透谷の妻 江刺昭子 2025.3.22.
2025.3.22. 透谷の妻 石阪美那子の生涯
著者 江刺昭子
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江刺 昭子(えさし あきこ、1942年2月18日 - )は、日本の女性史研究者[1]。女性に関する評伝の執筆で複数の賞を受賞している。
岡山県に生まれ、広島県(呉市、広島市)で育つ。旧姓大川。高校の文芸部の企画で郷里の作家大田洋子を知り、大学在学中にその大田宅に下宿している時に大田の急死に遭遇する。1964年早稲田大学教育学部国語国文科卒業。卒論は田村俊子の研究。
文化出版局「ミセス」編集部に7年間勤めた後、1971年よりフリーランスライターに。
1972年、原爆に被爆した大田洋子の評伝『草饐(くさずえ)』で第12回田村俊子賞を受賞。2004年、第10回横浜文学賞受賞[2]。2010年、第59回神奈川文化賞受賞[3]。
1981年から2014年まで日本エディター・スクールの講師を務め、基本文章コースとジャーナリズム文章コースを担当していた。
単著
- 『草饐』濤書房、1971 のち大月書店
- 『覚めよ女たち 赤瀾会の人びと』大月書店、1980
- 『女のくせに 草分けの女性新聞記者たち』文化出版局、1985 のちインパクト出版会
- 『逗子は燃えた、そして 池子住民訴訟ノート』インパクト出版会、1990
- 『女の一生を書く 評伝の方法と視点』日本エディタースクール出版部、1994
- 『透谷の妻 石阪美那子の生涯』日本エディタースクール出版部、1995
- 『中央区女性史
- いくつもの橋を渡って 通史』中央区女性史編さん委員会編、ドメス出版、2007
- 『樺美智子 聖少女伝説』文藝春秋、2010
- 『「ミセス」の時代
- おしゃれと(教養〉と今井田勲』現代書館、2014
発行日 1995.1.20. 第1刷発行
発行所 日本エディタースクール出版部
朝日連載『夫を亡くして』の関連
序章 1枚の写真
第1章
民権家の家
第2章
自由を張る女
第3章
キリスト教との出会い
第4章
北村透谷との恋愛
第5章
結婚の幻滅
第6章
留学生・美那子
第7章
教育者・美那子
第8章
晩年の生活
序章 1枚の写真
石阪姉弟と友人の男性3人が一緒に写った写真。美那子の面上には、ますらおぶりとでも形容したいような、昂然たる気配が漂う。ときは1882年頃。自由民権運動盛んなりし頃で、神奈川はその激震地。父昌孝は最高指導者として、民権壮士たちを総べる位置にいた。野津田の石阪家には壮士の溜り場。美那子は、東京の和漢塾日尾塾の生徒。女書生然としている。女書生は特権階級と同時に異端。当時の女書生たちも男言葉を操った
当時「民権の花」とうたわれた湘煙こと岸田俊子(第3代神奈川県令の妻)。平民で最初の宮中女官に取り立てられたが持して、民権運動に没入。それに応えようとしたのが美那子
1994年は、透谷の自死後100年。近代文学の地平を切り開いた透谷の難解きわまる文章は脇において、惨憺たる結婚生活(藤村の評)の伴侶・美那子に視線を移す
民権運動に挫折し生きる方向を見失っていた透谷を蘇らせキリスト教へ導いたのも、透谷言うところの「想世界」にはばたく男を俗流の「実世界」に引きずりおろしたのも、透谷が中途でおりた人生をその3倍もの長さで豊かに膨らみあるものとして生き抜いたのも美那子
第1章
民権家の家
l 多摩の豪農、石阪昌孝という人
町田市野津田の”民権の森”に大小の石碑、大きい方は「自由民権の碑―透谷美那子の出会いの地」とあり、小さい方は色川大吉の揮毫で、碑の由来が記されている。1985年建立
昌孝は、豪農から異例の出世を遂げ、莫大な財産を政治運動と子供たちの教育に使い果たし、現在は墓所だけが残る文字通り「井戸塀政治家」。多摩地方の政治家として、民のために奔走した大きな人として名を残す
