外交証言録 湾岸戦争・普天間問題・イラク戦争  折田正樹  2025.2.21.

 2025.2.21.  外交証言録 湾岸戦争・普天間問題・イラク戦争

 

著者 折田正樹

折田正樹 19427月東京都生まれ。19613月東京都立日比谷高校卒業。19649月国家公務員上級試験合格、外務公務員採用上級試験合格。19653月東京大学法学部卒業。19654月外務省入省、外務省研修所入所。7月在連合王国大使館外交官補、在外上級研修員。196510月英国オックスフォード大学留学(セント・キャサリンズ・コレッジ)。19677月在連合王国大使館三等書記官。19697月アジア局南東アジア第二課。19758月在ソヴィエト連邦大使館一等書記官。19778OECD日本政府代表部一等書記官。19797月大蔵省主計局事務官。19817月条約局条約課長。19847月在アメリカ合衆国大使館参事官。19873月大臣官房在外公館課長。19896月内閣総理大臣秘書官。19923月在香港総領事。19948月条約局長。19958月北米局長。19977月在デンマーク王国特命全権大使。20016月査察担当特命全権大使。2001年在連合王国特命全権大使。200411月退官。20053月外務省参与、国連改革担当大使(欧州担当)20054()国際情勢研究会会長(2012)20074月中央大法教授。20124()世界政経調査会国際情勢研究所所長

勲章

199110   オランダ王国オラニエ・ナッソウ勲章指揮官章

19986月    デンマーク王国ダンネブロー勲章大リーザー章

 

編者

服部龍二 中央大学総合政策学部教授。神戸大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(政治学)。著書に『日中歴史認識―「田中上奏文」をめぐる相剋1927-2010』(東京大学出版会、2010年)、『日中国交正常化―田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年、第11回大佛次郎論壇賞、第23回アジア・太平洋賞特別賞受賞)など

 

白鳥潤一郎 慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程在籍、日本学術振興会特別研究員。論文に「エネルギー安全保障政策の胎動―石油市場の構造変動と「対外石油政策」の形成、1967-1973」(『国際安全保障』第38巻第4号、2011年、2011年度国際安全保障学会最優秀新人論文賞)など

 

発行日           2013.2.26. 第1刷発行

発行所           岩波書店

 

 

25-01 名言・失言の近現代史』に言及あり

 

 

表紙カバー袖裏

宇野・海部内閣で総理大臣秘書官として湾岸戦争時に官邸外交を支え、防衛計画の大綱や普天間返還交渉、ガイドラインの見直し、イラク戦争といったポスト冷戦期の安全保障政策に条約局長・北米局長として深く関わった元駐英大使・折田正樹。資源外交、国連改革などに幅広く取り組み、天安門事件や東欧革命をもフォローした彼のキャリアをたどるオーラル・ヒストリーは、外交交渉を考察する際に複眼的な視座を与えてくれる貴重な資料である。

 

 

はしがき         折田正樹

2012年、中央大退官に当たり、外交官生活の総括をすべくオーラルヒストリーの申し出に応じる。東日本大震災発生直後のことであって、日本の将来をどのように構築していけば良いのかという視点が重要だとも考えてのこと

外交官生活を振り返ってみて強く感じるのは、日本そして日本人は国際社会における自分の立ち位置をきちんと把握して、それに相応しい国際的役割を果たすことを考えなければならないということ。大きく動いている世界の中で日本をさらに良い国にする努力をするとともに、国際的な役割を果たすとの観点は決して失ってはならない

すべての勤務地に同行し、厳しい状況でも明るく支えてくれた妻昌子に感謝

 

序章 外務省入省まで

l  東京大空襲

両親は薩摩(現日置市)出身。父は海軍から海上自衛隊の海将

東京大空襲を覚えている

l  薩摩のゆかり

秀吉が朝鮮から陶工を連れて来て住まわせた薩摩焼発祥の地

l  日比谷高校

同じクラスから5人の外交官――川島、法眼、野上、藤田直。他に浅見真

l  東京大学

21世紀会を創設

l  オックスフォード大学への留学

1965年外務省入省。同期には加藤良三、、朝海和夫、畠中篤、登誠一郎など

入省後すぐにセント・キャサリンズ・コレッジに2年間ポスト・グラジュエート・コースに留学

 

第1章     東南アジア・石油危機・日ソ関係―在英大使館、アジア局、条約局、在ソ大使館

l  在英大使館のプロトコール(儀典)

