ピアノの歴史 Stuart Isacoff 2013.7.21.
2013.7.21. ピアノの歴史
A Natural History of
The Piano - The Instrument, the Music, the Musicians—from Mozart to
Modern Jazz and Everything in Between
著者 スチュアート・アイサコフStuart Isacoff ライター、ピアニスト、作曲家、そして講師と多彩な活動を行っている。ニューヨーク州立大パーチェスカレッジ音楽院の教員でもあり、音楽史、クラシックの即興などを教えている。演奏家としては、ニューヨークのメトロポリタン美術館、リンカーン・センター、ヴェルビエ音楽祭(スイス)、9月音楽祭(イタリア)などに出演。ピアノ・トゥデイ誌創刊時からほぼ30年編集長を務め、ヲール・ストリート・ジャーナル紙の音楽・芸術欄に定期的に寄稿。ASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)ディームズ・テイラー賞受賞
訳者 中村友 山口県生まれ。神奈川県在住。翻訳家。津田塾大学芸学部英文科卒
発行日 2013.5.20. 初版印刷 5.30. 初版発行
発行所 河出書房新社
かつて人間が作りだした、最も重要な楽器にまつわる壮大な物語
第1章
伝統の蓄積
81歳のオスカー・ピーターソン(1925~2007)にとって、ピアノは生命線であり続けた
脳梗塞で倒れてからも左手の麻痺をおしてニューヨークのジャズクラブ、バードランドのステージに車椅子で登場しリードした
何十年もの間、ピーターソンのピアノテクニックと音楽的才能は、崇拝する故アート・テイタムについて彼が抱いていたのと同種の恐れと畏敬の念を、他の人々に吹き込んだ。ピーターソンはかつて年上の巨匠を、恐くてたまらないのにその咆哮が聞こえるところまで近づかずにはいられない動物、ライオンになぞらえた(クラシック界にセンセーションを巻き起こしたラフマニノフとホロヴィッツもアート・テイタムの演奏を聴きに行き、同種の恐れを感じて逃げ帰った)。そしてそのことが彼のカムバックを一層難しくした
2006年のその日――結果的に彼のさよなら世界ツアーとなった数少ないステージの1つとなった――には、時々ではあったが、病気と年齢をものともしない往年の輝きの片鱗が伺えたとは言え、精神的肉体的負担も明らか。でも心配は不要、演奏は彼にとって食事や呼吸のように不可欠なものだったから。しかし、記憶にある限り、ピーターソンの演奏中、バードランドのステージの大部分を占領していた大きな黒光りするベーゼンドルファーは、彼個人の救済手段以上の存在だった。部屋の中にいるすべての人たちにとって、宇宙の中心だった。それが300年以上もの間ピアノが享有してきた役割
ピアノは、喧嘩っ早い「レントパーティー」(1920年代、貧しい黒人たちが家賃を集めるために開いたパーティー)で脚光を浴び、カリフォルニアのゴールドラッシュにおいては、アメリカを巡業中のヨーロッパの名演奏家アンリ・エルツが自身の変奏による《おおスザンナ》の演奏で孤独な鉱山労働者たちを慰めた。また、それまでクラシックのピアノ音楽を全く耳にしたことのなかった何千人ものシベリアの農民たちを励ましもした。ロシアの巨匠スヴャトスラフ・リヒテルが彼等の家の戸口まで出向いて、演奏を行ったのだ
ピアノは単なる楽器に留まらず、人間の境遇並に目まぐるしく変わるシンボルで、ヴィクトリア朝時代の家庭の洗練された優雅さの象徴でもあれば、ニューオーリンズの売春宿の気楽なむさくるしさの象徴でもある
ピョートル・アンデルジェフスキ『落ち着かない旅人』 ⇒ オーケストラとの共演は、芸術的に妥協しなければならないことがあまりに多く、独演会以外はやりたくない。壮烈であり過酷でもある独演会の極度の孤独に直面すると、二度と独演会はやるまいと思う。レコーディングでも自身の自由の観念が自分に背を向けると耐えられない。さらに、演奏自体したくないことも時々ある。でも最後の和音を弾き終えた瞬間、自分の制御が到底及ばない何かがこの場で起こったと感じる。オーディエンスが私と一緒に何かを作りだしてくれたかのような。それが人生。与えることは受けることである
ピョートル・アンデルジェフスキ(Piotr Anderszewski[pjɔtr andɛrˈʂɛfski], 1969年4月4日 - )は、ポーランドのピアニスト。ポーランド人とハンガリー人の混血である。姓・名の日本語表記については、「アンデルジェフスキ(ー)」や「アンデルシェフスキ(ー)」、「ピオトル」などの揺れが見られる。姉ドロータ・アンデルシェフスカ(Dorota
Anderszewska)はヴァイオリニストである。
フィリップスとヴァージン・クラシックスにて多数の録音を行っており、2000年と2008年にはブルーノ・モンサンジョン監督によって2つのドキュメント映像が制作された。前者では、ベートーヴェンの《ディアベリ変奏曲》の演奏風景が、後者では、列車移動でヨーロッパで演奏旅行を行う姿が撮影されている。
フレデリック・ショパンやカロル・シマノフスキといった「お国もの」も取り上げてはいるが、バッハやモーツァルト、ベートーヴェン、ウェーベルンといったドイツ・オーストリアの音楽をレパートリーの中核に据えている。室内楽奏者としてはヴィクトリア・ムローヴァとの共演で、ヤナーチェクやドビュッシー、プロコフィエフ、ブラームスのヴァイオリン・ソナタを録音している。
総重量450㎏、弦は22tの重力に耐える
ピーターソンは我らがリスト、ビル・エヴァンスは我らがショパン
ジャズ対クラシック ⇒ ジャズ界の巨匠の中でクラシックの素養があるのは、ピーターソン以外にもルイ・アームストロングですら子供の頃クラシックを学んだというし、その妻でクレオール・ジャズ・バンドに加わったリル・ハーディンもクラシック音楽専攻だった
ピーターソンがジャズ界のトップにまで上り詰めることが出来たのはある手法のお蔭。何世紀もかけて培われてきたこれ等の要素を受け入れ、ヨーロッパにおけるクラシックの伝統と素朴なアメリカの伝統を融合させた。とりわけ注力したのは、彼が発見したすべての巨匠に共通するアプローチ、つまり自分たちにあるものを最大限に利用すること。ピアノにはピアノの声がある。そのあるがままの姿を尊重、鍵盤全部をフルに利用しピアノの可能性を活用し尽くすミュージシャンを目指した
彼の目標は、ピアノの進化の全過程を通じて原動力となってきた ⇒ バッハをして複雑な対位法の技法を比類なき高みにまで引き上げさせ、モーツァルトをして歌詞なきメロディーにドラマチックな性格をもたらす方法を発見させ、ベートーヴェンをしてその無比の猛々しい想像力で天をも魅了させ、リスト、パデレフスキ、ホロヴィッツと言った精力的演奏家たちを鍵盤の物理的限界(とファンの心)の征服に燃え立たせた
ドビュッシー ⇒ ピアノの可能性を残らず発見したいという強い思いで、「音の錬金術」と名付けた方法を用いて今までになかった揺らめくような効果を生み出す
スクリャービン ⇒ 神秘主義者で、黙示録に導くような音楽を構想
セロニアス・モンク ⇒ 別の宇宙の入り口のような不気味な沈黙に満ちた奇妙な音楽を作曲、ビバップの世界を築く
ジェリー・リー・ルイス(ロッカー) ⇒ グリッサンドを取り入れ
コンロン・ナンカロウ ⇒ 自動ピアノを発明、普通の人間の手では不可能な演奏をリアルタイムで実現
エリック・サティ ⇒ 世界初のミニマルミュージックを生み出す
ジョン・ケージ ⇒ 「アメリカの一匹狼」が「プリペアド・ピアノ」(ピアノの弦の中にいろいろなものを差し込んだもので、バリのガムランを思わせる音色を創り出す)を発明
音楽の表現範囲を広げたいという思いこそ、300年以上前にピアノの発明とその後の改良の試行錯誤をもたらし、今日のテクノロジーの驚異へと変容させた
