北里柴三郎と感染症の時代  新村拓  2024.8.17.

 2024.8.17.  北里柴三郎と感染症の時代

          ハンセン病、ペスト、インフルエンザを中心に

 

著者 新村拓 1946年静岡県生。早稲田大学大学院文学研究科博士課程に学ぶ。文学博士(早大)。高校教諭、京都府立医科大学教授、'01年北里大学教授を経て北里大学名誉教授。著書に、『古代医療官人制の研究』(1983年)、『日本医療社会史の研究』(85年)、『死と病と看護の社会史』(89年)、『老いと看取りの社会史』(91年)──以上の4書にてサントリー学芸賞を受賞。『ホスピスと老人介護の歴史』(92年)、『出産と生殖観の歴史』(96年)、『医療化社会の文化誌』(98年)、『在宅死の時代』(2001年)、『痴呆老人の歴史』(02年)、『健康の社会史』(06年)、『国民皆保険の時代』(11年)、『日本仏教の医療史』(13年、矢数医史学賞を受賞)、『近代日本の医療と患者』(16年)、『売薬と受診の社会史』(18年、以上いずれも法政大学出版局)。編著に、『日本医療史』(06年,吉川弘文館)ほか。

 

発行日           2024.5.28. 初版第1刷発行

発行所           法政大学出版局

 

08-11 北里柴三郎』参照

22-10 奏鳴曲-鷗外と柴三郎』参照

 

 

     はじめに

1853年肥後の国生まれ。71年、大阪に開設された軍学校への入学を周囲に反対され、熊本に開設された古城(ふるしろ)医学校に入学、幕府に招聘されたオランダ人軍医マンスフェルトのオランダ語の講義を聞く、軍人志望の北里に転機をもたらしたのは顕微鏡で、医学に多大の関心を抱く。マンスフェルトの勧めで'74年ドイツ医学のメッカだった東京医学校に入学、'83年内務省衛生局に入職、3年後にはドイツ留学を果たす

北里の素養は四書五経を中心とした漢学の上に洋学を重ねたもの。彼が学んだ近代西欧医学は科学の分析的な知、それもベッドサイドで出来るだけ多くの患者を観察して得られる情報に重きを置いたフランス流臨床医学ではなく、狭い実験室で実験データに信を置く実験医学。北里が留学した頃は、パスツールやコッホらによって顕微鏡下で観察することのできる病原細菌の発見が相次いでおり、それらによって引き起こされる病への対応が大きな課題となっていた。北里はコッホの研究室で6年間研究に励み、生育に酸素を必要としない嫌気性の破傷風菌の純粋培養に成功、その毒素に対する抗毒素(免疫抗体)を発見し血清療法を確立させた。他方で、病気を対象とする没個性的な実験医学は、病人の疎外化を進め、いわゆる病気を見て病人を見ない医学が登場

北里は実験医学によって大きな業績を上げて帰国。多くのサポートを得て研究所を開設、世界的な業績を上げる弟子たちを育てたが、次第に軸足を予防医学、衛生行政及び医師会活動に移す。北里が信条としていたものは、不撓不屈の精神で人の役に立つ実学を極め、至誠を貫いて開拓者になり、親や師に対する報恩の精神だった

北里の人物像を最も的確に捉えているのは、北島多一(2代北里研究所長)の追悼の辞。「日本における細菌学、伝染病学の鼻祖」と同時に、学術を極めてこれを実地に応用し、国民の福祉を図ることを衛生学者の志とした。性癖は、奇行、我儘、独断、策謀、恩義、慈愛等々、人間北里として伝えるべきものは非常に多い

本書では、慢性伝染病であるハンセン病と結核、急性伝染病であるペストとインフルエンザ、そしてコレラやジフテリアなどに対し北里および研究所員らがいかに向き合い、新たな知を発見しようと努めていたか、そのプロセスを追いかけるもの。特に本書の半分以上をハンセン病にあてたが、それは同病ほど強烈な個性を医療の歴史の中に残している病は他になく、また北里が同病に深く関わっていたことがあまり知られていないため

古代以来、この病に襲われたものは、生きながらの死を体験させられてきており、「非人」であり、秩序を破壊する悪の表象として貶められて。明治期、浮浪するハンセン病者を国立療養所多摩全生園に隔離し、1931年には「癩予防法」によりすべての患者の入所を義務付け、戦後も1953年の「らい予防法」に引き継がれ、1996年廃止まで存続

ハンセン病とは、増殖が遅くて感染力の弱い「らい菌」の感染によって引き起こされ、伝染力の弱い伝染病で、主に皮膚に結節、末梢神経に障碍をもたらし、治療をしなければ運動麻痺による顔面や手足の変形、視力障碍を生じさせるもの

