散るぞ悲しき  梯久美子  2025.3.14.

 2025.3.14. 散るぞ悲しき ―硫黄島総指揮官・栗林忠道―

 

著者 梯久美子 1961(昭和36)年熊本県生れ。北海道大学文学部卒業後フリーライターとして、新聞、週刊誌などで数多くのインタビューや取材記事を手掛ける。『AERA』誌「現代の肖像」欄では、レギュラー執筆陣の1人として人物ルポルタージュを執筆。書籍の編集も手掛け、吉本隆明の『ひきこもれ』などでは聞き書きを担当。編集者を経て文筆業に。本書は初の単行本。2006年大宅壮一ノンフィクション賞受賞、米・英・仏・伊など世界8カ国で翻訳出版されている。2016年に刊行された『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』は翌年、読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞、講談社ノンフィクション賞の3賞を受賞した。他の著書に『世紀のラブレター』『昭和二十年夏、僕は兵士だった』『昭和の遺書――55人の魂の記録』『百年の手紙――日本人が遺したことば』『廃線紀行――もうひとつの鉄道旅』『愛の顛末――純愛とスキャンダルの文学史』『原民喜――死と愛と孤独の肖像』など多数。

 

発行日           2005.7.30. 発行                 2006.12.30. 24

発行所           新潮社

 

 

娘よ! 妻よ! 絶海の孤島からの手紙が胸を打つ――

水涸れ弾尽きる凄惨な戦場と化した、本土防衛の最前線・硫黄島。その知略で米軍を最も怖れさせた陸軍中将栗林忠道は、粗末なテントに起居しながら、留守宅の幼い末娘を夢に見、お勝手の隙間風や空襲の心配をする愛情こまやかな父でもあった――。

死よりも、苦しい生を生きた烈々たる記録

 

プロローグ

高知に残る貞岡信喜が、栗林が玉砕を目前した45316日、大本営に当てて発した訣別電報(末尾Wikipedia参照)の冒頭を、いまでも暗誦する

彼我の戦力差を見れば、万に一つも勝ち目はない。陸上戦力でも、日本軍2万に対し、上陸してきた米軍は6万、後方には10万の支援部隊がいた。日本軍の玉砕は自明、少しでも長く持ちこたえて米軍の本土侵攻を遅らせることが、たった一つの使命

貞岡(26)は軍属、将校の衣類の修繕をする縫工部で栗林の目に留まり、南支派遣軍に応募

貞岡を訪ねたのは、玉砕後59年たった’04年。栗林の遺族の紹介で訪問

‘43年、栗林は硫黄島赴任の際、貞岡の同行を許さず。貞岡は1年後、どさくさに紛れて父島行きの船に乗るが、栗林は無駄死にを許さず、逆に夫人に面倒を見るよう指示。その交信の2カ月後の'452月には米軍が硫黄島上陸

貞岡が硫黄島に渡ったのは、'68年の返還を経て、'78年のこと。慰霊巡拝団の一員

貞岡に会った後、資料を探しているときに、硫黄島玉砕を伝える'45.3.22.の朝日新聞を見て、貞岡の暗誦した電文が違っていることに気づく。防衛庁防衛研修所戦死室がまとめた公刊戦史『戦史叢書』を見ると貞岡の暗誦した通り。新聞報道だけが改変されていた

栗林:まず最初に、将兵たちの戦いぶりが述べられ、「宛然徒手空拳を以て」と続く

朝日:将兵の姿への言及はなく、「皇国の必勝と安泰」が強調され、「全員壮絶なる総攻撃を敢行」として、当時盛んに使われた、死を前提とした最後の突撃を美化する常套句に続き、最後に「将兵一同と共に謹んで聖寿(天使の寿命)の万歳を奉唱しつつ」と結び、栗林が最も言いたかった、武器も補給も途絶えた中で戦わねばならなかった兵士たちの苦しみと悔しさは無視

指揮官の断腸の思いに、陸軍上層部が敏感に反応。同日の隣の記事では、本土決戦に備えた軍事特別措置法案が議会に提出とあり、栗林の電文が、国民の指揮に影響すると判断されたと思われる

更なる改変は、訣別電文末尾に添えられた栗林の辞世の句、1首目の最後で、「散るぞ悲しき」とあるのを、新聞では「散るぞ口惜し」

遺族のもとに、大本営から「遺骨と思わるべし」と言って手渡された訣別電報の実物を見ると、句の頭に朱書きで二重丸が付され、「悲しき」の文字は黒い墨の線で消され、横に「口惜し」と書き直してある。本文には改変の跡はなく、新聞発表の際原文が作り変えられたのだろう

訣別電報は、死んでいった、あるいはこれから死んでいこうとする兵士たちへの鎮魂の賦

死んでゆく兵士たちを「悲しき」とうたうことが、指揮官にとってどれほどの大きなタブーであったのか、エリート軍人たる栗林が、徒に将兵を死地に追いやった軍中枢部への、ぎりぎりの抗議ともいうべきこの歌を詠むまでに、どのような戦場の日々があったのか、この時私はまだ知らなかった

 

第1章      出征

栗林中将が硫黄島へ向かったのは、'446月。家族に行き先は知らされなかったが、「今度は骨も帰らないかもしれない」とだけ告げられる。東松原の家には妻のほか、太郎(19)、洋子(15)、たか子(9、のち女優)4人が残る。直前に第109師団長。師団は、小笠原諸島の守備強化のため父島にあった部隊を基幹として新設され、その指揮官として硫黄島へ赴任

‘03年、栗林の長男を昭島に訪ねる。早稲田理工から建築家

 

第2章      22の荒野

硫黄島は22、世田谷区の1/2以下。平坦な地形が島の運命を決定づける。滑走路に最適で、不沈空母の役割。栗林は、「指揮官は最前線に立つべし」との信念から、父島ではなく敢て居住性の悪い硫黄島に司令部を置き、玉砕までの9か月間、一歩も島を出ず

米軍がサイパンに上陸を開始したのは、栗林着任の1週間後。その直後「マリアナ沖海戦」で惨敗し、連合艦隊は事実上終焉。米軍は中部太平洋の制空権・制海権を手中に収める

栗林が赴任して先ずやったのは、現地の視察と守備陣地の構築と水の確保。生活の他の面についても身分の上下で差をつけることを禁止。翌月には民間人を内地へ送還、軍属として徴用された人は残ったが、結果的に民間人の犠牲者は皆無

「米国に5年いた」は栗林の口癖で、’2830年軍事研究のため留学し米国内各地に暮らし、’3133年カナダ駐在武官を経験。アメリカびいきが疎まれたとの説もある。同様に硫黄島にいた著名人が馬術の西竹一中佐。親米派と目され玉砕が確実な戦場に送られたとされる

 

第3章      作戦

栗林は、全軍に戦いに臨む心得を述べた「敢闘の誓」を配布。指示や命令ではなく「誓」であり、最後の一兵となっても戦い抜けといい、最後の兵2名が投降したのは4年後の'491

「勝つ」ことを目的としない、なるべく長い間「負けない」こと、そのために全員が自分の生命を、最後の一滴まで使い切る、それが硫黄島の戦いの全て。選んだのはゲリラ戦。それを実行するためには強靭な精神力が要る。「敢闘の誓」は、その精神力を養い覚悟を促すためのもの

着任2カ月後に大本営から視察に来た陸海軍部作戦部長の2少将に、栗林は「アメリカの国力を至急判断し、サイパン玉砕後は早急に和戦の方法を講じるよう」意見具申書を手交したが握りつぶされた。直後の家族への手紙にも、「敗戦」を前提とした一節がある。副官が検閲

世界でもっとも有名な戦場写真といわれ、ピュリッツァーも受けた、硫黄島の摺鉢山に星条旗を掲げた写真で中央に写ってヒーローとなった兵士の息子は、2000年『硫黄島の星条旗』を著してベストセラーとなるが、栗林を「アメリカを最も苦しめ、最も尊敬された男」と評する

エノラ・ゲイも広島に向かう途上、硫黄島の上空を何度か旋回、そこで命を落とした7000人近い米兵に敬意を表したという

栗林の作戦は、帝国陸軍の伝統的戦法である水際作戦を棄て、主陣地を後方に下げ、地下を掘って全将兵を地下で戦わせるというもので、後退配備と呼ばれる。海軍はあくまで水際作戦を主張したので、栗林は譲った上で、海軍の陣地構築のための資材を一部流用しようと考えたが、海軍の要請に従って中央部から送られてきた僅かで、海岸に構築されたトーチカは米軍上陸前後の空爆と艦砲射撃によってあっという間に破壊された

 

第4章      覚悟

77日のサイパンに続き、83日にはテニアン、11日にはグアムも玉砕。ここに至って、大本営も水際思想を改め、後退配備に転換。他の地区にも「島嶼守備要綱」として示達したが、遅きに失した

「観察するに細心で、実行するに大胆」は、栗林の本領。思い切った人事異動で、旅団長、参謀長、作戦参謀、大隊長などを更迭、歩兵戦闘の権威と言われ千田貞季少将を呼び寄せる

地下陣地構築には、天然の洞窟が役立つ。硫黄島と同じ方針で戦って大健闘したのが中川州男(くにお)大佐率いるぺリリュー島の守備隊。'4411月玉砕

島での栗林は、毎日隅々まで歩いて陣地構築を視察し、率先して節水に努め、自ら畑を作った。自宅からの差し入れを断り、3度の食事は兵士と同じものを食べた兵士たちの苦しみの近くにあることを、自らに課していた。明日なき命を生きる同胞として、兵士たちの日常の中に自分も留まる――米軍上陸に備えた栗林の「覚悟」とは、常に2万の部下と共に生きること

 

第5章      家族

洋子は、終戦直後、腸チフスで死去。次女たか子は早大仏文在学中に大映のニューフェースに合格するが、助監督と恋に落ち結婚して退職、義父の幼稚園の園長。その長男が新藤義孝

サイパン陥落後、絶対国防圏が破綻した後の’447月に、大本営は捷号作戦を決定。小笠原も含まれていたが、硫黄島には伝達されず。大本営の関心は専らフィリピンにあった

まだ当初は硫黄島の防備に関し大本営は優先的に取り計らうつもりでいたが、不足していたのは飛行機と兵器のみならず、船も食料もすべてが不足。父島までは来ていたものの、その先の輸送手段がなかった

‘03年、妻死去、享年99。栗林と同郷で見合い結婚。翌年、たか子死去

 

第6章      米軍上陸

硫黄島上陸作戦の指揮官である米海兵隊のホーランド・スミス中将は、栗林の作り上げた陣地をウジ虫に譬えたが、それは彼流の最大級の褒め言葉だった。「切り刻まれるほどに強くなるウジ虫のように、わが軍に爆撃されるほどに、硫黄島は生気を取り戻した」

'44.12.8.米軍による空襲と艦砲射撃が始まり、74日間続いたが、地下はほぼ無傷で残る

219日上陸開始。ノルマンディを上回る規模の艦砲射撃の後上陸開始。1時間後に日本軍が反撃。米軍の予想に反して、バンザイ突撃はなく、米軍の死傷者は3.1万の8%に上る

 

第7章      骨踏む島

68年、硫黄島は日本に返還され、島中央部の元山飛行場は自衛隊が引き継ぐ。上陸後、本土攻略に向けて滑走路の整備を急いだ米軍は、遺体をそのままにしてその上にアスファルトを敷いたと言われ、返還後緊急発掘として一帯の33カ所を掘り遺骨を収集したが、まだ数多くの遺骨が埋まっていて、自衛隊は米軍の滑走路を少しずらした位置に新滑走路を建設

'79年から遺骨発掘が本格化したが、今なお1.3万柱が眠る。数年後から遺族の慰霊巡拝も開始。’53年設立の硫黄島協会が熱心に取り組む

定住は困難とされ、避難した島民の帰還は認められていない。陸海自衛隊と関係者が常住するのみ

'85年、名誉の再会記念式典挙行。前年のノルマンディ上陸40周年記念式典は、あくまで勝利を記念するもので、戦勝国だけで行われたが、硫黄島の光景は稀有

 

第8章      兵士たちの手紙

栗林は留守宅へ便りを出すことと送金することを奨励。硫黄島からは遺骨や遺品がほとんど還らなかったため、多くの遺族が戦地からの便りを形代(かたしろ)として保管

211日と12日に家族が出した葉書は、既に硫黄島は「郵便止め」で、転居先不明の付箋が貼られ、「尋ネ得ズ」と記されていた。家族はどこで戦っているのさえ知らなかった

 

第9章      戦闘

摺鉢山に星条旗が翻ったのは上陸から4日後の23日。有名な写真は、その後改めて別の星条旗を掲げてAP通信のカメラマンが撮ったもの。旗を掲げるのに使ったポールは、日本軍が雨水を集めて利用するために作った貯水槽に取り付けられていたもの。直後に海軍長官のフォレスタルも、ノルマンディの時と同様、島に上陸して星条旗を確認

