思ったと。

 ──あの時代に小津監督が海外で評価されると思っている人はほとんどいませんでした。

 岩下 『東京暮色』(昭和32年)に応援の助監督でついた時に、オールラッシュという試写があるんですけど、「篠田はおるか」と言われたんですって。「お前はよそ者だから、感想を聞かせてくれ」と批評を尋ねられたんですって。篠田は自分としてはすごくいい思い出で、小津先生をずっと尊敬してますよね。

 私たち、パリの映画博物館に呼ばれて夫婦で行ったことがあるんです。もう30年ぐらい経ちますが。そうしたら、私にはとにかく小津先生の質問ばっかりでしたね。どういう演出だったかとか、『秋刀魚の味』のあそこのシーンはどうだったとか。小津先生はこれだけ世界で認められつつあるんだと思いました。先生はローアングルのキャメラで下から覗くので、撮影の時はいつも寝そべっていらした。だから私、「横たわった神様のようでした」と言ったら、すごくウケましたね(笑)。

 

 

 

小津安二郎愛は国境を越える 生誕120年で名匠もファンも鎌倉詣で

小峰健二20231218 1300

 1212日に生誕120年を迎えた映画監督の小津安二郎(190363)は、「晩春」「麦秋」で北鎌倉を物語の舞台にし、その後に転居して亡くなるまで暮らしたことで知られる。没後60年を経ても、小津への敬慕を公言する作り手は多く、鎌倉に「小津詣で」をする人はひきもきらない。なぜ、小津とその作品は愛され続けるのか――。

「もし映画に聖地があるならば…」

 112日、神奈川県鎌倉市山ノ内の円覚寺にカンヌ国際映画祭で最高賞を獲得した「パリ、テキサス」や「ベルリン・天使の詩」で知られるヴィム・ヴェンダース監督の姿があった。審査委員長を務めた東京国際映画祭や、自身の新作で1222日に公開する「パーフェクト・デイズ」のプロモーションのために来日していたが、合間をぬって円覚寺にある小津の墓参りに赴いたという。

 ヴェンダース監督は85年、小津にオマージュを捧げ、その創作と80年代の東京について思索するドキュメンタリー「東京画」を発表。影響を受けた小津への愛を隠さず、「もし映画の聖地があるならば日本の監督、小津安二郎の作品こそふさわしい」「私は彼の映画に世界中のすべての家族を見る」とするナレーションを吹き込んだ。

 また、「無」と刻まれている小津の墓を小津作品の常連俳優の笠智衆とともに訪れ、笠が墓前で恭しくこうべを垂れる姿をカメラに収めている。

没後に「発見」された小津、きっかけは

 現役時代の小津は、溝口健二や黒澤明ほど世界的に知られた監督ではなかった。が、631212日、60歳の誕生日に亡くなって以降に、世界各都市であったリバイバル上映でその作品が「発見」されていく。そこで熱狂した人が、のちに名監督として名をはせることになった。

 ヴェンダース監督のほかに、同じく世界3大映画祭で最高賞受賞経験があるイランのアッバス・キアロスタミ監督や台湾の侯孝賢監督。さらに米国のジム・ジャームッシュ監督やフィンランドのアキ・カウリスマキ監督などの名匠がこぞって「小津愛」を表明している。2012年、英国映画協会が発行するサイト&サウンド誌が各国の映画監督に聞いたアンケートで、「東京物語」が映画史上の第1位を獲得した。

 プロからの評価だけではない。小津ファンの親睦会は全国に多数あり、とりわけ1212日にはファンが「晩春」などのロケ地や円覚寺を訪れる。今年も墓前には小津が好きだったという酒や、晩年の作品で効果的に使われた赤を意識してバラなどの花が供えられていた。

濱口竜介監督「見る度に細部に驚き」

 同日、鎌倉・大船の鎌倉芸術館であった上映イベントでは代表作「東京物語」と遺作「秋刀魚の味」がそれぞれ上映され、600席のホールがほぼ埋まった。

 「東京物語」上映後にトークを担ったのは、濱口竜介監督。「ドライブ・マイ・カー」で米アカデミー賞国際長編映画賞を獲得し、今年のベネチア国際映画祭で「悪は存在しない」が銀獅子賞(審査員大賞)を受けるなど、国際的に注目を集める俊英だ。

 濱口監督は、「静」の監督として語られがちな小津の「東京物語」について、闊達(かったつ)な人物たちの動きこそが感情を浮き上がらせていると分析。「見る度に見逃していた細部に気づかされ、驚かされる」とし、「小津作品における細部の発見の喜びは永遠に終わることはない」とその色あせぬ魅力を語った。(小峰健二

鎌倉芸術館で「小津安二郎とブンガク展」

 鎌倉芸術館では、小津がしたためた日記や絵、志賀直哉や里見弴から受け取った手紙など約50点を展示する「小津安二郎とブンガク展」を19日まで開催中だ。

 展示されているのは、小津が色紙に描いた絵や、書いた書など。ローアングルの撮影技法で知られた小津が独自に開発した三脚、万年筆や名刺入れなどの愛蔵品も並んでいる。問い合わせは同館(0467485500)へ。

 

(音楽プロデューサー・選曲家)

202312192249 投稿

【視点】

生誕120年、朝日新聞にも小津絡みの良い記事がいくつも掲載されており、読めてなかったものも,この記事と紐付けされていたことで一気に読めた。デジタル版になったお陰でこういう風に新聞を読むことができる恩恵に今更ながら感謝している。 いきなり話が逸れたが、私が大学生の頃、映画好きが高じてレンタルビデオ屋でアルバイトを始めたのだが、京都の街の小さなレンタルビデオ屋には、当然小津の諸作など置いてあるはずもなく、名画座などでコツコツと観ていたことを思い出した。 『東京物語』は、将来子供ができて自分が笠 智衆のように年老いたらもう一度観たいなぁ、と思っていた。老け顔の笠 智衆は当時49歳だった話は有名だが、わたしはすっかり年齢は超えたのだが、残念ながら子供がいない。 音楽監督を担当させてもらった先頃の東京オリンピック2020大会の閉会式の日本国旗の掲揚の場面に、私は斎藤高順作曲の『東京物語』のテーマ曲を選曲させてもらったのだが、各方面から色々反響をいたただいた。日本のみならず世界の皆さんの中に、『東京物語』が、小津安二郎が、しっかり息づいているということだろう。

 

 

(日曜に想う)機嫌の良い音楽、小津映画の心 編集委員・吉田純子

20231217 500分 朝日

 今月12日は映画監督、小津安二郎の120回目の誕生日であり、60回目の命日でもあった。NHKの特集でヴィム・ヴェンダース監督が、代表作の「東京物語」を字幕なしで何度も見て、この作品の本質をつかんだと語っていた。それだけアングルや構図が非凡であったということだろうが、純粋な音として響く言葉、音楽、そして沈黙からも、小津の世界観の核を無意識のうちに受け取っていたのではないかとふと思う。

     *

 尾道に住む老夫婦が、東京で暮らす子供たちのもとを訪れる。親子とはいえ、すでにそれぞれの事情を抱え、異なる人生の線路を走る他人同士になっていた。悲哀と諦念(ていねん)の風景の向こう岸を、機嫌の良い朗らかな音楽が抑えた音量で流れ続ける。

 作曲したのは斎藤高順(たかのぶ)。東京音楽学校(現東京芸大)を卒業し、放送現場で活躍し始めたばかりの無名の新人だった。戦時中は陸軍戸山学校に送られ、軍楽隊の作品を多数手がけた。バッハのコラールを範とした信時潔、パリ音楽院に学んだ池内友次郎、「ゴジラ」の音楽を担当した伊福部昭らを師と仰ぐ。代表作のひとつ、吹奏楽曲「ブルー・インパルス」の重厚さと洒脱(しゃだつ)さを兼ね備えた和声感覚は、三者三様の個性を矛盾なくわがものとした証しだろう。

 「東京物語」の公開は1953年。斎藤28歳。それなりの武者震いがあったはずだ。しかし小津の要求は「映像からはみださないこと」。悲しい日にもいつもと変わらず降り注ぐ光のように、お天気の良い音楽を。ユーモアを誇張せず、涙をあおらず。観客が感傷や共感へと流されることを、小津は慎重に避けた。

 野心を封じられたことを、斎藤は持ち前の柔軟さで好機とする。次の「早春」では、重病の友人を見舞う場面に、鼻歌を歌いながらスキップするかのような音楽をのせた。シャンソンの「サ・セ・パリ」と「ヴァレンシア」、二つの曲のリズムや旋律のエッセンスを抽出し、軽やかに再構築したこの曲を小津は大いに好み、語呂合わせで「サセレシア」と命名。この楽曲はのちに、家族崩壊のプロセスをほの暗く描いた「東京暮色」の全編を彩ることになる。

     *

 妻が逝った日の朝。悲嘆に暮れる子供たちを置いて、笠智衆演じる父親は一人で海を見ている。そして追ってきた義理の娘(原節子)に笑顔でこう語りかける。「きれいな夜明けじゃった。今日も暑うなるぞ」

