一場の夢と消え  松井 今朝子  2025.3.6.

 2025.3.6. 一場(いちじょう)の夢と消え

 

著者 松井 今朝子

1953年京都市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科演劇学修士課程修了。松竹を経て故・武智鉄二氏に師事、歌舞伎の脚色・演出などを手がける。97年『東洲しゃらくさし』で小説家デビュー。同年『仲蔵狂乱』で時代小説大賞、2007年『吉原手引草』で直木三十五賞、19年『芙蓉の干城(たて)』で渡辺淳一文学賞を受賞。その他の著書に『円朝の女』『師父の遺言』『料理通異聞』『縁は異なもの 麴町常楽庵 月並の記』『江戸の夢びらき』『愚者の階梯』など多数。

 

 

発行日           2024.8.30. 第1刷発行      

発行所           文藝春秋

 

初出 『オール讀物』 20233,4月号~243,4月号

 

 

²  春永(はるなが)の暮らし

²  夏安居(げあんご)の日々

²  出来秋(できあき)の善悪(よしあし)

²  斑雪(むらゆき)の冬籠もり

 

²  春永(はるなが)の暮らし

(一)         

三井寺のご開帳の際立ち寄った近松(ごんしょう)寺で、正親町(おうぎまち)中将公通(きんみち、16531733)と、世を棄て世俗の身分になった杉森信盛がすれ違い、「気が向いたら訪ねるがよい。春永にのう」と昔話をしようと誘われる。春永とは、別れ際の常套句、また春の日永な折にでも会おう位の軽い誘い

正親町 公通(おおぎまち きんみち、承応2(1653)享保18(1733))は、江戸時代前期から中期にかけての公卿権大納言正親町実豊の長男。官位従一位・権大納言。

垂加神道の布教に努めたことで知られる。また朝廷政治においては武家伝奏役などを務め、朝幕関係の取次ぎに活躍した。号に守初斎、須守霊社。雅号に白玉翁・風水軒。孝明天皇は公通の来孫に当たる。

京都にて誕生。母は権中納言藤谷為賢の姫。妹に正親町町子柳沢吉保の側室)がいる。

万治元年(1658)に叙爵。寛文元年(1661従五位上侍従となり、寛文5年(1665)に元服した。その後、右近衛少将右近衛中将をへて、延宝5年(1677)に参議となり公卿に列する。天和元年(1681)に正三位・権中納言となり、貞享2年(1685)には従二位に昇進。踏歌節会外弁などを務めて、元禄6年(1693)から武家伝奏役を務めた。

元禄8年(1695)から翌年にかけては権大納言となった。しかし、元禄13年(1700)に東山天皇から武家伝奏を罷免されてしまう。江戸時代の武家伝奏の任命権は江戸幕府が持っており朝廷が関与出来なかったが、東山天皇は伝奏の人事権は天皇にあるとして幕府に無断で罷免を強行したのである。親幕府派であった関白の近衛基煕は公通の垂加神道の布教に批判的であったためにこの決定を止めなかった。また、幕府でも京都所司代小笠原長重は江戸に通報することなくこれに同意し、幕閣もこれに対抗措置を取らずに黙認してしまったために、武家伝奏の人事権が朝廷に移ることになった(ただし、公通が将軍徳川綱吉の不興を買って、綱吉から直接天皇に対して更迭の要請があったものの、公式な手続に依らない内々の要請であった為に天皇が自主的に罷免した体裁を取ったとする異論もある)。元禄15年(1702)に朝廷から5将軍徳川綱吉の生母桂昌院に対して従一位が下されたが、この異例の叙任の背景には義弟柳沢吉保から朝廷重臣への取り成しを依頼されたこの公通の働きが大きかったといわれる。宝永2年(1705)に正二位。さらに正徳2年(1712)に従一位となった。享保18年(1733712日に薨去。享年81

山崎闇斎の門下生の1人であり、闇斎が創設した垂加神道を朝廷に普及することに努めた。公通が唱えた垂加神道は俗に正親町神道などと呼ばれる。晩年は絵画と狂歌に没頭した。

 

正親町家は羽林(うりん)家という公家でも武門の家柄で、武家なら国持ちの大名に相当

信盛は、恵観禅閤(えかんぜんこう)の寵愛を受ける。禅閤は後水尾天皇の実弟一条昭良(あきよし)卿で、落飾出家、西賀茂の山荘に籠り風雅の道を極める。その茶会で2人は会う

信盛は、禅閤から庶弟で三井寺(園城寺)の長吏道晃(どうこう)法親王に紹介され、その斡旋で近松寺の寺奴となって3年が過ぎていた。父は元馬廻り300石の武士、京で隠居

信盛は、山を下りて公通を禁裏御所に訪ね、話し相手として、有職故実の整理に務める

参議に昇格して公卿の仲間入りとなり多忙になった公通から浄瑠璃の案文(あんもん)を頼まれる。依頼主は人気浄瑠璃語りの宇治嘉太夫(かだゆう)で、信盛は宇治が出ている四条通と大和大路通に架かる浄瑠璃小屋に出向いて、新たな演目の発想を練り、《源氏供養》を書き上げ、年明けに正親町邸にて嘉太夫が語る。嘉太夫が気に入って正親町卿に頼ることが多くなり、信盛も忙しくなったが、春の無礼講の宴で、公通の妹の侍女清滝との不義を妹に指摘され、密通が公になって公通の下を去らざるを得なくなる。公通の紹介で、嘉太夫の勧進元である四条河原の竹屋庄兵衛を頼る

宇治 加賀掾(うじ かがのじょう、16351711)は、江戸時代前期から中期に活躍した浄瑠璃太夫である。本姓は徳田氏で、通称は太郎左衛門。号は竹翁。初名は初代宇治嘉太夫(後に賀太夫、加太夫と改名)。

紀伊の宇治(現在の和歌山市)の生まれ。幼年期に製紙業を営んだ。1675年(延宝3年)、京都に出て、伊勢嶋宮内の名代で操芝居をはじめ、『虎遁世記』を語る。同じ浄瑠璃太夫の山本土佐掾(山本角太夫)と並び称され、1677年(延宝5年)、加賀掾宇治好澄を受領。加賀掾の浄瑠璃は、播磨掾の曲節に謡曲平曲幸若流行唄などを加えた繊細優美なもので、近松門左衛門とともに浄瑠璃の品位向上にと当代化に貢献した。八行稽古本の創始者である

 

(二)         

竹庄は、嘉太夫1人に頼る宇治座では面倒見るのは限界と、歌舞妓一座を率いる都万太夫に引き合わせ、信盛は万太夫の食客となる。早速《花山院后謡》の藤壺女御が怨霊の蛇身に早変わりする仕掛けを、山伏のビンザサラという数十枚ほどの小さな木片を紐で連ねた楽器からヒントを得て披露、道具方の信頼を得ると同時に、芝居の評判をとることに成功