海兵隊の快挙に、フォレスタルは、「これで海兵隊は500年は安泰だ」という

摺鉢山が予想外に早く堕ちたのは栗林にとって誤算、その最大の理由は地下道の完成が遅れたから。地下道の総延長は18㎞に及んだが、まだ摺鉢山までは繋がっていなかった

上陸から30日間の死闘が始まる。捕虜になっても、イオージマ・ソルジャーカミカゼ・ソルジャーと共に一目置かれた。栗林が作成・配布した「膽(109部隊の暗号符丁)兵の戦闘心得」が、実際の戦場での準備と闘い方を物語る。同時に栗林が開始したのは、部下将兵の功績調査と感状の授与、進級の申請、功績の上聞(天皇に伝えること)で、戦闘の様子が窺える

栗林は、移り変わる戦闘の状況を戦訓電報で報告。参謀長名での報告には「これまでの戦訓等においては到底想像も及ばざる戦闘の生地獄的なるを以て、泣き言と思わるるも顧みず敢て報告す」とあり、栗林は島の実情の一端を知らせようとした

最後の戦訓電報は37日。異例の侍従武官長宛。武官長は栗林の陸大時代の兵学教官。内容も異例で、大本営方針に対する率直な批判。①水際陣地にも未練を残し後退配備が不徹底になったこと、②飛行機が残っていないのに飛行場の拡張工事を続行、③陸海軍の縄張的主義、を訴えたが、公刊戦史では③が割愛。『木戸幸一日記』には、「侍従武官と統帥一元につき話す」とある。戦訓電報は、「防衛上更に致命的なりしは彼我物量の差余りにも懸絶しありしことにして結局戦術も対策も施す余地なかりしことなり」で結ばれている。現場から必死の抗議

 

第10章        最期

39日夜、島の上空を334機からなるB29の大編隊が通過

米陸軍航空団のアーノルド大将は、マリアナ基地司令官を無差別戦略爆撃を主張するルメイ少将に交代させる。帰還する爆撃機の不時着場となったのが硫黄島、24002.7万人の搭乗者の生命を救う

硫黄島に特攻隊が来援したのは221日。最初で最後。21機が島を囲んだ米艦船に体当たり。特攻による空母撃沈は戦争を通じて3隻だが、そのうちの1隻がこの時の成果

314日、公式の国旗掲揚式、占領宣言。16日、硫黄島作戦終結宣言

316日、栗林は訣別電報発出。17日早朝、大本営宛の電報は、硫黄島の全将兵に呼びかける内容で、同夜の総攻撃を予告。米軍の間隙を待って実際の出撃はそれから8日後

栗林は、美学ではなく戦いの実質に殉じる軍人だった。硫黄島という極限の戦場で栗林がとった行動、そして死に方の選択は、日本の軍部が標榜していた美学の空疎さを期せずして炙り出した。師団長自らが突撃した例は日本軍の戦史・戦例にはない

翌日朝、米軍が沖縄に奇襲上陸

 

エピローグ

栗林は妻に対し、「これから先、世間普通の見栄とか外聞とかに余り屈託せず、自分独自の立場で信念をもってやっていくことが肝心」と書き残している

硫黄島に渡ってからの栗林の軌跡をたどると、軍の中枢にいて戦争指導を行った者と、第一線で生死を賭して戦った将兵たちとでは、軍人という言葉で一括りするのが躊躇われるほどの違いがあることが改めて見えてくる

'94年、初めて硫黄島の土を踏んだ天皇の御製:

精魂を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき

栗林の絶唱を受け止めている

 

 

天皇皇后両陛下 硫黄島を来月訪問へ 戦後80年で戦没者を慰霊

2025321 NHK

天皇皇后両陛下は、来月7日に、太平洋戦争末期の激戦地、小笠原諸島の硫黄島を日帰りで訪問し、戦後80年にあたって戦没者を慰霊されることになりました。

小笠原諸島の硫黄島では、昭和202月から3月にかけて日米両軍による激しい戦闘が行われ、アメリカ側はおよそ6800人が戦死し、日本側はおよそ21900人が戦死しました。

宮内庁によりますと、両陛下は、47日、政府専用機で羽田空港を出発して、午後、硫黄島に入り、自衛隊の基地で東京都の小池知事と小笠原村の村長などから説明を受けられます。

硫黄島には、上皇ご夫妻も戦後50年を翌年に控えた平成6年に訪問していて、両陛下はおふたりが当時花を供えて拝礼された旧日本軍の戦没者の慰霊碑と日米両軍の犠牲者の慰霊碑のほか、軍属として徴用され戦闘で命を落とした島民などの慰霊塔が建てられている公園でも花を供えて拝礼されます。

さらに、自衛隊基地で、旧日本軍の戦没者の遺族や戦時下に強制的に疎開させられた元島民の子孫らの団体の関係者と懇談し、夜、皇居に戻られます。

天皇陛下は、先月、記者会見で、「戦後80年という節目を迎え、各地で亡くなられた方々や、苦難の道を歩まれた方々に、改めて心を寄せていきたいと思っております」と述べられていて、ことしは、戦没者の慰霊などのため、広島、長崎、沖縄への訪問も調整されています。



硫黄島の戦い 80年目の天皇行幸

  久美子 ノンフィクション作家

 酒井 聡平

2025/03/09 文藝春秋 4月号

「戦時強制疎開」がいまだ解除されていない元島民

 酒井 今日はお目にかかれて大変光栄です。『散るぞ悲しき──硫黄島総指揮官・栗林忠道』(2005年)の著者にお会いできて、長年の夢が叶いました!

  酒井さんの『硫黄島上陸──友軍ハ地下ニ在リ』(2023年)を読んで以来、私もお会いしたいと思っていました。しかも、母校・札幌藻岩高校の後輩だと知って、不思議な縁を感じます。

 酒井 硫黄島に関わると、不思議な偶然に恵まれます。梯さんも「まさか、高校の大先輩だったとは!」と、つい最近知って大感激でした。

 今から80年前の1945219日から326日にかけて、東京から南へ1250キロ離れた、東西8キロ・南北4キロの小さな火山島で、太平洋戦争屈指の死闘が繰り広げられた。

 日本軍の海上・航空戦力はほぼゼロ、陸上戦力も約6万人の米軍に対して約2万人。万にひとつも勝ち目がないなか、栗林忠道陸軍中将率いる日本軍は、本土防衛のために一日でも長くこの島を死守するため、無駄な突撃を避ける持久戦を展開し、米軍は5日で島を攻略する計画だったが、36日間も持ちこたえた。

 日本軍は捕虜となった約1000人を除いて全滅し、死亡率は95%にも達したが、米軍の死傷者も約29000人に達し、米軍死傷者が日本軍を上回る稀有な戦場となった。米国でも「海兵隊にとって史上最も厳しい戦い」として歴史に刻まれている。

「硫黄島の戦い」は日本人にとって何を意味するのか──戦後80年の節目に、その歴史を追った世代の異なる2人が想いを語る。

 

  酒井さんのご著書はとくに若い人に読まれているようで、世代を超えて硫黄島に関心がもたれているのをうれしく思っています。

 酒井 ありがたいことに13刷になりました。私は、祖父が硫黄島守備隊と共に小笠原諸島の防衛を担う父島の部隊にいたことを知って関心をもったのですが、硫黄島に本気で取り組み始めたのは、『散るぞ悲しき』に出会ったからです。

「外国」と勘違いされた硫黄島

  ご著書からは硫黄島に上陸することを絶対に諦めない思いというか執念が伝わってきました。硫黄島は、新聞記者であっても「なかなか行けない場所」で、酒井さんの本にはその苦労も書かれていますね。読み進めていくと、それが一体なぜなのか、戦後の日本の密約にもかかわっていることがわかり、驚きました。私自身、硫黄島に上陸するハードルは高かったけれど、その本当の理由は、この本を読むまでわかりませんでした。

 私の場合、2003年の初め頃から取材を始めて、当然、硫黄島にも行きたくなって、過去の例を調べましたが、行く方法はほぼない。

 ただ、戦後50年の節目に新聞社は現地取材をしていたので、当時、仕事をしていた新聞社系の雑誌の担当者に企画を出したところ、「海外取材の経費は認めてもらえないんです」と。「硫黄島は日本ですよ」と言うと「えっ、そうなの」。当時のジャーナリズムはその程度の認識でした。

 酒井 そんななかで、なぜ硫黄島に関心をもたれたのですか。

  雑誌の人物ルポで長期取材していた小説家の丸山健二さんに勧められたんです。「硫黄島の戦いの栗林中将を知っているか。日本の軍人には珍しく非常に合理的で家族思い。梯さんみたいな人が書いたら、きっと面白くなる」と。

 丸山さんは同じ信州出身の栗林に興味を持っていて、初めはご自身で小説にしようと思ったそうです。しかし、栗林を描くには「小説」よりも「ノンフィクション」の方がふさわしい、と。

 酒井 まずは史実を確定することが大事だ、ということですね。

  そうなのですが、戦史や軍事に疎い私には無理だと思いました。

 とはいえ、その場でお断りするのは失礼なので、できる限り資料を集めましたが、当時、手に入るものはごく少なかった。その中に収められていた栗林さんの手紙に強く惹かれたんです。そこから「叩いたドアはすべて開いた」といった幸運に恵まれ、一冊の本に纏めることができました。

『硫黄島からの手紙』との関係

 酒井 御本の刊行と同じ頃に、クリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』も公開され、私はこの2作品に心を奪われました。

  2005年に刊行して、06年に大宅賞をいただいて、07年の正月映画として『硫黄島からの手紙』が公開されたんです。映画とタイミングが合ったのも偶然です。

 酒井 映画より梯さんの御本の方が先だったんですね。

  この映画とも不思議なかかわりがあって。『散るぞ悲しき』はデビュー作で、それまでの私は雑誌や広告のライターでした。本の執筆に専念するために、それまで長く続けていたワーナー映画の宣伝コピーの仕事を止めたんです。

 そのワーナーが『硫黄島からの手紙』の配給会社。担当者が栗林中将役の渡辺謙さんの取材旅行に同行した際、新幹線の車内で渡辺さんが『散るぞ悲しき』を読み始めたので、「その本の著者は最近まで僕たちと一緒に仕事をしていた人なんです」と言うと、渡辺さんが「ぜひ話をききたい」と。

 渡辺さんは研究熱心で、栗林についていろいろ尋ねられました。当初の脚本では最期に切腹することになっていたところ、渡辺さんが資料を示してイーストウッドを説得し、部下を率いて出撃し、負傷してピストル自決するという形になったそうです。

 酒井 『硫黄島からの手紙』と『散るぞ悲しき』の栗林像は、あまりに一致しているので不思議に思っていたのですが、その理由がよく分かりました。映画の原題は、「Red Sun, Black Sand(赤い太陽、黒い砂)」だったのが、「Letters from Iwo Jima(硫黄島からの手紙)」に変わったのも、梯さんの御本の影響ではないですか。イーストウッドへの取材という夢がいつか叶ったら、本人に確認してみたいです。

  酒井さんの本では「実際の硫黄島は地獄の無人島ではなく、大勢の(自衛)隊員らが本土並みの日常生活を過ごし、しかも風光明媚な美しい景観が広がる楽園のような島なのだ」と書かれています。

「楽園」という表現には最初、戸惑いを覚えましたが、硫黄島が本来もっている「豊かさ」を強調されているわけですね。

楽園としての硫黄島

 酒井 明治学院大学の石原俊氏が『硫黄島』で詳細に描いていますが、戦前、硫黄島には約1000人の住民がいて、所得水準が高く、豊かな暮らしをしていました。

  戦前の硫黄島について調べていたとき、資料に「レモングラスを栽培していた」とあって、ちょっと驚いたんです。硫黄の臭気が漂う火山島、というイメージとずいぶん違っていて。

 酒井 「硫黄臭い島」と思われがちですが、むしろレモングラスをつくれるような「香水の島」で、デリスという農薬の原料も栽培できました。海鳥の島なので、その糞で島全体が肥えている。芋は40日間で育つので「四〇日芋」と呼ばれていた。つまり、農業に適した島なんです。

  激戦と多くの死者というイメージが強すぎて、そうした情報はほとんど伝わっていません。

 酒井 1作目の『硫黄島上陸』は、「戦没者2万人のうち、今なお1万人が見つからない」というミステリーを追ったものですが、今後刊行予定の次作は「元島民約1000人とその子孫がいまだに硫黄島に帰れない」というミステリーをテーマにしています。

 硫黄島は、戦後、米国の占領下に置かれ、1968年の返還後も、自衛隊基地があるのみで、元島民や硫黄島の戦いの生還者や遺族に慰霊のための訪問が許されるだけで、民間人は、原則として行くことができません。