 「東京物語」における斎藤の音楽は、この時の笠のアルカイックスマイルをそのまま音像にしたかのよう。己の悲しみから距離をとることのできる人は、離れた場所で悲しむ人々の心を思うことができる。慟哭(どうこく)しながら祈るのは難しい。己の感情の檻(おり)に閉じ込められたままでは、本当に誰かを思うことはできない。

 若き斎藤には、すでに自立した音楽を書く態度があった。そして小津の美学に職人として献身した。小津の映像、笠の演技、斎藤の音楽。いずれも「平凡」を装う「非凡」である。それらの奇跡の邂逅(かいこう)を得て、「東京物語」は世界へ開かれた。

 1976年生まれのスイスのピアニスト、セドリック・ペシャが6年前、東京でバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を弾いた折の取材で、「人の感情に土足で踏み込まず、距離を置きながら流れる小津映画の音楽に、『ゴルトベルク』に通じる抽象性と瞑想(めいそう)性を感じる」と語っていたことを思い出す。晩年の小津に「譜面を残しておくように。いつか価値が出る」と言われたと、斎藤はのちに述懐する。来年は斎藤の生誕100年。「見る」のみならず「聴く」ことからも、小津の芸術を再評価する年にしたい。「感じる自由」の先にこそ、真の人間の尊厳がある。

 

 

 

Wikipedia

小津 安二郎(おづ やすじろう、1903明治36年〉1212 - 1963昭和38年〉1212)は、日本映画監督脚本家日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962には映画人初の日本芸術院会員に選出された。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

19031212東京市深川区亀住町4番地(現在の東京都江東区深川一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた[4][5][6]。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である[5]。生家の小津新七(しんしち)家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門(よえもん)家の分家にあたる[7]。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋(ゆあさや)」を営んでいた[7][8][ 2]。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた[7][10]。あさゑはの名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった[5][7]。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した[8]。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた[13]

1909、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる[14]。翌1910には深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学した[4]19133月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市垣鼻785番地に移住した[4][15]。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした[15]。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校4年生に転入した[16]56年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという[17]。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった[4]

1916、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎に入った[4]。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って名古屋まで映画を見に行ったこともあった[18]。当時は連続活劇の女優パール・ホワイトのファンで、レックス・イングラムペンリン・スタンロウズ英語版)の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった[18][19]。とくに小津に感銘を与えたのがトーマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った[19][20]1920、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件[ 3]」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた[22]。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった[22]。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した[23][24]。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった[22]。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた[25][26]

19213月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う神戸高等商業学校を受験したが、合格する気はあまりなく、神戸大阪で映画見物を楽しんだ[27][28]名古屋高等商業学校も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した[4]。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした[29]。翌1922に再び受験の時期が来ると、三重県師範学校を受験したが不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校代用教員として赴任した[30]。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという[31][32]。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しいローマ字を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた[31]。また、下宿で児童たちにマンドリンを弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の局ヶ岳を登頂したりしたこともあった[33]

映画界入り[編集]

19231月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、深川区和倉(わくら)町に引っ越した[4]3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた[34]。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の佐藤忠男曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した[34][35]。しかし、母の異母弟の中條幸吉(ちゅうじょうこうきち)松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した[34]。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった[36]。入社直後の91日、小津は撮影所で関東大震災に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった[37]。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた[38][39]。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の下加茂撮影所に移転した[39]。蒲田には島津保次郎監督組が居残り、小津も居残り組として碧川道夫の撮影助手を務めた[40]

19243月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏(さかいひろし)の撮影助手として牛原虚彦監督組についた[41][42]。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした[42]12月、小津は東京青山近衛歩兵第4連隊一年志願兵として入営し、翌192511月に伍長で除隊した[41]。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎に頼み込み、1926に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった[43]。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の佐々木啓祐、生涯の親友となる清水宏、後に小津作品の編集担当となる撮影部の浜村義康5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした[43][44]。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた[36][44][45]。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった[36]。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している[45]

1927のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂でカレーライスを注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした[46]。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の城戸四郎に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた[47]。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった[36]。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった[36][47]8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『懺悔の刃』の撮影を始めた[48]。ところが撮影途中に予備役の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、925日に三重県津市歩兵第33連隊7中隊に入隊した[49]10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている[49][50]

監督初期[編集]

非常線の女』(1933年)撮影時の小津。

192711月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた[48]。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を67本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『若人の夢』(1928年)を撮影した[50]。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった[51][52][53]19285本、19296本、1930は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった[4][54]。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの栗島すみ子主演の正月映画『結婚学入門』(1930年)の監督を任されるほどになった[55]。『お嬢さん』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めてキネマ旬報ベスト・テンに選出された(日本・現代映画部門2位)[54][55]

1931、松竹は土橋式トーキーを採用して、日本初の国産トーキー『マダムと女房』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は1936までトーキー作品を作ろうとはしなかった[56]。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの茂原英雄が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている[55][57]。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった[55]。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いているサウンド版で公開されている[58]

1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『東京の合唱』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている[59]。『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた[58]。さらに『出来ごころ』(1933年)と『浮草物語』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた[55]19339月には後備役として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた[32]10月に除隊すると京都で師匠の大久保や井上金太郎らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった山中貞雄と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった[32][60]。新しい出会いの一方、19344月には父寅之助を亡くした[4]。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に小津家は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で芝区高輪南町に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった[61]

19357月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した[4]。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『鏡獅子』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した[55][62]19363月、小津は日本映画監督協会の結成に加わり、協会を通じて溝口健二内田吐夢田坂具隆などの監督と親しくなった[60]。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『一人息子』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した大船撮影所で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した[63][64][ 4]1937に土橋式で『淑女は何を忘れたか』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『限りなき前進』として映画化された[63]9月には『父ありき』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した茅ヶ崎市の旅館「茅ヶ崎館」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した[65]

小津と戦争[編集]

19377月に日中戦争が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の910日に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊した[63][66]。小津は毒ガス兵器を扱う上海派遣軍司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、927日に上海に上陸した[66]。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、南京陥落後の1220日に安徽省滁県に入城した[67]1938112日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、南京郊外の句容にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした[68]4月に徐州会戦に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月まで南京に駐留した[66]。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという[4]。その後は漢口作戦に参加し、19393月には南昌作戦に加わり、修水の渡河作戦で毒ガスを使用した[66]。続いて南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた[69]。やがて南昌陥落で作戦は中止し、626日には九江で帰還命令が下り、713日に日本に帰国、716日に召集解除となった[70]

193912月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『お茶漬の味』と改題)の脚本を執筆し、翌1940に撮影準備を始めたが、内務省の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された[71]。結局製作は中止となり、次に『戸田家の兄妹』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた[55]。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である笠智衆が初めて主演を務めた[4]。この撮影中に太平洋戦争が開戦し、1942に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹はビルマ作戦を描くことになり、小津が監督に抜擢された[56]。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった[72]

19436月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在した[56]。同行者には監督の秋山耕作と脚本家の斎藤良輔がおり、遅れてカメラマンの厚田雄春が合流した[56]。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、ペナンスバス・チャンドラ・ボースと会見したり、ジャワでロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった[73]。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった[74]。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した[32][75]。その中には『風と共に去りぬ』『嵐が丘』(1939年)、『怒りの葡萄』『ファンタジア』『レベッカ』(1940年)、『市民ケーン』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという[76]

1945815日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーへ、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス・オーストラリア軍の監視下にあるジュロンの民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った[4][77]。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた[78]。抑留中はゴム林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた[77]。暇をみてはスタッフと連句を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している[76]。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した[77]。翌19462月に小津も帰還し、12日に広島県大竹に上陸した[4]

戦後の活躍[編集]

晩春』(1949年)のポスター。

日本に帰還した小津は、焼け残った高輪の自宅に行くが誰もおらず、妹の登久の嫁ぎ先である千葉県野田町(現在の野田市)に疎開していた母のもとへ行き、やがて小津も野田町内の借家に移住した[79]1947に戦後第1作となる『長屋紳士録』を撮影したが、撮影中は千葉から通うわけにはいかず、撮影所内の監督室で寝泊まりするようになった[71]。この頃に撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の主人の姪である杉戸益子(後に中井麻素子)と親しくなり、以後彼女は小津の私設秘書のような存在となった[80][81]。益子は1957に小津と木下惠介の独身監督の媒酌で佐田啓二と結婚し、後に中井貴恵貴一をもうけた[79]。小津は佐田夫妻と親子同然の間柄となり、亡くなるまで親密な関係が続いた[80][81]

1948には新作『月は上りぬ』の脚本を書き上げ、東宝専属の高峰秀子を主演に予定したが、交渉が難航したため製作延期となり、代わりに『風の中の牝雞』を撮影した[82]。この作品は小津が畏敬した志賀直哉の『暗夜行路』をモチーフにしていると目されているが、あまり評判は良くなく、小津自身も失敗作だと認めている[50][71]。デビュー作からコンビを組んできた脚本家の野田高梧も作品を批判し、それを素直に認めた小津は、次作の『晩春』(1949年)からの全作品の脚本を野田と共同執筆した[83]。『晩春』は広津和郎の短編小説『父と娘』が原作で、娘の結婚というテーマを茶の湯など日本の伝統的な情景の中で描いた。また、原節子を主演に迎え、小津調と呼ばれる独自の作風の基調を示すなど、戦後の小津作品のマイルストーンとなった[52][84]。作品はキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールの日本映画大賞を受賞した[4]

