私のジャーナリスト人生 嶌信彦 2025.3.20.
2025.3.20. 私のジャーナリスト人生 記者60年、世界と日本の現場をえぐる
著者 嶌信彦 Wikipedia参照
発行日 2024.9.18. 初版第1刷発行
発行所 財界研究所
序章 「新聞は嫌いだ」と佐藤元首相
1972年、佐藤は総理辞任記者会見で、「偏向的新聞は嫌いだ、国民に直接話したい」と言って席を立つ。NHKだけに話そうとしたが、官邸記者クラブに対して会見するのがルールで、テレビを優先して新聞批判をする首相に対し内閣記者会が抗議すると、再び「出て下さい」と言い、記者とカメラマンは総退場。異様な雰囲気の中で首相は退陣を表明。政府のトップが新聞を国民の前で公に批判し、これからはテレビの時代だと評したのは初めて
高度成長後半期からバブル時代にかけて、家庭では活字からテレビ・映像の全盛期になる
ネットの細切れ情報に頼り、新聞のように詳しい背景や歴史的経緯・解説などは読まれもしない。ニュースを材料に議論する習慣もなくなり、日本人の劣化が進む
新聞記者の父の影響で、基本的に物を書くことが好き。東調布第一小学校、東調布中学、日比谷高校、慶應大学と、新聞・校内誌の発行に携わり、毎日に同期17人と共に入る
記者は、”虫の目”と”鳥の目”を持つことが大事と言われる。虫の目は細部を、鳥の目は大所高所を見る目で、加えて”歴史の目”も重要で、洞察力が涵養される
45を前に管理職の辞令をもらうが、現場重視でフリーとなり、「書く」ことで身を立てる
ジャーナリズム精神とは、一種の”論争”を楽しみ、挑戦することにある。取材対象者に議論を仕掛け、本音を引き出す。そのために多くの情報を集める
第1章
トロッコ記者
1.
スタートは秋田支局
最初の任務は地方支局での「県版」という紙面作り。新人記者を”トロッコ”と呼ぶ
2.
6畳1間のアパートで生活
3.
殺人事件に手も足も出ず
1968年、質屋の強盗殺人事件発生するが、捜査は難航
4.
ゴミ箱あさりで逆転目指す
捜査資料の”青焼き”をゴミ箱の中に見つけ、それをもとに紙面を作る
事件は、聞き込みから浮上した流れ者の犯行で、本人が自白して解決
後日、ゴミ箱あさりが発覚、警察は焼却炉を買い入れて紙類は焼くようになった
5.
秋田大学医学部創設をスクープ
秋田大学を1年間70回にわたり連載する中で、医学部創設の噂が立ち、やがて戦後初の新制大学医学部創設が決まり、学部長に内定した教授から開明的なモデル医学部構想を聞いてスクープ記事にまとめる(1969年)
学生運動復活のきっかけとなった62年の慶應の授業料値上げ反対闘争では日吉自治会執行部の幹部として関わり、無期限スト。高村塾長と断交。学生運動は全国に拡散
第2章
通貨・石油戦争の30年
1.
通貨戦争の始まり
1971年、東京本社経済部に転勤。常に神経をとがらせた問題が通貨・為替市場の大変動と日米経済摩擦、エネルギー問題、サミット。いつもアメリカが絡んでいた
兜町記者クラブからスタート。難関の抽選で当たった住宅購入の権利をプレミアム付きで売却して売却益を出す株屋の判断の仕方と素早い決断に圧倒
市場が暴落する中、帝石株だけが急騰するのを見て、某閣僚が買い進めているとの憶測記事を書いたら、他の経済誌が角栄(当時通産相)だと断定したため、角栄が筆者と経済誌を訴え、事情聴取されたがお咎めなしに終わるも、いい教訓になった
'72年、GTEが外国企業として初の公募増資をするというスクープは、主幹事の日興証券の担当部長を信頼して待ったことが、正確な記事になった結果
1ドル=360円時代の終焉で、初耳の「円高」という表現に翻弄された
アメリカの金交換禁止策に市場がドル売りで反応したのに対し、日本はドルを買い続けた
初めての通貨戦争に直面した日本政府の大失態で、308円への切り上げに繋がるが、それでも円買いは止まらず、'71年末には変動相場制へと移行。'11年10月には75.54円に
2.
石油戦争の時代
60年代までは、アメリカがサウジとイランを保護、3国で固い同盟を結んで石油価格を統制していた(ワシントン、リヤド・テヘラン枢軸)が、'73年の第4次中東戦争の勃発で、イスラエルを支持する西側諸国を標的にOPECが油田や設備を国有化し、原油価格を70%引き上げたのを機に、原油価格の決定権がOPECのカルテルに移行。OPECは離合集散を繰り返し、原油価格も都度乱高下
'80年、初めてイラクを訪問。イラン・イラク戦争の予測記事を書いたが、ほどなく現実になり、戦争は10年続く。'79年にはイランで反米政権誕生、イラン、イラクとも石油を武器に軍事大国化し、石油価格も80年代前半は35ドルまで暴騰
3.
