国家の命運は  金融にあり 高橋是清の生涯  板谷敏彦  24.8.1.

 2024.8.1.  国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯 上下

 

著者 板谷敏彦 1955年西宮市生まれ。県立千葉高校、関西学院大学経済学部卒業。石川島播磨重工業を経て日興證券へ。株式部、NY駐在、機関投資家営業を経験。その後、ドレスナー・クラインオート・ワッサースタイン等でマネージング・ディレクター、みずほ証券で株式本部営業統括に就く。2006年、和製ヘッジファンドを設立して話題となる。著書に『日露戦争、資金調達の戦い高橋是清と欧米バンカーたち』(新潮選書)、『金融の世界史バブルと戦争と株式市場』(新潮選書)、『日本人のための第一次世界大戦史』(角川ソフィア文庫)

 

発行日           2024.4.25. 発行     

発行所           新潮社

 

原型は、『コレキヨ 小説 高橋是清』(『週刊エコノミスト』)2018710日号~20221220日号(217)

 

まえがき

前著『日露戦争、資金調達の戦い』を上梓して、当時日本銀行副総裁の高橋是清との付き合いが始まる。『高橋是清自伝』という口述を残したが、是清の話し方はいつも「盛り」が多いところから、定量的に捉え直し、それぞれのエピソードを検証

 

第1部        立志篇

第1章        アメリカへ

第1話        追悼会

暗殺の翌年、是清追悼の晩餐会が帝国ホテルで開催。遺族36人を含む616名が集まり、串田万蔵三菱合資総理事が司会。追悼演説は、林銑十郎首相、元蔵相・日銀総裁男爵山本達雄、蔵相(元日銀)結城豊太郎、第13代日銀総裁深井英五の4

深井の演説は、『高橋是清自伝』の補遺として日露戦争の資金調達に関わるもの

 

第2話        運の良い子

是清誕生は、ペリー来航の翌年。幕府お抱え絵師の狩野探昇(俗名・川村庄右衛門守房)が、預かっていた総菜屋の娘に産ませたのが是清。幼名和喜次。娘は川村家を去り、是清は仙台藩の江戸詰めの足軽・高橋家に里子に出され、2歳の時実子として仙台藩に届け出

義祖父母に育てられ、「運が良い子」と言われながら、幸福で楽天的な子供として育つ

6歳の時、島津山の仙台藩ゆかりの寿昌寺に和尚の小姓として預けられ、読み書きを習う

10歳の時、藩の江戸留守居役・大童(おおわら)信太夫の推薦で、横浜で外国語を学ぶ国内留学生に選ばれる。義/養祖母が寄宿舎の煮炊き家事一切を引き受ける

 

第3話        横浜大火

外国人居留地では、ヘボン式ローマ字の米国長老派教会宣教師で医師のジェームス・ヘボンの学校(後の明治学院)で妻クララに英語を習う

1866年、横浜大火/豚屋火事。辛うじて逃げ果せたが、学校は閉校に

 

第4話        アラン・シャンド

是清たちは愛宕下の仙台藩中屋敷に戻る。藩内の身分は最下級の「凡下(ぼんげ)」で百姓

英語の勉強を続けるために、インド系銀行横浜支店長アラン・シャンドのボーイとして雇用され、実用英語を学ぶ。シャンドはスコットランド人で、大蔵省紙幣寮が日本の銀行制度確立のために顧問として雇ったお雇い外国人の1人、日露戦争公債の引き受けで活躍

 

第5話        初の海外渡航

1867年、私費留学の勝海舟の嫡男小鹿のお供だった仙台藩士富田鐵之助の従者として渡米。富田は維新の際も勝に諭されて留学を継続、米国公使森有礼に認められて、新政府からも学費が支給され、岩倉使節団の現地での世話を通じ外交官として出世の糸口を掴む

餅の差し金で帰国後は大蔵省に異動、日銀設立時は病弱だった薩摩閥の初代総裁吉原重俊を補佐し、1888年には第2代総裁に就任

同じ船には福澤が、幕府の軍艦受領委員として乗船、仙台藩は福澤に鉄砲購入資金3000両を託すが、福澤は鉄砲の代わりに本を購入。同乗者に薩摩人の伊東四郎(日清戦時の連合艦隊司令長官)がいて、是清は酒の相手で手許金を呑み尽くす

 

第6話        サンフランシスコ

オークランドのブラウン家に3年の年季奉公に出され、前金で未払いの渡航費を払う

 

第7話        ブラウン家

1868年、老ブラウンが中国公使として赴任することになり、是清は同家を辞して、同じ船で渡米して日本商品の輸入雑貨店で働いていた佐藤百太郎の世話で一緒に住み込みで働く

佐藤は、日本人初の貿易業者と呼ばれるようになり、ニューヨークに店を開いて立志伝中の人となる。佐倉藩医で順天堂を起こした佐藤泰然の孫。松本良順や林董は叔父

 

第8話        ヴァン・リードのこと

是清の年季奉公を斡旋した横浜の商人ヴァン・リードは、『是清自伝』では無辜の日本人を欺き苦力貿易をした悪徳商人としているが、毀誉褒貶の激しい人で、『商用会話』などの実用書を書いて対日貿易のノウハウを広めてもいる。是清は4ドルの月給をタダ働き同然と記すが、英語の話せない農民の月給は平均1217ドル程度

船便できた日本の新聞を見て明治維新を知り、富田らは帰国するが、是清は米国に留まって命令を待つことに

 

第9話        帰国

富田らは帰国するが、勝に説得されて米国に戻り、富田は以後6年間を米国で過ごす

是清ら残留4人は、日本からの命令がないまましびれを切らし、自費で日本に帰り、知人の伝で外国官権判事森有礼に身元を引き受けてもらう

 

第2章        唐津

第10話     森有礼

1868年、是清らは森家の書生として暮らし始め、維新政府の開成学校に入学。英語ができたため、教官3等手伝いとなり教える側に回る

森は、自ら発議した廃刀令が否決されたのを嫌気して薩摩に引っ込むが、その際是清らの行く末を案じ、開成学校教師のフルベッキに託す

 

第11話     フルベッキ

近代日本建設の父とも呼ばれるフルベッキは、1859年来日、長崎で英語、政治、経済などを教え、維新の大物の殆どと面識を持ち、1869年上京して開成学校の教頭に就任

是清は、フルベッキ邸に書生として入り、2年の間に英語の他聖書を学ぶ

1870年、森は米国少弁務使としてニューヨーク赴任。是清に何れ米国へ呼ぶと約束

 

第12話     3人組

福井藩士3人組から芸者遊びに誘われ、高給取りだが初心な是清は忽ち溺れ、フルベッキ邸を出て越前商人の奥座敷に転居

 

第13話     箱屋是清

是清は、4つ上の福井出身の日本橋芸妓東屋桝吉と昵懇となり、腑抜けにされ、さらに醜態を外国人教師に見られて、大学南校を辞職せざるを得なくなり、忽ち貧窮して桝吉のヒモになって箱屋の手伝いに身を落とす

 

第14話     唐津へ

知人の紹介で、英語の教師を探していた唐津藩(藩主小笠原長国、譜代大名)へ向かう

 

第15話     唐津城下

1871年、廃藩置県の混乱の最中に唐津着任。新設の洋学部を担当、第1期生に辰野金吾

 

第16話     耐恒(たいこう)

洋学部は、二の丸にあった元藩主の御殿に移り、耐恒寮と名付けられた。是清は、増えた生徒のために自らの給与を一部返上して協力したが、翌年初には酒量が祟って喀血

 

第17話     唐津からっぽ

女子英語学校創設に動く。日本初の官立東京女学校の開設と同年の1872年に開校

唐津県は伊万里県と合併(事実上の吸収)し佐賀県となり、県の財政支援を失って閉校。東京に戻った是清を慕って優秀な生徒も上京。人材払底を後に「唐津からっぽ」と揶揄された

 

第3章        相場師時代

第18話     末松謙澄

1873年、是清は大蔵省駅逓頭(えきていのかみ、郵便事業の長)前島密の下で通訳を務める大蔵省10等出仕だったが、前島と衝突してすぐ退官

フルベッキ邸で、土佐の佐々木高行令嬢のお供をしていた1歳下の書生・末松謙澄を知り、末松に英語を教え、末松から漢学を習う。後是清が独立した際は同居

 

第19話     水心楼に遊ぶ

1873年、森有礼帰国。国民教育活動推進のための啓蒙団体である分野横断的なソサエティー「明六社」結成。福澤や西周などの碩学が集結、是清も客員に

森がラトガース大から招聘したお雇い外国人教師の通訳として、再び文部省10等出仕に

末松は、東京日日新聞で福地に可愛がられ、その仲介で伊藤博文に重用され、その次女と結婚、出世の階段を上がり、是清との差を開ける

 

第20話     デビッド・マレー

文部省は西郷従道の管轄。是清は、学制改革の立役者となった学監デビッド・マレーの通訳として、日本の教育改革に奔走するとともに、マレーを通じて華麗な人脈に触れる

 

第21話     一条十次郎のこと

1875年、大阪外国語学校(旧制三高の前身)校長就任を要請されるが、シスコで世話になった世捨て人の一条の誘いで仏教の研究に没頭して、出世を棒に振るが、一条は死没

1876年、東京英語学校の教師となり、養祖母に紹介で西郷柳子と結婚、翌年長男誕生

 

第22話     サムライの終焉

1876年、廃刀令布告。旧武士を対象に金禄公債証書発行条例が出され(秩禄処分)、金禄公債を銀行が資本として使うことが認められたため、3年後には国立銀行が153行も誕生

東京英語学校の校長の吉原行きが発覚、責任を取って是清も翌年辞職

 

第23話     長野の畜産事業

本業の教師の収入に加えて翻訳などでも稼いでいて金に余裕のあった是清のもとに、遊びを覚えたての頃騙された越前商人が乳牛事業への出資の話を持ち込み、配当迄受け取るようになると、次の投資案件として持ち込まれたのが長野県に牛馬の売買市場を整備するというもの。是清の勧誘で周囲を巻き込んでの投資となったが、完全な詐欺に終わる

 

第24話     翻訳業と共立学校

1877年、コレラが長崎から横浜・東京に到達。是清はコレラに関する翻訳の仕事に忙殺

コレラ禍は、罹患16万、死者10万。西南の役での死者は13200

同年、英語学校の後身である大学予備門の教員に復帰。同時に、予備門入学生のレベルアップを目指し、加賀商人などが設立した「共立学校」の再建を手伝い、予備門への登竜門に成長させる。これが後の開成学園となる

 

第25話     銀紙相場

銀貨1円=紙幣1円の相場が、西南の役後から紙幣の価値が25%程度下落。秩禄処分で民間の国立銀行も不換紙幣を発行できるようになったためのインフレで、政府による相場下支えに限界が来ると、銀相場は急騰。知人の紹介で紙幣買い支えに賭けた是清は大損

 

第26話     米相場

是清は損を取り戻すべく相場に関心を持ち、紙幣下落の影響を受けて高騰する米価に着目。米取引の仲買業に出資したが、政府が米市場の取引停止を命じ、損を出して店仕舞い

日銀総裁就任の直後、相場の投機家たちを「単なる賭博」と厳しく断罪している

 

第4章        特許局

第27話     農商務省出仕

相場に失敗した是清は、間接的にせよ世の中の貧しい人たちに大きな迷惑をかけたことに気づき、心を入れ替えて官僚の途を選び、1881年文部省の判任御用掛となる

官僚には、親任官、勅任官、奏任官(長官推薦の勅裁)、判任官(長官権限)、雇員がある

殖産興業に関わる部分を独立させ農商務省を発足。外国人教師から特許の相談を受けて調べたことがあった是清が、日本の特許制度創設のため採用される

 

第28話     明治14年の政変

不換紙幣乱発によるインフレに対する財政方針を巡り、時の権力者大隈と、次世代を担う松方、伊藤、山県、黒田らが対立。大隈が退いて松方による財政立て直し、中央銀行創設が進められる。草案は松方の懐刀・加藤済、大蔵少輔の吉原重俊、富田鐵之助らが議論

 

第29話     日銀誕生

英国公使森有礼の下で一等書記官だった富田は在英中に各国の経済・財政事情を勉強、帰国後大蔵権大書記官(奏任官)に就任。中央銀行設立会議のメンバーとなって、1882年日本銀行条例公布に漕ぎ付け、富田は副総裁として病弱だった初代総裁吉原を補佐

富田は、その後総裁に昇格するが、横浜正金に対する融資問題で松方と対立し辞任したが、両者の争いは「君子の争い」で、後に松方組閣時は、請われて東京府知事に就任。3多摩地区を神奈川県から東京府へと編入。富田の後任は三菱出身の土佐人川田小一郎

 

第30話     商標条例

1881年、是清は農商務省工務局に入り、商標登録、発明専売規制、意匠登録の特許3条例の制定を担当。1885年専売特許条例成立、日本の工業所有権制度元年とした

明治政府は、商業の自由化を推進、既得権益を一掃するとともに、商標の扱いを検討

1884年、商標条例発布。工務局内に商標登録所新設。是清は所長として権少書記官に出世

同年、最初の妻柳子を失う。男児2人が残り、是清はよく台所に立つようになった

 

第31話     専売特許条例

是清は、海外の特許制度を参考に審査主義に基づく法案作成。1885年専売特許条例公布。商標登録所兼専売特許所長に就任。実施に向け海外視察へ

 

第32話     前田正名(まさな)