本書の論述の範囲は、北里の内務省衛生局入局の'83年から死去した'31年までとした

 

第一章     北里柴三郎に訓導された田尻寅雄の癩病(レプラ)治療 

     伝染病研究所および養生園の設立

'83年東大医学部卒、同年大蔵官僚松尾臣善(6代日銀総裁)の次女乕(とら)と結婚、内務省衛生局照査課配属、内務省御用掛の辞令(准判任官)

医学士の院長より、単なる内務省の雇員を選んだのは、細菌学者より衛生学者であることを本志としたからで、「医の真道」とは天下の人民をして「書くその健康を保ち、その職に安んじ、その業を務めしめ、以て国家を興起富強ならしむる」ことにありとした

'92年、実験医学の拠点での実績を引っ提げて帰国、伝染病研究所の設立を説くと共に、脚気、赤痢、癩病は東洋の固有病として研究するは吾々東洋学者の義務とした

伝研の設立を内務省と文部省で争う間に、'94年福澤と森村の尽力で私立の伝研が先行、北里に一任、’9698年の3年間国からの補助が支給され、4年目には官立に衣替え

'93年には白金三光町に付属病院として土筆ヶ岡養生園開業。コッホの水蒸気による消毒法を取り入れ、伝研が扱う6種伝染病以外のすべての患者を診る

 

     伝研員外助手を務めた田尻寅雄の癩病治療

熊本の藩医の家柄に生まれた田尻寅雄は'93年土筆ケ岡養生園入職、'94年伝研員外助手に任命され、北里の指導の下で癩病治療に従事、治療薬の製出にも携わる。北里も田尻の優秀さを認めるが、'97年開業医の父の死去により故郷の玉名郡に帰って開業。以後何度か上京して北里研究所の講習会に参加。講師は北里のほか、北島多一、秦佐八郎など

 

     第一次大戦が医薬品および留学生に与えた影響

医薬品業界に与えた第1次大戦の影響は大きく、ドイツからの輸入が途絶え、薬品が暴騰、模造薬品が跋扈。留学生もアメリカのみが残り、ドイツ医学および医薬品業の零落とアメリカ医学の隆盛を印象付けることになる

 

     医師会長北里の国家衛生理念にもとづく行動

1906年医師法公布。医師の身分が確定され、各地の私設の医師会を糾合して医師会設立に動く。1916年大日本医師会誕生。伝研の文部省移管問題で退官した北里が会長就任

北里は、会員に翌年の衆院選挙への立候補を勧め、人格高き医人を議会政治に送ることにより科学による国家の基礎作りに貢献すべきと医師に決起を促し、多数の当選者を生む

1923年には、大日本医師会が法定化され、法定日本医師会となり、北里が会長就任

大戦後の不況下にあって、薬価・診察料に関する医師の不満は大きく、他方、医者は医権の拡張と医薬分業反対を言うだけで、暴利を貪っているとの世間の評価もあって、医師会内部の改革は急務だったが、北里は1年半後急逝

 

     田尻寅雄が筆記した「癩結核治療法」

田尻の遺した「癩結核治療法」は、伝研の古賀玄三郎の講習内容と実験結果のノート

結核菌と癩菌とは、同じ抗酸菌に所属し、形態学上も免疫上も、著しい相違点を有しているので、結核薬を癩病に試みても理に適うとして、人体を借りてその適量を模索

 

     効果の不確かな癩治療薬の続出が導いた癩患者隔離策

古賀試薬の効果がなかなか特定できないなかにあって、ハンセンが第2回万国癩会議(1909)に提出した18561900年の間における隔離法下の癩患者が著しく減少した表が注目されるが、癩菌の特定も出来ておらず、伝染説も確固たるものではなかったため、あくまで社会防衛のための隔離よりも治療研究の促進を狙いとして、隔離策が進められた

 

第一章のまとめ

北里や田尻らによる癩病研究の取り組みと、日本医師会長北里の国家衛生論に基づく諸活動についてみた。科学の合理性をもって癩病は世間で言われている遺伝病でも「天刑病」でもないと訴え、癩病人に貼られたスティグマ(汚れた者という烙印)、偏見、先入観の除去にも努めた。本格的な癩病研究は伝研の創設後で、一種の薬液を製出し患者に応用、満足な成績を得たとあるが、その後の展開については後述

北里の友人・後藤新平は、「上医は国を医()やし、中医は人を医やし、下医は病を医やす」といったが、その言葉通り下医(臨床医)から中医(衛生官僚)、上医(政治家」へと駆け上がったが、北里もまた医師・研究者から内務省衛生官僚を経て貴族院議員・医師会長という道を進み、国家衛生の実現に邁進

 

