こころを旅する数学  David Bessis  2024.11.10.

2024.11.10. こころを旅する数学 直観と好奇心がひらく秘密の世界

 

著者 David Bessis 1971年生まれ。フランスの数学者。高等師範学校Ecole normale supérieure (Ulm) を卒業後、イェール大学の助教授を経て、フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究員に。現在は、人工知能を専門とする会社を経営。

 

訳者 野村真依子 フランス語・英語翻訳者。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。訳書に『フォト・ドキュメント 世界の母系社会』、『カバノキの文化誌』(ともに原書房)など

 

発行日           2023.3.30. 初版

発行所           晶文社

 

 

第1章     3つの秘密

この本の狙いは、読者の世の中に対する見方を変えることにある

l  説明のつかない何か

アインシュタイン「私には特別な才能など一切ない。ものすごく好奇心が強いだけだ」

知的創造性とは、どれだけ勉強したかという量の問題ではない。必然的にほかのもの、例えば一種の不思議な力とか、説明のつかない何かとか、しかも学校では絶対に習わないそうした要素が絡んでいる

l  思い込みと偏見

アインシュタインの研究を理解する上での最大の難関は、数学における形式主義(命題を記号で表し、証明における推論を純粋に記号の操作として捉える考え方)

l  3つの間違い

数学を巡る3つの誤った考え方

    数学の問題を解くには論理的に考えなければならない

    生まれつき数字に強い人もいれば、生まれつき幾何学的直観に長けた人もいるが、大抵の人は数学が全く理解できず、それは絶対に変えようがない

    偉大な数学者は生まれつき、脳のつくりが私たちとは違う

l  直観こそが大事

数学者が難解な言語と記号を考案したのは、音楽における記譜法と同じだが、音楽は演奏すれば誰にも分かるが、数学は言語や記号を分かりやすく実践する方法がない

演奏に代わるものは、数学的直観で、正しい方法によって直観を鍛えることが出来る

l  数学者の3つの秘策

    数学の実践は身体活動である――数学のやり方を学ぶことは身体の使い方を学ぶこと

   数学が大得意になる方法はある――自分の直観プログラムを書き換える

   偉大な数学者の脳も私達の脳と同じ様に働いている――方法を見つけるのは本人次第

l  口づてに伝わっていくもの

子どもの頃にやった想像力の練習法とは、家の中の家具の位置を変え、目を閉じたまま歩き回るもので、最初は何度も壁にぶつかるが、強力な幾何学的直観を発達させた

 

第2章     スプーンの持ち手はどっち?

l  本格的な学習

道具がなければ人間はたいした存在ではない。言語はみんなが使うもの

l  地球規模で大成功

初等教育が絶対的な優先事項になり、全ての人に読み書きを教えるプロジェクトは大成功

l  ほんとうの惨事

同時に、数学の基礎を教えることになったのは真の惨事。好きな教科も嫌いな教科も数学がトップという2極分化は、数学教育に問題あり

l  2つの仮説

動機の問題だという仮説――日常生活に役立たないというが、それは数学に限らない

生物学的な不公平があるという仮説――生まれつきの才能に左右されることはありえない

 