1883年頃、森の紹介で会ったのが農商務省大書記官で4歳上の前田。国家の為に働くことこそ自己の幸福であるという前田の考え方に共鳴。薩摩出身で、五代友厚に仕え、フランスに留学して重農主義的な伝統を学び、78年パリ万博を準備。パリ万博日本代表副総裁松方は前田の媒酌人。前田は是清に会って、日本の殖産興業の未来図作成への協力を要請

 

第33話     興業意見

前田の構想をまとめたのが「興業意見」。前田に傾倒した是清のその後の経済財政的な思考の枠組みはこの時形作られた。地方主体の地方分権的な考えの「興業意見」は、松方デフレの負の影響を批判したため、松方によって大幅に修正。農商務省を代表して省庁間の意見をまとめた是清の折衝能力が高く評価される

 

第34話     欧米視察の旅

1885年、是清は特許業務視察のため欧米に出張。奏任官最高位の書記官に昇進

同行した若者の1人が18歳の串田万蔵。是清の知遇を得て、共立学校から予備門に学び、ペンシルバニア大を優秀な成績で卒業した後、ブラウン・ブラザーズに就職。帰国後は国立119銀行(後に三菱と合併)に入り、三菱銀行会長を経て三菱合資総理事となる

サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨーク経由ワシントンDC

 

第35話     ワシントンDC

ワシントンDCで内務省と特許庁を訪問。研修生として業務を習得

 

第36話     パリの原敬

1886年、ロンドンからパリへ。パリの公使館には南部出身で同年の原敬が外務書記官として駐在、お互い初めての出会いに。1918年誕生の原内閣の蔵相が是清

原は、兵学校を不合格となった後、フランス人教会の学僕となってフランス語との縁ができ、それを武器に人脈を広げ、外務省入省。’83年天津領事で名を上げ、翌年パリへ

 

第37話     是清の手料理

ロンドンでは、逗留していた領事の家で手料理の日本食を振舞い大歓迎される

粗悪品の代名詞だった「メイド・イン・ジャーマニー」への批判が集まる

 

第38話     鹿鳴館時代

1886年帰国。太政官制の廃止と内閣制度の発足で、伊藤博文が初代内閣総理大臣となり、官僚制度の整備に着手。鹿鳴館外交が世間の非難を浴びる

 

第39話     順調なる人生

日本の民法の基礎を築いたと言われるボアソナードによる条約改正案の不備指摘のほか、改正案の中身を知って反対運動が活発化、井上馨外相は引責辞任、鹿鳴館外交も終焉

‘87年、是清は海軍大技監原田宗介の妹品子と再婚。特許局管制公布に伴い、特許局は農商務省の外局となって独立、是清は特許局長に。翌年、商標、特許、意匠の3条例制定

 

第40話     憲法発布の日

1889年紀元節、憲法発布と翌年からの帝国議会開設のための衆議院議員選挙法発布記念式典挙行。式典に向かおうとしていた文部大臣森有礼が自宅で暴漢に襲われ、翌日死去

 

第5章        アンデスの銀嶺

第41話     ペルーの銀山開発

1889年、是清は東京農林学校(現東大農学部)校長に就任。養祖母逝去

農商務省に復帰した前田がペルーでの銀鉱石開発プロジェクトへの出資話を持ち込み、出資のみか、現地派遣となり、日本の国威発揚のために引き受ける

 

第42話     いざアンデスへ

1889年、是清は農商務省を非職となり、鉱山開発の技術者ともども、ペルーに赴任

 

第43話     カラワクラ銀山

アンデス山中5486mの開発地まで、鉄道で3700mいった後は馬とロバで辿り着く

 

第44話     銀山の夢

3カ月試掘しているうちに、良鉱はほぼ掘り尽くされた廃坑であることが判明

前年の現地調査が杜撰だったことを技術者が認め、是清は急遽損切りに動く

 

第45話     頼れぬ農商務省

農商務省では、プロジェクトの後ろ盾になっていた前田が、元老院議官へ転出、後任は外務省出身で大臣秘書官から昇格した原敬

 

第46話     一大馬鹿

是清は出資者を集めて事業の失敗を報告、当初から批判的だった新聞は「一大馬鹿」と酷評

解散した日本側投資会社に代わって、是清は大塚窪町の自宅まで売却して穴埋め

是清と前田は、汚名挽回を賭けて国内の鉱山開発に出資を続けたが、どれも成功せず

カラワクラ銀山は、その後の掘削・精錬技術の進歩により、現在も現役の山として操業中

 

第47話     (しじみ)売り

是清は、2年間の浪人生活を余儀なくされ、幼い次男が「蜆を売って家計を助ける」という

 

第2部        自立篇

第6章        日本銀行

第48話     川田小一郎

3代目日銀総裁川田は、土佐藩郷士出身、岩崎弥太郎の片腕として三菱財閥繁栄の礎を築き、「日銀の法王」と呼ばれ、日銀歴代総裁中もっとも傑出した大総裁といわれる

1892年、川田の口利きで、日銀本店を建築中の辰野金吾の下で建築所事務主任となる

早速降りかかった問題が設計変更。前年の濃尾地震対策と、コスト削減から、総石造りを上階は煉瓦に変更しようとしたが総裁が認めず、その説得役が是清に回ってくる

 

第49話     日銀本店工事

設計変更も含め、契約の合理化などで工事の進捗を早めることに貢献、ほどなく日銀の正社員に採用され、1893年には馬関の初代西部(さいぶ)支店長に栄転。本店は’96年完成

 

第50話     西部支店長

西部支店は、大阪支店に次ぐ2番目の支店で、九州地区と山口県をカバー

是清は、早速長州閥の第百十国立銀行の経営危機を平穏に処理し、実力を認められる

 

第51話     シベリア鉄道と条約改正

1891年、ロシアがフランスからの借款を得てシベリア鉄道着工開始に漕ぎ付けると、国際情勢が大きく動き始め、日本の条約改正も英国を皮切りに進捗

 

第52話     日清戦争

1894年、外国資本進出に不満を持った民衆が蜂起した東学党の乱を契機に朝鮮派兵を強行した清国に対し、日本が宣戦布告。日本では前例のない大規模な公債募集に応募殺到

 

第53話     広島大本営

広島大本営で特別扱いを受けた御用新聞の徳富蘇峰が広島に残したのが深井英五、当時弱冠22歳。戦勝を確信した参謀次長川上操六から、講和の歴史について調査を命じられる

 

第54話     藤田伝三郎

川田総裁を通じて、藤田財閥の総帥の知己を得る

 

第55話     馬関条約

1895年、講和交渉の最中に李鴻章が狙撃されたが、何とか馬関条約締結に漕ぎ付ける

 

第7章        北からの脅威

第56話     三国干渉

三国干渉の見返りとして上積みされた賠償金を、清国はロシア政府保証により仏銀行団から借り入れて支払う。日本を仮想敵国とした露清条約が締結され、列強が清を瓜のように切り刻み始め(瓜分(かぶん)の危機)、ロシアの魂胆が見えてくる

 

第57話     横浜正金銀行

1895年、是清は横浜正金の本店支配人に異動。お役仕事の業務を改革し、業績を上げる

 

第58話     トルストイ

欧米視察旅行に出た徳富蘇峰と深井は、晩年のトルストイと晩餐を共にする

 

第59話     金本位制

1896年、松方内閣(蔵相兼務)誕生。日清戦争の賠償金を元に、列強に倣い金本位制へ移行

天皇は松方を信頼して裁可、翌年施行。1円=金750(0.5ドル、0.1ポンド)

 

第60話     外債発行調査の旅

1897年、是清は副頭取に昇格。翌年、海外支店事務視察のため海外出張。金本位制のメリットの1つである外債発行につき、蔵相井上馨から調査の指示

 

第61話     日銀ストライキ事件

日銀の第4代総裁は三菱の岩崎彌之助。公定歩合引き上げに対し政府の過度の干渉に抗議して早々に辞任。後任は同じ三菱出身で川田の秘書役だった山本達雄が内部昇格するが、慶應義塾出身の山本に対し、東京帝大出身者が反発し、幹部多数の同盟罷業事件に発展

是清は、辞職した重役たちの穴埋めとして、1899年副総裁に就任

 

第62話     大食副総裁

最初の仕事は、日銀による銀行救済の基準作りと、用度品発注の効率化のために幼馴染の鈴木知雄のスカウト

「大柄で大食いの日銀副総裁」のイメージは庶民受けが良かった

終の棲家、後年二・二六事件で襲撃されることになる赤坂表町に転居(事件後東京市に寄付)

 

第63話     四分利付き英貨公債

1899年、初の外貨建て国債発行。’8293年貿易収支が黒字で金銀流入超となったのが原資だが、日清戦後は一転して輸入超となり、金本位制採用と相俟って、金の流出を止めない限り日本の通貨システムの破綻は必至。そのため、先ずは海外から投資資金を導入し殖産興業を促し、輸出品育成が急務となる

手始めに、日銀保有の軍事公債をポンド建てにしてロンドンの投資家に売却。総額43百万円、クーポン5%、発行価格103.5ポンド。売出しは好評で、購入申込は6

’99年、初の新規発行は、総額10百万ポンド、クーポン4%、発行価格90ポンドだったが、一転して不人気で、一般の申し込みは1割強にとどまり、45%を日銀が買い付ける

大失敗に終わり、正貨流出の補填にはならず、全額英国からの軍艦購入資金に充当

 

第8章        日露開戦

第64話     総裁更迭

1903年、蔵相曽禰荒助とソリの合わなかった山本総裁が突如更迭、後任は大蔵省理財局長の松尾臣善。急な異動に是清は日銀の権威を盾に抵抗、桂から間近に迫る日露戦への対応だと聞かされ、山本の貴族院議員転出を条件に納得するが、後に山本は是清の政敵に

 

第65話     松尾臣善(しげよし)新総裁

新総裁誕生により、国家の為の資金調達が日銀の主要業務との位置付けが明確に

早速是清は、金本位制の維持と軍需物資購入のための正貨の確保へと動く

 

第66話     「日進」「春日」

1903年、アルゼンチン・チリ間の国境紛争の和平成立で不要になった新造の装甲巡洋艦2隻を英国の仲介でアルゼンチンから購入したが、日本への回航費用100万ポンドを加えた250万ポンドの支払資金がロンドンになく、金塊をロンドンへ送るまで支払いを猶予してもらい、英国海軍の援護でロシアの追跡を逃れるようにして日本へ。到着は日露開戦の1週間後という離れ業。戦争遂行には正貨の確保が必要不可欠であることを痛感させられる

 

第67話     英国頼れず

現状の正貨残高は117百万円。開戦と共に半減が予想され、2億円の外貨建て資金調達枠設定を閣議決定。金輸出禁止は金本位制放棄に直結するため論外。ロンドン市壽では日本公債の価格が急落。英国は、日英同盟にも拘らず財政的支援には消極的で頼れず。一方のロシアも、米英仏で公債を発行してがユダヤ人へのポグロムが祟って失敗

 

第68話     阪谷芳郎

日清戦時の主計局長が松尾で、主計官が阪谷(現次官)。近代的大蔵官僚の第1回生であり、戦争遂行を財政面から支えた立役者で、「戦争は7分が経済で、3分が戦闘」との信念

阪谷の目論見では戦費総額4.5億円(一般会計歳出規模の約2)、調達を「非常特別税」0.5億の増税、国内債2億、外国債2億として閣議決定

 

第69話     元老会議

開戦を決める御前会議では、軍費確保策の追及に対し蔵相は無言を貫き、松方の助け舟で漸く開戦を決定。売り一色だった兜町も開戦決定と共に不安材料は出尽くして大きく反転

 

第70話     明治時代のIR

開戦に際し、伊藤ほど欧州列強や米国との外交関係の重要性を理解していた元老はいない

すぐに金子堅太郎を米国に派遣、資金調達と合わせて戦争終結の際の仲裁に立ってもらうために米国世論を味方につけるべく懇意にしている米大統領への働きかけを指示

政府広報の発案者は、伊藤の娘婿の末松謙澄。欧州の世論を味方につけるべく奮闘中

 

第71話     高橋を派遣すべき

外債発行のための財務官として是清が任命され、日銀秘書役の深井英五を連れて渡英

 

第9章        外債発行

第72話     (びた)一文の信用なし

日本政府の目論見は、調達総額10百万ポンド、クーポン5%、期間10年据置の55

香港上海銀行とベアリングの提案は、金額10百万ポンド、クーポン6%、期間10年、20%は預託との条件で、金利、期間が合わず是清は拒絶するが、市場はロシア有利との見方が優勢で、日本公債の価格は下がる一方、ロシア国債は安定。横浜正金ロンドン支店長からは「ロンドンでの外債募集は見込みなし。正金銀行鐚一文の信用なし」との入電

 

第73話     米国金融事情

マンハッタンは街全体が工事中みたいなもので国内での資金需要は旺盛だが、金融市場は発展途上で、外国債券は2銘柄があるだけ、WASP系のモルガンとドイツ系ユダヤ人のクーン・ローブが支配していたが、是清にはツテがなかった

 

第74話     ロンドンのバンカーたち

ロンドンでは、是清が横浜で仕えたシャンドがパース銀行を通じて短期証券(ビル)である私募債を提案してきたほか、ロスチャイルドへの紹介者も現れる

 

第75話     マカロフ提督戦死

開戦2カ月後、ロシア旅順艦隊旗艦が機雷に触れて沈没、マカロフ提督が死亡。金子がニューヨークで著名人の前でその死を追悼したことが、対日感情を劇的に改善するとともに、ロンドン市場でも日本公債の価格が下げ止まる