l 美那子の育った家
昌孝は1841年の生まれ。分家に養子入りし義妹やまと結婚
l 教育が人を作る
16歳で養父の死により家督を継いだ時は、野津田村惣高822石のうち127石、27町歩の財産家。一等地ばかりで、純粋の地主、大半を小作に。維新とともに地域指導者として、村の文明開化に積極的に取り組む。1873年には第8大区長に任命、56か村を管轄
文明開化の施策は農民には不評で、1年足らずで辞任するが、県令は県直属の役人に任命
明治政府が最初の公教育の場として「郷(ごう)学校」の設立を謳った時は、村に成人対象の「小野郷学校」という巡回学校を設立。後の自由民権運動の強固な地盤となる
l 女子にも義務教育
1872年学制頒布。「幼童の子弟は男女の別なく小学に従事せしめ」とあり、男女平等というより、子どもを育てる母親を賢い人にすることが大事だと言っている
第8大区では32校新設、就学率も図抜けて高かった
l 東京へ遊学する
華麗な経歴の出発点が1877年の日尾塾、満11歳の時
明治初年の東京区部には297の寺子屋があり、うち52が女師匠によって営まれている
寺子屋より少し専門的なことを教えるのが私塾で、江戸には115あり、うち3つが女塾主
日尾塾は、日尾荊山が仲御徒町に創設、死後妻の直子が継承。男女2つの塾、漢学が主
l 厳しい塾の明け暮れ
満15歳で和漢学習字の助教に
女であっても男に頼らない生き方を示した日尾直子の影響を強く受け、'82年養女に迎えられるが、翌年には解消して、’84年には塾を去って英学に方向転換。妹登志子も入塾
l 昌孝と公歴(まさつぐ)
1883年、昌孝は板垣の自由党に入って幹部となるが、翌年弾圧で解党
公歴は、幼時から儒学の素養を身につけ、13歳で東京の漢学塾に入り、民権運動に没頭。学習グループを組織、そこに北村透谷も加わる
l 婚約者・平野友輔
平野は、昌孝の政治運動の同志。美那子の8歳上。東大医科の別科卒、八王子に病院開業
美那子は自分の知らないままに決められた結婚相手に不満だったのかもしれない
第2章
自由を張る女
l 共立女学校進学を巡る謎
共立女学校への進学は、その後の人生を大きく変える転機となる。キリスト教に出会い、一生通じての信仰となり、北村透谷の思想にも影響を与える
1885年、許嫁を退けての進学には謎が多い。入学した年も在学年数も不詳。石阪家は、昌孝の政治運動と子供たちの学資で、土地も過半を売却し借金漬けに
l 英学を目指して
横浜共立女学校はキリスト教主義の学校だが、美那子は英語を勉強するためだけに通ったと書いていて、キリスト教に感化されるのは大分後のこと。らしゃめんの子どもたちの救済から始まり、1872年日本婦女英学校となり日本初の女子寄宿学校。現在も存続
l 共立女学校の学生生活
和漢学は免除され、英学に専念
l 女学生の手紙
昌孝の同志の娘が美那子と同時期学んでおり、生活の様子を手紙に残している
l 卒業式の演説
『毎日新聞』に1887年の和漢学卒業式の記事が掲載されており、美那子は「自由を張るに女子も亦責任あり」との題で演説したとある。卒業後は英文科に進学、'89年卒とされるが、前年には結婚しており、結婚後は通っていない。さらに、'89~’91年には女子学院で普通科に在籍。向学心の旺盛さ、知識欲には目を瞠らせるものあり
l 妹・登志子
姉に劣らぬ強い向学心を持つ。日尾塾から東洋英和、東京音楽学校ヴァイオリン専修部を経て、音楽教師。1900年東京専門学校出の教師と結婚
l 爆弾を預かる
'84年、朝鮮での甲申事件を機に、国内での排外熱が煽られ、対外的な侵略主義を是としたのが民権派のアキレス腱となり、翌年の朝鮮革命事件では、国外での緊張を利用して藩閥政治を窮地に追い込もうとする計画に旧自由党員が多く参加、一斉検挙で昌孝も拘引されたが不起訴。処分に困った爆弾をミナが共立女学校の寄宿舎で預かった
