梅原龍三郎とルノワール 嶋田華子 2025.3.10.
2025.3.10. 梅原龍三郎とルノワール ~ 増補 ルノワルの追憶
編著者 嶋田華子 東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学研究専攻(文化経営学)修士課程修了。在学中より各種展覧会の企画運営を行う。2006年「没後20年 色彩の画家梅原龍三郎」展(全国4会場)、08年「梅原龍三郎とルノワールー出会いから100年」展(於仏ルノワール美術館)、09年「『白樺』創刊100周年記念白樺派の愛した美術」展(全国4会場)ほかを開催。教材執筆や講演、カルチャースクール講師、ギャラリートークなど多方面で活動中
発行日 2010.10.10. 印刷 10.25. 発行
発行所 中央公論美術出版
はじめに 嶋田華子
梅原龍三郎(1888~1986)は、大正・昭和を通じて近代日本の画壇をリードした洋画家として知られる。京都に生まれ、浅井忠に師事、1908年渡欧後アカデミー・ジュリアンに学ぶ。翌年ルノワール(1841~1919)の知遇を得てその指導を受け、その画風を日本にもたらすことになる。梅原は5年のフランス留学を終えたのち、東洋と西洋の美の融合を目指し、華麗な色彩と剛放な筆捌きで独自の画境を拓く。以下は、初めて梅原の作品を見た時のルノワールの言葉。この師の言葉を胸に、梅原は画業に専心し、生涯ルノワールへの尊敬の念を抱いていた
君は色彩を持つ、デッサンは勉強で補うことの出来るものだが、色彩はタンペラマン(=気質)によるものだ、それのあるのが甚だいい
弟子入りした梅原が、留学先から雑誌『白樺』に寄稿したことによって、日本人はルノワールの人となりを知り、梅原が帰国時に持ち帰った絵画を通じてその作品を生で見る
本書の中心に据えた梅原龍三郎の著作『ルノワルの追憶』は1944年出版。戦時下でも精一杯贅を尽くしている
梅原龍三郎がルノワールに出会い、直接師事してから100年が過ぎた現在、本書を復刻することにより、日本人が愛したルノワールという画家の芸術的生活を知ることが出来、また行間から近代日仏美術交流を読み取ることが出来る。初めてルノワールを訪ねるときに自らを鼓舞するくだりに、梅原の勇気や葛藤を見、今なお共感を覚えることが出来る
私にとって梅原は曽祖父に当たり、以前より梅原の残した手紙や日記などアーカイブズの整理にあたって来た。この調査を通じて、梅原のフランスにおける青春時代を知り、100年前の師弟の絆にしばしば驚かされた
真船豊による伝記(1944)
² ルノワルの追憶 梅原龍三郎
1944年刊。全84頁。図版14枚。原著は1917~39年、雑誌等で発表された梅原の記事が、梅原の弟子筋の久保守により編集された。52年、同タイトルで再版発行(三笠書房)
久保守(1905~92) 札幌生。洋画家。東京美術学校の梅原龍三郎の教室に学び、卒業後渡米。春陽会展出品を経て、国画会を中心に発表。1966~72年東京芸大教授
一、 初めて巴里でルノワル先生の画を見る 『美術新報』 大正6年4月
1907年7月、パリについた翌日、リュクサンブールで初めてルノワルの画を見た。これこそ私が求めていた画であり、セザンヌやドガなど若干の作品以外は無意味なものか不快なものとなった。ルーヴルに見る美術品に興味を感じたのはズーと後のこと
狭いもの好きな好みと嘲笑されながら、私は、一の画が10人の人のためには10の画であることを知った。悲しい。毎朝リュクサンブールに行ってルノワルの絵の前で2,3時間を過ごす
ジュラン・ルエル(デュラン・リュエル)の画廊に嫌がられながらも毎週通い、全ての世間にあるルノワルを見た。此の上は画架の前にパレットを持ったルノワルに直接会ってコンセイ(助言)を得たい、自分の作を一目斯る先生に見てもらえれば如何ばかり得心せんかと思う
1909年2月、1か月を過ごしたマントンを去る。ルノワルはニースの西のカイニュに住んでいるので、会いに行こうか迷う。会っても何を話すのか。私のチミジテ(内気)が頭をもたげるが、願望が勝る。私は彼に見られるに値する。私は彼の芸術を愛する、彼はそれを知らねばならぬ
二、 カイニュに初めて先生を訪ふ 『美術新報』 大正8年2月
カイニュに着いたが、誰も場所を知らない。ようやく郵便夫に教えられ門に辿り着き、「日本からルノワル先生を見に来た」といって中に招じ入れられた。先生がリュウマチザン(リウマチ患者)であることは本で読んで知っていたが、しかし2本の松葉杖に引懸ったぼろ服である事を知らなかった(?)。然しぼろ服は荘厳なる首をのせていた、就中美しく強き眼を持っている
私は如何に深く先生の芸術を愛するか、私の大なる感情を自分の言葉の乏しい事を忘れて最も自然に伝え得た気がした。私は先生の全く花咲いた顔を見て私の訪問が此の尊き老人に少しでも喜びを与えたことを思って非常に嬉しかった。アトリエでは《レオンティーヌとココ》12号の制作中。先生の側に坐して如何なる魔術が私の愛するアルモニ(調和)の世界を産み出すかを見る事が出来た。最も強く豊かな色のアルモニーは最も弱い色の最も強いコントラストによって生まれる事を発見した。「こんな手でこれ位かく人はいない」という夫人に対し、先生は「画を成すものは手でない眼だ、自然をよく御覧なさい」と言った
「君は巴里でどうして勉強しているか」と聞かれて用意していた通り答えると、「本当だ、今日のアカデミックの教育は有害だ。独りで自然を見て多く画くのが一番よい」と言われる
昼近くなったので先生の巴里での番地や其処へ帰る時期を聞いて自分の作品を見てもらう事をお願いしてお暇しようとしたら、食事を一緒にと誘われ、夫人、3男と4人で食卓を囲む。食後は南に海を眺める、ワトーの画を見る様な景色の庭を散歩。私はこんな幸福な時を持つだろうとは此の朝まで決して想像出来なかった