芝居町でも知恵や知識が十分役立って、食うに困らぬ暮らしが始まり、役者の相談に与れば近くの色茶屋にも誘われ、芝居町で顔が売れると女に不自由はしなかったが、ある日突然実家から飛び出して芝居町をふらつく清滝に再会し借家に連れ込む

かつて見知った辻説教師の門付け芸人の誘いに乗って、堺の盛り場の戎島で『徒然草』を演台で語ることになり、昔いた寺に因んで近松門左衛門と自称。「門」に拘ったのは、かつて『伝灯録』で読んだ禅の教えに、「門戸を閉じて家の中で密かに造った車を表に出したら、他の車の轍にぴったり嵌ったという話があって、やはり人の世とは左様なものかもしれん」と、閉ざされがちな心の門戸を開いて、広い世間に出てゆく時節が到来したのを自ら悟る

延宝6(1678)、大坂経由堺に向かう。途上に道頓堀で観た芝居は、早逝した絶世の遊女を追慕した《夕霧名残の正月》で、坂田藤十郎という役者の演技に目を瞠る

堺での語りは、人に聴かせるコツをつかむのに苦労したが、次第に聴衆が増え始め、止め時を失いかけたが、蒸し暑さで客足が落ちたのを機に京に戻ると、加賀掾を受領して官人となった嘉太夫の慢心が元で竹庄と仲違い、竹庄は西国に去った

嘉太夫から、信盛の浄瑠璃はすべて加賀掾の正本(しょうほん)とし、版元が払う代金から取り分を払うとの申し出を受ける。嘉太夫は、嘉太夫節を広めるために、譜をもっと増やして素人衆の稽古にも使えるような正本にしようと考えた

浄瑠璃の正本は、50年以上も昔から刊行され、当初は専ら挿絵入りの読み物だったが、次第に語り方や声の高低を示す文字譜が加わる。語り口には「詞(ことば)」「地()」「色(いろ)」の3種の区別があって、「詞」は登場人物のセリフのように語り、「地」は情景や心理描写に旋律を付けて語り、「色」はその中間で両者の滑らかな移行に使われる。声は「中」が低温で、「ウ」がそれを浮かしたやや高音、さらに声を高く張って語る時は「ハル」と記された

正本は、書き手が誰であれ、世間にはあくまで太夫の語り口を想い出すよすがとして求められているため、「加賀掾」と版元の記名はあっても信盛は無記名だし、幾何にもならない

正本は売れ行きが好調で、信盛の懐もそこそこに潤すようになる。世間の好景気は歌舞妓芝居にも及び、それと共に能舞台の倍ほどにもなって、それに見合う芝居にするために信盛が相談に与ることも増えた。子を授かったのを機に両親に挨拶に行かねばと考えたが、母は医家の生まれで気位が高く逡巡

 

(三)         

昔の芝居は一座の主な役者がセリフを拵えて、他の役者と車座になって一場面づつセリフを口写しに教えたという。それで一場のセリフを各人がざっとさらってみてから立ち上がって動きをつけ、それを何度か繰り返した上で、次の場面を同様にまた口写しで教える段取りだったらしい。芝居が長くなって書き残すようになったが、書くのは役者で、役者を廃業して書くほうだけを「狂言作り」と名乗った男もいたものの、舞台に立ちもせずに書くだけで給金をもらうのはおこがましいと非難囂々だったが、今や「狂言作り」をしないかと誘われる。竹庄も大坂に戻り、一緒に西国へ行った浄瑠璃語りは「竹本義太夫」を名乗る

竹本 義太夫(たけもと ぎだゆう、1651)とは、江戸時代浄瑠璃語り。義太夫節浄瑠璃の創始者。本名五郎兵衛、初期には清水五郎兵衛と名乗る。のちに竹本筑後掾と称した。

摂津国天王寺村の農家に生まれる。当初、当時人気の浄瑠璃語り井上播磨掾弟子である清水理太夫に入門し、播磨掾の芸風を学ぶ。のちに京都に出て、浄瑠璃語りの宇治加賀掾のもとで浄瑠璃を語り好評を得、清水五郎兵衛と名乗った。延宝512月に京都の四条河原に芝居小屋を建てて独立した。加賀掾の興業主であった竹屋庄兵衛が組織した操り人形芝居の一座に加わって西国で旅回りをし、延宝8年(1680年)のころ竹本義太夫と改名。いっぽう天和3年(1683)には、近松門左衛門が加賀掾のために『世継曽我』を書いたが、翌年の貞享元年、義太夫は大坂道頓堀竹本座を開場して座本(興行責任者)となり、その旗揚げとしてこの『世継曽我』を語り評判をとる。近松が竹本義太夫とかかわりを持つようになったのは、これが最初であった。

さらに貞享2年、竹本座は近松作の『出世景清』を上演し義太夫がこれを語ったが、以後義太夫と近松が提携して上演した作は「新浄瑠璃」と呼ばれるようになり、この作より以前の、播磨掾や加賀掾らが語ったものを「古浄瑠璃」と呼んで区別するほどの強い影響を浄瑠璃の世界に与えた。

元禄14(1701)に従七位上筑後掾(ちくごのじょう)を受領し、竹本筑後掾と称す。

16年には近松作の『曽根崎心中』が好評により竹本座の経営が安定したので、座本を引退し初代・竹田出雲にその座を譲ったが、その後も竹本座には出演している。正徳4年に死去、享年64。墓所は大阪市天王寺区の超願寺。なお弟子の発起によって生國魂神社境内の浄瑠璃神社にも祀られている。

 

西鶴も評判で、一昨年上梓した『好色一代男』が評判をとり、句作が軽妙に過ぎて阿蘭陀流と揶揄され、三十三間道の通し矢に因んで、一昼夜に詠める句の数を競うといった邪道の矢数俳諧で世間を騒がせていた

竹本座の脚本を書き次々にヒット。幸若舞の《景清》を元にした《出世景清》が大当たり

両親にも清滝と子供を会わせ、最初こそ呆れ果てた顔をしていたが、孫が鎹となった

 

²  夏安居(げあんご、夏籠り)の日々

(一)       

元禄元年(1688)、道化方(どうけがた、道化師)の金子吉左衛門は、信盛にかぶき狂言の作者になることを勧めてくれた人、我儘で自惚れの強い役者連中と芝居のセリフで揉めると、いつも良き相談相手。かぶき狂言はまず「座本(ざもと)」と呼ばれる一座の長が気に入らなければお話にならない。浄瑠璃の詞章を綴るのとは似て非なるというより、全くの別物。浄瑠璃は話を組み立てて詞章を綴ればいいが、かぶき狂言は役者それぞれの得意な芸を話にどう盛り込むかが重要で、自ずと役者の注文は避けられないが、それを聞いていたら話の筋が混乱し、挙げ句破綻してしまえば、結局のその責めを受けるのは作者となる。役者を説得できなければ書き直す羽目にもなって、逃げ場のない夏安居の修行を強いられる

藤十郎は珍しい程に思慮に富んだ役者で、台本に最初(はな)から文句をつけることは滅多にない。信盛もいつも藤十郎を念頭に書いていたが、突然休座するという。長年待ちかねた市川團十郎が江戸からくるというので、その間休養するらしい