ピーターソンが所有するハンドメイドのウィーン製ベーゼンドルファーのグランドは、彼が望むことは何でもこなすが、1700年頃のフィレンツェで誕生した楽器とは似ても似つかない
第2章
ピアノ誕生
ヴィクトリア朝イギリスの著名な劇作家ジョージ・バーナード・ショーは、同国きってのうるさ型音楽評論家で、「コルノ・ディ・バセット(バセット・ホルン)」のペンネームで、同時代の巨匠たちに辛口ウィットを浴びせている ⇒ 「音楽にとってのピアノの発明は、詩にとっての印刷の発明に匹敵する」
19世紀末にはピアノが氾濫、社会的野心を持つ市民は、上品な家庭用ピアノを将来の成功への鍵と見做し、ピアノを愛情あふれる家庭の中心に据えた
ピアノは、音楽界が長年求めていた、制約のない音楽表現を可能にする鍵盤楽器を実現
大作曲家であり鍵盤楽器の奏者でもあるフランソワ・クープランは、ハープシコードの音の明るさを評価しながらも、音色の限界を嘆く
ピアノの生みの親は、ほとんど無名の楽器製作者と放蕩者の大公子という2人組 ⇒ 公式の父親は鍵盤楽器の技術者バルトロメオ・クリストフォリで、名付け親がトスカーナ大公のフェルディナンド・デ・メディチ
メディチ家の美と家庭の悩みがピアノ誕生に一役買った ⇒ 1688年冬フェルディナンドはフィレンツェでの重圧から逃れるためにヴェネツィアのカーニヴァルに出掛け、帰路手持ちの楽器の保守係として才能ある楽器製作者兼技術者として呼び声の高かったクリストフォリと最終的に命を奪うことになる性の病の2つを持ち帰る
クリストフォリは、保守の傍ら、独自の優雅な作りの楽器を生み出したが、その中に一風変わった仕掛けの楽器「ウン・チンバロ・ディ・チプレッソ・ディ・ピアノ・エ・フォルテ」(ピアノ(弱音)とフォルテ(強音)を出せる糸杉の鍵盤楽器の意)があった
秘密は「アクション」と呼ばれる精巧な仕掛けで、ハンマーが弦を押し、そのあとすぐにハンマーを元の位置に戻し再び叩くことができるようにして、キーをより大きな力で押すとハンマーがより勢いよく弦をたたくので音量が上がる
この仕組みは今日のピアノのメカニズムの先駆け
弦の張力に耐えるフレームと、楽器の自由に振動する響板部分に分ける分離法は現在のピアノにも生かされている
音が弱くて鈍いとの批判 ⇒ ハンマーの特徴を生かすためには新しい別種の技術が必要
15世紀以来、数多くの音楽家がクラヴィコードと呼ばれるハンマーを備えた鍵盤楽器を演奏してきたし、モーツァルトの称讃を最も集めた楽器だった
ピアノに似た大型楽器も1440年頃から存在
第3章
ピアノ界のスーパースター誕生
第1号はモーツァルト(1756~91)
ブレンデル『モーツァルト弾きの自分自身への助言』⇒ ピアノ演奏に全く欠点がなくとも、十分とは言えない。モーツァルトのピアノ作品は、演奏者にとて、音楽の隠れた可能性の器であり、その可能性とは、しばしば純粋にピアニスティックなものを遙かに超え、例えば、モーツァルトのピアノソナタ第8番イ短調の第1楽章は私にとっては交響楽団のための曲であり、第2楽章はドラスティックな中間部が声楽の場面に似ている。最終楽章は難なく管弦楽のディベルティメントに書き換えられる。モーツァルトのピアノ協奏曲においては、ピアノの音はオーケストラのそれよりくっきりと際立つ。ここでは、主として人間の声とオーケストラの独奏楽器が、ピアニストのために基準を決めることになる
これは我々にとってはお馴染みのモーツァルトだが、初演当時とはコンサート会場の広さも、オーケストラも、ピアノ自体も全く違う ⇒ モーツァルトの協奏曲こそ近代コンサートの始まりであり、ピアノにとっての転換点
モーツァルトが最初にピアノに遭遇したのは1774~75年のミュンヘン訪問当時と推測され、77年にはヨハンン・アンドレアス・シュタインが制作したピアノを手に入れ、その楽器の可能性を見出してからは、その美しい音質、表情豊かな響きは、彼のトレードマークとなった
ピアノの進化 ⇒ バッハによって用いられたピアノは、18世紀全体を通じて急速な変容を遂げる。バッハはジルバーマンの改良型を気に入り、ヨーロッパで急速に普及
ピアノのために書かれた最初の作品は、1732年ロドヴィーコ・ジュスティーニの《いわゆる小さなハンマー付きチェンバロのための12のソナタ集》で、ポルトガル王家のドン・アントニオに献呈された
ジルバーマンの徒弟の1人ヨハン・クリストフ・ツンペは、1760年イギリスに移住して小型の「スクエア」ピアノを考案
モーツァルトの協奏曲は、独奏パートにピアノを選んだことで、一風変わったものになっている
モーツァルトのライバルがイギリスに現れる ⇒ 学生の頃イタリアからイギリスにやってきたムツィオ・クレメンティ、晩年には名声においてモーツァルトを凌ぎ、「ピアノフォルテの父」という綽名を得る。お互い予告なしにウィーンのヨーゼフ皇帝の前で競演、結果は引き分けだったが、モーツァルトは相手のことをただのロボットでありいかさま師と言いながらも後に《魔笛》の導入部にこの時のクレメンティの主題の1つを使っている。一方クレメンティはモーツァルトを認めている
ペダルピアノ(足鍵盤を持つピアノ) ⇒ 1460年に、主にオルガニストが大きな音を出さずに練習するために使用したペダルクラヴィコードに関する記述がある。リストやシューマンもこの楽器のための作品を書いている。4本の足のための曲も書かれたが、演奏時に演奏者の足が絡まることが往々にしてあり、ある男性ピアニストが女性ピアニストと連弾するよう依頼された際、その女性とはそれほどの仲ではないからと断ったという。初期のピアノは鮮明な音を出すことが出来なかったため、余分についている低音の足用鍵盤で演奏することにより音量を増加させることが出来た
第4章
ピアノ熱
モーツァルトのピアノ協奏曲がピアノの位置付けを変えた
夢見る詩人ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク(1760~1812) ⇒ 横顔がよく見えるように聴衆に向かって横向きに座った初めてのピアニスト
実用性はピアノの成功物語の半分でしかない ⇒ 革命を経て時代は新しい急成長を遂げる中産階級を生み、より良い暮らしの為に必要な品々を切望したが、ピアノへの途方もない需要が始まる
1767年 ロンドンのコヴェントガーデンにおける《ベガーズオペラ》の上演が、「フォルテピアノなる新しい楽器」を主役に据えた作品の第1号
翌年 ヨハン・クリスティアン・バッハによるリサイタルが独演用楽器としてのロンドンデビューとなる
貴族の娘たちにとって音楽訓練は不可欠であり、彼女たちへのピアノ教授が職業音楽家にとっての最大の収入源 ⇒ 女性の感情生活をコントロールする道具として奨励
ホロヴィッツ「聴衆について」 ⇒ 聴衆には3種類ある。1つは世間の目を気にする人たちで、アーティストが有名だから見逃せないとしてやってくる。これが最悪。演奏の事には何の記憶もない。次は専門家たち、演奏者が間違わないか、音だけに耳を澄まし、音楽は聴いていない。3番目は最高の聴衆で、私を聴きたくてやってくる。聴き方でどんな聴衆かが分かるので、拍手は何の意味もない。記憶に残るのは芸術性だけ
第5章
巡業する演奏家たち
演奏には旅が不可欠 ⇒ 旅の困難・危険な時代、「知識が魂の薬なら、本物のそれを入手することは、身体にとって混じり気のない薬を手に入れることと同様に重要」だとして挑戦
18世紀鍵盤楽器奏者は、あまりに報酬が少なかったためにアルバイトが欠かせなかったし、その1世紀前となると巡業演奏家の境遇はさらに悪く、旅先で無縁仏として埋葬されることも珍しくなかった
アメリカ人として初めて世界を旅して演奏を行ったニューオーリンズっ子のルイス・モロー・ゴットシャルク(1829~69)が音楽家生活の「苦痛」を書き残している