第3章     思考の力

完璧な円などないのに、頭の中に想像することはできし、自由に操ることも出来る

l  驚くべき抽象化能力

完璧な円は数学的な抽象概念であり、誰にでも数学的抽象化の能力は生理学的特徴の1つとして備わっている

l  驚くべき推論能力

1本の直線は3点で円と交われるか?  Noという答えは、数学的推論能力の結果

人間の推論は直観的で視覚的。効果的だが、言葉にするのは難しい

数学教育では、視覚的直観を厳密な証明に置き換える方法を学ぶが、完璧に置き換えられることは決してない。頭の中ではとても単純だが、文字になったものは専門的で複雑

l  驚くべき直観

置き換えの努力は、直観が間違っていないことを確かめる唯一の方法であり、厳密に言葉と記号に置き換える努力をすれば、ほかの人とそれを共有できる

直観は間違うこともあるが、最も強力な知的資源であり、より精緻に働くよう直観に学習させ、強力で信頼性の高い予見的直観を構築することも出来る

l  円を思い浮かべる才能

ひそかに信頼しているのはいつも自分の直観であり、誰にも備わる単純なもの

ほかの要素は、真摯、忍耐、勇気、欲求などで、いくらでも手に入れることは可能

l  明確なイメージをつくりあげる

本当に理解できるのは明白なことだけ、というのは普遍的・人間的な法則

明白なことを明白だと思えるためには、まずそれを可能にする脳内表象を構築しなければならない。その構築には多大な時間と努力を要する――円についてできたことと同様のことをほかの対象についても繰り返してほかの脳内イメージを構築し、組み合わせる

 

第4章     本当の魔法

10億-1999,999,999を即座に思い浮かべられるのは誰にとっても自明なことではない

l  天才? 見せかけ?

アラビア数字をもとにした十進法の表記は、ある種の計算結果を明白なものとして思い浮かべるための「秘訣」。いかに幅広い「秘訣」を身につけ、使い慣れているかが鍵

l  バビロニア人の数の見方

十進法は人類の純粋な発明。整数がどんなに大きくても、具体的で明確な対象となるという意識への入口であり、整数の無限性はそれ自体が自明の理となる。それまで考えられもしなかったものが突然、自明の理となる。これがまさに、数学が脳にもたらす効果

4000年以上前のバビロニア人は60進法

l  「無能のための数学」?

自分に理解できる数学は簡単すぎると思ったら、それは簡単だから理解できるのではなく、理解できるから簡単なのだ

 

第5章     頭のなかは目に見えない

形の概念の発見――ものの形を認識

l  大いなる愛の物語

デカルトが「デカルト座標」という近代的な概念を確立したことによって、幾何学図形を方程式で書き表せるようになる

数学的概念を理解することは、それまで見えなかったものの見方を学ぶこと。それが自明だと思えるようになることであり、意識の状態が一段高くなること

l  イルカのビリーと仲間たち

学習の大部分は模倣を通じて行なわれる――お互いを模倣しようとするのは人間の本能

数学は目に見えない動作を前提としているため、模倣を通して学習することが出来ない

l  フォースベリーのテクニック

走り高跳びの背面跳びを考案したフォースベリーは、本当の意味で新しい動作を考案

それまでは挟み跳びとベリーロールしかなかったが、「フォースベリー・フロップ」を開発したお陰で、1968年メキシコ・オリンピックで金メダル

l  手あたりしだいに再現する

発見はいつも理解したいという単純で素朴な思いから始まる

数学の特異な点は、単に理解するだけでも発見そのものと同じくらい難しいこと

フォースベリー・フロップでも、動作を学習することは、言葉を超えて理解するということで、自分の身体でそれを感じ、自然で直観的なものと思えるようになること

l  目には見えない動作

数学が難しいのは、他人がどうやっているかが見えないから。言葉で説明しようにも、本質的な部分は抜け落る。自分のために手あたりしだいに動作を作り直さなくてはならない

靴を見たこともない人に、靴紐の結び方を、電話で説明するにはどうしたらいいか

 

第6章     トースターの取扱説明書

l  「数学の本は絶対に読むな」

読むだけの基礎がなければ、読んでも理解できないので無駄

l  あえて読まない

欲求に従うことは、その欲求を本気で叶えるチャンスをつかむ唯一の手段なので、興味のあるページは、最も難しくない可能性が高い。興味があれば、必然的に自分が既に理解している何かに関連している

l  数学者ウィリアム・サーストン(19462012、フィールズ賞)

トースターの取説を最初から読む人はいない。故障が起きた時に該当ページを開くだけ

トースターが何かを知らない人に取説は役に立たない

l  人間の言語ではない言語

数学における公用語は人工言語で、私達が話す言語の弱さをごまかすための純粋な発明品

最大の特徴は、私達が言葉を定義する方法を全く異なるアプローチに置き換えること

日常生活では言葉をきっちり定義することはなく、実物を見せれば済むが、頭の中にしか存在しないものは指さすことが出来ない。数学は指させないものについて正確に話す試みで、唯一の成功例