世間の大方は、腹の足しにもならない芝居に現を抜かす連中を嗤っている。しかし余程の芝居好きでも、舞台を見て我を忘れるのはほんの一瞬に過ぎない。その一瞬のために、自分の一生を捧げようとする役者を見て、そんな人間がこの世にいることを信盛はまず不思議に思い、かえって珍重して、尊重したくなったのかもしれない

かぶき狂言のあらすじを絵入りで紹介して配役まで載せたのが狂言本で、芝居土産にうってつけ。信盛はその原稿も執筆

ある日(元禄6)藤十郎の紹介で興行の金主のもてなしを受ける。ご開帳に当て込んだ狂言が面白く、祝儀をやろうとしたら、藤十郎にあれは作者の手柄だと言われたという。劇場(こや)の看板や狂言本の内題下にも「作者 近松門左衛門」と書かれるようになった

 

(二)         

團十郎の颯爽として凛とした役者ぶりに指をくわえて見てから4年、中村七三郎が江戸から来た時は閑古鳥。美貌の優男で女と色気のあるやり取りの演技(しばい)に長けたと評判だったが、京芝居の坂田藤十郎などと重なる芸風で、その手の「和(やわら)か事」は京が本来家元のはずで、わざわざ江戸の役者を見るまでもないということだったが、元禄11(1698)に入って俄然人気沸騰。出し物の《傾城浅間嶽》は信盛の書いた浄瑠璃《日本西王母(にっぽんせいおうぼ)》の一部に酷似するが、かぶき狂言に剽窃は付きもの

その頃、大名貸で財を築いた商家の3代目は、零落して落籍した太夫と共に隠棲。藤十郎が探しに行くのに信盛も付き合う。3代目の生き様がその後の信盛と藤十郎の肥しとなる

かぶき芝居の役者は各自1年契約で一座に出演し、冬至の頃にその年度替わりを迎えて、顔見世は文字通り新年度の一座の顔ぶれを見せる興行。京大坂の芝居では、各役者に得意な芸を披露させつつ気楽に観られる滑稽な3幕仕立ての狂言にする決まり。顔見世は年内に打ち上げ、年明けからようやく「二の替わり」という本格興行が始まる

信盛は一座の挽回を図るべく、都万太夫座の座本の藤十郎と相談して、『平家物語』の「仏原(ほとけがはら)」から名題を借りて武家のお家騒動を書いた《傾城仏の原》をかけたのが大当たりとなり、(中村)七三人気に一矢を報い、藤十郎もその名を不動のものとした

 

(三)         

元禄15年の討ち入りを匂わせた《傾城三(みつ)の車》は大評判

竹本義太夫も念願の受領を果たして今や筑後掾藤原博教(ひろのり)を名乗る天下無双の浄瑠璃太夫となり、受領の祝儀曲として披露した《蝉丸》も信盛が浄瑠璃仕立てにして書く

浄瑠璃正本は当代一の歌人といわれる霊元上皇の目にも留まり、漢詩に由来した道行の詞章をたいそうお賞()めになったという。上皇は、かつて仕えた一条恵観禅閤の甥。信盛は、上皇に正本を見せたのは正親町公通だろうと思い出し、久しぶりに尋ねると、公通はすでに従二位で武家伝奏を解かれ、妹の弁の君は柳沢吉保の側室になったと聞いて愕然とする。京の調停がさほど江戸の幕府に屈せざるを得ないのかと腹立たしく暗澹たる面持ち

崇め奉っていた堂上公家の家柄や格式が形無しになれば、これまで尊んで大切に守っていた学識や知見や識見までもが急速につまらないものと感じられるのはどうしようもなかった。京の都では上皇の褒辞が箔になっても、宮中の話が一切聞かれない大坂では、その浄瑠璃(能の《鉢木》に拠った《最明寺殿百人上臈》)の興行が2タ月とはとは保たなかった

竹本座が追い詰められ旅巡業で何とか糊口を凌いでいると言い、信盛に助けを求めて来る

そもそも浄瑠璃は三河国矢作(やはぎ)の長者の娘浄瑠璃姫と牛若丸の恋物語に創(はじ)まったが、今どきはもう武将と姫の恋物語なぞ流行らないのだろう。かぶき芝居でも、恵まれた若殿や若旦那が色恋で零落する話はもはや時代遅れなのかもしれない。世知辛くなった昨今は、人がもはや身近な不孝にしか興味を惹かれず同情も出来ないために、にわか仕立ての粗雑な切り狂言が流行るのではないか。自らに縁遠い往古(いにしえ)の恋物語よりも、今どき珍しい「恋知り遊女」の方が人々の心を掴むということなのだろう

信盛も竹庄に、かぶき芝居の「切り狂言」(早朝から上演される主演目の付録として最後に上演される狂言。時節の話題をネタに人気を博す)に倣って「切り浄瑠璃」を持ちかける

掾号まで受領した浄瑠璃が下賤なかぶき芝居の真似事などと渋る竹庄を説得して、五カ月前に堂島新地での手代と遊女の心中を題材にした《曽根崎心中(しんじゅう)》を「切り浄瑠璃」と銘打ってかけた所、題材の新鮮さに加え、人形遣いの妙味と義太夫の格調ある重々しい語りとが相俟って、主演目を差しおいて人気となり、連日大入りの前代未聞の大当たりが続く。時事の題材だけに、作者には、古歌や古書の知識に頼る浄瑠璃の詞と異なり、己の胸に湧き出した詞でほぼ綴れたという自負があり、フシは何れ忘れられても、詞は世に長く残ると言われれば悪い気はしない。その頃(元禄16)江戸では大地震

翌年團十郎が興行の真っ最中に若い役者に殺害され、京でも大和屋甚兵衛が亡くなり、さらに還暦(ほんけがえり)に近い藤十郎までが舞台で昏倒、先行きに不安を残す

 

²  出来秋(できあき)の善悪(よしあし)

(一)         

藤十郎の休座が長引き都座は不入りとなったが、《曽根崎心中》の大当たりは、版元が潤っただけでなく、信盛も無署名だった旧作が署名入りで再版され、名前を入れただけで飛ぶように売れるようになる。古希を迎えた加賀掾までもフシ付けを直して語る

信盛は、版元から序文まで依頼され、礼金が増えた上に広い家屋敷まで手にする

《曽根崎心中》の大当たりで義太夫が疲労困憊の挙げ句、急な病に倒れ、竹庄もこれを潮時に引退を勧めたところ、竹田出雲が出てきて興行主を引き受け、信盛を新生竹本座の座付き作者に招聘するとの申し出あり。竹田出雲は、初代が阿波国から江戸に出て人形のからくりの仕掛けを様々工夫し、京でそれを見世物にして先ず出雲目(さかん)を、次いで近江掾を受領、跡継ぎたちは竹田近江と竹田出雲を名乗って一族が大坂に集結し、竹田近江は道頓堀名物となった竹田からくりを興行する傍ら、町年寄を務めるほどの名士