イェフィム・ブロンフマン ⇒ 旅先でのコンサートで一番心配なのは良いピアノを見つけること、様々なコンサートホールに順応すること、レパートリーの選択など。常にプレッシャーに苛まれているときのロストロポーヴィチの答えほど的確なものはない、曰く「何があってもコンサートの後はうまいディナーが待っている。僕等はパイロットじゃないんだから、間違ったところでみんな死にはしない」
クレメンティは2度ロシアツアーに出掛け、自身が製造する楽器の宣伝を行ったが、その時同行した弟子で従業員のジョン・フィールドはそのままロシアに残って身を立てる決心をし、演奏活動やピアノ教授をしてひと財産を築いたほか、静かな神秘の中に夜を表現する音楽としての「夜想曲」の創始者となる
1840年代になると蒸気船の登場で旅のリスクが急減 ⇒ 1845年にアメリカツアーを開始したオーストリアのピアニスト、レオポルド・デ・マイヤー(1816~83)は、巨体の全身を駆使した大音量の演奏ぶりから「ライオン・ピアニスト」の異名を取り、「ピアノのパガニーニ」と呼ばれ、「現代最高のピアニスト」を自称。当時アメリカではまだ珍しかったグランドピアノを持ち込み、新しいアメリカの聴衆に特化したプログラム《ヤンキー・ドゥードゥル(アルプス1万尺)》の変奏などで聴衆を熱狂させた
ピアノの変遷 ⇒ シュタインが制作した華奢で弦も緩く張られた5オクターブの楽器から、19世紀初めにはシュタインの義理の息子ヨハン・アンドレアス・シュトライヒャー(1761~1833)やコンラート・グラーフ(1782~1851)による6オクターブ半の楽器に変容、ベートーヴェンの最晩年には7オクターブも出現
弦の圧力も、シュタイン当時の2,3tから、1830年シュトライヒャーやグラーフでは6.5tとなるが、それでも現代の18tには及ばない
イギリスでは、ジョセフ・スミスが1799年に鉄のはすかいを試験的に採用、1825年にはアメリカ人オルフェウス・バブコック(1785~1842)が総鋳鉄フレームの特許を登録
1821年フランスのピアノメーカー、エラールのロンドン支社がダブルエスケープメント装置を開発し特許 ⇒ 現代のグランドピアノにも使用され、演奏のスピードアップに貢献
1826年 ジャン=アンリ・パープ(仏、1789~1875)はフェルトで覆ったハンマーで特許、その後アルフレッド・ドルジ(1848~1922)は分厚いフェルトを1層だけ用いるというアイディアを思いつき、瞬く間に標準となった
1820年代ピアノの弦をそれぞれ筋交いに重なるようにケースの中に配置する交差張弦が発明され、スペースをより有効に利用し、下部の弦が片側に向かって反響するのではなく、楽器の中央で共鳴できるようになった
バブコックとパープの功績にもかかわらず、1859年この技術のグランドピアノへの使用についての特許をアメリカで申請したのはヘンリー・スタインウェイ・ジュニア
訪米するピアニストは跡を絶たず、その中にリストに対決を申し込んだジギスムント・タールベルク(1812~71)もいた。対決では、彼は「世界一のピアニスト」、リストは「世界で唯一のピアニスト」と判定され事実上引き分け。あたかも3本の手で弾いているような印象を与えたが、1音たりとも狂いのない演奏は「無味乾燥で単調」と評された ⇒ 聴衆を熱狂させるとともに、ピアノメーカーのチッカリングが各地の公演にピアノを提供し彼を同社製品の宣伝に利用、ピアノ界に製造業者の全面戦争が勃発
アメリカに来て成功を収める音楽家がいる一方、合衆国も音楽の輸出を始め、その1番手がゴットシャルク。パリで教育を受け、ヨーロッパ中で演奏。カリブや南アフリカまで人気を広げたが、訪問国のプライドをくすぐることでどこに行っても大成功を収めたが、リオの独奏会で《死よ!》の演奏中に倒れ、間もなく他界
連弾デュオの成功 ⇒ 4手連弾の延長戦上で、危険なほど演奏者数を増やした。J.S.バッハの孫W.F.E.バッハは6手の《3枚折り絵》を作曲。ラフマニノフにも6手曲がある
ピアノが引き起こした死 ⇒ ゴットシャルク以外にも数多い
モーツァルトの前任のザルツブルク宮廷の司教座聖堂のオルガニスト、アドルガッサー(1729~77)は、大聖堂で演奏中に脳卒中で死去
エンリケ・グラナドス(スペインの作曲家、1867~1916) ⇒ 第1次大戦中乗っていた船が魚雷に撃沈されて死んだが、ホワイトハウスで演奏するよう招かれたために出発が遅れて難に遭った
シモン・バレル(ロシア出身のピアニストでアメリカに移住、1896~1951) ⇒ 超絶テクニックで知られ、毎年カーネギーホールでリサイタルを行っていたが、51年オーマンディーの指揮でフィラデルフィア管弦楽団とグリーグのピアノ協奏曲の演奏開始直後に脳梗塞で急死
ピアノが関わった死で最も哀れな例は、アレクサンドル・ケルベリン(1903~40) ⇒ 最後のコンサートを、死に関する作品ばかりのプログラムにした。妻から言い出された離婚が宙づり状態でしょげていたピアニストは睡眠薬の過量摂取で死去
ピアノ曲を提供し続けてきた作曲家の多くは、スタイル別に4つのカテゴリーに分類できる ⇒ 「燃焼派」、「錬金術師」、「リズミスト」、「メロディスト」
第6章
4つの音
マレイ・ペライア『ピアノの音を作ることについて』⇒ 理想的には、脳が聞いたことが直接指先に変換されればいい。そのためにはテクニックが必要。ピアノでフレーズを弾くとき、種々の楽器の音を聴いて同じ効果をピアノで出そうとする。音のニュアンスは聴けば聴くほど、ピアニストが理解し、生み出すべき豊かな色彩が分かる。それはもどかしいことでもある。ピアノの演奏はそれほどまでに幻想の芸術。色彩を生み出すというよりは色彩の幻想なのだ。楽器が素晴らしければ素晴らしいほどその可能性は広がる
演奏者はフットペダルで音を調整できる
右がダンパーペダル ⇒ ダンパー(キーが元の位置に戻ると同時に弦の振動を消す装置)を弦から離し、音を響かせ続ける。ルビンシテインは「ピアノの魂」と言い、作品に雰囲気と活気を吹き込みメロディーを美しく響かせることができるとした
左がウナコルダまたはソフトペダル ⇒ ハンマーが弦を3本ではなく2本だけ打つようにする(ベートーヴェンの時代は1本だけだったので「ウナ」と名付けた)
中がソステヌートペダル ⇒ ある特定の音(踏んだときに押していたキー)だけを選んで持続させる
ペダルテクニック
当初は、鳴り続ける音が他の音と交じり合って濁った音となることが嫌われた
モーツァルトの時代、ペダルは膝で操作。1805年以降は4つか5つのペダルが標準
ベートーヴェンの時代、作曲家が楽譜に「ペダル記号」を書き込む
ソステヌートペダルは、1844年のパリ産業博覧会でボワスロというピアノ製作者によって紹介されたが、技術を完成させ特許を取得したのはアルバート・スタインウェイ
弦の神秘 ⇒ 長さと張力を調整することにより、ピッチを上げ下げして調律
最も美しい「純正」律――例えばドからドまでのオクターブやドからソまでの5度――は固定ピッチに調律された楽器とは共存し得ない。純正オクターブと完全5度の両方を演奏できるようにピアノを調律することは不可能である。このジレンマへの現代の解決法は平均律での調律で、転調しやすいように自然律を調整する(⇒妥協的調律法)
ピアノの音の音響的美しさを最大に引き出すため、弦の太さも調整。さらに低音部は下方に向かって、高音部は上方に向かってピッチの調整を行う
弦の叩き方もピアノの様々な音色を表現するのに大きく関わる ⇒ 強く叩けばより髙い倍音(すべての振動する物体には「基音」に加え、それより高い周波数の音がいくつも生じる)が増幅され、弱く叩くと倍音が静まる ⇒ 音色の変化で聴き分けられる
ピアノの4つの要素と世界の基本要素との結びつき
①
打楽器のはじける音= 地 ⇒ リズミスト: ファッツ・ドミノ(ロック)、アルトゥーロ・オファリル(ラテンジャズ・ピアニスト)、プロコフィエフ等で、ピアノ音楽を活気付ける打楽器的な弾けるような音を前面に押し出し、リズムがもたらす律動の協和で、身体のその他の筋肉組織に火をつける
②