第二章     慰廃園と回春病院を支援した北里柴三郎

     浮浪癩病人を収容する慰廃園の創設

当時の巡査は、治安・犯罪取締のほか衛生警察も担い、伝染病が流行すれば「戸口調査及び検疫」にも従事したり予防消毒のため石炭酸を撒き、非人(癩病人)対応も含まれた

1894年、救癩事業に従事していたキリスト教系の好善社が東京府下荏原郡油面に仮救護所を開設したのが慰廃園の始まり。北里から医事方面の援助を受け病院組織として多くの患者を受け入れ。条約改正で内地雑居になると、外国人が癩病を極端に怖がることを知った北里の功利的な発想がベースで、最盛期には3000坪弱の土地に27棟の建物があり、43年の閉園時までの収容患者数が4000名を超えた。国からの交付金などで賄う

 

     病院化した慰廃園に派遣された医師たち

1896年、北里は福澤に、癩病院設立と血清製造所馬屋の地所購入を要請していたが、'99年私立病院慰廃園の設立が決まり、伝研から嘱託医を派遣するが、彼は在職38年におよび、多大な癩病研究業績を残している。伝研から北研時代を通じて、北里は慰廃園において、閉園するまで癩治療および研究を続ける。北里の死後は、志賀潔が京城帝大総長を辞任し東京に戻って北研顧問となり、癩菌の研究も受け継ぐ

 

     リデルの救癩活動を後援する大隈重信と渋沢栄一

回春病院の設立は1891年、英国聖公会の宣教師ハンナ・リデルが熊本で癩病人収容を決意したときに始まる。`94年病院開所、姪のエダ・ライトを呼び寄せ、細川家の支援に加え、渋沢や大隈も「癩病患者救療事業後援集会」を催して支援

渋沢は、困難な救済事業が外国人の宗教的感情の発露に甘えているだけで済ましていいものかどうか、根本的に国家の力で救護をしなくてはならないのだとの考えにおよび、1907年の法律第11号「ライ予防法に関する件」の公布に繋がる

 

     法律第11号と宣教師による救癩事業

法律第11号は全国を5区に分けて公立療養所を設置したが、収容人員は1100人で、浮浪癩病人3万人の収容は不可能のため、宣教師らの救癩事業への補助を働きかける

1931年、法律改正、民族浄化を目指す「無癩県運動」と呼ばれた強制収容が展開、内務省により癩の隔離による根絶策が進められ、収容施設が増設された。草津の栗生楽泉園のように、周辺に自由地区を設け、「有資力患者」には土地を解放して住宅を建てさせた

皇太后の癩救恤(きゅうじゅつ)の意向が光明となって、予算や寄付にも好影響を及ぼす

「結核には病床の増設」で、「癩病には完全なる隔離」で対応するとした政府の施策は、結核よりも伝染性がずっと少ないことを前提とした国際的な癩病対策とは大きく異なるもの

 

     北研理事宮島幹之助が書いた「回春病院募金趣意書」

1912年、大阪府知事に就任した大久保利武(利通3)は、救済事業研究会を立ち上げるが、そこにリデルが癩病の医学的な研究を行って治療に役立てる必要があると働きかけ、回春病院内に癩菌研究所建設が決まり、北研の寄生虫部長宮島幹之助と建築家中條精一郎(ちゅうじょう、宮本百合子の父、慶應病院の設計者)が設計を担当。併せて世界大戦で寄付などの途絶えた回春病院の経営維持のため大久保や武藤山治、北里らが発起人となって病院基金の設立に動き、宮島が「回春病院募金趣意書」を書き、、政財界関係者に発送

 

     回春病院癩菌研究所の医師たち

1919年、癩菌研究所竣工。根治剤はないが、対症的に懇篤なる治療により合併症を除いたり、外科的あるいは薬剤的治療により比較的軽快する者も認められるようになる。断種手術も有効とされ、20年代半ばに広がりを見せた優生思想によって受容されていく

リデル、ライト両女史の偉業を記念した老人ホームが'51年回春病院内に創設された

 

第二章のまとめ

好善社の慰廃園とリデルの回春病院という2つの癩療養所に北里が深く関わっていた

北里没後も北研は、()癩予防協会から毎年研究費の補助を受け、所員が目黒慰廃園病院に出かけて癩病治療と病理解剖に従事していた

回春病院が契機となって、大隈や渋沢が動き、公立療養所の設置法公布が実現

 

第三章     癩対策の世界的潮流から離れる日本

     北里の癩病研究と治療実績

北里は、患者の隔離によって治療の効果を上げ、患者に安定した生活を提供しようと主張したが、世界の潮流は、隔離に際し本人の意思が確認されないまま医師のみの判断でなされるならば、医師患者関係におけるパターナリズムとなり、人の尊厳を支える自己決定の権利を奪う人権侵害になるとし、癩患者が任意的に承諾するような生活状態の下における隔離が望ましいとされ、人権への配慮を求めている

