地震と虐殺  安田浩一  2024.8.21.

 2024.8.21. 地震と虐殺 19232024

 

著者 安田浩一 1964年静岡県生まれ。ノンフィクションライター。週刊誌記者を経て2001年よりフリーに。事件や労働、差別問題を中心に取材・執筆活動を続ける。12年、『ネットと愛国』で第34回講談社ノンフィクション賞を受賞。15年、「ルポ 外国人『隷属』労働者」(「G2vol.17)で第46回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)受賞

 

発行日           2024.6.25. 初版発行         

発行所           中央公論新社

 

 

はじめに

1923年、デマをきっかけとして、日本社会に鮮血が飛び散った

朝鮮人に対する差別と偏見がデマを作り上げ、これが虐殺の引き金となる

朝鮮人の暴動も放火もすべてデマ、全く根拠のないデマだったことは歴史が証明している。暴動や放火の罪で有罪になった朝鮮人は1人もいない。こうした話を警視庁自身が後に「流言」と断じている。だが、地震発生時、その警察がデマにお墨付きを与えた。埼玉県では内務部が県内各役所に通達を発して不逞鮮人への措置を取るよう命じ、メディアも加担

犠牲者の数は、震災直後結成された朝鮮の民間の調査会の報告では6661人とあり、司法省報告の233人と大きくかけ離れている

2009年、政府の中央防災会議は、犠牲者数を震災全体の死者10万人超の「1~数%にあたる」と記述したが、問題は、こうした数字を発表しながらも、真相の究明を怠り、そればかりか責任を一切認めない政府の態度にある

虐殺は震災時の混乱だけが理由に起きたものではなく、殺意を発動させたのは差別と偏見であり、日本社会は震災時における虐殺を教訓にしないと、現在の危うい社会が壊れる

 

第1章     「埋もれた歴史」を掘り起こす東京・八広(やひろ)

1. 東京スカイツリーの足元で

京成電鉄八広駅から荒川土手に出たところに「悼」と刻んだ朝鮮人虐殺の追悼碑が立つ

当時虐殺の現場となったが、15歳で上京したばかりの伴淳三郎が目撃し、「阿鼻叫喚の地獄図絵」だったと後に証言

1913年、内務省警保局長が「朝鮮人識別資料」なる文書を各具県本部に送達、姿勢が正しく、軟質な髪の毛で、歯が白く、「がぎぐげご」の発音が困難であれば朝鮮人とする、偏見そのものの基準で、民衆の間に浸透し、10年後に効果を発揮した

当時、日本社会の一部は朝鮮人を「何をするかわからない人」と見做していた。国家権力の印象操作によって、テロリスト予備軍であるかのように位置づけられていた

壷井繁治(詩人、共産党員、栄の夫)の詩『十五円五十銭』は、上野で被災した自らの体験をもとに朝鮮人虐殺を描く。壷井は、野次馬を殺人者に仕立てた本当の下手人は十件を手にした兵隊、つまりは「日本」という存在であることを理解していた

近くに住んでいた佐多稲子の証言もある。当時は朝鮮人暴動のデマを信じ、一方的な殺戮を「朝鮮人との戦い」だと思い込んでいて、弟から護身用にと渡された鳶口を抱いていた

四つ木橋周辺の虐殺現場には、習志野騎兵第13連隊が進軍、拘束した朝鮮人を機関銃で撃ち殺したり、運ばれてきた死体を焼却。1983年の記録映画《隠された爪痕》(監督・呉充功)にも目撃した近隣住民の生の証言がある

()ほうせんかは、この追悼碑を建立・管理し、虐殺の事実を世に問い続けている

 

2. 遺骨発掘をリードした1教師の軌跡

1982年、荒川河川敷で遺骨を探す作業が行われる。呼びかけたのは足立区の小学校教員・絹田幸恵(ゆきえ)。荒川は1907年の関東大水害の復興事業として作られた人工の放水路だが、成り立ちを調べていた絹田が偶然耳にしたのが工事中の放水路の作業に従事していた朝鮮人の虐殺証言。早速供養を考え、遺骨発掘を思いつき、砂川闘争の全学連闘士で全国の市民運動を支援していた元江戸川区議の高野秀夫に相談。「虐殺朝鮮人の遺骨発掘・慰霊の会」(ほうせんかの前身)を立ち上げ、5年ほどかけ参加者を募って準備し、発掘に漕ぎ付けたが、後で判明したのは、虐殺直後に遺体の速やかな火葬と遺骨を「不明」として「始末」せよとの命令が発出され、官憲によって掘り起こされた後だった

発掘の模様は《隠された爪痕》に詳しいが、「慰霊する会」には非難の手紙も相次ぐ。その内容は、現在もネット上で吹き荒れるヘイトスピーチそのもの

'91年、「追悼会」と名称を変え、追悼碑の建立を目的とし、2009年私有地に碑完成

 

3. 下町に生きる在日の歌

自然災害のたびにネット上ではデマが飛び交う。デマの材料となるのは、いつも関東大震災時の流言飛語で、憎悪が煽られる。日本社会が海外にルーツを持つ人々への差別を内面化しているのは100年前と変わらないし、今もヘイトクライムが相次いでいる

在日が特に強い危機感を抱くきっかけになったのは、20009月の石原都知事指揮下の防災訓練「ビッグレスキュー東京2000」。陸海空の自衛隊、警視庁、地域消防団などを総動員したもの。直前には石原が自衛隊の記念式典で、「大きな災害が起きた時には三国人による騒擾事件が想定されるので、その際には出動して治安の維持も大きな目的として遂行してほしい」と訓示している。現職の知事の偏見に満ちた発言は呆れるばかり

 

第2章     虐殺を葬ろうとする人たち東京・横網町公園、新宿

1. 都立横網町公園での衝突

横網町公園は、幕府の「物置き場」から、明治には陸軍の被服廠が置かれ、1919年赤羽に移転後は、2万坪の再利用計画が進んでいた矢先に震災に遭遇。避難場所となったが、そこを火災旋風が襲い、38千人が犠牲に。震災後は都立公園に整備され、慰霊堂が作られ、毎年9月には都慰霊協会主催の大法要が営まれている

