奪還 日本人難民6万人を救った男 城内康伸 2025.3.3.
2025.3.3. 奪還 日本人難民6万人を救った男
著者 城内康伸 1962年京都市生。中日新聞社入社後、ソウル支局長、北京特派員などを歴任し、海外勤務は14年に及ぶ。論説委員を最後に2023年末に退社し、フリーに。著書に『シルミド「実尾島事件」の真実』『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男 「東声会」町井久之の戦後史』『昭和二十五年 最後の戦死者』(第20回小学館ノンフィクション大賞優秀賞)『金正恩の機密ファイル』など
発行日 2024.6.15. 発行
発行所 新潮社
はじめに
1945年、敗戦によって日本の植民地支配が終わり、拠り所を失った朝鮮半島に住んでいた在留邦人は事実上の「難民」と化した。終戦当時、朝鮮半島には約70万の一般邦人が居住。うち38度線以北には約25万。そこに満洲から約7万の避難民が加わる
38度線以南では、米軍が在留邦人の早期送還方針を徹底させ、46年春までには約45万の引き揚げを完了したが、北部ではソ連軍が38度線を封鎖して、南北の交流を遮断
北朝鮮北部国境の咸鏡(かんきょう)北道にいた在留邦人7.4万のうち6万は避難のため南下。彼らは避難民と呼ばれ、ほぼ無一文の逃避行で疲労困憊、深刻な住居・食料不足に見舞われ、集団生活では感染症が猖獗を極め、多数が死亡
北朝鮮にいて、彼等を日本本土に引き揚げさせたのが松村義士男(ぎしお)
松村は、戦前には労働運動に加担するなど治安維持法違反で2度検挙された元左翼活動家で、かつて辛酸を嘗めた共産主義者の知己が多く、その人脈を生かして日本人救済に尽力
1946年春から、疎開などの名目でソ連や北朝鮮から了解を取り、鉄道で38度線近くまで移動させ、越境させる計画。海路も漁船を雇い入れて活用。「引き揚げの神様」と知れ渡る
1971年、(社)中央日韓協会(日韓親善目的で1951年設立)は、朝鮮半島からの引き揚げの功労者への外務大臣表彰のため「功績調書」を作成。松村は「北からの引き揚げで最も功労のあった人物」との評価。引き揚げを手助けした数は6万に上る
第1章
棄民
l その日、故郷は「外国」になった
玉音放送で内地への引き揚げを言い渡され、京城が「外国」になったことを知る
l 平穏だった八・一五
京城府の朝鮮総督府では、重要書類の整理焼却が始まり、朝鮮人が解放
同日午後には、李王朝最後の王・純宗の甥の「日本軍人」が広島で爆死した陸軍葬が挙行
l 老いも若きも赤旗を振り
混乱が始まったのは翌日午後から。多衆示威運動となる。ソ連軍到着のデマに、民衆が赤旗を振って迎えようとした
l 総督府は責任を丸投げ
総督府は機能不全となり、独立運動のリーダーに治安維持を丸投げしたが、南朝鮮に展開していた帝国陸軍23万が、総督府に代って治安確保に乗り出し、大混乱を回避
ポツダム宣言に基づき、軍の武装解除と本国送還が実施される
l 明暗分けた南と北
9月には、民族独立運動が建国樹立を宣言するが、マッカーサーがすぐに38度以南の軍政樹立を宣言し占領。韓国の独立は3年後に。日本軍の復員は年内に完了
在外邦人の引き揚げについて日本政府は冷淡で、8月末の終戦処理会議の決議文では、「在外邦人は、過去の成果に顧み、将来に稽(かんが)え出来る限り現地に於いて、共存親和の身を挙ぐべく忍苦努力するを以て第一義たらしめ、止むを得ず引き揚げる者に対しては、努めて便宜を与え、成るべく速やかに引き揚げしむる方途を講ずるものとす」とした
米軍は、朝鮮人による日本人への復讐を見越して、すべての日本人の早期送還を進め、翌春には完了
l 突然の空爆
満洲との国境近く咸鏡北道の港町では、8月9日空襲警報が鳴り、ソ連の空爆が始まる
l 応戦するすべを持たず