三、 リュ・コーランクール 『美術写真画報』 大正9年2月
パリに戻って最初の仕事は、6月に帰ってくる先生の居場所を訪ね歩くことで、近くに住まい付きの貸しアトリエを見つけてそこに住むことにした。画家などの芸術家が多く住む地区。ムーラン・ド・ラ・ガレット(カフェ)はこの近くに1875,6年頃出来たものとは後に知った
パリの中であることが不思議なくらい、野趣に満ちた、芸術の田舎といったような環境にあって、近くのアカデミランソンでデッサンを画いていた私の画架のまわりに生徒の全てを集めて、私を得意にさせた。モリス・ドニが小さな油画をしていた私を見て、だしぬけに「カイニュにルノワルさんを訪ねた日本人は君だな」と言った。あの訪問が何だか有名なものになっている気がして嬉しかった。ある先生は私のパレットを見て「実に美しい。然し私には、それではとてもかけない。全くペルソネルなものだ」といったが、それは私が、ルノワル先生の通りにしたパレットで、白・黄・赤・青・緑・黒の順序に並べてある
四、 先生の巴里の画室 『美術写真画報』 大正9年2月
予定から数日遅れて先生は巴里に帰った。2日は遠慮して3日目に、客のいなさそうな朝10時に訪問。翁の簡素で温い引接は私を安心させた。習作を黙って見入った先生が、「非常に不思議だ、何処が日本人だろう、全くスペイン人の画だ。君は色彩を持つ、デッサンは勉強で補うことの出来るものだが、色彩はタンペラマン(=気質)によるものだ、それのあるのが甚だいい。何でも手あたり次第に写生せよ、向こうを見て、5分間を失わずかけ、それが一番早い進歩を与える。そして時々美術館に行け、古名家が如何にしてそれ等の豊なる作品を成し得たかをよく見るがいい、それには少し模写を試みるのもよい」。誰の画だと聞いたら直に「リュバンス(ルーベンス)、リュバンスの画には無用なる筆の一点がない」
1つの画の成功に達するまでいくつ同じ画をかいた事か知れないとも言う
同時代の画家に就いて先生がセザンヌとドガの他をほめるのを聞いた事はなかった。昔の人ではチシアンとベラスケスがわけて好きの様であった。マチスの画を見て「余り多くの絵具を置いて余りに他の何物をも置かな過ぎる」、ピカソのキュビズムについては「私を笑殺するものだ、少し前の作品はまだいいものがあった。画というものはもっとサンプルなもの。見たままにかいてもっと美しいものが出来る。タンペラマンがあれば一番結構、恐れずそれに従ってかくがいい」。若い人ではボナル、彫刻家ではマイヨルがお気に入り
先生との話は私を得意にさせて、益々勉強家になった ――大正6年4月稿
五、 シャビル池畔へ翁に伴われて行く 『美術写真画報』 大正9年2月
1911年初夏、重い風邪の療養で行ったモレで描いた絵を見せると、「君は不満足だと言っていたが、そう一朝にして甚だよいものは出来ない。そんなに満足でなければ私が近郊に写生に行くから一緒に来て見ないか、何か君に得る処でもあれば幸だから」と誘われ、2,3日共にする ――大正8年2月稿
六、 私の最後の訪問 『美術写真画報』 大正9年2月
最後の見舞いは1913年6月のカイニュ。先生が巴里に帰る2,3日前で私も日本に立つ時だったが、私の宝物である先生の薔薇の画が用意してあった、「これは甚だ無に近いものだが、今他にないから自分の名刺代わりに持って行きなさい」。画を下さいと言うことは決して私に出来ないことだっただけに如何ばかり嬉しい事であったか。「2年位の内にはまた来られる積りだ」と言うと、「2年はすぐだ、私もまだ生きているだろう。君の為すものを非常に見たい」と言われ、嬉しくもあり苦しくもあった。先生の言葉は私の肝に銘じて絶えず忘れられなかった
其後、私が絶えず何でもいいものを作りたいと思う時、ルノワル先生に見せるということが其目的の一部になっていた。だんだんと先生の肉体の亡びて行くのを見て甚だ淋しかった
(薔薇の画は、1920年の遺族弔問の渡仏費用のため、山下に買い取ってもらう。後年買い戻そうとしたが叶わず、現在の所蔵先は不明)
七、 先生の死 『美術写真画報』 大正9年2月
1918年(死の前年)、ルノワルからの手紙: 君の手紙が私に大なる喜びを成したことを信じてくれ。妻は3年前に死に、息子2人は(戦争で)重く傷つくも、若さと強健な体質のために恢復。私は老いたることを感じ始めた。然し今日迄未だ眼が良い。それは老人には天の恵である。君がフランスに来るなら、私の家で歓迎される。最もよき友情とよき仕事を、君のルノワル
この手紙を受け取って自分は泣けた。厳しい皮肉屋でかなり人に辛(から)い彼から自分の受ける友情に泣けた。そしてなんでももう1度行って会いたく思った
1919年秋、伊豆で写生して帰ってきたところで新聞で先生の死んだことを知って、足元から地が裂けてきたような驚きと悲しみに打たれた。毎日気になりながら13か月も手紙を怠っていたことが忘恩の取り返しのつかないものになったことが残念に堪えなかった。「2年はまだ生きられよう」と言った先生はその3倍も生きたが、私の不幸は遂に再び貴き老人を見る事を得させなかった ――大正9年1月17日
八、 先生亡きカイニュの家を訪う 『改造』 昭和14年12月
翌20年暮れには2度目の渡欧。巴里でサロンドートンのルノワルの回顧展を見てからカイニュの家を訪うた。中の息子で近年映画監督として日本でも名の知られたジャンが、亡父の為にポーズした金髪の美人を細君にしていて、臨終の様子を聞かせてくれた
九、 ジャンの夜会、マチスとルノワルを語る
2月のジャン主催の仮装舞踏会でマチスに紹介され、2,3日後ニースにマチスを訪ねる
