軽井沢検定 公式テキストブック 改訂版  軽井沢検定公式テキスト編集委員会  2024.7.1.

 2024.6.9. 軽井沢検定 公式テキストブック 改訂版

 

著者 軽井沢検定公式テキスト編集委員会(委員長 市川健夫)

 

監修 市川健夫 東京学芸大名誉教授

 

発行日           2010.1.15. 第1刷発行       2011.4.30. 第2刷発行

発行所           軽井沢観光協会

 

1.   浅間山の自然

l  活火山浅間の形成と火山活動

浅間山は活火山、標高2568m。近世まで「浅間嶽(だけ)」と記され、「嶽」は火山の意、「岳」は褶曲(しゅうきょく、平らな土地が横からの圧力で重なり合う)山地の意。浅間山と呼ばれるようになったのは明治から

軽井沢の地名が出てくるのは近世になってからだが、歴史にも登場

7世紀浅間南麓には、、7つの官道の1つ東山道が通り、「長倉駅(現在の中軽井沢)」、「長倉牧(国営牧場、御牧・勅使牧とも)」の遺跡が発掘されている

「碓日坂」は現在の入山峠(1035m)。奈良・平安時代、峠のことを「坂」といった

浅間山の噴火は日本書紀に記されている。上信火山帯の南端、北に草津温泉、白根山、菅平の四阿山(あずまやさん)、志賀高原、秋山郷の苗場山が北端。溶岩と火山灰・火山礫(れき)・火砕流などが互層になっている成層火山で、コニーデ火山。第1外輪山が黒斑(くろふ)(2404)、牙(きば)(2111m)、剣ヶ峰(2281)、第2外輪山は前掛山(2524)、中央火口丘の釜山(2568)からなる三重式火山。小浅間山(1655)、離山(1255)、石尊(せきそん)(1667)は寄生火山

l  火砕流が堆積したシラス台地と溶岩流の鬼押出し

浅間の火砕流の南端は、佐久市の中込原まで達している

小諸の懐古園は、浅間山のシラス台地の末端にある平城(ひらじょう)の跡だが、12の頭部浸食谷があって、天然の要害地になっている

千曲川の水害で最大のものは1742(寛保2)の「戌(いぬ)の満水」で、秋雨前線豪雨により小諸のみで死者584

浅間山の爆発で最大のものは1783年の天明の大噴火。火砕流が北東に90100/hで流れ下り、鎌原村は押し流され、下流域を含め1151人が犠牲に。火山噴出物のうち、黒色の安山岩の露岩が連なるのが鬼押し出し

軽井沢は信州に多くみられる沢地名。沢地名は糸魚川と桑名を結ぶ線から以東に多く、西日本では谷地名(やちめい)が多い

1923年、東長倉村が町制を施行して軽井沢町と改称。軽井沢という地名は、軽石や火山灰土など火山堆積物の浸食地形につけられた地名で、長野市更北地区や熱海・横浜にもあり、山県には5カ所もある。いずれも火山堆積物の浸食地名という点で共通

沢がつく苗字は、糸魚川・桑名線以東に多く、苗字と地名とは密接に関係する

l  浅間山に出る雪形

佐久地方では、浅間山の雪形の出来具合によって気象の進行状況を知り、農作業の適期を予測。5月に入ると中腹の左側に残雪が黒い山肌に斑紋を作る。斑紋が佐久の特産物の鯉に似ていることから「登り鯉」「鯉の滝登り」「跳ね鯉」などと呼ばれる

 

2.   軽井沢高原の風土

l  日本初の高原地域名

明治40年代、軽井沢高原が固有の地域名として使われた。志賀高原の使用は1918年、次いで蓼科高原、野辺山高原と続くが、長野県下の多くの高原名は昭和30年代以降

アレキサンダー・クロフト・ショーによる避暑事始め――1886年、避暑地としての軽井沢の歴史が始まる。1888年、大塚(だいづか)山に別荘を造る。ショーは軽井沢の気候風土を”hospital without roof”と呼び、天然のサナトリウムだといって賞讃

高冷地気候に加え、夏の濃霧による「霧下気候」のため体感温度はより涼しく感じられる

江戸時代は里山で、樹木は自生していなかったが、1883年甲州財閥の雨宮敬次郎が植えた700万本の落葉松による人工林が育つ。浅間山麓の天然カラマツ(天落葉:てんから)は、亜高山帯の浅間山の中腹まで行かないと見当たらない。追分・浅間神社の樹齢200年の落葉松は人口樹。軽井沢本来の樹木は、モミ、ミズナラ、コナラ、シナノキ、コブシなど

町の木はコブシ。街路樹にはカラマツ、カツラ、トチ、モミなどが植林

l  ショー記念礼拝堂とショーハウス

正式名称は「日本聖公会軽井沢ショー記念礼拝堂」。1895年設立、軽井沢最古の教会

礼拝堂に隣接して、1888年ショーが大塚山に建てた別荘が「保健休養地100年記念事業」として移築され、「ショーハウス」と呼ばれる

l  三笠ホテルと万平ホテル

三笠ホテルは1906年営業開始。文明開化の象徴。ホテル前方の愛宕山(1174m)が奈良の三笠山に似ていたところから、有島生馬・里見弴などの文人が名付けた。国重要文化財

万平ホテルは旅籠「亀屋」として創業、1894年一部を西洋風のホテルにして営業開始。1902年現在地に移築

l  川端康成が書いた軽井沢の「高原」

川端の小説『高原』は1939年の軽井沢高原を舞台に書かれた短編小説。そこに描かれた細川侯爵邸や前田公爵邸は、軽井沢の別荘地の典型。楡と書いた並木は実は桂。樅と落葉松が交り、今でも往時の面影を偲ぶことができる

l  軽井沢の別荘開設と教会・外国人墓地

1888年以降外国人の避暑が急増。日本人では1893年福井の国会議員・海軍大佐の八田裕二郎の別荘が最初。元英駐在武官

本格的な別荘開発は、1919年西部系の箱根土地や野沢組が建売を分譲したことに始まる

六本辻にキリスト教徒の墓がある

l  テニスコート・ゴルフの適地

スポーツ文化の発祥地としても有名。日本にテニスが導入されたのは横浜で1878年だが、1894年旧道のつるや旅館の裏にテニスコートが造られたのが軽井沢でのテニスの始まり

ゴルフは、1919年横浜の貿易商・野沢湯次郎が長尾原にゴルフ場を解説したのが始まり

現在の旧軽ゴルフで、仙石原に次いで日本で2番目に古いゴルフ場。1930年には東洋一の新軽が、56年に晴山、70年には72がオープン

l  スケート・製氷業

積雪が少ないためスキーは発達せず、「氷造り」は明治末から盛んで、1907年青年有志が営林署から4000坪を借地して軽井沢スケート場を作る

1998年、長野オリンピックの会場に

旧道の町はずれに製氷に用いた池と、堀辰雄の『美しい村』の舞台にもなった氷室が残る

l  旧道の商店街

中山道の3宿は「浅間根腰(ねごし)の三宿」といって、江戸時代旅人で賑わう。特に、軽井沢宿は旧碓氷峠の坂下集落であったことから繫栄。18世紀半ばには169戸、男595人、女847(うち200人は飯盛女)