第3章
キリスト教との出会い
l 横浜海岸教会で受洗
明治時代に社会活動した女たちには、ミッションスクール出身のキリスト者が多い
神の前にすべての人は平等というキリストの教えが、人道思想となり、人間解放の思想となって新時代の女たちに受け入れられた
美那子も共立女学校に入ってキリスト教に出会ったことで、西欧近代思想に触れ、人間的に開眼し、その後の生を支える強固な精神的支柱となった
1886年受洗。場所は、1859年設立の日本最古のプロテスタントの教会
l ピアソンの情熱
女性宣教師で共立女学校の創設者がオルガニストのピアソン。'71年来日。初代校長
l 美那子の信教
1901年、在米中に彼女自身がキリスト教への改宗について書いている
地域や家族から解放された「個」としての自分を発見したことが、透谷との対等な、恋愛関係を育む精神的土壌となった
l 透谷の信教
美那子と北村の間に恋愛感情が燃え上がるのは’87年夏で、絵美那子がキリスト教に受洗・入信してから9カ月後。美那子の熱心な信仰の影響を受けて、透谷もキリスト教を信ずるに至り、'88年受洗・入会。同年数寄屋橋教会の司式で挙式
l 数寄屋橋教会
アメリカのミッションに拠らない日本独立長老教会として創設された銀座教会が京橋教会と改称、'85年に数寄屋橋見付に小会堂を建て数寄屋橋教会と称する。初代牧師がアメリカ帰りの田村直臣。学生が多勢詰めかけ日の出の勢いで盛大になった。田村は女性論にも一家言を持ち、巖本善治主宰の『女学雑誌』にも家庭における男女平等論を寄稿
l バイブル・ウーマン(伝道者)として
1894年、透谷自殺。数カ月後、美那子は2人が転会していた麻布教会の宣教師ペンロード婦人の日本語教師となる。透谷は臨終の間際に、美那子が一生を同胞の間にキリストの福音を広めるように教会に依頼し、美那子は以後4年半にわたる伝道者の生活に入る
1899年、ペンロードとともにアメリカのユニオン・クリスチャン・カレッジに留学
l 女性宣教師の影響
クリスチャンとしての美那子に最も大きな影響を与えたのはピアソンとペンロード
アメリカ人によるプロテスタント・キリスト教の海外伝道は、19世紀初頭から始まり、世紀転換期に全盛期を迎えるが、もともと女性宣教師の割合は50%超。1889年当時、外国人(圧倒的にアメリカ人)宣教師が527人、うち既婚男性166人、独身男性34人、独身女性171人、残りが既婚女性で、女が2/3近くを占めるが、その地位は男に従属的なもので、按手礼(あんしゅれい、牧師の資格)が女性に認められるのは第2次大戦後
それもあって、女権運動に参加した大正デモクラシーの女たちにクリスチャンは少ない
第4章
北村透谷との恋愛
l 恋愛のマニフェスト
「恋愛は人世の秘鑰(ひやく、秘密の鍵)なり」で始まる評論『厭世詩家と女性』は、近代的恋愛のマニフェストとして、今日も高い評価を受ける透谷の代表作。透谷のいう「恋愛」とはプラトニック・ラブの昇揚であり、恋愛を経験することによって社会の1分子としての自覚が生まれ、社会における自分の地位もよく分かるとし、現実世界での戦いから自我を防衛するための拠点となるのが恋愛だとした。藤村も木下尚江もこれに衝撃を受ける
l 2人の出会い
透谷は1868年小田原藩士の子として誕生。父は昌平黌に学び大蔵省に出仕。透谷も12歳で上京、数寄屋橋近くに住むことになったのが、「スキヤ=透谷」の名の由来
家族との折り合いが悪く、特に母ユキに対しては、「圧制者」として愛憎半ばする気持ちを隠さない。母の束縛から逃れるべく、小学校卒業前後から旅に慰めを求める
学校を転々とし、東京専門学校の政治科にも在籍、政治運動に奔走、自由民権運動を通じて石阪昌孝を知る。美那子の弟公歴とは同年で、肝胆相照らす仲。1885年朝鮮革命計画に誘われるが拒否して盟友たちと訣別、それが後々落伍者の悲哀に突き落とされることに