ベアリングから、初めて60万ポンドの日本政府証券購入の申し出あり、前向きに対応

 

第76話     ビートンの訪問

是清は、ベアリングの具体的なオファーをきっかけに公債相場の潮目が変わったと感じる

株式仲買人のビートンからロスチャイルドやベアリングと並ぶシティの3大金融家の1人アーネスト・カッセル卿を紹介される。カッセルはドイツ系ユダヤ人で、クーン・ローブの実質社主ヤコブ・シフとも密接な関係にある。ビートンは公債発行を勧める

シェル系のサミュエル商会も、香港上海銀行と共同で引き受けると名乗りを上げて来る

 

第77話     マッケンジー卿

短期証券か公債発行か迷った是清は、駐日英公使から紹介されたマッケンジー卿に会ってアドバイスを求め、より透明で公平な値決めの出来る銀行系の引受団を通じての公債発行を決断。当時は大型の公債発行もローンと呼ばれ、”Decided for Loans”と本国に打電

 

第78話     目論見書

引受シンジケートはパース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行の3

5年前の目論見書を見直し、短期証券に固執する銀行団を説得し、総額10百万ポンド、クーポン6%、発行価格93ポンド、期限7年、関税収入が担保との条件を提示

当時のロンドン市場の日本公債価格は66.25ポンド(利率換算6.04)に対し、ロシア公債は92.25ポンド(4.35)。鍵となるのは、日本の陸戦遂行能力

 

第79話     鴨緑江の戦い

4月末、黒木為楨大将率いる第1軍が鴨緑江に到達、本格的な陸戦の火蓋を切る。南満州の遼陽での決戦を考えていたロシア軍はあっさり後退。初の陸上戦大勝利の報が銀行団を安心させるが、分割発行とした5百万ポンドの発行条件は譲らず。10日後の売出で仮契約

 

第80話     ヤコブ・シフ

クーン・ローブの創業者の娘と結婚して経営に参画したシフは、日露開戦の直前、前年のロシアでのユダヤ人ポグロムへの報復として開戦後の日本に財政的支援を決意。訪英して旧知のカッセル卿から日本の情報を収集し、直接是清に会って日本の決意を確認

 

第81話     米国参入

翌日、是清の説明に納得したシフがシャンドに残りの5百万ポンド引き受けの申し出

市場も即反応、日本公債の価格は70.25ポンドに暴騰。発行価格も93.5ポンドに引上げ

 

第82話     クラリッジス

世界的富豪シフと定宿のクラリッジスで面談した是清は、改めてシフの実力に圧倒される

16%ポンド建て日本公債の発行条件は以下にて決定: 発行総額10百万ポンド、クーポン6%、発行価格93.5ポンド、政府手取り90ポンド、償還期限7

市場の反応は上々で、前日には価格が96.5を付け、2日後の締め切りまでにロンドンで26倍、ニューヨークで3倍の応募となる

 

第10章     増税

第83話     遼東半島

遼東半島での陸戦の本格化に伴い、砲弾不足が露呈、年内講和を前提としても戦費の見積りは当初の倍以上の10億円となり、すぐに第2回公債1億円の募集の指示が出る

他方、正貨不足を知らされていない日本のメディアや国民は、発行条件の劣悪さを批判

 

第84話     戦には勝っても

旅順要塞攻撃失敗を遼陽の会戦の勝利でカバーし、第2回目の公債発行を目論むが、市場に資金不足を見透かされ相場は下落。日本の正貨は底を尽きそうになる

 

第85話     金がない

日露戦の物量消費が膨大なことから、両国の継戦能力が再考の必要に迫られ市場は慎重に

銀行団との条件交渉のポイントは発行価格。手取り90を狙う日本政府に対し、市場の反応は発行価格が90。シフから日本支援が最大の目的との援護射撃が来る

 

第86話     2回公債発行

190410月、バルチック艦隊出港。英国沿岸航行の際、英漁船を誤射した上漁民を救助せず逃走したことが引き金となって、英国世論が大きく日本に傾き、市場も反応。それを見て総額120百万円を目標に第2回の発行条件交渉開始:クーポン6%、発行価格90.5、手取り86.5、期限7年、募集開始は11月。応募倍率はロンドンで13.4倍とまずまず

 

第87話     増税

正貨確保を第1目的に発行条件悪化は已む無しとする是清に対し、連戦連勝を背景に世論は条件悪化を納得せず、4月から始まった各種増税への負担感もあって是清批判が始まる

ロシアも財政逼迫ながら、ベルリン市場で230百万ルーブル(=円)の起債に成功

 

第88話     我らの仲間

是清は、日本への帰路立ち寄ったニューヨークで、ハンブルクで頭角を現してきたウォーバーグ商会の当主と面談。シフ家とは親戚関係。ロシア革命の動きもあってシフは日本の継続に好意的

 

第89話     一時帰国

19051月、是清は1年ぶりに帰国。外債発行の功から従四位へ2級進級、貴族院議員にも勅選。ベアリングのレベルストック卿に勲一等瑞宝章、シフには勲二等瑞宝章

 

第11章     講和へ

第90話     ウィルヘルム2世の密書

日露開戦に向け、「西方国境は安心していい」とロシア皇帝ニコライ2世の背中を推したのは、従兄弟のドイツ皇帝ウィルヘルム2世で、ロシアの戦費調達にも呼応

ウィルヘルム2世からルーズベルト大統領宛に講和に関する親書が発出されたとの噂の真偽を確認のため、金子が大統領を訪問。大統領は、奉天会戦が終わってから動くとの感触

 

第91話     奉天会戦

2月、是清は「帝国日本政府特派財政委員」の肩書を得て欧米に旅立つ

元老たちも、今回の公債発行が日本の国力の限界と認識

日本は奉天会戦に勝利したが、ロシアはまだあきらめず、独からの短期証券での資金調達を続けるも、同盟国のフランスは突然パリ市場でのロシア公債発行の交渉を打ち切り

 

第92話     3回公債発行

ロンドン市場では、日本公債が買われ、利回りは4.62%まで下落、ロシア公債とほぼ並ぶ

3億円の発行希望に対し、シフは1/2を米国市場で引き受けると約束。クーポンは4.5%に引き下げ、償還も20年との日本側容貌を受け入れ。ウォーバーグも興味を示す

最終的発行条件は、総額30百万ポンド(米英市場折半)、クーポン4.5%、期限20年、発行価格90、担保はたばこ税、募集開始3月末。ロンドンでの募集倍率は11倍と大成功

 

第93話     講和への道

是清はロスチャイルドとも継続的にコンタクト。ロスチャイルドは交戦中の国家の公債発行の引受はしないが、市場では日本公債の有力な買い手

是清の元には、パリ証券取引所仲買委員長が戦後のパリでの日本公債の要請発行が届く

 

第94話     日本海海戦

日本海海戦の戦捷を機に、本国からは整理公債3億円以上の募集の可能性の打診が来る

 

第95話     もう1度公債を

6月、米大統領が露日に対し講和に動く

是清は、更なる起債についてシフに相談するが、否定的な回答

 

第96話     友情

是清の説得にシフは根負け、ウォーバーグも加えた米英独3国で各1億円の構想を建てる

ドイツはすぐに皇帝が認可したが、英銀行団はドイツの参加を警戒

 

第97話     謁見

アメリカではシフと盟友関係にある鉄道王ハリマンが日本公債を大量に購入。日露戦に勝利して日本が東清鉄道の権利を得た場合、ハリマンの世界一周鉄道網構築に資するとして興味を持つ。シフは、英銀行団が難色を示した場合には米独で引き受けるとまで保証

7月、第4回公債発行。総額30百万ポンド、クーポン4.5%、償還20年、発行価格90、担保はたばこ税。ロンドンでは約10倍の申し込みで、大成功に終わる

カッセル卿の仲介で、英国王エドワード7世に拝謁。フランクさに恐縮・感心

 

第12章     戦後処理

第98話     ポーツマス会議

桂・タフト協定が締結され、戦後の新しいアジアのパワーバランスの中で、日本はフィリピンに野心を持たぬ代わりに、米国は日本の韓国における指導的地位を認める

 

第99話     賠償金

講和会議の残る争点は賠償金。早期戦争終結を目標とした政府や軍部は元々賠償金要求は無理だと考え、固執する気はなかったが、日本の世論は20億円を想定、世界の論調も「日本の外交上の敗北」として受け止めたが、市場は日本が譲歩して戦争を止めたことを大きく評価して、日本公債の価格は上がる。開戦時日露両国の公債価格は拮抗したが、日本の勝利の不十分さから再びロシア公債の価格が上回り、日本海海戦以降漸く同水準となる。講和会議でロシアの賠償がないと分ると価格は日本を上回る急上昇

 

第100話     日比谷焼討事件

市場は日本の対応を評価したが、大衆の不満は爆発

ハリマンは、早速来日して、東清鉄道への出資に加え、運営への関与を申し出、桂首相との間で「南満州鉄道(旧東清鉄道)に関する日米シンジケート」の覚書交換

 

第101話     英米独仏協調公債発行

戦時中に発行した外債85百万ポンド、内国債480百万円の利払い縮減のため、無担保低利の外債に乗り換えようとする。是清はパリ証券取引所に打診。同時にロンドンとパリのロスチャイルドともコンタクト

一方のロシアも債券発行を目論むが、国内革命活動の活発化で市場の消化は困難に

5回ポンド建て日本公債発行条件: 発行総額50百万ポンド(2回分割)、クーポン4%、発行価格90、償還25年、発行は11月。ほぼ先進一流国の水準を確保。国別配分は仏1/2弱、英1/4強、米独各1/8強。ロンドン、パリでは10倍以上の応募があり大成功

 

第102話     小村の巻き返し

9万の戦没者、15万の負傷者と18億円もの資金を投じた戦争の結果が、南満州鉄道と樺太の南半分だけという戦果に、小村は責任を感じ、南満州鉄道を使っての植民地経営を目指すという軍部の目論見を支援すべく、ハリマンとの覚書の反古へ動く

 

第103話     シフの来日

1906年、先進国に先立って鉄道国有化法案成立。是清は財政面から反対

是清は来日したシフに、長女和喜子の留学を託す

 

第104話     満鉄

講和成立後も、日本公債発行に際し喧伝した満洲の門戸開放は進まず

欧米からの苦情の高まりを懸念した伊藤らの主導で、満州における軍政を終了させ、政府に代わって実質的に植民地経営を実行する南満州鉄道の設立を決定。中心人物の満洲軍参謀総長児玉源太郎の急逝により、その意を受けた後藤新平が初代総裁に就任。新会社の資本金2億円のうち1億円のIPO1077倍という空前の大盛況

ロシア仕様の広軌から国際標準に直すため、車両からレールまですべて改めなければならず、必要資金の調達を外債発行に頼る。ハリマンとの破約からクーン・ローブには断られ、ロンドン市場で辛うじて4百万ポンドの起債に成功するが、政府保証を要求される

 

第105話     ハリマン

1906年、残る25百万ポンドの整理公債発行のため是清と深井は訪米英。ハリマンにも会ったが、シンジケート破談は満鉄経営が露清条約を継承したため止むを得ないとの是清の説明に対し、ハリマンは「後に後悔する」といわれたがその通りとなった

 

第106話     1907年恐慌

1904年頃から始まった米国の株式や不動産ブームでは、新商品だった「信託」の器を使った野放図な投資が投機を加速。多くの金融家が警戒心を持つなか、’06年のサンフランシスコの地震により保険金の支払いにより英国から大量の金が米市場に流入。過熱への警戒感から市中銀行に預金者が殺到し取り付け騒ぎに発展。一時的な危機を受け止める中央銀行がない米国では一気にパニックが拡散し、大恐慌に発展。これを機にFRB創設の動きが加速。大恐慌の煽りで、シフは是清の起債打診に否定的回答

 

第107話     最後の資金調達

資金流出から金準備が底を尽きかけた英国もポンド防衛のため金利引き上げは必至で、日本の公債発行には否定的。フランスも日本の足元を見て、満洲などでの権益を要求

是清はロンドンでの起債強行を決断、銀行団を説得。英仏のロスチャイルドが協力

19073月、第6回ポンド建て日本公債発行条件:総額23百万ポンドで英仏折半、クーポン5%、償還40(完済は1985)、価格99.5

 

第108話     和喜子

1906年、来日したシフの外交辞令に乗って和喜子は2年間の留学へ。うち1年半は寄宿学校。帰国後は大久保利通の末っ子(八男)で正金勤務の利賢と結婚、海外勤務に付き添ってシフ家との縁を続ける

 

第109話     日露戦争が残したもの

日本の財政への影響は、開戦前の公債残高98.2百万円が2269百万円と、GNPの約61%、一般会計歳出の377%。軍事費は戦後も2億、国債費(利払い)も約2億円

戦時の重税は戦後も残り、国民の税負担は日清戦後の2倍になり、国民の不満は鬱積

世界の軍備にも大きな影響を与え、英独の建艦競争、大艦巨砲主義、戦艦の技術革新は列強各国に更なる軍事費の増大をもたらす

 

第3部        不惑篇

第13章     日銀総裁から大蔵大臣へ

第110話      男爵

深井は希望して営業局長に異動、'18年には理事となって是清をサポート

戦時の駐英公使林董は伯爵に。是清等約90名が男爵。起債担当者個人にもコミッションが払われるのが慣例だったが、1銭も取らなかった是清の清廉さに感心した元老たちが250万円のボーナスを与える(日銀総裁の年俸6000)

 