自分がルノワルを知ったのは近年で、梅原が早くから彼と識ったのは羨ましいと言い、老来益々仕事のよくなった人は古来稀だろうと言う。セザンヌが長生きしていたら如何と言うと、セザンヌの場合は頭の一部の仕事だから何とも言えないが、ルノワルの場合は全身の仕事で花が自然に咲いた様に出来たのだから、と言った ――昭和14年10月
² その他の寄稿
l ルノワル翁の消息 『白樺』 明治44年10月
巴里より白樺への手紙:
ルノワル先生から、「私の挿画や記事のある『白樺』が送られてきて実に幸福に想うので、よろしく」と伝言かる。此頃ルーブルからレオナルドのジョコンダが紛失して事件となったが、ちょっとやってみたいような犯罪だ(2カ月前に起きた《モナ・リザ》盗難事件のこと。ピカソなどが逮捕されたが後に釈放。保護ガラスを取り付けた大工が2年後に売却しようとして逮捕)
l 福島コレクションのルノワル 『美術』 昭和9年3月
日本に入っているルノワルでは此2作と、大震災で焼失した中沢氏のスペイン風の女が秀逸
2作は彼の最も大成した晩年の作。マチス、ピカソ、ルオーなど、それぞれ美しい。しいて比較して優劣を論じるのは、美術を愛する道ではない。しかし、これ等現存の大家の作品と、この2作の如きルノワルと1列に並べて見ると余りに著しい画格の違いが目障り。今開会中の福島コレクション展に、此2つのルノワルと、セザンヌのこれも頗る優れて美しい水彩の1点、類稀なるコローの人物画の1点とを同時に見せなかったのはこうした親切からである。これら4つの宝玉は、真に我等の理想として進路の目標とすべきもの
マチス、ピカソにも随分感心出来る、然し無条件にではない。尚こうもあれ、ああもあれと望ませるものがある、ルノワル、セザンヌに至っては天衣無縫である
l ルノアール小品展 『美術手帖』 昭和30年3月
求龍堂画廊のルノアール小品展は興味深い催し。ミニアテュールともいわれる小品許り集めた事は一つの奇観。絶えず筆を執っているルノアールは10号位の画布に無数の花や林檎、裸婦を描いている。《水浴裸婦図》(1907年頃)は最も思い出の深いもの。留学から帰朝する山下新太郎(二科会創立者)が熱愛するルノアールの作品が欲しいと言って買って持ち帰ったもので、最も広く愛好されるルノアールの一時代の小さな1代表作。この小品位のルノアールが10点も並べば実に光輝燦とした展覧会だろうが、それは今日の日本では望み得ないもの
l フレンチ・カンカンをみて 『読売新聞』 昭和30年8月24日
ジャンの映画《フレンチ・カンカン》を軽井沢で見せてもらい、大変愉快だった。父親の《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》に匹敵する作品を、ジャンが作ったことを嬉しく思う
ジャンは、万事地味な生活を好んだ父とはむしろ正反対の性格で、世間もドラ息子と見ていた
《フレンチ・カンカン》は、3度目の色彩映画だそうだが、色彩に落ち着きがあって下品な感じが全くないし、ストーリーやその運びにスキのない面白さを味わった。芸術の古典の持つバック・ボーンが通っていて、クラシックとかモダンとかいう事を超越した完璧な芸術を感じた
l 仏伊今昔 『朝日新聞』 昭和31年10月29日
パリの自動車:最初の渡仏の1908年、自動車はまだ珍しく、騎兵だったルノワルは持つとしても馬車だと言っていたが、2,3年の後には自動車を持ってカイニュへ行った。カイニュのコレットと呼ばれる山荘は、来年ぐらい政府の手でルノワル美術館になる由、結構(‘60年開館)
今日のパリの市街は自動車ばかりで人が見えない、その車は機関銃の弾のように飛んでいる
l 絵を贈る喜び 初出:『朝日新聞』 昭和42年3月30日、『天衣無縫』 求龍堂1984年
ルーブルの豊富な所蔵品は、寄贈・遺贈の名作品によるもの。サル・ド・ジュ・ド・ポームの1館にある印象派の作品は、187,80年頃、当時かえりみる人のなかった印象派の理解者カイユボットの遺贈品が中心(1947年開館、1986年オルセーへ移館)
官学派がこの遺贈を容易に受け取らなかったところ、ルノワールが熱心に運動して実現したが、当時の近代美術館はルクサンブール公園の一角にあり、自分が1908年に初めて印象派を見たのもそこで、当時はアカデミー派のボナ(エコール・デ・ボザール学長)、ローランス、コルモン(アカデミスム絵画の大家、ゴッホ、ロートレックなどが師事)などが大室に優遇され、印象派は小室に詰め込まれていた。正しい審査には50年の年月が必要であった(梅原は官制の「文展」に批判的で、美術品は製作1点によってその人の全技倆を測知すべきにあらずとした)
1910年頃、カモンド氏の遺贈によって印象派の数作を初めてルーブルが受け入れ(浮世絵418点も含む)。ルノワールはその収集に自分のものが少ないといって、近作の婦人像を寄贈出来て喜んでいた。当時の画家はルーブルに作品を留めることを至上の理想としていた
ルノワールの死後程なく、今日のサル・ド・ジュ・ド・ポームで最も輝いている2浴女の大作は、ルノワール自身も一生の総決算と考えていたので、ジャンがこれをルーブルに寄贈を願ったが、余りに色が多過ぎると一応拒否。アメリカの某美術館が買い取ろうとしたことで、慌てて贈与を受け付けたという
一昨年はルオー(国葬)の300余点が、昨年はブラック(ルーブルの庭で国葬)の十数点が贈与され、同年にはポール・ギョームとジャン・ワルテルの未亡人から145点以上が寄贈されオランジュリーに展観。パリでは遠からず近代美術の大美術館が建造され、これら全てが常設陳列される予定(1986年開館のオルセーのことで、ジュ・ド・ポームの収蔵品をすべて引き継ぐ)
このように一世の優作は後世に常に広く鑑賞されることである。それが造形美術の徳で、東京でもようやく機運が熟し、来年には石橋氏の好意的献金によって壮大な近代美術館が竣工、私の寄贈する拙作品20数点に、ほぼ19mの壁面の一室が与えられるのは非常に嬉しい