竹田はからくり人形を浄瑠璃芝居に取り込むことを考え、信盛を軍師として招き、京に妻子を残したまま、仁徳天皇が「民の竈は賑わいにけり」と詠んだ高津宮近くに住まいを構える。いろは茶屋の女将から聞いたり町で耳に入れた様々な噂話を信盛が書くと、都万太夫座は《傾城金淀恋(こがねのよどごい)》と題する狂言を二の替わりとして上演。中之島の開鑿や北浜の米市などで大坂を一から創り上げたといっても豪商淀屋がお上の怒りを買って牢舎させられた事件が題材で、全財産没収の上、当主は所払いで厳しいお裁きに

宝永2(1705)信盛は、義太夫の愛弟子で独立した豊竹若太夫が旅巡業から大坂に戻ってきたのを機に、一緒に「浄瑠璃顔見世」をしようと竹田出雲に持ち掛け、新たに天王寺さん(大坂の四天王寺)を舞台にした伝説をもとに《用明天皇職人鑑》を書き下ろし成功

京では藤十郎が早くも復帰を遂げ、宝永4(1707)信盛の書いた《石山寺誓湖》で、道頓堀岩井座にいた大和山甚左衛門をスカウトして主役に抜擢、自らの芸を象徴する紙衣(かみこ)の衣裳を舞台の上で着せたのが「紙衣譲り」と都中の評判となる

新生竹本座は、立て続けに心中物の新作を上演したが、次の大作はいよいよ聖徳太子と物部守屋の合戦に始まって四天王寺建立に至る大坂の土地に馴染みの深い話し。書き終えると竹田出雲が書き写して義太夫に渡す写本を拵え始めた。いずれ作者になるつもりだろう

宝永4(1707)秋、4年前の江戸の大地震に続いて大坂でも大地震。東の法妙寺に逃げ込むが、激しい揺り返しに何度も襲われる。各所の寺の施餓鬼に縋り、半月ほどで漸く道頓堀の浚渫も始まり、復興に着手。1か月ほどでかぶき芝居が顔見世興行の幕を開ける

その真最中に富士の大噴火勃発、大坂中がその噂で持ち切り

 

(二)       

大坂三郷(淀川の本流となる大川の南が船場で本町通を挟んで北組と南組に分かれ、大川の北が天満、北組・南組・天満組の3つを併せて大坂三郷という)の倒壊家屋は1.1万軒、死者3000人近く、津波の死者はそれ以上とも。寺町や上町に避難した者は無事だが、浜側は津波の被害が大きく、芝居の関係者にも類が及ぶ

竹田一族もからくり芝居を全て流され相当な痛手だったが、義太夫や出雲を始め一座の人々が無事だったので、ひとまず興行は再開。信盛は1年前の正月に起きた色恋沙汰を新作浄瑠璃《心中重井筒》にして好評を博したが、竹本座の客入りは落ちて、また旅巡業へ

揺り戻しで、京の芝居小屋は悉く大破。すぐに再建され、藤十郎が引退興行を張るが、喝采と人気を見て復帰の噂が立つ。年明けの宝永6年には生類憐みの令が停止(ちょうじ)となり、綱吉に続いて正室も逝去、芝居はいずこも一斉に休座。同年11月には藤十郎、加賀掾と相次いで死去。両者共に、他に真似手がない位の卓越した独自の芸境に至ったからこそ、共に跡継ぎには恵まれなかったが、それは天性に任せた芸の宿命。片や義太夫は天性がないとは言えないものの、誰も声が届かぬような音域(オン)を使ったり、真似できないほど難解なフシ付けはしないからこそ、凡庸な素人でも習えるおかげで大流行し、今や浄瑠璃といえば即義太夫節を指すような勢い

浄瑠璃作者として新たに出てきたのが、信盛の10歳下の豊竹座に招かれた紀海音

海音(きの かいおん、1663-1742)は、江戸時代中期の浄瑠璃作家、狂歌師俳人。本名は榎並善右衛門、のち善八。大坂生まれ。父は大阪御堂前の菓子商鯛屋善右衛門(俳号:貞因)で、兄に狂歌師油煙斎貞柳がいる。別号は貞峨・契印・白鷗堂・鳥路観など。

大坂御堂前雛屋町西南角の老舗の菓子商鯛屋善右衛門の次男として生まれる。

少年期から青年期にかけて、正確な記録は残っていない。若い頃は、京都宇治黄檗山萬福寺の悦山に師事して僧となり、高節と号した。悦山に「舌頭湧出海潮音」と評され、これが「海音」の号の由来とされる。

その後、還俗して大坂で医師となり、和歌契沖に、俳諧安原貞室に、狂歌を兄に学んだ。1707宝永4年)から1723享保8年)頃まで大坂豊竹座の浄瑠璃作家として活躍し、竹本座の近松門左衛門と対抗していた。しかし、1723年(享保8年)浄瑠璃作者を引退する[2]。それ以降は俳諧と狂歌に専念した。1736元文元年)には法橋に叙せられている。

晩年は俳諧と狂歌関係者との交友が深く、公卿の厚遇も得たという。

信盛の最新作は、梅川・忠兵衛の道行を書いた《冥途の飛脚》、赤穂浪士の討ち入りを仕組んだ《碁盤太平記》。正徳4(1714)には、竹本座の大夫を勢揃いさせて天神様(菅原道真)の一代記《天神(てんじん)記》が人気。秋には、絵島生島(えじまいくしま)事件を匂わせる《娥哥(かおようた)かるた》を上演するが、途中で義太夫が倒れ声が出なくなり、呆気なく他界(享年64)。役者や芸人の葬儀はとかく死んだ者よりも生き残った者の舞台と化す

江島生島事件は、正徳41江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名が処罰された綱紀粛正事件。

新たな竹本座の顔見世は能の《紅葉狩》に拠った《栬狩剣本地(もみじがりつるぎのほんじ)》としたが、新井白石の建言による貨幣の改鋳が招いた不景気もあって客の入りは不芳

正徳5年の正月興行は、大経師の妻と手代との姦通事件の33年忌を当て込んだ《大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)》、夏には新たな情死をもとに《生玉心中(なまたましんじゅう)》を書き上げ

浄瑠璃を初めて書いた時は俳諧と同様に5文字と7文字の組み合わせで、歌詞(うたことば)で綴ればよいと公通卿に教わったものだが、「歌」と「語り」の違いが気になりだしたのは、義太夫との出会いから。きれいに歌えば気持ちがいいし耳触りもいいが、その分ともすれば聞き流すことになる。義太夫が一語一語を聞き流されぬようぐっと息を詰めたり息を殺す一瞬は、相当の苦しみだったに違いないが、信盛も生々しく真を穿った詞に拘った

 

(三)       