1888年直江津線が軽井沢まで開通、1893年アプト式鉄道開通し高崎まで全通。浅間三宿の宿駅交通は衰退したが、軽井沢宿は避暑地別荘の建設が進み賑わう

軽井沢の特産品に軽井沢彫がある。日光彫の技法を導入して、1908年から避暑客を対象に、桜の花や樹を主要デザインとする様式の家具として生産が始まる

 

3.   古代から栄えた軽井沢

最古の遺跡は、縄文前期と思われる土器が見つかった茂沢(もざわ)川上流。その後、縄文中期~後期の遺跡・茂沢南石堂の住居跡と墓地の石組み発見。縄文土器・石器は、杉瓜、発地、千ヶ滝、矢ケ崎川の水源付近からも発見。農耕時代にも人が居住したと考えられている。古代から、関東地方と信濃国を結ぶ交通の要路として発展

l  東山道と長倉牧

古代人のルートは入山峠付近で、1955年以降、碓氷バイパス付近で大量の遺物を発見

碓氷峠が歴史的記述として現れるのは『日本書紀』。日本武尊(やまとたける)の項に、「甲斐より北(きたのかた)、武蔵から上野(こうずけ)をめぐって西(にしのかた)、碓氷坂にいたる。時に日本武尊つねに弟橘姫を顧みる情あり。故に、碓氷嶺に登り、東南を望み三難(さんなん)して曰く『吾嬬者耶(あづまはや)』・・・・」とある

東山道――『延喜式』に駅(うまや)と駅馬(えきば)が記載され、国府の松本から小県(ちいさがた)郡経由佐久郡に入る東山道に、浦野(10)、亘理(10)、清水(現・小諸、10)、長倉(15)とある。長倉駅は中軽の長倉神社付近。東は入山峠と熊野神社の2説並記

長倉牧――信濃国には16の官牧があり、佐久郡には長倉のほか、塩野・望月がある

千ヶ滝プリンス通りの「駒止めの土堤」や、南軽井沢の「馬越」「馬取」などの地名が残る

l  熊野神社の銅鐘

1292年、松井田町の有志が高さ1m、直径60㎝の銅鐘を熊野神社(神宮寺)に奉納

l  浅間根腰の三宿

1602年、中山道の整備開始。江戸から上州の坂本宿を経て、刎(はね)石山の急坂を登り、刎石立場(たてば)・山中立場を経て熊野神社前で長城(1188m)に達し、かもん坂を下って麓に軽井沢宿が造られた。そこから南西に向かい、湯川橋を渡って沓掛宿に入る。浅間の東を越えて上州大笹宿(嬬恋)や草津まで道が通じていた

中山道は沓掛宿から西に進み、古宿・仮宿を通って追分宿へ入り、北国街道(善光寺道)と分かれて南西に向かう。分岐点は「分去(わかさ)れ」と呼ばれ、善光寺の常夜灯が建つ

貝原益軒の『木曽路記』には、「浅間嶽の腰にて地形いよいよ高し。東西2,3里が程たいらなる広野也、寒きこと甚だしくて五穀生せず、ただ稗、蕎、麦のみ多し」とある

軽井沢宿――当時は火山灰に覆われ、標高が高いこともあって住人が少なく、宿場を形成するために上州の入山集落の人々を移住させた。本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21

沓掛宿――規模は小さく、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒。農家が多い。信州・仁礼(にれ、須坂市)へ通じる大笹街道草津道と、南の上州・入山に行く入山道が分岐。大笹(仁礼)街道は北信濃からの物資運搬道で、北国街道や中山道を通らない「中馬(ちゅうま)稼ぎ」という早馬に利用された

追分宿――中山道宿ではもっとも標高が高い。本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠35軒。全此7%が旅籠で、飯盛女が多く、歌い坂・泣き坂・笑い坂などの地名はその名残。「荷物貫目改所(かんめあらためしょ)」が置かれ、道中奉行により通過物資の重量を計測

l  熊野信仰で賑わった峠町

峠町は熊野権現の社家(しゃけ)・社人(しゃじん)などによって形成された集落で、坂本宿や軽井沢宿からは独立した間(あい)の宿。熊野神社への石段の中央が上信両国の境界

本宮には伊邪那美命(いざなみのみこと)と日本武尊、上州側の新宮には速玉男命(はやたまおのみこと)、信州の那智宮には事解男命(こととけおのみこと)が祀られる。氏子は武蔵や甲斐まで広がり、古くから信仰を集めていた。峠山権現講を結んで代表が登る

l  皇女和宮の御下降

惜しまじな君と民との為ならば身はむさし野の露と消ゆとも

18611020日京都発、118日八幡宿を立ち、小田井宿で昼食、沓掛宿に宿泊、翌日軽井沢宿で昼食、碓氷峠羽根石で小休、坂本宿に入る。当時の本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠25軒、百姓家78軒全てに宿泊するため、畳や家具まで整え、夜具は草津に借りた

行列は前後3日にわたって続き、11万人以上の人が通っていった

 

4.   軽井沢へのアプローチ

明治に入って長野県は、産業発展のため、七道開鑿事業を行い、その第1号路線として新碓氷峠に新国道建設したことが軽井沢に新時代をもたらす。新国道には馬車鉄道敷設

l  碓氷新国道の開鑿

1883年、碓氷嶺新道起工、翌年開通、馬車が通れるようになるが、中山道より3㎞長い

l  碓氷馬車鉄道の建設

1887年、群馬県に軽易馬車鉄道会社設立。翌年、横川と軽井沢に14便運航

l  軽井沢駅の開業

長野・新潟両県令が協力して直江津線の建設を始め、1888年直江津~長野間開通。同年末には軽井沢まで延伸。13本の運行。新駅を新軽井沢と呼び、新国道の開通と相俟って賑わいをみせ、反対に旧宿場はさびれ始める

l  碓氷アプト式鉄道

1891年、ドイツの山岳鉄道からアプト式工法を移入。26の隧道と18のすべて煉瓦造りのアーチ橋梁を建設、多くの犠牲者を出す。完成は2年後で、上野~直江津間が全通

1910年から電化工事が始まり、火力発電所が建設され、2年後に完成

l  信越本線の改良

1950年、北信の各町村長や経済団体の代表者が「碓氷線改良促進同盟」を作って老朽化対策を政府に働きかけ、複線化とアプト式の廃止が決まり、1961年着工、新トンネルが掘削され、63年完成し急行「第一信州」が走る。完全複線化は66年。横川・軽井沢間は49分から18分に短縮されたが、後押し機関車の連結や急坂を上下する危険は残る

l  碓氷バイパスの建設

1966年、より緩やかな入山ルートに新道建設スタート。5年後に完成し有料道路として開通。カーブは48カ所に縮減され、峠越えは半分以下の15分に短縮。碓氷バイパスの頂上は、古東山道入山峠の祭祀遺跡と同じ場所。その西には仮宿までの5.9㎞のバイパス工事が71年に始まり、両側に自転車道と歩道を備え、地下に山砂を入れて凍結を防止

l  上信越自動車道の建設

1972年、上信越道の長野県入りが決まる。79年施行命令、82年路線決定。93年藤岡―佐久間(69.5)開通。インターからのアクセス道路5.5㎞の用地は国土計画の提供

l  長野新幹線

1969年、長野・富山・石川3県の北回り新幹線建設促進同盟会発足、翌年新幹線整備基本法成立、「北陸新幹線」計画具体化。89年、高崎―軽井沢間(41.8)の起工式。25.3㎞はトンネル。軽井沢―長野間は91年起工、南原の反対運動には代執行を宣言。97年開業

l  草軽電気鉄道と北軽井沢

1909年、軽井沢駅開業に伴い草津温泉の有力者が軽便鉄道の特許を申請。12年草津軽便鉄道設立。軽井沢駅から旧軽、三笠、旧軽ゴルフの北斜面を通って鶴溜(野鳥の森)経由小瀬(こせ)温泉へ、さらに嬬恋村から草津へ。26年全通。軽井沢の別荘地が北に延びる

