サンショウウオの49日  朝比奈秋  2024.8.15.

 2024.8.15. サンショウウオの49

 

著者 朝比奈秋 1981年京都府生まれ。2021年『塩の道』で第7回林芙美子文学賞受賞しデビュー

 

発行日           新潮5月号

発行所           新潮社

 

 

171回芥川賞受賞作

選評

l  平野啓一郎――胎児内胎児と結合双生児という2つの特異な設定が、相乗効果よりも寧ろ相殺している憾(うら)みがある。現実に当事者が存在するマイノリティとしての結合双生児を、成長した胎児内胎児という非現実の存在と同レベルで寓話化し、思考実験の素材としてしまう方法にも疑問がある。本作の様な結合双生児は、やはり非現実的なのかもしれないが、寓話なら寓話で、1つの身体を2つの意識が共有する激しい葛藤の不在、身体的実体と遊離して論じられる意識や死の観念性、2人の意識が独立的であることの説明不足、・・・・・など設定の詰めの甘さがあり、結果、大胆な着想の割に、思想的成果が乏しく、物語も後半失速した。非凡な才能の作者だが、本作に関しては問題が多かった

l  島田雅彦――「意識とは何か」についての考察は哲学や認知科学が得意とするところで、小説にもしばしば応用されるが、「結合双生児」の姉妹の「二心同体」における意識の様態を描くことを通じて、具体的なイメージを提起している。この姉妹は兄の体に寄生していた「胎児内胎児」だった父の設定な実際にはありえないので、『ブラック・ジャック』のような医学ファンタジーとして読まれるべきだが、同時に本作はほのぼのしたファミリー・ロマンスでもあり、マッド・サイエンス的テイストを持ちながら、ヒューモアの伏流が貫かれている

l  吉田修一――類稀なる発想力と最前線の専門的知識、これだけでも天からの贈り物としては過大なのに、その上、末恐ろしい程の小説的技法をこの朝比奈氏は持っている。

体だけじゃなくて、頭も顔もくっついてます。くっつく位置も場所によって少しずれたりしています もしこんな書き出しの手紙やファンレターが届いたら、私は恐らく先を読まないと思う。しかし、瞬と杏という、とても穏やかで知的でユーモアセンスのある姉妹を知った今、その偏見がどれほど愚かであったかと思い知らされるだろう。本作は、面白いようにパズルがパチパチとハマっていく。ただ、少し俯瞰して見ると、うまくハマりそうにないパズルは最初から埒外に放り出されており、この辺りにほんのちょっとだけ優等生の危うさを感じた

l  小川洋子――主人公は、2つの意識が1つの身体に宿っている。A=Bならば、B=A、という論理的に成立しない矛盾の渦中に、2人は飲み込まれている。だからこそ、そこに生じる混乱をもっと丁寧に追ってほしかった。ただ、法要の日、川に落ちてずぶぬれになる父親。池のそばでもう1人の存在に初めて気づく姉。100年後、土に返る伯父さんの骨。これらのシーンには、水と大地を繋ぐ生命の循環が潜んでおり、壮大な可能性を秘めているのではと思わされた

l  山田詠美――ものすごく難しい設定にチャレンジしていて、読み進めながら大丈夫なのかな?と思っていたら、概ね大丈夫だった。一つの身体に2人いる結合双生児のそれぞれの視点のあわいから、ファンタジーと現実の重なりが見える。それ以外の文章に雑な所も散見するが、当事者性とは、あらかじめ別のところから始めたこのトライアルに拍手を送りたい

l  川上弘美――子どもの頃、わたしはナンバ歩きしかできず、直そうとすればするほどナンバ歩きは極まっていった。小説家たちにも、書くうえでどうがんばっても出来ないことがあるのでは、と、毎回の候補作を読みながら、いつも思う。言葉を丁寧に吟味し尽くし、構造を緻密に保ち、思考を深め、それらとよきバランスを持つオリジナリティあふれる展開を用意し、魅力的な人物を創出し、社会的な問題を反映させつつ作者個人の考えとリンクさせ・・・・、というような小説があったとしたら、たぶん私はその小説を推さない気がする。すべてが出来てしまうみたいだと、なんか怪しくないか、というひねくれた心もちになってしまうから。出来ない、といういわば虚数のような状態こそが、小説を小説たらしめるのではないかと、ひそかに思っている。今回1番に推したのが『サンショウウオ』。意識は2人分あるが体は1つ、という設定の結合双生児、「瞬」と「杏」という2人を描いたこの小説は、「自己とは何か」ということを、読者にたくさん考えさせてくれます。でも、作者は、たぶん最後まで「自己とは何か」がわからなかったのだと思います。この小説のよさは、わからなかったそのことを隠していないことです。『バリ山行』も、好きな作品でした。この作者は、『サンショウウオ』の作者が出来ることが、きっと出来ない。反対に、『サンショウウオ』の作者も、『バリ山行』の作者が出来ることが、たぶん出来ない。けれど、その「出来ないこと」が、それぞれの小説を書かせてくれたのだし、書き続けることによって、出来なかったことが少しづつできるようになって行くのではないでしょうか