次作の『宗方姉妹』(1950年)は新東宝製作で、初の他社作品となった[71]。当時の日本映画の最高記録となる約5000万円もの製作費が投じられたが、この年の洋画を含む興行配収1位になる大ヒット作となった[85]1951には『麦秋』を監督し、再びキネマ旬報ベスト・テン1位と毎日映画コンクール日本映画大賞に選ばれた[4]19521月、松竹大船撮影所の事務所本館が全焼し、小津が撮影中に寝泊まりしていた監督室も焼けたため、5月に母を連れて北鎌倉に転居[ 5]し、そこを終の棲家とした[87]。この年に戦前に検閲で撥ねられた『お茶漬の味』を撮影し、1953には小津の最高傑作のひとつに位置付けられている『東京物語』を撮影した[88]。同年9月、松竹を含む5つの映画会社は、同年に製作再開した日活による監督や俳優の引き抜きを防ぐために五社協定を締結し、それにより小津は松竹の専属契約者となった[4][88]

1954、戦後長らく映画化が実現できずにいた『月は上りぬ』が、日本映画監督協会の企画作品として日活が製作し、小津の推薦で田中絹代が監督することに決まった[89]。小津は他社作品ながら脚本を提供し、スポンサーと交渉するなど精力的に協力したが、日活は俳優の引き抜きをめぐり大映など五社と激しく対立していたため製作は難航した[90][91][ 6]。小津は監督協会代表者として日活との交渉に奔走し、田中を監督に推薦した責任上、彼女と同じ立場に身を置くため、98日に松竹と契約更新をせずにフリーとなった[32][91]。やがて作品は監督協会が製作も行い、配給のみ日活に委託することになり、キャスティングに難航しながらも何とか完成に漕ぎつけ、19551月に公開された[89]。小津はこの作品をめぐる問題処理にあたったこともあり、同年10月に監督協会の理事長に就任した[91]

小津はフリーの立場で松竹製作の『早春』(1956年)を撮影したあと、19562月に松竹と年1本の再契約を結び、以後は1年ごとに契約を更新した[92]。小津は次回作として、戦前に映画化された『愉しき哉保吉君』を自らの手でリメイクすることにしたが、内容が暗いため中止した[32]6月からは長野県蓼科にある野田の別荘「雲呼荘」に滞在し、その土地を気に入った小津は雲呼荘近くにある片倉製糸の別荘を借り、「無藝荘(むげいそう)」と名付けた[92]。次作の『東京暮色』(1957年)からは蓼科の別荘で脚本を執筆するようになり、無藝荘は東京から来た客人をもてなす迎賓館のような役割を果たした[83][92]195710月から11月にかけて『浮草物語』をリメイクした『大根役者』の脚本を書き上げ、19581新潟県佐渡島高田市(現在の上越市)でロケーション・ハンティングも敢行したが、ロケ先が雪不足のため撮影延期となった[71]

カラー映画時代[編集]

1950年代に日本映画界ではカラー化、ワイドスクリーン化が進んでいたが、小津はトーキーへの移行の時と同じように、新しい技術には慎重な姿勢を見せた[93]。ワイドスクリーンについては「何だかあのサイズは郵便箱の中から外をのぞいているような感じでゾッとしない[94]」「四畳半に住む日本人の生活を描くには適さない[95]」などと言って導入せず、亡くなるまで従来通りのスタンダードサイズを貫いた[93]。一方、カラーについては自分が望む色彩の再現がうまくいくかどうか不安に感じていたが、戦後の小津作品のカメラマンの厚田雄春によると、『東京物語』頃からカラーで撮る可能性が出ていて、いろいろ研究を始めていたという[96][97]1958年、小津は『彼岸花』を撮るにあたり、会社からカラーで撮るよう命じられたため、厚田の助言を受け入れて、色調が渋くて小津が好むの発色が良いアグファカラー英語版)を採用した[50][97]。この作品以降は全作品をアグファカラーで撮影した[96]

小津作品初のカラー映画となった『彼岸花』は、大映から山本富士子を借りるなどスターを並べたのが功を奏して、この年の松竹作品の興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績を記録した[71][98]19592月には映画関係者で初めて日本芸術院賞を受賞した[4]。この年は『お早よう』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『浮草』と改題して撮影した[71]1960には松竹で『秋日和』を撮影したが、主演に東宝から原節子と司葉子を借りてきたため、その代わりに東宝で1本作品を撮ることになり、翌1961に東宝系列の宝塚映画で『小早川家の秋』を撮影した[85]

196224日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった[4]。この年に最後の監督作品となった『秋刀魚の味』を撮影し、11月に映画人で初めて日本芸術院会員に選出された[99]1963には次回作として『大根と人参』の構想を進めたが、この脚本は小津の病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった[56][85][100]。『大根と人参』は小津没後に渋谷実が構想ノートをもとに映画化し、1965に同じタイトルで公開した[85]。小津の最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクションが製作するいすゞ自動車の宣伝映画『私のベレット』(1964年)の脚本監修だった[100]

闘病と死去[編集]

鎌倉市円覚寺にある小津安二郎の墓。

19634月、小津は数日前にできた右頸部悪性腫瘍のため国立がんセンターに入院し、手術を受けた[100]。手術後は患部にコバルトラジウムの針を刺す治療を受け、「そのへんに、オノか何かあったら、自殺したかったよ」と口を漏らすほど痛みに苦しんだ[101]7月に退院すると湯河原で療養したが、右手のしびれが痛みとなり、月末に帰宅してからは寝たきりの生活を送った[100][101]9月にがんセンターは佐田啓二など親しい人たちに、小津が癌であることを通告した[100]。小津の痛みは増すばかりで、好物の食べ物も食べられないほどになっていた[101]10月には東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院したが、11月に白血球不足による呼吸困難のため、気管支の切開手術をしてゴム管をはめた。そのせいで発声もほとんどできなくなり、壁にイロハを書いた紙を貼り、文字を指して意思疎通をした[4][100]

1211日、小津の容態が悪化し、佐田が駆けつけると死相があらわれていた[101]。そして1212日午後1240分、小津は還暦を迎えた当日に死去した[100]。翌日の通夜には、すでに女優を引退していた原節子が駆けつけた[102]1216日、松竹と日本映画監督協会による合同葬が築地本願寺で行われ、城戸が葬儀委員長を務めた[4]。生前に小津は松竹から金を借りており、会社は香典で借金を回収しようとしたが、葬儀委員を務めた井上和男により止められた[4][100]。墓は北鎌倉の円覚寺につくられ、墓石には朝比奈宗源の筆による「無」の一文字が記された[100]

作風[編集]

性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そういうことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないんだが、嫌いだからやらない。こういう所からぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくともぼくはそれをやる。

映画の文法的技法を使わないことに対する小津の発言[103]

小津は他の監督と明確に異なる独自の作風を持つことで知られ、それは「小津調」と呼ばれた。映画批評家の佐藤忠男は「小津の映画を何本か見て、その演出の特徴を覚えた観客は、予備知識抜きでいきなり途中からフィルムを見せられても、それが小津安二郎の作品であるかをほぼ確実に当てることができるだろう」と述べている[104]。小津調の特徴的なスタイルとして、ロー・ポジションで撮影したこと、極力カメラを固定したこと、人物や小道具を相似形に配置したこと、小道具や人物の配置に特別な注意を払ったこと、ディゾルブ英語版)やフェードなどの文法的技法を排したことなどが挙げられる。そのほかにもアメリカ映画の影響を受けたことや、同じテーマ・同じスタッフとキャストを扱ったことなども、小津作品の特徴的な作風に挙げられる。

アメリカ映画の影響[編集]

非常線の女』(1933)はアメリカのギャング映画を彷彿とさせる作品である[105]

戦後の小津は伝統的な日本の家庭生活を描くことが多かったが、若き日の小津は舶来品の服装や持物を愛好するモダンボーイで、1930年代半ばまでは自身が傾倒するアメリカ映画(とくに小津が好んだエルンスト・ルビッチキング・ヴィダーウィリアム・A・ウェルマンの作品)の影響を強く受けた、ハイカラ趣味のあるモダンでスマートな作品を撮っている[105][106][107][108]。例えば、『非常線の女』(1933年)はギャング映画の影響が色濃く見られ、画面に写るものはダンスホールやボクシング、ビリヤード、洋式のアパートなどの西洋的なものばかりというバタ臭い作品だった[105][108]。また、『大学は出たけれど』(1929年)と『落第はしたけれど』(1930年)はハロルド・ロイド主演の喜劇映画、『結婚学入門』『淑女は何を忘れたか』はルビッチの都会的なソフィスティケイテッド・コメディからそれぞれ影響を受けている[52][85]。小津のアメリカ映画への傾倒ぶりは、初期作品に必ずと言っていいほどアメリカ映画の英語ポスターが登場することからもうかがえる[85][107]

