街道をゆく18 越前の諸道  司馬遼太郎  2025.3.16.

 2025.3.16. 街道をゆく18 越前の諸道

 

著者 司馬遼太郎(本名:福田 定一) 19231996小説家ノンフィクション作家評論家日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。位階従三位。筆名の由来は「司馬遷に遼󠄁(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」からきている。大阪市出身。大阪外事専門学校蒙古科卒。産経新聞社記者として在職中に、60年『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。75年芸術院恩賜賞。93年文化勲章

 

発行日           2005.3.30. 第1刷発行

発行所           朝日新聞社

 

この巻で歩いた道

l  足羽(あすわ)川に沿って――福井市、美山町、花山峠、大野市(宝慶寺)

l  九頭竜川に沿って――勝山市(平泉寺)、永平寺町、松岡町

l  福井市周辺――一乗谷朝倉氏遺跡、丸岡町(丸岡城址)、福井市

l  武生へ――福井市、戸口坂、今立町、武生市

l  日野川から九頭竜川へ――武生市、木部新保、三国町

l  丹生山地――武生市、宮崎村(越前陶芸村)、織田町(たいら窯、織田劔神社)

 

F  越前という国

『日本書紀』に継体天皇という不思議な存在。応神天皇5世の孫。在世は56世紀。今の福井県(越前)に住み、九頭竜川、足羽川、日野川の流域平野を拓いて農業生産を上げたという

(やまと)政権の血が絶えたとき、有力な豪族に担がれて幾内に入り、倭政権の長となる

「越(こし、高志・古志とも)」と言われた地域は、福井県から新潟県信濃川の線までに及ぶ

「角鹿(つぬが、敦賀)の坂(木ノ芽峠)を東に越えて入る地域」の意味

蝦夷語で、その1種族を指す呼称が地域名になったとの説が有力

越前、越中、越後に分けられて、倭政権の重要な構成地域になるのは7世紀半ばのこと

鎌倉期に入宋(にっそう)して禅宗を歴訪し、帰国して曹洞禅を開いた僧道元(120053)が、晩年越前に永平寺をつくる。道元を慕って中国から来たのが寂円(120799)。道元は生前永平寺の俗化を嫌ったが、死後の第3世に俗化が始まり、現在の大伽藍となる

道元には『宝慶記』という短い著述がある。天童山の老禅者如浄(にょじょう)との道交のメモ帳。ときに、南宋の年号が宝慶(ほうけい)。寂円が寺を建てるときに寺号を宝慶寺としたのが、今に地名として残る

 

F  足羽(あすわ)川の山里

福井駅から九頭竜川沿いの勝山街道か、南の足羽川沿いの美濃街道経由で大野盆地に行く

1948年福井地震。死者3,542人、倒壊家屋3.5万戸

足羽川に沿った国道158号の脇に単線の越美北線(えつみほくせん)が走る。終着は九頭竜湖駅(紅葉列車)

 

F  薄野(すすきの)

永平寺の第3世徹通義介(てっつうぎかい、12191309)は、典座(てんざ、炊事長)から身を起こし、第3世になると宋から宮大工を呼び寄せ、堂塔伽藍を築くが、しばしば火災に見舞われ、その都度宮大工から技術を伝承した「志比大工」が腕を振るったという

大野盆地は、かつて大沼と呼ばれ、九頭竜川や盆地中央を流れる真名川が洪水ごとに水が引かなかった。そこに浮んだ島が亀山の大野城址

亀山に最初に城を築いたのが、織田信長の武将の金森長近(15241608)5条の水路を掘って水はけをよくし、それに沿って南北5筋の大路(おおじ)を作る。碁盤の目のような町並は小京都と呼ばれる。秀吉時代には高山に転封され、同様の城下町をつくる。小さな大名にとどまったため、政変の時は安全で、関が原では家康に味方して身の無事を守る

大野から清滝川に沿って南西に山道を登ると薄野に出る

 

F  道元

道元は、内大臣の子。幼少で父母を失い、13歳で叡山に上り、14歳で天台座主公円の弟子に。将来の座主と目されたが、求道者に転じ、念仏には一顧だにせず、釈迦そのものを求める

叡山では三千の法門と言われるが、奇妙なことに、釈迦の思想は説かない。道元は、栄西の禅にそれを感じ、京都の臨済禅の根拠地である建仁寺に入り、栄西の高弟だった明全(みょうぜん、11841225)に弟子入りして6年、24歳の時明全ともども入宋して本物に触れようとしたが、宋での見聞は、仏法の廃れのみ