私はわが絵画に費やすところ多く、現わし得たるところあまりに少ない。少しが無でなければ幸いである。50年、100年の後に、少数の友を得れば本懐である
² 書簡・日記資料
² 梅原龍三郎の青春 嶋田華子
梅原の画業におけるルノワールの存在を明らかにしたい。スタートはパリに着いた1908年
一、 美術体験――ルノワールを選ぶまで
梅原は京都の悉皆屋(呉服屋の手配師)の生まれ、光琳模様、宗達模様など図案に関係した仕事を日頃から目にして、絵画に目覚めるのは比較的早く、小さいころから画を描くのが好き。1903年、中3で病気のため休学する間、伊藤快彦の家塾・鐘美会に入り洋画の手ほどきを受け、浅井忠が自宅に開設した聖護院洋画研究所に合体。同年には第2回関西美術会展に墨画を出品、翌年には水彩と鉛筆(デッサン)で入賞。鹿子木孟郎の指導も始まる。1906年関西美術院設立と共に移り、フランスでローランスに師事した鹿子木から裸体デッサンを学び、翌年には油絵と墨画で入賞。一時父親に反対され絵画から離れるが、07年には読売新聞が関西美術会展の紹介記事を掲載、代表作品4点に浅井忠等と共に選ばれる
1908年、徴兵検査を済ませ、関西美術院の友人田中喜作(1885~1945)と共に渡仏。田中はすでに美術批評で名を成し、海外事情にも精通。兄は『美術新報』の主筆。梅原はほとんど体系的な美術史の知識は持たず、印象派の絵画に関しては、住友吉左衛門のコレクションでモネやシスレーを見ていた程度。モネの絵はサロンに応募していた時代のアカデミックな作品
梅原は、渡航の船中で喜作から美術書を見せられ、初めてルノワールを知った
パリ到着後の梅原は、多くの日本人留学生同様、先ずアカデミー・ジュリアンに入学、マルセル・バッハらの指導を受けるが、同時に他の画塾にも足を運ぶ。美術館や画廊巡りも日課
パンテオンの壁画には圧倒され衝撃を受ける
交友関係については、関西美術院時代の友人安井曾太郎や津田青楓に加え、東京美術学校の高村光太郎や山下新太郎、有島壬生馬等と共に行動。高村は梅原にロダンへの目を開かせ、帰国の際はアトリエを譲り受けるが、ルノワールがマイヨールを高く評価していたこともあって、ロダンへの関心は冷める。写真への関心も高まり、芸術作品としての写真の価値と先進性を認めている。ルノワールに出会う前に、アカデミックな絵画の中心的な存在に関心を寄せ、ロダンや写真など、新しい時代の芸術に積極的に触れているのは興味深い
二、 ルノワールへの目覚め
印象派には渡仏時から関心を持ち、画集も購入しているが、「色どりの悪きに大いに辟易し」と、必ずしも好意的ではない。リュクサンブールで初めて作品を目にし、デュラン・リュエルの画廊で沢山の印象派の絵を見て、マネやコロー、モネに関心を示す。9月に有島からルノワールの画1枚もらい、自分でも複製画を購入。「JulianでRenoirを掘り出した」とあり、スケッチが日記に残されている。作品を購入しようとしたが、値段が上がり始めたころで、とても手が出なかった。梅原の関心は高まっていったが、友人たちに賞賛を語っても嘲笑に遭った
三、 ルノワールとの出会いと学び
1909年、梅原は避寒のため有島に誘われてマントンで制作。モナコを間に30㎞西にルノワールのいるカーニュがあり、モンテカルロのカジノで会いに行くかどうか逡巡
初めてのアトリエ見学で、薄く絵具を重ねていくルノワールの描き方に注目、白の混じった不透明で明るい色彩を並置して、戸外の煌めく色彩の再現を狙った印象派の技巧ではなく、下地(グリザイユ)の上に透明色を重ねていく、所謂透明図法で描いていた
次男ジャンの回想にも梅原は登場し、家族ぐるみで親しく交際した様子が窺える。長男の俳優ピエールとの親交を通じて、フランスの演劇界にも接近、その後の演劇への興味を強める
京都では、梅原の感動が喜作を通じて、ほとんど時差なく伝わる。梅原は、「ルノワールはイノサン、実に無邪気。僕はセザンヌにもモネにも成れるが、ルノワールだけは想像もつかない。ルノワールが画かきと云はばローランスは盛ん嘉大工の様」と喜作に書き送っている。「伝統は有害であり、それは50年前に既にモネやルノワールが明らかに悟っている」とも伝える
パリに戻った梅原は、ルノワールのアドバイスに従って、アカデミー・ランソンに通い、ルノワールから梅原のことを聞いていたドニに声を掛けられる
6月にはパリに戻ったルノワールに初めて自身の作品を見せ、①写生をせよ、対象をよく見て5分以内に描け、②時々美術館へ行け、ルーベンスの模写がいい、とのアドバイスを受ける
制作が思うように進まないことを相談すると、人物ではなく風景を描いてみたらと言われ、ブルターニュでの制作はルノワール風の筆致もこなれて、完成度が高く、ルノワールから「実に美しい色のガンム(色調)だ。いい勉強が出来た」と褒められる。この頃和田三造とも交流
1910年7月、山下と有島をルノワールのアトリエに案内。この時山下が500フランで購入した《水浴の女》は日本に初めて到来したルノワールの作品
欧州各地で制作するのは1910年以降。大きな旅行は3回。①1910年夏のロンドン、②1911年夏のスペイン、③1912年秋のイタリア。渡欧作品110点中、35点が制作旅行の成果
ルノワールが1881年のイタリア旅行でラファエロの壁画に触発されて新境地を開拓したことも梅原の意識の中にあっただろう。ナポリを気に入って1カ月滞在し、再度21年にも1カ月滞在。「この都市位キリスト教の鬱陶しさと抹香くささのない都市は他にない。ルネサンス芸術がしなびて見える。ポンペイの壁画、セザンヌ、ルノアルは皆ゲイ(快活)なり。彼等より得る感覚は若く厚肉の女を抱きしめる如し。ポンペイの如き美術品と自然との区別を知らず」と回想、梅原の目指す美の世界を、ポンペイの壁画や美術品に見出している。後にこの壁画を愛蔵