からくり仕掛けをふんだんに使って、奇抜な衣裳を着せた人形で人目を驚かす操り浄瑠璃を言い出したのは出雲で、明国の復興を企てた「国姓爺」と称せられた鄭成功の物語を《国性爺合戦》(「性」にしたのは、死を前にした鄭成功の母が「日本の者」と名乗ったことに対し、信盛が国の性(さが)に触れて拘ったから)に仕立てて生き残りを賭けた勝負に出る

大評判をとって竹本座は復活、かぶき狂言にも取り入れられて、漢学一本鎗になって学者も儒者ばかりになった世の中に一矢報いたと歓迎され、「国姓爺」一色になって足掛け3年、17カ月の長い興行となる。その間、母と弟が死去。京から離れなかった本妻が初めて大坂に《国性爺》を見に来て、妾と懇ろに話し合うのを見て信盛は仰天

人気に陰りが見えたところで、かぶき狂言が大当たりした例に倣って後日譚となる《国性爺後日合戦》を用意したが、かぶき芝居と違って惨憺たる興行になり、違いが鮮明に

信盛の長男は絵師として成功していたが、次男は幇間(たいこ)医者で1人者、新町の母親似の女郎にぞっこんとなり、女郎の真心と四角い卵はないという世間の通り相場通り騙されて、次男が「死一倍(しにいちばい)(親の死をカタに借金すること)で苦境に陥る

 

²  斑雪(むらゆき)の冬籠もり

(一)         

昔の狂言作者は浄瑠璃の筋を取り込んでも名題は変えたが、《国性爺合戦》以来同じ名題で上演するのが当たり前になった。昔は人形だからこそ見せられる夢物語が操り浄瑠璃の本道だったのが、《曾根崎心中》で今の世を生々しく写し出したことから、浄瑠璃が大きく変わり、話の辻褄が合って理屈も通らないと泣けなくなってきた

近頃よく訪れる客人の中に穂積伊助という若い儒者がいて、よく議論をした

穂積 以貫(ほづみ いかん、1692-1769)は、江戸時代の儒学者。播州姫路に、和算家穂積与信の子として生まれる。名は為仍、通称は伊助、号は能戒斎。書写山で仏教を学んだ後、1714年(正徳3年)伊藤東涯に師事し古学派堀川学派に属する。はじめ柳原家に仕え、1717年(享保2年)以降は町儒者として生活した。竹本座との関係が深く、近松門左衛門の『傾城酒呑童子』執筆に同席したという逸話が残り、自著『浄瑠璃文句評注難波土産』に近松の「虚実皮膜論」が記してあることでも知られる。次男は近松に私淑して近松半二を名乗る浄瑠璃作者となった。

大川の網島と呼ばれる中洲での心中事件を題材に、享保5(1720)《心中天網島》を書き竹本座を潤すが、吉宗の享保の改革が始まり、町方には質素倹約令など様々なお触れが出て、浮世草子なども絶版の憂き目を見て、信盛にも奉行所からの忠告が入る

 

(二)         

世間の痴話話を聞きながら昔の物語にそっと忍び込ませて、今の世に息づく浄瑠璃に仕立てるのが流行っているが、決して浄瑠璃の本道とはいえないことを信盛は承知していた

大坂では、雛の節句前の32日、菖蒲の節句前の54日、お盆の715日、重陽の節句前の98日と大晦日が5節季とされ、掛け売買の決算日と定まっている

節季を前にして起った天満の強盗殺人事件が「油屋の女房殺し」として街の話題を集め、それを題材にしたかぶき狂言《女殺油地獄》を書き、享保6年の盆興行にかける

心配していた次男が天満で、亡くなった町医者の娘と結ばれて開業、そこそこ繁昌していると聞いて会いに行き、久しぶりの再会を果たし、これで思い残すことはないと安堵する

 

(三)         

吉宗の倹約令はさらに厳しさを増し、新作浄瑠璃も予め町奉行所に草稿の「見せ本」を提出し、吟味を受けてから版元に回すという面倒な仕組みとなり、好色本は発禁

後継者にも松田和吉や竹田出雲が出てきて、後を任せられるようになって来た

文耕堂ぶんこうどう生没年:不詳。竹本座の浄瑠璃作者。松田和吉(まつだわきち)の名で竹本座で作者となるも後に退座。復座後は文耕堂と改名し、立作者として近松没後の竹本座を支えました。紀海音、初代竹田出雲、並木宗輔(千柳)とともに、浄瑠璃作者の四天王と称されました。

信盛も、一旦は筆を断つと決心したが、死を目前にいた今は周囲を憚ることなく、お上の目も恐れずに書きたいように書こうという気になって書いた新作浄瑠璃が《関八州繋馬》で、朝廷に叛乱を起こした平将門が滅んだ後の関東の逆襲を基軸に、将門の息子良門(よしかど)が再び朝廷に叛旗を翻し朝臣の源頼光一族に復讐を試みる話。享保9年の幕開け早々から大評判となり、近松の力量が改めて示される結果に

ところが、「愚者の政道は細かにして、角々(すみずみ)まで洗い届けんとする故、重箱も損ね国危うし」とあるのを、「今日のご政道を批難し蔑(さみ)なさるもの」との投書が目安箱に届き、《心中天網島》でも同じようなことがあっただけに要警戒

享保9年の大火は、火元の老女の隠居名から「妙知(みょうち)焼け」と呼ばれ、大坂三郷の総町数605町の2/3で燃え広がり、焼失家屋は11,765軒と宝永の大地震を上回る

歳とともに周囲からも「師匠の斑気にも困ったもんや」と嘆かれながら、信盛の心の中には真白なところがあって、斑気よりも斑雪に近い

穂積伊助に愛用の端渓の硯を譲ったら、「自分はきっと子だくさんになるから、誰か1人くらいは浄瑠璃作家にして近松姓を名乗らせましょう」と言ってくる

「春宵一刻値千金」の句を詠んだ蘇東坡が年老いて、同じく年老いた婦人から、富貴と名声に包まれたあなたの人生も所詮は「一場の春夢」に過ぎぬ、と言い放たれた話を昔どこかで読んだ覚えがある

 

 

 

 

 

文藝春秋 ホームページ

日本史上最高のストーリーテラー、近松門左衛門。創作に生涯を賭した感動の物語。近松小説の決定版!

絶賛、続々!

〈実〉を緻密に積み上げ、〈虚〉の世界から情を迸らせる。

読みながら、何度もぞくりとした。本作は、虚実皮膜のギリギリを攻める近松の浄瑠璃と地続きにある。 ——平松洋子

生真面目で切なくて、色っぽい。虚と実の間に立ち昇る、近松の真実(リアル)。圧巻の芸道小説だ。 ——朝井まかて

『曾根崎心中』『国性爺合戦』など、数多の名作を生んだ日本史上最高のストーリーテラー・近松門左衛門

創作に生涯を賭した感動の物語。

越前の武家に生まれた杉森信盛は浪人をして、京に上っていた。後の大劇作家は京の都で魅力的な役者や女たちと出会い、いつしか芸の道を歩み出すことに。竹本義太夫や坂田藤十郎との出会いのなかで浄瑠璃・歌舞伎に作品を提供するようになり大当たりを出すと、「近松門左衛門」の名が次第に轟きはじめる。その頃、大坂で世間を賑わせた心中事件が。事件に触発されて筆を走らせ、『曽根崎心中』という題で幕の開いた舞台は、異例の大入りを見せるのだが……

書くことの愉悦と苦悩、男女の業、家族の絆、芸能の栄枯盛衰と自らの老いと死——

芸に生きる者たちの境地を克明に描き切った、近松小説の決定版

シェイクスピアと近松門左衛門――。東西の偉大な劇作家の共通点はあまりに意外な苦労だった!?