 

     万国癩会議で語った北里の疫学調査と細菌学的研究

1897年、第1回万国癩会議。北里は、国内の赤痢・コレラの防疫で多忙を極め欠席

1909年、第2回の会長はハンセン。1873年に癩菌を発見、隔離政策を推進して母国ノルウェーから患者を激減させていたが、遺伝病ではなく伝染病だが、伝染経路はいまだ不明のため、患者が任意的に承諾するような生活状態の下における隔離が望ましいと決議

1904年、米国セントルイスにて開催の万国学芸会に穂積陳重(民法学者)と共に招待された北里は、日露戦中にも拘らず派遣されたことで参加国より賞賛を受けたが、北里は、「今や戦勝国として世界の羨望しつつある我日本帝国はその軍国としての勢威と共に、一般の文物制度も又漸く各国人士の注目する所」となったと報じ、世界の医学界における日本の位置付けが変わったことを喜んでいる

北里は自らの実験や草津や山梨での悉皆による疫学調査の経験から、「ハンセンの発見した癩病菌の純粋培養はほとんど不可能で、癩病の研究は前途遼遠たるもの」と話す

 

     法律第11号公布により設置された公立癩療養所

1907年の法律第11号公布は万国癩会議の決議を受けたもので、全国の浮浪患者収容のための療養所を全国に5カ所設置したが、もともと衛生立法を目指したものではなく、風俗取締や貧困患者の救済を主眼にした「救貧法」「風俗取締法」の改正で、議会で議論されてきた予防撲滅とは懸け離れていたことから、医学者からも不満の声が出て更なる改正へ動く

1920年には保健衛生調査会の答申に基づき、隔離した島嶼に病床の増設を決定、’27年には瀬戸内海の長島に愛生園を設立、'30年には自由療養地として栗生楽泉園を設けた

 

     保健衛生調査会が聴取した公私立癩療養所長の意見

答申に先立ち調査会は全国の癩療養所長を集め意見を聴取

 

     癩根絶をめざした「癩予防法」と無癩県運動

1930年、答申を受けて政府は「病床1万計画」を具体化させ、翌年「癩予防法」を公布・施行。業態上病毒伝播の恐れのある所での就業禁止と療養所新設による患者収容を目指し、自宅隔離も含めすべての癩患者を対象とした絶対隔離を目指す大変革となり断種にも言及

内務省衛生局は、癩根絶20年計画を採用。貞明皇太后からの下賜金などをもとに'31年癩予防協会(現藤楓協会)を設立、皇恩に感謝する心を養わせると共に「無癩県運動」を進める

賀川豊彦らが設立した日本MTL(Mission to Lepers)協会も協力、三井合名の設立した三井報恩会も巨額の寄付をして'40年には「病床1万計画」を達成、隔離が徹底された

 

     万国癩会議決議から距離を置いた日本

1923年、第3回万国癩会議では、人権に配慮した人道的隔離や自宅隔離が決議されたが、日本は人権を無視した絶対隔離策をとる

 

     4回万国癩会議以降の動向

1938年の第4回以降、癩病の分類や治療法について様々な決議がなされるが、日本の癩政策に変化をもたらすものとはならず、戦前の強制隔離、療養所長の懲戒検束権、入所者の外出禁止といった政策が96年まで維持された

 

第三章のまとめ

北里は18921902年まで、癩病の細菌学的研究に取り組んでいたが、結節癩と麻痺癩の2種に病型分類できること、染色が可能で赤い桿菌であること、結核菌と同類の抗酸菌であること、癩菌の伝染経路が未詳で純粋培養も出来ないため癩病の病像を明確に捉えるのは困難なことなどを報告、文明国日本の体面を保つためにも患者を1カ所に隔離し、彼らに職業を与えてそこで生涯を終えさせるのがよいとの考えを表明

1909年の万国癩会議では、的確な治療法がない現在では患者を隔離することが望ましいとの決議がなされ、日独米比・ハワイなどでは隔離政策が推進される

法律第11号では浮浪癩病人の囲い込みを、'31年の改正では絶対隔離・強制収用を定め、癩病患者の人権に配慮を求める世界の潮流から外れていく

 

第四章     急性伝染病ペストと衛生

     相馬事件と検疫事業における高木友枝の働き

東大医学部の2年後輩の高木は、卒業後福井県立病院長から、伝研設立時北里を慕い転職      

1893年、相馬藩主が精神病とされ毒殺されたと旧藩士が訴えた相馬事件で、後藤新平は旧藩士を匿い教唆したとして拘引され、衰弱した後藤の保釈願いを北里らが出したが、診断書を書いたのは高木。後藤はその後無罪となり、日清戦後のコレラに罹患した帰還兵に対する臨時検疫業務に抜擢され、北里、高木との連携により飛躍の契機となるが、検疫所における病理上の研究促進のために伝研から派遣されたのが高木