イタリア旅行の後は制作が進むようになり、1913年に豊かな肉体の裸婦像を残している。ルノワールが上塗りの効果を発揮するために、キャンバスに鉛白で下塗りを施したのを真似てキャンバスを自製、このような下地の研究も共に制作したからこそ知り得たことだろう
四、 ルノワールとの別れ
1913年、父親との約束もあって帰朝。当時梅原はバルザック著『知られざる傑作』に傾倒、老画家が究極の傑作を書いたつもりが、他人の目には色彩の塊にしか見えず、芸術の無限と人間の限界との衝突の重りに堪えかねた老画家は絵を焼き捨てて死ぬ話。セザンヌはこの老画家は自分だと言い、梅原もこの老画家の話に絵画修業の果てにある狂気を見出し、画家として今後の身の処し方について思いを巡らせたのだろう。帰途シベリア鉄道中に梅原は演劇への転身の決意を固め、演劇に関する本も持ち帰っていたが、日本に帰って見ると人は総て画家として迎え、抜き差しならなくなっていて、折角の決心も翻さざるを得なかった
ルノワールの昔の作品はセザンヌに負けていると評した後、時代の流れと共にセザンヌも演劇もその後の梅原に大きな影響を与え、帰国はルノワールとの別れを意味していた
ルノワールとの交流は帰国後も続き、書簡の往復が残されている。梅原が夫人に贈った着物は、ルノワールの遺品のオークション目録にも掲載されている
五、 再びルノワールへ
帰国した当時、日本では印象派やルノワールへの理解は十分ではなく、評価も様々。帰国した年に東京画壇へのデビューを果たすが、賛否両論。長與善郎や山本鼎は否定的、中川一政は肯定的。最初の個展こそ1点しか売れなかったが、2回目の二科展では在野の画家としては高額の400円がつき、ごく早い段階から絵を描いて生活できる数少ない画家だった
このデビューをきっかけに『白樺』同人の武者小路や志賀直哉、柳宗悦らと親しく交流
ルノワールは、豊饒な色彩の世界へと梅原を導いたという点において、梅原の画業に決定的な役割を果たした。更に梅原がルノワールから学んだこととして、額縁への配慮がある。ルノワールは自らを、装飾的・感覚的で長閑な18世紀フランス絵画の流れを汲む画家と語っており、作品はしばしば18世紀初頭に作られた中古の額縁に収められ、くすんだ金メッキや豪華な木彫りの装飾は、その作品と調和した。梅原も、ルノワールの作品を収めた額を理想とした
帰国後の梅原は、次第にルノワールの影響下から離れ、独自の様式を模索。様々な美を渉猟した後、1930年代には梅原様式と呼ばれる、洋の東西を問わない画材や技法を用いた日本的油絵を完成、豊饒な色彩の豪快な画風を打ち立てる
1978年、梅原はルノワールの遺した3点の《パリスの審判》の一つに再会して模写、ほぼ原寸大の50号で、90歳の梅原にはきつい作業だったが、梅原は初期の渡欧時代から、晩年になってルノワールに更に強さ、新鮮さ、自由さが加わったことを評価しており、自身も老いたからこそ、模写を通じてその体力精神力の逞しさを改めて実感しただろう。梅原自身も生涯の最晩年まで創作活動を続けており、死ぬまで絵筆を握り続けたルノワールの人生は大いに手本となったと言える
梅原は生涯に渡り、ルノワールを敬愛し、その制作態度、作品、日常生活の全てに学んだ。最初の渡欧時代に数々の美術体験の中から、その作品の持つ生命力に惹かれて師事するに至った。その後も自身の画風を確立していく中で、ルノワールに学んだ写実の態度、絵具の扱い、額縁の選定などが立ちあらわれる。そしてルノワールの老いを共感できる年齢に達した時、再び《パリスの審判》を目前にして、改めてその旺盛な制作意欲を実感した。両者の出会いから70年近い時を経たこの自由模写には、ルノワールからの学びの全てと、梅原自身が確立した画風が凝縮されている
梅原の画業におけるルノワールの位置付けは、他の何よりも高みに置かれた存在なのである
² 附録
l チェンニーノ・チェンニーニ著『リーヴル・ド・ラール』(邦題『芸術の書』)
再版序文として ルノワルよりアンリ・モテーに送れる書簡
梅原龍三郎訳 (1915.5.)
(フィレンツェの工房内で代々伝えられてきたジョット以来の絵画技法とその心構えを、ジョットの孫弟子が記した技法書。1400年頃に書かれた)
l 跋 昭和19年4月 久保守
梅原氏が第1回の渡仏中親しく教えを受けられたルノワルについての追想文は、嘗て断片的に新聞雑誌に発表されて吾国に於けるルノワル研究に重要な示唆を与えてきたが、其等貴重な文献の散逸を惧れる甲鳥書林の企画に従い、今『ルノワルの追憶』と銘して一本に収録し得た事は、編者の喜びとする処
大正6年から昭和14年に至る間に書かれたもの。温かい師弟の交誼の記録
優れた画家によって観察された優れた画家の「人と芸術」と言う点に最も多くの啓示を含む
梅原氏自身の自己形成の跡をまざまざと辿り得るものでもあることに気づく。初期の文章に覗える若き梅原氏は熱情的な神経質なそして内気などちらかといえば線の細い青年であるに反して、後期のものになるに従って其処に表れる氏は次第におおらかな、ゆったりとした風格を備え著しく線の太さを増大し別人の如く変貌している
巻末のチェンニノ・チェンニ著美術の書に対するルノワルの序文の翻訳は、氏が旧稿にあきたらず今回新しく書き直されたもの
挿入の原色図版はすべて現物の日本にあるものから直接撮影製版した、完全とはいえないが紙質印刷など戦時下の条件としては出来るだけ吟味した、大体に於て原画の趣を伝え得た
貴重な蔵品を提供したのは細川護立侯(梅原の画壇デビューを『白樺』同人に主催)、福原信三氏(資生堂創業者、梅原の作品を積極的に発表)、山下新太郎氏、藤山愛一郎氏(チャーチル会で親しい)、西村総左衛門氏(友禅染色業)、鈴木三郎助氏(味の素の3代目)、池田文治氏(?)