 私は3度、遺骨収集に参加できましたが、最初の訪問が実現するまで13年もかかりました。

ハードルが高い硫黄島上陸

  私は結果的に4度、訪問できましたが、最初の訪問が叶うまで、本当に苦労しました。

 自衛隊や厚生労働省など各方面に問い合わせても、すべて門前払い。八方ふさがりで途方にくれました。すると、栗林中将の長男の太郎さんが「硫黄島協会による慰霊巡拝があるので私の代わりに行きなさい」と言ってくれたんです。

 ただその時は、他の希望者が現れて飛行機の席は埋まってしまいました。遺族が優先されるのは当然なので諦めていたところ、渡島の数日前に、硫黄島協会から電話がかかってきました。もう1席だけ空いたが、今から希望者を募る時間はないので、よかったら参加しませんか、と。

 酒井 私は梯さんの御本に触発されて硫黄島取材を始めたのですが、実際に取材できることはほとんどない。そこでまず遺骨収集に参加された方に話を聞くと、「地下壕に入ったら、直撃弾で亡くなったのか手榴弾で自害されたのか、壁に骨片が突き刺さっているんです」と。こういう凄惨な話を聞くと、これは自分で実際に見なければダメだと思ったんです。

 それから硫黄島協会、日本遺族会、厚生労働省にあたったのですが、「遺骨収集は遺族しかできません」と。さすがに無理かと私も諦めかけたところ、2019年にJYMA(日本青年遺骨収集団)という学生ボランティア組織から「1人、急遽参加できなくなったので」と連絡があったんです。

 自分が行くことで遺族が1人行けなくなるのは申し訳ない。ですから、私も「欠員」がなければ硫黄島に行けませんでした。あの電話がなければ、硫黄島の取材は止めていたと思います。

  私のときから20年近くたっても、ハードルが高いままなんですね。

メディアの責任

 酒井 新聞記者なら外務省所管の日米合同慰霊式や防衛大臣の現地視察に同行するチャンスはあります。

 ただそれも原則、外務省や防衛省の記者クラブに入っている記者だけです。仮に行けたとしても、自由行動はなし。バスに乗せられて観光ルートを一周するだけです。毎回同じところを回るので、写真も毎回同じ。新しい情報は何もありません。

 これはメディア側にも責任があります。民間人上陸を禁止して、メディアの視線を遮断して、「あそこは荒れ放題の島で遺骨が眠っていても仕方ない」「墓場の島としてそっとしておいた方がいい」と国民に思い込ませている。これに新聞も加担してきたわけです。

「国内なのに、上陸できないのはおかしい」とメディアがもっと抗うべきだったのに、国の方便をそのまま受け入れてしまった。その結果、硫黄島に関しては、戦後80年も経つのに、まさに時が止まったように、メディアが報じる情報も国民の認識も、いっさい更新されていません。

  なぜ民間人は上陸禁止なのか。その理由として、ご著書では核密約に触れていますね。

 酒井 1950年代から秘密裏に核関連の兵器が配備されるようになり、冷戦下で硫黄島が米軍の核の秘密基地と化していくなかで、遺骨収集も島民帰還も許されなかった。

 その核兵器は後に撤去されますが──硫黄島返還の動きが日米間で本格化した時期と重なります──1968年の返還時に、「有事核貯蔵」について少なくとも日本側が黙認したと解釈できる曖昧な公文書を残しています。これが「核密約」と呼ばれているものです。

  それは今も有効なのですか。

 酒井 名古屋外国語大学の真崎翔氏によると「核保存場所としての硫黄島の役割はほとんど終わっていますが、核密約は今も有効で今後も続くでしょう。米国としては、密約を取り消して、既得権を自ら手放す必要などないからです」と。

  硫黄島の電波通信施設と電波障害の問題も大きいようですね。

 酒井 米国は、硫黄島返還に際して「電波障害」の問題も懸念していました。当時の日本本土では、建物の高さや電気製品の使用に至るまで地域住民にさまざまな制約を課していて、米軍の通信施設と周辺地域の間で社会問題化していたからです。

 先の真崎氏に「核戦略の要衝でなくなったのになぜ民間人の原則上陸禁止が続いているのか」と尋ねたところ、「おそらく自衛隊のレーダーではないか。レーダー基地の近くに人が自由に入れる状態は都合が悪い。日本人の自由な上陸を許せば、外国人の上陸も許すことになる」と。

 いずれにしても、米国は硫黄島返還に際して、さまざまな規制で日本側を雁字搦(がんじがら)めにしています。

「戦時強制疎開」が今も続く

  硫黄島が担う軍事的役割の細かな部分は時代ごとに変わっても、島自体が日米の軍事基地と化していて、米軍にも自衛隊にも、「住民不在」が都合が良い、という点では一貫しているわけですね。

 酒井 まさにそうです。その意味で「硫黄島は人の住めない地獄の島だ」と伝えてきたメディアが、結果的に軍事基地化を許してきたのだと思います。

  そもそも硫黄島の島民を島外に避難させたのは栗林中将です。当時としては、島民を守るための最善の判断だったと思いますが、その島民が島に戻れなかった戦後の歴史を思うと、複雑な気持ちになります。

 酒井 島民を疎開させたのは栗林中将の英断だったと思います。戦闘だけでなく島民避難のシーンも描いているのは『硫黄島からの手紙』の素晴らしい点で、これも梯さんの御本の影響ではないですか。

 しかし「戦時の島民疎開」と「戦後の島民未帰還問題」は別問題です。その意味で、硫黄島は戦後未処理の象徴のような島だと思います。

  戦時中の「強制疎開」がいまだに解除されていないわけですね。

 酒井 世界中で硫黄島だけではないでしょうか。「居住と移転の自由」を定めた憲法22条違反です。

 元島民の帰還を認めない現政府の見解は、1984年の中曽根康弘内閣の閣議決定と、その直前に出された小笠原諸島振興審議会の意見具申に依拠しています。

 この意見具申は、火山活動が活発で農業も漁業も成り立ちにくく、「硫黄島において、健康で文化的な最低限度の生活を営むことが可能な地域社会形成のための整備は、極めて困難であると言わざるを得ない」と結論づけています。

 しかしもし火山活動を問題にするなら、自衛隊や米軍はなぜ引き揚げないのか。結局、基地が既得権益化しているんです。

米軍にとっての聖地

  米軍にとっては、純粋な意味での「軍事的価値」だけでなく「象徴的な価値」もありますね。

 硫黄島はまさに海兵隊の聖地です。それまで陸、海、空軍の下にあり、いつなくなってもおかしくなかった海兵隊の存在価値を確固たるものにした。摺鉢山山頂にある戦勝記念碑には「硫黄島で戦ったアメリカ兵の間では、並はずれた勇気がごく普通の美徳であった」というニミッツ海軍元帥の言葉が刻まれています。

 2003年のイラク戦争終結の際のブッシュ大統領の演説でも、「(イラクでは)ノルマンディでの大胆さと、硫黄島での猛烈な勇気が示された」と、硫黄島の戦いがノルマンディ作戦と並び称されています。

 そんな硫黄島に対する支配権を米国が簡単に手放すわけがない。

 酒井 おっしゃる通りで、硫黄島の返還の際、滑走路の保全や水の確保のほかに、摺鉢山山頂にあるモニュメントへの自由な立ち入りを日本側に要求したと読める公文書が存在しています。硫黄島の神話は、海兵隊の存在意義にとって、いまだ死活的な意味を持っている。単なる過去の話ではありません。

 硫黄島が現在も米軍の影響下にある一例ですが、米軍使用区域の「硫黄島通信所」の英語正式名称は、「Iwo Jima Communication Site」と、「いおうとう」(日本の正式名称)ではなく「いおうじま」になっています。

  もともと住んでいた方たちは、いまも島に帰りたいと思っているのでしょうか。

 酒井 元島民は「自衛隊との共存でいい」と言っています。

 一番の問題は、こうした硫黄島の現状が国民にあまりに知られていないことです。札幌在住のある元島民は、「政府やメディアは『北方領土の元島民』のことはあれほど気にかけているのに、なぜ『硫黄島の元島民』のことは取り上げないのか」と憤っていました。

  北方領土は他国に実効支配されている地域ですが、硫黄島は国内であるはずなのに。

 酒井 米軍上陸からちょうど80年後の219日、硫黄島帰島促進協議会が、国土交通省に「帰島を認めない違憲施策に終止符を」という要望書を出し、記者会見を開きました。これまで「墓参の回数を増やすこと」を目指していた運動方針を「帰島」そのものを要求するように転換したんです。これに対して国交省は「定住が困難な状況は変わっていない。都や村、防衛省とも連携し、訪島・墓参の拡充などを考えていきたい」と回答しています。

天皇皇后の硫黄島訪問

  戦後80年にあたって戦没者を慰霊するために、4月の天皇皇后の硫黄島訪問が検討されているという報道がありました。

 酒井 まだ確定ではないですが、訪問が実現することを切に願っています。

  酒井さんは2023221日の天皇の「誕生日会見」で、硫黄島について記者として直接質問をされましたね。あれには「よくやった!」と感動しました。

 酒井 「私も上皇上皇后両陛下から硫黄島に行かれた時の話をいろいろと伺っております。大変悲惨な戦闘が行われ、また多くの方が亡くなられたことを、私も本当に残念に思っております」と、端的なお答えでなく、間を置いて言葉を一つ一つ選ぶようにお答えいただいたのに驚きました。硫黄島について相当お詳しいことも伝わって参りました。今回のご訪問についても、深い思いをお持ちなんだと思います。

  天皇皇后が訪問するとなると、現地の道路や施設などのインフラ整備が進むのではないですか。すると、元島民も帰島しやすくなるのでは……

 酒井 私が期待しているのも、まさにそのことです。今回の訪問が実現すれば、元島民の帰島運動にとってプラスになる側面があります。という以上に、訪問自体が一つのメッセージになります。

「人が住めない」ようなところに天皇皇后が赴くわけにはいきません。天皇皇后が硫黄島に渡ること自体が、おのずと「ここには人が住める」という意味をもちます。

  上皇上皇后は硫黄島で揃って「悲しき」で終わる歌を詠まれていて、「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」という辞世の一首を遺した栗林中将への返歌のように受け止めました。天皇皇后の慰霊の旅には、歴史を風化させない力がありますね。

 酒井 そんな歴史的意義をもつ今回の硫黄島訪問にぜひ同行して取材をしたい、というのが、私の目下の叶わぬ夢です(笑)。

 

 

 

 

新潮社 ホームページ

散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道―

梯久美子/著

大宅賞受賞! 深い感銘を受けた。――柳田邦男。

これほど美しい戦記は稀である。――西木正明。

きわめて文学性の高い傑作である。――藤原作弥(第37回大宅賞選評より)

水涸れ弾尽き、地獄と化した本土防衛の最前線・硫黄島。司令官栗林忠道は5日で落ちるという米軍の予想を大幅に覆し、36日間持ちこたえた。双方2万人以上の死傷者を出した凄惨な戦場だった。玉砕を禁じ、自らも名誉の自決を選ばず、部下達と敵陣に突撃して果てた彼の姿を、妻や子に宛てて書いた切々たる41通の手紙を通して描く感涙の記録。大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

 

 

 

 

 

Wikipedia

散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(ちるぞかなしき いおうじまそうしきかん・くりばやしただみち)は、梯久美子ノンフィクション作品である。

概要

太平洋戦争末期の硫黄島の戦いで戦死した硫黄島守備隊総指揮官栗林忠道が妻子に宛てた手紙や、栗林の長男、次女、親族、関係者への取材を通して、硫黄島の戦いの真実に迫る。2005新潮社から出版された。

2006()日本文学振興会が主催する第37大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。

ストーリー

「国の為重きつとめを果し得で矢弾尽き果て、散るぞ悲しき」。1945316、硫黄島総指揮官栗林忠道中将は大本営に宛てて電報を発し、10日後、326日に最後の総攻撃をしかけ戦死、玉砕した。彼が大本営に発した散るぞ悲しきという言葉は「悲しき」から「口惜し」に訂正され、「散るぞ口惜し」に改変されていた。

なぜ改変されたのか。このとき、私はまだ知らなかった。死んでゆく兵士たちを「悲しき」と詠うことが、指揮官にとってどれほどのタブーであったかを。エリート軍人たる栗林が、いたずらに将兵を死地に追いやった軍中枢部への、ぎりぎりの抗議ともいうべきこの歌を詠むまでに、どのような戦場の日々があったのかを。

エピソード

2006年公開の映画「硫黄島からの手紙」で栗林忠道を演じた俳優の渡辺謙は、映画の収録期間中に同本を肌身離さず持ち歩き、役作りのために活用したという。

 

 

 