数学の文献で最も重要な部分は定義。数学の言葉は、あらかじめ定義されたほかの言葉をもとに構築される。言葉は、その定義が述べる以外の意味を一切持たない抽象的な鋳型

l  頭のなかのヨガ

数学を理解することは、普通の言語で使う言葉のように、形式主義によって定義された中身のない殻だけの言葉の扱いを学ぶこと。こうした言葉を直観的で具体的な意味で満たす方法を学ぶこと。そのために必要になる特殊な技術を習得する

想像上の身体感覚を抽象的な概念に結び付ける能力を「共感覚」というが、数学的アプローチは、共感覚能力をコントロールできるようになるために頭の中で行うヨガのようなもの

l  人間によって、人間のために

人間が数学の文献に立ち向かうとき、重要なのは、最初から最後まで読むことではなく、「行間の思考」を捉えること、つまり使われている言葉と描写されている状況に直観的な意味を与えること

l  心で理解する

何かを「心で」理解するとは、自分で直観的に納得し、それが正しい理由、その中で覚えておくべき教訓を言葉で表せるようになること

数学界の社会構造と数学者の生き方は、彼等にとって直接の会話がいかに大切かを反映している。数学者にとって重要な専門ツールは旅行で、必要な人に会いに行くこと

l  得意と苦手を隔てるもの

数学の世界では、トースターはバラバラの部品としてやってきて、各自が部品を自分の頭のなかで組み立てなければならない。トースターの存在理由すら理解していない人に、トースターを組み立てるステップを押しつけるのは無意味

 

第7章     幼い子供のように

l  お粗末な冗談

l  謎めいた思考

l  数学者グロタンディーク(19282014)

l  内なる子供の独創性

l  あてずっぽうに始めてみる

l  間違えることの喜び

l  脳はやわらかく変化する

あらゆる精神運動の学習と同様、新たな数学的概念の学習は直観の再構成を経て行なわれ、そのためには試行錯誤が必要となる

l  論理の役割

脳内イメージの世界では、物理の法則は通用しない。つじつまが合わないものも含め、何を想像してもけがはしない。私たちの内にある誤りは、無意識のうちに岩のように確固たるものになる

論理は思考の役には立たないが、どこで思考が間違っているのかを見つけるのには役立つ

生物学者は実験を終えた後に論文を書くが、数学者は研究の真っ最中にその思考過程を執筆する。書くことは研究プロセスそのものであり、このプロセスによって私たちの直観と言語は同時に修正される

l  なぜ平然としていたのか

壮大な構想が整うと、発見の喜びやついに理解できたという喜びは薄れ、驚きもあまりなく、あとは仕上げと技術的な細部の作業が残るだけ

 

第8章     イメージを明確にすること

本気で読まない本の1つが辞書。それぞれの言葉を他の言葉を使って定義するが、言語の発見への扉を開くのに役立つだろうか? 言葉を学ぶのにどのページから始めたらいいのか? 辞書には循環定義があふれていて、正確な定義は不可能。人間の脳には、名前の分からないものを思い浮かべ、意味が理解できなくても言葉を認識し、その言葉と見ているものを徐々に結びつけていく能力がある。私たちは辞書から出発するのではなく、実生活から、つまり他者と分かち合う共通の経験から出発する

l  新たなイメージをつくる

数学の定義は、辞書の定義に似ているが、循環定義は含まれていない

数学的定義は、新たな脳内イメージを組み立てるための手引書であり、そのイメージを指すものとして選んだ新しい言葉の出生証明書

l  靴ひもの結び方を説明できるか

数学の文献を読むのに暗黙の知識は一切必要ない。書かれていない知識が必要になるたびに、読者はその言葉の定義が見つかる先行文献を参照するよう指示される

l  イメージを明確にする技術

数学を書き表す、つまり他の人が捉えて再現できるように自分の脳内イメージを明快かつ精緻に書き換える技術は極めて高度な技術。それは脳内イメージが不明瞭だからで、数学を書き表す仕事は、実際には考えの明確化と言語の精緻化という二重の作業