高木 友枝(18581943)は、陸奥国(福島県)出身の医学者細菌学者日本統治時代台湾台湾総督府医学校2代校長、台湾電力初代社長を務め、ペスト撲滅や電力開発などに貢献。後藤新平による台湾近代化政策のもとで医学教育と医療行政の礎を築いたことから「台湾医学・衛生の父」として知られるほか、戦前台湾の民主化運動を支持し、活動家に転じた門下生にも影響を与えた

 

     評判の高い血清療法を担った北里柴三郎

伝研の血清製造業務の本格化に伴い、衛生局長の後藤は国営に移すよう北里に働きかけ、’96年国立血清製造所の設立が議会で承認、高木が院長、北里が顧問でスタート

 

     香港で発見されたペスト菌

1894年、清国雲南省からペストが香港に入って大流行の様相を呈した際、日本ではまだ流行したことのないペストだと確信した高木は、北里に現地調査を依頼。帝大教授青山胤道を団長に調査団を派遣。北里はペスト菌を発見

 

     ペスト菌騒動の終結

1895年、北里は臨時検疫局委員、高木は伝研治療部長に就任し海港防疫を指導。北里は'98年ペスト馬抗血清の製造を開始、1900年より予防接種の普及活動に努める

1899年、神戸と大阪でペスト患者発見。ペスト菌を再確認したところ、北里の直後にパスツール研究所のエルザンが発見したエルザン菌であることが判明。鼠蚤の吸血によって伝播することも確定

 

     台湾に渡った後藤新平を支えた面々

18991902年、衛生局防疫課長として阪神地方のペストお撲滅に全力宇を注いだ高木は、1898年台湾総督府民生局長の後藤新平から慫慂されて台湾にわたり、衛生・医療全般を仕切る。後藤は他にも殖産局には新渡戸稲造、土地調査と専売局担当に中村是公など、適材と見込んだ人物を台湾総督府へ送り込む

 

     ペスト防疫および啓蒙活動に走り回る北里柴三郎

後藤の台湾赴任を見届けた後、北里は国の内外を問わず積極的にペスト予防に関する啓蒙に取り組む。大阪・神戸に続いて1910年には満洲にもペストが蔓延

1913年、北里は結核の予防撲滅を期して日本結核予防協会を設立し理事長に就任。全国に運動を展開、特に小学校の教員に罹患者が多く、文相に善後策を公約させる

 

     台湾の衛生・医育・台湾電力に尽力する高木友枝

高木は、1902年台湾赴任後、台湾総督府医学校校長兼附属病院長のほか、医療衛生関係の役職について台湾のペスト撲滅に尽力、風土病のマラリアの撲滅にも動く

高木は、台湾全島の水力発電事業の統合も任され、'19年台湾電力初代社長に就任

北里は、ペスト騒動以後、細菌学的な研究から遠ざかり、専ら公衆衛生活動に軸足を移す

 

第四章のまとめ

北里('53年生)、後藤('57年生)、高木('58年生)3人による連携が日本及び東アジアの医療衛生に大きく貢献。相馬事件では北里と高木が後藤を支え、3者の緊密な関係が血清製造事業の国営化に寄与、北里と高木は協力してペストの防遏(ぼうあつ)に注力し予防法の確立に努める。高木は台湾の医療衛生行政で後藤を助け、後藤は満洲ペスト流行の際は北里を説得し渡満させる。清国開催の万国ペスト会議では北里がリーダーシップを発揮

 

第五章     インフルエンザをめぐる北研と伝研の確執

    伝研の文部省移管にみせた独立自尊の精神

1914年、大隈内閣の行財政整理の一環として、内務省管轄の伝研の東京帝大医科大学への移管が決定。移管に反対した北里は、福澤の支援を受け私立北里研究所を創設して対抗

 

    内務省衛生局が記すインフルエンザの病原体

伝研と北研は、'18年カンザス州陸軍基地に発したスペイン風邪を巡っても対立

病原体不明なまま、内務省衛生局長は、民衆の会合の回避、マスク使用・うがいの奨励、患者の隔離を指示

伝研と北研はそれぞれ別個に菌を特定し、ワクチンの製造を行ったが、結果的には濾過性病原体と呼ばれるウィルス(1933年発見)なので、両者の製造は徒労に終わる

 