日本軍の応戦能力はほぼ皆無。海軍飛行部隊がお座成りの基地を置いたが、輸送船舶の洋上援護が主任務で、飛行も燃料不足で制限。陸軍も防空施設を持たず、高射砲陣地構築に着手したところ
l 民間人を見すてた要塞司令部
沖にはソ連艦船が往来し、警察や司令部は庁舎を自らの手で爆破し、軍機保持のためとして秘密裏に撤退、民間人を見捨てる。市長が避難命令を発出したのは翌日の午後
l 「大きなバッタの群れみたいだ」
北から順に港町が大編隊の空襲に遭う。一部では上陸したソ連軍との間に戦闘開始
l 炎暑の避難行
咸鏡北道の在留邦人は7.4万人。一斉に南と西へ逃避行が始まる。事前にソ連との開戦を想定した避難計画が立てられていた。鉄道は撤退する軍専用
l 山中で敗戦を知る
避難行の人々が敗戦を知ったのは22日
l 鏡に映った自分に泣く
咸鏡南道の咸興について、日本人世話会の支援で一息つく
l ソ連兵によるすさまじい略奪
8月21日、東海岸に上陸したソ連軍によって残留する日本兵と在外邦人を対象に略奪が始まる。ソ連軍は、朝鮮人による人民委員会を行政の主体とする間接統治方式をとる
在北朝鮮の日本軍は12万。官吏等も含め、シベリアに連行
l 「マダム、ダワイ!(女を出せ)」
在留邦人の子どもたちが真似して「ソ連ごっこ」をする
l 朝鮮人の自警団による横暴も
l 家屋を奪われた在留邦人
在北の25万のうち、38度線封鎖までに南に渡ったのが5万という
l 北から押し寄せる避難民
家を追われた在留邦人に割り当てられた避難所はすぐ満杯となり、不衛生な状況に伝染病が蔓延
l そして在留邦人は放置された
外務省も、スウェーデン経由などでソ連軍に在留邦人の帰還を働きかけようとしたが不発
第2章
異端の人、動く
l 対ソ連の最前線で終戦を迎える
松村義四男は、咸鏡北道で終戦を迎える。3カ月前に工兵補充隊の二等兵として召集
l 捕虜収容所へ連行中に逃亡
連行中に逃亡して、召集前に働いていた咸興の「西松組(現西松建設)」に戻る
l “左翼運動の手伝い”で中学退学
松村は、1911.12.14.熊本の生まれ。水平社運動の中心拠点の近く。中学で北朝鮮の東海岸に移住。労働運動が盛んで、運動のガリ版刷りの手伝いをして退学
l 労組再建を画策し逮捕される
日本窒素の興南工場に就職。劣悪な労働条件にストライキが頻発、ソ連のコミンテルンから指導者が入り地下組織ができる。1932年、治安維持法違反で一斉検挙された太平洋労働組合事件に連座して逮捕されるが、新米で起訴猶予
l 共産党に「入党するの要なかるべし」
その頃松村は内地に戻り、大阪労働学校入学。共産党員の仲間から入党を誘われるも拒否
l 2度目の検挙
入党は拒否したが、労働運動と共産党再建に向けた動きの中心的役割を果たしていたようで、筋金入りの共産主義活動家に変貌。特高に追われて1936年検挙。起訴されたが、結果に関する資料はない
l 再び朝鮮へ
1940年、興南に戻り、子供もでき、西松組に就職。憲兵がつききりだったが、松村の活動の記録はない
l ソ連軍に”顔が利く”
ソ連の進駐軍の嘱託として働き、在留邦人との連絡役をしたようだ。西松組の仕事の関係で、南北を行き来する便宜を図っているのは、ソ連司令部に”顔が利いた”からだろう
l 避難民の惨状に苦悶
嘱託として働く中で、避難民の惨状を見て陰ながら骨を折るが、隔靴掻痒の感を強くする
l 同士・磯谷との再会
松村は、太平洋事件で収監された磯谷が出所したところで一緒に避難民の救済に動き出す
l 二人三脚
敗戦後、興南には在住邦人と避難民の救済機関として興南日本人世話会が組織されたが、戦前の指導者の率いる組織では交渉力もないまま空転。松村と磯谷は協力して加勢
l 「このままでは日本人は死に絶えてしまう」