l  忍耐ゲーム

解決法は試行錯誤するだけ

l  「触覚の理論」

ものの表面を指で触り質感を認識する。視覚に頼ることなく三角や星や四角を話題にするには、触覚を表す用語をもとにして形の定義を再構築すればよい

世界に対する数学的なかかわり方が持つ力は、新しい言葉に明確な意味を与え、言語を拡張出来る事

l  初心者のための忍耐ゲーム攻略法

定義。形とは回転させたサインの同値類である――サイン全体が一つの形を定義し、2つのサインが回転同値の場合に限り、その2つのサインが同じ形を定義する

定義。あるサインの鏡像は、そのサインの「凹」という言葉を「凸」という言葉で、また「凸」という言葉を「凹」という言葉で一貫して置き換えることによって得られる言葉の連続である

定理。各ブロックBについて、Bの形の鏡像であるような形を持つただひとつの穴Tが存在し、そのTはBが入れるただひとつの穴である

あるブロックがどの穴に入るかを知る方法は以下の通り

    形を判断するためにブロックを指でなぞる

    鏡像を見つけるまでそれぞれの穴を指でなぞる

    鏡像が見つかったら、正しい穴が見つかったとわかる。ブロックはその中に入る

l  999,999,999

視覚体験に頼ることなく、触覚体験の用語を使って形の定義をした

見えるというのは、深く考える必要もなく得ている感覚的・直観的な体験

数学的理解の要は、形式的定義にもとづいて自分の内に新たな脳内イメージを作り出す手段を見つけることであり、定義を直観的なものにして、その言葉を聞いただけでその内容をすぐ指示通りに頭に浮かぶようにすること。数学者の秘技が目指すのは、この直観的理解を容易にし、加速すること

999,999,999という十進法の表記は、長い形式的定義の要約で、一連の足し算と掛け算の計算結果として特徴づけるもの。頭のなかでは単純で具体的で明確な対象となっている

 

第9章     何かがおかしい

l  空間のなかで見る

2次元や3次元の幾何学の場合は、話している内容を図を描くという単純な方法で示せる

紙面に描かれた正20面体は、2次元に描かれた20面体の「像」であり「投影図」と呼ばれるものだが、人間の脳は2次元の投影図から簡単に3次元のものを再構築できる

人間の脳は、像として見えていないものも見える。20面体を回転させることもできるが、正20面体を正三角形20個の組み合わせとだけ定義し、視覚的に想像する手段を与えられなかったら、回転不変性(20面体の特性の1つで、1/5回転させると同じ20面体が現れる)を理解するのに苦労するだろう

l  目で見ない幾何学

2次元の幾何学(平面)では、ある点は一般に2つの座標によって決まる

同様に10次元空間では、ある1点はX1~X10の座標で決まる

一般通念とは異なり、数学が理解しづらいのは抽象化のせいではない。抽象化は普遍的な思考法である。私たちが使う言葉はすべて抽象概念である。話したり文をつくったりするのは、抽象概念を操作し組み合わせることである。4次元幾何学は2次元幾何学より抽象的だというわけではない。4次元幾何学の問題は抽象化とは何の関係もない。問題は視覚化するのと図を描くのが難しいという点にある