    伝研長与又郎(専斎の3)と北研志賀潔の間に起きたワクチン論争

治療薬等の検定機関でもあった伝研は、北研のワクチンを斥ける一方で、菌の特定のないままに自らのインフルエンザ菌に対するワクチンを製造、何らの試験もせずに公衆に応用

北研は志賀潔を中心に伝研の動きを批判したが、志賀が北里に代わって朝鮮総督府医院長兼京城医学専門学校長に着任したことで、両者の表立った対立は見られなくなる

 

第五章のまとめ

伝研が帝大に移管され、独立自尊の北里が反発して北研を創設。以後両者の対立が続く

インフルエンザ・パンデミックでの病体を巡る対立は深刻で、地方自治体におけるワクチンの製造に多大な労力を強いられるが、北研・志賀の転出でひとまず沈静化

 

第六章     学用患者と済生会

     大逆事件が生んだ済生会の救療事業

1911年、大逆事件判決後の天皇の「済生勅語」では、政府の勧業・教育による国民の健全な発達と困窮者への施薬救療(=済生)が説かれ、150万円を下賜。下賜金により「済生会」設立。北里は医務主管委嘱。'15年には芝赤羽町に東京済生会病院が新設され、北里が院長

1877年、東京医学校では、死後の解剖を承諾した施療患者を学用患者として扱う「給費患者制度」が設けられ、学生の解剖実習用に施療患者を積極的に取り込む。都市の下層階級の窮民に、無料治療と引き換えに教育材料となることを承諾させるシステムで、近代医学はこのシステムに依存して進歩を遂げてきたが、常に学用患者不足の状態にあった

 

     済生会にみる学用患者の扱いと北里院長の対応

施療を担う目的で創設された済生会では、施療患者を学用患者としてはならないという不文律があったが、大学・医専における施療患者は貧民救済ではなく、学術研究が目的になっていて、患者が死亡したときは解剖を行うことを約束して入院させているところもあった

'15’23年東京済生会病院長を務めた北里は、大学・医専における学術目的の施療を非難、一切施療患者を研究上の犠牲にしてはならず、貧民の救療に徹するべきとした

' 19’34年伝研所長を務めた長与又郎は、血清・ワクチンの開発にとって不可欠な臨床試験(治験)実施のために入院患者の半分を施療患者にするよう命じ、被験者の確保に努めさせていたが、北里も同様の措置を講じながらも、「真正の学者のすることは悉く精試詳験の上ならでは人体に応用せず」とし、人体実験に至るまでに行ってきた動物実験の詳細な記録を開示し、その後患者のなかから真性のコレラ患者を選び出し、その上で血清療法を試みた結果を「コレラ病血清療法」として発表していた

 

第六章のまとめ

日本医学の近代化は学用患者を生み、彼等を用いた実験や解剖によって得られた知識が医学の進歩にとって不可欠なものとなっていた。それゆえ学用患者の需要は高く、その確保に医療・医育機関は振り回されていた

恩賜金で設立された済生会が、既存の医療機関に施療救療を委託する仕組みを作るとともに、東京済生会病院を新設して、北里を医務主管および病院長に任命

一般の医療・医育機関では給費患者制度を設け、学用患者を用いた医学教育や治験などを実施していたのに対し、済生会病院は浄財によって生まれた病院なので、施療患者を学用患者としてはならないとされ、施療患者を日常的に研究材料として用いてきた伝研や北研にいた北里であっても、済生会病院の原則に従っていた

 

付論 温泉養生の経済効果と衛生

     患者が集中する熱海で訴えた北里の肺病対策

古来、全国各地の温泉では、湯治の効用が説かれ、様々に利用されていた

1890年代前半、熱海が交通の便もよくなって療養地としての知名度を上げたが、逗留する肺病患者の結核菌が蔓延しているとの風評が立って、客足が遠のいたため、町はその打開策として'93年北里を招いて講演会を開催。北里は、患者の喀痰の管理をすれば恐ろしい病気ではないことを説いたが、内務省の「痰壺条例」で人の集合地に痰壺設置が義務付けられたのは11年後のこと

 

     新たに認識された温泉の効用

日露戦の傷病帰還兵のために全国に転地療養施設が開設されるが、熱海は最大規模を誇る

欧州に比べ、日本では医師がもっぱら薬物療法を用い、鉱泉などを利用した理学的療法を利用しないのは国家医学上不利益だとする議論が高まり、鉱泉調査の必要性が高まる

1909年の第16回万国医学会に出席した北里は、ブタペスト近郊で温泉地カイゼルバート温泉を訪問、温泉がもたらす効果を実見している

 