【書評】優しさと気迫と軍才と:梯久美子著『散るぞ悲しき』

()nippon.com 2019.05.17

幸脇 啓子 Profile

第二次大戦で硫黄島を指揮した栗林忠道中将。クリント・イ―ストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』でも描かれたその生きざまには、終戦から70年以上が経っても学ぶところが多い。平成が終わり、また新たな時代が始まった今、改めて手に取りたい一冊だ。

平成が終わった。

30年余り続いた平成の時代を振り返ると、「鎮魂」という言葉が浮かんでくる。
平成時代の天皇、皇后のおふたりは、ご在位中、広島や長崎、沖縄はもとより、サイパンやペリリュー島、硫黄島など国内外の第二次世界大戦の戦地を訪れ、祈りを捧げられた。

長年訪れたいと願っていたという硫黄島で、1994年、天皇陛下は御製を詠まれている。「精魂を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」

ここで使われている“悲しき”という言葉は、硫黄島の総指揮官だった栗林忠道中将が遺した辞世「国の為重き務を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」から引かれたものだろう。

栗林中将の生きざまを描いた本書は、私の軍人観、戦争観をがらりと変えた。
硫黄島の総指揮官を命じた際、当時の首相、東条英機は栗林中将に「アッツ島のようにやってくれ」と言ったという。アッツ島は米軍に勝利した場所ではなく、文字通りの死闘の末に全滅を遂げた場所である。

著者の言葉を借りると、「硫黄島は、はじめから絶望的な戦場だった」。
「硫黄島に川は一本もなく、井戸を掘っても、出てくるのは硫黄分の多い塩水である。栗林を含む二万余の将兵の飲み水は、雨水を貯えてこれを用いるしかなかった。生命を支えるギリギリの量であるその水さえ汚染されており、兵士たちはパラチフスや下痢、栄養失調で次々に倒れた」

妻と息子、娘と暮らした東京の家を後にする時、生きて帰ることなど考えていなかっただろう。事実、出征からひと月も経たないうちに、栗林中将は持って行った荷物のほとんどを東京に送り返している。

「予は常に諸子の先頭に在り」

「なぜ、こんなことができるのだろう」
本書を読みながら、幾度も心の中で呟いた言葉だ。

中将と言えば、現在でいえば閣僚クラス。“ものすごく偉い”軍人だ。
陸軍士官学校出身で、陸軍大学校を優秀な成績で卒業し、アメリカでの駐在を経験した後、第二次大戦開戦後は、香港でイギリス軍を撃破……と、そのキャリアも輝かしい。

そんな、一兵卒からすればまさに仰ぎ見るような総指揮官が、部下が入院すれば果物を持って自ら見舞いに向かい、地下足袋をはいて杖をつき、丸腰で気軽に島中を自分の足で歩く。内地から中将に宛てて送られてくる生野菜は自分で食べずに、すべて部下に分け与える。兵士ではない軍属の20代の青年にも目をかけ、一緒に写真を撮ろうと声をかける。そして東京に残してきた家族に宛て、愛情のこもった丁寧な手紙を送り続ける。本書で描かれる栗林中将の姿は、軍人らしからぬ人間味にあふれている。
こんな人が、本当にいたのだ。

そうかと思えば、部下に配布した「敢闘の誓」には、烈しい文句が並ぶ。
一 我等は全力を振って守り抜かん
二 我等は爆薬を抱いて敵の戦車にぶつかり之(これ)を粉砕せん
三 我等は挺身敵中に斬込み敵を鏖(みなごろ)しせん
四 我等は一発必中の射撃に依って敵を撃ち仆(たお)さん
五 我等は敵十人を斃(たお)さざれば死すとも死せず
六 我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん

ことあるごとにこの言葉を唱和し、ノートに書きつけた将兵たちは、最期までこの誓いを守り、泥水をすするような壮絶な戦場を生き、死んでいった。

驚くような優しさ、人間らしさと、慄くほどの祖国を思う熱さや気迫、そして軍人としての類まれなセンス。
そのすべてが共存していた人間が、栗林中将だったのではないか。

第二次大戦でアメリカが攻勢に転じて以降、硫黄島は唯一米軍の損害が日本軍の損害を上回った戦地だ。島中に地下壕を堀りめぐらせ、2万の兵で6万の米軍を迎えて徹底的な持久戦を行ってこれほどの戦果を挙げた栗林中将の手腕は見事というしかない。

だが、才能だけで部下の心は掴めない。
栗林中将にかわいがられた軍属の青年は、硫黄島が陥落する際は偶然島を離れていて、戦後まで生き長らえた。栗林中将の死から33年が経って初めて硫黄島に降り立った時、司令壕に向かって駆け出し、「閣下ぁー、貞岡が、ただいま参りましたぁー!」と叫んだという。

昭和203月。米軍が硫黄島に上陸して1カ月ほどが過ぎ、2万人余りいた将兵は、すでに400人余りになっていた。
残るは、玉砕覚悟の総攻撃のみ。栗林中将は部下にこう呼びかけた。
「予は常に諸子の先頭に在り」。

総指揮官は陣の後方に残って切腹するのが、それまでの日本軍の慣習だった。
だが栗林中将は、自らが先頭に立ち最期の日々を過ごした司令壕を後にする。

「悲しき」という言葉を選ぶ感性

栗林中将が硫黄島で見せた姿は、21世紀の今であれば、書店に山と並ぶマネジメントの本に出てくるようなリーダーの行動かもしれない。
だが70年以上前の戦争まっただ中、そして上意下達が徹底された日本軍という組織にこのようなリーダーが何人いただろう。いたとしてもごく僅かであり、残念なことには、日本軍はそうしたリーダーシップを評価する組織でもなかった。

事実、栗林中将の辞世に使われた「悲しき」という言葉は、大本営によって「悔しき」と改ざんされて発表された。著者は数十年の間知られていなかったこの事実を突きとめ、遺族が大切に保管していた電報の原本へとたどり着く。その下りはスリリングで、まるで推理小説のようだ。

電報に書かれた「悲しき」の文字は鮮やかな朱筆で消され、「悔しき」と書き直されていた。玉砕した総指揮官が「悲しき」という“女々しい”言葉を使うことなど、当時は許されなかったのだろう。
だが、2万という部下を抱え、“生き地獄”としか表現しようがない戦場の中、一日でも長く島を守るという使命に殉じ、部下を死に向かって戦わせる状況を「悲しき」と捉えて辞世とする感性を持っていた栗林忠道という人は、なんと稀有な軍人だったことか。

それほどの感性がある人だからこそ、家族に送った手紙の明るい文面や、硫黄島での“温情あふるる”言動がかえって胸に迫る。

家族の写真を身につけたまま……

栗林中将の生きざまが本書の縦軸だとすると、彼を信じ、最後まで慕って死んでいった2万余りの兵士たちの人生が横軸といえる。
硫黄島で戦っていたのは、「30代以上の応召兵が多数を占め、妻子を残して出征してきた者が多かった」。
戦後、家族の手紙や写真を身につけたまま朽ち果てた遺体が、何体も見つかったという。

本書に登場する彼らの手紙や遺された家族の言葉に、改めて、第二次大戦とは、そして戦争とは何なのか、と考えさせられる。

栗林中将の遺骨は、見つかっていない。
遺族は大本営に宛てて送られた辞世を含む訣別電報を「この電報をもって、ご遺骨と思わるるべし」と手渡された。
硫黄島には今なお、1万を越える遺骨が遺されている。

平成が終わり、昭和はまたひとつ過去になった。
戦後生まれが圧倒的になり、戦争や軍人という言葉は何だかつかみどころのない、曖昧模糊としたものになってきたように感じる。

だが果たして、本当に「昭和は遠くになりにけり」なのだろうか。
令和を迎え、昭和が遠ざかっても、あの時代を生きた人に学ぶことはまだまだあるように思う。
自分が年を重ね、人生の転機を迎えるたび、つい、栗林中将の言葉に触れたくなって本書に手が伸びる。何度読み直しても、新たな発見や驚きに出会える本である。

 

幸脇 啓子SAINOWAKI Keiko経歴・執筆一覧を見る

編集者。東京大学文学部卒業後、文藝春秋で『Sports Graphic Number』などを経て、『文藝春秋』で編集次長を務める。2017年、独立。スポーツや文化、経済の取材を重ね、ノンフィクション作品に魅了される。22年春より、長野県軽井沢町在住

 

 

 

作家・梯久美子が『散るぞ悲しき』を書いた2つの理由

()nippon.com  2019.06.05

幸脇 啓子 Profile

硫黄島の激戦を率いた栗林忠道中将を描いた『散るぞ悲しき』は、今なお読み続けられている名著だ。著者の梯久美子さんは、本作で鮮烈なデビューを飾った。戦後生まれの彼女が、なぜ栗林中将を書こうと思ったのか。背景にあった2つの動機とは。

久美子 KAKEHASHI Kumiko

ノンフィクション作家。1961(昭和36)年熊本県生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経てフリーの文筆家に。2006年に『散るぞ悲しき ―硫黄島総指揮官・栗林忠道―』で、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。同書は、世界8カ国で翻訳出版されている。2017年には『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』で講談社ノンフィクション賞、読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞を受ける。その他の著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』『昭和の遺書──55人の魂の記録』など多数。最新作は『原民喜―死と愛と孤独の肖像』。

 

——『散るぞ悲しき』の主人公の栗林忠道さんの名前は、その後クリント・イーストウッド監督が渡辺謙さんの主演で映画『硫黄島からの手紙』を撮ったこともあり、広く知られるようになりました。渡辺さんは、撮影中はずっと『散るぞ悲しき』を持ち歩かれていたといいます。梯さんが栗林中将を描こうと思ったきっかけは、何だったのでしょうか。

雑誌の人物ルポを書くために小説家の丸山健二さんを取材していた時、栗林忠道という、日本には珍しいタイプの軍人がいるから書いてみたらと勧められたんです。それまで栗林さんの名前は知りませんでしたし、戦史や軍事について詳しいわけでもなかったので、とても無理だと思ったのですが、せっかく勧めてもらったので、何冊か関連の本を買ってみました。そうしたら、そのなかの『玉砕総指揮官の絵手紙』という本に収められていた栗林さんの手紙に、強く心を惹かれたんですね。アメリカから子どもに宛ててかわいらしい絵を添えた手紙を書いたり、硫黄島から妻への手紙でお勝手の隙間風のことを事細かに心配したりと、二万余の部下を率いて壮絶な戦いの末に玉砕した将軍のイメージとはかけ離れていました。ただ、いったいどんな人なのかと興味が湧いてきたものの、その時はまだ本を書こうとまでは考えていませんでした。

——今では硫黄島も栗林中将の名前も知られて多くの本も出ていますが、当時はほとんど知る人もいませんでした。手紙に興味を抱いてから本を書くまで、何があったのですか?

本を書こうと思ったのは、栗林さんが硫黄島から送った『訣別電報』が改ざんされていたことに気づいた時です。本にも書いていますが、栗林さんの部下だった貞岡信喜さんという方に取材した時、この訣別電報を朗々と暗誦してくださいました。ところが1945322日の新聞に掲載されている訣別電報とは、何カ所か言葉が違っていた。ご高齢とはいえ、栗林さんについてのお話はとてもしっかりしていたので不思議に感じて資料にあたるうち、公刊戦史(戦後に防衛庁防衛研修所戦史室がまとめた『戦史叢書』)で訣別電報の原文を見つけました。すると、貞岡さんが暗誦してくださった文章が正しかった。新聞では、『全員壮烈なる総攻撃を敢行す』など、原文にはない語句が挿入され、原文にあった『宛然(えんぜん)徒手空拳を以て』が削除されるなどしていたのです。

電報の最後に書かれた三首の辞世の一首も同様で、『国の為重き務を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき』だったのが、新聞では『国の為重き務を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ口惜し』と、最後の言葉が換えられていました。こうした事実を伝えるだけでも意味があるのではないかと感じて、本を書こうと思いました。

偶然が積み重なり、電報の現物にたどり着いた

——訣別電報が改ざんされていたという事実は、戦後何十年も知られていませんでした。なかでも、辞世の「散るぞ悲しき」という言葉は本書のタイトルにもなっていますし、ひじょうに印象的です。1995年に慰霊に硫黄島を訪れた平成の天皇も、「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」と、この悲しきという言葉を使われて御製を詠まれています。

訣別電報は大本営に宛てたものなので、敗戦の際に焼却処分されていてもおかしくありませんでした。ところが、大本営陸軍部第20班、ここは作戦を担当する班なんですが、そこの種村という大佐が、玉砕の翌月に栗林さんの遺族宅を訪ね、『これをもってご遺骨と思わるべし』と夫人に手渡した――硫黄島は遺骨の帰らない戦場でしたから――。軍の中にも、大本営から見捨てられながらも、劣悪な条件の下で多くの兵を率いて最後まで戦い続けた栗林さんを気の毒に思う人がいたのでしょう。その種村大佐のおかげで、改ざんされる前の電報が後世に残ったのです。