1967年、在英大使館三等書記官。法眼から引き継ぎ、大使の秘書官役

l  3次中東戦争

1967年、ポンド切り上げ(1008円→864)。スエズ以東からの撤退の議論

l  プラハの春など

1968年、プラハの春とソ連軍の侵攻。ソ連の拒否権の前に国連も動けず

ベトナム戦争については、イギリスは医療部隊の派遣のみで、戦闘部隊の派遣は見送り

l  フィリピン

1969年、東南アジア2課に配属、フィリピンを担当。マルコスの2期目で、航空協定締結

l  通訳

首相の晩餐会では、スピーチの原案作りと通訳が地域課の仕事。原稿を用意してもアドリブがあると冷や汗

l  日本と東南アジア

当時はまだ戦前の日本に対するしこりが残っていた。1967ASEANが発足するが、国ごとに異なる事情を抱え団結力は希薄。円借款などを通じ、日本に頼る姿勢が芽生え始める

l  沖縄と中国

1971年、沖縄返還協定のための特別国会対策として条約局に異動

西山事件では、起案文書の決裁欄を見て外務審議官まで上がって来たものが漏洩したと判明

沖縄返還実現に続いて日中国交正常化が動き出す

l  条約の作成過程

l  日韓大陸棚協定

一番大変だったのが大陸棚協定交渉。北部の境界画定協定と南部の共同開発協定の2本立てにして1974年署名されたが、国会承認は3年後

l  イラクとの経済技術協力協定

1973年、第4次中東戦争。石油確保のため、中東寄りの声明を出し非友好国リストから除外

新たな石油調達先としてイラクが候補に挙がり、同年、イラク経済技術協力協定署名。総額10億ドルの借款で、日本企業のイラク進出のきっかけとなる

l  石油危機と外務省

石油の供給を受けるための枠組み作りが条約局の仕事

サウジとも経済技術協力の枠組みを作る

l  日ソ漁業操業協定

領海3海里の外は公海。そこでの漁業規制につき、1975年から交渉開始

l  大平3原則

1973年、日米原子力協定改定を機に、国際条約締結にかかる国会承認の原則を作成し、翌年、首相が政府統一見解として国会で答弁し、国会と行政の間の仕切りが確立

第1原則      法律事項を含む国際約束

第2原則      財政事項を含む国際約束

第3原則      政治的に重要な国際約束のうち、発行のために批准が要件とされているもの

l  在ソ大使館から見た日ソ関係

1975年、モスクワ赴任。「ミスター・ノー」として有名なグロムイコがいて日ソ関係が悪くなる時期。76年には亡命のソ連中尉が函館に強行着陸。中尉を本人の希望通りアメリカに亡命させ、ミグ戦闘機は解体後返還。翌年にはいきなり200海里を宣言、100日交渉に入る

l  ソ連共産主義体制

社会経済は非効率が罷り通っていたが、背後にある伝統的なロシアの歴史、文化には感銘

l  盗聴

行動は監視され、盗聴された

l  モスクワ外交団とロシア人の戦争観

当時のイギリス大使館の一等書記官は後のMI6のトップ。中国とも親密な付合い

 

第2章     1980年代の日米関係―OECD、大蔵省主計局、条約課長、在米大使館参事官

l  OECD

1977年、パリ赴任。各省庁からの出向者と協業。担当は総務書記官で、理事会と執行委員会担当。大使は平原毅

オイルショック後の世界のマクロ経済をどうするかの議論が活発。日米独が牽引する「機関車論」を打ち出すが、3国もそれぞれに国内問題を抱えており、「護送船団方式」に落ち着く

l  大蔵省主計局科学技術・文化係主査

1979年帰国、2年間大蔵省へ出向し、予算の査定担当。高速増殖原型炉もんじゅ建設、科学技術振興費の創設、初台の新国立劇場構想のスタートなど手掛ける

l  ライシャワー発言

条約課長に戻る直前、ライシャワー元駐日大使が、「核搭載船の通過寄港は核持ち込みに該当せず、事前協議の対象外」と発言し、両国の解釈の相違が顕在化したが、現在も曖昧のまま

l  対米武器技術供与

武器輸出3原則議論。供与禁止対象以外の国への輸出も慎むとなっていたが、アメリカ側から武器の共同開発を持ち掛けられ、1983年の中曽根首相訪米の際、アメリカを原則から外す

l  条約課の役割

国際法の解釈は法規課の担当だが、安保関係は、解釈・事前協議の扱いを含め条約課の担当

l  ワシントンへ

1984年、ワシントンで政務班長に。日米間の防衛問題が中心。大使は大河原から松永へ

1985年、ダンフォース決議案が上院で可決、日本の不公正貿易慣行の是正が求められる

l  レーガン・ゴルバチョフ会談

1985年のジュネーブ会談に同行。会談の模様を東京に奉告。核戦争に勝利はないとの合意

l  在米大使館の活動

1985年のレーガン・中曽根会談の後は、プレス・リマークスの形式をとる。それぞれが発言内容を述べるもので、合意とは無関係。発表の形式はその都度決めている

 