あとがきにかえて ~ ルノワールと梅原龍三郎の足跡を求めて 嶋田華子
2006年、曽祖父と同じ道をたどってカーニュにコレット荘を訪ねる。現在はカーニュ市立美術館として公開
ルノワール美術館の学芸員から、旧梅原コレクションのルノワール作品や、ルノワールの影響下に梅原が制作した作品を使った展覧会の提案があり、2008年ルノワールがカーニュにアトリエを構えて100周年に市のイベントとして「ルノワールと親しい友人たち」という企画の中で、「ルノワールと梅原 その友情」という特集展示をすることになり、さらに日仏交流150周年記念事業の公式イベントに認定され、読売新聞の後援で、石橋財団、国際交流基金などの助成を受け実現。開幕には初訪問となる両親を伴って参加、出展の準備をして、梅原コーナーの解説を仏語でする。好評で1カ月延長され3カ月余りで15,000人を集める。本展は、翌年上原美術館(大正製薬、下田)で「梅原龍三郎とルノワールー出会いから100年」展として開催
梅原龍三郎・演劇への情熱
嶋田華子 SHIMADA
Hanako(東京大学大学院人文社会系研究科)
梅原龍三郎(1888-1986)は大正・昭和の洋画家として知られている。筆者は梅原龍三郎の日記・書簡・蔵書・装丁原画・弔辞や推薦文の草稿・備忘録・デッサン帳等のアーカイブスの整理を通じ、従来知られてきた画家としての梅原とは違う側面を見出した。具体的には、芝居、ファッション、美食、骨董蒐集、民藝、建築、相撲、漢籍、ピアノ等への関心が挙げられる。いずれも梅原にとって趣味の範囲を出ないと思われるが、例えば1908-1913年の留学時代の滞欧日記から写真への興味が、自邸の図面などから建築への並ならぬ関心をうかがい知ることができる。上記の趣味のなかでも、梅原の華やかな画風を支える最も大きな要素は芝居だろう。アーカイブスには演劇のパンフレット、新聞の切り抜き、詳細な日記が含まれており、その関心の強さを物語っている。梅原自身も初期のフランス留学から帰国する際には、画家から演劇へ転身する決意を固めており、5年間かけて学んだ成果として滞欧作110点の他に、演劇に関する本も持ち帰っていたほどである。今回の発表では、梅原の演劇への関心を育んだ幼少期の京都の壬生狂言、フランス留学時代に親しんだフランス古典演劇、梅原も関与したフランスで上演された日本劇を紹介し、帰国後の絵画制作において演劇がもたらしたものは何かを検証したい。まずその生い立ちや友人の語る梅原の人物像を取り上げる。生まれ育った京都では、祇園祭や都踊りなど多々ある年中行事のなかでも、特に壬生狂言への関心が強かった。芝居に傾倒し、役者のやつし姿のような身繕いをし、語り口、身振り、仕草まで劇的であったという。芝居を愛し、その表現様式に魅了されていた様子が伝わってくる。フランス留学中は、京都日出新聞に梅原は絵画修行と同じぐらい熱心に演劇を観て歩いていると報道されている。滞欧日記からも、梅原が連日のように市中の芝居小屋やダンスホールから国立劇場まで、大小様々な施設に足を運んでいたことが知れる。共に制作に励んでいた高村光太郎がニューヨークでオペラ研究をし、パリに移ってからも観劇を続けていることからも、両者が連れ立って観劇したこともあっただろう。また1909年の冬頃から翌年春頃にかけて、梅原は、師ルノワールと同じリューマチに悩むようになる。利き手である左手関節を患ったことから、絵筆が持てない日々が続く。おそらく絵筆が持てない時は観劇が心の慰めになったのではないだろうか。この他、雑誌『白樺』への寄稿からは、当時の名優ムネ・シュリーとの交際や、古典劇『エディップロア』の翻訳に取り組んでいること、フランスで上演された日本劇に関与したことが知れる。なかでもオデオン座で上演された『日本の誉』に関しては相当に熱を入れていたようである。梅原は音楽、舞台装置、照明、衣裳などが渾然一体となった舞台芸術から、劇的効果を学んだといって良いだろう。これらの体験は梅原個人に留まらず、『白樺』を通じて日本にもたらされ、同時代の若者に手の届くところにフランスないし欧州の芸術界があるのだという意識を持たせただろう。永井荷風や高村光太郎らは、熱心に欧米の演劇事情を学び、著作も残しているが、梅原は俳優との交際やアドバイス等、さらに一歩踏み込んだ行動を取っている。その影響例として、木村荘八が西洋からいくつか小冊子や複製図版を入手したことを紹介する。最後に演劇体験は梅原の絵画制作に何をもたらしたかを検証したい。第一に、梅原の作品に共通して見受けられることひとつに、必ず画中の人物や静物の背景に緞帳を思わせる鮮やかな布を張りめぐらせるなどして、装飾的な空間を作り出すことが挙げられる。これは同時期に留学し、しばしば並び称される安井曾太郎には見られない。演劇への関心が装飾への関心の要素となったといえる。第二に赤の多用が挙げられる。梅原の赤は「ルノワールの赤」「フランスのサロンの壁の赤」「幼少期に親しんだ京都の茶屋一力の壁のべんがら色」「ポンペイの壁画の赤」など様々な赤をヒントにしている。これに演劇の舞台を彩る「緞帳の赤」を加えることができるだろう。第三に1930-40年代の梅原の「北京時代」に、京劇に関心を寄せ、しばしばモチーフとしたことのベースとなったことが指摘できる。以上、梅原の演劇への関心がどのように生まれ、強められ、影響を残したかを検証し、梅原の絵画制作活動において演劇が不可欠であったことを示した。今回の発表は、梅原の伝記研究を出発点としているため、今後は緞帳を絵画中の背景に用いることについての梅原自身の言及、舞台装置ないし書割に類似した空間構成についての分析を課題としたい。
ギャラリー「梅原龍三郎 浅間山と共に過ごす夏 展」開催記念『嶋田華子×永井龍之介』特別対談のご案内
2018.7.27