戦前期の小津作品には、アメリカ映画を下敷きにしたものが多い。デビュー作である『懺悔の刃』のストーリーの大筋はジョージ・フィッツモーリス英語版)監督の『キック・イン英語版)』(1922年)を下敷きにしており、ほかにもフランス映画の『レ・ミゼラブルフランス語版)』(1925年)と、ジョン・フォード監督の『豪雨の一夜英語版)』(1923年)からも一部を借用している。また、『出来ごころ』はヴィダーの『チャンプ英語版)』(1931年)、『浮草物語』はフィッツモーリスの『煩悩英語版)』(1928年)、『戸田家の兄妹』はヘンリー・キング監督の『オーバー・ザ・ヒル英語版)』(1931年)をそれぞれ下敷きにしている[85]

佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや野暮ったいものを注意深く取り去り、きれいでスマートなものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している[109]。実際に小津は自分が気に入らないものや美しいと思われないものを、画面から徹底的に排除した[110]。例えば、終戦直後の作品でも焼け跡の風景や軍服を着た人物は登場せず、若者はいつも身ぎれいな恰好をしている[110]。小津自身も「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。現実を、その通りに取上げて、それで汚い物が汚らしく感じられることは好ましくない。映画では、それが美しく取上げられていなくてはならない」と述べている[111]

テーマ[編集]

初期の小津作品には、昭和初期の不況を反映した社会的なテーマを持つ作品が存在する[52][112]。『大学は出たけれど』では不況による学生の就職難を描き、タイトルは当時の世相を表す言葉として定着した[113]。『落第はしたけれど』では大学を卒業して就職難になるよりも、落第した方が学生生活を楽しめて幸福だという風刺を利かしている[85][52]。『会社員生活』(1929年)と『東京の合唱』では失業したサラリーマンを主人公にして、その暗くて不安定な生活と悲哀をユーモラスの中に描いている[112][114]。こうした作品は不況下の小市民社会の生活感情をテーマにした「小市民映画」のひとつに位置付けられている[112][115]。小津のもうひとつの小市民映画『生れてはみたけれど』では、子供の視点から不景気時代のサラリーマンの卑屈さを辛辣に描き、そのジャンルの頂点に達する傑作と目されている[114][116]。『東京の宿』(1935年)や『大学よいとこ』『一人息子』(1936年)でも不景気による失業や就職難を扱い、内容はより暗くて深刻なものになった[52][117]

小津は生涯を通じ家族を題材にとり、親と子の関係や家族の解体などのテーマを描いた[118][119][120]。映画批評家の小倉真美は、小津を「一貫して親子の関係を追究してきた作家」と呼び[120]ドナルド・リチーは「主要なテーマとしては家庭の崩壊しか扱わなかった」と述べている[119]。家族の解体に関しては、娘の結婚による親子の別れや、母や父などの死がモチーフとなることが多い[93][119]。また、小津作品に登場する家族は構成員が欠けている場合が多く、誰かが欠けている家族が娘の結婚や肉親の死でさらに欠けていくさまが描かれている[85]。『晩春』以降はブルジョワ家庭を舞台に、父娘または母娘の関係や娘の結婚を繰り返し描き、遺作まで同じようなテーマとプロットを採用した[93][104][118][121]。同じテーマだけでなく同じスタイルにも固執したため、批評家からはしばしば「進歩がない」「いつも同じ」と批判されたが、これに対して小津は自身を「豆腐屋」に例え[104][122]、「豆腐屋にカレーだのとんかつ作れったって、うまいものが出来るはずがない[122]」「僕は豆腐屋だ。せいぜいガンモドキしか作れぬ。トンカツやビフテキはその専門の人々に任せる[123]」などと発言した。

製作方法[編集]

脚本[編集]

小津は自ら脚本作りに参加し、ほとんどの作品には共作者がいた。サイレント映画時代は原作者や潤色者として脚本作りに参加し、その際に「ジェームス・槇[ 1]」というペンネームを多用した[1]。この名前は小津とその共作者の池田忠雄伏見晁北村小松との共同ペンネームとして考案されたが、誰も使わなかったため小津専用の名前になり、11本の作品でクレジットされている[50][55]。他にも『突貫小僧』(1929年)で「野津忠二[ 7]」、『生れてはみたけれど』で「燻屋鯨兵衛」というペンネームを使い、さらに『東京の女』(1933年)の「エルンスト・シュワルツ」、『東京の宿』の「ウィンザァト・モネ」のように、原作者として冗談めかした外国人名を名乗ったこともあった[55][1][ 8]。当時の共同執筆について、池田忠雄は自分が下書きをし、小津がそれを手直しすることが多かったと述べている[125]。伏見晁によると、小津はシーンの構成から会話の細部に至るまで全面的に手を入れたため、伏見が書いた脚本でも完成時には小津のものに換骨奪胎されたという[55]

『晩春』からの全作品は野田高梧とともに脚本を書き、野田は小津の女房役ともいえる存在となった[126]2人は旅館や別荘に籠もり、じっくりと時間をかけて脚本を書いた[36][93][127]。小津と野田はうまが合い、酒の量や寝起きの時間も同じで、セリフの言葉尻を「わ」にするか「よ」にするかまで意見が一致したため、コンビを組んで仕事をするにはとても都合が良かったという[36][50]。脚本作りではストーリーよりも登場人物を優先し、俳優の個性に基づいて配役を選び、それを念頭において登場人物の性格とセリフを作った[128]。映画評論家の貴田庄が「小津の脚本書きは、頭の中で映画を撮りながら書くことと等しかった」と述べたように、小津は頭の中でコンティニュイティを考えながら脚本を書いたため、やむを得ない状況を除いて脚本が変更されることはなかった[127]

撮影[編集]

東京物語』(1953)を撮影中の小津(最右の白いピケ帽を被った人物)と原節子

小津はロケーション・ハンティングを入念に行い、撮影する場所を厳密に定めた[129]。屋外シーンのほとんどはロケーションだが、オープンセットを使うことは滅多になく、室内シーンをはじめ飲み屋街や宿屋のシーンなどもスタジオ内のステージセットで撮影した[130]。撮影にあたっては、1ショットごとにイメージ通りの映像になるよう、自分でカメラのファインダーを覗きながら、画面上の人物や小道具の位置をミリ単位で決めた[129][131]。スタッフに位置を指示する時は、「大船へ10センチ」「もう少し鎌倉寄り」というように、大船撮影所近くの地名や駅名を用いて方角を伝えた[132]

佐藤が小津のことを「構図至上主義者」と呼んだように、小津は何よりも11つのショットの構図の美しさを重視し、小道具の位置だけでなく形や色に至るまで細心の注意を払った[133][134]。助監督を務めた篠田正浩によると、畳のへりの黒い線が、画面の中を広く交錯しているように見えて目障りだとして、線を消すためだけに誰も使わない座布団を置いたという[135]。それぞれのショットの構図を優先するため、同じシーンでもショットが変わるたびに俳優や小道具の位置を変えてしまうこともあった[133][136]。これではショット間のつながりがなくなってしまうが、篠田がそれを小津に指摘すると「みんな、そんなことに気付くもんか」と言い、篠田も試写を見ると違和感がなかったという[137]

画面上の小道具や衣装は小津自身が選び、自宅にある私物を持ち込むこともあった[85][129][138]。茶碗や花器などの美術品は、美術商から取り寄せた本物を使用し、カラー作品では有名画家の実物の絵画を使用した[97][139][140]。例えば、『秋日和』では梅原龍三郎の薔薇の絵、山口蓬春の椿の絵、高山辰雄の風景画、橋本明治の武神像図、東山魁夷の風景画を背景に飾っている[140]。本物を使うことに関して小津は「床の間の軸や置きものが、筋の通った品物だと、いわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのと第一私の気持が変って来る人間の眼はごまかせてもキャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るものである」と述べている[36]。また、赤を好む小津は、画面の中に赤色の小道具を入れることが多く、カラー作品では赤色のやかんがよく写っていることが指摘されている[141]

演技指導[編集]

小津は俳優の動きや視線、テンポに至るまで、演技のすべてが自分のイメージした通りになることを求めた[142]。小津は自ら身振り手振りをしたり、セリフの口調やイントネーション、間のとり方までを実際に演じてみせたりして、俳優に厳密に演技を指導したが、笠智衆は小津が「ヒッチコックのように自分の作品に出演したら、大変な名演技だったろう」と述べている[143]。演技の指示は「そこで三歩歩いて止まる[129]」「紅茶をスプーンで2回半かき回して顔を左の方へ動かす[144]」「手に持ったお盆の位置を右に2センチ、上に5センチ高くして[138]」という具合に細かく、俳優はその指示通りに動いたため[129]、飯田蝶子は「役者は操り人形みたいなもの」だったと述べている[145]