第111話     伊藤博文

韓国統監府の伊藤は、自治育成策を取り、中央銀行として韓国銀行を設立しようとしたが、韓国併合派の桂が首相になると、治績の上がらない伊藤が辞任、桂は韓国銀行の設立を認めるが、設立の直前伊藤は韓国民族主義者に射殺される。韓国銀行は後に朝鮮銀行と改名

 

第112話     直子

1899年、是清は葉山に別荘を新築。品子と縁続きの鈴木直子が家事見習いとして高橋家に入る。是清の不倫を知って品子は直子を嫁がせるが、戻ってきたため高橋家で預かるうちに是清との間に4人の子供をもうける。もう1人芸者との間にも子供がいる

 

第113話     日銀総裁

1911年、是清は第7代総裁に。直言居士だった是清の評判が不芳で時間がかかった

金本位制下金準備の不足が最大の課題。貿易収支赤字化の古典的な通貨政策はデフレだが、是清は不要不急支出の削減と、殖産興業・輸出増加による国際収支の黒字達成を説く

 

第114話     山本達雄

桂の下で積極的な金融政策を目論んだ是清だったが、大逆事件処理で世間の批判に晒された桂は、西園寺に禅譲、蔵相には元日銀総裁の山本達雄が就任。歳出削減・金融引き締めの消極主義者で頑固一徹、予算案では産業振興・鉄道網拡張を却下

 

第115話     貨幣数量説

1911年、輸入超過と日露戦後の恐慌に対する反動景気により、兌換銀行券発行残高が未曾有の水準に達し、同時に物価が上昇。たまらず翌年初には公定歩合を引き上げるが、是清は「貨幣数量説は陳腐となり、金利引き上げ・兌換券縮小による経済の立て直しは間違い」と主張、世間の議論を過熱化させる

 

第116話     明治の終焉

是清と山本の確執は続き、消極論に固執する山本の職権に押されて、日銀はさらに2度にわたって公定歩合引き上げ

 

第117話     大正政変

政権奪取を狙う桂が、陸軍の軍事費増が閣議で否決されたことを理由に辞任した陸軍大臣の後任を送らず西園寺は内閣を放棄。第3次桂内閣発足。蔵相は若槻礼次郎大蔵次官

桂は新党(立憲同志会)を設立したが、尾崎・犬養らが活躍して多数派の野党連合が成立し桂政権を批判。桂は再三にわたり国会を停会して乗り切ろうとしたが、国民の護憲運動の高まりを憲兵によって鎮圧しようとしたことで民衆は暴徒化、桂は総辞職後急逝

 

第118話     大蔵大臣

山本権兵衛が組閣、政友会が協力、牧野伸顕が参謀役となり、松方の推薦もあり是清が蔵相就任。「閥族打破」を謳う山本内閣の世間体のため政友会入りし、政治家としてスタート

 

第119話     1次山本権兵衛内閣

1913年蔵相に就任した是清の任務は、「正貨危機」回避と経済のバランスをどうとるか、外債の返済と、積み上がる軍事費の要求にどう応えるか

1912年度の一般会計総支出は594百万円、国債費142百万円、軍事費は約2

空前の行財政整理が断行され、事業繰り延べも含め70百万円強を捻出

是清を支えたのが大臣秘書官の河田烈(いさお)と、後の国際財務官津島壽一

 

第120話     井上準之助

是清の後釜は正金頭取の三島弥太郎(薩摩出身、通庸の息子)、その後任は是清の推薦した井上準之助(18691932)。大分・日田出身、帝大法卒、山本達雄の縁で日銀入行。留学途中で日銀ストライキ事件後の立て直しで呼び戻される。日露戦中は戦時公債募集に功あり、営業局長に抜擢、1911年には正金副頭取となり、2年後頭取に昇格

 

第121話     鉄道公債

1910年、外債の管理・整理のためロンドンに海外駐箚財務官を置くことになり、大蔵官僚の森賢吾が就任。1927年退任までに22回計1,350百万円の起債に関わる

日露戦争後の正貨危機の間、政府は「非募債主義」で借金を増やさぬよう努め、代わりに発行したのが満鉄の社債や興銀債券、東京市電気事業公債などの地方団体債

それでも不足すると、政府自身が鉄道債や国庫債券も発行。整理借り換え債は例外扱い

是清は、外債を発行して投資し、輸入超過の趨勢を出超に転換すべしと考え、外貨建て鉄道公債の発行を提案、反対する松方や山本達雄農商務相を説得し発行に漕ぎ付ける

 

第122話     ジーメンス事件

1914年、ジーメンス東京支社の秘書がロイターに会社の秘密文書を漏洩したため、海軍高官への賄賂事件が発覚し、山本内閣は窮地に陥り総辞職。鉄道債どころではなくなる

 

第123話     2次大隈内閣

誰も後継の引き受け手がなく、明治14年の政変で下野していた大隈が浮上、国民の人気を背景に組閣、併せて海軍部内の粛正を断行。蔵相には非募債主義の若槻礼次郎が復帰

政友会は野党に転落したが、西園寺の跡を継いだ原敬が大隈のやり方に不満を持つ松方や山県に接近し、捲土重来を期す

 

第14章     欧州大戦

第124話     欧州大戦勃発

英仏露対独墺の大戦勃発に際し、日本は当初厳正中立を表明したが、すぐに権利拡張の絶好機とばかりに、名目上は日英同盟の義務と東洋平和の維持のためとして、参戦を表明

是清は政友会の調整役として動き、元老たちの心が大隈内閣から離れていくことを感じる

 

第125話     対華21カ条要求

青島要塞陥落後、日本は中華民国大統領袁世凱に日本の要求を提出するが、21カ条のうち最後の第5(4カ条)は、中華民国政府に日本人顧問を雇用させるほか、火事場泥棒的内容で対外秘としたが、袁世凱は意図的に英米メディアに漏洩、日本への不信感が募る

 

第126話     12回総選挙

大隈内閣の陸軍増設案が議会で多数の政友会の反対で否決されると、大隈は議会を解散

1915年の総選挙は、是清が政友会の選挙委員長。大隈の方は自身の人気に加え、外相加藤高明が党首の同志会が三菱の資金力をバックに金で票を集め、過半数獲得に成功

 

第127話     抗日運動の起点

対華21カ条要求は第5号を除く17条に圧縮して中国側が吞むが、加藤外交の大失態には間違いない。新たな議会では、陸軍増設は決まるが、選挙での大規模な買収が発覚し、内閣は総辞職したが、慰留され内閣改造で延命

 

第128話     「非募債主義」

軍需品中心に輸出が急増、貿易収支が一気に黒字となり、大戦景気に潤う

一方、不祥事で人気をなくした大隈は辞意を表明、山県の推薦で寺内陸軍元帥が、政党の支援を受けずに議会を無視した「超然内閣」を組織。是清は政友会から一歩引く

 

第129話     戦時のウォール街

米国は中立国としてどちらの資金調達にも加担しない方針だったが、物資調達向けの信用供与は、農産物の輸出減少を心配した米国地方農民への政治的配慮から例外扱い

モルガンは英仏の軍需物資調達の代行機関となり膨大な物資の流通に関わる

米国の参戦決定により米国の戦費調達が始まり、戦後の1回も含め、4回合計210億ドルの「リバティ・ボンド」という名の戦債を発行

英仏独露は開戦と共に実質上金輸出を禁止して金本位制を停止、日米も同調

 

第130話     寺内正毅

1916年、寺内内閣誕生。寺内は長州閥の逸材、蔵相は伊予出身で元大蔵次官の勝田(しょうだ)主計。是清は、政友会の原敬の腹心として動き、国防政策は軍事力より外交・経済力に拠るべきと説く。`17年の総選挙は政友会と犬養の国民党が政府側に回り過半数を制す

 

第131話     西原借款

寺内内閣は、「誠意」と「親善」による「王道主義」を対中国政策の柱とし、内政不干渉政策をとったが、かつての朝鮮人脈を利用した民間借款の形で中国に侵入。資金は政府保証付きの興銀債などで調達・充当されたので、実質上の政治的借款であり、列強の顰蹙を買う

総額145百万円の西原借款は、中国北洋軍閥政権確立に費消されたが、ほぼ全額貸し倒れ

 

第132話     ロシア革命

チューリヒに亡命していたレーニンがドイツ軍参謀本部によってロシアに移送され、皇帝を退位させた臨時政府を倒し、革命政権樹立。革命政府は戦線を離脱

 

第133話     是清一家

赤坂表町の是清の家には常に3050人ほどが暮らし、物価上昇を実感

 

第134話     米騒動

米騒動で揺れる寺内内閣は、寺内の病気もあって辞意、後継に原を推す。政党嫌いの山県も、原が陸軍と手を握ったのを見て原首相を認める。陸軍参謀次長の田中義一は原内閣の陸相となり、以降政友会での活動に繋がる

1918年、原に組閣の命が下り、初の本格的な政党内閣誕生。是清は2度目の蔵相に就任

 

第15章     5大国

第135話     原内閣

是清のほか、農商務相には山本達雄が就任。原は是清の積極財政を取る

 

第136話     深井パリへ

パリ講和会議の日本全権団に日銀理事として加わった深井は、是清の指示もあってかつての人脈を訪ね、新たな知遇を得るべく活発に動く

 

第137話     パリ講和会議

日本は5大国の1つとなったが、白人の仲間にはしてもらえず、外交力の弱さを露呈

 

第138話     原敬と鉄道

政友会の主要施策の1つが交通通信機関の整備拡充で、狭軌の鉄道網拡充を企図。原敬遭難後の是清の内閣でもその路線を継承。’22149路線新設を盛った改正鉄道敷設法成立

 

第139話     積極財政

戦争景気で日本は大幅な出超となり、正貨も急増したが、国家予算も膨張、4年で倍増

加えて陸海軍が軍事費の取り合いを始め、是清がその調整に動く

 

第140話     欧州大戦後のバブル

是清の積極政策が受けて景気は持ち直したが、米国が金本位制に復帰したのに対し、原と是清は正貨の温存に動く。株式市場は急騰、インフレが高進してバブル状態

1920年、バブルが崩壊し、すべての取引所が停止。膨大な不良債権を抱えた銀行の救済が急務。是清は公債を発行して景気に対して積極策を取ったが、この時のバブル形成と崩壊はその後の日本経済に深い傷痕を残す。さらに地租改正により石高制の物納から金納に変わってたことや、地方税負担増により地方財政が苦しさを増し、貧富の差が拡大

 

第141話     シベリア出兵

1918年、ロシア革命によりロシア領内に取り残されたチェコ軍救済のため、日米合同でシベリアに出兵するが、それを口実に大軍を派遣。他国の撤兵後も日本の撤兵は遅れる

 

第142話     シフからの手紙

是清はスペイン風邪に罹患、療養しながら「放漫財政」との批判を甘受

1920年、子爵に。シフ逝去、享年74

 

第143話     参謀本部廃止論

是清は、自らの寿命を意識、政治家としてやるべきことを「内外国策私見」にまとめる

「第2のドイツ」との列強の誤解を解くための具体策として、対中国要求の緩和などに加え、統帥権を盾に我を通す参謀本部の廃止や行政改革を列挙したものだが、余りの過激な内容に原は公表を抑えるも、山県まで漏れ伝わり、後の暗殺の伏線になる

 

第144話     山県有朋

参謀本部廃止論は、政界の大御所を自任していた三浦梧楼(奇兵隊出身の元中将)も原に進言していたが、当時の上原勇作参謀長の個人的な横暴が参謀本部への不信を買っていた

山県は宮中某重大事件で負け松方と共に辞表を出すが、大正天皇の病状悪化で慰留

 

第145話     東亜経済力樹立に関する意見

1921年、原内閣は時局収拾のための「東方会議」開催、外交・防衛政策を討議。シベリアや山東鉄道沿線からの撤兵を決定。是清は「対支経済計策概見」を書き、井上日銀総裁の手で加筆され「東亜経済力樹立に関する意見書」として、中国の豊かな資源を開発し、欧米勢力と対抗できる自主的な「東亜経済力」を樹立しなければならないと説き、原を牽制

 

第146話     バーデン=バーデン

陸士同期の3人がバーデン=バーデンで会合。欧州出張中の岡村寧次、ロシア駐在武官赴任途上の小畑敏四郎、スイス駐在の永田鉄山の3少佐で「軍刀組」と呼ばれる超エリート

3人の密約は、長州閥の専横阻止と、国民と一体化した軍隊を作ること

少壮エリート将校による国軍改革運動はやがて軍内の下克上の風潮を生み出し、軍内の派閥に発展、閣議の予算編成にまで容喙し、さらには若手将校によるテロルへと発展

2.26事件の数カ月前、1936年度予算策定の時に是清は閣議で発言、「社会と隔離した特殊の教育(幼年学校のこと)をするということは、思想が偏った者を作ること。陸軍ではこの教育を受けたものが嫡流とされ、幹部となるのだから、常識を欠くことは当然で、その常識を欠いた幹部が政治にまでくちばしを入れるというのは言語道断、国家の災いというべき」。この発言は陸軍大臣を通じて陸軍に伝えられた

 

第147話     原が刺さるる朝

欧州大戦は民主主義の勝利となり、総力戦を戦った国民は国家からの義務に応じると同時に、国家に対しても堂々と権利を主張するようになる、その権利の代表的なものが参政権であり、婦人も同様だが、人種問題は未だに別

日本でも一部有権者を増やしたが、野党は納税条件なしの普通選挙を主張、デモが活発化

国民に直接訴えて理解を得ようとした原は、全国を遊説して回ったが、その途中に暗殺

 