歌う二重母音= 水 ⇒ メロディスト: シューベルト、J.C.バッハ、ジョージ・シアリング(ジャズ・ピアニスト)等で、彼等の音楽の流れは、波の曲線を思わせ、波は優しいアラベスクの中で、高まったり弱まったり引き戻されたりする。
③
揺らめく波= 風 ⇒ 錬金術師: ビル・エヴァンス(ジャズ・ピアニスト)、ドビュッシー、セロニアス・モンク(ビバップ)等で、様々な音(と沈黙)を謎めいたやり方で組み合わせ、平凡な材料を忘れられないような音楽に変容させる
④
徐々に変化する音量= 火 ⇒ 燃焼派: ベートーヴェン、ジェリー・リー・ルイス(ロックンロール)、セシル・テイラー(ジャズの前衛派)等で、ピアノにスリリングな不安定さをもたらし、その非常にダイナミックな音域を利用してくすぶったり爆発したりする可能性を孕んだ音楽を生む
どの音楽家もどれか1つのタイプに収めることはできない。音楽のタイプに明確な境界はなく、本質的要素はたいてい絡み合っている
第7章
燃焼派
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハがこの流派の始祖
代表はベートーヴェン ⇒ ロマン派時代のピアニスト、ハンス・フォン・ビューローは、「J.S.バッハの《平均律クラヴィーア曲集》が”旧約聖書”であるのに対し、ベートーヴェンのピアノソナタは”新約聖書”だ」とした。バッハは過去を集約し、ベートーヴェンは未来に目を向けた。バッハの音楽が神々しい確信に満ちているのに対し、ベートーヴェンの音楽は人間の苦悶を発散
ソナタとは? ⇒ 単純に声楽曲ではない器楽演奏曲(たいてい3楽章か4楽章からなる)を指す場合もある。初期のピアノソナタの幾つかはスカルラッティの作品のように単純な2部形式から成り立っていたが、「ソナタ形式」という言い回しは一般に、主題が暗喩の世界に旅立った古典派時代に顕著になった構成のことを言う。定まった唯一の方法はなく、作曲家によって無数の微妙なバリエーションが登場
作品番号? ⇒ 目録作成のためで、通常は作曲家の創作活動における年代順。いくつかの作品が同じ番号を共有することもある(ベートーヴェンのピアノソナタ31番の3曲)。個人の目録作成者によって整理されている作曲家もある。J.S.バッハの”BWV”は「バッハ作品目録」の略で、1950年ドイツの音楽学者ヴォルフガング・シュミーダーによって考案された主題別の目録。ドメニコ・スカルラッティ(息子)の音楽は3つの異なった方法で分類。"K”はラルフ・カートパトリック、”L”はアレッサンドロ・ロンゴ、”P”はジョルジュ・ペステッリによる分類。モーツァルト作品の”K”は作曲家で作家、植物学者でもあるルートヴィヒ・リッター・フォン・ケッヘルによるもの。ハイドンの”Hob”はアントニー・ヴァン・ホーボーケン、シューベルトの”D”はオットー・エーリヒ・ドイチュによる年代順の分類。
ベートーヴェンの時代、ウィーンのピアニストたちは演奏の明瞭さと正確さで、ロンドンのピアニストたちは「歌うような」音色で知られていた ⇒ ベートーヴェンは、キーを叩きつけるタイプでどちらにも当てはまらず。ピアノの扱いが乱暴だと非難されさえいた
文学においても、同じ爆発的傾向は、ヨーロッパ中にヒステリーのように急速に広まった「シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」の運動と関連付けられる
ベートーヴェンが何の変哲もない材料を、畏敬を抱かせるようなものに昇華させるのは、彼の最も大きな才能だろう ⇒ 1819年出版業者のアントン・ディアベリがどこといってとりえのない自作のワルツの主題を、シューベルトや10代にもなっていないリスト等有名な作曲家たちに送りその変奏を依頼したとき、ベートーヴェンは最初断ったが、結局その平凡な作品を基に33の変奏から成る《ディアベリ変奏曲》を作曲
生涯をかけた探究の結晶であるベートーヴェンの作品は、次世代の音楽家たちに殆ど神聖と呼ぶに近い崇敬の念を持って受け入れられた ⇒ 没後10年音楽仲間がサロンに集まり、リストがピアノに向かった時1本のろうそくだけで照明されていた部屋が突然真っ暗になった。リストは葬送のアダージョとしてベートーヴェンの《月光》を弾き始めた。押し殺したような啜り泣きと呻き声が聞こえた。ベルリオーズだった
燃焼派のもう1人のアイドルはフランツ・リスト(1811~86) ⇒ デンマークの作家アンデルセンは彼のことを「現代のオルフェウス」と呼ぶ。音楽の才能と演技の才能を見事に結合させたリストの刺激的スタイルには手本となる重要な人物が2人いる。1人はベートーヴェンの弟子だったカール・ツェルニーで、リストが父親以外で初めて習った人、当時リストは8歳。ツェルニーのおかげでベートーヴェンがリストの演奏会に姿を見せ、コンサートの終了後リストを抱きしめて額にキスをした。これが聖別と理解した人もいた。もう1人がニコロ・パガニーニ。1831年パガニーニのパリ・デビューを聴き、その場でパガニーニがヴァイオリンでやったことをピアノでやろうと決心
リストの即興演奏の腕前も大きな呼び物の1つ ⇒ コンサートホールの玄関に銀の聖杯が置かれ、人々がリストが次に使う即興のテーマのヒントを書いて入れた
リストの一番の魅力は、そのうっとりするような技巧 ⇒ 鍵盤がより速いスピードで演奏できるようになったことにも助けられた
燃焼派の伝統を受け継いだのが、バルトーク(1881~1945)、ゾルターン・コダーイ(1882~1967)、ストラヴィンスキー(1882~1971)、現代の作曲家ではエリオット・カーター(1908~2012)
カーターの《ハープシコード、ピアノと2群の室内管弦楽のための二重協奏曲》は、ストラヴィンスキーがアメリカ人による初めての真の傑作と断言したが、生み出す音はあまりに濃密で騒々しかったために、「オーケストラの交通渋滞」にたとえられた
ロックンロールのハチャメチャなピアニスト、ジェリー・リー・ルイス(1935~) ⇒ ピアノに火をつけて演奏
ラグタイムのスター、ユービー・ブレイク
第8章
錬金術師
ドビュッシー(1862~1918) ⇒ ベートーヴェンと正反対のものを聴衆に提供
日常を超えた領域にいざなうのが「錬金術師」たちの狙い
同時に響く高さの異なる幾つかの音の混ざり合いである"和声"が魔術の根源
調性の宇宙 ⇒ 17~19世紀の音楽作品はいずれも「調性システム」の原則の下に成り立つ。和音は主音(音階の最初の音)の上に組み立てられ、第5音(属音)を基音とする和音などは強力に主音に引き寄せるので終末の感覚を助長する。作品の調が主音を決定する(ハ長調ではハから始まる)。弦が振動すると単一の「基音」だけでなく、付加的なより弱い「倍音」が生じるが、その中で最も強いものがメジャーコードと呼ばれる和音。20世紀以降の作曲家は、調性の定石を回避する方法を工夫するようになった
世紀の変わり目のパリにおける印象派の環境には、1960年代のアメリカの環境と驚くべき類似性が見られる。すべての世代が若者らしい反抗、神秘的な憧れ、薬物中毒に焚きつけられて竜巻のように耳に目に飛び込んでくる音楽、絵画、演劇の虜となった ⇒ 陰の始祖はリスト。ドビュッシーもリストに会ったことがあり、その演奏が「魂のリリカルな衝動と気紛れな空想に順応する」柔軟な音楽であることを発見
ドビュッシーは、リストの義理の息子であるリヒャルト・ワーグナーも高く評価し、多彩なテクニックを熱心に吸収したが、最終的にはワーグナーを「日の出と間違えた美しい夕映え」と退けた。フランス以外のものを気に入ることはなかった
ドビュッシーの新しい音楽語法に加わった要素 ⇒ ①フランスの伝統を踏襲した「拡張和音」で、音階が7度や9度、11度に及び、バロック時代のフランソワ・クープラン以降みられる特徴、②アメリカ人が軽視したエドガー・アラン・ポーの暗い物語や詩を拠り所とした(ドビュッシーと同輩のラヴェルもポーを「作曲の最高の師」と評価)、③1889年パリ万博に現れた聴き慣れない響きと繰り返しのある極東のサウンドに圧倒され東洋美学の様々な要素を織り込み始めた(ガムラン、スペインのサウンドなど)