第3章     天安門事件―宇野首相秘書官

l  在外公館課長

1987年帰国。在外公館にかかわる経費についての予算要求を担当

l  中近東アフリカ局参事官

1989年、中近東アフリカ局参事官着任。早々にアフリカ諸国視察。日本への期待感の大きさを痛感したが、3カ月で首相秘書官となる

l  天安門事件

1989年、宇野内閣成立。首相秘書官に。直後に天安門事件勃発

l  アルシュ・サミット

1989年、パリで開催。共同宣言での「中国の孤立化回避への協力」は日本の主張が認められたもの

l  宇野首相と外務省

宇野の在任期間は69日、サミットの発言が残る。選挙でも応援の依頼は少なかった

l  秘書官留任

宇野は選挙で大敗して退陣、後継の海部内閣でも秘書官留任

l  秘書官の1

 

第4章     冷戦の崩壊―海部首相秘書官(1

l  ブッシュとの首脳会談

海部総理は、初の昭和生まれで年齢も近く、政治家らしくない、一般の人という感じ

まず日米関係の確認のため訪米。最初の会談でブッシュと意気投合

l  日米構造協議

アルシュ・サミットの際の日米首脳合意を海部総理が引き継ぎ、1年以内の結論を目指す

l  パームスプリングスでの日米首脳会談

19902月総選挙を大勝して、すぐブッシュからお祝いの電話が入り、その場で翌月の日米首脳会談が決まる。日米貿易不均衡の是正のほか、ソ連や中国関係の話が多かった

l  マルタ会談前後

前年末の米ソ会談で、ブッシュはソ連が新思考外交を掲げるのであればヨーロッパだけでなくアジアにも考えるべきだとして、北方領土問題の解決の必要性を持ち出そうと言っていたが、荒天で会談が切り上げられたために持ち出す機会を失ったという

l  サッチャー来日

19899月、海部総理は国際民主同盟IDUという保守政党の国際組織の党首会談で来日したサッチャーとも面談、翌年のヒューストン・サミットの下地を作る

l  ヨーロッパ歴訪

19901月、海部総理はヨーロッパを歴訪。「志ある外交」を掲げ、日本として経済力に見合った役割を果たすことを目指し、竹下内閣の「国際協力構想」を引き継ぐ

帰国直後にエリツィンが来訪。ゴルバチョフとの関係が微妙だったが、短時間面談

l  ヒューストン・サミットとカンボジア和平

19907月、冷戦終結を受け、20世紀最後の10年は自由民主主義の世の中になることを確認。直前の6月にはカンボジア和平に関する東京会議開催。ブッシュも日本の努力を評価

 

第5章     湾岸戦争―海部首相秘書官(2

l  湾岸危機

19908月、イラクのクウェート侵攻開始。サミットでは全く話題に上らず

l  ブッシュからの電話

ブッシュの呼び掛けで、協調行動と経済制裁発動。ゴルバチョフも協力を申し出

日本は支援を小出しにしたため、アメリカの議員から“too little, too late”と揶揄

l  国連平和協力法案

国内法の未整備を露呈、すぐに国際平和協力法を検討、自衛隊員の資格を協力隊員に変更、総理の指揮下に置いて国連軍に派遣することを想定したが、憲法が壁となって廃案に

シュワルナゼ外相が訪日した機会を捉え、日ソ外相間で湾岸情勢に関する日ソ共同宣言を発出、地域紛争への集団的な努力を約束する画期的な声明となる

l  首相官邸と外務省

平和協力法の原案は外務省作成。後のPKO協力法は官邸に事務局を置いて進める

l  中東訪問

19909月、国連首脳会議でイラク問題を議論した後中東へ

l  イラク人質解放

クウェートの在留邦人261人が人質。安全確保と出国に向け交渉。フセインと面識のあった中曽根が代表して出向き、一部解放。1か月後、外国人全員釈放となる

l  湾岸戦争の勃発

199011月の国連決議に基づき、翌年1月開戦へ

l  追加支援

橋本蔵相が米財務長官との協議結果を踏まえ90億ドルの追加支援を提案、財源は増税で補正予算を組む

l  地上戦

224日地上戦開始、27日クウェート完全解放で戦闘停止

l  掃海艇の派遣

戦争が終わった後、90億ドル支出。さらに掃海艇の派遣が決まる

 