第16章     内閣総理大臣

第148話     内閣総理大臣

臨時閣議では、外相の内田康哉が臨時総理として、「軍縮方針不変」の声明を発表

後継首相には、松方と西園寺の推薦で是清が指名され、健康上の理由で固持する是清も全閣僚留任、是清の蔵相兼務で受けざるを得ず。併せて政友会総裁も押しつけられる

 

第149話     ワシントン軍縮会議

1922年、海軍軍縮条約締結。以降1936年の条約失効までの間はネイバル・ホリデーと呼ばれ、主力艦の建造はない。英米協調外交路線の維持と共に是清内閣の事蹟

 

第150話     ジェノヴァ国際経済会議

1922年、英国主導の経済会議。欧州経済復興を話し合うため、米国以外の独ソを含む31か国が参加。通貨の安定が課題で、金本位制の再建が目標となる

 

第151話     高橋内閣の船出

首相としての初仕事は、1921年皇太子の摂政就任

中心となる政策課題は、戦後不況に対応し、それまでの放漫財政を修正しつつ産業基盤を整備すること

 

第152話     文官を軍部大臣に

海軍軍縮に続いて陸軍の軍縮も俎上に上り、併せて軍部大臣の文官任用法案も、衆議院では決議するが、貴族院では難渋。予算の縮小と相俟って政友会内部にも是清批判が高まる

 

第153話     小泉策太郎

1922年、是清は内閣改造を企図するが、更迭しようとした2大臣が辞任を拒否したため、閣内不一致を理由に総辞職。是清の統率力のなさを見限った松方は、政党政治の腐敗もあって、海軍大臣の加藤友三郎を推し、政友会は選挙のために加藤の超然内閣支援を決定

 

第17章     関東大震災

第154話     加藤友三郎内閣

翌年、加藤の急逝で山本権兵衛が再登場。元老の政党不信は続き、挙国一致内閣を実現

 

第155話     関東大震災

山本は、是清を蔵相に予定したが、政友会は受けず。後藤新平中心の組閣が進む

代わりの蔵相は日銀総裁の井上準之助。組閣中に大震災勃発

 

第156話     震災手形

日銀の建物に被害はなかったが、明け方になって延焼。何とか消火して翌3日の月曜からの定刻開店を決める。本邦初のモラトリアムが7日の勅令で公布、向こう1カ月間の債務支払いが延期される。市中銀行に対しては、支払い準備金の貸出を無制限に援助

さらに、市中銀行が震災前に割り引いた手形を「震災手形」として日銀が再割り引きし、日銀に生じた損失は政府が保証することを決定(震災手形割引損失補償令)

 

第157話     帝都復興計画

内相の後藤新平は帝都復興院総裁となり、「日本の公園の父」本多静六にマスタープランを依頼。後藤の大風呂敷は周囲の反対にあって大幅に縮小されたが、動きは速い

 

第158話     「国辱国債」

井上蔵相は森賢吾財務官に外債発行を指示、大戦後の世界的不況、金利高の環境下ではあったが、今回はモルガンを主幹事に、ニューヨークで6.5%利付き公債150百万ドル、ロンドンで6%公債25百万ポンド、日本で550百万円の発行に成功したが、国内では従来の公債と比較して条件の悪さから「国辱国債」と呼ばれる

 

第159話     清浦内閣

高齢の山本は、震災の緊急時にあって指導力を発揮できないまま、摂政宮襲撃事件(虎の門事件)の責任を取ってわずか数カ月で辞任。後任には山県系の貴族院議長清浦圭吾。政党を無視した超然内閣で、大衆の護憲運動が再燃、政友会内部でも是清に大命降下がなかったことで反主流派が盛り返し、是清に爵位を返上して選挙に臨むよう迫る

 

第160話     2次護憲運動

1924年、政友会は憲政会に提携を申し入れ、犬養の革新倶楽部も巻き込んで「第2憲政擁護会」として超然内閣に対抗しようとして、是清も爵位返上の決意を表明するが、政友会の反主流派は清浦内閣と離党、それに過半数が呼応して衆院第1党で、政権与党となり、政友本党を名乗って結党。暴漢の国会乱入事件で清浦は衆院を解散

 

第161話     15回総選挙

是清は、原の弔い合戦として盛岡の小選挙区に立候補したが、政友本党も対抗馬を立て激戦に。政府側の激しい選挙干渉は列車事故にまで発展し苦戦するが辛勝。対抗馬は自分こそ原の正統な後継者だと訴え、次の選挙から9回連続当選している

 

第162話     護憲3派内閣

選挙結果は、第1党が加藤高明の憲政会、第2党が政友本党で、是清の政友会は議席を大幅に減らし第3党。憲政の本道に戻って加藤に大命降下。外相に義弟の幣原喜重郎。英米協調、大陸不干渉の「幣原外交」はこの時に始まる。蔵相は浜口雄幸。是清は農商務相

加藤は岩崎弥太郎の長女と結婚し、「三菱の番頭」と呼ばれる。三菱から外務省に入り、陸奥に認められて1900年には40で伊藤内閣の外相就任。桂太郎と意気投合し憲政会入り

 

第163話     排日移民法

欧州大戦後のアメリカでは、帰還兵と欧州からの移民急増が社会問題化し、移民割当法が時限立法で成立。黄禍論もあり日本は自主規制で移民を抑制、欧州からの移民問題の緊急性から移民法全体を否定できず、日本だけの例外も認められず、’24年の移民法成立へ

 

第164話     引退

体力の限界に加え政党引率力の限界を知った是清は、政友会総裁を辞任、同時に閣僚も辞任。後継には原内閣の陸軍大臣田中義一を推すが、軍人の総裁就任で党の性格が変わる

 

第165話     つかの間の休息

1925年、70歳で一介の衆議院議員になったが、休息はつかの間

 

第4部        知命篇

第18章     昭和金融恐慌

第166話     正貨残高

金本位制の縛りの中で是清は何をしたのか、井上準之助は何と戦っていたのか

   外債発行による正貨補充の期間(190413)――増大する軍事費の中で金本位制維持のため外債を発行、得た正貨は在外正貨として海外で保有

   大戦景気による正貨充実の期間(191420)――入超が続いて正貨不足が深刻化するなかでの軍需品の輸出急増から正貨残高のピークを迎えるが、対中国投資のため正貨を温存すべきと考え、金本位制復帰を控える

   大戦後正貨流出の期間(192124)――欧州の復興で入超に戻り在外正貨減少したところへ大震災発生、外債により資金調達してカバー

   金解禁後の世界(1925)

 

第167話     蘇る金本位制

欧州大戦終了で、世界の経済環境は様変わり。ジェノヴァ国際経済会議で、先進各国は金本位制復帰への努力を確認し合う

米国は1919年に金本位制に復帰するが、日本は見送り。直後からシベリア出兵、戦後バブルの崩壊、大震災などで正貨流出が始まり、復帰の機会を逃す

ドイツは、ハイパーインフレを賠償金の棚上げ、米ドルとのペッグ、実質デノミによって乗り切り、経済の混乱を抑え、実質金本位制に復帰

英国はポンド安の実勢レートに対し、旧平価での金本位制復帰を目指し、’25年復帰実現

 

第168話     渡辺銀行破綻

震災手形のお陰で延命された銀行の経営内容の悪化が目立つようになり、震災手形の期限が’279月に迫るなか、東京渡辺銀行が手形決済不能の事態に陥り大蔵省に泣きつくが、大蔵省は事務的に対応、震災手形の善後策を協議中の国会で答弁している片岡蔵相にメモを渡したところ、片岡は既に渡辺銀行のように破綻したところが出てきたと発言したため、取り付け騒ぎに発展。実際は資金繰りがついて手形は決済されたが時すでに遅し

 

第169話     鈴木商店

大蔵省や日銀は、渡辺銀行に営業継続を勧めるが、渡辺銀行は責任の一端を政府に押し付け休業に踏み切る。同時に鈴木商店に貸し込んでいた台湾銀行も資金繰りに窮し、政府に救済を求めていたことが明るみに出て、国民の金で政商を助けるとの批判が高まり、取り付け騒ぎが拡散。反動不況で苦境に陥った鈴木商店は、時の蔵相是清等に債務整理を懇願、台湾銀行に一本化させることに成功、是清の問題先送りの対応が破綻を招いた

台湾銀行の融資打ち切りで鈴木商店は破綻、株式市場は大暴落し、大銀行まで取り付けの対象になり、昭和金融恐慌は第2段階へ。対応に躓いた若槻憲政党内閣は総辞職

 

第170話     是清蔵相就任

政府は台湾から恐慌の情報を遮断する形で台湾銀行の営業を続けさせたため、台湾内での取り付けは1日で収まるが、日本国内では一流銀行にまで取り付け騒ぎが広がり、金融恐慌は最終段階へと進む

組閣の大命は政友会の田中義一に降下。是清は田中に蔵相就任を懇請され、恐慌終息までという条件で引き受けるが、大手銀行救済に動こうにも日銀には紙幣がなかった

 

第171話     モラトリアム

是清は、モラトリアムを緊急勅令で発令し、預金封鎖をして取り付け騒ぎの沈静化を図る

勅令発令まで銀行は2日間の自主休業。日銀は裏面白紙の紙幣を印刷、騒ぎは沈静化

 

第172話     台湾銀行救済

取り付け騒ぎは一気に収束に向かい、預金は5大銀行へ集中。大銀行の寡占体制へ

モラトリアム後の金融政策につき、議会は日銀特融等の法案を可決し、運用は是清に一任

 

第173話     川崎造船所

是清は、戦後の反動不況で苦境に陥った川崎造船と、その主力銀行で華族の銀行だった十五銀行の救済に動く。いずれも恩義のある松方の息子たちが経営。事業会社の救済は鈴木商店の二の舞だとして周囲は反対、蔵相辞任に追い込まれる

 

第174話     ラジオ

音声によるラジオ放送は、1920年ピッツバーグ・ウェスチングハウス社が最初。日本では1925年試験放送開始、NHK愛宕山の放送局完成。この年初の普通選挙実施

 

第175話     山東出兵

1927年、蒋介石の北伐軍が南京を占領、外国居留民を襲撃した南京事件勃発、英米の共同出兵要請に対し日本の幣原外交は拒絶。さらに北伐軍は漢口でも日本租界を襲うに及び、軟弱外交の若槻内閣に代わり、田中義一が組閣、青島や済南に進出(1次山東出兵)。翌年にかけ23次と続き、日本軍に打撃を受けた蒋介石は、「雪恥」として第2次大戦終了まで日本を敵だと明確に認知。中国民衆の反帝国主義の矛先が英国から日本へと転じる

 

第176話     張作霖爆殺事件

蒋介石の北伐で、北京から満洲に帰還した張作霖を、武力による満洲支配を企図した関東軍は実力行使に出て爆殺。天皇と関東軍の間に立った首相の田中は総辞職後急逝

 

第177話     モルガン商会

財政面でも世界を主導した米国の代表がモルガン。金本位制復帰の手段として正貨を確保するために東京市や大阪市の外債発行が検討され、モルガンに可能性を打診

 

第19章     金解禁

第178話     浜口雄幸(1870~、高知)

1929年、浜口内閣誕生。浜口は幣原と帝大同期、勝田元蔵相と大蔵省同期入省。後藤新平に見いだされ政界入り。’27年野党の憲政会と政友本党が合併して民政党となり初代総裁に就任、'29年大命降下。緊縮財政と協調外交、金解禁を宣言

 

第179話     真っ直ぐな道

浜口は、低迷する経済界の立て直しと財界匡正のためには緊縮財政により苛めつけた上で金解禁をしようと目論み、信頼する1つ下の井上準之助を蔵相にして託す。井上は、積極財政派の是清に仁義を切る。是清も井上の決意を認め、「真っ直ぐな道を歩くことを忘れるな」と助言するに留める。金解禁の誤りを敢えて主張せず、変節漢で傲岸な態度と評判の井上を誡めたような印象を後世に残す

 

第180話     浜口内閣の十大政綱

井上は就任早々から金解禁に向け積極的に動き、先ずは緊縮財政の観点から予算を見直し

是清は、『金解禁について』を月刊誌に寄稿。金解禁そのものには反対しないが、国際貸借の借りが多ければ金輸出解禁は困難であり、国内産業の育成と、国産品の消費徹底により国民全体の国産品に関する観念を徹底することこそ金解禁の根本的準備となると説く

 

第181話     新平価論4人組

当時の相場100円=44.625ドルを旧平価である49.846ドルまで回復させて金解禁を実行、そのためには国民の節約と緊縮財政によって輸入を減らすのが政府の目標

デフレと不景気を覚悟した上での決断だが、英国が金本位制に復帰した際も旧平価に拘り、実質英ポンドの切り上げとなって輸出産業に深刻な影響を与えた。これに異を唱えたのが石橋湛山や小汀(おばま)利得などのジャーナリストで「新平価4人組」と呼ばれた

 

第182話     NY大暴落

米国の「狂騒の20年代」のバブルが崩壊、株式市場が20日間で半減する中、日本の金解禁を迎える

 

第183話     金解禁

浜口内閣は、「金解禁=好景気」を旗印に民意を賛成に誘導。NYの大暴落も金融緩和に働き、為替相場は円高に振れる。モルガンを通じて1億円相当の外貨起債枠を確保したところで1930年初の金解禁を公表

 

第184話     金解禁総選挙

予定通り旧平価で固定されたが、是清は円の過大評価を懸念して金解禁の失敗を予言

浜口内閣は、金解禁成就のお祭り騒ぎに乗って一気に衆院過半数獲得を目指し解散総選挙に持ち込み、与党民政党が犬養の政友会を圧倒。緊縮財政による物価下落で困窮する農村を横目に、都市部では戦前の全盛期を迎える