1973年、震災50周年を記念して、各方面からなる実行委員会が、朝鮮人虐殺の被害者のための追悼碑を建立。革新系の都知事だったことも大きいが、実行委員会には保守系の国会議員や各区長も名を連ね、虐殺を否定する者などおらず、濃淡はあれ罪過を感じていた

実行委員の1人・千田是也は、朝鮮人虐殺に強い関心と憤りを抱えて来た。震災当時19歳だった千田は、朝鮮人来襲の噂を聞いて自警団に参加するが、長髪の異様な風体が自警団の疑念を招き危うく殺されそうになる。後に噂がデマで仲間が殺されたことを知り腹を立てる。それを忘れないために千駄ヶ谷のコレアンを意味するセンダ・コレヤを名乗る

'74年から追悼碑の前で「朝鮮人犠牲者追悼式典」も行われ、美濃部知事も追悼のメッセージを寄せた。石原都知事でさえ追悼文を寄せていたが、2016年知事就任の小池は2年目からメッセージを取りやめ。同日開催の「大法要」にメッセージを送り「すべての方々」を追悼するという理屈だが、震災を生き延びたのに殺された朝鮮人は震災そのものの犠牲者とは異なり、天災のなかに人災を無理やり押し込めたもので、虐殺の事実の隠蔽・無視

小池の追悼文送付取り止めと足並みを揃えるように、虐殺を疑う団体によって新たな「慰霊祭」が隣で行われるが、許可した東京都もヘイト認定したが罰則はなく、慰霊祭を黙認したばかりか、2023年には実行委員会の追悼碑の前での時差開催を許可、実行委員会側との衝突を危惧した警察の解散命令によって開催は辛うじて見送られた

 

2. 封殺された表現――「《In-Mates》上映中止事件」

202391日、新宿中央公園でのダイイン(死者になり切っての抗議行動)は、小池の追悼文中止と、「上映中止事件」への抗議

「上映中止事件」とは、現代術作家・飯山由貴が80年前に王子脳病院で「死亡退院」となった朝鮮人患者の記録を繙き、日本社会に潜む差別や偏見を焙り出そうとして制作した《In-Mates》の、東京都人権プラザでの上映が、東京都によって中止させられた事件。映画は震災時の虐殺にも触れていて、都知事のスタンスと相容れないというのが上映中止の理由の1つだが、東京都は『100年史』にも「虐殺は大正の東京の歴史の拭うことのできない汚点」と認めている

在日コリアンの「無年金問題」とは、1982年から年金支給に関し「国籍条項」を外したが、障碍者は障碍基礎年金の受給対象者から、高齢者は老齢福祉年金から除外したこと

川崎市の南部、多摩川河口から東京湾に面した一帯は在日コリアンの集住地域。震災後臨海部での海岸電気軌道の敷設工事開始、'39年日本鋼管が新工場の建設に着手したのを契機に、朝鮮人労働者の集落ができたのがコリアンタウンの始まり。差別と被差別の最前線

2023年には、参院内閣委員会で松野官房長官が震災時の朝鮮人虐殺への認識を問われ、「政府内に事実関係を把握できる記録が見当たらない」と明言を避けているが、岸本聡子杉並区長は、区の防災展示で「虐殺される事件もあった」との説明が国や都の見解と相違しているとの指摘に対し、2009年の内閣府傘下の中央防災会議の報告で殺傷事件の発生・朝鮮人虐殺について詳細な内容が記され、「過去の反省と民族差別の解消の努力が必要なのは改めて確認する」とあるのに言及したうえで、「過去の間違いから学ぶということこそ私たち現代を生きる者の使命」だとして、虐殺否定論を一蹴したのは、僅かな救いだった

 

第3章     知られざる「軍民共同」の虐殺千葉・船橋、習志野、八千代

1. 「栄光の歴史」から消された記録

船橋市の県立行田(ぎょうだ)公園は、「ニイタカヤマノボレ1208」が発信された海軍無線基地の跡地。1971年解体され、記念碑が残るが、刻まれているのは栄光の歴史のみ。震災時に朝鮮人暴動のデマ情報も発信、虐殺のトリガーとしても機能したが、その記載はない

震災の2日後、警保局長は船橋送信所から各地方長官(知事)宛てに、不逞鮮人の取り締まり強化を指示。明らかな虐殺扇動の証拠

当時、送信所周辺では北総線の敷設工事が行われていて、工事労働者の飯場が点在、労働者の多くは朝鮮人で、震災時には拘束され警察に連行され殺害された

実行委員会は、’70年代から地域を回って生存していた目撃者を丹念に探し出し、証言をしっかり記録して、'83年に『いわれなく殺された人びと』を刊行

震災翌年、船橋仏教会が「法界無縁塔」を建立し供養。'63年市営馬込霊園に移され、毎年追悼式が行われている。霊園には「震災犠牲同胞慰霊碑」があり、裏面には終戦直後に結成された在日朝鮮人による民族団体・朝鮮人連盟の名で「世界平和維持により犠牲者の千秋不滅の宿怨を雪辱する」と刻まれている

 

2. 中学生が放ったスクープ――軍による「朝鮮人払い下げ」の事実

船橋市郊外に住む高校の歴史教師・平形千恵子は、'74年自分の住む地域の歴史を調べるうちに、地元の飯場にいた朝鮮人2人を、近隣の村から来た自警団から守った話を聞く

習志野市立第四中の郷土史研究会でも、虐殺の掘り起こしが行われ、'76年の文化祭で発表。八千代で3人の朝鮮人が殺されたとの証言を聞くが、それは村人が軍に殺害を頼まれたという衝撃的な内容で、陸軍習志野支鮮人収容所から地域毎に34人づつ配給された

両者の調査活動は、'78年実行委員会結成に至る

千葉県の震災被害は震源地に近い房総半島南部で目立つが、虐殺にまつわる話が極めて多いのは、東京方面から多くの避難民が流入してきたからで、「よそ者」に紛れ込む「不逞の輩」に地元民が恐怖を抱いた結果で、震災2日後の船橋小学校の「爆弾騒ぎ」もその1つ。罹災民収容所に充てられた小学校で避難してきた鮮人の所有する不審物を爆弾と誤認