第6章     対ソ外交とアジア外交―海部首相秘書官(3)、在香港総領事

l  拡大均衡路線

19914月、ゴルバチョフ書記長来日。北方領土問題の進展を直談判しようと期待

米ソ関係の進展で、日本も対ソ外交を政経不可分から拡大均衡路線に転換したが、結局はいいとこ取りされる結果に

l  エリツィン、シュワルナゼの来日

ゴルバチョフの来日までに2人が来て、北方領土問題が不回避の懸案事項だとの認識で一致

l  海部・ゴルバチョフ会談前後

ソ連の国家元首の来日は初めて。共同声明では、平和条約の準備完了が第一義的に重要とし、初めて4島が明記された。7月のサミットにはゴルバチョフが招待され、「北方領土問題の解決を含む日ソ関係の完全な正常化が、アジアでの国際協力の新しい精神が現れることに大きく寄与する」との一文が議長声明に入る

l  ソ連の崩壊

19918月、ゴルバチョフが解任されたが3日天下で終わる

エリツィンから親書が来て、北方領土問題解決への意欲を示していた

l  日韓関係

19905月、盧泰愚大統領来日。天皇は、昭和天皇の言葉を引き合いに出し遺憾の意を表わし、率直なお詫びを表明、大統領も過去の問題に区切りをつけ新しい関係の構築に向けてスタートしたいと応じ、「歴史的な認識の核心は解決された」と表明

911月、海部総理訪韓、両国間の歴史認識の一致を再確認。ソ連が韓国の国連加盟を支持すると発表、日本も南北同時加盟を支持すると伝え、同年9160番目の国として加盟承認

l  訪中

19918月、海部総理の訪中に同行。天安門事件後、西側首脳として初の訪中。直前のロンドン・サミットでは、事件後の中国の態度に関心が集まったが、日本は中国を孤立化させてはいけないと強調、サミット後に他の国に先駆けて新規円借款を再開。江沢民は、日中を一衣帯水と捉え、総理は香港も同時に取り上げ、中国の改革開放政策の鼎の軽重を問われると強調

l  海部内閣を振り返って

内政面では、派閥の長でもなく捻じれ国会で苦労したが、支持率は退任時でも50%を超えた

l  返還へ向かう香港

19923月、香港総領事に。日本のバブル崩壊をよそに、右肩上がりで成長、特に深圳は急激に発展。1984年中英共同宣言、1990年香港基本法成立により、9712制度の下での返還が決まっていたが、具体的なことは未定であり、事前に民主化を進めようとする英国に対し、中国側が反発して、93年には交渉決裂

l  香港の発展

基本法には資本主義体制維持が明記されており、返還後も発展を続けた

 

第7章     防衛計画の大綱と沖縄米軍―条約局長、北米局長(1

l  条約局

19948.95.7.条約局長。総合外交政策局が出来た直後で、省内のとりまとめ的な仕事は新局に移り、本来の条約関連の仕事に戻る。国際社会に復帰するための枠組み作りが一段落した結果で、現在は国際法局に改称。国連の常任理事会入りに関し、常任理事国になると軍事参謀委員会に入るが、国連軍の作戦指導の責任を負うのは憲法上許されるのかとの質問に、国連憲章上の「戦略的指導」とは、大局的な方向付けであって、具体的な兵力に対する指揮とは異なると答弁

l  防衛計画の大綱

1995.7.96.7.北米局長。9511月、村山内閣で防衛計画大綱が20年ぶりに改定され、米軍の存在の重要性を再確認

l  日米経済摩擦

米国経済の悪化を背景に、クリントン政権の最重要課題は経済問題。最大のネックが自動車と自動車部品で、橋本通産相とカンターがやり合っていた

l  ジョセフ・ナイとの議論

19952、国防次官補として通称「ナイ・イニシアティヴ」と呼ばれる「東アジア戦略報告(EASR)」を作成。日米同盟がアジアにおけるアメリカの安全保障の要だとした。北朝鮮の核開発疑惑が浮上した直後でもあり、台湾海峡の緊張も高まっていた

l  沖縄米兵少女暴行事件

19959月、暴行事件に沖縄の堪忍袋の緒が切れる。地位協定の運用改善の合意文書作成、起訴前であっても日本側の引き渡し要請に対し好意的に配慮することで合意

l  SACO(沖縄に関する特別行動委員会)の発足

199511月、SACO発足。秋山昌廣防衛局長、ナイ国防次官補らと共同議長。官軍合同で、基地問題の解決策を検討、1年以内に結論を出すことに

 