サミット戦争の30年
1975年に始まったサミットが、その後の国際情勢を仕切ったが、G20発足により各国の利害対立の調整が難航し始め、'08年の洞爺湖サミットでかつてのサミットの役割は終焉
サミットは、ベトナム戦争でアメリカの威力が失墜したのを機に、ジスカール・でスタン大統領が西側先進国の結束で世界経済の新秩序づくりを進めようと提唱したもの。当初は仏英独米4か国の構想だったが、日伊が入りG6でスタート。翌年からカナダが参加
日本の国際政治へのデビュー、大国の仲間入りを実感。第5回東京サミットが試金石で、第2次石油危機の最中、先進国間での石油の奪い合いとなったが、何とか決着
日本の存在をアピールしようと立ち回ったのは中曽根だが、世界の首脳の印象は薄い
4.
アメリカと情報分析していた天川勇氏('86年喜寿)
天川氏は、慶應の講師から海軍大学の教授、戦後はGHQと軍事研究を目的に天川研究会を主宰。筆者も直接の薫陶を受ける
第3章
突如、毎日労組の専従に
1.
毎日新聞が経営危機に
1976年、経済部推薦で組合専従になり、数年前から本格化した経営危機の実態を調査
何度かストもやり新聞発行を止めるなど会社に厳しく出て、労使で再建の合意書を作成
主力銀行の三和は、世間の動向によって方針が揺れたが、三菱は大局的見地から判断しぶれなかった。新会社を40億で設立し、旧負債を分離する方法で乗り切る
'87年、管理職への辞令が出たが、”書く人間””書き手”あくまで記者で生きて行こうと決意し退社、フリーとして生きて行くことに
第4章
アメリカ特派員生活へ
1.
ヘレンケラー3銃士
1982年、ワシントン特派員拝命。従前は、米紙を翻訳して翌朝の日本の新聞に間に合わせるという仕事だったが、自身での取材を目的に若手を3名発令、政治部の岸井成格、日比谷の後輩で社会部の中島健一郎と一緒
日米貿易摩擦問題の最中で、議会公聴会の模様を電話で送稿する傍ら、現場を回って取材
2.
草の根摩擦を探りに地方へ――米国・フリント市に協力
相互主義に基づく日本の市場開放の要求が強く、その実態を各地に取材して「クワの根の日米摩擦」というタイトルで連載を企画する。ミシガン州フリント市長から、日本企業誘致に向けた取材の協力要請に乗る。UAW本部への取材では日本車の多いことに驚く
3.
GMの本拠地は空き家だらけ
フリント市は、町の復活をかけて日本企業誘致を決め、日本に代表団を送ることを決め、支援を要請してきたので、GMの街の窮状と要望をルポする企画を本社にあげる
4.
フリント市民の前で演説をするハメに
資金集めの市民集会で応援演説を頼まれる。日米の車社会の違いを実体験をもとに話す
併せて、訪日団に知恵をつけたり、日本での集会のアレンジなど手伝う
貢献が認められ、名誉市民に推薦される
5.
戦争直後のカラー写真1万枚
広島の原爆ドームの真下に本屋を開いたのは、予備士官で終戦を迎えた青年。その名も「アトム書房」で、日本人の気概を示そうと自らの蔵書を並べたという
戦後、駐留米兵が日本各地でとったカラー写真は、日本のモノクロ写真の暗いイメージと違って、人々の明るい表情を写し出していた
1983年、経産省から石油公団に出向してワシントンDCの事務所長として赴任してきた細田博之(故人、元衆院議長)が、敗戦直後短期留学した際下宿先で見せられた日本の原風景のカラー写真の美しさに魅せられ、全米からそのような写真を集めて日米友好の写真展を開催したいとの企画を毎日の支局に持ち込んできた。本社は難色を示したが、自費覚悟で全米の在郷軍人会などに声を掛けると1万枚の写真と数巻のフィルムが集まる。「アトム書房」の写真もその中にあった。帰国後、『毎日グラフ』で特別号を出すと20万部が完売、京王百貨店での展示会も大好評、イオンの全国の店での巡回展も多くの人を集めた
6.
アメリカコミュニティを楽しむ
小学校4年の長男、2年の長女ともども、現地での生活を楽しむ
第5章
フリーとなって世界を取材
1985年、帰国して経済部のキャップに。'87年、経済部デスクの辞令を断ってフリーに
1.
ウズベキスタンとの長い交流
1996年、初めてウズベキスタンを訪問。財務官の千野忠男(後アジア開銀総裁)からの国お越しの誘いに乗ったもの。TBSのテレビクルーと組んで取材。報道特集で放映したところ、たまたま「ナボイ劇場」がシベリア抑留の日本兵によって建設された秘話の全貌が明らかになったこともあって、同国が脚光を浴びる。'97年日本ウズベキスタン協会設立
2001年、独立10周年を記念してナボイ劇場でオペラ《夕鶴》公演。直前に急逝した作曲者團伊玖磨の追悼公演となった
2.