戦前の習志野は多くの軍施設が置かれ「軍郷」と呼ばれたが、同地の騎兵連隊は朝鮮人制圧のために各地に派遣され、自ら虐殺の下手人として暴れまわった。社会主義者の騎兵隊員がその時の虐殺の本質を表す光景を証言している。騎兵隊は1899年秋山好古が創設

旅団跡地の八幡公園には、「軍馬忠魂塔」が鎮座、習志野市教育委員会が作った説明板が創設から戦後までの歩みが記されているが、震災時の血の記憶への言及はない

当時の軍隊が陰湿・卑怯なのは、敢えて自らの施設と離れた場所で殺したり、民間人に殺害を任せ、責任を隠蔽・転嫁しようとしているから。理不尽さを認識していたのは明らか

 

3. 震災78年後に掘り起こされた遺骨

八千代市郊外の高津地区、通称「なぎの原」では、加害への自責の念から密かに施餓鬼供養(希望する個人によって行われる供養)が行われていた。殺害された朝鮮人を埋めた後に「第三国人殉難者」と記された塔婆が建っている。’82年から実行委員会も参加

埋骨地は戦後国から旧住民に払い下げられたが、発掘には反対も多く、15年後の'98年漸く実現し、6体を発掘され地元の観音寺境内に埋葬、慰霊碑建立

船橋の「稲荷屋」は創業1865年の老舗、地元三番瀬・江戸前の魚()が名物だが、震災時、浦安や行徳あたりでの虐殺犯を裁くための裁判所として機能。裁判官と検事が陣取って執行猶予を前提とした形式的な予審が行われ即断即決の「1日裁判」。裁判所は、軍払い下げの朝鮮人殺害の責任を自警団に押し付けた。一部実刑を受けた者も昭和改元の恩赦で釈放

 

第4章     複合差別が招いた「福田村事件」の悲劇千葉・野田

実行委員会事務局の平形に、日本人も殺されたとの報が犠牲者の親族から入ったのは'79年。殺害現場が千葉県の利根川沿いというだけの手掛かりしかなかったが、福田村(現野田市)における騒擾の記録から、香川県からの売薬行商団一行15名が、震災5日後香取神宮にいたところを地元の自警団に聞き慣れない讃岐弁から朝鮮人と疑われ集団リンチに遭い9名が虐殺される。半年後に生きて故郷に戻った被害者から虐殺の事実が浮かび上がる

虐殺された若夫婦の姪の執念で実行委員会が動き出し、福田村事件の全貌が明らかになる

当時、罪を問われたのはわずか8名の自警団のリーダー格で、懲役715年の実刑となったが、犠牲者が日本人だったために重刑が課せられた可能性が高い。逮捕者を出した村では、戸数割で見舞金を徴収し犯人家族に支給したという

1999年、地元の郷土史研究グループが『福田のあゆみ』を出版したが、虐殺には触れず

福田村事件の被害者は全員、香川県の被差別部落の出身。事件当時13歳で生き延びた被害者は、事件のことを家族にも話さず60年生きて来て、ようやく口を開く

事件は被害者の地元の郷土史家によって掘り起こされた被害生存者の証言をもとに、2023年映画化されヒットしたが、差別を煽った国の責任は問われないままに放置

2003年、利根川沿いの円福寺霊園に事件犠牲者の追悼慰霊碑が建立される。3年前から千葉・香川両県で有志による事件の調査が始まり、かつての福田村村長が正式に謝罪。掘り起しに抵抗する人々を、「断罪が目的ではなく、差別が人の命を奪うものであることを後世に伝えたい」と説得した結果で、野田市側の有志会により慰霊碑が立つ

「讃岐弁が原因で朝鮮人と誤認され殺された」という定説は間違いで、民族差別に加えて「よそ者差別」や、さらには「部落差別」が交錯した「複合差別」の結果というべき

警察でも、「用心」すべき対象の者を、「押し売り・浮浪人・不正行商人」として周知しており、行商という存在自体が地域では犯罪者のように捉えられ、そうした偏見が存在

検見川事件は震災の4日後のこと。東京から避難してきた沖縄など地方出身の男性3名を地元の青年団が惨殺、4名が逮捕。方言交じりの言葉のせいで朝鮮人と誤認されたという。派出所に連行されたが、集団ヒステリーは鎮火せず。特に沖縄方言を口にすると「方言札」の罰を与えられたのは震災直後だけではない。沖縄出身の歴史研究家が事件の真相究明に奔走するが、遺族の所在さえ掴めないまま、個人的に現場を訪れ供養を続けている

 

第5章     暴走する集団心理埼玉・寄居、大宮、神保原、本庄、群馬・藤岡

1. 群衆に殺された飴売りの青年

当時、朝鮮飴は子どもたちに人気のスイーツだったが、偶然にも震災の数日前から飴売りが姿を消したことが、朝鮮人暴動を「真実足り得る理由」の1つにしてしまった

熊本で生まれ、加藤清正の好物となり、「朝鮮役を記念」して「朝鮮飴」と命名されたものだが、日韓併合以後朝鮮人による飴売りが拡散

寄居では、警察に保護されていた飴売りの青年が震災の5日後、自警団員に引き摺り出されて撲殺。殺された場所のすぐ近くの寺にある墓石に郷里の場所や戒名まで記されているのは珍しいが、近在に住む友人らが引き取って埋葬したからで、寄居町史にも記載がある

埼玉県内の虐殺事件については、県知事が委員長となった調査追悼事業実行委員会の報告書『かくされていた歴史』('74年刊)にまとめられている

警保局長から発信されたデマ情報に基づき、県内務部は各町村に「通牒文」を発出。デマを含む「暴動への備え」は、こうした公式ルートで伝わり、各地で自警団結成が指示された

寄居事件では、13人が検挙されたが、彼らの証言からは、自らの狂気、デマへの盲信、民族差別に真摯に向き合った言葉は最後まで出てこない。懲役3年だったが1年で出所

 