第8章     普天間返還合意への道―北米局長(2

l  橋本訪米

19961月、橋本内閣誕生。日米関係改善を期して、すぐに池田行彦外相が訪米、折田も随行。2月には総理訪米実現。クリントンとの会談では、沖縄問題解決が焦眉の急であり、普天間の返還が問題になっていたが、具体的な名前を日本側から出すのは控える積りで会談へ

l  サンタモニカ会談

日米関係が重要だという認識で一致。クリントンから沖縄問題解決の話に水が向けられ、総理から思わず普天間の名が出る。会談終了時に、事務方で総理の返還への強い決意を先方に申し伝え、普天間返還が一気に実現に向かって動き出す

l  普天間返還合意

19964月、総理がモンデール駐日大使と会談、57年以内の普天間返還実施を発表

極秘裏に進めたが、直前に日経がスクープし、繰り上げ発表に。急遽代替基地案の検討開始

l  クリントン来日と日米安保共同宣言

19964月、クリントン来日、日米安保共同宣言発表。1978年作成のガイドライン(日米防衛協力のための指針)の見直しを取り上げ、朝鮮半島有事への備えとして、米軍10万の維持を盛り込み、アジア太平洋地域での安定的な繁栄の基礎であり続けることを目指す

同時に「コモン・アジェンダ(共通課題)」にも合意、保健と人間開発、テロ対策、環境問題、科学技術のようなグローバルな問題について日米間での協力を謳う

l  ガイドラインの見直し

19976月、ガイドライン見直しの中間発表。周辺事態は地理的な概念を超えたものとする

l  代替基地の模索

嘉手納統合案、キャンプ・シュワブ案、洋上浮体施設案を検討

l  SACOの最終報告

199612月、SACO最終報告合意。沖縄東海岸の海上基地建設、普天間以外の6施設の全面返還などを含む。現在の辺野古のキャンプ・シュワブ沖の案も含む。その後民主党政権になってひっくり返る。基地問題は、むしろ沖縄振興策を含めた国内問題

 

第9章     天皇訪欧とデンマーク―駐デンマーク大使(兼駐リトアニア大使)

l  天皇訪欧

1997年、デンマーク大使。1998年天皇皇后両陛下訪英の帰途、デンマークを訪問

天皇は皇太子時代の19532週間ほど滞在。第2次大戦当時のレジスタンスグループの墓参も、イギリスでの反日感情吐露事件の後でもあり、懸念されたが決行し好意的に迎えられる

l  皇室外交の意義

皇室外交は、日本に対する親近感、好意的な感情を一般の人々にまで広げる効果がある

フレデリックボー城に200人余りを招いて両陛下主催の晩餐会

l  デンマークの印象

EUのメンバーだが、ユーロには参加していない

フラット社会

l  リトアニアの杉原千畝記念館

親日的な国。日露戦前にロシアに併合され、リトアニア語の使用も禁止されたが、敗戦によりリトアニア語の使用が認められるようになった

2000年、旧首都カウナスに杉原記念館開館

 

第10章 イラク戦争と歴史和解-駐英大使

l  9.11

2001912日、駐英大使拝命

日本ではテロ対策特別措置法制定。1990年廃案となった国連平和協力法案が下敷き

l  イラク戦争へ

国連での議論の結果、査察が行われたが、イラクによる大量破壊兵器の完全破壊の証拠は得られず。日本は、イギリスとともに、引き続き国連を前面に立てた対応を働きかけ

20033月、アメリカが国連の決議なしでの行動に移り、日本はすぐに支持を表明

l  小泉外交への評価

実際の戦闘は早期に集結、その後は国連の多国籍軍が駐留。自衛隊も派遣

大量破壊兵器はなかったが、あの時点でアメリカを支持したのは正しい判断

自衛隊派遣も英断

奥参事官(後に大使)が、イラクの戦後復興支援策の調査中に射殺されたのは痛恨の極み

l  ジャパン2001祭・愛知万博

ジャパン2001祭は、2001年に始まった日本文化を紹介する一連のプログラム。日本の実行委員長は熊谷直彦三井物産会長。前任から引き継ぎ、英国各地で2000の企画を展開