 

第20章     満州事変

第185話     統帥権干犯問題

ロンドンでの海軍補助艦制限条約に対し、軍令部は公然と反旗を翻し、政友会も統帥権干犯と騒ぐが、政党が統帥権を持ち出すこと自体、政党政治確立を目指す政党勢力自身による自殺行為

 

第186話     昭和恐慌

緊縮財政、米国株式市場の大暴落、世界的な不況に加えて、生糸などの相場の暴落、例外的な米の大豊作による米価大暴落となり米穀市場は立会停止、株も連動して下落。物みな下がる「価格恐慌」で、デフレがもたらした恐慌。特に農村の疲弊が顕著になったところで翌31年は東北以北が例外により大凶作

 

第187話     浜口遭難

193011月、岡山の陸軍大演習統監の天皇に陪席するため東京駅を発とうとしたところを、海軍軍縮を統帥権干犯と糾弾した右翼に銃撃され、一命はとりとめたが執務は困難

 

第188話     軍の政治関与

政治から独立していたはずの軍部が政治に介入する事例が増加。陸軍エリートには自給自足圏形成を急務とする一派が台頭、幣原外交に公然と異を唱え、軍事クーデターを企図するまでに至る(3月事件)。陰謀は露見するが甘い処分に終わり、禍根を残す

 

第189話     浜口の死

浜口は総辞職、民政党の若槻が継ぐが井上は蔵相として留任、恐慌の中でも徹底した緊縮を強行、ますます政治不信が募る

 

第190話     柳条湖事件

張学良の反発攻勢を「日本の生命線の危機」と捉えた関東軍は、柳条湖での満鉄爆破事件を中国軍の犯行として奉天に進撃

 

第191話     満州事変

満州事変勃発の直後、英国が金本位制からの離脱を発表。ドル買いに殺到、正貨の流出が止まらず。欧州各国も追随して金本位を離脱

 

第192話     新聞社の変容

柳条湖事件をきっかけに、新聞報道が明確に変わる。戦火の拡大とともに購読者数を大幅に増やすが、戦場での取材には軍の協力が不可欠で、軍との良好な関係構築が必須となり、反軍的な記事は姿を消す。新聞社各社は、軍事行動は批判せず極力支持すべきと決定

 

第193話     キリスト教と観音様

完全引退した是清は、私邸に出入りするメソジスト派の牧師に、フルベッキからもらった聖書を見せる。同時に、養母の感化で観音経にも感動。是清にとっては、宗派を問わず、本質に迫る考え方そのものが重要だった

 

第194話     深井の説得

金本位制維持に固執する井上に対し、市場には大量のドル買いが押し寄せ(三井のドル買い事件)、右翼からは、財閥と蔵相が結託、いずれも国賊として狙われる

 

21章 金本位制停止

第195話     若槻内閣総辞職

政府の不拡大方針に反発した陸軍の若手将校は、再度クーデターを企図(10月事件)するが、事前に発覚して処分。若槻内閣は、閣内不一致で総辞職

 

第196話     是清再び

次期首班は政友会の犬養となり、是清に蔵相復帰の要請。金輸出の再禁止を指揮。日銀の深井副総裁は兌換停止まで踏み込む

 

第197話     円安

193112月、犬養内閣発足と同時に大蔵省令で金輸出再禁止、枢密院議決後の勅令を待って兌換停止。停止後の円相場は2割安の40.5ドル。円売りは加速、最安値は20ドル

 

第198話     井上準之助死す

犬養内閣は、衆院での民政党からの過半数奪回を目指して選挙に踏み切る

民政党の選挙を指揮したのは井上だったが、選挙戦最中に血盟団のテロにあって死去

 

第199話     5.15事件

犬養は満洲国を国家としては認めず、国際協調路線を取るが、外国から見ると言行不一致は明瞭。さらに政友会内部も多数を取った途端にポストを巡る内紛が火を吹き、国民は政党政治にうんざり。上海事件で托鉢中の日本僧侶が殺害されると一気に対中批判が高まる

対中強硬策を主張する陸軍中堅に対し、犬養・是清は一喝するが、却て逆恨みを買う

犬養は、あくまで議会擁護で、問題の根源である過激思想の青年将校たちの大量免官を企図したのを察知した陸海軍若手将校が犬養を襲う

 

第200話     政党政治の終焉

是清が蔵相兼任の首相代理に就任。後継指名を託された西園寺が選んだのは元海軍大臣の斎藤実(まこと)による挙国一致内閣。政党政治は政党自らの腐敗によって終焉を迎える

斎藤は海軍の穏健な長老、組閣に際し最初に是清に蔵相を要請。政党政治家の閣僚は10人から3人に激減。5.15は最初の号外だけで陸軍の報道規制の要求により国民に詳細は知らされず、1年後に犯行を擁護するかのような発表がなされただけで、却て軍内部での勢力拡張の機会となり、国民の支持を高める結果となる

 

第201話     通貨と経済

斎藤内閣は、国際協調路線を引き継ぐと言いながらも満洲国を承認

是清は、日銀券発券制を改正、発券限度額を一時的に大幅に引き上げる

満洲国は、日本の貨幣制度から遮断された銀本位制となり、是清も賛成したが、陸軍が戦費を自由に調達する現実を見て、後に日本の統一された管理の下に置こうとするも、2.26で潰れる

 

第202話     時局匡救議会

5.15事件に参加した民間の別動隊は農村の青年達。農村恐慌の中でファッショ的な動きは地主・中小農を主体として盛り上がり、農村を兵士の供給源とする陸軍に大きな影響力を持つ。議会でも農村救済のため「時局救済決議案」が通過

是清の信念は、国民の働きにいかにして相当な価(労働価値)を持たせるかという政策こそ根本政策だとするもので、資本が経済発展上必要なのは当然だが、資本も労働と相俟って初めてその力を発揮する、労働が第1で、資本は第2。経済政策の根本は、人をよく働かせることであり、人の働きの値打ちを上げること

井上の引き締め政策を転換して、時局供給予算を組み財政支出を拡大、農産物価格下落で不況に苦しむ農村地域に資金を重点的に配分。財源は日銀引き受けによる公債の発行

 

第203話     高橋財政と日銀引き受け

財政支出は拡大したが、総額では引き締め以前の水準に戻しただけで、それ以後の財政支出の主力は軍事費。是清が公債の日銀引き受けを認めたため、歯止めがなくなって、戦費調達のために軍事費が急増、'36年には一般会計の47.2%が軍事費に

是清は、国防自体は生産に関係ないが、国防に使う金は大いに生産に関係を持つとして、軍事費増大を正当化。増嵩する借金にしても、景気回復によって収支の均衡は可能とした

満州事変の終息と国際社会との協調関係復活を前提とした超楽天的な財政均衡主義

既発債の購入によって市場に資金を供給する買いオペという深井の話から、是清は新発債の日銀引き受けという手段を思いついたが、政府支出が進むに従い市中に資金が出回ると、日銀は国債の市中売却を進め、結果的に日銀引き受けの85%は市中に売却された

 

第21章     世界で孤立

第204話       国際連盟脱退

1932年、是清蔵相就任による金輸出再禁止により、100円=35ドルまで円安が進む

斎藤や是清は、実質陸軍を支配する永田らと連絡を取り、満洲国の門戸開放原則維持を確認していたので、満洲国承認に賛成。精神論に終始する荒木陸軍大臣に対し、是清は「支那人を軽蔑するな」と警告

リットン報告を受けて国連脱退論が大勢を占める中、是清は閣内で唯1人反対、外交が陸軍に引きずられ、軍が実質的に言論統制している現実に、陸相を詰問

国連の対日勧告案を外相の内田康哉が拒絶すると、脱退には消極的だった松岡も抗しきれず、天皇も牧野内大臣から内閣の方針に委ねるより他にないと言われ諦める

1933年、斎藤は広田外相就任を機に首相、蔵相、外相、陸海相による5相会議を開催、是清と広田は国力に合った軍備をすべしとして陸海相を説得し覚書を公表したが、一方で軍は広く内政や外交にわたる国家政策決定に正式に参加、発言する権利を確保する結果に

 

第205話     減価する円

1933年は、米国のダウ平均が381.17ドルから41.22ドルの最安値まで急落、さらなる信用不安が拡大、世界的にも恐慌が蔓延する中、日本だけ円安と積極財政により景気は回復基調にあった。翌年にはようやく為替相場も100円≒30ドル≒6ポンドで安定。是清は円をポンドにペッグさせる。資金も物資も集中した米ドルの1人勝ち

 

第206話     満洲国

満洲建国後の移民の本格化を遅らせたのは、予算を出し渋った蔵相の是清。恐慌から立ち直るだけが精一杯で海外投資の余裕はなく、一方で財閥を嫌った関東軍は満洲国へ資本家は入れないと公言、軍が目を付けたのは重工業に強い新興で日本産業(日産)

 

第207話     帝人事件

1934年、昭和恐慌で倒産した鈴木商店が設立した帝人株が台湾銀行に担保として入れられていたが、景気回復によって株価が堅調に推移する中、買い戻しの動きが出る

直後に帝人は増資を発表、株価は値上がり。帝人株を使った贈収賄事件が発覚、大蔵次官や是清の長男にも波及して内閣は総辞職。代わって海相の岡田啓介が組閣

 

第208話     藤井蔵相

蔵相は是清が留任を固持し、その推薦で新官僚の大蔵次官藤井真信が抜擢され、後任の時間には津島壽一。省内一致して軍部に対し健全財政を守る意気に燃えたが、予算を通すと喀血して辞任、再び是清にお鉢が回る

 

第209話     天皇機関説

1934年末、満80歳で5度目の蔵相就任。政友会に無断で引き受けたため、政友会は「別離声明」を出し、是清と政友会の縁は切れる

帝人事件は若手検事の捏造と判明、代わって右翼・陸軍が倒閣材料として取り上げたのが学会では君主制擁護のための理論で長い間の定説だった美濃部の「天皇機関説」

 

第210話     相沢事件

満州を占領地化しようとする陸軍の皇道派と、欧米資本の必要性を理解し満洲を門戸開放しようとする永田らの統制派が対立。陸相の荒木は是清にやり込められ、陸軍内の対立もあって発言力を喪失し始め、陸相を辞任。代わって陸相には統制派の林銑十郎が就任すると、永田が軍務局長となって陸軍内の綱紀粛正を急ぐ。それに反発したのが相沢事件

 

第211話     「公債漸減主義」

1934年末、対満事務局官制公布。満洲問題を陸軍だけで完結できるようにしたもので、外務省は大使の任免権すら放棄、陸軍が一般行政権に介入した最初の事例

軍事費増大で国債の市中消化にも限界が見え、'36年度予算作成に当たっては、非常時財政の難局に臨み、予算圧縮、公債増発回避を基本方針とした

大幅な予算増を要求する陸海軍に対し。若干の譲歩だけに留め、何とか健全財政に留まる新年度予算を閣議決定する

 

第212話     2.26事件

1936年、軍部に接近して政権奪取を狙う政友会の先手を打って岡田首相は議会を解散、選挙結果は民政党が第1党に

前年12月には、青年将校の属する第1師団の満洲派遣が決定、過激思想分子の厄払いであり、満洲で死ぬより革命のために命を落としたいと考えた青年将校は多かった。ターゲットは国際協調主義者で軍国化に反対する者、元老の西園寺(実行段階で除外)、前内大臣の牧野、斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長、岡田首相、是清、渡辺錠太郎陸軍教育総監

是清という歯止めを失った円は減価し、ドル建ての戦略物資はかつての4倍になる。公債を発行して軍事費を確保している段階で、実は戦いを始める前に自ら財政的に致命的な状況を作っていた

 

あとがき――コレキヨの評価

終戦時の日銀総裁渋沢敬三は、満洲事変以降の日本の財政金融史を残すべく、日銀顧問として迎えた東京帝大教授大内兵衛に相談、日銀調査局に特別調査室を設け、『満洲事変以後の財政金融史』を上梓。そこでは是清の高橋財政を、「累増の一途をたどる軍事費をできるだけ無抵抗に調達するために膨大な赤字公債を発行しつつ、他方ではその利払いに足りるだけの増税もしないで、増税はやがて民力が回復して負担能力ができるまで待つという政策、略言すれば借金による赤字補填もしくは大規模なインフレ政策が高橋財政の内容であり、秘密だった。戦争と軍備と農村匡救と資本救済に惜しげもなく大金が振りまかれると共に、国民の借金たる公債が雪だるまのように増大。これが高橋財政の実績。高橋財政は本質的に日本経済の将来に対する楽観の上に立っていた」と総括

戦争への反省を前提に、金本位制による均衡メカニズムを重視した井上財政への評価が高く、是清へは日銀引き受けによる軍部に対するファイナンスがファシズムと軍国化を招いたと手厳しいが、1971年東大教授の中村隆英は、是清の財政支出は、軍事費以上に時局匡救資金の方が多く、是清の財政政策による当時の景気浮揚の効果の方に注目。1980年代には是清の金輸出再禁止後の日本の景気回復がどの先進国よりも早かったことが注目されている。是清が健全財政主義者であったことが見直され、「日本のケインズ」とも紹介され、軍国主義の最後の抵抗者であったと再認識もされている

1930年代の景気回復については、どの政策が効果を上げたのか、極端な円安か、軍事費や時局匡救費などの財政政策なのか、金利低下という金融政策なのか、定説はまだない

是清の政策に対する誤解の1つは、紙幣の増発だが、公債の日銀引き受けによって通貨供給は増大したが、その後の日銀の売りオペによって吸収したように、通貨量はコントロールされていた。もう1つは、「国債発行も自国通貨建てなら破綻はしない」との考え方だが、日銀の引き受けはあくまで一時の便法であり、極力日銀のバランスシートに国債を残さないように努力していた。野放図に国債が発行されたのは是清の死後

是清は常に物事の根本を考えた。金本位制の採用も、主義ではなく、あくまで手段の問題で、状況に応じて是々非々で対応すべき問題でしかなかった。是清が常に財政に積極的だったのは、日本の産業の国際競争力を強化し、正貨流出の根本問題を解決するためであり、我々が是清から学ぶべきは、景気循環論的な議論のなかでの積極・消極の政策手段の是非ではなく、現代の日本を覆う根本問題なのではないか

 

 

 

 

 

 

 

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明治時代、新生・大日本帝国が一等国となる道を切り開いた男の立志自立編。

生後間もなく里子に出され、渡米留学するも「奴隷」になり、帰国後は「芸者のヒモ」に落ちぶれ、ペルーの鉱山開発でスッテンテンに。何度も人生のどん底を味わいながら、日露戦争の資金調達に成功して日本を救う。金融史の専門家が『自伝』で描かれたエピソードの虚実を検証し、従来の是清像を大きく塗り替える圧倒的評伝!