2人は、被搾取階級の救済を口実に、朝鮮側からの支援を引き出し、感染症の蔓延への対応についてもソ連軍や朝鮮側と交渉、病院を日本人患者に開放させた
l 日本人組織「大改編」の絵を描く
12月には松村の尽力で組織を「日本人委員会」に大改編し、ソ連軍政下で公認団体として活動ができるようになる。避難民名簿を提出し、それに応じた救援物資の配給を受ける
l 「1枚の看板」の効果
松村は独断で、「朝鮮共産党咸興市党部日本部」の看板を掲げた事務所を開設。避難民の救済活動を行う場合の政治的立場を保証するため、朝鮮側も名称使用を黙認。機関紙も発行
l 日本窒素の街にも避難民が殺到
世界規模の化学コンビナートだった興南には、在留邦人2.9万に加え避難民が1万弱流入
窒素の興南工場は朝鮮側に接収され、劣悪な状況に追い込まれたが、その救済にも松村と磯谷が尽力、46年初に興南を訪問し、強い反日姿勢の興南市党部日本人部を説得
l みじめな弁当にみせた怒り
日本人援護団体・興南日本人居留民会の窮状を見て、当局と交渉し、配給の増量を勝ち得ている
第3章
包囲網を突破せよ
l 終戦の年、八万人が南に
封鎖線を突破して南下した人々が続出、翌年初までに7.7万に上る。冬季は厳寒で激減
l 強制移住先での惨状
日本人密集状態解消のため強制移住させられた避難民の状況はさらに劣悪
l 「飢餓の村、死滅の村なり」
収容所では地獄の縮図そのもので、多くの避難民が絶命
l 山野を揺るがした慟哭
松村や磯谷の働きかけもあって一時状況は改善したが、束の間で、収容者の半数は死去
l 京城行きを決断
共産党道党部からの内示により正式引き揚げの予定を察知したが、具体化の動きが見られないところから、京城日本人世話会との共同作業を期して、旅行証明書の発給を画策
l 元警察幹部と協力を誓う
京城の世話会代表古市進を訪ね、避難民受け入れについて協力を要請。古市は警察官僚で、対立する立場の2人が協力を誓い合う。脱出資金と医薬品などの提供を受け咸興に戻る
l 集団脱出構想の具体化
朝鮮共産党咸興市党部日本人部に推進主体を置き、越境は絶対拒否のソ連軍に対し、縁故を頼った移住や住宅事情等による疎開を理由に集団での南下を進め、最後は徒歩又は海上輸送で脱出。北鮮の南西部の黄海道では、日本人の南下を黙認する意向が浸透していた
l 試験的南下
3月から試験的南下開始。30人単位で鉄道により移送。市党部日本人部署名による旅行証明書を発給
l 脱出専門組織の結成
脱出の本格化に先立ち、在留邦人の生活問題と脱出計画を切り離すために「北鮮戦災者委員会」を結成
l 「朝鮮人の信用博す」
松村たちの活躍については、「朝鮮共産党員を駆使し邦人の奥地よりの脱出誘導及び何銭への創出いかんする部門の事実上の担当者」として脱出工作において中心的な役割を果たしていたことが早くから知れ渡りつつあったことが窺える資料が残る
l 白昼堂々、鉄道での大量輸送
松村は、日本人の窮状打開のためには分散居住の必要があるとの陳情書をソ連軍司令部に提出、ソ連軍はこれを受け入れ、4000人に及ぶ疎開命令を発出、ソ連軍の引率の下南下し、疎開地からは徒歩で38度線突破を目指す
l 興南でも集団移動
咸興に隣接する興南でも、日本窒素の関係者を中心に、松村の指導を仰ぎながらソ連軍に取り入って集団脱出工作を展開
l 画期的な”病院列車”
38度線沿いの村には日本人が殺到、洪水状態になり、東海岸にも移送
孤児や少年工、見習い看護婦など「優先救出者」や、病人や怪我人を乗せた列車も走らせる
l 松村が残した獣道
38度線突破は決死の道程。道なき道を前者の轍を踏みながら歩き、最後の100mほどの幅の臨清江(りんしんこう、イムジンガン)は伝馬船で渡り、米軍キャンプに収容
l モスコーと呼ばれた若い女性