 

F  山中の宋僧

道元の生涯は、醇乎(じゅんこ、混じりけがない)としている。求道のみに費やされた

宋の大寺では、悪趣味なほどに豪華な建造物ばかりで、宗教的象徴性からは程遠かった

2年後(宋の年号で宝慶元年)に天童山で如浄に巡り合い、2年修業の後嗣書を相承し帰朝

翌年如浄は遷化(せんげ)し、それを見送って寂円も道元を追って日本へ

道元44歳の時、越前志比庄(しいのしょう)の地頭・波多野義重の請いを容れて、越前の山谷に道場を開くべく京を離れる。やがて道元が永平寺を建てたとき、境内に先師如浄を祀る塔頭承陽庵を建て、寂円を塔主とした

如浄が道元に伝えた曹洞宗は、只管打坐(しかんたざ、坐禅に集中)のみで、気風として最も栄達を嫌った。寂円は道元の死後山に入り、宝慶寺を開山し、如浄・道元の禅風を独り守る

 

F  宝慶(ほうきょう)寺の雲水

宝慶寺の集落は10戸ほどだが、住民の大半は大野盆地に移住。信長が朝倉氏を滅ぼし、全土を征服したとき、宝慶寺に寺領100石を与えたとの「安堵状」が残る

宝慶寺は1929年建立で、県有形文化財

 

F  寂円の画像

道元は明治の欧化主義者に似ている。日本を鄙()とし、大宋を華()とした。在宋中、自分の席次が不当に卑(ひく)くされていることを仏法の道理に合わないとして、皇帝寧宗に上奏分を上呈したが、「聊(いささ)か倭()僧の鄙懐を宣()ぶ」と末尾にある。日本を「倭」というのは同時卑称、というより侮蔑呼称として、中国では国民党時代まで、韓国の民間では今なお生きている。日本と改めたのは飛鳥・奈良朝の頃

道元の中国崇拝は相当なもの。日本では生まれながら仏法に適した人間は生まれないとまでいい、学道においてまことの人物は稀。道心を教えるのは困難であり、おのれの至愚を知らず。だからこそ我が国の僧たるもの、唐土の僧よりも倍以上刻苦せねばならないと言う

現在の宝慶寺は、永平寺の雲水が交代で詰めている

 

F  越前勝山

勝山は旧城下町、加越飛(石川・福井・岐阜)3国の国境に大きくまたがる白山大山塊の縁辺の1点に過ぎない。九頭竜川が低地に出て河谷(かこく)を穿ち、土砂を沖積させて拓いた地

中世から戦国にかけて、軍勢の往来する要地。江戸中期以降は小笠原氏2.3万石の城下

1963年の「三八(さんぱち)豪雪」は、大野ともども世界中から孤立

戦前、皇国史観の学者として著名な平泉澄(きよし)博士は、白山神社の社家の出で、平泉寺は神仏分離で神社になったが、元は役(えん)ノ行者と酷似した山岳宗教家泰澄(たいちょう)が白山を開き、中世の平泉寺繁栄のもとを作った

勝山は、戦国期(1574)までは袋田(ふくろだ)、九頭竜川は「筥川(はこがわ)」と呼ばれた

 

F  白山信仰の背後

古代、姿のいい山を眺めて神異を感ずるという感覚は、日本だけではない。大和の三輪山を神体山とするような神南備山(かんなびやま)信仰、中国山東省の泰山信仰

山岳の神異と霊気に依存する信仰は、その後密教化した修験者(山伏)が活躍し、霊山信仰にも発展。原型としては、東アジア・北アジアの古代に広く存在していた共通のものと推測

3国にまたがる白山の登り口を「馬場(ばんば、広い道の意)」という。加賀馬場は白山本宮、飛騨馬場はなく、山を下った美濃に長滝(ながたき)寺があり、白山権現の別当寺だった

越前馬場が平泉寺(現白山神社)、白山の表道(おもて)という意識があったために特に「白山馬場」と呼ばれるが、大山塊の3つの高峰はいずれも加賀。最高峰は2702m

白山を行者として初めて開いた泰澄(682767)は、浅水(麻生津:あそうづ、鯖江と福井の間)の人。「越の大徳(だいとこ)」と呼ばれ、詳細は不詳だが民間で慕われた僧と思われる