英国は、イラク戦争傘下の瀬戸際の中で、愛知万博(2005)への参加を断ってきたが、民間ベースならということで働きかけを行ってめどをつけたが、最終的には参加

l  歴史和解

村山談話以降、歴史和解を進める中で、香港の時も反日的な動きに対応

日本人は他国の意識について理解が浅すぎるのを実感。過去の事実を知り、心に傷を受けた人々がいることを踏まえて将来のことを考えないといけない

l  反日グループとの対話

1998年、大衆紙『サン』に橋本総理が謝罪メッセージを投稿。天皇訪英を意識したもの

反日運動の中心人物に直接会って、2002年には日本にも招待、和解を実現

l  コベントリーの広島・長崎展

カンタベリー近辺には戦争被害者が結構いるが、大聖堂で和解の行事を行う。大聖堂の隣にあるドイツの空爆で破壊された旧大聖堂を記念に保存するコベントリーでは、2003年に広島・長崎展を開催、和解に貢献

l  英国についての印象

在勤中の日英関係は良好。アフガニスタンやイラク戦争での日本の立場をよく理解し好意的

地政学的に日英は近似的な立場にあり、英国に対する配慮をもっとしなければならない

同じ議会制民主主義でも、首相の在任期間は長く、支持率が下がってもやるべきことは貫かれている。外交でもプラグマティックで、物事に対し非常にフレキシブルに対応

 

第11章 常任理事国入りを目指して―国連改革担当大使

l  G4決議案

2005年、国連改革担当大使6人のうちの1人になり(外務省退官後、外務省参与として就任)、ヨーロッパを担当。インド・ドイツ・ブラジルと共にG4決議案への支持を各国に求める

イラク戦争で国連が機能しなかったことへの反省から、安保理改革(増員)が中心

l  各国の反応

各国の思惑が交錯して結局はまとまらず、G4決議案は取り下げ

l  中国の反発

中国は国連改革に慎重論。特に日本については歴史問題ではっきりした認識を持たねばならないと主張。小泉総理の靖国参拝も影響した

l  分裂したヨーロッパ

ドイツの常任理事国入りにはイタリア・スペインが反対

l  国連改革の未来

国際的な問題を解決し、平和で安定的な国際秩序を形成していくためにも日本は積極的な役割を果たしていくべきであり、今後も改革を主張し続けることが必要

 

第12章 外交官生活40

日本の経済発展は、国際社会の中で成し遂げられたということを日本人は銘記しなければならない。国際社会あっての日本であり、相互依存関係にあることを認識する必要がある

国際社会の中で、大きさに応じた役割を果たす。日本のかつての経験は、新興国にとっても重要で、新秩序のルール作りに積極的に参画していくべき

 

 

あとがき         服部龍二・白鳥潤一郎

本書は、服部が折田にオーラルヒストリーを申し入れ、2011.5.2012.7.7回に及ぶ聞き取りの成果。語られた内容は、大別して3つの時代に区分できる

1に、冷戦下の日本外交。第1次石油危機に際して中東に出張し、エネルギー政策、資源外交の一翼を担うほか、条約課長や在米大使館参事官として活躍

2に、冷戦終結期に当たる宇野・海部両内閣の秘書官時代。天安門事件や湾岸戦争に対応

3に、冷戦後。経済摩擦後の日米関係の修復、沖縄関連の特別行動委員会の共同議長、橋本首相の訪米に随行、普天間返還交渉を支える

外務省側からの本格的証言としては最初のもの

とりわけ印象的だったのは、湾岸戦争に際しての海部首相とブッシュ大統領との電話会談が克明に思い起こされたことと、橋本・クリントン会談での普天間返還の経緯

 

 

 

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外交証言録 湾岸戦争・普天間問題・イラク戦争

ポスト冷戦期の官邸外交と安全保障政策の変容に関する貴重な証言となるオーラル・ヒストリー.

この書籍はオンデマンド出版です。ご注文を頂いてからの製作となるため、お届けまで24週間程かかります。ご了承ください。

この本の内容

宇野・海部内閣で総理大臣秘書官を務め,橋本内閣の普天間返還合意など,ポスト冷戦期の安全保障政策に深くかかわった元駐英大使・折田正樹.そのオーラル・ヒストリーは,外交交渉を考察する際に必須となる複眼的な視座を与えてくれる.

 

 

 

 

 

 

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