避難民のなかには遊郭出の女がいて、「モスコー」との綽名で呼ばれて蔑みの目の中にありながら、先頭に立って避難民を誘導、ときには金を要求する朝鮮人には身銭を切ったり、暴漢に遭遇したときには楯になる役目も担っていたという
l 38度線を飛び越えた
路上の中央に英文字と共に”38”と石灰で書いてあり、踏んだら金縛りに遭いそうな気がして飛び越えた
l 海路での試験的脱出
松村らは、38度線付近の混雑回避のために、ソ連・朝鮮の南下脱出に対する態度の軟化に乗じ、日本海に面した興南からの海路開設を本格化。朝鮮人の闇船ブローカーは1人1000円を要求したので、別ルートの船賃交渉を行う
l 幻の”大集団渡航工作”
海路による脱出には不安を抱えるものが多く否定的だったが、2回の試験航海で成功。次いで5000人規模の大計画を進めたが頓挫。それでも10数回にわたって渡航を果たす
l 月明かりの船出
l 下船するとそこには・・・・・
時化のなかを抜けて接岸したが、まだ北鮮で、更に歩いて南へ向かう
l まるで別世界のテント村
38度線南では、米軍の指示で脱北避難民のための収容所が設置され、帰国の準備が整うまで滞在。支給された物量に目を見張る
第4章
苦難そして苦難
l 突然の移動禁止令
5月中旬までに咸鏡南道から京城に辿り着いた日本人は約3.4万人。北鮮脱出者総数の6割を占め、その大半に松村が関与。残り1カ月で脱北を完了するところだったが、南鮮でコレラが流行、米軍がソ連軍に対し、日本人の越境禁止措置を求めたため、移動禁止に
l 米ソ間の攻防
その前から、大量の避難民の南下に驚いた米軍が、ソ連軍に善処を要求、ソ連は無視していたが、コレラではソ連軍も対応せざるを得なかった
l “死の38度線越え”を繰り返し試みたが
松村は、米軍への働きかけの必要性も感じて、何度か京城侵入を試みたが果たせず
l 託された手紙
6月後半の松村から古市への書状が残る。更なる帰還のため全力を尽くすという
l 強い信頼と期待を背負って
当時動かなかった平壌への工作を松村に強く期待し、松村もそれに応えようと努力
l 動かぬ平壌
平壌には4万の日本人、うち4割が避難民。一旦は集団南下が認められたが、保安局の移動禁止命令により、監視の目がきつくなり脱出の勢いは堰き止められる
l 東大生、金日成に直談判
海外からの復員、引揚者を援護する学生組織の東大農学部生・金勝登が釜山に密航、徒歩で北鮮に侵入。平壌の北朝鮮人民委員会に駆け込み金日成に直訴し、黙認の姿勢を確認。正式な引き揚げ指示を待つ在留邦人に、積極的に動くよう説得。直後にソ連軍は、平壌日本人会に対し、38度線以北での旅行の自由を認めると通達。越境は厳禁となった
l 松村、平壌駐在を画策
古市は平壌が動かないことに危機感を持ち、松村に平壌への働きかけを要請
咸興市党部から、金日成との面談許可を取り付けるが、障碍発生
l 幽閉された技術者たち
敗戦で主要産業は北朝鮮最高機関・臨時人民委員会に接収され、日本人は追い出されたが、間もなく技術者は職場復帰を要請され、興南の日本窒素でも課長クラス16人が支配人直属の技術顧問団に迎えられたものの、帰心は募り技術者の集団脱出事件に発展
選挙で5人の技術者を選んで残し、他はほとんどが6月中に脱出に成功
l ニセ情報
残された技術者の脱北計画というニセ情報が出回って暫時拘束されるが、それに関連して松村の平壌行きにもストップがかかる
l 磯谷との確執
咸興の日本人の間で、早期脱出を重視する松村らと、新朝鮮建設に共感して技術者の残留はある程度やむを得ないとする磯谷らが衝突。実践派の松村と、思想家の磯谷との相克
l 膨らむ疑念
決定的な対立は、移動禁止の最中で起こる。禁止の中でも幹部責任者の脱出を画策していた松村らに対し、磯谷が密告、松村らは一斉検挙されたが、結局は磯谷らが反動分子の烙印を押され追放、松村らが組織を再編して主導権を取り戻し、脱出工作に拍車をかける