 

F  平泉(へいせん)寺の盛衰

日本の土着神が泥臭く感じられるようになったのは、仏教が渡来した奈良時代にすでに現れ、有力な神社にあっては、所謂神宮寺が併設され、社僧が神に対して仏事で仕え、お経をあげた。伊勢神宮にさえおかれた。伊勢神宮は例外だが、神職より僧の方が上位。平安期初頭には「神仏習合」の思想が確立、神々は「権現」という「仏まがい」のものになる。八幡神は阿弥陀如来が権(かり)に姿を現(げん)じたものであり、これによって八幡大菩薩という菩薩号を与えられた。伊勢神宮の神でさえ、真言密教の最高位にある大日如来が権(かり)に伊勢の地に垂迹したとされる(本地垂迹:ほんじすいじゃく)。権現の流行は11世紀頃から

土俗の神だった白山という神も、「白山権現」と通称され、正しくは、白山妙理(みょうり)大菩薩と呼ばれ、山そのものが大菩薩になった。本地は、十一面観音。祭祀は仏教で行う

中世、平泉寺は悪僧の巣窟。天台宗(叡山)の傘下に入り、鎌倉時代荘園がなくなった後も、白山は在郷の武士団(開墾地主団)を多数握っていたため、独立した武士として成長。南北朝時代、平泉寺の名で代表される白山勢力は、「日本国一番の法師大名」と言われ、20万石に相当

 

F  衆徒の滅亡

1574年、平泉寺は一向宗(真宗)によって結束した農民によって焼き払われる

寺は、利にさといが為に膨張、何を理想として膨張したかという形而上性などは少しもない

鎌倉期に親鸞が現れて念仏を説いたのは、農民に対してだった。それまでの仏教の対象から、農民は外れていた。法然の念仏といえども、その対象は都の貴族や武士たち。親鸞の教えを第8世蓮如(141599)が室町の乱世の中で広めた。蓮如は、加賀で真宗の門徒を講に組織、講ごとの連携を深め、地頭まで取り込んで遂には守護大名を倒す。農民の門徒化はやがて越前に及び、平泉寺衆と対立し、寺は農民により焼き払われ、勝利を祝って地名を「勝山」とする

その後平泉寺は、織田・豊臣期に大名たちの好意によって小規模ながら再興

 

F  菩提林

平泉寺の歴史的象徴である菩提林は、禅定道(じょうどう)と呼ばれた境域(白山を含む)への入口にある小森林。260本の老杉が自然に群生して出来た原始林、樹齢は250年程

古代は、神々は里人に祟(たた)りをなすもの。里人が崇(あが)めている限り無言だが、里人が不浄をなせば祟った。「祟(すい)」と「崇(すう)」。字は似ているが全くの別字で、意味は背中合わせ。白山神も権現という形で仏教化することにより、修験者には優しい存在になったが、平泉寺衆徒が里人に強く当たったため一向一揆にやられた。菩提林もその時焼失

再興後は、将軍家菩提寺の江戸上野の寛永寺の系列下に入り、幕府の威光を受ける

 

F  木洩れ日

平泉寺の境域は広大。結界には一ノ鳥居がある

明治初年の廃仏毀釈・神仏習合で平泉寺は白山神社となり、最後の主だった僧は神職になり、妻帯して、社家・平泉家を創設。屋敷の庭園は、450年前細川武蔵守高国(14841531)の作で、国の名勝に指定。拝殿までは厚い苔に覆われ、三之宮まで続く

 

F  永平寺

道元の教学は曹洞(そうとう)宗と呼ばれるが、道元自身は「曹洞宗」と称することを嫌う

末寺は全国に1.5万。檀信徒戸数137万戸。永平寺と総持寺が同格の両本山。駒沢大以下経営する学校が10を超える。道元の死後、教団は家風のように論争と分派を繰り返し、第3世の義介(ぎかい)が大伽藍主義を取り、豪奢をもって教団存在を顕示したため内部の反発を買って放逐されるが、世俗との調和主義を取って義介の法系が、加賀大乗寺を根拠に繫栄、大衆化主義により永平寺を勅許の根本道場として「曹洞宗」の名で統合。一向宗(本願寺)と並ぶ勢力に成長。家康の時代、本願寺派を東西に分離し勢力を削ぐ一方、曹洞宗は永平寺と総持寺を中心に全国の末寺を法制的に組織させ、封建秩序の整頓と宗門統御の便宜に使う