テレビ、ラジオの世界へ
フリーになってラジオ・テレビの世界にデビュー。最初はニッポン放送の《お早う! 中年探偵団》のコメンテーター役。次が’90年スタートのTBSラジオ森本毅郎の「スタンバイ!」
2017年、パーキンソン病発症で降板
テレビでは、TBSが久米宏の《ニュースステーション》に対抗して立ち上げた森本毅郎の《ブロードキャスター》のコメンテーターの1人として出演。7年続くが舌禍で降板
3.
エリツィン氏と2回、6時間対談
1990年、TBSの招待で来日したエリツィン(ゴルバチョウフ批判でモスクワ第1書記を解任されていた)と対談。6カ月後にはロシア大統領に選出。対談では、日本の高度経済成長に興味をもって、経済成長に必要な自由化や規制緩和の重要性などについて聞いてきたが、自由化や規制緩和そのものについての理解が不足して話がずれていた
第6章
ソ連崩壊・東欧革命から「米・中」対立へ
1.
激動の89年――12月の東欧革命を目撃
1989年12月、ベルリンの壁崩壊の日、東ベルリンに滞在。その後東欧諸国視察
1989年は激動の年。6月の天安門事件に続き、同月のポーランドでのワレサ率いる「連帯」の勝利で東欧革命に着火、8月には東独から西独への大量脱走しホーネッカー議長が退陣、11月には東独がベルリンの壁を開放、ブルガリア、ルーマニア、チェコでも独裁政権崩壊
1990年に入ると、ユーゴで共産党解散、7月には東西ドイツ経済が統合し、10月にはドイツ統一、バルト3国がロシアからの独立を宣言、ワルシャワ条約機構解散
1991年にはソ連邦解体、独立国家共同体CISの誕生
1989年12月、ベルリンの壁崩壊直後にブッシュとゴルバチョフのマルタ会談で冷戦の終結宣言
2001年の9.11事件で、世界は国際テロの時代に突入
筆者は中国生まれもあって(‘44年初には帰国)、日中関係がおかしくなると胸がざわつく
習近平政権になってからの中国は、次第に強国・強権路線が目立つ。香港問題で米中摩擦が激化するなか、日本外交いかにあるべきか
現在の地球・人類の緊急課題は、米中の新冷戦問題だけでなく、新たな病原菌への対応も重要で、世界はウィルスからの防衛と新しいワクチンの開発に向けたネットワーク連携を組む重要な時期であり、日本も広い視野に立って世界に貢献する役割を担っていくべき
Wikipedia
嶌 信彦(しま のぶひこ、1942年〈昭和17年〉5月5日 - )は、日本のジャーナリスト。毎日新聞社記者、白鷗大学経営学部教授、慶應義塾大学メディアコム講師を務めた。
来歴・人物
毎日新聞社記者だった父親の嶌信正(大正元年生まれ、六高、京大、滝川事件で処分、'38年応召、二等兵で北支を転戦、徐州戦の生き残り、除隊後毎日新聞へ、'50年パージ、'98年没)が中国・南京に駐在していたため、同地で生まれる。'44年2月帰国。信正も’45年3月帰国。後に信正は政治家・安井誠一郎の秘書を務め、1962年(昭和37年)には日本高架電鉄(後の東京モノレール)に入社し、取締役企画室長や監査役を歴任した[1]。
中国語の翻訳をしている嶌静子(1913生、旧姓和田、京都女子高専卒、単身中国へ)は母上
東京都立日比谷高等学校卒業後、慶應義塾大学経済学部経済学科へ進学。在学中はマルクス、丸山、大塚、毛沢東等の書物を読んでいた[2]。
1967年大学卒業後、毎日新聞に入社。秋田支局を経て、東京本社経済部記者、ワシントン特派員など歴任[3]。1987年(昭和62年)7月、現場キャップからデスクへの異動内示を打診されたことを機に、フリージャーナリストに転身し[3]、TBSの『JNNニュース22プライムタイム』、『地球!朝一番』、『ブロードキャスター』等に出演する。TBSラジオ「森本毅郎・スタンバイ!」には、放送開始当初から27年間出演。現在、TBSラジオ「嶌信彦 人生百景『志の人たち』にレギュラー出演。NPO日本ウズベキスタン協会会長を経て現在顧問。先進国サミットの取材は約30回にわたる
2003年(平成15年)から13年まで白鴎大学経営学部教授、2006年からは慶応大学メディアコム研究所講師も務めた。
1993年(平成5年)の椿事件では、鳥越俊太郎、筑紫哲也、田原総一朗、木村太郎と共に、椿貞良テレビ朝日取締役報道局長の証人喚問反対の緊急声明を発表[4]。前田恒彦元検事らによる大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件を受けて設置された「検察の在り方検討会議」[5]、会計検査院「会計検査懇話会」、総務省「NHK海外情報発信強化に関する検討会」の委員なども担った。
著書
- 『日本株式会社中間決算報告書』アイペック、1987年1月29日。ISBN 978-4870470507。
- 『1ドル=100円の世界』KKロングセラーズ、1988年5月。ISBN 978-4845402632。
- 『私のジャーナリスト人生 記者60年、世界と日本の現場をえぐる』財界研究所、2024年9月。ISBN
978-4879321664。
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