第5章
引き揚げの神様
l 「堤がふたたび破れた」
平壌日本人会がいち早く動き出し、三井鉱山の寮舎接収を機に、そこにいた職員家族の南下が許可されたのを機に、7月下旬から小集団での南下が始まり、日毎に漸増
l 「日本人の命を保証することができるのか!」
咸興では、松村が在留邦人の一斉帰還をソ連軍に陳情、黙認を得る
l たった1日で出航させた船団
残留邦人約2000人を、ソ連軍の駐屯していない港から15隻に分乗させ、4挺櫓で1週間~10日余りかけて何とか38度線を超える。これにて咸興日本人委員会は解散
l 活気あふれた城津工場
咸鏡北道の南端の日本海に臨む城津(じょうしん、現金策)は重工業都市。現在も北鮮の製鉄業の中心地。終戦1年前で在留邦人は9500.最大の工場は日本高周波重工業
ソ連軍が1週間後には進駐し、朝鮮人による暴動もあってすぐに集団避難が開始されたが、工場はソ連軍の管理下に入り、従業員は操業維持のため大半が残留、戦前と同様の生活が続く。終戦1年前に満洲帝大でロシア語を学んだ田谷榮近は、松村とともに日本人引き揚げに通訳として活躍、陰の功労者
l 「引き揚げの神様」来る
他地区での引き揚げの情報に、城津でも翌春には引き揚げ熱望の声が高まり、松村からの金銭的な支援も含め、脱出の具体策を画策
l アパトフ列車
城津工場の指揮官だったソ連軍技術将校のアパトフ少佐は、日本人技術者の協力に感謝するとともに、技術者以外の帰還を積極的に支持、上司の黙認を取りつけ、列車を仕立てて送り出す。移動禁止令後だったので、何度も列車が止められたが、何とか脱北に成功
残留家族も46年末には正式な帰還が始まり、ほとんどが引き揚げ
l ソ連軍、集団脱出を応諾
咸鏡南道の帰還が概ね終了したこともあり、松村は咸鏡北道に残る邦人の脱出を直接海路で行うことについてソ連軍、朝鮮側に応諾させ、旅行許可書の公布を受ける
l 保安署に拘束されるもすぐに釈放
松村らは、国境の北端まで各地を回り、脱出の具体策を指示
l 13歳が見た「神様」
1946年10月、北端の港町雄基からは400人が松村らの手配した闇船で脱出
l 興南技術者の逃避行
日本窒素の技術責任者の宗像は、北の工場の復興、さらにはサガレン(サハリンの旧称)への永住を迫られ脱出を決意
l 闇船で技術者を送り出す
宗像は、松村の支援に縋り、11月には松村の手配した闇船で脱出に成功
l 「転落の女性」が歌う古里の歌
避難民の女性がソ連軍の慰安婦になって食つなぐことが少なくなかったが、彼女たちも松村の手で脱出に加わる
10月、ソ連軍から「北鮮からの正式引き揚げが始まる」との情報がはいり、松村らは集団脱出の工作を打ち切る
l 不信と対立の構図
北鮮での正式な引き揚げ事業が始まったのは46年12月。それまで32万と推定される民間邦人のうち、27万以上が自力で脱出に成功、2.6万以上が飢えと病で死亡。正式引き揚げ作業が遅れた背景には、米ソ間の不信と対立の構図が浮上する
終戦後の米英ソによる懸案協議で、ソ連が南からの米供給を要求したのに対し、米軍は北や満洲からの穀物輸入が止まったことを理由に拒否
l 遅延に遅延を重ねた「正式な引き揚げ」
米軍は南鮮に自由市場制を導入し米の自由販売を解禁したため、投機的買占めから市場の米が激減。ソ連は3月の引き揚げ開始を提案し米軍も同意したが、引揚者への食料提供要請を拒否したため、米ソは決裂。さらに米側がポツダム宣言に従ってソ連による日本兵捕虜を家庭に戻すことを要求したため、更に問題はこじれる
l 38度線が生んだ巨星
12月17日、北からの正式送還船第1弾「栄豊丸」が出航。4673人が帰国の途に。松村・磯谷も同乗、佐世保に向かう。この時北鮮に残っていたのは8千人に過ぎなかった
おわりに
2022年、松村の81歳の長女からの返事には、「初めて聞く話で、父の朝鮮でのことは全く知らない」とあった