構図を重要視した小津は、演技も構図にはまるようなものを求めた[143]。『長屋紳士録』で易者を演じた笠智衆によると、机の上の手相図に筆で書き込むというシーンで、普通に筆を使うと頭が下がってしまうが、小津は頭が動くことで構図が崩れてしまうのを避けるため、頭の位置を動かさずに演じるよう指示し、笠が「そりゃちょっと不自然じゃないですか」と抗議したところ、小津は「君の演技より映画の構図のほうが大事なんだよ」と言い放ったという[143][146]

小津は自分がイメージした通りになるまで、俳優に何度も演技をやり直させ、1つのアクションでOKが出るまでに何十回もテストを重ねることもあった[138][142]淡島千景は『麦秋』で原節子と会話するシーンにおいて、原と同じタイミングでコップを置いてからセリフを発し、原の方を向くという演技が上手くいかず、小津に「目が早いよ」「手が遅いよ」「首が行き過ぎだよ」と言われてNGを出し続け、20数回までは数えたが、その後は数え切れなくてやめたほどだったという[147]岩下志麻は『秋刀魚の味』で巻尺を手で回すシーンにおいて、巻尺を右に何回か回してから瞬きをして、次に左に何回か回してため息をつくという細かい注文が出されたが、何度やってもOKが出ず、小津に「もう一回」「もう一回」と言われ続け、80回ぐらいまでNGを数えたという[148]

笠智衆は「小津組では自分じゃ何をやっているのかちっとも分からなかったですけど、小津先生の言われるままに(笑)。他力本願っていうのか、みんな監督のいう通りです。科白の上げ下げから、動きまで全部。僕だけじゃなく、全員そうですから。撮影の前に全員集められて、科白の稽古するんです。ホンに高低を書き込んで、音符みたいに覚えるわけです。その通り言わないとOKにならないから、もう必死で(笑)。総て監督中心でねえ、大道具、小道具からカメラの位置、衣装と、全部監督が決めちゃうんです。俳優も道具としか見てなかったんじゃないですねえ。説明は何もないです。この科白や動きが何のためにあるのか、こっちは分からない(笑)。言われた通りやるしかないです。小津組に慣れない俳優さんがね、『先生、ここはどういう気持ちでしょうか』って尋ねるとね、『気持ちなし』って(笑)。言われた通りやりゃいいんだってことですね。役作りなんてそんなものは無いです」などと述べている[149]

それは小津組以外との撮影では摩擦を生むこともあった。宝塚映像(東宝)で制作された『小早川家の秋』では、「小刻みに数秒のカットを重ね、表情も動作もできる限り削り取ろうとする小津の手法に森繁久彌山茶花究が悲鳴を上げた。森繁は自分が絵具にされたように感じたという。「ねえ、絵描きさん、ところであなたなにを描いているんです」そう聞いて見たい気分にさせられた。一夜、二人は小津の宿を訪ね、思う様のことをいった。「松竹の下手な俳優では、五秒のカットをもたすのが精一杯でしょう。でも、ここは東宝なんです。二分でも三分でも立派にもたせて見せます」(高橋治・作家)[150]」という。

小津組[編集]

『東京物語』に主演した原節子笠智衆は、小津作品の常連俳優として知られる。

小津は同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「小津組」と呼ばれた[126]。小津組の主な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)[151]

脚本(原案や構成も含む):野田高梧26本)、池田忠雄16本)、伏見晁8本)、北村小松4本)

撮影:茂原英雄32本)、厚田雄春14本)

音楽:伊藤宣二7本)、斎藤高順7本)

美術:浜田辰雄19本)、下河原友雄3本)

その他スタッフ:妹尾芳三郎(録音・調音、15本)、浜村義康(編集、13本)、山内静夫(製作、6本)、山本武(製作、4本)

俳優(クレジット有):笠智衆25[ 9])、坂本武24本)、斎藤達雄23本)、飯田蝶子18本)、吉川満子14本)、突貫小僧12本)、田中絹代10本)、大山健二三宅邦子杉村春子9本)、高橋とよ8本)、三井弘次菅原通済7本)、原節子桜むつ子中村伸郎須賀不二夫6本)、伊達里子岡田時彦坪内美子佐分利信長岡輝子5本)

映像スタイル[編集]

ロー・ポジション[編集]

小津のよく知られた映像手法として、カメラを低い位置に据えて撮影する「ロー・ポジション」が挙げられる[153][154][155]。ロー・ポジションの意味については、「畳に座ったときの目の高さ」「子供から見た視線」「客席から舞台を見上げる視点」など諸説ある[156]。小津自身は日本間の構図に安定感を求めた結果、ロー・ポジションを採用したと述べている[157][156]。厚田雄春は、標準のカメラ位置で日本間を撮影すると、畳のへりが目について映像が締まりにくくなるため、それが目立たないようロー・ポジションを用いたと述べている[153][156]。小津が初めてカメラ位置を低くしたのは『肉体美』(1928年)で、その理由はセット撮影で床の上が電気コードだらけになり、いちいち片付けたり、映らないようにしたりする手間を省こうとしたためで、床が映らないようカメラ位置を低くするとその構図に手応えを感じ、それからはカメラの位置が段々低くなったという[36]。ロー・ポジションで撮影するときは、「お釜の蓋」と名付けた特製の低い三脚を使用し、柱や障子などの縦の直線が歪むのを避けるために50ミリレンズを使用した[36][158]

小津が「ロー・アングルを使用した」と言われることもあるが、ロー・アングルはカメラの位置ではなくアングルについて定義する言葉であり、その言葉の曖昧な使用がそのまま普及したものである[154]。映画批評家のデヴィッド・ボードウェルは、「小津のカメラが低く見えるのはそのアングルのためではなく、その位置のためである」と指摘している[159]。ロー・アングルはカメラアングルを仰角にして、低い視点から見上げるようにして撮影することを意味するが、小津作品ではカメラアングルを数度だけ上に傾けることはあっても、ほとんど水平を保っている[154][155][159]。また、カメラ位置は特定の高さに固定したわけではなく、撮影対象に合わせて高さを変え、その高さに関わらず水平のアングルに構えた[154][155][159]。例えば、日本間ではちゃぶ台の少し上の高さにカメラを置いたが、テーブルや事務机のシーンではカメラをその高さに上げている[154]。ボードウェルは「小津のカメラ位置は絶対的なものではなく相対的なものであり、常に撮影する対象よりも低いが、対象の高さとの関係で変化する」と指摘している[159]

移動撮影[編集]

『晩春』で原節子たちがサイクリングをするシーンでは、移動撮影とパンが用いられている[160]

小津は移動撮影をほとんど使わず、できるだけカメラを固定して撮影した[161][162]。晩年に小津は移動撮影を「一種のごまかしの術で、映画の公式的な技術ではない」と否定したが[103]、初期作品では積極的に使用しており、『生れてはみたけれど』では43回も使われている[161]。やがて表現上の必然性がある場合を除くと使うのをやめ、とくに表面的な効果を出したり、映画的話法として使用したりすることはほとんどなくなり、トーキー作品以後は1本あたりの使用回数が大きく減った[161]。現存作品の中では『父ありき』と『東京暮色』とカラー時代の全作品において、全てのシーンが固定カメラで撮影されている[163]。また、パンの使用もごく数本に限定されている[164]

後年の小津作品における移動撮影は、カメラを動かしてもショット内の構図が変化しないように撮られている[160][165]。例えば、屋外で2人の人物が会話をしながら歩くシーンでは、移動しても背景が変化しない場所(長い塀や並木道など)を選んで、他の通行人を画面に登場させないようにし、人物が歩くのと同じスピードでカメラを移動させた[160][165]。貴田はこうした移動撮影が「静止したショットのように見える」と述べている[165]。『麦秋』で原節子と三宅邦子が並んで話しながら砂丘を歩くシーンでは、小津作品で唯一のクレーン撮影が行われているが、これも砂丘の高い方から低い方へ歩いて行くときに、構図が変化しないようにするために用いられている[164][166]

180度ルール破り[編集]

1:会話シーンにおけるイマジナリー・ラインとカメラ位置。180度ルールでは「AB」の位置で撮影するが、小津は「AC」の位置で撮影した。

2人の人物が向かい合って会話するシーンを撮影するときには、「180度ルール英語版)」という文法的規則が存在する[167]180度ルールでは図1に示すように、人物甲と乙の目を結ぶイマジナリー・ライン(想定線やアクション軸とも)を引き、それを跨がないようにして線の片側、すなわち180度の範囲内にだけカメラを置き(カメラ位置AB)、カメラ位置Aで甲を右斜め前から撮り、次にカメラを切り返して、カメラ位置Bで乙を左斜め前から撮影する。そうすることで「AB」のように甲は右、乙は左を向くことになるため、甲と乙の視線の方向が一致し、2人が向かい合って会話しているように見えた[167][168][169]