 

書評

自らの失敗の責任をとる人間を描いた第一級の評伝

齊藤誠

 板谷敏彦が描く高橋是清伝は、著者の圧倒的な筆力のおかげで、上下巻の大部なものにもかかわらず、興奮をしながら、一挙に読んだ。板谷は、是清を取り巻く事実を正確に淡々と描くことに注力して、評価や評論をさしはさむことはめったにしない。それにもかかわらず、板谷の是清伝には、従来の是清像を塗り替えてしまう迫力がある。

 板谷の記述は年月だけでなく日時に及ぶ。1927年の昭和金融恐慌の最中、419日、是清は田中義一内閣で大蔵大臣に就任する。21日には緊急勅令によるモラトリアムを決定する。枢密院に勅令を諮問する間、民間銀行に22日と23日の休業を要請する。さらに是清は、510日の帝国議会会期切れまでに台湾銀行救済の法案を通さなければならない。貴族院を通過したのは102220分だった。

 1931年の金本位制停止の場面も緊迫を伝える。1213日、是清は犬養毅内閣で大蔵大臣に就任する。その夜、深井英五日銀副総裁と協議し金本位制停止を決める。是清は、緊急勅令による日銀券金兌換停止という深井の大胆な主張を入れる。17日に枢密院の諮問を通るまで、日銀の窓口はのらりくらりとして兌換に応じようとしなかった。

 板谷の記述は数字にも綿密である。金本位制停止直前の12日の相場は100円当たり49375ドルであったが、停止後の18日には405ドルの円安となった。その後も円安は進行し、1933年初頭には20ドルまで減価した。すさまじい円安は輸出の原動力となり、日本経済を回復させた。

 従来も上述の場面を引いて、是清が日本経済の救世主のごとくに語られてきた。しかし、事実を淡々と伝える板谷の是清伝は、「はたしてそうなのか」と、私たちを再考に誘う。昭和金融恐慌の根本的な原因にも、NY株価大暴落直後のタイミングで実施するまで金解禁が先延ばしされた事情にも、是清に責任の一端があった。要するに、1920年代後半や1930年代前半の是清の英断は、1910年代後半や1920年代前半の是清の政策失敗を自ら尻拭いした側面がある。

 第一次世界大戦期(1914年~1918年)の日本は、大戦景気に浮かれ、無謀に大陸に進出した。是清の政友会は、寺内正毅内閣に閣外協力をした。朝鮮銀行を舞台に乱脈融資の原資となった西原借款にも政友会は賛成した。西原借款のほぼ全額焦げ付きは日本政府が肩代わりした。同じ時期、台湾銀行でも、鈴木商店向けをはじめとして過剰融資が繰り広げられていた。植民地の通貨発行権を持つ朝鮮銀行や台湾銀行の乱脈融資が、日銀の買い取った震災手形の大量焦げ付きという形で昭和金融恐慌の導火線となった。

 19189月に原敬内閣で大蔵大臣となった是清は、過熱した景気にブレーキをかけるどころか、アクセルを踏み込んだ。井上準之助日銀総裁の利上げ要請も拒否した。景気過熱は、1920年春に株価が大暴落してようやく終焉を迎えた。

 金本位制再開についても、客観的にみれば、輸出好調の大戦景気で正貨が蓄積した1919年には、米国と同じタイミングで金解禁に踏み込むべきであった。しかし、是清は、手許の正貨を中国経済に貸しこむことに熱心で、金解禁を先延ばしにした。その後、関東大震災(1923年)、昭和金融恐慌(1927年)で金本位制度に復帰するタイミングを失した。是清は、金解禁があそこまで遅れた事情に深く関わっていた。板谷は、井上の金解禁が無茶であったことだけでなく、是清が終始、井上をかばっていたことも伝えている。
 1930年代前半の是清は、金本位制復帰の失敗の尻拭いを立派に行うと同時に、昭和金融恐慌の原因となった植民地金融の立て直しに着手する。ただし、板谷の筆は後者について慎重である。是清は、満州中央銀行の設立(1932年)で銀本位を採用し、金本位を主張する朝鮮銀行の影響を排除した。また、是清は朝鮮銀行と台湾銀行も日銀の管理下に置こうとした。朝鮮銀行を華北における戦費調達の起点としようとしていた陸軍は、是清の意向に激しく反発していく。

 板谷の是清伝のもう一つの特徴は、戦前、戦中の金融に関わった大蔵や日銀の官僚たちが、是清との距離にかかわらず、実に公平に描かれているところである。たとえば、戦中、植民地金融推進で大蔵省に影響力を持っていた勝田主計(元蔵相)の側にあった津島壽一(財務官、次官)も、戦前の是清との交流や、敗戦直後の外債処理への貢献について言及されている。こうしたところは、板谷の金融プロフェッショナリズムに対する敬意の表れなのであろう。

 板谷の魅力ある全213の話のうち、私が一番好きなのは、193話「キリスト教と観音様」である。是清は、フルベッキからもらった聖書をいつも側に置いていた。

 是清は、自らの政策失敗の責任を引き受けることにおいて、実に立派であった。政策の結果責任を負うのは、しんがり戦と同様、もっとも優れた才能を要する。板谷の是清伝はそんな大切なことを私たちに教えてくれている。

(さいとう・まこと 名古屋大学大学院経済学研究科教授)

波 20245月号より

 

 

(書評)『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯』(上・下) 板谷敏彦〈著〉

2024713 500分 朝日

『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯』(上・下)

 相場師転じて真人間、流転の人生

 「コレキヨ」さん、やはり面白かった。読み進めるうち、やがて楽しく、そして哀(かな)しい気分になった。経済人が書いた伝記小説で読みやすい。色々なことに携わったコレキヨの多面性を、エコノミスト連載の形で一つ一つわかりやすく取り上げる。どこからでも気軽に読めるのだ。

 実はコレキヨの理解を難しくしているのは、『高橋是清自伝』という口述本(これが抱腹絶倒の面白本)があるからだ。著者も注意深く指摘しているように、コレキヨ自らの語りの中に、我々は手もなくうっちゃられてしまうからだ。生まれてこの方、コレキヨは英語に取りつかれ、若いころにアメリカにやられる。これ自体まっとうではない。

 「帰国して教師、落ちぶれて芸者のヒモ、相場師」と著者が述べるように、若くしてロクなものじゃない人生を送る。やがて後の特許庁の役人となり、日本の特許制度を作り上げる(「日本の特許の父」)。何と相場師転じて真人間だ。

 しかし幕末維新の世はコレキヨをさらに転がす。ペルー銀山開発に手を出した結果、もののみごとにすってんてんの人生だ。それでもブレぬ運があったのか……。コレキヨは日本銀行にペーペーで入り直し、そこから運が広がる。

 コレキヨは日露戦争の間、米、英、独の金融家と交渉し、見事、外債発行にこぎつける。著者はこの国際金融家としてのコレキヨの活躍ぶりを詳しく描く。外国人銀行家との折衝のあり方の巧みなこと。手だれになっていく様子が手に取るようにわかる。

 その後しかしコレキヨは、原敬に勧められて政友会に入党し、政党政治家にならんとする。これがまた見事大失敗。原の暗殺後、政友会総裁にして首相を継ぐが、高橋の政党政治家としてのなりわいは総じてうまくいかない。

 日銀や国際金融家としての高橋は、人との交渉もうまいのだが、政党政治家としては政友会の代議士連中に手もなくひねられてしまう。そのあまりの巧拙の差に、著者の筆も湿りがちになる。

 かくしてコレキヨは、反軍・反政党の立場にくみし、危機の財政家として晩年を過ごす。政党内閣でも、挙国一致内閣でも、大蔵大臣として永世現役を誇ることになる。二・二六事件での暗殺でコレキヨは命運を絶たれるが、ここまで読んできて、国際金融家、危機の財政家、政党政治家、何がコレキヨのコレキヨたるゆえんだったのか。あまりにも面白く、そして哀しさが漂う。それは、本人自身が好きなことを好きなだけやって、それ以外はもう、どうでもよい人生だと思っていたからではなかろうか。

 評・御厨貴(東京大学名誉教授・政治学)

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 『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯』(上・下) 板谷敏彦〈著〉 新潮社 各2750円

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 いたや・としひこ 55年生まれ。日興証券でニューヨーク駐在や機関投資家営業を経験し、みずほ証券では株式本部営業統括に。06年に和製ヘッジファンドを設立。著書に『日露戦争、資金調達の戦い』など。

 

 

 

 

Wikipedia

高橋 是清(たかはし これきよ、旧字体:高橋 是淸、1854919嘉永7/安政元年727[1]1936昭和11年〉226)は、日本政治家日本銀行総裁立憲政友会4代総裁。第20内閣総理大臣(在任1921大正10年〉1113 - 1922〈大正11年〉612)。栄典正二位大勲位子爵幼名は和喜次(わきじ)。日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する財政家として知られることから、総理大臣としてよりも、大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は『ダルマさん』。二・二六事件で暗殺された。

生涯

1854919(嘉永7年閏727日)幕府御用絵師・川村庄右衛門ときんの子として、江戸芝中門前町に生まれた。きんの父は芝白金で代々屋を営んでいる三治郎という人で、家は豊かであったが、妻と離別していたので、きんは中門前町のおばのところへ預けられたこともあり、行儀見習いのために川村家へ奉公していた。庄右衛門の妻は庄右衛門の手が付き身重になったきんに同情し、こっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させ、ときどき見舞って世話をしたという。是清は生後まもなく仙台藩足軽高橋覚治の養子になる。

その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(後の明治学院)にて学び、1867慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。牧童や葡萄園での奴隷として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、キツイ勉強だと思っていた[注釈 1]。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。

1868明治元年)、帰国する。帰国後の1873(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら佐賀の耐恒寮や須田学舎など当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現:開成中学校・高等学校)の初代校長を務めた。共立学校の教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。その間、文部省農商務省の官僚としても活躍、1884(明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。1889(明治22年)、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗し、英語教師時代からの友、山口慎と苦労を分かつ。1892(明治25年)、帰国した後にホームレスとなるが、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行。

日露戦争が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、この戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。支払い能力は関税収入である。中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例がある、と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」と拒絶した。交渉の結果、当時香港上海銀行ロンドン支部長ユーウェン・キャメロン英語版)(デーヴィッド・キャメロンの高祖父)らが公債発行に応じ、さらにジェイコブ・シフなどニューヨークの人脈も外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。1905(明治38年)、貴族院議員に勅選。1911(明治44年)に日銀総裁に就任。

大臣(193436年〔昭和1011年〕)

1913大正2年)、1次山本内閣大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4総裁となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。

政友会はその後も迷走し、清浦奎吾超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。一方高橋率いる政友会は、憲政会および革新倶楽部護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出たが、これにより告示された15回総選挙に高橋は隠居して爵位を嫡男に襲わせた上で、原の選挙区だった盛岡の旧岩手1区から出馬することにした。爵位を譲ったのは有爵者には衆議院議員としての被選挙権がなかったためもあるが、清浦内閣を「貴族院内閣」「特権内閣」などと攻撃する手前、その総裁が子爵のままではやはり都合が悪かったこともその背景にある。政友会の現総裁として、盟友だった前総裁の選挙区から出馬したいというのは高橋たっての願いだったが、高橋は与党政友本党の対立候補田子一民に予想外の苦戦を強いられた。結局高橋は49票の僅差で当選を勝ち取り、選挙は護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣はここに総辞職を余儀なくされる。

新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の加藤高明は、高橋を農商務相に任命。

その後、高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。

1931(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止、史上初の国債の日銀直接引き受け(石橋湛山の提案があった)による政府支出の増額、時局匡救事業で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。これはケインズが「有効需要の理論」に到達したのとほぼ同時期、『一般理論』刊行の4年前であった。髙橋がケインズから直接影響を受けた可能性はないが、石橋湛山や深井英五という高度に訓練された革新的な相談相手を通し、間接的に影響を受けた可能性は高い。 五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任。また1934(昭和9年)に、共立学校出身に当たる岡田啓介首班の内閣にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた。軍事予算を抑制しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、暗殺された。享年81。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれた。