ドビュッシーはこれらすべての材料を取り入れるためピアノを豊かなニュアンスの楽器にしようと試みる ⇒ 打鍵とペダル操作の限りないバリエーションによって残響に美を見出す
オリヴィエ・メシアン(仏、1908~92)も、ドビュッシーの音楽語法をさらに発展 ⇒ 何百種類もの鳥の歌声の目録を作り録音に加えた
アルノルト・シェーンベルク(1874~1951) ⇒ 秩序を重んじる作曲家とされるが、修業時代はドビュッシー以上に詩人や哲学者や画家の世界と繋がっていて、西洋音楽の基本としていた協和音と不協和音の区別を排して作曲する方法を考案。カンディンスキーとの出会いから、芸術に精神性を取り戻す運動に参加。教え子のアントン・ヴェーベルン(1883~1945)、アルバン・ベルク(1885~1935)等は師と共に「新ウィーン学派」を形成するが、その後全く違う道を進む
ロシアでも同じ革命を経験するが、その先頭に立ったのはアレクサンドル、ニコラエヴィチ・スクリャービン(1872~1915) ⇒ 自らを神だと世界に宣言、死の間際には《神秘劇》なるプロジェクトに取り掛かり、救世主の時代に導くことを意図したが、実行に移す機会に恵まれなかった。彼のピアノ演奏はたいてい大袈裟で強迫観念にとらわれたかのようで、非常に風変り。スクリャービン弾きと自称するギャリック・オールソンは、リストやスクリャービンを演奏するとき、作曲家が乗り移ってきてあたかも自分が楽器として演奏されているような不思議な力を感じるという。1897年ピアノ協奏曲発表の際は大家のリムスキー・コルサコフの激しい拒絶に遭ったし、多くの評論家も破天荒な音楽を一種の薬物としてしか長い間評価しなかったが、その「神秘和音」は1950年代後半のジャズアーティストたちにとて魅力的な素材となり、ビル・エヴァンス(1929~80)、トランぺッターのマイルス・デイヴィス(1926~91)等が競って取り入れ革命をもたらす
ビル・エヴァンスのエレガントな演奏の洗練と和声の複雑さに比肩できるのは、神様と呼ばれるジャズミュージシャンの中でも恐らく1人だけ、偉大なバンドリーダーで、どんなジャンルにおいても最高の現代作曲家の1人、エドワ-ド・ケネディ・[デューク]・エリントン(1899~1974) ⇒ ピアノが彼の作曲のスタイルにおいて大きな力となった。様々な楽器の色彩を混ぜ合わせる特別な能力、さらには特定のサウンドと自分のバンド、ザ・ワシントニアンズの個々のメンバーの個性を巧みに生かす才能があって、それが彼の唯一無二の音楽を生む。フランス印象派の探究者でデュークの分身と言える存在になったピアニスト兼アレンジャーのビリー・ストレイホーンとの共同作業が数々の独創的作品やレコードを生む。71年スウェーデン王立アカデミーでクラシック以外で初の会員に認められ、ニクソン大統領のホワイトハウスでの70歳の誕生日パーティーでは大統領自由勲章を授与
マッコイ・ターナー(1938~) ⇒ サックス奏者のジョン・コルトレーンとの仕事で独特のサウンドを生み出す
セロニアス・スフィア・モンク(1917~82) ⇒ 風変わりな不協和音、ごつごつしたリズムなどで聴き手の予測を見事に裏切る。死後ピュリッツァー賞特別賞受賞
印象派とその後継者たちは和声の美しさで魅了したが、ツール(楽器)が驚異の念を引き起こすこともある ⇒ ジョン・ケージ(1912~92)の「プリペアド・ピアノ」は、弦の間にボルトやゴムなどを挿入することによって特別な効果をもたらす。シェーンベルクの下で学び、和声のセンスがないために壁に当たっていたが、それを乗り越える術を発見
ケージの影響を受けたテリー・ライリー(1935~)の1964年の作品(35人前後のミュージシャンのアンサンブルのための)《インC》は、最初のミニマリストの作品とされる
エリック・サティ ⇒ 「環境音楽」や「ミニマリズム」と言ったコンセプトの創始者。「家具の音楽」即ち注意を求めず、ただ周囲に漂っている音楽や永遠に続く音楽を作曲。ループし続ける《永遠のタンゴ》や、840回繰り返すよう指示された《ヴェクサシオン》(1893年頃、1963年の初演はピアニストがチームを組んで演奏、午後6時から翌日の午後12時40分までかかった)
ラヴェルの《ボレロ》もミニマリズムに属する曲で、その人気にショックを受けたラヴェルは、「私はたった一つ傑作を書いた。《ボレロ》だ。残念なことに、あれには音楽がない」と言った
自動ピアノ ⇒ アメリカからメキシコに帰化した作曲家コンロン・ナンカロウ(1912~97)が1940年代に発明。穿孔された紙ロールが人間には不可能な音楽を実現。最初は18世紀で機械仕掛けのオルガンとして登場、ムツィオ・クレメンティは1825年頃ロンドンで「自動ピアノフォルテ」を売り出しフランスでは1863年ナポレオン・フールノーが空気圧ピアノ「ピアニスタ」の特許を取る。1895年アメリカ人エドウィン・スコット・ヴォーティによる「ピアノーラ」が大ブームに
第9章
リズミスト
ダンサーや打楽器奏者が用いて大成功を収めたのと同じリズムをピアノ演奏に生かすようになる
サロンや売春宿では「ラグタイム」と呼ばれる大人気の新しい音楽が定着 ⇒ 1889年に黒人たちが自分たちのクロッグダンスを「ラギン」と呼んでいた。中西部から北東部の諸都市に広まりニューオーリンズに行きつく。音楽の特徴はリズムの精神分裂症で、間違った場所にアクセントを生み出す。黒人のダンス音楽にアジアやトルコの風変わりなリズムを取り込んだもの。初期のジャズとして人気を博す
ユービー・ブレイク(1883~1983) ⇒ ラグタイムをもっと凝ったジャズのスタイルに移行していくのを推進したピアニスト兼作曲家。ダンスによって音楽がインスピレーションを受け続ける
さらに強烈なリズムを表現したのがブギウギ ⇒ 1913年には出現
アート・テイタム(1909~56) ⇒ オハイオ州トレド出身の全盲のピアニスト。1932年アデレード・ホールの伴奏者としてニューヨークにデビュー。忽ちにトップの座に上り詰める。ホロヴィッツがテイタムのヒットナンバー《二人でお茶を》を自らのアレンジで腕試しをしたが太刀打ちできなかった
ジャズを活気付けたリズムは、蔓さながらに様々な音楽ジャンルに巻きつき、ハイブリッドの花を咲かせる ⇒ ジャズ、ブルース、カントリー、ラテンのリズムが結合してロックンロールと言うスタイルを作りだした。ロックは人種の境界を自由に行き来した
エネルギッシュなロックピアニストの代表はアントワーヌ・[ファッツ]・ドミノ。その代表作が《エイント・ザット・ア・シェイム(悪いのはあなた)》
ラテンミュージシャンの第1人者は、キューバのピアニスト、チューチョ・バルデス(1941~) ⇒ リストの超絶技巧をラテン音楽にもたらした
第10章 メロディスト
フランツ・シューベルト(1797~1828)がこのグループの精神的な父祖
美しいメロディーを書いた作曲家はしばしば低く見られる
アンドラーシュ・シフ『シューベルトにおける歌うピアノ』⇒ シューベルトは未曽有のメロディストの1人で、最も優れた歌曲の作曲家。ピアノは打鍵するとすぐ音が消えるという欠点を知りながら、ピアノに歌わせるように要求する。ベートーヴェンも《告別》の第1楽章最後の長い音にクレシェンドを付けている。実現するのが不可能と知りつつ演奏者としてはそれが本当に可能だと自分自身に信じ込ませる想像力が必要となる。歌うという幻想が必要。シューベルトはメロディストであると同時に、和声、転調、ドラマの天才でもある
ロベルト・シューマン(1810~56) ⇒ ロマン派の典型。狂気と病で短い人生を閉じる。謎めいた遊びが見られ、《ユモレスク》作品20には演奏されない旋律があり、演奏者だけに見せる意図された「内なる」メロディーとして楽譜に記載されている