l  本当に間違っているイメージ

通常のイメージに頼った単純な方法でものごとを思い描くのではなく、真面目で複雑な言葉を使って論理的かつ体系的に考える方法を学ばなければならない

l  ある程度の太さがある管

ベクトル空間を学ぶとき、ある程度の大きさのある容器を想像すると理解しやすい

l  自分のなかで数学が生きている

教育の受け方には、根本的に異なる2つの方法があり、お互いに相容れない

    数学を知識として扱う。数学的命題はあくまでも情報なので、それを把握し再現できるようにしなければならない。そのため定義・定理・証明を学ぶ

    学習を拒否し、感覚的体験として数学に取り組む。数学的命題の唯一の機能は脳内イメージを生み出すことなので、適切なイメージが得られればすべては自明になる

数学を知識として扱うことは、数学が自分の内で生きている感覚を捨てるという意味

l  “n”につまずく

文字を使った推論は、全ての数字を使った推論を1度で行う方法

自分の直観と論理の矛盾に耳を傾け、それを言葉に置き換える

l  大きな声を聴いてはいけない

数学的直観は、私たちが日常的に使っている直観と同じものだが、言語や論理との対決によって発達し強固になっている

空間についての共通認識から出発して、直観的に任意の次元で考えられるまでにその認識を拡大することが出来る

自分には理解できない、と耳元でささやく臆病な声が数学的直観で、自分はダメなんだ、という耳障りな大声と混同してはならない

 

第10章        直観的に見る方法

数学に取り組む作業は、第一に、想像するという同じ練習を繰り返すリハビリ活動

l  4次元、5次元で見る!?

ウィリアム・サーストンによる1982年発表の「幾何化予想」は従来の数学に風穴を開ける

数学でいう予想とは、正しいと思われるがまだ証明できない数学的命題の事で、予想を立てるとは、理由を説明できないまま、ある何かが正しいと感じ取ること(=直観的な行為)

l  「見える」とは何か

見えるものは決してそのままの現実ではなく、世界のひとつの解釈に過ぎない。直接意識することのない未処理の視覚信号をもとに、記憶と想像によって再構築したもの

l  物理学者ドルトンの色覚異常

視覚から得る感覚を説明して伝えるのは難しい。そのため、男性の約8(女性の0.6)に色覚異常があり、色の生物学的知覚は人によって異なることが発見されたのは1792

物質は原子からなるという近代的な考えをもたらした物理学者ドルトンは、色を知覚する網膜の「錐体細胞」(青・緑・赤の3種がある)の緑が欠落していて、他人の感覚とは違うという意識はあったが、独自のカラーチャートを構築して自分なりに納得していたところ、ある時色の異常な変化に驚いて初めて自分の色覚異常に気付き、色覚異常とその遺伝的特質の解明という大発見に繋げた

サーストンが4次元、5次元で見えるといっても何が見えていたのかは分からないが、彼の業績を前にすれば、他の人には見えない多くのものが見えていたことは間違いない

l  すばやく直観すること

数学者にとって「見える」とは、すばやく直観的に考え、熟考しなくても自由にすぐ対象を引き合いに出せることを意味する。見えるとは明白だと思うこと

l  世界に耳を傾ける

蝙蝠やイルカのように反響定位の脳力で「視」力を発達させた人がいるのは300年前から知られている。舌打ちの音の反響で周りの世界が見える

l  脳の可塑性とは何か

私たちは、自分の脳が構築したイメージに影響されることなく、「現実の」世界に直接アクセスできるという幻想を抱いている。与えられた大幅な操作の余地を無視し、自分の知能にばかげた限界を定めている

脳の素晴らしい可塑性(脳の神経細胞や回路が外界からの刺激によって変化する性質)があり、人の運命はその可塑性をどう生かすかに大きく左右される

次の要素は基本として覚えておきたい

    人間の脳の可塑性は驚異的で、超自然的といってもいい――サーストンや反響定位の話は信じがたいが、それは作用しているメカニズムが意識されないから

    出発点はいつも取るに足らないこと――誰もが同じ能力を持っている。すべては意志・忍耐・オープンな心構えの問題

    進歩は気づかないほどゆっくり――脳の可塑性は本質的に目に見えない緩慢な現象で、進歩は目に見えないところで気づかないうちに起こっている

l  確実にやる気をなくす方法

緩慢で目に見えない、不可能に思える結果をもたらすプロセス――それが学習メカニズムの生物学的現実であり、不幸な偶然のせいで、これでは確実にやる気を奪われる

幼い子供の学習能力を取り戻す必要があり、それは深い理由もなくただ見たり遊んだりするために、運試しとして世界を思い込みなしに観察する楽しみを取り戻すこと

l  世界の見方はいつでも自由に変えていい

「自分の直観と論理の矛盾に注意を向ける」のが基本的テクニック。そこに新たな思考回路とそれがもたらす心理的姿勢を加える。与えられた世界の見方と捉え方は、絶えず自由に変えてよく、日々自分で自分の知能を構築してよいのだと思うようになる