 

 

2024.09.23読書オンライン

担当編集者より

三遊亭円朝を描いた『円朝の女』や初代・市川團十郎の一代記『江戸の夢びらき』など、古典芸能の偉人を描き、高い評価を得てきた松井今朝子さんですが、その集大成としたのは「日本のシェイクスピア」の異名を持つ近松門左衛門です。『曽根崎心中』をはじめ、『冥途の飛脚』『国性爺合戦』『女殺油地獄』など、その作品の数々は舞台に映画にと幾度も再演、リメイクされ、押しも押されもせぬ大劇作家として有名です。
しかし意外にも、その近松本人を主人公とした小説はほとんどありません。それもそのはず、生涯に150作以上をものしたとされる近松を描こうとすれば、膨大な数の作品のみならず、多岐にわたる資料を読み込む必要があるほか、歌舞伎や浄瑠璃など、舞台芸能の表も裏も知り尽くさなければなりません。手を出そうにも出しづらい人物といえるのです。そんな偉大過ぎる近松を生きた小説として十全に描くことは、歌舞伎の企画・製作に携わり、また長く作家業を歩んでこられた松井さんにしかできないことだったかもしれません。
近松の生涯のみならず、芸道に生きる者たちの境地を克明に描き切った、近松小説の決定版にして芸道小説の最高峰です。

 

 

 

文藝春秋 2025年新年号 『2024年 わたしのベスト3

感情を揺さぶる言葉  平松 洋子 エッセイスト

 とりわけ印象に刻まれた長編小説として、『一場(いちじょう)の夢と消え』を挙げたい。日本の芸能文化の礎、近松門左衛門の生涯を描き切って圧巻。古典芸能に精通する著者にしか到底描き得ない緻密な時代背景や浄瑠璃、歌舞伎の世界の細部。そのうえで、近松そのひとに肉薄する小説の虚実皮膜にすっかり心を奪われた。

 

 

 

で織る、近松の生き様 松井今朝子さん、小説「一場の夢と消え」

2024109日 朝日新聞

 江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎の作者として、新しい地平を切りひらいた近松門左衛門。その生涯を描いた「一場(いちじょう)の夢と消え」(文芸春秋)は、松井今朝子さんの人生を重ねて生み出された渾身(こんしん)の芸道小説だ。

 「曽根崎心中」「国性爺(こくせんや)合戦」。近松は浄瑠璃だけでも100本ほどの作品を残した。日本のシェークスピアともいわれる劇作家だ。

 近松作品にはなじんでいる。大きさがわかるだけに、近松を書くには決心がいった。膨大な資料を調べ、作品を読みこんだ。「資料を体にしみこませるのが大変でした」と苦笑する。

 史実をもとに緻密(ちみつ)に織りあげた物語は、虚である近松の作品とその実人生がからまりあい、厚い人間ドラマとなった。作中にこんなセリフがある。「虚と実の間をつなぐのが芸というもんじゃよ」。近松がうたった芸論「虚実皮膜」が物語として立ち上がる。

 武家に生まれた杉森信盛が芸の世界に踏み出し、作者となる。竹本義太夫と出会って人形浄瑠璃の新しい花を咲かせ、初代坂田藤十郎と元禄上方歌舞伎の一時代を築く。書くことの苦悩があり、家族との葛藤もある。芸能がしめつけられていく享保時代の息苦しさも描かれる。

 近松の身になって書いていたという松井さん。「武家に生まれた人が芝居の世界に足を踏み入れるとは人生の大転換。不安もあったでしょう。それを乗り越えて初めて『作者』と名乗る人になったのです」

 歌舞伎作者として活動した後、再び人形浄瑠璃に戻って発表したのが「曽根崎心中」。「実際にあった出来事をもとにしても、単なる再現ドラマではない。構想力に秀でていました」

 それに、近松の言葉は強さをもっていた。「語彙(ごい)力が並大抵のものではない。飛び抜けた知識人だったんですね。和漢の書から多くの言葉をとりいれ、浄瑠璃を豊かなものにした」

 没後300年のいまも通じるリアリティーがある。言葉が古びない。「冥途の飛脚」「女殺油地獄」といった題名もインパクトがある。

 松井さんは言う。「人形浄瑠璃がいまでいうアニメだとすれば宮崎駿さんみたいな人であり、歌舞伎役者に向けて脚本を書くのは三谷幸喜さんのようであり、プロデューサー的な面があると考えると秋元康さんのようでもある。この3人を兼ねたような人だったのでは」

 松井さんの生家は京都・祇園の料亭で、文楽の太夫らがよく訪れた。人形浄瑠璃の一節を家人が当たり前のように口にするのを聞いて育ち、「義太夫節が耳にしみていたんですね」。

 小学校時代から文楽を見に通った。6年生の時には「文楽は見るもんではなく聞くもんですなあ」と言っていたという。幼いころから芝居にかかわった蓄積がにじみ出る作品となった。

 徳川吉宗の享保の改革の時代となり、言論統制が厳しくなる。心中ものの禁止などこまかいおふれが出た。人々が縮こまっていく時代に近松は世を去る。「最晩年の作品は時代を批判しています。批判精神をもった劇作家でした」

 書き上げて、松井さんはあらためて感じた。「世俗的な欲望や家庭の問題と、いろいろな煩悩を抱えて生きた人だと実感した。実人生の厚みが彼の作品につながったのだろうと。その厚みがなければ、深く突っ込んだ言葉は出てこなかったかもしれません」

 松井さんの集大成ともなった1冊にはその役者観、芸能観がつまっている。読み終わると、近松作品の舞台が見たくなる。(河合真美江)

 

 

 

 

文藝春秋 202412月号 巻頭随筆

近松と南海トラフ

 松井 今朝子 作家

2024/10/09

 歴史に残る人物を小説に書く場合はまず年表作りから始める。その人物が何歳でどんな出来事に遭遇したかを、一応押さえておきたいからだ。

 今年没後三百年を迎える劇作家、近松門左衛門を主人公にした『一場の夢と消え』を上梓する際も同様にして、いつにない感興を覚えたのは彼の生まれ年が私のちょうど三百年前だったからかもしれない。