美那子との出会いは、盟友と訣別して煩悩の只中にあった頃。詳しい文学の知識に美那子が惹かれた
l 恋愛の主体となる
2年後の1887年、石阪家の東京の別邸で再会した2人は、美那子主導の恋愛に陥る
美那子について最初に書いた『夢中の詩人』(1887)では、自分を卑下しつつ美那子を讃美
身分や教育、家計、現状、何を見ても不釣り合いの2人に、透谷は何度も身を引こうとするが、美那子もまた自ら男を愛する恋愛主体として行動。与謝野晶子が家の壁を破って鉄幹の下に走るのは14年後、平塚らいてうが年下の画学生と同棲するのはさらに13年後
l 周囲の反対をおして
美那子の両親は猛反対。昌孝は自由民権運動弾圧の対象となって拘引
1888年、美那子は勘当同然で家を出て透谷と結婚。共立女学校でも悪評が立つ
第5章
結婚の幻滅
l 弥左衛門町の家
透谷一家は、上京以来弥左衛門町(尾張町の西)で母ユキがタバコ屋を開業。10坪余りの家の2階で新婚生活が始まる
l 結婚後の透谷
美那子は女子学院に学びつつ家庭教師などで稼ぎ、透谷は翌年初の作品『楚因之詩』を自費出版。実質的な近代詩の始まりとされるが、それは後の評価。巖本が透谷の才能を見抜き、『厭世詩家と女性』が評判になって、藤村ら『文学界』同人との付き合いも広がるが、紅葉・露伴らのえせ文学者を排除しようとし、民友社の徳富蘇峰にも対抗意識をむき出しにし、自身の言葉を借りれば「空の空の空を撃つ」挙に出たが、周囲には理解されず、次第に孤独を深める。度重なる転居も、文学上の行き詰まりの打開策のための気分転換かも
l 深まる2人のミゾ
藤村の青春小説『春』は自らの恋の挫折と同時に、透谷一家の姿も描く
1892年、長女英子誕生。生活は一層苦しくなる一方で、透谷の不倫も始まる
l 花巻からの手紙
1893年、花巻に旅する透谷に美那子が書いた手紙の返事で、透谷は口では理想を掲げながら、美那子に対しては自己を無にして夫に従えと書き、美那子を絶望させる
l 婚姻の破綻と透谷の自殺
『厭世詩家と女性』は、恋愛のマニフェストというより、むしろ婚姻忌避/嫌悪論
恋愛によって「社界の一員」になったことを喜ぶ詩人が、ひとたび結婚生活に入ると、実世界に束縛される。それは束縛されることを好まないし人にとって、苦痛以外の何物ではないと言い、女性は男性の愛情のために左右せられる者なりと、勝手な女性観を展開。自分の夢の対象物たる女が結婚によって変身したとしてひたすら自分のために嘆く。自分の悲哀を文学的に表現するのは優れているが、結婚した女に嘲笑だけを投げつけ、結婚によって女が喪ったもの、女の悲哀に対しては驚くほど鈍感
1893年末の自殺未遂でいったん家に戻るが、半年後自殺。死因はあれこれ言われるが、不明のまま。芝白金黄檗宗瑞聖寺に眠る
16年後、美那子が語った文士観: 文士の妻になるには、一切自分を犠牲に供する覚悟がなくてはいけない。文士は感情が強く、気が短くすぐに癇癪を起こし、怒る
第6章
留学生・美那子
l 泣き顔の似合わない女
1899年渡米。留学の動機について自ら書き残したのは、世の中の唯一の慰藉である夫が亡くなり、何か事業に慰藉を求めるということが最大の動機だが、同時に透谷からも常に人間は何か1つの仕事を成就して世の利益を謀らねばならぬと言われて感化されたことも大きく、教育家になって社会のために働こうと考えたという
l 女が留学するということ
明治に留学した女は、官費留学では1871年の岩倉使節団の5人、2番目は1885年の加藤錦(きん)のマサチューセッツ州サレムへの留学、3番目が4年後の音楽留学の幸田延
私費留学は少ないが、最初は1880年の渡辺ふでがオランダ公使の従者という身分でフランスに学ぶ。帰国後「鹿鳴館の花」とも呼ばれた