松村は、熊本に帰京後、内縁の妻と2人の娘とともに延岡に住み、旭化成(旧日本窒素延岡工場)に戻った宗像らの支援を受け、松村工務店を開業、旭化成の下請けとして繁昌したが、突然1人で出奔。1967年大阪で病死。長女は死の直前病床で会ったが、意識はほとんどなかった。多額の借財を残したが、そのおおもとは、引き揚げ資金確保のための個人的な借金にあり、内縁の妻が苦労して返済
「引き揚げの神様」とまで言われた彼の後半生は寂しく惨め。同時にあまりにも謎が多い。輝かしい功績と帰国後の凋落との落差は、むしろ人間臭さを放つ
新潮社 ホームページ
“引き揚げの神様”松村義士男の集団脱出工作が、いま甦る。驚愕の発掘実話。
太平洋戦争の敗戦で朝鮮半島北部の邦人は難民に。飢餓や伝染病で斃れゆく老若男女の前に忽然と現れ、ソ連軍の監視をかいくぐり、母国へと導く男――彼はかつて国家から断罪されたアウトサイダーだった。時間も資金も情報もない中で、頭脳と度胸を駆使した決死の闘いが始まる。見返りを求めない「究極の利他」が胸を打つ実話。
書評
平時に威張っていた者ほど、非常時には役に立たない
1945年8月、日ソ中立条約を破ったソ連は、旧満州やサハリン、千島列島で日本に対して戦端を開いた。怒濤の如く進撃するソ連軍は、朝鮮半島北部まで進軍。これに慌てたアメリカは、北緯三八度線で朝鮮半島を分割支配することをソ連に提案。ソ連はこれを受け入れ、朝鮮半島は南北に分割されることになった。これが、朝鮮半島が分断されることにつながった。
大学の現代史の講義で朝鮮戦争について取り上げる際、戦争の前段として、私は右記のような解説をしています。
それまで朝鮮半島を統治していた日本は、敗北を機に朝鮮半島から引き揚げた。
こういう説明もしてきました。しかし、この二行で済まされてしまう説明の実態は、いかなるものだったのか。『奪還―日本人難民6万人を救った男―』は、ここに焦点を当て、綿密な取材によって、悲惨な、それでいて英雄的な物語を発掘しています。
当時朝鮮半島に住んでいた日本人のうち、三八度線で分断され、ソ連軍の支配下に入った北朝鮮に取り残された人々は約二五万人と推定されています。さらに満州にいた約七万人の避難民が北朝鮮に逃げてきます。この人たちを、三八度線を越えて南側に送り届けることに尽力した男がいたのです。
いったん南側に逃げれば、米軍によって日本に送還されたからです。日本に帰るには三八度線を越えるしか手がありませんでした。
日本人を北朝鮮から奪還した男。その名は松村義士男。戦争に敗れて機能を失った朝鮮総督府の日本人官僚たちは、なすすべもなく茫然とするばかり。本来、日本人を本土に送り返すために努力しなければならない役目の役人たちや日本軍の兵士たちは、さっさと逃げ出し、行き場を失った“難民”たちは途方に暮れます。
そこに襲いかかるソ連軍の兵士たち。日本人からあらゆるものを奪い、女性たちを凌辱する。この兵士たちの手の甲には数字が書かれていたという証言もあります。囚人たちが前線に送り出されていたのです。
これは、まさにいまウクライナで展開されていることと同様ではありませんか。刑務所でリクルートされたロシアの囚人たちはウクライナで略奪を繰り返し、女性たちを襲っています。ソ連がロシアになっても、戦争になると歴史は繰り返すのです。
そんな“敵地”に取り残された日本人たち。食料は不足し、故郷に帰れる見通しも立たないまま寒い冬がやってくる。栄養失調で免疫力を失った人たちは、腸チフスやコレラなどにかかって次々に失命する。まさに地獄絵図が繰り広げられていたのです。