2. 虐殺を扇動したものの正体

大宮の見沼区(旧片柳村)でも朝鮮人が殺されたが、検挙された5人は執行猶予がつく

自警団を組織した祖父の孫は、共産党市議となって事件を広く伝えるために奔走、大宮市史に事件を取り上げさせている。2015年発見された祖父の手帖には殺害の様子が詳述され、祖父宛の村の公用封筒には「弁護士料・義捐金・鮮人の件」と記され、裁判では村ぐるみの支援があったことの証拠

 

3. 群馬へ向かう移送の途上にて

入間市駅近くにある国登録有形文化財の旧石川組製糸西洋館は、「望星」商標の生糸の輸出で一代を築いた会社の迎賓館、2003年市に寄贈

震災時、埼玉県北部では朝鮮人の避難民を乗せたトラックが自警団に襲撃され多くの被害者を出したが、石川組のトラックも徴用され、危険に晒された朝鮮人を東京から群馬へ移送する途中、群馬県境の神保原で待ち伏せしていた自警団に朝鮮人が虐殺される。神保原事件で、42人が殺され、自警団員19人が検挙

本庄市史も、「朝鮮人事件」として自警団による「鮮人狩り」についての記載がある。特定の行き先などないまま、厄介払い的に群馬方面に移送したが、石川組のトラックについては、石川の弟が牧師をしていた安中教会を目指した可能性が高い

県境で群馬の自警団に追い返されたトラックは、そのまま本庄署に駆け込むが、これに地元の自警団が激昂し、署員の制止を振り切って虐殺を始める(本庄事件)

1959年、群馬新聞の記者が本庄の霊園に慰霊碑を建立。記者は事件当時警察署に乗り込み虐殺を止めようとしたことが評価され、知事から金一封をもらい、その金で建てた

震災100年記念の追悼式には市長も出席して、「痛恨の思い」だと追悼の辞を述べた

事件現場の警察署の建物は文化財として残され、19802020年歴史民俗資料館として「本庄事件」に関する説明パネルが展示されていたが、閉館後事件資料は’20年オープンの市と早稲田大が共同で運営する本庄早稲田の杜ミュージアムに移転されたというが、実際には煉瓦倉庫にお蔵入りとなって、再公開の予定は全くないという

虐殺事件のあった神保原や熊谷でも慰霊碑が立つ。'23年末には熊谷連隊司令部が陸軍省に提出した報告書が発見され、県内で起きた事件を「鮮人虐殺」「不祥事」「不法行為」と表記、軍も実態を把握していたことが裏付けられ、流布されたデマについても「鮮人の襲来は1人も来ず、火付けもなく、毒を投げ込まれたことも聞かない」として否定している

 

4. 神流川を越えたその先で

'24年初、高崎の県立公園「群馬の森」に市民団体が設置した追悼碑を県が撤去

2004年、市民団体の請願を受け県議会が全会一致で設置を決めたのが、戦時中に労務動員された朝鮮人犠牲者の追悼碑。公園は陸軍の火薬製造所跡地で日本における「ダイナマイト発祥の地」として知られるからこそ、追悼碑設置の意味があった。除幕式には県知事代理が追悼の辞を述べ、近隣自治体の首長らが献花

公有地に建てられた碑は、10年ごとに使用許可が更新されることになっていたが、'14年の更新を県が認めず、碑を管理する市民団体に撤去を命じた。式典で「強制連行」などの言葉を使ったことが政治的行事を行わないとの条件に違背したというのが理由だが、この「撤去方針」がレイシスト集団によって導かれたことはより大きな問題

安倍政権下での歴史否定のトレンドがレイシストを勢いづかせ、県の判断の適法性を争った最高裁でも'22年県の勝訴が確定。撤去を拒否する市民団体に対し、県は代執行を強行

追悼碑建立に貢献した社会運動家の猪上(19292016)は、藤岡事件の真相を追求し続けた。震災の5日後、朝鮮人17名を保護していた藤岡警察署を自警団や日頃から警察に反感を持っていた「反社」な連中が取り囲み、引き渡しを強要。2日にわたって暴行が続き、全員死去。37名が検挙されたが半数近くは執行猶予。裁判では差別には触れず、過去への清算は未だ済んでいない。藤岡町長など地元の有力者たちによって慰霊碑が建てられ、毎年慰霊式も続けられてきたが、当初の碑文「鮮人の碑」は差別的・侮辱的だとして、'57年に建て替えられ、同時に犠牲者名が刻まれた。犠牲者の身元がはっきりしていたのは珍しい

 

倉賀野事件も、隣町で起こった同様の朝鮮人1名の撲殺で、4人が検挙。地元の人々によって石像が置かれたが、事件を伝えるような文言はない

群馬出身の萩原朔太郎は、前橋から親戚を見舞いに上京、道中目にした光景を、「朝鮮人あまた殺され その血百里の間に連なれり われ怒りて視る 何の惨虐ぞ」と詩にしている

 

第6章     港町に隠された虐殺の記憶神奈川・横浜

横浜の高島町公園は横浜の父と呼ばれた高島嘉右衛門の屋敷跡で、震災時神奈川警備隊司令部が置かれていた。横浜でも警察官が住民に不定鮮人の襲来を告げ、自警団を組織するよう仕向ける。地元の小学校~高校の文集には、子どもたちが目撃した虐殺の模様が克明に描かれている。朝鮮人を「憎らしくてたまらない」ように仕向けたのは大人であり、日本社会だ。国家の暴力であり、「官製ヘイトクライム」の恐怖に襲われる

新聞も、震災7日後の暴風雨で腐乱した肉片がついたままの人骨が子安海岸に打ち上げられ、地元漁師などによって虐殺された朝鮮人のものであると報じ、朝鮮人の遺骨であるため警察が回収を拒み、海岸は人骨で埋まったと報道している

'74年、横浜市教育委員会が地域の歴史に特化した小中学生向けの副読本を発行していたが、虐殺には直接触れず、自警団や警察を持ち上げるばかりの内容に教職員組合から抗議の声が上がる。紆余曲折の結果、’90年になって漸く虐殺事件が明記され加害の主体が軍隊・警察・自警団と記載されたが、'13年のヘイトデモ昂ぶりのなか、「軍隊・警察・デマ」の言葉が消え、あたかも自警団が偶発的に事件を起こしたように書き替えられ、さらに’16年には、虐殺が不慮の事故であるかのような表現で犯人も犯意も不明のままに改変。'21年原首相の暗殺では、新聞も犯人を朝鮮人と報道、当時の多くの日本にとって朝鮮人は「安価な労働力」か「不逞の輩」でしかないという朝鮮人のイメージがそのまま記事になって反映されたもので、朝鮮人という属性はそのままテロリストを意味するまでになっていた