しかし、小津はこの文法的規則に従わず、イマジナリー・ラインを跨ぐようにしてカメラを置いた(カメラ位置AC)。すなわち甲をカメラ位置Aで右斜め前から撮影したあと、線を越えたカメラ位置Cで乙を右斜め前から撮影した。そうすると「AC」のように甲も乙も同じ右を向くことになるため、視線の方向が一致しなかった[170][171]。この文法破りは日本間での撮影による制約から生まれたもので、日本間では人物の座る位置とカメラの動く範囲が限られてしまうが、その上で180度ルールに従えば、自分の狙う感情や雰囲気を自由に表現できなくなってしまうからだった[170]。小津はこれを「明らかに違法」と認識しているが、ロングショットで人物の位置関係を示してさえおけば、あとはどんな角度から撮っても問題はないと主張し、「そういう文法論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきもの」だと述べている[171]。小津によると、『一人息子』の試写後にこの違法について他の監督たちに意見を聞いたところ、稲垣浩は「おかしいが初めの内だけであとは気にならない」と述べたという[170]。また、小津はカメラを人物の真正面の位置に据え、会話する2人の人物を真正面の構図から撮影することも多かった[168][169]

相似形の構図[編集]

『東京物語』では、笠智衆と東山千栄子演じる老夫婦が、同じ方向を向いて、同じ姿勢で並んで座る相似形の構図が登場する[172]

小津作品のショットには、人物や物が相似形に並んでいる構図が多用されている[172][173]。相似形の構図とは、大きさは異なっていても、形の同じものが繰り返されている構図のことをいい、貴田によると、その画面は「きわめて整然とした、幾何学的な印象を与える」という[174]。相似形の構図の例は『浮草』のファースト・ショットで、画面奥にある白い灯台と、画面手前にあるビンが相似形に並べられている[175]。佐藤は同じ画面内に2人の人物がいるシーンにおいて、人物同士が同じ方向を向いて並行して座っていることが多いことを指摘している[176]。小津の相似形への好みは、登場人物の行為にまで及び、しばしば同じ動作を反復するシーンが見られる[177][178]。『父ありき』で父子が渓流で釣りをするシーンでは、父と息子が同じ姿勢で相似形に並んでいるが、2人は同じタイミングで釣竿を上げ、投げ入れるという動作をしている[172][177]

映画評論家の千葉伸夫は、小津が相似形の人物配置を好んだ理由について、「二人の人物の間には一見、対立がないように見えるが、実は微妙なズレがあり、そんな二人の内面を引き出すため」であると指摘している[172]。一方、佐藤によると、相似形の人物配置は「対立や葛藤を排して、二人以上の人物が一体感で結ばれている調和の世界への願望の表明」であるという[179]。また、相似形の構図は、登場人物が別の動作をすることなどにより崩れるときがあるが[172]、貴田は人物の演技において相似形が崩れると、「おかしさが強調され、ギャグなどに変わる」と指摘している[174]

ショット繋ぎ[編集]

『晩春』におけるカーテン・ショット。

小津はショットを繋ぐ技法である「ディゾルブ英語版)(オーバーラップとも)」と「フェード」をほとんど使わなかった[93][180][181]。ディゾルブはある画面が消えかかると同時に次の画面が重なって出てくる技法で、フェードは画面がだんだん暗くなったり(フェード・アウト)、反対に明るくなったり(フェード・イン)する技法である[182]。どちらも場面転換をしたり、時間経過を表現したりするための古典的な映画技法として用いられた[180]。しかし、小津はこうした技法を「ひとつのゴカマシ」とみなし[153]、「カメラの属性に過ぎない」として否定した[50]

ディゾルブはごく初期に例外的にしか使っておらず、小津自身は『会社員生活』で使用してみて「便利ではあるがつまらんものだ[50]」と思い、それ以降はごく僅かな使用を除くと、まったくといっていいほど使用しなかった[181]。佐藤によると、小津は画面の秩序感を整えることに固執していたが、ディゾルブを使えばそれを処理している僅かな時間により、厳密な構図の秩序感が失われてしまうため、それを避ける目的でディゾルブを使用しなかったという[183]。一方、フェードはディゾルブほど厳密に排除せず、比較的後年まで用いられた[181][183]。小津は『生れてはみたけれど』から意識的に使わなくなったと述べているが[50]、その後もファースト・ショットとラスト・ショットを前後のタイトル部分と区切るためだけに使用した。しかし、カラー作品以後はそれさえも使わなくなり、すべて普通のカットだけで繋いだ[181]

小津はディゾルブやフェードの代わりに、場面転換や時間経過を表現する方法として「カーテン・ショット」と呼ばれるものを挿入した[180]。カーテン・ショットは風景や静物などの無人のショットから成り、作品のオープニングやエンディング、またはあるシーンから次のシーンに移行するときに挿入されている[164][180]。カーテン・ショットの命名者は南部圭之助で、舞台のドロップ・カーテンに似ていることからそう呼んだ[184]。他にも「空ショット(エンプティ・ショット)」と呼ばれたり、枕詞の機能を持つことから「ピロー・ショット」と呼ばれたりもしている[164][185]

同じ役名・役柄[編集]

小津作品は前述のように同じテーマやスタイルを採用したが、同じ役名も繰り返し登場している[186]。例えば、坂本武は『出来ごころ』『浮草物語』『箱入娘』『東京の宿』『長屋紳士録』で「喜八」を演じており、『長屋紳士録』以外の4本は喜八を主人公にした人情ものであることから「喜八もの」と呼ばれている[187]。この喜八ものでは、飯田蝶子が『出来ごころ』以外の3本で「おつね」役を演じた。笠智衆は『晩春』『東京物語』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』の5本で「周吉」役、『父ありき』『秋刀魚の味』の2本で「周平」役を演じた[186]。原節子も『晩春』『麦秋』『東京物語』で「紀子」役を演じており、この3本は「紀子三部作」とも呼ばれている[85]。他にも年配女性に「志げ」、長男に「康一」「幸一」、小さな子供に「実」「勇」、若い女性に「アヤ」という役名が頻出し、苗字では「平山」がよく登場した[186]。また、同じ俳優が同じ役柄を演じることも多い。例えば、笠智衆は父親役、三宅邦子は妻役、桜むつ子水商売の女性役を何度も演じた。『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』の3本では、中村伸郎北竜二が主人公の友人役、高橋とよが料亭若松の女将役を演じた[126]

音楽[編集]

小津作品の音楽は、普通の作品とは異なる特色を持ち、小津調の音楽と呼ばれている[188][189]。その特色は音楽を登場人物の感情移入の道具として使用したり、劇的な効果を出したりするために使ったりするのを避けたことと、深刻なシーンに明るい音楽を流したことである[188][93]。小津は「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑稽な曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる」と述べている[36]。こうした特色は作曲家の斎藤高順とコンビを組んだ『早春』以降の作品に見られる[188]。『早春』の主人公が病床の友人を見舞うシーンでは、内容が深刻で暗いことから、小津が好きな「サ・セ・パリ」「バレンシア」のような明るい曲を流そうと提案し、斎藤が明るい旋律の曲「サセレシア」を作曲した。小津はこの曲を気に入り、『東京暮色』『彼岸花』でも使用した[188][189]。小津はその後いつも同じような曲を注文し、斎藤は「サセレシア」を少しアレンジした曲や、ポルカ調の曲を作曲した[188]。その他の音楽の特徴として、一定不変のテンポとリズム、旋律の繰り返し、弦楽器を中心としたさわやかなメロディが指摘されている[188][189]

人物[編集]

1948頃の小津安二郎。

人柄[編集]

小津はユーモラスな人物で、冗談や皮肉を交えてしゃべることが多く、厚田雄春はそんな小津を「道化の精神」と呼んだ[190][191][192]人見知りをする性格で[193]、とくに女性に対してはシャイであり、そのために生涯独身を貫いたとも言われている[194]。そんな小津は母を愛していたが、恥ずかしがり屋だったため、人前ではわざと母をそんざいに扱っているような態度をとり、「ばばぁは僕が飼育してるんですよ」などと冗談を言ったという[83][190]

趣味・嗜好[編集]

小津は大の好きとして知られた[190]。野田と脚本を書くため長野県蓼科高原の別荘に滞在したときは、毎日のように朝から何合もの酒を飲みながら仕事をした[92][195]。野田によると、1つの脚本を書き終わるまでに100本近くの一升瓶を空けたこともあり、小津はその空き瓶に123…と番号を書き込んでいたという[83]。撮影現場でも、夕方になると「これからはミルク(酒)の時間だよ」と言って仕事を切り上げ、当時は当たり前だった残業をほとんどすることなく、酒盛りを始めたという[139][196]

小津は映画のシナリオ執筆の参考を兼ね、食文化に精通していた。特に鰻が好きで大晦日は映画関係者を連れて南千住の鰻屋の名店「尾花」で年越し鰻を食べていた[197][198]。一般的に大晦日は細く長く生きることを祈願して年越し蕎麦を食べることが多いが、小津は太く長い方がいいという独自の考えから鰻を選んでいた[198]豚カツも大好物であり、『一人息子』『お茶漬の味』『秋日和』などの映画にも、豚カツにまつわる場面や台詞が登場している[199]。特に遺作『秋刀魚の味』では、小津が常連であった蓬莱屋を模したセットで、登場人物が実際に蓬莱屋のカツを食べる場面を撮影するほどであった[200]