間口も奥行きもある人物であり、インタビュー後でも忘れられない印象を残したとされる。

年譜

1854年(嘉永7年)閏727日:江戸芝中門前町(現東京都港区)に幕府絵師川村庄右衛門の私生児として生まれ、間もなく仙台藩足軽高橋覚治の家に里子に出され後養子となる。

1864年(元治元年):横浜ヘボン夫人家塾に学ぶ。

1866年(慶応2年):イギリスシャンドボーイ[要曖昧さ回避]となる。

1867年(慶応3年):渡米しオークランド奴隷労働しながら勉強する。

1869年(明治元年)旧暦12月:帰国し森有礼家の書生となる。

1869年(明治2年)

旧暦1月:大学南校に入学。

旧暦3月:大学南校教官三等手伝。

1870年(明治3年)秋ごろ:放蕩生活に入り教官を辞める。

1871年(明治4年):唐津藩の英語学校耐恒寮の教員となる。この時の教え子に、辰野金吾曽禰達蔵大島小太郎天野為之掛下重次郎田邊新之助らがいる。

1872年(明治5年)秋:耐恒寮の教員を辞めて上京する。駅逓寮で翻訳の仕事をするが間もなく辞職。開成学校に入学する。

1873年(明治6年)7月:文部省督学局十等出仕としてモーレー博士の通訳をする。

1876年(明治9年)5月:官立東京英語学校教員に雇われる。

1877年(明治10年)3月:東京英語学校教員を辞める。翻訳・予備校(共立学校)教師などをする。

1878年(明治11年)9月:

大学予備門英語教員として雇われる。

1881年(明治14年)

4月:文部省御用掛に転じ大学予備門教員を兼務。

5月:農商務省御用掛に転じる。

1884年(明治17年)

7月:任農商務権少書記官。

10月:農商務省工務局商標登録所長。

1885年(明治18年)

4月:専売特許所長兼務。

11月:商標登録専売特許制度視察のため欧米各国へ差遣。

1887年(明治20年)12月:特許局長。

1889年(明治22年)

315日:東京農林学校長兼任、叙奏任官二等[11]

11月:ペルーのカラワクラ銀山経営のため横浜出帆。

1890年(明治23年)

1月:ペルーのカヤオ港着。

2月:カラワクラ鉱山開坑式を行う。

3月:鉱山が廃坑であることが分かる。

4月:帰国の途に就く。

1892年(明治25年)6月:日本銀行建築所事務主任。

1893年(明治26年)9月:日銀支配役・西部支店長。

1895年(明治28年)8月:横浜正金銀行本店支配人。

1897年(明治30年)3月:横浜正金銀行副頭取に就任。

1899年(明治32年)2月:日本銀行副総裁に就任。

1904年(明治37年)2 日露戦争始まる。戦時公債募集のため渡米英。

1905年(明治38年)

129日:貴族院勅選議員に勅任[12]

2月:戦時公債募集のため再渡英。

1906年(明治39年)3月:日本銀行副総裁のまま横浜正金銀行頭取を兼任。

1907年(明治40年)9月:公債募集の勲功により男爵授爵。

1911年(明治44年)6月:日本銀行総裁に就任。

1913年(大正2年)2月:第一次山本内閣大蔵大臣に就任。立憲政友会入党。

1914年(大正3年)4月:第一次山本内閣総辞職。

1918年(大正7年)9月:原内閣の大蔵大臣に就任(2度目)。

1920年(大正9年)9月:子爵陞爵。

1921年(大正10年)11月:原総理暗殺により後継の内閣総理大臣に就任し、大蔵大臣を兼任(3度目)。政友会総裁となる。

1922年(大正11年)6月:高橋内閣総辞職。

1924年(大正13年)

3月:貴族院議員を辞職。爵位を長男・是賢に譲って「隠居」。

5月:岩手県盛岡市原敬の旧選挙区から衆議院議員選挙に立候補し当選。

6月: 加藤高明内閣農商務大臣に就任。

1925年(大正14年)4月:農商務省の分割再編にともない農林大臣商工大臣に横滑り。約2週間後両大臣を依願免職。政友会総裁を田中義一に譲る。

1927年(昭和2年)

3月:金融恐慌始まる。

4月:田中義一内閣の大蔵大臣に就任(3度目)、3週間の支払猶予を認める緊急勅令渙発と大量の紙幣増発で恐慌を沈静化させる。

6月:金融恐慌が終息したのを節目に大蔵大臣を依願免職。

1931年(昭和6年)12月:犬養内閣の大蔵大臣に就任(4度目)。

1932年(昭和7年)5月:犬養総理暗殺(五・一五事件)により内閣総理大臣を10日間臨時兼任。斎藤内閣の大蔵大臣に留任(5度目)。

1934年(昭和9年)

7月:斎藤内閣総辞職、岡田内閣発足。次官藤井真信を大蔵大臣に推す。

11月:藤井が肺気腫で倒れ辞任、その後任として大蔵大臣に就任(6度目)。

1936年(昭和11年)226日:赤坂表町三丁目の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺される(二・二六事件)。享年83(満81歳没)。墓所は多磨霊園

栄典・授章・授賞

位階

1884(明治17年)830 - 正七位

1885(明治18年)1216 - 従六位

1900(明治33年)66 - 従五位

1905(明治38年)27 - 従四位

1913(大正2年)228 - 正四位

1919(大正8年)930 - 従三位

1924(大正13年)1015 - 正三位

1934(昭和9年)51 - 従二位

1936(昭和11年)226 - 正二位

勲章など

1889(明治22年)

1025 - 勲六等瑞宝章

1129 - 大日本帝国憲法発布記念章

1902(明治35年)1228 - 勲五等瑞宝章

1906(明治39年)41 - 勲一等瑞宝章

1907(明治40年)923 - 男爵

1911(明治44年)824 - 金杯一組

1915(大正4年)1110 - 大礼記念章

1920(大正9年)97 - 子爵旭日大綬章

1921(大正10年)71 - 第一回国勢調査記念章

1927(昭和2年)63 - 旭日桐花大綬章

1930(昭和5年)125 - 帝都復興記念章

1936(昭和11年)226 - 大勲位菊花大綬章

外国勲章佩用允許

受章年

国籍

略綬

勲章名

備考

1908(明治41年)41

 大韓帝国

勲一等太極章[32]

1922(大正11年)27

 フランス共和国

レジオンドヌール勲章グランクロワ[33]

1924(大正13年)73

 フランス共和国

レジオンドヌール勲章グランクロワ[34]

2回目

1923(大正12年)824

 ポーランド

グランクロアオドロゼニアポルスキー勲章[35]

家族・親族

川村家

是清の生家川村家は代々狩野派絵師で八世庄右衛門守房の代になっては、江戸本丸の御屏風係を務め、芝の露月町(ろげつちょう)に屋敷を構えていた。是清の実父庄右衛門はでっぷり太った、性格の明るい、非常に責任感の強い人だったらしく、職務に精励したので、のちに身一代三人扶持にとりあげられている。明治維新後は深川閻魔堂橋側に団子店をだした。是清の生母きんは、やがて浜松町の塩物屋に嫁いで女の子を生んだが、二十四歳で死んだという。

高橋家

先妻:里ゆう - 西郷利右衛門の娘。2男を生んだ後、1884年(明治17年)に死別。

後妻:しな(品子) - 原田金左衛門の長女。

長男:高橋是賢 - 実業家・貴族院子爵議員

次男:高橋是福横浜商業学校卒業後渡米、三井物産を経て大連で貿易業を始めるも閉鎖、帰国後日本酸素役員、帝都座社長。岳父に貿易商の守安瀧三郎。妻の甥に守安祥太郎。相婿に岡崎久次郎。岡崎の弟に外務大臣岡崎勝男

二女:和喜子明治の元勲大久保利通の八男・利賢に嫁ぐ。和喜子の息子がロッキード事件で有罪判決を受けた丸紅専務の大久保利春である。

孫:高橋賢一 - 長男・是賢の長男。農林省官僚を務めたのち北海道議会議員となり、議長も務めた。他方で是清が北海道伊達市に創業した高橋農場3代目場主として農場をサラブレッド競走馬の牧場に転換し、1977(昭和52年)の東京優駿(日本ダービー)優勝馬のラッキールーラなどを生産した。

孫:高橋豊二 - 是賢の次男。東京帝国大学ア式蹴球部(サッカー部)に所属し、1936(昭和11年)のベルリンオリンピック・サッカー競技に出場した日本代表に名を連ねた。

孫:伊藤福子 - 次男・是福の次女。初代内閣総理大臣伊藤博文の養孫・博精に嫁いでいる。

曾孫:千家文子 - 孫・福子の娘。出雲国造家の千家達彦に嫁いでいる。

著作

『高橋是清 山県有朋 経済問題論争』

(口述記録 高橋是清・山縣有朋千倉書房1911年、再刊1936年)

『立身の径路』(丸山舎書籍部、1912年)

『高橋是清立身の経路』(日本図書センター<人間の記録>1999年)

『処世一家言 半生の体験』(今日の問題社、1936年)

『半生の体験 世に処する道』(今日の問題社、1936年)

『随想録』(上塚司編、千倉書房、1936年)

『高橋是清 随想録』(上塚司編、本の森、1999年)、ISBN 978-4938965150

『随想録』(解説井上寿一中央公論新社中公クラシックス〉、201011月/中公文庫20184月)

高橋是清自伝』(上塚司編、千倉書房、1936年)

高橋是清自伝』(上塚司編、中公文庫(上下)、1976年、改版20183月)

『高橋是清伝』(高橋是清口述・上塚司筆録、矢島裕紀彦現代語訳、小学館地球人ライブラリー、1997年)

『高橋是清 経済論』(上塚司編、千倉書房、1936年)

『経済論』(中央公論新社〈中公クラシックス〉、201312月)

『国策運用の書』(山崎源太郎編、斗南書院、1936年)

『高橋是清の日本改造論―“デフレ大恐慌のいま、死中に活路を見い出す』

(山崎源太郎編、矢島裕紀彦・再々編、青春出版社1998年)

『是清翁遺訓 日本国民への遺言』(大久保康夫編)

三笠書房1936年、小冊子版、1938年/皇文社、1938年)

関連作品

小説

南條範夫『奴隷から宰相へ 高橋是清』新人物往来社、1967年。新版「達磨宰相・高橋是清」PHP文庫、1989 年 

松浦行真『熱い嵐 高橋是清の生涯』集英社1979年。TBSドラマ原作小説

長野広生『波瀾万丈 高橋是清 その時代』東京新聞出版局(上下)、1979

津本陽 『生を踏んで恐れず 高橋是清の生涯』 幻冬舎1998年/幻冬舎文庫、2002

『人生を逆転させた男 高橋是清』PHP文芸文庫、2017

高橋義夫『高橋是清と井上準之助』学陽書房・人物文庫、2005

片岡英『赤と白 小説高橋是清』 文芸社、2009

三橋貴明『コレキヨの恋文』小学館2012年、ISBN 978-4093863261

幸田真音『天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債』(上下)。角川書店2013年/角川文庫、2015年。2011年から『中日新聞』・『東京新聞』系列で連載

評伝

大石亨『大蔵大臣高橋是清 不況乗り切りの達人』 マネジメント社、1992

松元崇『高橋是清 暗殺後の日本:「持たざる国」への道』 大蔵財務協会、2010

板谷敏彦『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯』 新潮社(上下)、2024

鈴木俊夫『高橋是清:尽人事而後楽天』ミネルヴァ書房「ミネルヴァ日本評伝選」、2024

映画

『高橋是清自伝』(1936年)演:岡譲司(青年・壮年期)、山本嘉一(老年期)

激動の昭和史 軍閥』(1970年)演:明石潮

動乱』(1980年)演:野口元夫(役名は「蔵相」)

226』(1989年)演:小田部通麿

スパイ・ゾルゲ』(2003年)演:金子達

TAKAMINE アメリカに桜を咲かせた男』(2011年)演:井村英俊

テレビドラマ

『燃えよ!ダルマ大臣 高橋是清伝』(1976年、フジテレビドラマ)演:嵯峨善兵

風が燃えた』(1978年、TBS)演:天田俊明

熱い嵐』(1979年、TBS国広富之(青年期 - ペルーでの銀山開発失敗、日銀入りまで)、森繁久彌(壮年期 - 日銀総裁以降)[1][2]

二百三高地 愛は死にますか』(1981年、TBSドラマ)演:長門勇

山河燃ゆ』(1984年、NHK大河ドラマ)演:入江正夫

落日燃ゆ』(2009年、テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル)演:神山繁

坂の上の雲』(2009-2011年、NHKスペシャルドラマ)演:西田敏行

経世済民の男 高橋是清』(2015年、NHK放送90年ドラマ)演:オダギリジョー

いだてん〜東京オリムピック噺〜』(2019年、NHK大河ドラマ)演:萩原健一

前田正名 龍馬が託した男』(2019年、鹿児島テレビ)演:河相我聞

倫敦ノ山本五十六』(2021年、NHK)演:山本學

紙幣の肖像

かつて発行された日本の紙幣(日本銀行券)では、戦後の1951(昭和26年)に発行が開始されたB五拾円券に肖像として採用されている(肖像画は是清の孫が所有していた写真を元にしており、服装を燕尾服から一般的な背広に差し替えたもの)。

表面

脚注

^ 英語のIndentured servantslaveとは区別される存在であり、「年季奉公人」と和訳されることが多いが、日本古来の年季奉公とは意味が異なり、期間限定の奴隷に等しい。そのため奴隷、あるいは年季奴隷と和訳されることも多い。高橋是清のことを記した著作物でも、この時期の高橋を境遇を「奴隷」と記すものが多々見られる。

 

 

 

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