横浜入りした海軍陸戦隊の報告では、不逞鮮人を「パルチザン」と呼んだが、当時の内務相も警視総監も朝鮮半島で三・一独立運動に遭遇、抗日運動というパルチザン闘争を経験していることから、警察にもそうした考え方が浸透していている

新聞も1カ月半たって漸く虐殺の事実を報道し始める。浅野造船所では雑夫(朝鮮人)50名が一夜にして全滅。500名余りが虐殺された神奈川鉄橋(現・青木橋)の現場となった岩崎山(現・幸ヶ谷公園)を震災1カ月後に法務官と憲兵長が視察。日清・日露の戦没者を慰霊する表忠碑はあるが、一方的に殺されたものは記録から消され、顧みられることもない

石川町駅近くの寿地区ドヤ街は、山谷・釜ヶ崎と並ぶ日本3大寄せ場の1つで、震災時は炎で嘗め尽くされ、近隣住民は南西の平楽の丘に避難するが、崖下は朝鮮人街も含む労働者の集住地域で生活困窮者の多い集落が密集、パニック状態のなか多くの虐殺が行われる

2023年に一般公開された神奈川県知事から内務省警保局長宛の報告書「震災に伴う朝鮮人及び支那人に関する犯罪及び保護状況其他調査の件」では、県内57件計145人の朝鮮人殺害の事例が示されており、政府が一貫して司法省調査による「犠牲者は県内2名」という数字に依拠し他に事実関係を把握する記録は見当たらないとする見解を覆すもの

報告書ではっきりしたのは、各地で同様に虐殺の実態調査が行われ、国に報告されていたこと。にも拘らず政府は一貫して記録がないと言い張り、虐殺そのものをなかったと嘯く

 

第7章     虐殺をめぐる様々な風景新潟・津南町、大阪・枚方、韓国、東京・亀戸、福島・西郷村

1. 震災の前年に起きた「中津川事件」

1922年、津南町の山間部「穴藤(けっとう)地区」と呼ばれた通称「地獄谷」で、信越電力のダム建設現場の朝鮮人労働者が多数虐殺された。「タコ部屋労働」から逃げようとした者に対する「死の制裁」で、朝鮮人運動家はもとより、社会運動家も多数参加して真相究明が叫ばれたが、警察は非協力で隠蔽を図る。'72年東電が「殉職者の碑」を建立したが、対象は5名の日本人のみ。地元教員の調査から、事件の60年後に漸く世間の耳目を惹く

 

2. 震災後、大阪でもデマは流れていた

差別は低コストで人心を掌握できる使い勝手の良い政策なので、国家は差別を煽る。時に露骨に、時に示唆的に。一定の社会的影響力を持つ者がその意を汲んで、旗振り役を務めてくれることも分かっているし、メディアまで加担する

未だに自然災害を利用した悪質なヘイトデモは後を絶たない

震災時、朝鮮人を危険視するデマが枚方市で流布された。1940年まで陸軍の「禁野(きんや)火薬庫」が置かれ、万一の場合に延焼を防ぐために作られた土塁の跡が、跡地に建てられた団地のなかに今も残る。震災の11日後、不逞鮮人が火薬庫を襲うとのデマが流れるが、大阪府警察部長は、酒に酔った脱走兵が起こした騒動であることを確認し、府内の警察署に朝鮮人保護を命じる。デマは、日頃からの朝鮮人を危険視する風潮が招いたもの

 

3. 虐殺犠牲者の遺族を韓国に訪ねて

映画監督・呉充功は、《隠された爪痕》以降も虐殺事件の記録映画を撮り続けている

彼の活動によって初めて親族が虐殺の犠牲者であることを知った朝鮮人も多い。追悼式や慰霊祭に遺族の姿がないのに疑問を持った呉は、韓国内で犠牲者の遺族を探し回る

遺骨のない墓がいくつもある

 

4. 「王希天事件」と「主義者狩り」

王希天は、震災時逆井橋(東大島町)で虐殺された中国人。一高予科に留学するが、社会運動に没入、中国人労働者を支援する僑日共済会を結成、実質はラジカルな労働組合で、中国人蔑視の風潮下、内務省警保局長からも「支那人労働従事者取締りの件」の通達が出され、官民一体の中国人排斥の対象とされる。当時近隣の大島町には約2000人の中国人労働者が、多くは町内各所の専用宿舎に暮していたが、震災後戒厳令を利用した中国人虐殺が官民一体で謀議され、安全な場所に誘導すると騙して一カ所に集め一斉に襲い掛かる

王は、亀戸署に予防拘禁され、軍隊から中国人労働者の移送の手伝いを命じられ、連れていかれる途中で軍隊によって騙し討ちにされた。王の死は、虐殺事件の唯一の生存者から中国メディアに伝えられ、外交問題に発展。同年末の議会でも取り上げられ政府は陳謝を迫られたが、調査中と答弁。翌年内閣は事実を認め、事件慰藉金20万円の支出を決めるが、賠償交渉の途中で国内政治の混乱から中断したままに終わる

大島町虐殺事件の全貌が明らかになったのは戦後になってから。隠蔽に加担した元陸軍軍人からの聞き取りをもとに遺族を探し

福澤が創刊した『時事新報』には、日清開戦直後「日清の戦争は「文野(ぶんや)」の戦争なり」と題する社説を掲載。「文野」とは「文明」と「野蛮」のことで、これが福澤の中国観であり、その後も日本ではずっと生きて、日本社会の中に中国蔑視を埋め込んでいく