趣味としてはスポーツを好み、中学時代は柔道部に所属し[201]、若い頃はボクシングスキーに打ち込んだが[43][202]、生涯を通して最も熱を入れていたのは野球相撲だった[201][203]。野球は阪神タイガースのファンで、観戦するのも自分でやるのも好きだった[203]。小津の野球好きは、小津組のスタッフに野球の強い人を好んで入れるほどで、自身も松竹大船の野球チームに所属した[139][203]。相撲は吉葉山のファンで、撮影が大相撲の場所と重なると、ラジオ中継が始まる時間に合わせて切り上げたという[139][203]

写真を撮るのも好きで、その趣味は生涯続いた[204][205]。小津のカメラ歴は中学時代に始まり、その頃に流行したコダック社の小型カメラのベス単で撮影を楽しんだ[206]1930年代初頭には高級品だったライカを手に入れ、自ら現像を行ったり、写真引き伸ばし機を購入したりするなど、ますます写真撮影に凝った[157][206]1934年には写真誌『月刊ライカ』に2度も写真が掲載された[207]。日中戦争に応召されたときは、報道要員ではないにもかかわらず、著名な監督だということで特別にライカの携行を認められ、戦地で4000枚近くの写真を撮影した[206]。そのうち8枚は1941年に雑誌『寫眞文化』で「小津安二郎・戦線寫眞集」として特集掲載されたが、それ以外は1952年の松竹大船撮影所の火事で焼失した[87][206][207]

子供の頃から絵を描くことも好きで、とてもうまかったという[202][208]。小学校高学年の頃には当時の担任曰く「大人が舌を巻くほどの才能」があり、中学時代にはアートディレクターを志したこともあった[17][19]。小津の絵の趣味は亡くなるまで続いたが、映画監督としてのキャリアの傍らでグラフィックデザイナーとしての一面を見せている[202][208]。例えば、日本映画監督協会のロゴマークをデザインしたり、交友のある映画批評家の筈見恒夫岸松雄の著作や『山中貞雄シナリオ集』(1940年)などの装丁を手がけたりした[208]。また、達筆だった小津は『溝口健二作品シナリオ集』(1937年)の題字や、京都の大雄寺にある山中貞雄碑の揮毫を手がけている[209]。戦後の監督作品では、映画の中の小道具や看板のデザインを自ら手がけている[208]。自作の題字やクレジット文字も自分で書き、カラー映画になると白抜き文字に赤や黒の文字を無作為に散りばめるなど、独自のデザイン感覚を発揮している[208][209]

里見弴との関係[編集]

小津は中学時代から里見弴の小説を愛読していて、『戸田家の兄妹』では里見の小説から細部を拝借している[210]。小津と里見は『戸田家の兄妹』の試写会後の座談会で初対面し、小津は里見の演出技術に関する的確な批評に敬服した[210][211]。『晩春』でも試写を見た里見からラストシーンについてアドバイスをもらい、この作品以降は里見に脚本を送って意見を求めるようになった[85][210]1952年に小津が北鎌倉に移住すると、近所に住んでいた里見との親交が深まり、お互いの家を訪ねたり、野田と3人でグルメ旅行をしたりするほどの仲となった[4][211]。里見は小津を「私の生涯における数少ない心友のうちのひとり」と呼んでいる[211]。晩年は里見とともに仕事をすることも多くなった。『彼岸花』『秋日和』では里見とストーリーを練り、里見が原作を書きながら、それと並行して小津と野田が脚本を書くという共同作業をとった[85]1963年にはNHKのテレビドラマ『青春放課後』の脚本を里見と共同執筆した[100]。また、里見の四男である山内静夫は、『早春』以降の松竹の小津作品でプロデューサーを務め、小津は山内とも私生活での付き合いを深めた[92]

評価・影響[編集]

ヴィム・ヴェンダースは、小津の影響を受けた監督として知られる。

小津は1930年代から日本映画を代表する監督のひとりとして認められ、多くの作品が高評価を受けた[59][212][213]キネマ旬報ベスト・テンでは20本の作品が10位以内に選出され、そのうち6本が1位になった[214]。小津と同年代の批評家は、小津調による様式美と保守的なモラルのために高い評価を下したが、戦後世代の若い批評家や監督からは「テンポが遅くて退屈」「現実社会から目を背けている」「ブルジョワ趣味に迎合している」「映画の特質である動的な魅力に乏しい」などと批判されることもあった[213][215]松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手である吉田喜重もそのひとりで、ある映画雑誌の対談で『小早川家の秋』を「若い世代におもねろうとしている」と批判した。すると小津は1963年の松竹監督新年会の席上で、末席にいた吉田に無言で酒を注ぐことでこれに反論し、しまいに「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」「君なんかに俺の映画が分かってたまるか」と声を荒げた[100][216]。これは小津が若い世代に感情を露にした珍しい出来事だった[100]

1950年代前半から海外で日本映画が注目され、とくに黒澤明溝口健二の作品が海外の映画祭で高評価を受けるようになったが、小津作品は日本的で外国人には理解されないだろうと思われていたため、なかなか海外で紹介されることがなかった[88]。小津作品が最初に海外で評価されたのは、1958年にイギリスロンドン映画祭で『東京物語』が上映されたときで、映画批評家のリンゼイ・アンダーソンらの称賛を受け、最も独創的で創造性に富んだ作品に贈られるサザーランド杯を受賞した[217]。その後アメリカやヨーロッパでも作品が上映されるようになり、海外での小津作品の評価も高まった[71][213]。なかでも『東京物語』は、2012英国映画協会の映画雑誌サイト・アンド・サウンド英語版)が発表した「史上最高の映画トップ100英語版)」で、監督投票部門の1位に選ばれた[218]

国内外の多くの映画監督が小津に敬意を表し、その影響を受けている。ヴィム・ヴェンダースは小津を「私の師匠」と呼び、『ベルリン・天使の詩』(1987年)のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、フランソワアンドレイに捧ぐ」という一文を挿入した[219][220]。さらにヴェンダースは日本で撮影したドキュメンタリー『東京画』(1985年)で小津作品をオマージュした[221]。小津の生誕100周年にあたる2003には、ホウ・シャオシェンが『珈琲時光』、アッバス・キアロスタミが『5 five 小津安二郎に捧げる英語版)』をそれぞれ小津に捧げる形で発表した[222]周防正行は監督デビュー作であるピンク映画変態家族 兄貴の嫁さん』(1984年)で小津作品を模倣した[223]ジム・ジャームッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年)で小津作品の題名から取った名前の競走馬を登場させている[224]。ほかにもアキ・カウリスマキ[225]クレール・ドゥニ[226]エリア・スレイマン[227]黒沢清[228]青山真治[229]などが小津の影響を受けている。

作品[編集]

監督作品[編集]

小津の監督作品は54本存在するが、そのうち17本のサイレント映画のフィルムが現存していない。以下の作品一覧は『小津安二郎全集』上下巻と『小津安二郎 大全』の「小津安二郎 全作品ディテール小事典」を出典とする。

凡例

×印はフィルムが現存しない作品(失われた映画
△印はフィルムの一部だけが現存する作品
印はサウンド版作品
◎印はカラー作品

サイレント映画

懺悔の刃1927年)×

若人の夢1928年)×

女房紛失1928年)×

カボチヤ1928年)×

引越し夫婦1928年)×

肉体美1928年)×

宝の山1929年)×

学生ロマンス 若き日1929年)

和製喧嘩友達1929年)△

大学は出たけれど1929年)△

会社員生活1929年)×

突貫小僧1929年)△

結婚学入門1930年)×

朗かに歩め1930年)

落第はしたけれど1930年)

その夜の妻1930年)

エロ神の怨霊1930年)×

足に触つた幸運1930年)×

お嬢さん1930年)×

淑女と髯1931年)

美人哀愁1931年)×

東京の合唱1931年)

春は御婦人から1932年)×

大人の見る繪本 生れてはみたけれど1932年)

青春の夢いまいづこ1932年)

また逢ふ日まで1932年)×□

東京の女1933年)

非常線の女1933年)

出来ごころ1933年)

母を恋はずや1934年)

浮草物語1934年)

箱入娘1935年)×□

東京の宿1935年)

大学よいとこ1936年)×□

トーキー映画

鏡獅子1936年) - 記録映画

一人息子1936年)

淑女は何を忘れたか1937年)

戸田家の兄妹1941年)

父ありき1942年)

長屋紳士録1947年)

風の中の牝雞1948年)

晩春1949年)

宗方姉妹1950年)

麦秋1951年)

お茶漬の味1952年)

東京物語1953年)

早春1956年)

東京暮色1957年)

彼岸花1958年)◎

お早よう1959年)◎

浮草1959年)◎

秋日和1960年)◎

小早川家の秋1961年)◎

秋刀魚の味1962年)◎

その他の作品[編集]

映画

銀河(1931年、清水宏監督) - スキー場面の応援監督[4]

瓦版かちかち山(1934年、井上金太郎監督) - 原作(ジェームス・槇名義)[56]

限りなき前進1937年、内田吐夢監督) - 原作[56]

美しい横顔(1942年、佐々木康監督) - 構成[230]

恋文1953年、田中絹代監督) - 応援出演[4]