北白川宮家経営の白川牧場が蒸気機関車からの火の粉で全焼すると、その土地を法政大学長が買い取って、1927年法政大の教職員に別荘地として開放

堤康次郎は、千ヶ滝別荘地の開発に続いて、峰の茶屋から鬼押出しへの自動車道を建設、鬼押出し一帯を観光地として開発するが、45年上越線渋川―長野原間の旅客営業が始まると、草軽電鉄の乗客は激減し、60年軽井沢―三原間、62年三原―草津間運転終了

l  旧軽井沢駅舎記念館

1910年駅舎改築。洋風2階建て、2階には貴賓室。新幹線開通に伴い、軽井沢駅の西に移され、貴賓室は歴史記念館に、1階待合室は展示室となって一般に公開

 

5.   軽井沢の別荘建築

l  軽井沢の建築

町家の並ぶ街道沿いの宿場町から出発したが、避暑地として外国人宣教師に注目されたため、宗教的な営みを持ちつつも、夏の一時期を質素ながら快適に過ごすという要求に従って、実質的な側面を重視した軽井沢バンガローと呼ばれる初期の建築を生み出し、その後連綿と発展的に成長させ、レーモンドや吉村順三へと受け継がれていった

l  明治時代

当初から宿場町とは住み分けられていた。明治時代から路面部分のみを新しく見せようとした「看板建築」とは異なり、量感を持つ立体を求めた近代建築と呼応するもの

多くの施工を手掛けたのが地元の棟梁の小林代造・孝七兄弟。三笠ホテル、ショーハウス、ショー記念礼拝堂、三井三郎助別荘、日本女子大三泉寮などがある

   ショーハウス記念館(1986年復元)――旅籠を移築、外観は和風、内部は洋風

   英国公使ヒュー・フレイザー別荘(1890年、滅失)――二手(にて)橋近辺、初の新築

   八田裕二郎別荘(1893、現存)――軽井沢避暑団創立に中心的役割を果たす

   水車の道の「三軒別荘」(1894,改築)――旧つるや旅館裏の外国人向け貸し別荘。初のテニスコートを持ち、外壁は押縁下見板(おしぶちしたみいた)、板張りの切妻屋根

   日本聖公会軽井沢ショー記念礼拝堂(1895、現存)――軽井沢最初の教会、増改築。敷地内に1908年村民からショーへの謝意を表した記念碑や胸像(1985年設置)がある

   ユニオン・チャーチ(1897、改築)――ノーマンらによって創立された超教派の教会。1918年ヴォーリズの設計で改築。「オーディトリアム」とも呼ばれ、人びとの交流の場

   三井三郎助別荘(1900、現存)――軽井沢における本格的洋風別荘の第1号。初めて外壁にハーフティンバー(木骨様式)を採用、茶色の柱と漆喰の白壁が特徴

   軽井沢ホテル(1900、滅失)――旧本陣の佐藤熊六が建てた本格的洋式ホテル。リンドバーグ大佐夫妻の歓迎パーティーや文壇など軽井沢社交界の中心だった。1938年閉鎖

   万平ホテル(1902、改築)――1894年佐藤万平創業の軽井沢最古の洋風ホテル。1936年久米権九郎の設計で改築。信州中南部の「本棟(ほんむね)造り」を意識した意匠。本館(アルプス館)、桧館は2007年経産省近代化産業遺産に認定。万平は軽井沢名誉町民

   旧三笠ホテル(1905、現存)――実業家・山本直良が建てた純西洋式木造ホテル。設計・岡田時太郎、監督・佐藤万平、棟梁・小林代造。戦時中は外務省軽井沢出張所になり、戦後は接収。その後長銀所有となり、軽井沢町に寄贈。1980年国の重要文化財指定、2007年経産省近代化産業遺産に認定

   日本女子大「三泉寮」(1906、改築)――三井三郎助から日本女子大に5000坪の土地と寮舎を寄贈。軽井沢初の学校寮施設。健康・知識・心霊の3つの泉の意。その後改築

   ()軽井沢駅舎記念館(1910、復元)――アプト式鉄道の電化に合わせて旧駅舎を一新。高崎―直江津間では唯一の洋風駅舎。貴賓室を備える。新幹線開通に伴い解体、2000年新駅舎隣接地に復元。2007年経産省近代化産業遺産に認定

   明治44年館(旧軽井沢郵便局舎、1911、移築)――避暑地の発展に伴い扱いが急増。佐久地方唯一の2等郵便局に昇格したことに伴い、木造2階建ての洋風局舎新築。1965年新局舎建設に伴い、観光会館として転用。94年解体、タリアセンに移築、レストラン・美術館に活用。2008年国登録有形文化財指定

   雨宮敬次郎邸(現存)――1883年甲州の実業家・雨宮が官・私有地330万坪を買収して開墾(雨宮新田)、落葉松植林事業を計画。明治末期、離山麓に邸宅・新座敷建築

   清響館「油屋」(改築)――1886年、追分宿脇本陣油屋が鉄道開通前の軽井沢駅前に「清響館油屋」開業。機関車入れ替え時間に販売した油屋弁当部の駅弁が大人気

   追分宿脇本陣油屋(江戸時代、焼失)――中山道屈指の威容を誇り、大正~昭和にかけて堀辰雄、立原道造などが滞在、作品を残したが、1937年焼失。中山道の反対側に再築

l  大正時代

大規模な土地分譲と別荘建築が一体となって展開

野沢源次郎が開発した道沿いに建てられたのが、建築会社「あめりか屋」による建築――細川護立別荘(1916)、大隈重信別荘(1917)、軽井沢通俗夏季大学(1918)など、外観は洋風、内装は和風。60軒ほど建てられたが、現存は5軒ほど

アメリカから来たキリスト教伝道師ヴォーリズの設計による建築も6364軒建てられ、1/3ほど現存。ユニオン・チャーチ(1918)、軽井沢集会堂(1922)など

   日本キリスト教団軽井沢教会(19121929、現存)――日本人キリスト教徒のための教会としてノーマンらによって1905年創立され、1912年ヴォーリズの設計で建築、29年現在地に移築。礼拝室祭壇の上には、軽井沢彫始祖の川崎巳次郎が落成時に寄贈した椅子が現存。併設の幼稚園は「ダニエル・ノルマン記念軽井沢幼稚園」の名が残る

   細川護立別荘(1916、滅失)――アメリカや別荘の代表作。3階建て。近年滅失

   大隈重信別荘(1917頃、滅失)――3000坪に複数の棟を連結させた長大な別荘。早稲田のグラウンドができ、昭和天皇が摂政宮時代の1923年夏ご宿所とされた

   晴山ホテル(旧根津嘉一別荘、1919、滅失)――矢ケ崎、三度山付近を買収し、アメリカや建築による別荘を建て、国土計画が買収して1950年ホテル開業(現プリンス・ウェスト)1964年東京オリンピックの馬術競技の選手村にあてられ賑わう