軽井沢千住博美術館ギャラリーでは、7月20日から始まった「梅原龍三郎 浅間山と共に過ごす夏 展」(7月20日~9月3日)の開催を記念して、来る8月4日(土)の14:00より、梅原画伯の曾孫で美術史家の嶋田華子氏と、TV番組「開運! なんでも鑑定団」の鑑定士としておなじみの永井龍之介氏による特別対談を行います。対談テーマは「梅原龍三郎と軽井沢」。生前、毎年夏から秋にかけて軽井沢の別荘アトリエで過ごしていた梅原画伯の横顔や、そこで生まれた名作の見どころなど、親族だからこそ知り得る貴重なエピソードも交えながら、人間・梅原龍三郎の魅力について語っていただきます。観覧はご自由ですので、ご興味のある方はぜひともお越しください。
◆開催日時 2018年8月4日(土) 14:00~15:00
◆会 場 軽井沢千住博美術館ギャラリー(「梅原龍三郎 浅間山と共に過ごす夏 展」会場)
◆ 出 演 者 嶋田華子(梅原龍三郎曾孫)/永井龍之介(永井画廊代表)
◆ テ ー マ 「梅原龍三郎と軽井沢」
嶋田華子(しまだ はなこ)
梅原龍三郎曾孫、本展学術協力者
東京大学大学院修士課程修了(文化経営学専攻)
国内外の美術館にて展覧会の企画運営、雑誌・新聞の記事執筆をはじめ、NHK出演(新日曜美術館、迷宮美術館)ほか、各地でギャラリー・トーク等を開催。
◆主な展覧会企画
2008年:「梅原龍三郎とルノワール 出会いから100年」展
(ルノワール美術館、フランス カーニュ=シュル=メール)
2009年:「『白樺』誕生100年 白樺派の愛した美術」展
(神奈川県立近代美術館葉山ほか全国4会場)
2015年:「梅原龍三郎 霧島・桜島に遊ぶ」展
(鹿児島市立美術館)
◆近著
『梅原龍三郎とルノワール 増補ルノワルの追憶』(2010年10月刊行、中央公論美術出版)
雑誌『花美術館』ルノワール特集号(2014年12月刊行)監修
「梅原龍三郎とルノワール」書評 巨匠の全存在を肉体に刻む幸運
評者: 横尾忠則
/ 朝⽇新聞掲載:2011年01月09日
梅原龍三郎とルノワール著者:梅原 龍三郎出版社:中央公論美術出版ジャンル:芸術・アート
ISBN: 9784805506479
発売⽇:
サイズ: 20cm/202p 図版16p
梅原龍三郎とルノワール [編著]嶋田華子
雲の上の巨匠といえども、当たって砕ければ意外と会ってくれるものなんだ。ぼくの場合のダリのように。梅原龍三郎はそうして自らの手でルノワールの門戸を開いたのである。
パリのリュクサンブール美術館でルノワールの実作を目にした20歳の梅原は、翌年カーニュ・シュール・メールの老ルノワールを訪ねた。この時の梅原の会見記を読んで小林秀雄は「全く文学臭の希薄な文」と評したが、その無垢(むく)な心が如何(いか)に高揚し、至福を得たかという気持ちはじんわりと小林の胸にしみるように伝わったに違いない。
この日以来、梅原はルノワールを師と仰ぎ、自らのキャンバスに師の芸術を移植すべく換骨奪胎を図るのである。このような幸運は人生の中でもめったに起こるものではない。それは彼の意志によるものか運命の作用によるものか、彼の後の人生が解答を出すことになる。
梅原はルノワールの誘いで写生旅行に同行し、巨匠の制作の現場に立ち会う。画家にとっては夢のような話である。キャンバスの上を走る筆の動きを目撃することは、ルノワールの如何なる箴言(しんげん)よりも尊い。この瞬間に梅原はルノワールの全存在を彼の肉体の肉の一片にまで刻みつけたことであろう。
5年間のパリ留学を終え、帰国した梅原が断腸の想(おも)いで迎えるのは師の死であった。すでに梅原はルノワールの影響下から脱却を図っていた時期で、内なるルノワール様式は滅却されていた。帰国した当時の梅原にはまだルノワールとの親和性が断ち切れていなかったが、その後の変容は東洋美術の導入やフォービズム、その他の様式を駆使しながら梅原独自の世界観を構築していく。
本書の装丁にはルノワールの「パリスの審判」とそれを引用した梅原の同題の作品がジャクスタポジション(並置)されているが、この梅原のコケティッシュな手法はマチスと棟方志功を合体させたような無邪気な、梅原の演劇趣味を匂(にお)わせるオペレッタ風の作品に仕上がっている。これを見るルノワールがどんな顔をするか見たいものだ。
評・横尾忠則(美術家)
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中央公論美術出版・1995円/しまだ・はなこ 梅原龍三郎の曽孫。資料整理や展覧会企画などを行う。
1936年生まれ。60年代からグラフィックデザイナーとして活躍、80年に画家に転向。画集に「赤の魔笛」「人工庭園」、著書に「インドへ」「名画感応術」など。2009年より書評委員。
Wikipedia
梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年〈明治21年〉3月9日[1] - 1986年〈昭和61年〉1月16日[1])は、日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ[1]。はじめ龍三郎、1914年(大正3年)までは梅原 良三郎(うめはら りょうざぶろう)と名乗り、再び龍三郎と名乗った[1]。
ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。
来歴
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京都府京都市下京区生まれ[1]。生家は染物問屋だった(悉皆屋、呉服物の問屋から集まる白生地の図案、染色、刺繍等をそれぞれの仕事の行き先に分配し、出来上がったものを得意先に届ける仕事)。京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を中退し[1]、伊藤快彦の画塾・鍾美会で学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所(現・関西美術院)に入った[1]。同時期に安井曾太郎も学んでいた[1]。