月は上りぬ1955年、田中絹代監督) - 脚本(斎藤良輔と共同)[56]

血槍富士1955年、内田吐夢監督) - 企画協力[32]

私のベレット1964年、大島渚監督) - 脚本監修[100]

大根と人参1965年、渋谷実監督) - 原案[56]

暖春1965年、中村登監督) - 原作(『青春放課後』の脚色作品)[56]

テレビドラマ

青春放課後1963年、NHK - 脚本(里見弴と共同)[56]

ラジオドラマ

箱入娘(1935年、NHKラジオ第1放送 - 演出[32]

舞台

春は朗かに(1934年、帝国劇場 - 演出[4]

健児生まる(1942年、大阪劇場 - 演出[4]

受賞歴[編集]

映画賞[編集]

部門

作品

結果

出典

キネマ旬報ベスト・テン

1932

日本映画ベスト・テン

大人の見る繪本 生れてはみたけれど

1

[231]

1933

日本映画ベスト・テン

出来ごころ

1

[232]

1934

日本映画ベスト・テン

浮草物語

1

[233]

1941

日本映画ベスト・テン

戸田家の兄妹

1

[234]

1949

日本映画ベスト・テン

晩春

1

[235]

1951

日本映画ベスト・テン

麦秋

1

[236]

毎日映画コンクール

1949

日本映画大賞

『晩春』

受賞

[237]

監督賞

受賞

脚本賞

受賞

1951

日本映画大賞

『麦秋』

受賞

[4]

1963

特別賞

-

受賞

[238]

ブルーリボン賞

1951

作品賞

『麦秋』

受賞

[239]

監督賞

受賞

1963

日本映画文化賞

-

受賞

[240]

サザーランド杯

1958

-

東京物語

受賞

[4]

映画の日」特別功労章

1959

-

-

受賞

[241]

溝口

1960

-

彼岸花

受賞

[242]

アジア映画祭

1961

監督賞

秋日和

受賞

[243]

NHK映画賞

1963

特別賞

-

受賞

[4]

その他の賞・栄典[編集]

1958年:紫綬褒章[4]

1959年:日本芸術院賞[4]

1961年:芸術選奨文部大臣賞[244]

1962年:日本芸術院会員選出[4]

1963年:勲四等旭日小綬章(没後追贈、勲七等からの昇叙[245][246]

ドキュメンタリー作品[編集]

生きてはみたけれど 小津安二郎伝』(1983年、井上和男監督)

東京画』(1985年、ヴィム・ヴェンダース監督)

『吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界』(1993年、吉田喜重監督)NHK教育テレビで放送

シナリオ・日記・発言集[編集]

井上和男編『小津安二郎作品集』全4巻、立風書房19839 - 19843月。

田中眞澄編『小津安二郎全発言 19331945泰流社19876月。ISBN 978-4884705893

田中眞澄編『小津安二郎戦後語録集成 昭和21(1946)年〜昭和38(1963)年』フィルムアート社、19895月。ISBN 978-4845989782

田中眞澄編『全日記・小津安二郎』フィルムアート社、199312月。ISBN 978-4845993215

田中真澄編『小津安二郎「東京物語」ほか』みすず書房〈大人の本棚〉、200112月。ISBN 978-4622048220

井上和男編『小津安二郎全集』上下巻+別巻、新書館20034月。ISBN 978-4403150012

『小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』日本図書センター〈人生のエッセイ〉、20105月。ISBN 978-4284700382

「蓼科日記」刊行会編『蓼科日記 抄』小学館スクウェア、20137月。ISBN 978-4797981186

『人と物3 小津安二郎』無印良品MUJI BOOKS文庫〉、20176月。ISBN 978-4909098023

記念施設・資料館[編集]

小津の別荘だった無藝荘。

小津が晩年に使用した長野県蓼科の別荘「無藝荘」は、2003に小津の生誕100年を記念して茅野市によりプール平に移築され、小津安二郎記念館として一般に公開されている[247]。茅野市では、1998から「小津安二郎記念蓼科高原映画祭」が開催され、小津作品の上映を中心にシンポジウムや短編映画コンクールなどが行われている[248]

小津が青春時代を過ごした三重県松阪市では、2002に「小津安二郎青春館」が開館したが、2020末に閉館した[249]。それに代わる顕彰拠点として、翌2021松阪市立歴史民俗資料館内に「小津安二郎松阪記念館」が開館し、青春時代の手紙や日記、監督作品の台本などが展示されている[250]

小津の生地である東京都江東区では、古石場文化センター内に「小津安二郎紹介展示コーナー」が設けられている[6]

展覧会・記念展[編集]

小津安二郎に関する展示は小津の遺品を所蔵する鎌倉文学館ほかで開催されている。 19866月に、鎌倉文学館は「特別展小津安二郎展ー人と仕事ー」を開催した。愛用品やシナリオ等約300点が展示された[251]1990年に小津の遺族から遺品の寄託を受けた[252]鎌倉文学館は生誕100周年にあたる2003425日から629日にも「小津安二郎 未来へ語りかけるものたち」を開催している[253][254]

199812月から1999131日まで、東京大学総合研究博物館で「デジタル小津安二郎展」が開催された[255]。この展示は厚田雄春の遺品が東京大学総合文化研究科に寄贈されたことを受けて企画された[256]。展示にあたり「東京物語」のデジタル修復を実施した[257]。展覧会の図録『デジタル小津安二郎 キャメラマン厚田雄春の眼』で展示の様子を見ることができる[258]

小津が1946年から5年間住んでいた千葉県野田市の野田市郷土博物館では、20041016日から1114日まで「小津安二郎監督と野田」展示を行った[259]。展示図録では野田での写真等を見ることができるほか、小津の日記をもとに「野田での小津日和」の記事がある[260]

小津生誕120周年、没後60年の2023年には神奈川近代文学館が「小津安二郎展」を開催した[261]。会期は202341日から528[262]

脚注[編集]

1.     a b ヂェームス・槇、ゼェームス・槇、ゼームス・槇などの表記もある[1]

2.     ^ 小津与右衛門家の初代新兵衛(1673 - 1733年)は、同じ松阪出身の小津清左衛門家が江戸で営む紙問屋「小津屋」(現在の小津商店)の支配人をしていたが、1716に退役すると清左衛門家から小津姓を与えられ、別家として松阪中町に住んだ[9][10][11]。新兵衛は紀州湯浅村出身の岩崎家と共同で干鰯問屋「湯浅屋」を経営したが、やがて岩崎家が経営から撤退すると、新兵衛が店を譲り受けた[9][11]。新兵衛家は三代目当主から与右衛門を名乗り、松阪の阪内川近くに地元民から「土手新」と呼ばれた立派な本宅を構えた[9][11][12]。小津の大叔父にあたる六代目与右衛門は紀行家の小津久足で、そのほか与右衛門家からは英文学者の小津次郎阪神タイガース球団社長の小津正次郎などの著名人が出ている[7][12]

3.     ^ 映画批評家の佐藤忠男によると、男女の交際が厳しく禁じられていた戦前の中学生の社会では、異性に手紙を書く代わりに、年下の同性に友情の手紙を書くという習慣が一部で伝統的に存在し、それは今日のホモ・セクシュアルほど深刻なものではないという[21]

4.     ^ 茂原のトーキー方式は「SMS(スーパー・モハラ・サウンド)」と呼ばれ、『一人息子』での成果が認められてからは、松竹傘下の新興キネマ京都撮影所で使用された[64]

5.     ^ 1952年(昭和27年)3月に、画家小倉遊亀の持ち家だった家を新居と決め、52日に転居した。鎌倉市山ノ内1445番地。浄智寺参道の脇道の左手に小さな隧道があり、それをくぐった奥の谷戸に小倉遊亀邸があり、その門前を更に左に昇ったところにあった[86]

6.     ^ とくに大映は日活の製作再開を脅威に感じていたため、『月は上りぬ』の映画化に最も強く反発した。田中は当時借金を抱えており、その返済のために大映と本数契約を結んでいたが、大映はこれをタテにして、彼女の日活映画での監督・出演を阻止しようとした[91]。さらに監督協会理事長の溝口健二も田中の監督に反対したが、小津はこの問題処理に奔走し、最終的に溝口をのぞく監督協会の各社代表は田中を擁護し、98日に田中監督を応援する旨の声明を出した[89][91]

7.     ^ 野津忠二は、小津と野田高梧、池田忠雄、大久保忠素の名前を合成したペンネームで、ドイツの輸入ビールを飲みたさに、原作料をせしめるために名乗ったという[55]

8.     ^ エルンスト・シュワルツは、エルンスト・ルビッチとドイツの監督ハンス・シュワルツドイツ語版)の名前を合成したペンネームである[124]。ウィンザァト・モネは、池田と荒田正男との合作名で、無一文を意味する英語「Without Money」のもじりである[85]

9.     ^ クレジット上では25本だが、大部屋時代のノンクレジット出演も含めると、『懺悔の刃』と『淑女は何を忘れたか』以外のほぼ全作品に出演しているという[126][152]

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

安曇野  2011.11.8.  臼井吉見

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.