   軽井沢通俗夏季大学(1918、滅失)――後藤新平総裁、新渡戸稲造学長により開校。第2次大戦中は中断し、1949年「軽井沢夏期大学」として市村今朝蔵らによって再開され今日に至る。全国から聴講生が集まる

   野沢マーケット(滅失)――1918年、別荘族のために六本辻と雲場池の中間付近に洋風マーケットを開設、複数の店舗が軒を連ねた

   有島武郎部莊(浄月庵、移築)――木造2階建て和洋折衷の建物、明治末頃の建築、1989年旧軽井沢青年会に譲渡され、さらに軽井沢高原文庫に寄贈。三笠ホテルの山本直良の妻・愛子は武郎の妹

   軽井沢集会堂(1922、現存)――朝吹常吉(三越社長)らの拠出によりヴォーリズ設計で建築、日本人クラブの拠点に。()軽井沢会所有で催事に使用。1995年全面的修復

   グリーンホテル(1923、改築・滅失)――箱根土地が千ヶ滝に建設。木造2階建て

   軽井沢夏季診療所(マンロー病院、1925、滅失)――矢ケ崎川沿いにヴォーリズの設計で造った3階建てのサナトリウム。後にホテルとして使用後、1995年取り壊し

   歴史民俗資料館分室市村記念館(旧近衛文麿別荘、1923、移築)――1926年、近衛が野沢原に買ったあめりか屋建築の別荘を、1933年市村今朝蔵が譲り受け南原に移築、南原別荘地開発の拠点に。市村夫妻没後、離山公園内の現在地に移築復元、軽井沢町に寄贈。歴史資料館として今朝蔵の伯父・雨宮敬次郎、近衛、市村家等の資料を展示

   近江兄弟社コテージ(滅失)――1905年来日のヴォーリズは近江八幡でミッションを起こし、1912年軽井沢に近江ミッションのための60軒を超える山荘群を開発。2008年滅失

   堀辰雄山荘(旧スミス別荘、1918頃、移築)――1941年堀は釜の沢のスミス別荘を購入、44年まで毎夏使用。カラマツを主材とした柿(こけら)葺き(現在はトタン張り)の切妻屋根。65年頃からは親交のあった深沢省三・紅子夫妻のアトリエ。84年堀多恵子夫人より軽井沢高原文庫に寄贈され、翌年現在地に移築

   田中角栄記念館分室(旧徳川圀順(くにゆき)別荘、1920、現存)――あめりか屋建築の最高級建物。白一色で統一された総下見板張。第2次大戦後、田中角栄が譲り受け、2008年記念館に。2007年国登録有形文化財指定

l  昭和時代

広い敷地の中で小さいながらも量感のある立体的な建築が、禁欲的で簡素な合理性と国際性を伴って展開した時期。地元の大工棟梁が別荘建築に明るくなった。ヴォーリズに続いて、1919年来日したレーモンドが、さらに吉村順三が同じ方向性を持つ建築を生み出す

   軽井沢会テニスコート・クラブハウス(1930、現存)――御木本隆三がヴォーリズに設計を依頼、軽井沢避暑団に寄贈

   旧朝吹山荘(睡鳩(すいきゅう)荘、1931、移築)――朝吹常吉が愛宕山に新築したヴォーリズ設計の和洋折衷式の2階建て別荘。娘・登水子の遺志で軽井沢高原文庫に寄贈、2008年塩沢湖畔に移築・復元

   室生犀星記念館(旧犀星別荘、1931、現存)――犀星は1923年から軽井沢を訪れ、31年大塚山に和風別荘を建て、戦中・戦後の5年間疎開生活を送る。「コオロギ箱」と呼び親しみを込めた。作庭にも熱中し苔庭は見事。61年、二手橋付近の矢ケ崎川沿いに詩碑建立:「我は張りつめたる氷を愛す・・・・」

   ペイネ美術館(旧レーモンド夏の家、1933、移築)――最初の別荘兼アトリエの設計にあたり、日本の木造工法にモダニズム建築導入の実験を行い、以降別荘建築が洗練されていく。1986年軽井沢タリアセンに移築

   前田郷本館(1933、現存)――昭和初期、鉄道建設請負業の前田栄次郎が三笠に貸別荘「前田郷」を開業。中心に精密な丸太造りの本館を置き25軒の別荘を配置。紅葉の名所

   聖パウロ・カトリック軽井沢教会(1935、現存)――英人ワード神父が設立、レーモンドの設計で献堂。正面はチェコ風、本体と鐘楼はスロバキア風。空中で交差する「鋏(きょう)状トラス」と呼ばれるX字型の太い梁が特徴。日光の宮大工・中村兵二施工

   三五荘(南ヶ丘美術館史料館、1935移築)――2007年国登録有形文化財指定。実業家・原田六郎が山梨・塩山から移築した豪農の古民家。中央工学校の研修施設で公開

   旧鈴木歯科診療所(片岡山荘、1936、現存)――東京の歯科医が夏の診療のためヴォーリズに依頼して建築。三笠通りに面した、低勾配の切妻屋根、紅殻色の下見張り。所有者が変わり、下宿所として内部改装。2008年国登録有形文化財指定

   近藤長屋(1938、滅失)――避暑地軽井沢の先人として知られる名古屋の綿糸商・近藤友右衛門が旧道銀座に造った出張店街。2003年解体

   軽井沢新スタジオ(旧レーモンド別荘、1962、現存)――再来日したときに建てた別荘兼新アトリエ。茅葺、カラマツの縦板張りで外観は純和風

   小さな森の家・吉村順三別荘(1967、現存)――旧道銀座の東の山中に鳥の巣箱が宙に浮いたような山荘を建てる。ピロティで持ち上げた2,3階が居住部分

   足立別荘(樅の木の家、1966、現存)――レーモンド最後の作品・集大成。自身の弁護士ジェームス・足立の別荘。88年ミネベアが買収、同社保養地内に保存

   旧スイス公使館(深山荘、1942、現存)――前田郷内に建設。44年からスイス公使館の疎開別荘として使用

 

6.   軽井沢の景勝地

1951年、軽井沢国際親善文化観光都市建設法公布・施行。73年、町制施行50周年を記念して「軽井沢町民憲章」制定。地域の開発を厳しく規制

観光協会が推進する「軽井沢オープンガーデン」事業では、個人の庭を一般公開する

l  浅間山

コニーデの成層火山

l  愛宕山のオルガンロック

三笠通り東側の個人所有の山。標高1174m。元は信仰の山で、京都の愛宕山に由来。玄武岩などの火成岩ができる際、冷却に伴う体積の収縮により生じる柱状の割れ目(柱状節理)が見られる

l  碓氷峠の見晴台

標高1205mの公園を兼ねた展望台。戦国時代には狼煙台設置。「近藤長屋」の近藤友右衛門が1919年公園に整備して、57年町に寄贈。近藤翁頌徳碑が立つ

l  信濃路自然歩道

「長野県信濃路自然歩道設置要綱」に基づき15ルートが国によって整備され、管理・維持が町に移管。軽井沢では、峰の茶屋→白糸の滝→竜返しの滝→小瀬→三笠橋の10.3

l  白糸の滝

高さ3m、幅70m、標高1260m。浅間山を取り囲む湧水群の1

l  石尊山と座禅窟

浅間山の前に、安山岩質の溶岩ドームとしてできたもの。標高1667m。山の南面にある上下2つの洞窟が座禅窟。浅間の噴火を避けて行者が苦行に籠り、血の滝(赤滝)での禊と座禅を繰り返す。奥には1737年の石仏が安置。石仏観音22体が残る

l  湯川の源泉と赤滝

赤滝がある濁川は、石尊山東側の谷を源とし、佐久市横和で湯川に合流。鉄錆色が特徴。最上流部には2つの湧水があり、鉄分を多く含んだ地下水が噴き出す

l  御影用水の温水路(千ヶ滝湯川用水温水路)