コロナ禍にあっては、さらに中国人差別がエスカレート、ヘイトデモが広がる

同じ頃起きた「亀戸事件」も、僑日共済会と同時期結成された南葛労働協会に対する大弾圧で、震災被災者救援活動の最中10名の指導者が亀戸署に連行され殺害、地震を利用した「主義者狩り」の対象となった。内務省官房主事(事実上の警視庁のトップ)だった正力松太郎は事件後に、「無警察状態だったので殺害の正当性が認められる」との談話を出したばかりか、情報を取りに来た新聞記者に「朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから気をつけろと、あちこちで触れてくれ」と頼んでいた。正力も後に噂がデマであることを認める

小山内薫は、事件の被害者に弟子がいて、「宝珠の玉」だったとその死を悼んだ随筆を残す

墨田区内でグリセリン工場を経営していた南喜一も弟を殺され、復讐を誓って工場を売却、非合法だった共産党に入党、各種労働争議を指導。'28年刑事弾圧で逮捕され、水野成夫とともに獄中転向、戦後は水野とともに大日本再生製紙を設立、資本家の道を歩む。水野は産経新聞を買収、南は国策パルプやヤクルト会長など歴任

亀戸署は、疚しさを振り切るように移転し城東警察署と名称変更

「主義者殺し」では、震災15日後に警察に拘束された殺された大杉栄の「甘粕事件」がある

 

5. 震災絵巻をめぐって

本所の小学生が、朝鮮人と思われる男性を大勢で襲い掛かる瞬間を描いた絵が残る。現場は市川市中山の北方(ぼっけ)十字路で、まさに虐殺があったとされている場所。横網町公園内の東京都復興記念館に収蔵されていたのが見つかったのは30年前。他にも「虐殺絵」は次々に見つかる。`21年にはヤフオクで「関東大震災絵巻」2本計32mが出品され、97千円で落札。最後の方には虐殺場面も描かれる。1926年淇谷(きこく、大原弥一)作。絵巻には「自序」があり、「此の惨禍に遭遇せざりし多数の人々に示し、以て省慮の念を促す」とあり、あえて虐殺の場面を描いた目的が読み取れる。淇谷は、福島県出身で西郷村の小学校教員。西郷村でも震災時流言が飛び自警団が結成され、6日後に電報の老配達人が朝鮮人と間違えられて殺されていたが、障碍者差別でもあった

虐殺の事実は、その多くが伏せられてきた。国は沈黙し、記録に残すことはほとんどなく、報道も制限、加害者も口を開かず、地域は被害者よりも加害者を守ることに躍起となった多くの者たちが、地域が、国家が、虐殺を忘れようとした。今でも忘れるために、なかったことにするために、目を閉じ、耳を塞ぎ、口に手を当てた者がほとんど。それでも虐殺の事実が次から次へと明らかになってきたのは、記憶のバトンが繋がっているからだ

「なかったこと」にしたがる者が現れようとも、記憶そのものを消すことはできない

 

 

あとがき

筑波大附属聾学校の卒業生も朝鮮人と見間違われて殺害されたが、障碍者だったからで、社会が危機に瀕して人々の間に殺意が芽生えた時、その犠牲となるのは最も弱い立場に置かれた人々。虐殺を促したのは差別と偏見。国家権力が差別と偏見を社会に刻印し、少なくない人々がそれを受け入れた。朝鮮人も、中国人も、障碍者も、「日本」が殺した

当時の東京市社会教育課長も「天人共に長く許し難き罪悪であり、日本人は根本的に生れ代って(ママ)出直さなければならない。悔い改めて全く彼らに対する邪念、邪情を一掃し、謝罪の心持を忘れず、彼らの幸福のため、あらゆる方法を講ずる必要がる」と話したが、100年経過後の日本は、生まれ変わることも、出直しも、まるで実現できなかったことは明白

出直すどころか後退さえして、さらなる膨張を続けている。暴力を発動させる差別を、今こそ断ち切らねばならない

 

 

中央公論新社 ホームページ

地震と虐殺 1923-2024  安田浩一

関東大震災の発生直後、各地で飛び交ったデマによって多くの朝鮮人が命を奪われた。非常時に一気に噴き上がる差別と偏見。東京で、神奈川で、千葉で、埼玉で、悲惨な事件はいかなるメカニズムで起きたか。虐殺の「埋もれた歴史」は誰によってどのように掘り起こされてきたか。100年余りが経過した現在、何が変わり、何が変わらないのか。歴史的事実を葬ろうとする者たち、人災を天災の中に閉じ込めようとする政治家、差別行為にお墨付きを与える行政……。差別やヘイトクライムの問題を長年追ってきたジャーナリストが100年余り前と現在を往還し、虐殺事件が及ぼし続ける様々な風景を描く。

 

 

紀伊國屋書店 ホームページ

内容説明

民衆を暴走に駆り立てた真犯人とは誰だったか。関東大震災発生直後に起きた悲劇。東京、神奈川、千葉、埼玉、群馬、福島、新潟、香川、大阪、韓国。徹底した現地取材を敢行。この国では当時からなにが変わり、なにが変わらないのか。今なお事件が及ぼしつづける多様な風景を炙り出す渾身のルポ。

 

 

 

地震と虐殺 安田浩一著

デマ拡散 招いた惨事の全貌

2024810日日本経済新聞

関東大震災、別言すると地震後各地で飛びかったデマによって、凄(すさ)まじい数の朝鮮人や中国人が虐殺された事件から101年。「朝鮮人が放火した」「暴動を起こした」「井戸に毒を投げ入れた」。すべて根拠のないデマだ。詳細はともかく概要なら知っているという人は多いかもしれない。

だが、おそらくあなたはその全貌を知らない。私も事件の裾野の広さとその背景にある憎悪にまでは考えが及んでいなかった。

本書は現在と過去をつなぐかたちで、この未曽有の惨事に執拗に迫った労作である。

巻頭で著者は早くもひとつの結論を示す。デマは自然発生したわけではない。〈デマ流布に太鼓判を押したのは政府、国だった。/当然、当時のメディアもこれに加担している〉。国、自治体、軍、警察、そして新聞。それらが一丸となってデマの拡散に手を貸し、虐殺を煽(あお)ったのだ、と。