この訣別電報の現物を私は見ているんですが、それはいくつもの偶然の結果です。まず、20年ぶりに再会した出版社時代の同僚が、私がその少し前に読んでいた『玉砕総指揮官の手紙』の編集者と知り合いで、栗林中将に興味を持っていると言ったら紹介してくれました。その編集者が栗林さんのご遺族を紹介してくれて、お宅に伺ったところ、大切に保存されていた手紙を見せていただけたんです。

40通余の手紙のファイルのなかに、この訣別電報がありました。直された辞世の頭には朱色の筆で二重丸が記され、黒い墨で“悲しき”の文字を消して、“口惜し”と書き直されています。電報の現物では、改変されていたのはこの箇所だけでした。おそらく、電報の本文は、新聞発表の際に直されたのでしょう。大本営がまず反応したのが、“悲しき”という言葉だったのです。散る=戦場で死んでいく部下たちの姿を、栗林さんは〝悲しき〟とうたった。改ざんされたことからも、それは当時、指揮官として許されないことだった。本人もそれは分かっていたはずだと思います。分かっていてあえて、こううたわずにはいられなかった。指揮官としての、兵士たちへの鎮魂の賦であったと思います。

硫黄島取材での偶然の巡り合わせ

——硫黄島の壮絶な戦いは日本よりもアメリカで有名で、そこで戦っていた日本人兵士たちは、捕虜になっても収容所で敬意を払われたそうですね。本でも、「“カミカゼ・ソルジャー”と“イオージマ・ソルジャー”は特別だ」と米軍人から言われたエピソードが出てきます。

この本では、栗林中将だけでなく2万余の兵士たちがどう戦い、死んでいったのかも書かなくてはと思いました。戦争末期だったこともあり、硫黄島では職業軍人はもとより現役兵も少なく、30代、40代の、一家の主である人たちが召集されて戦っていた。幼い我が子の写真や、家族からの手紙を身につけて戦い、亡くなった人たちもいます。今なお、彼らの遺骨は硫黄島に数多く残されたままです。

取材のとき、硫黄島にはぜひ行きたかったのですが、現在は基地の島になっていて、遺族が出席する慰霊祭など特別な機会を除いて民間人は行くことができません。その慰霊祭も、自衛隊の輸送機に乗っていくので、座席数が少なく、遺族以外が参加する余裕はない。仕方がないと諦めていたら、出発1週間前に突然1席キャンセルが出て参加できることになったのです。

現地での慰霊祭の後は、50人ほどの参加者が5台のバスに分乗して島を一周し、戦跡や慰霊碑などを見て回る予定だったのですが、私がトイレに行っているうちに、乗る予定だったバスが出発してしまいました。慌てて世話役として同行していた硫黄島協会の方の車に乗せてもらったものの、その車の役割は、5台のバスに先回りして、戦跡がある場所の目印にするために道端の木に白い布を結んでいくことで、どこにも立ち寄ることなく15分足らずで元の駐車場に戻ってきてしまいました。

せっかく来られたのに何も見られずに帰ることになるのかと呆然としていたら、どこか見たいところがあれば、バスが戻ってくるまでの間に案内しますよと、硫黄島協会の方が言ってくださったんです。

——それは幸運でしたね。どこに向かったのでしょうか。

栗林中将が最後に立てこもっていた司令部壕です。事前の説明会では、内部の通路が狭く、一度に大勢入ると危険なので、外から見るだけだと言われていたのですが、その方が先導してくれて、中に入れることになりました。

壕の中の通路は高さ75センチ。膝をついて進んでも背中を擦りそうになります。しばらく直進し、通路が直角に曲がった先に、栗林中将の執務室だった部屋がありました。通路が直角に曲がっているのは、爆風から執務室を守るためです。執務室の隣に栗林さんが寝起きしていた部屋がありました。いずれも部屋とは名ばかりで、地中深く掘られた壕の中に作られたやや広い空間にすぎません。

壕の中で写真を撮るのははばかられたので、引き返して壕から出たあと、入り口を外から撮影していたのですが、そのときデジカメのレンズキャップを落としてしまいました。壕の入り口は地下に向かってかなり急な坂になっていて、そのまま壕の中までキャップが転がって行ってしまった。当時、私はフィルムカメラしか持っていなくて、友人から借りたデジカメでした。デジカメはその頃まだ高価でしたし、なくすわけにはいきません。もう一度壕に入らせてもらいました。キャップは入ってすぐのところにあったのですが、そのまま栗林さんがいた部屋まで進み、今度はひとりで、その場所に立ったんです。

懐中電灯を消し、暗く狭い壕の中にひとり立ったときに感じたのは、ここは確かに栗林さんが死んだ場所だけれど、人生の最後の時間を生きた場所でもあったということです。絶望的な状況の中、最後の最後まで、本土の被害を少しでも少なくするために合理的に考え抜き、最善を尽くした。そして、生き残った部下を率いてここから出撃していった。ある意味で、彼がもっとも自分らしく生きた場所なんですね。その事実が実感として迫ってきた。死の悲惨さよりも、生のエネルギーを感じたのです。

壕から出たとき、この島で栗林さんがどう死んだかではなく、どう生きたかを書こうと決心しました。それまで、研究者でもなく硫黄島戦の遺族でもない私が書いてもよいのだろかという逡巡があったのですが、死ではなく生の物語なら書けるかもしれない、と。忘れもしない2004122日のことです。

最初の読者は、硫黄島の死者たち

——梯さんにとって、硫黄島の遺族ではないことが、本を書くうえでプレッシャーになっていたのですね。

硫黄島は1万柱を超える遺骨が今も地下に埋まっていて、島の上を歩くことは、骨の上を歩くことなんです。滑走路の地下にも遺骨がありますから、飛行機で島を訪れることは、すなわち骨の上に降り立つことになる。でも、船が接岸できる港はないので、骨の埋まった滑走路を使うしかない。

そんな島に、遺族でもない私が、取材と称して足を踏み入れてしまった。怖れと畏れの両方で、こわごわ降り立ったというのが正直な気持ちでした。もし私が遺族だったなら、硫黄島で命を落とした人たちも『頑張って書きなさい』と背中を押してくれるかもしれません。でも、私に対しては、死者はとても厳しい目で見ているに違いないと思いました。

硫黄島戦を書くなら、彼らの厳しい眼差しにも応えられるものを完成させなくてはいけない。硫黄島に行った翌月から執筆をスタートしましたが、書いている間じゅう、あの島の死者たちを意識していました。最初の読者は彼らだと思うと、いい加減なことは書けません。苦しい執筆でしたが、死者の厳しい目にさらされながら最初の本を書いたことは、今思えばとてもありがたいことだったし、幸運なことだったと思います。

硫黄島での経験から、 “土地の記憶”ということを考えるようになりました。その地で亡くなった人、なかでも非業の死を遂げた人のことを、土地は覚えていて、こちらが知りたいと強く願えば教えてくれるのではないか、と。今でも誰かのことを書く時は、必ずゆかりの地、とりわけその人が亡くなった場所を訪れるようにしています。

——改ざんされていた訣別電報と、知られざる硫黄島の戦いを書き記すこと。それが本を書く動機になったのですね。実際、いまでは栗林中将の名も、硫黄の壮絶な戦いも広く知られています。

それらが『公』の動機だとすると、もうひとつ私的な動機もありました。それは、私の父のことです。父は少年飛行兵で、出撃しないまま17歳で終戦を迎え、その後自衛官になりました。もう少し早く生まれていたり、戦争が長く続いていたりしたら、きっと戦地に行っていたでしょう。

父のことは好きでしたが、なぜ軍人を志したのかは理解し難く、そのことは考えないようにしてきました。でも、棚上げしてきたことは、いつか直面しなければいけない時がきます。本を書こうと決めた時、父は80歳に近く、私も40歳を過ぎていました。思いがけず軍人の評伝を書くことになったのは、『父のことを何も知らないままでいいのだろうか』という思いが、ずっとどこかにあったからかもしれないと、書き終えてから思いました。

現在、日本には〝軍人〟はいないことになっています。私が子どもの頃からずっと、日本は戦争をしない国になったのだから、戦争が仕事の人たちについては知らなくてもいい、という空気でした。『父がなろうとした軍人とは何なのか』という問いに自分なりに答えを出すためにも、この本を書くことが私には必要だったのかもしれません。

——執筆後、お父さんと戦争についての話はできましたか?

少年飛行兵時代のエピソードは聞くことができました。でも、なぜ志願したのかとか、敗戦のときの気持ちはどうだったのかなどについては聞けないままでした。もともと無口で、自分から戦争のことを話すことはありませんでしたし、本について何の感想も言われていません。私は3姉妹の末っ子で、きょうだいに男の子はいません。父は5年前に亡くなりましたが、ほんとうは息子がほしかったみたいなんです。私は息子にはなれませんでしたが、父を通して戦争に興味を持ち、一冊の本を著すことができた。そのことは、父も喜んでくれたのではないかと思っています。

 

 

「散るぞ悲しき」の教訓今に その情報は正しいか

論説フェロー 芹川 洋一

2019819 2:00 [会員限定記事] 日本経済新聞

6日の広島、9日の長崎、15日の終戦記念日――あれから74年。今年もまた8月が過ぎてゆく。

戦争体験のある人が減ってしまい、日本の夏の風物詩とまでいわれた815日をピークとした戦争報道も、ひと昔前に比べるとかなり下火になってきた。

しかしだからこそ戦争を考えてみようと、令和の出典が万葉集だったのに触発されて、戦時下の昭和16年から20年の短歌をおさめた『昭和萬葉集』(昭和54年刊)の巻6をひもといてみた。

日米開戦からはじまって、銃後の生活、戦場での思い、そして戦争への疑問まで、当時の人たちの心模様が伝わってくる。死に直面していた人間の挽歌(ばんか)集ともいえるものだ。

たとえばフィリピン戦線に送られた作家・野間宏の悲痛な叫び声が聞こえてくる歌がある。

「夜は蚊ぜめの地獄 昼は蠅(はへ)ぜめの地獄 地獄地獄地獄」

太平洋戦争の激戦地だった硫黄島の総指揮官だった栗林忠道中将の辞世もあった。

「国の為 重きつとめを 果し得で 矢弾(やだま)尽き果て 散るぞ悲しき」

この歌はノンフィクション作家の梯久美子さんが栗林中将を取り上げた作品で『散るぞ悲しき』と本のタイトルにしたことで広く知られることにもなった。

ところが辞世の句が発表されたときは「散るぞ悲しき」ではなく「散るぞ口惜(くちお)し」だった。そのことは梯さんの本で知った。

国のために死んでいく兵士を「悲しき」とうたった栗林。それは率直な心情の吐露だったに違いない。しかし戦争のさなかに軍はそれを許さなかった。「口惜し」と変えたのである。

当時の新聞にあたってみた。昭和20322日の日本産業経済(日本経済新聞の前身)朝刊。1面に大本営発表として掲載されていた。

「硫黄島遂に通信絶ゆ」

17日夜半 全員総攻撃を敢行 敵兵33千を殺傷」

横に「栗林中将陣頭に 壮! 白刃(はくじん)翳(かざ)し斬込み」の見出しもついていた。

その下に関連記事がある。 「魂魄(こんぱく)・皇軍 捲土(けんど)重来の魁(さきがけ)栗林最高指揮官最後の電報」

そこで辞世の句を紹介し「散るぞ口惜し」と報じた。

改変はそれにとどまらない。辞世の句の前には文章があって、梯さんによるとそこは相当手が入れられている。

「宛然(えんぜん=まるっきり)徒手空拳を以て」というくだりなど、完全に削除された。武器もなく補給もないなかで戦ったということが伝わるのを軍部はいやがったからだ。

都合の悪い情報は流さない。情報をあからさまなかたちで、コントロールする。大本営発表自体がそうだ。それが当たり前だった。そして国は滅んだ。

ひと呼吸おいて考えてみると、当時の人たちが大本営発表をそのまま信じていたかとなると、どうもそんなことはあるまい。栗林中将の記事にしても、見出しにある「敵兵33千を殺傷」など、だれも疑ってかかっていたに違いない。おそらく玉砕=全滅だけが確実に伝わったはずだ。

メディア史が専攻の佐藤卓己・京大教授の『流言のメディア史』によると、虚偽情報のはしりとされるミッドウェー海戦での勝利の大本営発表についても、虎の子の主力空母4隻を失い敗北だったとのうわさは、多くの人びとの間で広がったという。大本営発表が正しくないことは分かっていたのだ。

佐藤教授の見方はこうだ。

「正しい情報が、正しく伝えられることを前提に、情報に接すべきではないという典型例が戦時下だ。真空状態の中で、まったく抵抗もなく真実が伝えられることは通常はありえない。利用しようとする人たちは必ずいる」