キリスト者女医として、帰国後福祉事業に活躍した岡見ケイ(京子)と菱川ヤスは、横浜共立女学校の出身。岡見は旧姓西田、共立女学校の初期の学生で、在学中に受洗、桜井女学校の教師を経て画家の岡見千吉郎と結婚。岡見の米国留学を追って'85年渡米、アメリカ唯一の女子医大のペンシルバニア女子医大に留学。次の女子医学留学は1896年のオハイオ州に留学した井上ともで、次第に女子の留学の記事が出てくる
l ウッドワース一家
ペンロードの義弟で麻布教会(現狸穴教会)のウッドワース牧師は、1892~1933年の42年にわたり日本でキリスト教の伝道と教育に従事
透谷がウッドワースの通訳をした関係で知り合い、死後は美那子が透谷の仕事を代替
l ペンロードと共に
ペンロードは1864年生。アメリカ・クリスチャン教会から妹夫婦とともに日本派遣の宣教師に選ばれて来日
l 渡米のいきさつ
1899年渡米。旅費500円は大金(巡査の初任給が9円)、内200円はペンロードから支給され、残額は野津田の住職だった恩師から借金。娘は義母に預ける
l 船と汽車を乗り継いで
横浜発、タコマから汽車でインディアナ州メロームへ。ウッドワース家近くの下宿へ
l ユニオン・クリスチャン・カレッジでUCCの生活
UCCは、五大湖の南に位置する小村にクリスチャン教会の基金で1859年設立された大学
日本から留学したのは美那子と小柴三郎(後の慶應幼稚舎第7代主任)が初めて
夏期講習を受けた後英語の単科コースで修学したようで、'04年の卒業生名簿には不記載
l メロームでの生活
5年間の学生生活の詳細は不詳。寄宿生活だが、年間108ドルの学費・生活費は、講演などのアルバイトのほか、親切な地元民に助けられ、それほど不自由はしていない
講演は引っ張り凧、日露戦争中はアメリカの日本贔屓もあって余計に歓迎された
l 大学の優等生
1906年、オハイオのデファイアンス・カレッジを成績優秀で卒業、金時計をもらい、学士号取得。在籍2年で専攻は神学・文学・音楽。YWCAの全国大会に大学を代表して出席
卒業後は、シカゴ大の夏期講習で英文を、カナダで発音法を学んで、翌年初帰国
第7章
教育者・美那子
l ジャーナリズムの人気者
1907年帰国。一足違いで父の死に目に会えず。1年前に脳溢血で半身付随に
透谷の「未亡人」がアメリカで苦学の末帰国したとことがニュースで大きく取り上げられる
'08年から藤村の『春』の連載が始まり、藤村や透谷夫妻のことが出て来て、改めて透谷の生涯に関心がもたれ、その関係の執筆依頼なども増える
牛込区の借家に落ち着き、英子を引き取る
女学校創設によりアメリカ風の自由主義教育を目指す夢を語るが、デファイアンス・カレッジは一旦決まった日本での女学校設立は挫折。クリスチャンの教師を雇う女学校は無い
1899年、高等女学校令公布、各県に公立女学校が設置されたが、要件が厳しく、良妻賢母主義で、前年公布の民法の家族制度を支えるものと位置付けられた
教育の保守化が進み、ミッション系の女学校は高等女学校令では認められず、各種学校扱いとなって経営は困惑、英語教師の需要は激減
l 英語塾を開く
美那子は生活のために私塾を開設、女子実用英語会とし、夏期講習会も開催
豊島師範の嘱託講師にもなるが、勤務の傍ら週3回は家でも教えた。神近市子も出入り
下宿生も受け入れ、大震災後英子の嫁ぎ先に同居した後は個人授業し、最晩年まで続ける
l 男子師範学校で教える
収入不足を補うために、知人の東京音楽学校分校長鳥居忱(まこと)の紹介状をもって帝国教育会会長の辻新次男爵を訪ね、辻が昌孝の知り合いということもあって嘱託に採用
1909年、無試験検定で「女子師範学校、師範学校女子部、高等女学校英語科教員免許状」を取得、さらに「師範学校、中学校英語科教員免許状」も取得。大束校長からの推薦状がある
豊島師範は、この年開校した男子のみの教員養成学校で、女子教員が大きな話題に