個性も変えられないというのは盲信に過ぎず、再構築は十分可能

 

第11章        ボールとバットで1ドル10セント

認知バイアスの研究で2002年にノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンの問題: ボールとバットで1ドル10セント、バットの値段はボールより1ドル高い、ボールの値段は? ほとんどの人が10セントと答える

認知システム1は、直観的に答えを出すもので、往々にして間違いも冒す(認知バイアス)。システム2は信頼できて厳密に推論する方法だが、必要に迫られない限り使いたくない

l  「あなたは数学者だから!

この質問に私が「5セント」と即答したときの相手の反応は、「数学者だから例外」という

l  直観のA、理屈のB

「人生のかかった決断を迫られ、自分の直観ではAだが、理屈ではBを選ぶべきとなったとき、どちらを選ぶか」

l  直観は正解にならない!?

カーネマンは、一流大の学生ですら50%以上間違えたことから、「正しい答えを見つけた人の頭にも直観的な答えが思い浮かんだが、彼等は自らの直観に抵抗できたということだ」と結論し、直観に抵抗してシステム2に従わなければならない状況を判断せよと助言

カーネマンには、直観を再構成できるという考えが欠落している

l  もうひとつの選択肢、システム3

人生の決断を迫られた際の私の答えは、「まだ決断を下す準備が整っていない」というもの

システム3とは、直観と道理の対話確立を目指して行う、内観と黙考のテクニック全体を指す。見た夢を思い出し、やたら不明瞭で矛盾した考えを解きほぐそうとするたびに、このテクニックを活用

具体的には、直観と道理の調停者の立場を取り、直観を言葉に置き換え、簡単で意味の通る物語のように語ろうと努力する。逆にいえば、論理的推論が言わんとすることを直観的に悟り、その内容を体で感じ取ろうとする。目的はどこがおかしいかを理解すること

直観は有機的に生きていて成長する

l  イメージに置き換えてみる

    直観は書き換えられる

    直観と推論力のずれは、ものごとの新しい見方を自分の内につくりだすチャンス

    一度で即座に成し遂げられると期待しない。脳内イメージを豊かにすることは、神経細胞の接続を再編成すること。このプロセスは有機的で、固有のリズムがある

    自分がすでに理解していること、自分に見えるもの、簡単だと思うことから出発して、それで遊んでみる。計算の各段階を紙に書き、直観的に解釈できないかを試す

    時間をかけてこの活動を繰り返すと、直観力が高まる。ある日突然正解が自明と思える

l  3つの思考

理解するとは、自分が直観的に把握できるようにすること

認知バイアスは人間の本質

システム3の活動は一種の瞑想。システム12の不一致を理解して解消するために、両者の対話を確立することであり、システム2の結果を考慮してシステム1を修正すること

 

第12章        1から100まで足すといくつ?

サーストンは5歳の時、上記の答えを数秒で出したが、その考え方の習得を試みる

l  バナナの皮をむいたのはいつ?

バナナケーキのレシピの各ステップを視覚的に理解する――バナナをつぶす直前に皮をむいているのは、「自明な」理由による脳内イメージの変更が一瞬にして実行されているからで、バナナを知らない人には自明ではない