たしかに「散るぞ悲しき」の「口惜し」への改変は情報を操作する側からすれば当然だったに違いない。栗林中将の思いや善悪の判断は別にして、戦争という異常事態のもとでは驚きに値するようなことでもなかった、と考えた方がよさそうだ。

しかし思えば、われわれは戦時下でない民主主義のこの国で、つい最近も文書を改ざんした役所があったことを知っている。大本営以下というしかない。官僚も地に落ちたものである。

まして現在、ネット上ではどこまで正しいのかもわからない情報がはびこっている。

国際社会では「ロシアが国ぐるみで外国に対する情報操作、世論介入」を繰り返し、「中国が外国から情報を盗み、国内では統制を強める」など、激しいサイバー戦争が繰りひろげられている(飯塚恵子著『ドキュメント誘導工作』)。日本語という「壁」があっても、日本も決して無縁ではありえない。

情報は操作されるものであり、思考停止しないで常に疑ってかかる――。情報を伝える側にも受けとる側にも必要なことだ。それは栗林中将の時代も今も変わらない。

昭和萬葉集に、戦時下の新聞記者の心情が痛いほど伝わってくる一首があった。

「世の常の 記者の如(ごと)くに なりにしと 阿容(おもねり)の記事 我は書きつつ」(北田寛二)

こんな時代はまっぴらごめんだ。

 

 

 

栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891明治24年〉77 - 1945昭和20年〉326[1][注釈 1])は、日本陸軍軍人最終階級陸軍大将位階勲等従四位勲一等旭日大綬章[注釈 2]陸士26陸大35長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。

第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった[4]と評された。

経歴

戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912大正元年)121日に陸軍士官学校へ入校。陸軍将校の主流である陸軍幼年学校出身(陸幼組)ではなく、中学校出身(中学組)であった。長野中学の4期後輩に今井武夫陸軍少将がいる。陸士同期に、のちの硫黄島の戦いで混成第二旅団長に指名して呼び寄せた歩兵戦の神の異名をもつ千田貞季や、田中隆吉影佐禎昭がおり、とくにノモンハン事件では、戦車第3連隊吉丸清武23師団参謀長大内孜、第23師団捜索隊長東八百蔵3人の同期が戦死しており、栗林が同期を代表して新聞紙面上で追悼のことばを送っている[5]

1914(大正3年)528日、陸士卒業(第26期、兵科騎兵、席次:742名中125番)、騎兵第15連隊附となり、同年1225日に陸軍騎兵少尉任官。1917(大正6年)10月から1918年(大正7年)7月まで陸軍騎兵学校乙種学生となり[6]、馬術を専修[7]。馬術の技術は高く、気性が荒く陸軍騎兵学校の誰もが敬遠していた馬を何度も落馬しながらも乗り続け、最後には乗りこなしていたという逸話が残っている[8]

1918(大正7年)7月に陸軍騎兵中尉1920(大正9年)127日、陸軍大学校へ入校。1923(大正12年)8月、陸軍騎兵大尉。同年1129日に陸大を卒業(第35期)、成績優等(次席)により恩賜の軍刀を拝受[9]。同年12月、栗林義井(よしゐ[10])と結婚[注釈 3]。太郎・洋子・たか子の一男二女を儲ける。孫に衆議院議員新藤義孝がいる(たか子の子)[11]

北米駐在・騎兵畑

[編集]

騎兵第15連隊中隊長、騎兵監部員を経て1927昭和2年)、アメリカ駐在武官在米大使館附)として駐在、帰国後の1930(昭和5年)3月に陸軍騎兵少佐に進級、4月には陸軍省軍務局課員。1931(昭和6年)8月、再度北米カナダに駐在武官(在加公使館附)として駐在した。栗林は2年間に渡ってアメリカ各地を回ってアメリカ軍の軍人だけではなく一般市民とも親交を深めた。栗林のアメリカ人評は「朗らかで気さくな人が多い」であり、アメリカ人との交流について、妻よしゐやまだ字が読めない長男太郎宛に、イラストや漫画を描き込んだユーモアにあふれる多くの手紙を送っている[12] フォート・ビリス英語版)では騎兵訓練を受けているが、そのときの教官であったジョージ・ヴァン・ホーン・モーズリー英語版)准将からは、「尊敬する栗林へ、貴官との愉快な交際を忘れません」と書かれた記念写真を受け取っている。栗林はフランスドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」で、国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であり、妻のよしゐに「アメリカは世界の大国だ。日本はなるべくこの国との戦いは避けるべきだ。その工業力は偉大で、国民は勤勉である。アメリカの戦力を決して過小評価してはならない」と話したこともあった[13]

1933(昭和8年)8月、陸軍騎兵中佐、同年1230日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936(昭和11年)81日には騎兵第7連隊長に就任する。1937(昭和12年)82日、陸軍騎兵大佐に進級し陸軍省兵務局馬政課長。馬政課長当時の1938(昭和13年)には軍歌愛馬進軍歌』の選定に携わっている。1940(昭和15年)39日、陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長、同年122日、騎兵第1旅団長に就任。

太平洋戦争(大東亜戦争)

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦目前の1941(昭和16年)9月、23参謀長に就任。第23軍は緒戦の南方作戦においてイギリス香港を攻略することを任務としており、128日の開戦後、香港の戦いにおいて18日間でイギリス軍を撃破して香港を制圧した。

1943(昭和18年)6月、陸軍中将に進級し、第23軍参謀長から留守近衛第2師団[注釈 4]に転じる[7]1944(昭和19年)4月、留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じる[7][注釈 5]。栗林が東部軍司令部附となったのは、厨房から失火を出した責によるとされる[7]秦郁彦は、厨房から火事を出した程度で留守師団長を更迭されるとは考えにくい、第109師団長に親補する前提での人事であろう、という旨を述べている[7]

硫黄島の戦い

1944年(昭和19年)527[3]、小笠原方面の防衛のために新たに編成された109師団長に親補された[7]68日、栗林は硫黄島に着任し、以後、1945年(昭和20年)3月に戦死するまで硫黄島から一度も出なかった[7]。同年71日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。周囲からは、小笠原諸島全域の作戦指導の任にある以上は、兵団司令部を設備の整った父島に置くべきとの意見もあったが、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に司令部を移した。その理由としては、サイパンの戦いにおいて、31司令官小畑英良中将が、司令部のあるサイパン島から部隊視察のためパラオ諸島に行っていたときにアメリカ軍が上陸し、ついに小畑はサイパン島に帰ることができないまま守備隊が玉砕してしまったという先例があることや、父島と比較すると硫黄島の生活条件は劣悪であり、自分だけ快適な環境にいることなく部下将兵と苦難を共にしたいという想いがあったからという。栗林はその人柄から部下将兵からの人気も高かった[17]

栗林の着任当時、硫黄島には約1,000人の住民が居住しており、当時の格式では、閣僚クラスの社会的地位のある中将の来島に色めきたったが、栗林は島民に配慮して一般島民とは離れた場所に居住することとしている[18]。栗林が司令部ができるまで居住していた民家は「硫黄島産業」という会社の桜井直作常務の居宅で、桜井は栗林と接した数少ない島民となったが、栗林は食事の席で桜井に「我々の力が足りなくて、皆さまに迷惑をかけてすまない」と謝罪し桜井を驚かせている[19]。栗林の島民に対する配慮はまだ続き、アメリカ軍による空襲が激しくなると、島民も将兵と同じ防空壕に避難するようになったが、薄手の着物姿の女性が避難しているのを見た栗林は、将兵からの性被害を抑止するために女性にモンペの着用を要請し、また防空壕も可能な限り軍民を分けるよう指示した[20]。その後も、アメリカ軍の空爆は激化する一方で、全島192戸の住宅は316日までの空襲で120戸が焼失、6月末には20戸にまでなっていた。栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は712日まで数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した[21]。栗林の方針によって硫黄島には慰安所は設置されておらず、硫黄島は男だけの島となったが、結果的に早期に住民を疎開させるという判断が、島民の犠牲を出さなかったことにつながった[22]

敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。従来の「水際配置・水際撃滅主義」に固執し水際陣地構築に拘る一部の陸軍幕僚と同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。陣地の構築については軍司令官である栗林が自ら島内をくまなく巡回し、ときには大地に腹ばいになって、目盛りのついた指揮棒で自ら目視して作業する兵士たちに「この砂嚢の高さをあと25cm上げよ」「こっちに機銃陣地を作って死角をなくすようにせよ」「トーチカにもっと砂をかけて隠すようにせよ」などの具体的で詳細な指示を行うこともあったという。

生還者の1人で歩兵第145連隊第1大隊長(少佐)だった原光明は「(栗林)閣下が一番島のことをご存じだった。だから私ら、突然、閣下が予想外の場所から顔を出されるので、いつもびっくりさせられた」と回想している[23]。このように、通常は部隊指揮官がやるような細かい指示を軍司令官が行ったことについて、栗林の率先指揮ぶりの好エピソードとして語られることもあるが、これは、軍参謀がわずか5人と少ないうえ着任して日も浅く、また部隊指揮官は急編成でろくに経験もない老兵が多かったという小笠原兵団の窮状によるものでもあった[24]

持久戦術は守備隊唯一の戦車戦力であった、戦車第26連隊(連隊長:西竹一中佐)に対しても徹底された。戦車第26連隊は満州で猛訓練を積んできたこともあり、連隊長の西は硫黄島でも戦車本来の機動戦を望んでいたが[25]、これまでの島嶼防衛戦で戦車を攻撃に投入したサイパンの戦い[26][27][28]ペリリューの戦いにおいては[29]、優勢なアメリカ軍部隊に戦車突撃をして、強力な「M4中戦車」との戦車戦や、バズーカなどの対戦車兵器に一方的に撃破されることが続いており[30][26][31]。栗林は西に対して、戦車を掘った穴に埋めるか窪みに入り込ませて、地面から砲塔だけをのぞかせ、トーチカ代わりの防衛兵器として戦うよう命じた。西はこの命令に反撥したが最終的には受入れている。栗林と西は同じ騎兵畑出身で親しかったとする証言もあるが、勤勉且つ繊細であった栗林に対し、華族(男爵)で裕福だった西は豪放で奔放と性格が全く異なっており、確執があったとする証言もある[32]。ただし、戦車を防衛兵器として使用する判断をしたのは西であったとする説もある[33]

隷下兵士に対しては陣地撤退・万歳突撃自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。過酷な戦闘を強いることになる隷下兵士には特に気を配っており、毎日、島を何周も廻る視察には、陣地構築の状況確認のほかに、兵士の士気と指揮官の兵士に対する態度を確認する目的もあった。栗林は兵士に対して、作業中や訓練中には自分も含め上官に敬礼は不要と徹底し、部下から上官に対する苦情が寄せられた場合は容赦なく上官を処罰した。食事についても栗林自らも含め、将校が兵士より豪華な食事をとることを厳禁した。栗林は、平時から階級上下での待遇差が激しい軍内で根強い食べ物の恨みが蔓延していることを認識しており、水不足、食料不足の硫黄島においては、さらにその食べ物の恨みが増幅する懸念が大きく、戦闘時の上下の信頼関係を損なって、戦力に悪影響を及ぼすという分析をしていた。そのため、自らも兵士と同じ粗食を食し、水も同じ量しか使用しなかった。この姿勢が兵士から感銘を受けて、栗林への信頼が高まっていった[34]

1945(昭和20年)216日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月199時、海兵隊1波が上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、(日本)海軍の海岸砲擂鉢山火砲各砲台応戦砲撃を行ってしまった。栗林は慌てて全軍に全貌を暴露するような砲撃は控えるよう再徹底したが[35]、栗林の懸念通りにアメリカ軍は応戦砲撃で海軍砲台の位置を特定すると、11時間にも及ぶ艦砲射撃で全滅させてしまった。これはアメリカ海兵隊の硫黄島の戦いの公式戦史において、「(硫黄島の戦いにおける)栗林の唯一の戦術的誤り」とも評された[36]

その後は守備隊各部隊は栗林の命令を忠実に守り、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ10時過ぎに栗林の命令によって一斉攻撃を開始する。上陸部隊指揮官のホーランド・スミス海兵隊中将は[7]、その夜、前線部隊からの報告によって硫黄島守備隊が無謀な突撃をまったく行なわないことを知って驚き、取材の記者たちに「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」と語った[37]。また、第4海兵師団の戦闘詳報によれば、日本軍の巧みな砲撃指揮を「かつて、いかなる軍事的天才も思いつかなかった巧妙さ」と褒めたたえている[38]。アメリカ軍は硫黄島の指揮官が誰であるのかを正確には把握できておらず、上陸前にはサイパン島で入手した日本軍の機密資料から、父島要塞司令官大須賀應陸軍少将と考えていた。しかし、上陸以降に捕らえた日本兵の捕虜から「最高司令官はクリバヤシ中将」という情報を聞き出したアメリカ軍は、硫黄島のような小さく環境が劣悪な島に中将がいるとは考えられないという判断をしながらも、硫黄島の戦力が当初の14,000人という見積りより多いという報告から、師団クラスの戦力が配置されており、師団長クラスの中将が指揮をしてもおかしくはないという分析も行った。その場合は硫黄島の戦力は当初の見積りより遥かに多く、また「クリバヤシ」が優れた戦術家であれば苦戦は必至と危惧することとなったが、事実、この危惧通りにアメリカ軍は大苦戦させられることとなる[39]