地震発生直後に火災が発生し、一面火の海となった、現在は東京スカイツリーが建つ押上周辺。当時虐殺の場と化し、殺された人々が埋められた荒川の河川敷。内務省が朝鮮人暴動のデマを発信し、虐殺のトリガーとなった千葉県船橋の無線送信所……。現場に足を運び、過去の証言や文献をひもとき、関係者の話を聞く。その流儀はいつもの安田浩一だけれども、何事もなかったような今日の現地の姿から当時の惨状を想像するのは難しく、虐殺を直接見聞きした人もすでに残っていない。

その空白をどう埋めるか。本書の特徴は、事実の隠蔽を図る権力や記憶の忘却に抗って、事実を記録した人、あるいは戦後、虐殺の歴史を掘り起こした市井の人々にも光が当てられることで、それが読者に勇気と希望を与える。

虐殺は突然の出来事ではない。地震が発生したのは朝鮮で三・一独立運動が起きた4年後だった。朝鮮に駐在する役人や軍は運動の参加者を「不逞鮮人(ふていせんじん)」と呼び、その記憶が残る中で殺害は起きた。〈日本社会は虐殺に向けて歴史を蓄積していた〉のである。

今日でも災害のたびに噴出するデマ。過ちを認めない政府。書き換えられる副読本。震災以前から始まり、今日まで続く差別と偏見の連鎖。描かれた幾多のディテールに目を奪われる。それは過去の話なんかじゃ全然ないのだ。

《評》文芸評論家 斎藤 美奈子

(中央公論新社・3960円)

やすだ・こういち 64年静岡県生まれ。ノンフィクションライター。著書に『ネットと愛国』『ヘイトスピーチ』『団地と移民』など。

 

 

朝鮮人虐殺、芸術で声上げる 「なかったことにしたくない」 在日の若者らが美術展

2024819日 朝日

 101年前の関東大震災で起きた朝鮮人虐殺について、在日朝鮮人の若い世代が芸術を通じて歴史を伝えようとするプロジェクトを始めている。「百美+(ひゃくび)」と題し、8月下旬からは美術展を開く。

 正式名称は「関東大震災朝鮮人虐殺から100年を迎えて千葉県の美術シーンを再考しそのあり方を模索するプロジェクト」。2023年9月、千葉市に住む美術家の宋明樺(ソンミョンファ)さん(33)を中心に立ち上がった。

 宋さんは福岡県出身で、朝鮮学校に通った。小学校の授業で虐殺の歴史を学んだが、「現実感はなく、どうやって自分に結びつけたらいいのか」と思っていた。

 昨夏、千葉県立中央博物館で開かれた大震災の展示が転機となった。県立施設の企画なのに「虐殺が取り上げられていない」と衝撃を受けた。

 その後、横浜市で開かれた在日コリアンを含む日韓両国の芸術家らによる関東大震災時の虐殺被害者の追悼展を見た。「美術で虐殺の問題に声を上げられる」と企画を立ち上げることにした。

 「百美+」は千葉県在住の在日朝鮮人の芸術家を中心に7人が実行委員として携わる。在日朝鮮人3世で、千葉県在住のアーティスト鄭優希(チョンウヒ)さん(30)もその1人だ。

 鄭さんは東京都内に住んでいた小学生のとき、祖父から「(学校近くの)荒川でたくさんの朝鮮人が殺された」と聞いた。大学院で朝鮮人虐殺の記憶の継承を研究し、追悼パフォーマンスなどを続けてきた。

 活動は東京が中心になっていたが、自身が暮らす千葉でも起きていたとの証言が残る虐殺に光を当てたいと感じていた。そんなとき、友人から「百美+」に誘われた。

 内閣府が設けた中央防災会議の専門調査会が出した報告書によると、千葉県船橋市には当時、東京海軍無線電信所船橋送信所があった。東京周辺の公的通信施設としては唯一、大きな被害を受けなかった。「送信を依頼された公電の中に、朝鮮人暴動の流言を事実と誤認した内容のものも含まれていた」という。

 「船橋から、全国にデマが広がった。声をかけてもらって、やるしかないと思った」と鄭さんは考えた。

 今年2月中旬、船橋駅に近い住宅街にある交差点に「百美+」が主催するフィールドワークの参加者11人が集まった。朝鮮人虐殺があったとの証言が残る場所だ。現場には今、追悼碑や看板はない。フィールドワークの参加者が証言を読み上げていくそばを、車や自転車が通り過ぎた。

 関東大震災の朝鮮人虐殺をめぐっては23年、松野博一官房長官(当時)が記者会見で、「政府として調査したかぎり、事実関係を把握できる記録が見当たらない」と発言した。東京都でも小池百合子知事が朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文送付を見送り続けている。

 「百美+」はこれまで勉強会などを開いてきた。8月27日~9月1日は、千葉市美術館の市民ギャラリーで美術展を開く。朝鮮人虐殺をテーマにした油絵や彫刻、フィールドワークの様子を撮影した写真や動画などを展示する。

 宋さんは「虐殺をなかったことにしないように美術の力で表現したい。100年以上経った今も差別が続いている現状も伝えたいと思う」と語る。(鳥尾祐太)

 キーワード

 <関東大震災と朝鮮人虐殺> 1923年9月1日、マグニチュード7.9の地震が関東地方で発生し、死者・行方不明者は約10万5千人にのぼる。「朝鮮人が略奪や放火をした」といった流言が広まり、東京やその周辺で自警団などが朝鮮人らを殺害する事件が多発した。政府の中央防災会議の報告書は、殺害事件の被害者数について、中国人や日本人も含めて「正確な数はつかめない」として、震災全体の死者の「1~数%にあたる」と記述。当時の官庁の記録で把握できた数としては600人弱とした。一方、朝鮮人の犠牲者数については民間の調査結果を紹介し、2600人超や6600人超などとも示した。

 

東京新聞 書評  2024.8.4.