     伊東温泉に構えた北里別荘

1913年、北里は伊東町玖須美に別荘を構える。伊東を選んだのは、北里が生来の温泉好きだったから。ベルツの『日本鉱泉論』に刺激された面もある

北里は、伊東に大浴場や温泉利用施設を作るよう要望したが、乗り気でなかったので、自ら動き、「北里さんの千人風呂」と称される温泉プールが出来たが、思いがけない多額の出費となり、遺産分配の際も麻布の本宅や伊東の別荘も手離さざるを得なくなり、伊東の温泉は保存に好意的な講談社主の野間家の手にわたり、温泉枯渇後は幼稚園などが建った

北里による伊東の温浴施設案については、カイゼルバートの実見がベースになっている

 

     田健治郎も望んだ伊東温泉の別荘

北里の別荘が契機となって伊東の開発が進み、松川沿いには多くの別荘が建てられる

その1つが貴族院議員の田健治郎邸。心臓内膜炎治療のための温泉療養が目的

戦時中には、「国民の体力向上」「人的資源の維持管理」のために温泉利用厚生運動(大政翼賛会実践局厚生部)が展開され、温泉ブームを引き起こしていた

 

あとがき

北里大学一般教育部に職を得て、最初に取り組んだ課題が初年時教育プログラムで、新入生に対し大学への帰属意識を高めるための教育カリキュラムの一環として「北里の世界」と題する科目を新設。そこでの経験が本書刊行に至る北里柴三郎研究の出発点

本書は北里柴三郎のハンセン病に対する取り組みを軸に据えて構成したが、研究は私にとって学ぶことの多いものとなった。ハンセン病患者の悲惨な処遇、人権無視の患者対応は、人びとの偏見と無知がもたらしたものであり、患者の受けた苦しみの深さを思い知らされた。ハンセン病およびその患者の歴史を多くの方がきちんと学んでいたならば、エイズ騒動やそれに似た新型コロナ感染症騒動(コロナ対応に当たっていた病院職員の子どもが登園・登校を拒否されたことなど)もまた別な展開を見たことであろうと思われる

 

 

 

法政大学出版局 ホームページ

内容紹介

細菌学や衛生学の分野で偉大な功績を残し、近代日本医学の父として知られる北里柴三郎。慢性伝染病であるハンセン病と結核、急性伝染病であるペストとインフルエンザ、そしてコレラやジフテリアなどに対し、北里および研究所員らはいかに向き合い、新たな知を発見しようと努めたか。現代の公衆衛生、コロナ・ワクチン、ハンセン病訴訟等と絡めつつ、そのプロセスを追いかけた日本医療社会史の到達点。

 

 

 

北里柴三郎と感染症の時代 新村拓著

医療システム西洋化の軌跡

2024810  日本経済新聞

新紙幣に北里柴三郎が登場して話題になる時期に、本書が出版された。150年ほど前の明治維新から西洋化に向かう方針を打ち立てた日本社会が、コレラをはじめ多くの感染症によって翻弄され、それに対応する近代医療と公衆衛生を作りあげていく時期は1880年代から1920年代であるが、それを牽引(けんいん)した第一人者が北里である。

1886年から92年にわたって、ベルリンでロベルト・コッホが指導する研究所に留学し、その時期から世界でも著名な細菌学の研究者となった。帰国して、学術的な論争や大学間の闘争にまきこまれたが、新しい日本の医療のシステムに方向を与えていった。本書は、帰国後の北里に光をあてた好著である。

欧米を模範として日本の医療を作る大きな流れの中で、北里が果たしたいくつかの役割は、欧米諸国で19世紀末に定着した三つの潮流を知るとわかりやすい。一つは、大学医学部や研究所で発展した実験室の医学である。病院よりも数百年も遅れて成立した新しいものであり、重要な素材は患者よりも実験用の動物である。第二は公衆衛生で、予防や隔離を通じて当時の社会に対応するものである。先進国で広がる結核やインフルエンザなどの感染症や、植民地のハンセン病にも対応した。第三は帝国主義医療で、先進国が植民地で競合しながら、西洋型の医療や社会が持ち込まれ、植民地の健康水準を上げることを目標とした。日本では台湾や朝鮮の植民地や中国などで行われた。

新村は、北里がこの三つを西洋から学び、日本で実現し、それを世界に報告するさまを描いている。実験室ではドイツの技法を取り入れて細菌の発見や免疫血清を日本で作り上げることに成功し、公衆衛生では様々な感染症に対応しながら府県単位の地方医療の医師や官吏たちに教育や行政のメカニズムを作ることを教え、帝国主義医療では香港や満州でペスト研究を行い、ハンセン病の国際会議に出席して日本のハンセン病についての講演を行うことなどである。

重要な構造を作った北里が1931年に死去した後、日本の医療はさらに近代化され、現在では世界屈指の健康な国家となった。新村の著作から、北里が貢献した多くのプラスのことがわかるだろう。それと同時に、ここに登場しなかった患者たちがどのような経験をしたかという豊かな問題も想像できるだろう。