数学では、突然の奇跡やどこからともなく現れる思いつきは、イメージが欠けているという印と考えて間違いない。イメージを探し出すことが数学的アプローチの要

言語の罠は、ものごとは名づけさえすれば存在し、それを本気で思い描く努力は必要ないという思い込みだが、その罠を逃れ、数学の問題を解けるようにするのが、想像の努力

l  大きなサイズで見る

サイズが大きいほど効果的に考えられる傾向にある

上記の問題を解く際、数字を立方体で置き換えてみる――1から100まで立方体を積んだものを180度回転して上に乗せると、横100x縦101の長方形の断面が出来るので、その半分が答えとなる

l  確率論的なカンフー

数学的対象は様々な性質があり、それを直観的に理解するために駆使される想像力は多岐にわたる

分野

研究対象

算術

整数

幾何学

空間と図形

群論

対称と変換

代数

抽象構造

解析

極限(無限に小さいもの)

確率

偶然

論理

(数学的対象として見た)証明

アルゴリズム

(数学的対象として見た)計算

力学

システムの進化

組み合わせ理論

対象物の列挙

これらの分野にはそれぞれ固有のボキャブラリーと直観がある

 

第13章        屈辱・みじめさ・劣等感

数学は想像の学問。想像力の真の敵、理解を妨げ、自分は愚かだと思い込ませる敵はいつも恐怖である。恐怖は私たちの限界を定める

l  恐怖を乗りこえる方法

心の奥にある恐怖の多くは社会的な恐怖

数学は知識ではなく実践

l  数学を語るテクニック

まるっきりの初心者に説明しなければならない場面を想定する

l  堂々と語る

l  ユーモアは恐怖に対する武器

 

第14章        デカルトに学ぶ知の技法

l  「この世で最も平等に分け与えられているもの」

デカルトが独創性を手に入れたのは、誰もが平等に分け与えられている「良識」を結集したからで、こうして確立したデカルトの思想の流派を「合理主義」と呼ぶ

l  合理性は感じが悪い?

l  世界という大きな書物

デカルトは、「何の成果も上がらない思索」から逃れ、「世界という大きな書物で」直接学ぶ、つまり現場を見に行くほうを選んだ

l  「確信をもってこの人生を歩む」

デカルトは自身で、人生で大いなる情熱を注ぐ対象は「真理」の探究だという

l  デカルトが見た夢

l  正しく歩むための身体感覚

l  不安が問題を難しくする

l  率直な体験談

l  疑うことは構築に役立つ

l  疑うことで成長する

 

第15章        怖くなんかない

l  必要なのは感情的な体験

l  無限の話から始める

l  結び目を捉える

l  オレンジの詰め方

 

第16章        危険なスポーツ

l  想像力を高めるトレーニング

l  見えないものを見る練習

l  首で感じる数学

 

第17章        純粋な理性は人を惑わす

l  数学者は変わり者?

l  人里離れた森に住む男

l  数学徒であったユナボマー

l  「真理に近似したもの」

l  他者から学び、他者と共有する

 

第18章        部屋のなかのゾウ

l  G

 

第19章        概念をつくり出すマシン

l  G

 

第20章        大いなる数学のめざめ

l  G

 

 

 

エピローグ

 

 

 

 

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得意なひとと苦手なひと、なぜこんなにも極端に分かれてしまうのか?

知られざる数学3カ条

数学は身体活動

数学が大得意になる方法がある

偉大な数学者も私たちも脳は同じように動く

たくさんの生徒が苦手意識をもち、大人になってもコンプレックスが消えない数学。得意なひとと苦手なひと、極端に分かれてしまうのはなぜだろう。数学は「学ぶ」ものではなく「やる」もの。スプーンの持ち方や自転車のこぎ方のように、正しい方法を教えてもらい、使うことで自分の身体の一部になる。歴史上の偉大な数学者たちは、直観と好奇心を総動員する術を知っていた。さまざまなエピソードをひも解きながら、深い理解と柔軟なメンタルへ導く。

1+2+3+……+100」出てくる数式はこれひとつ!