l  松浦寿耀――『バリ山行』と『サンショウウオ』という対照的な2作に心惹かれる結果となった。妖しい企みに満ちた綺想小説。ただし、物語は変哲もない家庭団欒の情景から始まる。「娘たち」は2人いて、姉の「杏」は漢字の「私」を、妹の[]は平仮名の「わたし」を主語として語る。2人の語りは交互に交替して進行してゆくが、ほどなく2人は結合双生児で、2つの人格が1つの身体を共有していることがわかる。こうした状況下で意識や欲望はどのように生成し個別化してゆくことになるのか。人格の自己同一性はどのように担保されるのか。小説ならではの思考実験をありきたりの家族の物語に溶かし込んでゆく手際は極めて自然で、その自然さじたいが孕んでいるけれんな不自然を、読者にそくそくと体験させるところに本作の取り柄がある。「意識はすべての臓器から独立している」と「瞬」は考えるが、「人は脳で考えるわけではない」という哲学者・大森荘蔵の命題が想起される

l  奥泉光――小説の魅力の大きな部分を占めるのは「かたり」であり、何が書かれているか(what)よりむしろ、どう書かれているか(how)が重要であり、極端な話、whatがほとんどなくても面白い小説は書きうる。語りの魅力の点で出色だった。まずは1つの身体を共有する2人の語り手が、「私」「わたし」の1人称で交互に、あるいは交錯しつつかたる、その形式自体が生み出す面白さがあり、しかも2人の女性は個性を異にしながら、それぞれに溌溂とした知性や感性の輝きがあって、2つの人格の関係が織りなす豊かさが小説全体を明るく照らしている。こうした身体的状況が苦難を必然的にもたらすであろうことは、もちろん容易に想像されるわけで、それは時折露頭のように小説中に顕れる。しかし青春期の終わりを意識するかたり手の女性たちは、ときに烈しい痛みや傷をもたらしたであろう対立葛藤を経て、いまは一段落、とりあえずは入江に停泊する舟のような平穏さのなかにある。過去の、あるいは再び到来するかも知れぬ苦難は消えてはおらず、直接には描かれぬそのごつりとした手触りはなお在り続けて、小説世界に奥行きを与えてくれる

l  川上未映子――身体は真ん中で接合されており、容貌は左右で異なり、独立した意識を持ちながら感覚や記憶は共有される姉妹が主人公。しかし虚構の位相の構築が徹底されておらず、小説内ルールに自信がないせいか、説明が繰り返されるために身体と意識を巡る1人称小説としての語りの強度が低い。また作者の自己同一性や痛みや生死への思索の浅さが散見されて、例えば別々に感じた幸福とトラウマが「しばらくして2つの記憶は混じって、今では思い出すとマーブル模様の気持ちになる」に代表されるような心理描写あるいは処理が多々あり、全体を通して医師の知見で書けるところ/書きたいところと、それ以外の落差が大きく、これは人称の設定も含めた書き手の、この小説に対する根本的な怠惰である。とはいえ、候補作の中で頭ひとつぶん抜けた挑戦のあとがあるのは確かで、誰も経験したことのない身体と精神の在り方や来し方行く末が、焼かれてしまって骨壺に入ってしまえばそうでないものもみなおなじという入れ子のささやかな着地は、この小説が書かれることではじめて結ばれる像であるように思えた

 

胎児内胎児の父親から生まれた結合双生児姉妹の物語

 

 

 

サンショウウオの四十九日 朝比奈秋著

自他の境界線の曖昧さ問う

2024824 日本経済新聞

 

他人から見ると「ひとり」なのに、身体は実は「ふたり」……そんな結合双生児を語り手に据えた物語である。主人公は29歳の杏(あん)と瞬(しゅん)。ふたりは生まれてからずっと身体の全てが接着していた。右半身は瞬、左半身は杏という状態で、意識は個別であるものの、臓器は共有している。そんな双子の、伯父が亡くなったところから物語は始まる。

実は、杏と瞬の父は、伯父の胎児内胎児だった。物語は伯父が亡くなって四十九日を迎えるところまでを描く。はたして、自分と他人との境界はどこにあるのか? そして人間の意識とは、脳にあるのか、あるいは臓器によってつくられるのか? 人間のさまざまな境界線を問いかけ、芥川賞を受賞した小説である。

本作の面白さは、小説の語り手である杏と瞬の視点が、「入れ替わりつつ混在している」ところにある。つまり、この小説を読んでいると、「いまの語り手は誰なのか」がふわりと曖昧になるのだ。小説を読んでいる読者は、語りの揺れに翻弄されているうちに、「杏と瞬ははたして別人だと言えるのだろうか? 身体を共有していたら、それは同じ人間なのでは?」という問いを考えざるを得なくなる。つまり本作が描き出す不思議な意識や思考の揺れこそが、「意識をつくるのは、脳なのか? 臓器なのか? 自他の境界はどこにあるのか?」という問いを提示するような構造となっているのだ。

そして、自分の境界が曖昧であることは、結合双生児だけに限らない。本作を読み終えた読者はきっとそう気づくだろう。結局、自分はさまざまな他人から影響されて生まれている。タイトルにある「サンショウウオ」とは二元論で分けられない、互いに影響し合う存在を意味する。「現実には二元論ではっきりと分けられないことが多々存在する、たとえば自分の意識ですら揺れ動くものではないか?」という問いかけが、小説を通して私たちに強く響く。

杏と瞬の揺れる語りは、私たちの思考や自己の曖昧さを鏡のように見せてくれる。そしてそれは小説という一人称で進む媒体だからこそ可能になったのだろう。小説だからこそ描き出すことができた現代的な問いかけを、うまく描き切った秀作である。

《評》文芸評論家三宅 香帆

(新潮社・1870円)

あさひな・あき 81年京都府生まれ。著書に『植物少女』(三島由紀夫賞)、『あなたの燃える左手で』(泉鏡花文学賞)など。

 

 

 

 

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