 元禄元(一六八八)年の彼は満三十五歳。私は自分がその年齢だった一九八八年を、ああ、バブルが始まった頃だなあ……と妙にはっきり想い出せるのである。

 品位を下げた改鋳で通貨をジャブジャブにしたいわゆる元禄バブルが激しい物価高をもたらしたのは元禄八(一六九五)年以降のこと。当時の近松は京都の劇壇で座付作者として歌舞伎の舞台に筆を執っていた。それらの舞台の多くは豪商や大名家の放蕩息子を主人公にしていた点で、いかにもこの時代らしい作品群といえそうだ。

 元禄十六(一七〇三)年の十一月に起きた江戸の大地震でバブルは完全に弾けたが、彼は同年の初夏に、大阪の人形浄瑠璃竹本座に今日でも知られる「曽根崎心中」を書き下ろしていた。金銭問題で心中に追い込まれる男女を主人公にしたこの作品もまた、同時代の世相を強く反映したものだろう。

「曽根崎心中」の大ヒットで近松は一躍ひっぱりだこの人気作者となり、徐々に歌舞伎を離れて専ら人形浄瑠璃へ筆を向けた。今日に残る歌舞伎や人形浄瑠璃文楽に共通の作品が多いのは、両者の草創期に携わった彼が双方に影響を与えつつ作劇の基礎を築いたからである。

松井今朝子氏 ©文藝春秋

 竹本座で正式に座付作者となるのは宝永二(一七〇五)年、近松は満五十二歳。当時なら隠居してもおかしくない年齢で浄瑠璃に傾注したのだ。「国性爺合戦」や「心中天の網島」といった多くの名作がその後に誕生したのを思うと、驚異的な筆力の主だったのが窺えよう。生涯で無数の歌舞伎台本を手がけ、百本ほどの浄瑠璃を今日に書き残して、最晩年に至るまで筆を擱くことはなかった。

 ところで近松は竹本座の座付作者になった翌々年、数えの五十五歳で大変な目に遭っている。南海トラフ連動型とおぼしき宝永地震に見舞われたのだ。元禄江戸大地震の四年後、富士山噴火の一ト月半前に西日本を襲った未曾有の天災である。

 近松自身がそれに何処でどんなふうに遭遇したかの記録は残されていないし、作品にもさほどの言及は見当たらない。直後に書かれた心中物の浄瑠璃にも「あとの月の騒動に、一家が寺へ退(の)いての時」というごく短い文章で、津波騒ぎの際に寺へ避難したような話がちらっと出てくるくらいなのはいささか不思議なほどである。故に拙著の小説では傍証的な史料を参考に、彼が宝永地震に直面するシーンを再現してみた。

 津波は道頓堀に押し寄せ、劇場街で働く若者二百人以上が流されたという記録もある。人口四十万に満たない当時の大阪で家屋の倒潰等による死者は三千人近く、津波のせいか四万人以上が犠牲になったとする史料も見える。

 にもかかわらず、驚くべきは十月四日に起きたこの地震の一ト月後、十一月初旬には道頓堀の劇場四座が、顔見世興行の幕を開けた記録も残されていることだろう。

松井氏の新刊「一場の夢と消え」(文藝春秋)

 そもそも街がコンクリートジャングルと化した現代とは違い木造建築物しかなかった時代だから、解体撤去作業や再建が今よりずっとスムースに運んだことは容易に想像される。柱や間仕切りが少なくて済んだ当時の芝居小屋は一般住居よりもむしろ建てやすかったはずだ。むろん建築基準法なぞまるでなかった昔の話である。

 しかし劇場再建よりもっと現代人が驚かされるのは、多数の犠牲者が出た直後に、いち早く芝居を見せようと動きだした人びとが一方にいて、そこに大勢の観客が押し寄せたという事実かもしれない。

 死者を悼んで自粛するより生き延びた人びとが再会して歓び合う場を提供するのが、当時の劇場関係者の使命だったのだろうか。そんなタフでドライな精神が、この天災多発列島で培われていた過去は決して無視できない。近松がそうした逞しい芝居者の一人であった事実もまた、彼の人生を語る上で忘れてはならないことだった。

 

 

Wikipedia

近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん、承応2年〈1653享保91122172516〉)とは、江戸時代前期から中期にかけての人形浄瑠璃および歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。家紋は「丸に一文字」。

来歴

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誕生

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越前国(現在の福井県)の武士杉森信義の次男として生まれた。母は医師の家系で松平忠昌の侍医であった岡本為竹法眼の娘喜里。幼名は次郎吉、元服後のは信盛と称した。兄弟に母を同じくする兄の智義、弟の伊恒がいる。出生地については肥前国唐津山城国長門国など諸説あったが、現在は越前とするのが確実とされている[1]

近松の父である杉森信義は福井藩第三代藩主松平忠昌に仕え、忠昌の没後はその子松平昌親に分知された吉江藩(現在の鯖江市)で藩主昌親に仕えた[2]。近松の生誕年は承応2年(1653年)であるが、昌親の吉江への入部は明暦元年(1655年)であり、昌親と家臣団は吉江以前は福井に居住していたと考えられ、昌親に仕えた信義の子である近松も、福井市生まれとされている[2]。しかし当時の福井藩に関する資料の調査では、昌親は正保3年(1646年)から江戸に在住し、その家臣団は藩主昌親の吉江入部以前、既に吉江に移って藩政に関わる執務を行っていたことが明らかとなっており、よって信義も他の家臣たちとともにこの時期から吉江に在住し、近松は吉江すなわち鯖江市で生まれたとする見方もある[2]

青年期

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寛文4年(1664年)以後、信義は吉江藩を辞し浪人となって越前を去り、京都に移り住んだ。信義が藩を辞した理由については明らかではなく、近松の消息も詳らかではないが、山岡元隣著の『宝蔵』(寛文11年〈1671〉刊行)には、両親等とともに近松の句「白雲や花なき山の恥かくし」が収められている。近松が晩年に書いた辞世文には「代々甲冑の家に生れながら武林を離れ、三槐九卿に仕へ咫尺し奉りて」とあり、青年期に京都において位のある公家に仕え暮らしたと見られる[ 1]。その間に修めた知識や教養が、のちに浄瑠璃を書くにあたって生かされたという。

浄瑠璃・歌舞伎の作者となる

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その公家に仕える暮らしから離れ、近松は当時京都で評判の浄瑠璃語り宇治嘉太夫(のちの宇治加賀掾)のもとで浄瑠璃を書くようになった。それがいかなるきっかけによるものか明らかではないが、『翁草』(神沢杜口著)によれば、近松は公家の正親町公通に仕えていた時、公通の使いで加賀掾のもとに行ったのが縁で、浄瑠璃を書くようになったという。加賀掾は延宝3年(1675年)に京都四条で人形芝居の一座を立ち上げ、そこで浄瑠璃を語っていた。近松が加賀掾のために浄瑠璃を書くようになったのが、いつのころからなのか定かではない。この当時の慣習として、浄瑠璃や歌舞伎の作者の名をまだ世に出すことがなかったからである。なおこの時期、兄の智義と弟の伊恒は大和国宇陀松山藩に召し抱えられた。伊恒は藩医平井家の養子となり、のちに岡本一抱(為竹)と改名している。