 

F  松岡町

越前には4千基の古墳があるが、多くは山地を利用し、山のこぶとして造営しているのが特徴

日本松山古墳は5世紀頃。松岡古墳群の1

松岡は、鋳物師(いもじ)の集落。鎌倉・室町には、梵鐘の鋳造などで繁栄。1645年福井藩松平家が分家の藩を創設、町割を造り松岡藩が成立したのが今日に続く。城の代わりに7800坪の陣屋が高台に建てられた

 

F  一条兼良(かねら)の荘園

越前は「膏腴(こうゆ)」の地と譬えられるほど、肥沃な土地柄。越前に拠る者は必ず富強をなしたが、土地が狭く、守りに弱かったために天下第1等の勢力の成立には至らず

足羽川から朝倉街道を南下すると一乗谷。西北の平野は、中世「東郷ノ庄」と呼ばれ、5摂家の1つ一条家の荘園。室町期の公卿文化の代表的な存在が一条兼良(140281)。荘園を管理していた朝倉家が応仁の乱を機に横領。朝倉は兵庫の養父出身、足利尊氏に重用され、尊氏が越前守護になったとき老臣の1人。7代目敏景の時越前守護となって一乗谷城を築く

農業生産が飛躍的に上がり、豊かになった農民が在地の成り上がりの武士を押し立て、守護代と主従関係を結び、守護代に京都との縁を切らせて公卿領・寺社領を横領し、堅牢な封建体制を作ろうとしたのが下克上で、朝倉氏も下剋上の典型であり、戦国大名のはしり

兼良は歌学の大家であり、『源氏物語』その他の考証学者

 

F  将棋

一乗谷城は、南北に連なる2列の山を城に作り替えたもので、南北に朝倉街道が走る。信長に焼き払われて以降、辺りは一空(いっくう)に帰した。中心部は遺跡公園に

1968年から本格的な発掘調査が始まり、多くの将棋の駒が出て来た。「酔象(すいぞう)」という駒があり、王将・玉将の前に置かれ、王・玉がとられても、「酔象」という太子が即位して同じ働きをする

朝倉氏100余年間、一乗谷は越前における文化の中心として栄える。九頭竜川河口の越前三国湊には明船も寄港。明代中期の焼物が多く出土している

朝倉氏の最後は義景。足利義昭に京の守護を要請されたが上洛を逡巡。代わって頼りにされた織田によって1573年滅ぼされる

 

F  丸岡城址

勝山の北の丸岡城は、現存する最古の天守閣。'48年の福井地震で町がほぼ全壊するとともに城も倒壊、'55年再建。各層ごとに小規模ながら、鉄砲を撃つための鉄砲狭間(はざま)、矢を射るための箱狭間、石垣から這い登る敵に石を落とすための足駄(あしだ)狭間などがある

城の東2㎞から加越山地が隆起、そのあたりに豊原寺があった。平泉寺同様白山衆徒が巣食った寺で、その後一向一揆に占拠され、信長が一向衆徒を焼き払った際一緒に焼かれた

信長は越前平定後、一番家老の柴田勝家に国を任せ、勝家は北の庄に主城(現福井城)を築く

 

F  福井平野(坂井平野とも)

駅前の寿し吉田で食べた寿しは安くてうまい。皇太子が来られる直前で、女将がよく喋る

足羽郡の山地が福井平野に向って下る西端にあるのが戸口坂(戸口峠)で、福井平野を一望

家康は、実子結城秀康を越前に封じ75万石。跡継ぎは乱行のため蟄居、孫が32.5万石を継ぎ、越前松平家として続く。北の庄を「福居」と改称、さらに福の井という霊泉から「福井」に

幕末の松平春嶽は、良心的調整主義者で、薩長も礼遇し新政府の顕職につけるが早々に引退

 

F  紙と漆

戸口坂を南に下った辺りが越前和紙の中心。福井の羽二重とともに越前の重要な物産

越前今立で漉かれた越前奉書紙や鳥子紙(とりのこし)は、室町時代第1等とされた

武生は古都。上代の国府がおかれ国分寺があった。福井藩家老の居館の所在地

江戸期の武生の重要な産業が漆

 