1908年(明治41年)、後に美術史家となる田中喜作と共にフランスに留学[1]。翌年、帰国する高村光太郎のアトリエを引き継いでパリに滞在し、アカデミー・ジュリアンに通い[1]、1909年(明治42年)からはルノワールに師事した[1]。1910年(明治43年)知人の有島生馬を通して「ルノワールやパリの芸術について」を雑誌『白樺』に寄稿している。
1913年(大正2年)に帰国すると、白樺社の主催により東京神田で個展「梅原良三郎油絵展覧会」を開催[1]。この時、白樺社同人の武者小路実篤・志賀直哉・柳宗悦らの知遇を得た。翌1914年(大正3年)には二科会の設立に関わる[1]。同年、洋画家・亀岡崇の妹・艶子と結婚。二人の間には翌年長女・紅良が、その3年後には長男・成四が生まれた。1917年(大正6年)二科会を退会[1]。1920年(大正9年)には前年に死去したルノワールを弔問する名目で再び渡仏している[1]。 1921年(大正10年)に帰国してからは鎌倉市に住み、長与善郎や岸田劉生と親しくなる[1]。1922年(大正11年)に春陽会の設立に参加するも、1925年(大正14年)に脱会[1]。1926年(大正15年)には土田麦僊の招きで国画創作協会に合流し、国画創作協会洋画部(通称「第二部」)を設置した[1]。1928年(昭和3年)同会の第1部(日本画)の解散にともない、国画会を結成して主宰となる[1]。1930年代には木版と合羽版(彩色版)の複合版からなる裸婦図を石原求龍堂から刊行した。この時の彫り摺りを平塚運一が担当したかといわれる。
1935年(昭和10年)には帝国美術院(現・日本芸術院)の改革に伴い会員となる[1][2]。1944年(昭和19年)帝室技芸員[1][3]および東京美術学校(現:東京芸術大学)教授に就任[1]。
1952年(昭和27年)に日本が主権を回復し海外渡航が再びできるようになると、梅原は安井曽太郎とともに東京美術学校教授を辞任して渡欧[1]、ヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務めた[1]。同年文化勲章受章[1]。翌1953年(昭和28年)に長野県軽井沢町にアトリエを設けた。1957年(昭和32年)には日本芸術院会員を辞し[1]、以後は渡欧を繰り返して自由な立場から制作に励んだ。この頃、少年時代からの良きライバルだった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め、「昭和洋画界の双壁」「安井・梅原時代」と謳われた[1]。1973年(昭和48年)フランス芸術文化勲章コマンドール章受章[1][4]。
1986年(昭和61年)満97歳で死去。晩年に使用した吉田五十八設計の東京都市ヶ谷のアトリエは、山梨県北杜市の清春芸術村に移築されて一般に公開されている。墓所は多磨霊園。
主な作品
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- 「横臥裸婦」(1908年、愛知県美術館蔵)
- 「立裸婦」(1915年、佐倉市立美術館蔵)
- 「雲中天壇」(1939年、京都国立近代美術館蔵)
- 「紫禁城」(1940年、大原美術館蔵)
- 「北京秋天」(1942年、東京国立近代美術館蔵)
- 「霧島(栄ノ尾)」(1938年、西宮市大谷記念美術館蔵)
- 「姉妹併座図」(1942年、堀美術館蔵)
- 「座裸婦」(1930年、木版・合羽摺 石原求龍堂版、小野忠重版画館所蔵)
- 「脱衣婦」(1930年、木版・合羽摺 石原求龍堂版、小野忠重版画館所蔵)
- 「裸婦水仙」(1931年、木版・合羽摺 石原求龍堂版、小野忠重版画館所蔵)
著書
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- 梅原龍三郎『ルノワルの追憶』 養徳社、1944年
- 梅原竜三郎『ベニスとパリ』 求竜堂出版部、1954年
画集
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- 『梅原竜三郎画集』 アトリエ社、1926年
- 『梅原竜三郎画集
1926年至1930年作品』 番町書房、1931年
- 『梅原竜三郎画集』 春鳥会、1933年
- 『梅原竜三郎小品版画集 第1至4』 加藤潤二、1937–39年
- 『梅原竜三郎近作画集』 石原求竜堂、1940年
- 『梅原竜三郎北京作品集』 石原求竜堂、1944年
- 日本現代画家選『梅原竜三郎 第1–3』 美術出版社、1953-54年
- 『梅原竜三郎仏伊近作画集』 朝日新聞社、1957年
- 『梅原竜三郎 第1–3部』 求竜堂、1958–73年
- 『梅原竜三郎 自選画集』 読売新聞社、1960年
- 『梅原竜三郎
1964–1965 Cannes, Paris, Versailles』 求竜堂、1965年
- 『梅原竜三郎』 三彩社、1970年
- 座右宝刊行会編『現代日本美術全集
12 梅原龍三郎』 集英社、1971年
- 『日本の名画
46 梅原龍三郎』 講談社、1973年
- 『梅原竜三郎の字』 求竜堂、1974年
- 『日本の名画
18 梅原龍三郎』 中央公論社、1977年
- 『天衣無縫』 求竜堂、1984年
- 『梅原龍三郎版画集』 エディトリアルさあかす、1987年
- 『梅原竜三郎 生誕百年記念』 集英社、1988年
- 岡村辰雄『「書簡集」梅原竜三郎先生の追憶』 岡村多聞堂、1995年
- 『梅原龍三郎』 新潮社、1998年、のち新潮日本美術文庫
その他
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ドキュメンタリー
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