ヨハネス・ブラームス(1833~97) ⇒ シューマン夫妻の親しい友人で、シューマンの死後クララを慰めた作曲家。型通りに拘る音楽をチャイコフスキーは「ただの凡庸な男でうぬぼれた凡人」と酷評されたように、時代がリヒャルト・ワーグナーのような感情の自由な流れを受け入れ始めていたための逆風に晒された
フェリックス・メンデルスゾーン(1809~47)もブラークスと同様に時代の犠牲となった。早熟の子どもがモーツァルトの自筆の譜面を初見で弾いてゲーテを仰天させ、ほとんど判読できないベートーヴェンの楽譜で演奏を行った。《無言歌集》という短い音楽形式を生み出し、ルビンシテインから「器楽音楽が消えてしまうのを救った」とまで言わせたにもかかわらず、彼の地位を傷つけたのはワーグナーの『音楽におけるユダヤ性』と題された卑劣な随筆、ドイツ文化から彼がその本質と考える物と性質を異にする要素を取り除くことを狙い、メンデルスゾーンの根無し草的なところや「シナゴーグのリズム」や装飾的なメロディーなど一風変わったやり方を槍玉に挙げて攻撃し、非ユダヤ人のユダヤ人に対する「本能的嫌悪感」を駆り立てた。父の代に改宗して姓にバルトルディを加え、J.S.バッハの音楽を擁護したにもかかわらず当時の激しい反ユダヤ主義から免れることは出来なかった
フレデリック・ショパン(1810~49) ⇒ 独自の音楽表現で時代の流れを超越し、ピアノの演奏法を永久に変えた。1830年ワルシャワ蜂起の失敗後、世界の芸術の都となったパリに亡命。ピアノを激しく鳴らすコンサートよりも少人数での演奏に集中、エラールのピアノを「音が目立ち過ぎる」として嫌いプレイエル製を「最も自然な雰囲気」として好んだ
リズミカルなアプローチは同時代の音楽家たちを驚かせた ⇒ ポーランドの踊りを基にした音楽がポロネーズやマズルカ
エリック・サティ(1866~1925) ⇒ 13歳でパリ音楽院に入れられたため学問嫌いになり、教師たちは彼をクラスで最も見込みのない生徒と評価。ナンセンスへの偏愛は、第1次大戦後に生まれた不条理芸術の運動、ダダイズムの前からすでに表れていたが、サティはダダのナンセンス賛美を見事に具現した。ドビュッシーがもっと形式に注意を払うべきだと助言しても反抗、自らの音楽への批判に対し常に怒っていた。荒唐無稽で馬鹿げた行動の中にも才能は輝き、1917年コクトー、ピカソとのコラボレーションによるパーフォーマンス、シュールレアリスムの誕生となったバレエ《バラード》は、「人間の本質を示している」と評価された
モーリス・ラヴェル(1875~1937) ⇒ ピアノ作品中最も長いメロディーを持つピアノ協奏曲ト長調の中にサティの色合いが染み込んでいる。「気楽な音楽」を意図したが、初演したピアニスト、マルグリット・ロンは第2楽章の哀愁を帯びたメロディーは「息を抜けるところが一つもない」とこぼした。彼のメロディーは、彼自身のスイス、フランス、スペイン、バスクの血に加え、極東の文化との接触によってもたらされた音楽的特色によって成り立っているが、きらめく力強い和声はモダンジャズをも予感させる。師ガブリエル・フォーレ(1845~1924)の力も大きい。変わることのない貴族的な態度は、彼の音楽の神経の行き届いた細部と完璧なスタンスに現れ、ストラヴィンスキーは彼を「スイスの時計職人」のような音楽家と呼んだ。ジョージ・ガーシュウィンへのオマージュとして書かれた
ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937) ⇒ 当初は、シューベルト同様、豊かな抒情性を、それが劣った音楽家の証拠であるかのように酷評された。音楽的ルーツは、ニューヨーク市の豊かな移民文化の中で育まれた。古典からハーレムのスウィングまでありとあらゆる音楽をスポンジのように吸収、ジャズの王様と呼ばれているポール・ホワイトマンがニューヨークで企画した「現代音楽の実験」と題したイベントでの伴奏と、自ら作曲した《ラプソディ・イン・ブルー》の初演が転機となって、評者は彼のテクニックと形式の感覚に欠点があるとしたが、その2週間前にピエール・モントゥー指揮でニューヨーク初演となったストラヴィンスキーの《春の祭典》共々聴衆の圧倒的支持を得た
テディ・ウィルソン(1912~86) ⇒ ジャズにおけるメロディストの最右翼。モーツァルトの優雅さを持つと言われ、繊細なタッチと趣味の良さで、ルイ・アームストロングやベニー・グッドマンらの共演者として引っ張りだこ
エド・パウエル(1924~66) ⇒ ジャズピアノ史上最も人々を驚嘆させた。超スピードで複雑な演奏を特徴とする「ビバップ」の創始者の1人で大家のサックス奏者チャーリー・[バード]・パーカーと共演してもその存在感を見せつけた。メロディーの素晴らしさを無限と思える変奏を通じて広め、卓越した叙情性に人種、階級、時代の区別がないことを証明
第11章 洗練と土着
前章までの4つのサウンドがピアニストの基本色になるが、これらが様々な割合で混ざり合って多くの色味を作ることができる ⇒ 無数のスタイルにおいて、ピアノが文化の境界を越え、全く趣の違う作品で聴衆を魅了
世界最古の職業(売春)を助けて、長く由緒ある歴史に加わった ⇒ ブラームスも同様の汚い場所で演奏したことで知られる。アメリカでは多くのジャズピアニストに雇用機会を与えた
アーロン・コープランド(1900~90) ⇒ ブルックリン出身のユダヤ人で、メロディーと分かり易さを新しいものの実験より重視するアメリカ派の代表。フランス人ブーランジェに師事
ラテンのリズムは、南米において19世紀からクラシック音楽の中に浸透、各国で独自のサウンドを育んだ ⇒ アルゼンチンの場合は、基本となるハバネラとミロンガの影響を受けたダンス音楽、タンゴで、1867年同地をツアーで訪れたルイス・ゴットシャルクを魅了。1910年にはブエノスアイレスのカフェで大流行し、ニューヨークでもセンセーションを巻き起こす
アストル・ピアソラ(1921~92) ⇒ ブーランジェに師事。当初は自分とタンゴとの関わりを隠していたが、タンゴを売り物にした曲を多く書く。ただし、形式を勝手に変えた作風に純粋主義者からは「タンゴの暗殺者」と非難された
エイトル・ヴィラ=ロボス(1887~1959) ⇒ パリで学び、ブラジル音楽の特質を生かして、バッハの音楽と結合させる
エドヴァルド・グリーグ(ノルウェー、1843~1907)
エンリケ・グラナドス(スペイン、1867~1916)
マヌエル・デ・ファリャ(スッペイン、1876~1946)
イサーク・アルベニス(スペイン、1860~1909)
コミタス(アルメニア、1869~1935)
皆それぞれの母国の伝統によって育まれてきた作曲家たち
第12章 ロシア人たちがやってくる
ロシア流は、ピアニスティックな演奏における未曽有の「流派」となった
1795年のパリを嚆矢として音楽学校がヨーロッパ中に現れた中で、最も重要な影響力を持ったのが、1862年アントン・ルビンシテイン(1829~94)と、テオドル・レシェティツキ(1830~1915)によって設立されたサンクトペテルブルク音楽院 ⇒ ロシア音楽の神髄とする驚異的なテクニックと情熱、並外れたバイタリティの結合の象徴となるが、ルビンシテインは、毎年賞を取るユダヤ人の割合が異常に高いために設けられた人種割当に抗議して辞職、1872年アメリカにわたり、聴衆を魅了。1回200ドルで239日間に215回のコンサートを行ってひと財産築く
ロシアの伝統は、リストの燃える情熱と圧倒的なテクニックと、ジョン・フィールドの叙情的な音楽への愛を育てたメロディーによってつくられた
20世紀になると、多くのロシア人ピアニストが指導者のエリートとしてニューヨークのジュリアードやフィラデルフィアのカーティスなどの音楽学校に就任