小諸市東南の御影新田のために小諸藩の郷士・柏木小右衛門によって開削された用水路。全長7里の千ヶ滝用水(上堰)と全長9里の湯川用水(下堰)195052年完成。昭和3040年代に改修・新掘削。御代田町の馬瀬口付近で岩村田用水が合流。1967年、浅間の低温の伏流水の水温を上げるために幅20m 1㎞の灌漑用温水路が造られた

l  千ヶ滝と千ヶ滝せせらぎの道

千ヶ滝は湯川支流水源近くにあり、落差20m。滝までは「せせらぎの道」と名付けられた1.4㎞の遊歩道が林野庁によって1999年完成

l  塩沢湖

1961年、地元住民が造成した人造湖。3.6ha。地元は農業から観光業への転換を企図、59年から民宿ができ、塩沢湖スケートリンクが賑わった。そのあとはテニスコート

l  御膳水と雲場池

御膳水は、ホテル鹿島の森敷地内にある谷の湧水で、本陣で使われ、1878年行幸の際も使用され、その石柱が残る。雲場池は御膳水を源とする雲場川を堰き止めた人造湖。東西40m、南北260m。周辺の68.7haは、1955年雲場川風致地区に指定。下流が精進場川

l  三笠通りの落葉松並木

カラマツは寒冷地でも成長が速いことから、1960年代までは坑木、杭など建設用木材として多用され、中部以北で大規模な植林が行われた。三笠通りには落葉松並木の中央分離帯が走るが、西側は草軽電鉄鉄道敷跡。1994年読売新聞の「新・日本街路樹100景」に

l  国設軽井沢野鳥の森

102haの森に3㎞の遊歩道。コース中程のドングリ池は、野鳥の水場として造られた人造池。日本野鳥の会創設者・中西悟堂は昭和初期星野温泉に逗留して探鳥会などを行い、森の入口に胸像がある。1974年日本初の野鳥の森として環境庁指定

l  軽井沢歴史の道

200607年、観光協会と軽井沢ナショナルトラストにより、38の通りを歴史の道に指定し整備――軽井沢駅から旧軽井沢ロータリーまでを「軽井沢本通り」、以下「鳩山通り」「新渡戸通り」から「峠道」「水源地の道」、「お気持の道」「ロストボールレーン」など各種

 

7.   軽井沢の生物

長野県レッドデータブック記載の絶滅危惧種は、維管束(いかんそく)植物57種、動物39種。長倉のハナヒョウタンボク(スイカズラ科)群落も希少性の高い植物群落としてリスト

l  軽井沢に見られる樹木

牛馬の放牧地として森林はなかったが、第2次大戦後、カラマツの植林を行った結果、現在はほとんどの場所が林で覆われ、大半がカラマツの人工林

噴火で死滅した土地に地衣類が生え、草本植物が生え、次第に低木が成長し森林に変わる(植生遷移=乾性遷移)

町の木はコブシ

l  お勧めの樹木ウォッチングコース

信濃路自然歩道――ハルニレ、ミズナラ、カツラ、サワグルミなどの巨木が林立

l  軽井沢に見られる主な樹木たち

天然カラマツ林――日本特産の落葉針葉樹。日本全国に植林されているが、天然は限定

ハルニレ林――ニレ科。北国に多い。ほとんど伐採され、町内に残るのは貴重

ミズナラ・コナラ林――ブナ科。ドングリが動物の食料となり、生態系に貴重な役割

アカマツ――広く植林。乾燥に強い

トチノキ、シラカバ、ウラジロモミ

l  軽井沢で見られる野草たち

1000種を超える植物が自生するが、天明の大噴火で死滅した後に育ったもの

太平洋気候の植物の北限――トウゴクミツバツツジ、レンゲショウマ

大陸要素――アサマフウロ、エンビセンノウ

町の花はサクラソウ

l  お勧めの野草散策コース

旧軽井沢商店街から見晴台への遊歩道

離山登山道

l  春に見られる主な野草たち――ルリソウ(ムラサキ科)

l  森や林で見られる花たち――アズマイチゲ(キンポウゲ科)、ヤマエンゴサク(ケシ科)、ヒトリシズカ(センリョウ科)

l  草原や人里で見られる花たち――オオイヌノフグリ、ナズナ、カキオドシ

l  夏から秋に見られる主な野草たち――コオニユリ(ユリ科)、オミナエシ

l  よく見られる代表的な夏の花――ヤマホタルブクロ、オタカラコウ(キク科)

l  よく見られる代表的な秋の花――キキョウ、オミナエシ、リンドウ

l  軽井沢で見られる野鳥たち

日本3大探鳥地(他に奥日光、富士山麓)。昭和初期には日本野鳥の会による探鳥会が頻繁に開催された。年間を通して130種類ほど観察

町の鳥はアカハラ(ツグミ科)――胸から腹にかけてオレンジ色が特徴

l  お勧めの野鳥観察スポット

国設軽井沢野鳥の森(前出)――キビタキ、オオルリ、クロツグミ、ノジコ

千ヶ滝遊歩道――ミソサザイ、カワガラス

l  夏鳥 夏に子育てのために南の国から渡ってくる鳥

130種のうち50種は夏鳥。夏の繁殖期を日本で過ごす

l  森林に棲む鳥――アカハラ、キビタキ、オオルリ、コサメビタキ、コルリ

l  草原に棲む鳥――オオジシギ(シギ科)、ホオアカ、コヨシキリ

l  留鳥(りゅうちょう) 1年中、軽井沢で見られる鳥

シジュウカラ(カラ類)、アカゲラ、コゲラ(キツツキ科)

l  冬鳥 冬に越冬のために北の国から渡ってくる鳥

オオマシコ、アトリ、シメ、ベニマシコ、ミヤマホオジロ、コガモ

l  軽井沢で見られる動物たち

希少動物では、ニホンカモシカ(特別天然記念物)、ヤマネ(天然記念物、長野県・環境省準絶滅危惧)、オコジョ(長野県・環境省準絶滅危惧)、コウモリ類(ヤマコウモリは絶滅危惧、ウサギコウモリは準絶滅危惧)

ツキノワグマ――目は良くないが、嗅覚と聴覚には優れている

ニホンザル――80頭前後の大きな群れで移動

ニホンリス――町の獣に指定。春に4頭前後の仔を生む

外来種の動物――アライグマ、ハクビシン

魚類――イワナ、ヤマメ、カジカ、ホトケドジョウ(絶滅危惧)

爬虫類――ヘビ類6種、ニホントカゲ

両生類――カエル7種、ハコネサンショウウオ、イモリ

昆虫類――高山蝶、シジミチョウ、ホタル

 