美那子の教育方針は、①詰め込み主義はとらない、②主に発音を教えながら将来の指導者に必要なことを教える、③紳士の態度を教える
1923年まで豊島師範で教える。その間小学校教員検定試験委員にも就任
l 女学校教師に転身
1923年6月、東京府品川高等女学校(府立第八高女、現都立八潮高校)教師に就任
1928年正八位、'29年従七位、’31年正七位の叙勲。’31年高等官6等待遇で定年退職
1933年、永年勤続者として東京府から表彰。一時恩給金1120円の大部分は、小田原の透谷碑の建碑用に差し出す。品川高女には嘱託として72歳まで勤務
l 女の自覚と自立を説く
美那子の後半生は教育者。帰国当座、アメリカ式の女子教育と家庭改良のプランを持っていて、子供のしつけと自主性の尊重を説く
第8章
晩年の生活
l 残された日記
美那子は、娘の嫁ぎ先堀越万三郎家で没。娘の英子も1964年没
透谷の原稿・書簡類は主に駒場の日本近代文学館に、石阪家関係の文書は町田市立自由民権資料館に寄贈・寄託
l 多忙で充実した日々
美那子は、クリスチャンとしての強い信念に支えられて、祈りの人でもあった
日本基督教婦人矯風会に加入して活動
交際範囲も広く活発。「未亡人」救済の根本は女子教育にあると言い、手に職をつけることが必要と述べ、さらに相当の配偶者が見つかれば再婚するのは結構なことで、世間が干渉し過ぎと批判
英子の結婚相手堀越万三郎は、ウッドワースの紹介で結ばれた足利の大地主の息子
1927年には、改造社の『現代日本文学全集』に『樋口一葉・北村透谷集』が加えられ、円本ブームでよく売れたため印税収入も入る。同年、藤村編『北村透谷選集』が岩波文庫に入り、彼の取り分の印税も美那子受け取りにしたという
l 娘一家と共に
音楽の才能は孫の美恵子に受け継がれ、東京音楽学校でピアノを専攻
孫・曾孫たちは誰一人文学方面には進まず、実学を選んだのは透谷の悲惨を受け継がせたくないという配慮が働いたらしい
戦前の日本の女としては、珍しい社交性と行動力に富んだ人
l ウッドワースとの別れ
時々信仰上の悩みが残されている。帰国後もウッドワース一家との家族ぐるみの交流は続き、教会建築費用を寄付しているが、'33年同一家帰米。その直後から内村鑑三にも師事
l 娘との確執
英子との確執が日記に目立つのは'31年頃から。娘家族の中で孤立感を覚え、何度も1人暮らしをしようとし、「内に居るのは不愉快で長寿は無用」とまで書いている
l 戦争と弟妹
明治天皇制定の即位式には皇后陛下も参列されるとあり、昭和天皇が最初となったが、御同列なりしと喜ぶ
日中戦争勃発後も、アメリカの友人たちとの文通は続く
1938年、妹登志子没。財産問題で仲違いしたまま
弟公歴は、アメリカで開拓事業に失敗した後は出稼ぎ漁業労働者に転落して放浪、失明
l 透谷への想い
1994年、透谷の没後100年祭が墓所小田原の高長寺で開催。小田原は、維新の時一時幕府軍に味方したため、維新政府に対して肩身の狭い思いをしており、自由民間運動の投じた透谷を評価できなかったといわれ、’27年小田原の文学愛好者らが透谷碑の建設を申請したが許可が下りなかったため、藤村を頼って許可を取ったという。大久保神社に建立されるが、除幕式でも手間取り、実施は'33年。’54年小田原城址に移され、瑞聖寺の夫妻の墓も高長寺に改葬
1933年、明治文学談話会が北村透谷研究会を発足、美那子も「透谷の思い出」を語る
1942年、舟橋聖一が『北村透谷』を上梓、その直後、世田谷区北沢の娘宅で死去、享年76
アメリカとの開戦に落胆、「アメリカを日本は知らなさすぎる。負ける」と慨嘆していた
あとがき
透谷を後世に伝えるのに力を惜しまなかった藤村は、『春』や『桜の実の熟する時』に美那子を登場させ、透谷の恋愛の相手として、近代的な女の装いを与えたが、同時に、2人の家庭の破綻の一方の責任者としての非難も忘れていない