20世紀の火付け役はホロヴィッツ(1903~89) ⇒ ロシア革命後故国を逃れ、ヨーロッパで成功。1928年アメリカ人のエージェント、アーサー・ジャドソンがアメリカツアーを契約。ピアニストにはユダヤ人、ゲイ、へたくその3種類しかいないと言った。よりエキサイティングなものにするために作曲家の意図を無視して、しばしば音楽を捻じ曲げることで批判されたように、彼は単なる解釈者ではなく自らの個性で聴衆を魔法にかける音楽のハリケーンだった
セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943) ⇒ 必然に導かれた独自の解釈によって、演奏を特別美しいものにした
ホロヴィッツのアメリカデビューは、カーネギーホールでのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、トーマス・ビーチャムの指揮(初演)。聴衆をあっと言わせたいホロヴィッツは、自己陶酔的に遅い指揮を置き去りにして、最終楽章のオクターブを速く、エキサイティングに演奏。ニューヨーク・タイムズ紙によると「ピアノから煙が出た」そうだ
聴衆の中にいたラフマニノフは演奏に不満で、「君のオクターブは誰よりも早く誰よりも音が大きいが、はっきり言って音楽的ではない。不必要だ」と言ったが、ホロヴィッツに言わせれば「ラフマニノフはどんな演奏にもどこかしらケチをつける」ということで、2人は生涯の友となった
2人に続く世代として出てきたのがリヒテルとアシュケナージで、いずれもロマン派ピアノスタイルの行き過ぎに反対の立場
スビャトラフ・リヒテル(1915~97) ⇒ コンサートの世界にはびこる堕落した勢力のために音楽の純粋さが失われることを悲観。独学でピアノを学び、22歳でモスクワ音楽院のネイガウスの前で弾き、その教え子のギレリスやルプーを差し置いて、「生涯待ち望んでいたピアニストを見出した」と言わしめた。スターリンの葬儀ではバッハの長いフーガを演奏したがペダルがうまく動かないアップライトピアノで聴衆のヤジを浴びた上に警察に連行された
ウラディーミル・アシュケナージ(1937~) リヒテルに魅了された、数々のコンクールで輝かしい成績を上げたが、ソ連政権の侮辱的待遇と束縛に耐えられなくなり、アイスランド人の妻と共に西側に亡命。ピアニストが大きな自由を持つロシアの伝統を行き過ぎと考えるようになり、音楽そのものの内に解釈を求めるようになる
セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953) ⇒ ロシアピアニズムにおける反ロマン主義派の傾向を最も顕著に示した逸材。レシェティツキの4人の妻の1人アンナ・エシポアに師事。ピアノの打楽器的側面を活用。多くのロシアの音楽家同様、音楽に鋭い皮肉の感覚を吹き込む
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~75) ⇒ プロコフィエフの同僚。スターリンによって党の方針を踏み外したと断定され制裁を受けるが、音楽の力が失われることはなかった。《24の前奏曲とフーガ》は最も鮮烈なピアノ作品だが、50年バッハ没後200年記念のライプツィヒ・バッハ国際コンクールで彼が審査員を務め、タチアナ・ニコラーエワが課題のバッハの《平均律クラヴィーア曲集》の中の48の前奏曲とフーガをどれも暗譜で演奏すると申し出て金メダルを取ったが、彼女の演奏に触発されて作曲、彼女に献呈され、彼女と生涯に渡る親交を結び、51年にタチアナが初演
ピアノと政治 ⇒ ピアノは昔から政治の道具として使われた。ほとんどの場合、ある行事が特別なものであることを示すために用いられたということ
ジョルジュ・シフラ(1921~94) ⇒ 50年代初めソ連支配下のハンガリーから脱出を企てて逮捕され、強制収容所に送られ、その後は演奏時に大きな黒い腕輪を着用
1945.7.19. ポツダムでの平和条約交渉の席上、アメリカ人ピアニスト(軍曹)ユージン・リストは、トルーマン大統領から、その場に集まった世界の指導者のために演奏するよう要請、大統領自ら譜めくりをした
ヒトラーにもお抱えピアニストがいた。エルンスト・ハンフシュテングル(愛称「プッツィ」)はハーバードで学び、応援団長として知られただけでなくワーグナーを大音量で演奏することで知られ、聴いた人はピアノのことを心配したという。フットボールの応援で使った技法だった「ジークハイル(勝利万歳)」のシュプレッヒコールをヒトラーに教えた。ルーズベルト大統領はハーバード時代のプッツィを思い出しヒトラーを自滅させないため「ひどい状態になったらソフトペダルを使ってみては」と提案した
ピアノは戦争中も、スタインウェイが飛行機から戦場に「GIピアノ」を投下することで兵士たちも臨戦態勢の最中ピアノの周りに集まった
アメリカのピアノ界にとって政治的一大事は、1958年モスクワでの第1回チャイコフスキー国際コンクールでのヴァン・クライバーンの優勝。冷戦の真っ最中、帰国したクライバーンはニューヨークで紙吹雪のパレードで迎えられた
現代ピアノ史における政治的に最も目覚ましい転換は中国で起こる ⇒ 文革の間禁止されていたが、世界の先頭になって次世代のピアニストと、ピアノを大量に生み出している
第13章 ドイツ人とその親戚
ドイツ流はロシアの贅を凝らした音楽の引き立て役であり、温か味のないインテリと思われていた
ハンス・フォン・ビューロー(1830~94) ⇒ ルビンシテインのアメリカツアーに刺激されてアメリカに発つ。「音楽の冷蔵庫」とまで言われたほど感情を押し殺した演奏に映る。リストのお気に入りの弟子の1人で娘のコジマと結婚。1875年チッカリング社の支援でアメリカツアーが始まり、ルビンシテインが演奏を拒否したチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の演奏でアメリカの聴衆の心を掴んで大成功するが、チッカリングの名前がピアノに表示されたことに腹を立て、ステージ上で表示を剥がす行為に出るなど恩を仇で返す。過酷なスケジュールを消化するにつれ、スタミナも評判も衰え始め、2年目の途中で172の契約済みのコンサートのうち33を残したまま帰国
ブランド戦争の始まり ⇒ 花形演奏者はピアノの販売促進にとって重要な役割を果たす。モーツァルトはシュタインのピアノを推奨。シュタインの娘で後にベートーヴェンの調律師となるナネッテ(モーツァルトの生徒だった)は夫のシュトライヒャーと共にピアノ会社を興し、ベートーヴェンの推奨を得ようと奮闘
ベートーヴェンは、絶えず製造業者同士を競争させ、シュトライヒャー、ヴァルター、ライヒャ、エラールと、次々に楽器を変えた。イギリスのブロードウッドからピアノを受け取ると大仰な礼状を書き、同社はそれを「不滅の作曲家が選んだブランドだ」と宣伝に使用、シュトライヒャーに、難聴に合わせた調整を要請し、同社もウィーンの標準だった優しい響きのよい音を捨てより大きな反響音と弾力性を与えたが、その時点で聴力障碍に対しては何をしても無駄だった
アルトゥル・シュナーベル(墺、1882~1951) ⇒ レシェティツキの生徒。スポットライトを演奏者から作曲家の内に秘めた思いに向けさせる力を持つドイツの伝統を体現、「演奏を行うアーティストは山岳ガイドの立場にあるべき」として、感情を抑えた奏法に徹する
ルドルフ・ゼルキン(1903~91) ⇒ オーストリア-ドイツ系ピアニスト。シュナーベルの音楽の構造への厳密なアプローチを受け継ぎながら、常に優雅で詩的なフレーズ、温か味のある音で演奏。トスカニーニ指揮のニューヨーク・フィルとの共演でアメリカデビュー。カーティス音楽院とマールボロ音楽祭(バーモント)で後進を指導
アルフレッド・ブレンデル(1931~) ⇒ 「新しい」シュナーベルと呼ばれる
エドウィン・フィッシャー(1886~1960) ⇒ スイスで生まれ、ライプツィヒで学ぶ。教育者でもある。ブレンデルに大きな影響を与えた
イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(1860~1941) ⇒ レシェティツキの弟子。シュナーベルと違い、聴衆をヒステリー状態にまで興奮させた。1866年にオープンして忽ちニューヨークの音楽の中心となったスタインウェイ・ホールが1891年カーネギーホール(当時は新音楽ホールと呼ばれた)に道を譲るために閉館することになり、スタインウェイはそれを記念してパデレフスキを呼んで、ダムロッシュ指揮のオーケストラとの共演による3つのコンサートを企画、あまりの人気に80回を追加(3万ドルの出演料が保証)、さらに追加で最終的にパデレフスキは117日間に107回演奏して95千ドルを受けとった。演奏の魅力はバランス感覚で、軽やかさと共に心の奥深くから湧き出る情熱があった。最後は1893年のシカゴ博で、セオドア・トマス指揮のシカゴ交響楽団との共演。トマスは常置オーケストラの指揮を夢見、地元実業界からの要請で新しいオーケストラを率いるためにドイツから移ってきて、シカゴ交響楽団の生みの親となるが、博覧会での音楽活動の責任者となりパデレフスキを招聘。博覧会ではメダルを巡ってピアノメーカーが競っていたが、地元優先の雰囲気に嫌気して優勢だった東部のメーカーがこぞって撤退、それに対し地元メーカーはイベントのコンサートで自分たち以外のピアノを使わないよう要求。パデレフスキがスタインウェイの使用を主張したため、地元はボイコットを打ち出し、連邦政府の介入まで引き起こす事態となり、音楽ホールは博覧会とは別の機関という理由でスタインウェイの使用が許可された。結果、パデレフスキは疲労のため最後のニューヨーク公演をキャンセル、トマスは博覧会の音楽監督のポストを追放、オーケストラまで奪われそうになったが、スタインウェイは騒動の中心となったお蔭で格好の宣伝となった
第14章 世界進出への鍵
外交的なロシアと内向的なドイツ、ポーランドの華麗さ、イギリスの着実さ、フランスの魅惑、イタリアの洗練、アメリカののびやかさ
ポーランドのピアニズム ⇒ ポーランドの言語(時を経てチェコ語、ウクライナ語、トルコ語、ハンガリー語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語の一部を吸収してきた)と同様、多くの影響を抱含
レオポルド・ゴドフスキー(1870~1938) ⇒ ネイガウスの師。自国の感受性と新しい地平で発見したものとを融合。ポーランドのきらめきとゲルマン的正確さを結合。《ショパンのエチュードによる53の練習曲》はショパンのオリジナル版の難度を、非常に弾きづらいという段階を通り越して殆ど演奏不能と言うところまで上げている
ヨーゼフ・ホフマン(1876~1957) ⇒ ポーランド生まれ。6歳でデビュー、7歳でルビンシテインを仰天させ、ニューヨーコのメットにデビューして有名ピアニストたちに涙を流させたのは11歳の時。ラフマニノフも「しらふで調子がよければ、現存する最高のピアニスト」と言ったが、素面を保つことが最大の課題だった。手が小さく、幅を狭めた鍵盤を作らせた。アイディアの宝庫で70もの特許を取得したが、その中には自動車のワイパー(メトロノームから発想)などがある
イギリスの最高峰は、クリフォード・カーゾン卿(1907~82) ⇒ ワンダ・ランドフスカ、シュナーベル、デイム・マイラ・ヘス等に師事
パリの代表は、マルグリット・ロン(1874~1966) ⇒ 透明、正確、繊細で力より優雅さを重んじるフランスの音を作る
アルフレッド・コルトー(1877~1962) ⇒ どのカテゴリーにも属さない。ワーグナーの音楽に魅せられ、バイロイトで聖歌隊の指導者となり、フランスに帰国後《神々の黄昏》のパリ初演を指揮
イタリアの20世紀最高のピアニストは、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(1920~95) ⇒ 「当世風リスト」(コルトー)
アメリカでは、シュナーベルの弟子レオン・フライシャー(1928~) ⇒ 「ピアノ界における世紀の逸材](モントゥー)。36歳の時右手の指2本が局所性ジストニアとなり、左手の曲をレパートリーとしたり、後進の指導に注力
ピアノテクニック ⇒ 正しいピアノテクニックと言うのは、昔から異論の多いテーマ。指の動きを改善するための機械的仕掛けの歴史は19世紀初めの「カイロプラスト」までさかのぼる。演奏者の身体的ストレスを減らそうと鍵盤を工夫した発明家もいた
ピアノコンクール ⇒ チャイコフスキーやクライバーン(1962年~)が登場した頃はまだ少なかった。45年には5つ、90年には114、今日では750を下らない
第15章 最前線で
グレン・グールド(1932~82) ⇒ 全く新しい時代の到来を告げる。人気の絶頂期にステージを降り、1955年バッハの《ゴルトベルク変奏曲》のレコードでいきなり国際舞台に登場。厳粛で非常に形式を重んじる作品と考えられ、ほとんど録音も演奏もされなかったが、たちまちベストセラーとなる
デジタルピアノ ⇒ 2004年初めてデジタルピアノの売り上げがアコースティックピアノの売り上げを上回る。1983年ヤマハが開発。ピアノのために書かれたすべての音楽をピアノらしい音で演奏できるようにするものと定義すれば、デジタルピアノはちょっと毛色の変わったピアノと言える
第16章 温故知新
ユンディ・リ(1982~)『中国におけるピアノ』⇒ 7歳でピアノを始め、2000年18歳でショパンコンクールに史上最年少で優勝。中国のピアノの伝統はロシアの「タッチ」が基本だが、フランス式のアプローチもあり、多様なソースからできるだけ多くのことを学ぼうとする
ピアノの歴史 スチュアート・アイサコフ著 越境する楽器とひき手の物語
日本経済新聞朝刊2013年7月7日
――ピアノというのは、越境する楽器なのだな。
(中村友訳、河出書房新社・3800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
この本を読みながら、思った。
楽器には、使われる音楽のジャンルがある程度まで、固定したイメージになっている。パイプオルガンといえばクラシックだろうし、サックスといえばジャズ、エレキギターといえばロックだ。
しかしピアノは、およそなんでもありなのである。さまざまなジャンルで用いられるし、この楽器が生れる以前のバロック期から現代まで、ほとんどの時代の作品を演奏できる。大人数のオーケストラのために書かれた作品も、模倣することができる。
最大の利点は、演奏者がひとりいればすむことで、まさに魔法の箱のようなものだ。この本に引用された、「音楽にとってのピアノの発明は、詩にとっての印刷の発明に匹敵する」というジョージ・バーナード・ショーの言葉は、ジャンルも規模も時代も空間も自由に越境できるピアノの偉大な特性を、見事に言いあてている。
さて、本書はそのタイトルにもかかわらず、楽器とその複雑なメカニズムの発展史、製造史を詳述するものではない。楽器製作者も顔を見せるが、主役はあくまで、ひき手であるピアニスト(そのかなりの部分が、作曲家と演奏家をかねている)である。
ジャンルは、もちろんクラシックにかぎらない。バッハ一族、モーツァルトとともに、オスカー・ピーターソンやビル・エヴァンスなどのジャズ・ピアニスト、ロックのビリー・ジョエルたちが、同じ「ミュージシャン」として登場する。その広汎な流れのなかで、ジョン・ケージやグレン・グールドの業績も語られる。
ピアノの越境性、汎用性を300年の歴史において俯瞰(ふかん)することができたのは、著者がアメリカ人であることが大きいだろう。この楽器はヨーロッパで生まれたが、メカニズムの発展、さらにその普及と大衆音楽への導入には、アメリカが重要な役割を果たしてきたことを、あらためて痛感した。
ユーモラスな挿話もまじえ、堅苦しくなく、物語的にピアノ演奏の歴史を概観できる好著。
(音楽評論家 山崎浩太郎)
コメント
コメントを投稿