天和3年(1683年)、曾我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曾我』(よつぎそが)が加賀掾の一座で上演されたが、翌年に加賀掾の弟子だった竹本義太夫が座本(興行責任者)となって大坂道頓堀で竹本座を起こし、この『世継曽我』を語り評判を取った。『世継曽我』に作者名はないが、義太夫が語った浄瑠璃のさわりを集めた『鸚鵡ヶ杣』序文の記述から、近松の作であることは間違いないとされている[ 2]。以後義太夫は近松の書いた浄瑠璃を竹本座で語るようになり、貞享2年(1685年)に竹本座で出された近松作の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりといわれる。

貞享3年(1686)には竹本座上演の『佐々木大鑑』で、初めて作者として「近松門左衛門」の名を出した。元禄5年(1692年)、40歳で大坂の商家松屋の娘と結婚し(ただしこれは再婚ではなかったかといわれる)、その間に一女一男をもうけた。このうち男子は多門と称し絵師になっている。元禄6年(1693)以降、近松は歌舞伎の狂言作者となって京の都万太夫座に出勤し、坂田藤十郎が出る芝居の台本を書いた。10年ほどして浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ歌舞伎の趣向が浄瑠璃の作に生かされることになる。

元禄16年(1703年)、『曽根崎心中』を上演。宝永2年(1705年)に義太夫こと竹本筑後掾は座本の地位を初代竹田出雲に譲り、出雲は顔見世興行に『用明天王職人鑑』を出す。このとき近松は竹本座の座付作者となり、住居も大坂に移して浄瑠璃の執筆に専念した。正徳4年(1714年)に筑後掾は没するが、その後も近松は竹本座で浄瑠璃を書き続けた。正徳5年の『国性爺合戦』は初日から17ヶ月の続演となる大当りをとる。

晩年

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享保元年(1716年)、母の喜里死去。同年、摂津国川辺郡久々知村の広済寺再興に講中として加わった。晩年は病がちとなり、初代出雲と松田和吉(後の文耕堂)の書いた浄瑠璃を添削している。享保9年、『関八州繋馬』を絶筆として11月に死去。享年72戒名は阿耨穆矣一具足居士。辞世の歌は「それぞ辞世 さるほどにさても そののちに 残る桜が 花し匂はば」と、「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間あだなる 朽木書きして」。

墓所は大阪府大阪市中央区谷町八丁目の法妙寺跡。谷町筋の拡張工事の際に法妙寺は霊園ごと大阪府大東市寺川に移転したが、近松の墓だけが旧地に留まった。なお、移転先にも供養墓としてレプリカが建てられている。ほかにも広済寺に墓が、東京法性寺に供養碑がある。忌日1122日は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれ、冬の季語となっている[ 3]

法妙寺跡の近松の墓(大阪市中央区谷町8丁目)。

広済寺の墓(兵庫県尼崎市久々知1丁目)。

「近松」の由来

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近松門左衛門の「近松」という名の由来については、明らかではない。これを「近松寺」という寺に関わりがあったことによるとする話があり、『音曲道智編』には、

始めは堂上方に仕官して、其後近江のちか松寺に遊ぶゆへ、此苗字を呼けり」

とあり、近江国大津近松寺を由来とするが、『嬉遊笑覧』には、

越前人、少き時肥前唐津近松寺に遊学し、後京師に住す」

肥前国唐津の近松寺の事とする。さらに『戯財録』には、

「肥前唐津近松禅寺小僧古澗、碩学に依て住僧と成、義門と改む肉縁の弟、岡本一抱子と云大儒の医師京都にあれば、是に寄宿して堂上方へも還俗して勤仕の間

とあって、近松はもと僧侶であったのが後に還俗し公家に仕えたと記す。他には「近松」とは母方の姓だという話もある(近松春屋軒『近松門左衛門伝』)。しかし「これらの説は近松没後、五十年ないし百年後のものであり、むしろ近松という名が共通するところから後に加えられた伝説であろう」といわれている[3]

作品

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現在、近松の作とされている浄瑠璃は時代物が約90作、世話物24作である。歌舞伎の作では約40作が認められている[4]。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマとした作品であるが、当時人気があったのは時代物であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。同時期に紀海音も近松と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したのは事実であるが、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎない。ちなみに享保8年(1723年)、江戸幕府は心中物の上演を一切禁止している。

虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えたといわれるが、これは穂積以貫著の『難波土産』に近松の論として紹介されているもので、近松自身が系統だてた芸能論を書き残したわけではないともされる[5]。ほかには箕面市瀧安寺に近松が同寺に寄進した大般若経、尼崎の広済寺に自筆とされる養生訓などが伝わっている。

全集に『近松全集』(全16巻、岩波書店)などがあり、勉誠社でも刊行されている。

浄瑠璃

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·        出世景清 - 貞享2年(1685年)

·        曽根崎心中 - 元禄16年(1703年)

·        『兼好法師物見車』宝永3年(1706年)

·        堀川波鼓 - 宝永4年(1707年)

·        傾城反魂香 - 宝永5年(1708年)

·        『碁盤太平記』 - 宝永7年(1710年)

·        冥途の飛脚 - 正徳元年(1711年)7月以前

·        『嫗山姥』 - 正徳2年(1712年)

·        大経師昔暦 - 正徳5年(1715年)

·        国性爺合戦 - 正徳5年(1715年)

·        平家女護島 - 享保4年(1719年)

·        心中天網島 - 享保5年(1720年)

·        女殺油地獄 - 享保6年(1721年)

·        『心中宵庚申』 - 享保7年(1722年)

歌舞伎

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·        『仏母摩耶山開帳』 - 元禄6年(1693年)

·        『けいせい仏の原』 - 元禄12年(1699年)

·        『けいせい壬生大念仏』 - 元禄15年(1702年)

近松門左衛門が登場する作品

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·        『竹本義太夫伝 ハル、色』(2022、幻冬舎刊小説)

·        峠の群像』(1982NHK大河ドラマ、出演:中村梅之助

·        八代将軍吉宗』(1995NHK大河ドラマ、出演:江守徹 - 同作品の語り(狂言回し)も兼ねている。

·        ちかえもん』(2016NHK、出演:松尾スズキ

·        水戸黄門 第42 8話(TBSテレビ)、『死ぬ気で生きろ!』丸岡(20101129日 放送)出演:松尾貴史

脚注

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注釈

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1.     ^ 『杉森家系譜』には一条恵観に仕えたとあり、『茶話雑談』は阿野家の雑掌だったとする。また『翁草』によれば正親町公通に仕えたという。

2.     ^ 『鸚鵡ヶ杣』序文に「世継曽我の道行に、馬かたいやよとおどり歌入し事相応せず、一番の瑾今聞に汗を流す、と三十年前を後悔ある作者の心、芸道の執心さも有べきなり」とあり、竹本義太夫にとって三十年もの付き合いのある「作者」とは、近松以外に考えられないという。

3.     ^ 明治以降は新暦で行われる。

 

 

 

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