8.   軽井沢の特産品

l  軽井沢彫

1908年、日光彫の職人・川崎巳次郎と清水兼吉が、外国人の別荘を対象に、彫刻家具製造販売の店を開業。植物文様が中心だったが、次第に桜が主要題材となる

1983年、軽井沢彫製造販売組合結成(当初9軒、現在5)、長野県の伝統工芸に認定

特徴――洋式家具、木彫、ムク材(トチノキ、カツラなど)、「蟻組、枘(ほぞ)組」などの接合方法をとる、着色(合成染料や漆も)、手作り、端材は小物に

l  パン

最古の創業は1910年。ショーから製法が直接伝授され、ホテルでも開業と同時にパンが焼かれていた。ジョン・レノンが自転車でパンを買いに来た逸話が残る

l  ジャム

パンの歴史よりも古く、宣教師から製法を学んだ「中山のジャム」が1905年に創業

l  ハム・ソーセージ

ドイツ人直伝の味と製法が自慢の店がある

l  三笠焼(幻になってしまった特産品)

三笠ホテル敷地内の横浜真葛(まくず)焼。創始者・宮川香山(こうざん)の死去で閉窯されたので、わずか10年ほど稼働の幻の焼き物。本家横浜でも大空襲により4代で途絶

 

9.   高原野菜の発祥地

l  高原野菜

主役はキャベツ。明治20年代後半、外国から移入した種子で育てたキャベツで、戦前は「甘藍(かんらん)」、地元では「玉菜(たまな)」と呼ばれた

高原野菜のアラカルト――葉物3(キャベツ、白菜、レタス)から、現在はチンゲン菜、サニーレタス、グリーンボールなども生産

農産物直売所――直売所に登録しているのは128名。67品目。一番人気はトウモロコシ

l  蕎麦の里づくり「軽井沢ソバ振興会」

遊休農地活用の取り組みとして蕎麦の栽培が始まる。2008年現在、振興会会員は74

l  新しい特産品を目指して

高糖度トマト――2009年発地に生産施設稼働。6農業生産法人で組織するサンファーム軽井沢によって運営。「アメーラトマト」を共同出荷。国の農業づくり交付金補助の対象

l  保温折衷苗代の創始者・荻原豊次(とよじ、18941978)

高冷地用苗代づくりとして荻原が発明、1942年技術体系完成、県農事試験場によって補強。陸(おか)苗代に水稲の種を播き油紙で保温して発芽させ、生育を見極めてから灌水し水苗代とすることにより、田植えを1カ月早めることに成功。勲五等、名誉町民

 

10.    軽井沢の温泉

草津温泉の湯治客が沓掛を玄関口として利用したことに始まる。強酸性の熱泉に爛れた皮膚を治すために、草津街道沿いの弱アルカリ性の泉質の温泉に逗留した

l  星野温泉

湯治客に人気のあった星野の赤岩鉱泉を温泉にしようとしたのが星野国次(2代目嘉助)1911年赤岩鉱泉・塩壺の湯一帯を購入、14年旅館建設、温泉掘削を継続。湯川の水利権を獲得して水力発電により、2942℃の温泉に仕上げる。現在の源泉は4647

l  小瀬温泉

1876年営業開始。現在2軒の宿がある

l  塩壺温泉

1934年、星野正三郎(2代目嘉助の弟)が温泉旅館開業。生糸の貿易会社創設、この地域初の湯壺(初壺)を発見、塩壺とした。浅い井戸で自噴、温度は高くないが環境には優しい

l  千ヶ滝温泉

1918年、堤康次郎が沓掛地区から山林を買収、別荘地開発に着手、93年開業

l  その他の温泉施設

ゆうすげ温泉、ラフォーレ、オーナーズヒル(茂沢)3

 

11.    軽井沢のスポーツ施設

l  軽井沢町社会体育館

1978年、「やまびこ国体」で建てられ、柔道・剣道・卓球・バスケットコートがある。軽井沢中学に隣接

l  馬越公園スポーツ施設

F  スケート場――2001年開設

F  スカップ軽井沢――1998年オリンピックのカーリング競技会場「風越公園アリーナ」に併設され、練習会場として使用。冬はカーリングに、夏は温水プールとして使用

F  風越公園アイスアリーナ――1990年オープンの多目的屋内運動施設。2009年通年型アイスリンクに改修

F  風越公園屋外テニスコート――1973年開設。98年人工芝に

F  風越公園グラウンド――1973年、多目的グラウンドとして営業開始

l  風越夫婦石マレットゴルフ場――1996年開設。98年には36ホールに増設

l  追分第2運動場――1979年より、1000m林道に面した別荘地のテニスコート

 

12.    軽井沢で開催されたオリンピック

l  1964年、第18回東京大会・総合馬術競技――南軽井沢・地蔵が原一帯

12か国48人が参加、4日間。選手村は晴山ホテル(現・プリンスウェスト)。アブを一掃

l  1998年、第18回冬季長野大会・カーリング競技――風越公園アイスアリーナ

男女8か国。カーリングが初のオリンピックの正式種目に昇格。選手村は軽井沢スケートセンターホテル。日米タイブレーク戦(決勝リーグ出場戦)での死闘は語り草(日本は5)

 

13.    軽井沢の博物館・美術館・植物園・音楽ホール

l  博物館

F  旧三笠ホテル――1983年一般公開。現在耐震工事改修中。25年再開予定

F  歴史民俗資料館――1980年、離山麓、図書館に隣接して開設。中国陶磁器コレクションの吉沢三朗記念館併設。分室が市村記念館(旧近衛文麿別荘)

F  追分宿郷土館――1985年、「街道と歴史と文化」をテーマに浅間神社北に建設

F  堀辰雄文学記念館――1993年、追分に開設

F  室生犀星記念館――1931年新築の室生犀星の大塚山下の別荘を一般公開

F  ()軽井沢駅舎記念館――1910年の大改築後の建物を再現

F  軽井沢オリンピック記念館――風越公園内

F  ショーハウス記念館――1986年、大塚山の別荘を記念礼拝堂隣に復元し展示公開

F  軽井沢高原文庫――1985年、塩沢湖畔に開館。堀辰雄山荘、有島武郎別荘、野上弥生子書斎を移築展示

F  エルツおもちゃ博物館・軽井沢――1998年、ドイツ・エルツ地方に300年にわたって続く木工工芸玩具や北欧の知育玩具などを収集展示

F  中山道69次資料館――2005年、『中山道69次を歩く』(信濃毎日新聞刊)の著者が開館

l  美術館

F  セゾン現代美術館――1981年、マン・レイやパウル・クレー等国内外の現代美術を収集

F  田崎美術館――1986年、文化勲章の田崎廣助画伯の美術館。設計は原広司

F  ペイネ美術館――1986年、仏人画家レイモン・ペイネの作品展示。建物は元レーモンドのアトリエを移築

F  軽井沢型絵染美術館――小林今日子が「型絵染」の無形文化財人間国宝・芹沢銈介に師事し、40年以上打ち込んだ作品を展示。新渡戸通り、東雲近くに開館

F  軽井沢絵本の森美術館――1990年開館。絵本原画・初版本など収集

F  脇田美術館――1991年開館。洋画家脇田和の作品を展示。吉村順三設計のアトリエも

F  ル・ヴァン美術館――1997年開館。文化学院の創始者・西村伊作の思想を伝える美術館

F  軽井沢ボヘミアンガラス美術館――本通り、東雲近辺

F  深沢紅子野の花美術館(国登録有形文化財)――1996年開館。洋画家・深沢紅子の水彩画中心。建物は旧軽井沢郵便局を移築

F  小さな美術館軽井沢草花館――1997年仮宿に開館、06年軽井沢東に移転。画家・石川功一の個人美術館

F  三五荘(南ヶ丘美術資料館、前出)――塩山から移築した古民家。新軽井沢ゴルフ場に隣接

F  旧軽井沢森の美術館――トリックアートの参加型美術館。旧軽商店街の入口付近

l  植物園

軽井沢町立植物園――1975年、風越公園に開園。2ha1600

l  音楽ホール

軽井沢大賀ホール――2005年、大賀典雄が町に寄贈。784席。1970年ミケランジェリ来日の際持参したハンブルグ・スタインウェイコンサートグランドピアノ設置

 