《評》東京大学教授 鈴木 晃仁

(法政大学出版局・3520円)

しんむら・たく 46年静岡県生まれ。京都府立医科大学教授、北里大学教授を経て同大学名誉教授。著書に『老いと看取りの社会史』『健康の社会史』など。

 

 

隔離の日々、苦しみも喜びも ハンセン病元患者の絵巻、東京で展示

2024819 1630分 朝日新聞

鈴村洋子さんの作品「現代絵巻」。幅30センチほどの障子紙にびっしりと絵や言葉が書かれている

·     

·     

·     

 命を全うして生きていこうね――。生きることへの思いをつづることばに、愛らしいお地蔵様が寄りそう。こんな絵巻がいま、国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)に展示されている。埋もれていた数々をつなぎあわせた絵巻で長いものは18メートル。隔離された人々の喜怒哀楽が吐露されている。

 作者は、北海道出身で、国立療養所「多磨全生園」(同)で4年前に死去した鈴村洋子さん。

 毎朝、療養所の草花の手入れをすませ、夫の清さん(84)を碁会所に送り出すと、障子紙を広げ、不自由になった手にゴムで縛り付けた筆やペンを走らせた。もっぱら描くのは、にっこりほほえむお地蔵様。そこに日々の思いを言葉にした。

 〈病むものがいたわりあって生きる絆を大切にしようね〉

 友人に頼まれたのがきっかけだが、いつしか自分のためになった。

 〈やさしい仏の顔をみつめて 自分の心をいやしていただく仏様〉〈書くのをやめられないのです〉

 幼いころからいじめられた。本当の名前も明かせなくなった。隔離された施設では、お骨になっても外には出られない――。ハンセン病にまつわる様々な苦しみを受け止めた鈴村さん。絵巻には自らを奮い立たせることばがあふれ、色使いも墨からカラフルに変わっていく。

 〈病なんかに負けず一日一日を大切に夢と希望を抱いて とうとい命をまっとうして生きていこう〉〈十勝のふる里で取れた私は弱さに負けんぞう〉

 ただ、長い隔離で社会には偏見と差別が根付いた。ふるさとを思い、こんな思いを記した。

 〈だれも待っている人いないの 身内に逢(あ)えずどこかさみしくて泣き出しそう〉

 こう嘆きつつ続けた。

 〈生きるってやっぱりうれしい 父ちやん、母ちや(ん)ありがとう〉

 絵を専門に習ったことはなく、日記のように心情を吐露していった。

 発表するあてのない絵は、ずっと押し入れの中にあった。10年ほど前、鈴村さんと交流していた前橋市の尼僧、吉田一蓮さん(81)が、鈴村さんの絵に気づき、見せてもらうことになった。

 押し入れの隅の紙袋。障子紙がぎゅうぎゅうにつまっていた。手が不自由な鈴村さんが紙をしまいこむため、絵はくしゃくしゃになっていた。

 吉田さんが1枚、1枚、広げていった。

 「色彩が素晴らしいし、洋子さんの言葉に胸をうたれて。このままではもったいない。はりあわせたら絵巻になる」

 かつてギャラリーを経営していた吉田さんは、長廊下に1枚ずつ並べ、言葉や絵、紙の色を確認しながら、友人とつなぎあわせた。18メートルの絵巻を含む16巻が完成した。

 療養所の片隅に眠っていた数々が絵巻にうまれかわり、鈴村さんは感激していたという。小さな命に目を向け、昆虫や野の花を描いたはがきもあった。送る相手がいない時は、自分に宛てた。

 16年に前橋市内で初個展を開催した。東京での個展を願ったが、鈴村さんは20年、84歳で亡くなり園内の納骨堂に入った。

 連れ添った清さんは「自分の苦しみを率直に書くことで、悩む人がひとりでも救われるように願ったんじゃないかな」と語る。

 「姿形が変わってもすべて愛」と常々話したという鈴村さん。義兄が死に追いやられた患者専用の特別病室(重監房)=群馬県草津町=を告発する詩も残した。

 〈ハンセン病が故に 罪も無い若者が凍りつき 暗い重監房に置きざりにされ 狂う者 凍って死んでいく者 咎(とが)めなくても暗闇の中に 閉じ込めて死んでしまう 草津の森の中に造ったコンクリートの檻(おり) 人間のおろかさに腹が煮え繰り返る 人を思いやる心がないのかけもの達(たち)〉

 鈴村さんほか、多磨全生園ゆかりの人々の作品を集めた絵画展「絵ごころでつながる」は9月1日まで。月曜休館。(関田航、高木智子)

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.