太平洋戦争後の歴史では、焼け野原になった本土各地の様子や闇市、戦災孤児の話が多く語られてきましたが、朝鮮半島に関しては、あまりに悲惨な体験であったがゆえに、本土に帰ってきてからも口を閉ざす人が多く、とりわけ朝鮮半島北部の様子はあまり語られてきませんでした。元中日新聞記者でソウル支局長も経験した著者の城内康伸氏は、知られざる歴史を丹念に解きほぐします。
邦人救出に尽力した松村は、かつて本土で日本共産党のシンパとして労働組合運動に取り組み、逮捕されたこともありました。朝鮮半島に渡ってからも危険人物として警察にマークされていたのですが、終戦になると立場が逆転。朝鮮共産党との間に人脈を築き、秘密裏に交渉を重ねて日本人を三八度線以南に送り出す工作をしたのです。
当時の三八度線は、朝鮮戦争より以前ですから軍事境界線ではありませんでしたが、鉄道は断絶され、主要道路はソ連軍兵士によって厳重に監視されていましたから、山中の獣道や海路を通っての逃避行となります。
平時に威張っていた者ほど、非常時には役に立たない。平時には監視対象だった“変わり者”が活躍する。そんな人間模様が展開されたのです。
松村のことを熟知した人物は、手記の中でこう記しています。
「義人にして北朝鮮引き揚げの英雄、黙々として多くを語らず、温情は全身に溢れて、日本民族救出のためには鬼神を泣かしめる離れ業を敢行した。北緯三十八度線が生んだ日本民族の巨星である」
松村義士男の存在は、もっと知られるべきなのです。
(いけがみ・あきら ジャーナリスト)
(書評)『奪還 日本人難民6万人を救った男』 城内康伸〈著〉
2024年8月17日 朝日新聞
■国策の無惨な誤りを個人で負う
敗戦時の外地からの引き揚げで、一般邦人がいかに過酷な体験をしたかは数多く語られてきた。本書もその系列に属するが、類書と異なるのは二つの特徴があるからだ。
ひとつは、松村義士男という一民間人が、北朝鮮からの集団帰国を実現させたという事実。もうひとつは、近代日本の植民地政策の無惨(むざん)な結末が浮かび上がるという歴史的現実。大きく言えば国策の誤りを個人で負うというのがテーマである。
敗戦時、北朝鮮地域にはおよそ25万人の日本人が住んでおり、敗戦前後に旧満州から7万人の避難民がなだれ込んだ。北緯38度線の事実上封鎖、脱出禁止などで、帰還のメドが立たないとき、松村ら個人がソ連などと話をつけ、38度線以南に避難民を送り込んだ。驚くことに、引き揚げが公認された1946年12月、北朝鮮には8千人が残っていただけであった。
この裏には松村だけでなく、日本人協力者がいるわけだが、「引き揚げの神様」と言われた松村には、「近代史」に怒る冷徹な心理が読み取れる。共産主義運動の同調者として2度検挙され、20代前半には筋金入りの活動家だったという。
松村は北朝鮮地域では建設会社で中国人、朝鮮人労働者の管理に携わった体験もある。敗戦後、咸鏡南道(ハムギョンナムド)の中核都市、咸興(ハムン)で「朝鮮共産党咸興市党部日本人部」という看板を掲げ、日本人の相談事を引き受けるなど、その行動はスピーディーで、事態を読む力があった。
咸興からの集団脱出計画では、食料の窮迫状況と、ソ連人や朝鮮人の対日感情を利用し日本人の脱出意欲を高めていく。移動禁止の中、闇のパスポートの黙認を当局に迫るなどは、まさに民間人の知恵と度胸の結集であった。やがて興南(フンナム)でもこうした集団脱出が進む。
本書は資料をもとにこれらの集団脱出を語り、貴重な引き揚げ史ともなっている。67年に大阪で亡くなった松村が、戦後をどう生きたか、その足跡はわからないという。
評・保阪正康(ノンフィクション作家)
*
『奪還 日本人難民6万人を救った男』 城内康伸〈著〉 新潮社 2090円
*
しろうち・やすのぶ 62年生まれ。中日新聞社を2023年に退社し、フリーに。著書に『昭和二十五年 最後の戦死者』など。
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