その後も圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えたものの、37日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部、および栗林の陸大在校時の兵学教官であり、騎兵科の先輩でもある侍従武官長蓮沼蕃大将に打電。さらに組織的戦闘の最末期となった1616時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結#訣別の電文)。

17日付で戦死と認定され[7][注釈 6]、特旨により陸軍大将に親任された[2]陸軍大臣杉山元元帥は、内閣総理大臣小磯國昭に送付した文書に次のように記している[7]

第百九師団長として硫黄島に在りて作戦指導に任じ其の功績特に顕著なる処、三月十七日遂に戦死せる者に有之候条、同日付発令相成度候杉山元。出典では漢字カナ表記、[7]

太平洋戦争(大東亜戦争)では、中将の戦死者が増加したため、中将で戦死した者のうち、親補職軍事参議官[15]。陸軍では、陸軍三長官陸軍航空総監師団長以上の団隊の長、侍従武官長など[15]。海軍では、海軍大臣軍令部総長、艦隊司令長官、鎮守府司令長官など[15]。)2年半以上を経ており、武功が特に顕著な者を陸海軍協議の上で大将に親任するという内規が作られ、この内規により、陸軍で7名(栗林を含む)[40]、海軍で5名が戦死後に大将に親任された[41]

昭和19527日に第109師団長に親補され、昭和20317日に戦死と認定された栗林は、上記の内規の年限を満たさなかったが、特旨により大将に親任された[41]

同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の命令を発した。

  • 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
  • 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
  • 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君[42]テ顧ミルヲ許サズ
  • 四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ

大本営は訣別電報で栗林は戦死したと判断していた。しかし、323日に硫黄島から断続的に電文が発されているのを父島の通信隊が傍受した。その電文には321日以降の戦闘状況が克明に記されていたが、最後の通信は23日の午後5時で、「ホシサクラ(陸海軍のこと)300ヒガシダイチニアリテリュウダンヲオクレ」という平文電報がまず流れてきたので、通信兵が返信しようとすると、「マテ、マテ」と硫黄島から遮られて、その後に続々と電文が送られてきたという。その電文の多くが栗林による部隊や個人の殊勲上申であり、栗林は戦闘開始以降、部下の殊勲を念入りに調べてこまめに上申して、昭和天皇の上聞に達するようにしてきたが、最後の瞬間まで部下のはたらきに報いようとしていたのだと電文を受信した通信兵たちは感じ、電文に記された顔見知りの守備隊兵士を思い出して涙した。しばらくすると通信は途絶えて、その後は父島からいくら呼びかけても返信はなかった[43]

栗林の最期

317日以降、栗林は総攻撃の機会をうかがっていた。既に生存者の殆どが、守備隊の命運は尽きており、待っているのは自滅のときの訪れであって、そうであれば最後の突撃をなるべく早く行うべきと考えていたが、栗林は死を焦る参謀や指揮官らに「今、しばらく、様子を見たい」として安易な突撃を許さなかった。その指示を聞いた参謀らは、最後まで作戦を考える栗林の戦意と気力に大きな感銘を受けたという[44]。アメリカ軍は18日から、艦砲射撃や空爆を中止し、損害の大きかった海兵隊を硫黄島から次第に撤退させており、1個連隊程度の戦力を残して、戦車と迫撃砲での攻撃を主として近接戦闘をなるべく避けるように作戦変更していた。栗林は冷静にアメリカ軍の作戦変更を見極めて、警戒が緩んできた324日に攻撃の機が熟したと判断すると、25日夜間の総攻撃開始を決定した[45]。この総攻撃も、今まで栗林が徹底して禁止してきたバンザイ突撃ではなく、緻密に指揮された周到な攻撃であった。栗林は階級章を外すと、軍刀などの所持品から名前を消して白襷を着用し、25日の深夜に、今まで栗林に従ってきた師団司令部附大須賀應陸軍少将、歩兵第145連隊連隊長池田益雄陸軍大佐、参謀長高石正陸軍大佐や海軍27航空戦隊司令官市丸利之助海軍少将と共に、攻撃隊400人の先頭に立って司令部の半地下壕を出て、元山・千鳥飛行場方向に向けて前進を開始した[46]

326日午前515分、栗林の指揮する攻撃隊は西部落南方の海岸で、アメリカ陸軍航空隊の第7戦闘機集団と第5工兵大隊が就寝している露営地に接触し攻撃を開始した。攻撃隊は日本軍の兵器のほかに、アメリカ軍から鹵獲したバズーカや自動小銃などを装備しており非常に重武装で、太平洋戦争の島嶼戦で繰り返された貧弱な装備でのバンザイ突撃とは一線を画した秩序だった攻撃であり、攻撃を受けたアメリカ軍も日本軍部隊がよく組織されているものと感じ、それは栗林の戦術的な規律によるものと評価している[47] 攻撃隊の周到な攻撃によってアメリカ軍は大混乱に陥り、多数の戦闘機パイロットが殺傷されたが、その後海兵隊の増援も到着し、3時間の激戦によって戦闘機パイロットら44人が戦死、88人が負傷し、海兵隊員も9人が戦死、31人が負傷するという大損害を被った[48]。その後、栗林は部隊を元山方面に転戦しようとしたが、敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受けて負傷し、司令部付き曹長に背負われながら前線から避退したが進退窮まり、最後に「屍は敵に渡してはいけない」と言い残して、近くの洞窟で自決した[45]。満53歳没。

ただし、栗林の最期については、直接見た者は生存していないことから諸説ある。最後の総攻撃の数少ない生還者である通信兵小田静夫曹長の証言によれば、栗林は千鳥飛行場に天皇陛下万歳三唱して斬りこんだが、参謀長の高石か参謀の中根に自分を射殺するよう命じ、高石か中根は栗林を射殺したのちに自分も拳銃で自決したという。しかし、小田は実際には栗林の最期を見てはおらずこれは推測である[49]。他の生還者である歩兵第145連隊の大山純軍曹によれば、前進途中の千鳥部落付近で敵の砲火を浴び、部隊は散開状態となったが、大山はそのとき栗林の近くにおり、栗林が「狙撃を出して攻撃せんか」と命令したのを聞いている。大山はその場で機関銃弾を受けて負傷し栗林とはぐれてしまったが、戦闘後に戦闘指揮所に戻ると、栗林が負傷し、出血多量で絶命したため、遺体を参謀長の高石が近くの木の根元の弾痕に埋葬したという話を聞いている[50]。他にも、攻撃中にアメリカ軍の155㎜砲の直撃を受けて爆死し遺体が四散したとの推察もある[51]

最後の総攻撃後に、日本兵の遺体262人が残され、18人が捕虜となった[52]。海兵隊は栗林に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、結局見つけることはできなかった。アメリカ海兵隊は公式報告書で栗林による最後の攻撃を以下の様に記録している[53]

326日に栗林と他の高級将校が日本軍の最後の攻撃を主導したという報告があった。この攻撃はバンザイ突撃ではなく、最大の混乱と破壊を生み出すことを目的とした優秀な計画であった。午前515分、200−300人の日本兵が島の西側に沿って北から下り、西部の海岸の近くで海兵隊と陸軍の露営地を攻撃した。混乱した戦いは3時間にも及び、第7戦闘機集団の司令部が大打撃を被ったが、混乱から立ち直って反撃を開始し、第5工兵大隊は急いで戦闘ラインを形成して敵の攻撃を食い止めた。日本軍の部隊は、日本とアメリカの両方の武器で十分に武装しており、40人が軍刀を帯びていたので、高級将校が高い割合を占めることを示していたが、遺体や書類を確認したところ栗林を見つけることはできなかった。

栗林の最期に関する異説としては、大野芳が、第109師団父島派遣司令部の参謀であった堀江芳孝少佐の手記から、栗林が戦闘中にノイローゼとなり、アメリカ軍に降伏しようとして参謀に斬殺されたという説を唱えたことがあった[54]。しかし梯久美子の調査により、堀江が硫黄島で栗林の下で勤務したのは数日に過ぎず、栗林の最期についても伝聞であり、その情報源とされた小元久米治少佐[注釈 7]が否定していたことが判明、戦史叢書の編集者も堀江の手記の栗林の最期の記述については信ぴょう性が薄いと判断し、戦史叢書の記述に採用していない[56]

戦後

死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと参謀長や騎兵旅団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかったが、2005平成17年)に上梓された梯久美子散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』、翌2006(平成18年)に公開されたハリウッド映画硫黄島からの手紙』により、一躍その名が知られるようになった。

秦郁彦は下記のように述べている。

『散るぞ悲しき』(梯久美子著)がベストセラーになり、映画『硫黄島からの手紙』もヒットして、栗林忠道の名は日本中に知れわたりました。「太平洋戦争最高の名将」という地位をほぼ確立したんじゃないですか。秦郁彦[7]

栗林は幼少の頃、一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。

墓所は長野市松代明徳寺に所在するがその遺骨はない[57]。栗林の長兄が継いだ長野市松代の生家では、仏壇に硫黄島の石、および、栗林が陣頭指揮・戦死した326日未明の最後の総攻撃に参加し、生還を果たした陸軍下士官が、復員から間もない1946年(昭和21年)に栗林の妻の義井に送った手紙(最後の総攻撃の様子を詳細に記す)を供えていた[10]

1967(昭和42年)、勲一等に叙せられ旭日大綬章を没後受勲した。

アメリカ軍関係者の評価

栗林と硫黄島で対決したアメリカ海兵隊司令官

戦闘は敗北となったが、僅か22平方キロメートル(東京都北区程度の面積)に過ぎない硫黄島を、海兵隊に加えて、陸上任務に就く陸軍などの将兵を含めると総兵力は111,308人、また海軍などの支援要員を含めた作戦に従事する将兵250,000人と、単純な兵力では5倍から10倍以上[58]、さらに絶対的な制海権制空権を持ち、予備兵力・物量・兵站・装備全てにおいて、圧倒的に優勢であったアメリカ軍を敵に回して、最後まで将兵の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1か月半も硫黄島を防衛した指揮力は、内外で高く評価されている。硫黄島の戦いで栗林に苦しめられた、アメリカ海軍と海兵隊の軍公式報告や司令官級の高級将官からの評価を列挙する。

栗林忠道中将は、アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった。この五十代のサムライは天皇によって指名され、絶賛され、豊富な戦闘経験と革新的な思考と鋼鉄の意志を持ち合わせていた。これはアメリカ軍に対する栗林の唯一の戦闘となったが、栗林はアメリカでの軍務経験から将来の対戦相手について多くを学んでいた。さらに重要なことに、彼はアメリカ軍の硫黄島への侵攻を撃退しようとする以前の日本軍の試みの結果を、瞬きを一つもしない目で評価することができた。英雄的な誇張を排除し、栗林はタラワからテニアンへの日本軍の失敗の特徴であった「水際防御」戦術と「イチかバチかのバンザイ突撃」を評価することはほとんどなかった。現実主義者の栗林は、日本軍の枯渇した艦隊や空軍から多くの援助が期待できないことを知っていた。自分がとれる最高の戦術は、最近のビアクとペリリューの防御戦術のパターンに沿って、縦深防御で硫黄島の地形を最大に活用すべきと結論づけた。栗林は「水際配置・水際撃滅主義」、「バンザイ突撃」の戦術を避け、代わりに、アメリカ軍に士気喪失させ、作戦を放棄させるため、消耗戦、神経戦、長期持久戦を行った。アメリカ海兵隊公式戦史、[59]

栗林は現実主義者であった。栗林は硫黄島の促成滑走路が日本軍の貴重な資産であると認識していた。硫黄島は(マリアナ諸島の)B-29に対する攻撃の拠点となっており、アメリカ軍の戦略の重要拠点として注目されることは確実であった。硫黄島がアメリカの手に落ちればその飛行場は日本に大きな脅威となることも認識していた。栗林には、島全体を爆破するか、死ぬまで戦うかの選択肢しかなかった。栗林は後者を効果的に行うために、かつての島嶼防衛戦で行われた水際撃滅戦術とバンザイ突撃を禁止し、先進的な防衛態勢を構築した。栗林は海軍との間ではいくつかの妥協を行ったが、陸軍においては参謀長を含む18人の上級将校を更迭し、残った将校たちは栗林の方針に従った。栗林は海軍や航空支援を受けられない運命に置かれたのにも関わらず、断固として有能な野戦指揮官であることを証明した。アメリカ海兵隊公式戦史、[60]