14.    軽井沢の文学

l  文学者

F  有島武郎(18781923)――1916年から来軽。三笠の別荘「浄月庵」で波多野秋子と情死。軽井沢を描いた作品に『信濃日記』『小さき影』など。夏季大学でも公演

F  片山廣子(松村みね子18781957)――歌人・アイルランド文学翻訳家。21年から来軽

F  正宗白鳥(18791962)――1912年から来軽。六本辻に別荘。戦後も57年まで在軽。『日本脱出』(1949)は軽井沢が舞台

F  野上豊一郎・弥生子(18851985)――1928年北軽へ移住。軽井沢を舞台にした作品が『迷路』『鬼女(きじょ)山房記』。96年高原文庫に移築された鬼女山房は書斎兼茶室

F  室生犀星(18891962)――1920年初来訪。31年大塚山下1133番に別荘。軽井沢を舞台にした作品が『杏っ子』『聖処女』『碓氷山上之月』など

F  岸田國士(18901964)――1931年法政大学村に山荘。『浅間山』『泉』など

F  芥川龍之介(18921927)――19245年来軽。つるや旅館滞在。草稿『軽井沢で』

F  芹沢光治良(18961993)――1932年星野に山荘。日本のスイスを見る。『神の微笑』

F  川端康成(18991972)――1931年から来軽。37年別荘購入。その後新築。軽井沢を舞台にした作品に『牧歌』『高原』『秋風高原』など

F  堀辰雄(190453)――1923年室生犀星に誘われて来軽。『ルウベンスの偽画』『美しい村』『菜穂子』。追分の自宅で病没

F  円地文子(190586)――1938年以来六本辻の別荘に。『高原旅情』『彩霧(さいむ、原題『軽井沢』)。上田萬年の次女

F  井上靖(190791)――1960年上ノ原に別荘新築。『憂愁平野』『晩夏』『碧落』など

F  立原道造(191439)――1934年信濃追分に滞在、詩2篇「村ぐらし」「詩は」が『四季』に掲載され文壇初登場。ソネット(14行詩)を発表。室生・堀に兄事。東大建築学科の卒業設計のテーマは「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」

F  中村真一郎(191897)――第2次大戦前から来軽。『四季』『火の山の物語』が舞台に。軽井沢高原文庫元館長

F  福永武彦(191879)――信濃追分の山荘玩草(がんそう)で四季折々を楽しむ

F  遠藤周作(192396)――学生時代から来軽、68年千ヶ滝に別荘。『薔薇の館』など

F  辻邦生(192599)――64年以降貸別荘を転々。76年旧軽に山荘。旧制松本高校出身

l  文学碑

F  万葉集歌碑――碓氷峠の歌2首を刻んだ歌碑。旧碓氷峠見晴台に建立

日の暮れに宇須比(うすひ)の山を越ゆる日は ()なのが袖もさやに振らしつ

(14・よみ人知らず)―夫と別れ、碓氷峠を越える妻が夫を想い歌った歌

ひなくもり宇須比の坂を越えしだに (いも)が恋しく忘らえぬかも

(20・他田部子磐前おさたべのこいわさき)―防人に赴く夫が妻を思って歌った歌

F  「一つ家(ひとつや)の歌碑」――数字の歌碑。天明の噴火で埋没したものを熊野神社の社人が峠の上州寄りに再建

八万三千八 三六九三三四七 一八二 四五十三二四六 百四億四六

(山道は 寒く寂しな 一つ家に 夜毎身にしむ 百夜置く霜)

F  芭蕉句碑――2基あり、1つは追分の浅間神社境内に芭蕉100年忌の1793年、佐久の春秋庵連により建立。『更科紀行』(1688)から「ふきとばす 石も浅間の 野分かな」

もう1つはショー記念碑の道を隔てた向かいに1843年、地元の俳人小林玉蓬が建立。甲子吟行の句「馬をさへ なかむる雪の あした哉」

F  タゴール記念碑――1916年来日の折、日本女子大の修養会の講師として「祈り」について講和を行ったのを記念して、タゴール生誕120年の1980年、日本タゴール協会等により峠の見晴台に建立。高田博厚作。背後に彼の言葉「人類不戦」が刻まれる

F  与謝野寛・晶子夫妻歌碑――1921年夫妻が星野温泉明星館に滞在し多くの歌を詠んだのをもとに、星野嘉助が明星池の畔に建立。いずれも自筆。トンボの湯近くに移設

一むらの しこ鳥のごと わかき人 明星の湯に あそぶ初秋      

秋風に しろくなびけり 山ぐにの 浅間の王の いただきの髪    晶子

F  有島武郎終焉地碑――1951年、浄月庵跡に建立。有島生馬筆。脇に吹田順助の詩「混沌の沸乱」の1節が刻印。傍に「ティルダへの友情の碑」。軽井沢高原文庫に移築

F  正宗白鳥詩碑――二手橋の奥、一文字山の中腹に立つ。白鳥愛唱のギリシャの詩をスウェーデン産黒御影石に自筆で刻む。没後、丹羽文雄の発案で文壇の醵金により1965年建立。谷口吉郎設計。石の下には愛用の万年筆が入れてある

花さうび 花のいのちは いく年ぞ 時過ぎてたづぬれば 花はなく あるはただ いばらのみ

F  北原白秋詩碑――1920年星野温泉での自由教育夏季講習会に講師として参加した白秋が児童自由詩について講和した際詠んだ詩「落葉松」は、同年の『明星』に発表。1969年に軽井沢町が自然石を使って星野温泉入口湯川沿いに建てる

からまつの林を過ぎて まらまつをしみじみと見き からまつはさびしかりけり・・・・

F  室生犀星文学碑――1960年野間文芸賞受賞を機に、自らの文学碑を建てる。二手橋を渡った矢ケ崎川沿い。自身で詩の選択(『鶴』所収の「切なき思いぞ知る」)、設計、建立一切を行う。傍らには、中国旅行から持ち帰った俑人2体が立つ

F  中西悟堂詩碑――中軽井沢でよく探鳥会を開催、地元からも敬愛。1979年野鳥の森入口に建立。自筆の詩『ここぞたかはら』の全文を刻印。86年には胸像も

F  中村草田男句碑――『萬緑』主宰の俳人。2004年萬緑同人会により聖パウロカトリック教会裏に建立。表面は聖母子像のレリーフ。36年から妻に導かれてミサに通った

八月も 落葉松淡し 小會堂(チャペル)

 