F  下流の畔

武生盆地の東南にある日野山(794.8)、武生の市街地を北流して足羽川に合流するのが日野川。福井市北西で九頭竜川に合流

 

F  三国(みくに)の千石船

3つの川を合流した九頭竜川の河口が三国港

「御国」か「水国」化、越前の沖積平野そのものの古称である三国が河口港の名として残る

河の右岸は、頑丈な東尋坊の断崖などのある岩山で守られ、左岸は堆積した砂地

三国湊には千石船の1/5の模型がある

 

F  丹生(にゅう)山地の不思議さ

福井・鯖江・武生の西の山地で、現在は丹生郡。砂鉄含有の赤土が出土し、製鉄集団が定住

朝鮮から来た技術集団によって山が拓かれ、同じ火を扱って、「須恵器(すえき)」という陶器が焼かれ、後の古越前、現在の越前陶芸村に繋がる

 

F  越前陶芸村

武生から丹生山地に入ったところに新しく拓かれた陶芸村がある

須恵器以来の伝統を守り、戦後古窯跡(こようし)が発見され、「古越前」の名称を贈り、日本6大古窯の1つとした。常滑と並置されるように、焼き締めや自然釉(ゆう)が特徴、素朴な温もりがある

 

F  古越前

丹生山地の傾斜面に、百姓たちが農業の傍ら狸の巣のような穴窯を築いて日用の雑器を焼いていたもので、技法としては恐ろしく遅れたもの

日本の上代、主として土師(ほじ)器が炊事用の用具に、須恵器が祭具に使われた

越前焼が、茶の美学から置き去りにされたのは、丹生山地という種街道から離れた僻地だったことに拠るが、昭和初期の民芸の視線も届かなかったのは不思議

上代の初々しさが、古越前の良さ。自然釉で、轆轤も使わない

 

F  頑質

越前焼の技術は常滑から来た。「三筋壺」は、壺の肩・胴・腰に三筋の線条(すじ)が横に入り、古常滑に源流がある

 

F  重良右衛門さん(8代目)

谷を隔てた平等(たいら)にある代々の窯の当主が藤田重良右衛門。古法のまま焼いている

織田町の区域で、織田焼/織田瓶(かめ)とも呼ばれる。同地の織田劔神社という古社があり、信長の先祖はここの神官といわれる

 

 

 

 

Wikipedia

街道をゆく』(かいどうをゆく)は、司馬遼太郎による紀行文集。朝日新聞社(現・朝日新聞出版)で刊行し、朝日文庫で再刊された(電子書籍版も刊行)。

1971昭和46年)、作者47歳の時に「週刊朝日」にて読み切りによる連載を開始し、1996平成8年)2月の作者逝去により、43冊目の「濃尾参州記」が絶筆(未完)となった。

特徴

表題の通り街道・みち、すなわち交通路に着目し、著者独自の視点でその国の歴史地理・人物について考察している。歴史紀行エッセイの代表作である。

題字は棟方志功(版画家)が、昭和期刊行の装丁は芹沢銈介[1]が担当した(各・民藝運動で著名な工芸作家)。他に『司馬遼太郎全集』(文藝春秋)では全14巻分(生前の刊は第474849巻、没後の刊は第55 - 65巻)である。

司馬は四半世紀で、日本各地のみならず、アイルランドオランダアメリカモンゴル中国韓国台湾なども歴訪した。

1984年刊の「南蛮のみちI」で第16日本文学大賞を受賞。1994年刊の「台湾紀行」では、台湾問題に対し直截的な意見を述べた。当時の総統李登輝(司馬作品の愛読者でもある)とも対談(「場所の悲哀」、巻末に掲載)し、李が総統就任後初めて台湾の本土化政策に言及した際、司馬は両岸問題(中台関係)に対する中国側の姿勢を批判した。のちに対談の内容が明らかになると、中国及び台湾、日本、アメリカで大きな波紋を巻き起こした。

挿画は須田剋太19711月から19902月)が、須田の没後は、19909月から19917月まで桑野博利(画家、1913-2008年)が、次いで19918月から19963月まで安野光雅が担当した。「オランダ紀行」では、須田が病気のため同行できなかったが、画家の病状に響くという配慮から代役を立てず、司馬自身によるスケッチが掲載されている。

作品リスト

単行本は20051月から20063月に、文庫版は20088月から20095月に新装改版。

 

 

 

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