「記憶のバトン」受け継ぐ
[評]加藤直樹(ノンフィクション作家)

 約600ページの大著である。だがこの本は、関東大震災時の朝鮮人虐殺について知りたい人にとってのスタンダードになるだろう。

 第一に、あのとき、関東各地で起きていた出来事を、いわば網羅的に伝えているからだ。四ツ木橋、神保原村、習志野、横浜、福田村、藤岡、逆井橋。さまざまな場所で起きた虐殺の経緯がつづられている。

 第二に、この本は、虐殺の「現場」を伝える「ルポ」になっている。直接の取材ができない100年前の出来事を「ルポ」として伝えるために、安田は大量の資料を読み込み、その中に分け入って、現場を想像しようとする。

 たとえば寄居で殺された具学永(クハギョン)が売っていたのと同じ「朝鮮飴」を通販で買って味わうことを試みる。虐殺を止めようと船橋の街を走った警官・渡辺良雄と同じルートを走る。

 さらには、殺されていった人、殺されかかった人の「声」を聞き取ろうとする。たとえば、荒川・四ツ木橋で殺されかかった曺仁承(チョインスン)が呉充功(オチュンゴン)監督の記録映画『隠された爪跡』に語り残した「本当に悔しかったんだよ」という声を書きとめる。読者とともに、100年前の現場を深く感じ取り、被害者の声を受け止めようとしているのだ。

 第三に、朝鮮人虐殺という史実が今の日本の現実につながっていることを、様々(さまざま)な「現場」を歩くことで伝えていく。虐殺犠牲者を追悼する運動はもちろん、それを妨害し、虐殺の記憶を否定しようとする行政や、再びジェノサイドを煽動(せんどう)するレイシストたちの動きを取り上げる。見えてくるのは、100年前と同じ民族差別を過去のものにできていない日本の現実だ。

 最後に安田は、虐殺を克明に描いた作者不明の「震災絵巻」を取り上げ、その制作が「記憶のバトン」であったと表現し、本書をこう結んでいる。「バトンは私の、私たちの手の中にある」。この本もまた、安田が多くの死者や生者たちから受け取ったバトンの束である。多くの人にそれを受け取ってほしい。

(中央公論新社・3960円)

1964年生まれ。ジャーナリスト。著書『ネットと愛国』など多数。

 

 

春秋(822日)

2024822

先日、本紙書評欄が「地震と虐殺」という新刊を紹介していた。関東大震災の直後、各地でデマが乱れ飛んだ。「朝鮮人が放火した」「井戸に毒を投げ入れた」。自警団が組織され、朝鮮半島出身者などに殺意を向けたのだ。101年前の歴史の暗部に迫る労作である。

地域住民を蛮行に駆り立てたものとは、何だったのか。ノンフィクション作家の安田浩一さんは、過去の史実を掘り起こすだけでなく、現代のネット社会と地続きの病理を浮き彫りにする。私たちはなぜ、人間の心を失ってしまうのだろう。能登半島地震でも虚偽の救助要請などがSNSで拡散され、被災現場は混乱した。

10年ほど前のことだ。当時、東京のJR新大久保駅周辺などで、在日コリアンに罵声を浴びせる「ヘイトデモ」が繰り返された。本社のインターンシップに参加した学生さんに、怒号が飛び交うデモの現場を取材してもらった。この問題に詳しい安田さんにも話を聞いた。確か、渋谷の中華料理店で懇談させていただいた。

在野のジャーナリストは、報道の仕事を志す若者に差別問題の歴史を懇切丁寧に語ってくれた。先週末、朝のニュース番組をぼんやり眺めていると……。インタビュー記事を書いた元学生さんが、記者として現場からリポートしていた。当時の体験が何らかの糧になってくれたらうれしい。今年も「9.1」が巡ってくる。

 

 

 

Wikipedia

関東大震災朝鮮人虐殺事件とは、1923日本で発生した関東地震関東大震災の混乱の中で、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人や社会主義者が暴動を起こした。放火した」などのデマを妄信した官憲自警団などが、関東各地で多数の朝鮮人を殺傷した事件の総称である。日本人や中国人が誤認により殺傷された事件や、官憲による社会主義者の殺害事件もあった(亀戸事件甘粕事件)。殺傷事件の犠牲者数は、論者の立場により幅広い差があり、正確な人数は不明である。「虐殺はなかった」とする主張も一部にある。

内閣府中央防災会議の報告書は、「殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセント」としている。

概要

震災時

1923824日、加藤友三郎首相が病死した。このため内閣が総辞職し、828日、山本権兵衛に組閣命令が出されていた。震災当日の91日夜半には臨時首相・内田康哉の下で閣議が開かれ、2日午前9時には、非常徴発令、臨時震災救護事務局官制、戒厳に関する勅令が発せられた。

震災後、すでに1日から、朝鮮人暴動の流言が流布しており、2日正午までには東京全市・横浜全市に伝わった。これは住民の口伝えだけではなく、官憲の措置によるところも大きく、例えば、法学博士の上杉慎吉は、同年10月、『国民新聞』で、92日から3日にわたり、震災地一帯に流言が伝播し、関東全体が動乱の情勢に至ったのは、警察の「大袈裟なる宣伝」によるものとし、警察が「無根の流言蜚語を流布して民心を騒がせ、震火災の惨禍を一層大ならしめたるに対して」責任を負うべきだと指摘・批判している。

93日午前8時、内務省警保局長後藤文夫海軍省船橋送信所より、以下の電文を各地方長官(現在の都道府県知事)に送った。

東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし。

流言が政府公認の事実と認定されるとともに、朝鮮人の迫害を扇動する内容の電文が全国に発信された。横浜では、92日午後8時、横鎮長官発、海軍大臣宛て電文で、「本日午前十一時横浜着警備艇の情況報告の要領左の如し。一、一日午前十一時五十八分激震防波堤税関を破壊し全市の家屋倒壊し、爆破所々に起り不逞鮮人の放火と相俟て全市火の海と化し……」と報告された。

これらの政府当局者による打電や言明が、暴動をあたかも事実であるかのように信じさせ、朝鮮人に対する極度の憎悪を生み出す結果となった。当時、半信半疑だったが、警察情報だから信じたという人が多いと『横浜市史』で大島美津子は述べている。

この内容は行政機関や新聞、民衆[要出典]を通して広まり、朝鮮人や、朝鮮人と間違われた内地人であるところの日本人ろう者、方言を話す地方出身者など)、やはり間違われた或いは同類視された中国人らが殺傷される被害が発生した。

東京日日新聞(一六八六七号)に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題下にて、次の如き記事が載せてあつた。 「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」  下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。 「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」

 

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