硫黄島防衛の総指揮官である卓越した栗林忠道陸軍中将は、硫黄島を太平洋においてもっとも難攻不落な8平方マイルの島要塞にすることに着手した。この目的を達成するためには地形の全幅利用を措いて他に求められないことを彼は熟知していた。歴戦剛強をもって鳴る海兵隊の指揮官たちでさえ、偵察写真に現れた栗林の周到な準備を一見して舌を巻いた。チェスター・ニミッツ[61]

(栗林による)硫黄島の防御配備は、旧式な水際撃滅戦法と、ペリリューの戦いレイテ島の戦いリンガエン湾の戦いで試みられた新しい縦深防御戦術との両方の利点を共有したものとなった。サミュエル・モリソン[62]

特に、硫黄島で陸上戦を指揮し栗林と対決した第56任務部隊司令官ホーランド・スミス海兵中将は自分の著書などで多くの栗林評を残しておりその一部を抜粋する。

栗林の地上配備は私(スミス)が第一次世界大戦中にフランスで見たいかなる配備より遥かに優れていた。また観戦者の話によれば、第二次世界大戦におけるドイツ国防軍の配備をも凌いでいた。ホーランド・スミス、[63]

太平洋で対決した日本軍指揮官のなかで栗林は最も勇猛であった。島嶼指揮官のなかには名目だけの者もあり、敵戦死者の中に名も知られずに消え失せる者もいた。栗林の性格は硫黄島に彼が残した地下防備に深く記録されていた。硫黄島は最初の数日間に組織的抵抗が崩壊することなく、最後まで抗戦を継続したため著名となった。ホーランド・スミス、[64]

栗林の手強さはこういった軍組織や軍司令官だけではなく、末端の海兵隊員までに知れ渡っており、以下のような発言も海兵隊公式報告書に記されている。

ジャップのなかに栗林のような人が他にいないことを願うあるアメリカ海兵隊員、[65]

イギリスの歴史作家で第二次世界大戦での多くの著作があるアントニー・ビーヴァーも栗林を評価している。

硫黄島の守備にあたる陸海軍部隊を統括するのは、栗林忠道中将だった。栗林は優れた教養人で、陰影に富んだ性格をした騎兵将校である。この戦いの帰結について幻想をいっさいもたなかったが、麾下の各陣地を持ち堪えさせるため、周到な準備を整えた。アントニー・ビーヴァー、[66]

訣別の電文

 戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来 麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ 克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊(いささ)カ悦ビトスル所ナリ

  然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ
  尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ
終リニ左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ

  • 国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき[注釈 8]
  • 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
  • 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思う

 

    太字は大本営により添削された箇所

新聞に掲載された電文

戦局遂に最後の関頭に直面せり
 十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち、皇国の必勝と安泰とを祈念しつ、全員壮烈なる総攻撃を敢行す

 敵来攻以来想像に余る物量的優勢を以て陸海空よりする敵の攻撃に対し克く健闘を続けた事は小職の聊か自ら悦びとする所にして部下将兵の勇戦は真に鬼神をも哭かしむるものあり

 然れども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで斃れ為に御期待に反し、この要地を敵手に委ねるのやむなきに至れるは誠に恐懼に堪へず、幾重にも御詫び申し上ぐ
 特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思ひ、たとひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す、今や弾尽き水涸れ戦い残れる者全員いよく最後の敢闘を行はんとするに方り熟々皇恩の忝さを思ひ粉骨砕身亦悔ゆる所にあらず
 茲に将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ永へ御別れ申上ぐ

 終りに左記駄作、御笑覧に供す。

 

  • 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ口惜し
  • 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
  • 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ

 

大本営発表により、新聞に掲載された原文のまま。下線は大本営により、新たに加筆された所

逸話

  • 陸大次席の秀才であり、「太平洋戦争屈指の名将[7]」と讃えられる優れた軍人であったが、同時に良き家庭人でもあり、北米駐在時代や硫黄島着任以降には、まめに家族に手紙を書き送っている。アメリカから書かれたものは、最初の子どもである長男・太郎が幼かったため、栗林直筆のイラストを入れた絵手紙になっている。硫黄島から次女たか子(「たこちゃん」と呼んでいた)に送った手紙では、軍人らしさが薄く一人の父親としての面が強く出た内容になっている。硫黄島着任直後に送った手紙には次のようなものがある。実際の手紙は、防衛省に保管されている。

「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」

  • 妻宛てには、留守宅の心配や生活の注意などが事細かに記され、几帳面で情愛深い人柄が偲ばれる。これらの手紙はのちにまとめられて、アメリカ時代のものは『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(小学館文庫、2002)、硫黄島からのものは『栗林忠道 硫黄島からの手紙』(文藝春秋2006)として刊行されている。なお、留守宅は東京大空襲アメリカ軍による日本本土空襲)で焼失したが、家族は長野県疎開しており難を免れている。
  • 弟の栗林熊尾が兄の後を追って、長野中学から陸軍士官学校へ進学したいと言い出したとき、栗林は陸軍では陸軍幼年学校出身者が優遇され、中学出身者は陸軍大学校を出ても主流にはなれないからと、幼年学校が存在しない海軍兵学校へ行くように薦めている。熊尾は海軍兵学校受験に失敗し、陸軍士官学校に入校したが(第30期)[注釈 9]、卒業後に肺結核で夭折、栗林は弟の死を嘆いた。
  • もともと新聞記者志望ということもあり、文才のある軍人としても知られていた。陸軍省兵務局馬政課長として軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わった際は、歌詞の一節に手を入れたという[7]
  • 時間に厳格であり、近衛師団長時から栗林が硫黄島で戦死するまで副官を務めた藤田正善中尉が、毎朝出勤する栗林を官舎まで自動車で迎えに来たが、それが予定時間から少しでもずれていると「今日は30秒早い」や「今日は30秒遅い」と叱責したという。藤田は門の前に停車してぴたりとした時間に栗林を呼ぶようにしたが、ある時、藤田が栗林にこの意図を確認したところ「勝敗は最後の5分間というのはナポレオン時代の話であり、その何十倍もスピード化した現代では、最後の勝敗を決するのは30秒だ。30秒間に機銃弾が何百人の部下を倒すか計算したことがあるか?」と言われ、藤田は栗林の意図を理解して粛然としたという[67]
  • 部下たちに対してよく口にしたことばが「作戦のために身体をこわして死んだ参謀はひとりもいない」であり、前線で戦う兵士に対して自分たち司令官や参謀は恵まれていると自戒しながら作戦指揮にあたっていた[68]
  • 清潔好きであり、軍務でも家庭でも整理整頓や清掃にはきびしかった。しかし、硫黄島の住環境は清潔さとは程遠く、また大量に生息する「油虫と云うグロテスクの不潔虫」やアリに苦しめられており、たびたび家族に宛てた手紙でそのいとわしさを書いている[69]
  • 車好きであり、アメリカ勤務時にはシボレーセダンを現地で購入したことを手紙で家族に報告している[70]。運転技術も高く、第23軍参謀長時には軍属で裁縫師の貞岡信喜を連れてよくドライブをしていた[71]。貞岡は栗林を慕って「うちの閣下」と呼んでおり、硫黄島にも一緒に行きたいと転属願いまで出したが、栗林は貞岡を叱り飛ばしその申し出を却下している[72]
  • 自由民主党衆議院議員新藤義孝は、栗林の(次女・たか子の子供)に当たる。2015(平成27年)430安倍晋三首相アメリカ合衆国議会合同会議の演説の場で、硫黄島の戦い米海兵隊大尉として参加したローレンス・スノーデン海兵隊中将と握手した[73]
  • 2012年(平成24年)4月、栗林の墓がある長野市松代町豊栄の明徳寺に、長野の市民団体が中心となり、長野中学出身の栗林忠道陸軍大将と今井武夫陸軍少将の顕彰碑が建立された。

年譜

  • 1911年(明治44年)
    • 3 - 長野県立長野中学校卒業(第11期)
  • 1914年(大正3年) - 陸軍士官学校卒業(第26期)、見習士官
    • 12 - 陸軍騎兵少尉任官
  • 1918年(大正7年)
    • 7 - 陸軍騎兵学校乙種学生卒業、陸軍騎兵中尉
  • 1923年(大正12年)
    • 8 - 陸軍騎兵大尉
    • 11 - 陸軍大学校卒業(第35期、次席)恩賜の軍刀を拝受
    • 12 - 騎兵第15連隊中隊長
  • 1925年(大正14年)
    • 5 - 騎兵監部員
  • 1927年(昭和2年)在米大使館駐在武官補佐官。軍事研究のためハーバード大学に学ぶ
  • 1930年(昭和5年)
    • 3 - 陸軍騎兵少佐
    • 4 - 陸軍省軍務局課員
  • 1931年(昭和6年)
  • 1933年(昭和8年)
    • 8 - 陸軍騎兵中佐
    • 12 - 陸軍省軍務局馬政課高級課員
  • 1936年(昭和11年)
    • 8 - 騎兵第7連隊長
  • 1937年(昭和12年)
  • 8 - 陸軍騎兵大佐、陸軍省兵務局馬政課長
  • 1938年(昭和13年) - 軍歌『愛馬進軍歌』、映画『征戦愛馬譜 暁に祈る』及びその主題歌の選定に携わる
  • 1940年(昭和15年)
    • 3 - 陸軍少将、騎兵第2旅団長
    • 12 - 騎兵第1旅団長
  • 1941年(昭和16年)
    • 12 - 23軍参謀長として香港の戦いに従軍
  • 1943年(昭和18年)
    • 6 - 陸軍中将、留守近衛第2師団長
  • 1944年(昭和19年)
    • 4 - 東部軍司令部附
    • 527 - 109師団長に親補される
    • 71 - 小笠原兵団長兼任
  • 1945年(昭和20年)
    • 216硫黄島の戦い開戦
    • 316 - 大本営に訣別電報打電
      • 17 - 戦死と認定される。特旨をもって陸軍大将に親任される
      • 26 - 日本軍守備隊最後の組織的総攻撃を指揮して戦死したとされる

栄典

位階

勲章等

著書

  • 『栗林忠道 硫黄島からの手紙』文藝春秋、20068月、ISBN 4163683704、文春文庫、20098
  • 『「玉砕総指揮官」の絵手紙』吉田津由子編、小学館文庫、20024月、ISBN 4094026762

栗林忠道を演じた人物

注釈

    1. ^ 栗林は1945年(昭和20年)317日付で戦死と認定されたため[2]317日付で陸軍大将に親任され(戦死による)[1]、栗林の後任として立花芳夫中将が323日付で第109師団長に親補され[3]、「秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年」61ページの「第1 主要陸海軍人の履歴-陸軍-栗林忠道」では栗林の出生および死去年月日を「明2477 - 20317」と記載している。一方、栗林の出生および死去年月日を「明治24189177 - 昭和201945326没」と記載している「半藤 2013b, 位置No. 3720/4133, 陸軍大将略歴〔昭和期(昭和十六年から二十年までに親任)」は、【凡例】に「本表は秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』記載の「主要陸海軍人の履歴」を底本とし各種文献・史料を参照のうえ、加除、修正して作成している」と記しており、『半藤 2013b』は半藤一利・横山恵一・秦郁彦原剛4名の共著である。
    2. ^ 栗林は金鵄勲章を受章していない[2]半藤一利は「功一級でもおかしくないのにね」と評している[2]
    3. ^ 栗林忠道の妻である栗林義井は、旧姓も栗林であるが、二人の間に特に血縁関係はない[7]。義井は川中島付近(現・長野市氷鉋[10])の地主の娘[7]
    4. ^ 留守師団とは、内地及び朝鮮を衛戍地とする師団が戦地に動員された際に、動員された師団の衛戍地に、陸軍動員計画令によって設置され、留守・補充業務などを行う師団[14]近衛第2師団スマトラ島方面に動員されていた。師団長親補職であるが[15]、留守師団長は親補職ではない[16]
    5. ^ 1944年(昭和19年)6月に栗林が留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じた後、同年7月には留守近衛第2師団を母体として近衛第3師団が編成されている。
    6. ^ 昭和20317日付で栗林の戦死が認定されたことにより、父島にいた混成第1旅団長の立花芳夫陸軍少将が、323日付で陸軍中将に進級し、栗林の後任として第109師団長に補されている[7]
    7. ^ 小元は栗林の高級副官であったが、アメリカ軍上陸直前にに大本営に出張していたため、硫黄島に帰ることができず戦死を免れた[55]
    8. ^ 新聞発表では、「悲しき」の部分を「口惜し」と改竄の上、発表された。
    9. ^ 長野中学からのもう一人の同期生は今井武夫陸軍少将である。

 

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