15.    軽井沢と皇室

1878年、明治天皇北陸東海御巡幸の際の行在所が、軽井沢と皇室の出会いの始まり

19238月の1週間、昭和天皇が大隈重信別荘に避暑滞在。以後皇族の別荘建設が続く

2次大戦中、貞明皇太后は旧軽井沢の大宮御所に疎開

皇太子殿下ご一家の軽井沢でのご滞在は千ヶ滝プリンスホテル(旧朝香宮別荘)

皇后陛下の歌碑が軽井沢病院庭に建立(2003)。軽井沢自生のアサマキスゲ(夕すげ)に寄せた歌

かの町の 野にもとめ見し 有すげの 月の色して 咲き ゐたりしが

 

16.    軽井沢の文化活動・地域活動

l  軽井沢夏期大学

避暑中の内外文化人を講師として迎え、英語教師を中心として講座を開く計画で立案され、1917年の木崎夏期大学に続き、翌年新渡戸稲造(東京女子大初代学長)、後藤新平(内相)らによって創設。戦時中の中断後、1949年再開、以後毎年8月初めに開催

l  早稲田大学交流事業

信濃追分の同大セミナーハウスにて、1998年から同大理工学術院の協力により町内の小学生を対象に「おもしろ科学実験教室」を開催。同大講師による講演会も開催

l  歴史的建造物の保全活動

「軽井沢ナショナルトラスト」――1994年、町民有志の呼びかけで始まる。別荘ウオッチング、各種展覧会などを通じ、歴史保全の重要性を訴える。国の登録有形文化財申請も

l  タウン誌の発行

1979年タウン誌『軽井沢メイト』発刊、その後『軽井沢ヴィネット』と改名、104号を数える

l  自然保護活動

F  NPO法人ピッキオ――ツキノワグマ保護管理を通して、人と野生動物の共存を目指す。個体管理、誘引物管理(クマを人家に引き寄せない)、環境整備(出合頭の事故を防ぐ)、生態調査、普及啓発(クマの生態を伝える)、ベアドッグ(クマ対策犬)の導入などの活動

F  どんぐり運動の会――1986年発足。落葉広葉樹の森を増やしていく活動。町内で拾ったドングリを畑で育て、苗を国有林に植林(どんぐりがえし)

F  軽井沢サクラソウ会議――2000年発足。サクラソウを保全のシンボルに、町の多様な生態系の保全に有効な方策を提案・実施する会。モニタリング調査を住民参加型で実施

F  発地ホタルを愛する会――2000年発足。ホタルの保存運動

F  NPO 軽井沢・森の街つくり隊――2003年結成。中軽井沢を「森の街」にするため、商店のシャッターに野鳥と森のペイントをして街並みの統一感と美化を図る。姉妹都市ウィスラー市に因んで、サトウカエデの森づくりも行う

l  軽井沢土地懇話会

南ヶ丘の国際高等セミナーハウスで国立情報学研究所が主催する先端科学の情報を共有する会。地元や外部も聴講できる

 

17.    軽井沢のまちづくり

l  軽井沢町の発展を支えてきた主な条例・要綱

軽井沢町のみを対象とした「国際親善文化観光都市建設法」(1951)に基づき、「国際親善文化観光都市」として発展

国際特別都市は、軽井沢以外にも11 ⇒ 12都市で国際特別都市建設連盟を構成し交流

国際文化観光都市は、奈良、京都、長崎、日光、鳥羽、松江

国際観光温泉文化都市は、別府、熱海、伊東、松山

国際文化住宅都市は、芦屋

「軽井沢町の善良なる風俗維持に関する条例」制定(1958)、「同要綱」告示(1976)――清らかな環境の保健休養地の保持に関する必要事項を定める。①静隠の保持、②交通安全の保持、③季節営業の規制、④公序良俗の規制

「自然保護対策要綱」告示(1972)――自然を守るために無秩序な開発を未然に防ぐ

別荘地域の建築に際して行う指導事項

   分譲は1区画1000㎡いじょう

   建物の高さは、原則10m以下

   地階以外の階数は、原則として2階以下

   屋根の形状・勾配は定められた適度なものとし、周辺の自然環境並びに風致及び景観に調和するものであること

   容積率、建蔽率は原則として20%以下

   敷地内の樹木をできるだけ残存させ、建築物の周囲に植栽を施し、自然環境の保全に支障ないものであること

l  軽井沢町民憲章

1973年、町制施行50周年を記念して制定。「保健休養地」と呼ぶ

   世界に誇る清らかな環境と風俗を守り続ける

   すべての来訪者に心あたたかく接する

   かおり高い伝統と文化を育てる

   緑豊かな高原の自然を愛し守る

   明るい家庭と伸びゆく町を築く

「マンション軽井沢メソッド宣言」(2001)

「軽井沢まちなみメソッド宣言」(2005)

「まちづくり基本条例」(2007)――別荘所有者も町民と同様の権利と責務が定められ、自らの発言や行動に責任を持つことにより町の施策やまちづくりに参画する権利を有する

l  軽井沢町の名誉町民

   加藤與五郎(1957推挙)――理学博士。300余の特許保持。1933年、フェライト製コーア、磁石及びアルミナの3大発明は我が国の工業界に活気(ママ)的な発展をもたらす。1967年没

   佐藤万平(1958推挙)――1894年、町最初の洋式ホテル創立。保健休養地軽井沢の発展に貢献。1958年没

   荻原豊次(1961推挙)――農業改良の研究により、保温折衷苗代を考案、高冷地における水稲栽培の画期的進歩に貢献。1978年没

   星野嘉助(3代目、1989年推挙)――観光協会の設立とともに誘客運動に努め、観光事業の振興と地域の経済発展に貢献。野鳥の研究、野鳥愛護思想の普及と自然保護に尽力。1982年没

   市村きよじ(1989推挙)――夫今朝蔵とともに、軽井沢夏期大学の再開に奔走、今日の礎を築く。中学校新築や図書館の建設に私財を寄付するなど、町の教育文化施設の強化に尽力。1994年没

   水沢邦暠(1989推挙)――教育行政の進展に貢献。文化財審議委員会を始め多くの行政委員を歴任、町の伝統ある歴史文化を内外に普及。2001年没

   佐藤正人(1991推挙)――町長として518年務め、町政進展に貢献。県町村会副会長ほか、多くの役職を歴任、地方自治の振興に尽力。1990年没

   大賀典雄(2006推挙)――町の音楽文化振興のため、私財を投じて大賀ホールを建設し町に寄贈。軽井沢少年少女合唱団、軽井沢ジュニアオーケストラの創設等音楽文化振興に貢献。2011年没

l  姉妹都市カナダ・ウィスラー

1999年、ウィスラー市と姉妹都市提携宣言。両社の結びつきは、1886年ショーの来訪に始まり、1998年長野オリンピックで初の正式種目としてカーリング競技が行われた際に交流が深まり、姉妹都市宣言に繋がる

ウィスラーは、BC州ヴァンクーバーから120㎞の山岳リゾート。面積161.72km2、標高668m、人口9500人。毎冬200万人を超すスキー客が訪れる

l  軽井沢・プリンスショッピングプラザ

1995年開業。プリンスホテル所有、西武リアルティソリューションズへ賃貸。敷地26.8万㎡、延床面積6.1万㎡。217店舗(アウトレット137、飲食店30)

 

 

 

 

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