透谷研究の第1期、神崎清らの透谷研究会も美那子の話を聞く事から透谷研究を出発
戦後、『透谷全集』全3巻を編んだ勝本清一郎は、生前の美那子の証言も加味して、浩瀚な年譜と解題を付した。これはその後の透谷研究の土台となるが、色川大吉が「自他共に許す反フェミニスト」という勝本の編んだ全集の解題には、美那子の側から透谷を見返す視点が欠けており、明らかに「歪み」があると指摘
初めて美那子の生い立ちから、透谷没後の行動、晩年までを紹介したのは、小沢勝美『北村美那の一生――透谷との出合いと苦闘』で、新たな美那子像を提出
色川を中心とする歴史研究者は、1960年代から3多摩地方の自由民権運動解明に注力、運動の中心にいた石阪昌孝については、石阪家の縁戚に当たる渡辺奨が新たな資料を発掘し明らかにしている。併せて美那子についても紹介し、美那子への関心が急速に高まる
透谷没後100年の今年は、透谷文学を現代に受け継ぐべく、記念出版や展示会が相次ぐ
紀伊國屋書店 ホームページ
内容説明
自由への希求と透谷との愛。クリスチャンとして教育者として果敢に生きる―自立した「女」の生涯。
北村透谷の妻、現代と重なる生き方 門井慶喜さん連載小説「夫を亡くして」来月1日から
2024年10月27日 5時00分 朝日新聞
門井慶喜さんの連載小説「夫を亡くして」が11月1日から始まる。明治期の詩人、北村透谷(とうこく)の妻・ミナを主人公にした歴史小説だ。
タイトルが予告する通り、透谷が25歳で自死した後を丁寧に描いてゆく。若くして夫を亡くしたミナは、子がありながらも米国留学を果たし、帰国後は教員として老年まで勤め上げる。
門井さんはこれまで、徳川家康や豊臣秀吉といった歴史の表舞台で活躍する著名人を多く描いてきた。ミナはその名前を大きくは残していない。なぜ彼女に注目したのか。
「この時代に、こんな生き方をしている女性は見たことがなかった。でも、戦後の我々の代表者であるかのような感じがしたんです。光を当てるべき存在だと思いました」
ミナを星に例えるなら、「3等星」。連載では、ありふれた悩みや喜びをそのまま描きたいと話す。「ミナさんの生き方を通じて、人間が普遍的に持っている価値や魅力を書きたい。結果的には女性の社会進出を描くことにもなるでしょう。読者の皆さんが現代の課題と重ねて感じとることもあるかもしれませんね」
物語の前半には、夫の死という特大の壁が待ち受けるが、史料を読み調べていくと明るい気持ちで執筆に取り組めるという。「ミナさんが前へ前へと進むので、思わず背中を追いかけてしまうんです」。読者のことも置いていかない。「歴史に詳しくなくても大丈夫。前向きなミナさんが、きっと皆さんのことも引っ張っていってくれますから」(真田香菜子)
2022-01-12 18:00:18
文学史には必ず登場する「北村透谷」。
その妻のお話です。
美那子の父は豪農の出身で、かなり先駆的な考えの持ち主のようでした。
こういう家の子女というのは男尊女卑の中にあると思ってしまいますが、娘である美那子は十分な教育を受けています。男子であってもなかなか小学校教育すら受けられなかった時代にです。
文学者の妻は芸術家的放埒さを持った夫に振り回されたりして、夫の死後、生活に窮することも多いのですが美那子は違います。
そこに教育の有る無しが起因するのだとしたらなかなかシニカルです。
100年以上経った今でも、男女が平等であることはないと言えるから…。
全ての人にとって男女という区別以外で、人として対等であることというのはその属する社会の成熟度に関わるといえども、まだまだ遠い話で、永遠のテーマなのだと思いました。
美那子自身が魅力的であっても、その物語を知らしめるためには「透谷の妻」という枕詞が必要なのですから…。
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