 

 

じんぶん堂 Powered by 好書好日

「じんぶん堂」は、出版社と朝日新聞社が共同して人文書の魅力を伝えていく読書推進プロジェクトです。

201911月、朝日新聞社の本の情報サイト「好書好日」の中に、専門サイト「じんぶん堂」を開設。人文書の著者や編集者、書店員らが人文書の魅力を伝える記事を日々発信し、みなさまに人文書との出会いの場を提供しています。

情報技術の進歩などで、急激に変化する現代。インターネットには断片的で雑多な情報があふれています。しかし、ネットで断片的なノウハウや情報を手に入れても、それはすぐに陳腐化し、役に立たなくなるかもしれません。

先の見通せない時代だからこそ、ものごとの本質を見極め、大局的に考えることがますます重要になってくる。そう私たちは考えています。

人間とはどういう存在か、人間がつくる社会や文化、技術はどうなるのか、新しい時代の生き方とは……。書籍、とりわけ人文書には、それらを考える上での基となる教養、「人文知」が詰まっています。

みなさんも人文書を手にとってみませんか? 新しい扉が開き、世界の見え方が変わるかもしれません。

発起人:晶文社、筑摩書房、白水社、平凡社、朝日新聞社

 

 

2023.05.30

数学を学ぶとき、恐怖を感じなくなる方法『こころを旅する数学』

「数学をめぐって会話をするのは、学ぶためであって屈辱を感じるためではない」(『こころを旅する数学』より)

「ばかだと思われるのが怖い」、「問題を解けないと自分がダメな気がしてくる」……なぜだか恐怖や劣等感がわいてきてしまう数学。むやみに怯える気持ちこそが、数学の理解を妨げ、楽しさも奪ってしまうと数学者ダヴィッド・ベシス氏は語ります。だったらどうすればいいのか? ヒントになるのは、ベシス氏が参加した2つの学会でのエピソード。著書『こころを旅する数学』より紹介します。

通念に反して、論理は想像力の敵ではない。むしろよき理解者だ。想像力の真の敵、理解を妨げ、自分は愚かだと思い込ませる敵はいつも恐怖である。

恐怖は私たちの限界を定める。恐怖は、まるでだめな人から最もすぐれた人まで、初心者から名門大学の教員まで、あらゆるレベルの誰にでもかかわる問題である。誰にでも盲点はあるが、そう聞いただけで恐怖にかられる。盲点という言葉を心の奥の不安、自分はきっと求められるレベルに達していないという思いに結びつけるからだ。私たちは入り口に掲げられた「天才以外お断り」という看板を前にして身動きが取れないでいる。その看板を、自分には難しすぎて無理だと思った日に自分自身で立てたことを忘れているのだ。

数学への恐怖の最も残酷な点は、恐怖は頭のなかだけの話だとわかっていてもどうにもならないことである。めまいと同じだ。めまいも頭のなかだけのこととわかっているのに止まらない。

有名数学者からの衝撃の一言

自分自身の数学を理解するいちばんの方法は、丸っきりの初心者にそれを説明しなければならない場面を想定することである。自分を相手にして愚か者を演じると、最終的には自分の成果を自明の理として提示する方法が見つかる。

このミニマルなアプローチは私の発表スタイルとなった。多くの若手数学者が隠れ蓑にしたがる、わかりにくいスタイルと専門性を強調して虚勢を張るのと逆のことをしたのだ。最初のうちは、わかりやすい発表をするとなんらかの不利益をこうむるのではないかと心配した。本気にしてもらえないかもしれないと思っていたのだ。だが実際はその逆だった。発表が単純であればあるほど、私は賢いと思われた。

ある日、私はシュヴァレー・セミナーというパリで開かれる群論のセミナーで発表することになった。提示できるような新たな成果はあまりなかったが、ふだんよりさらに単純な発表をするよい機会だった。

会場に着くと15人ほどの研究者がいて、学生たちも部屋の奥に座っていた。発表の数分前、セール [ジャン=ピエール・セール。著名なフランス人数学者が入ってきて2列目に座った。

セールを聴衆のひとりに迎えるのは嬉しかったが、すぐに彼に予告しておいた。関心がもてないかもしれませんよ、これは普及を目的とした発表なので、ごく基本的な内容を説明するつもりです、というふうに。

セールにはもちろん言わなかったが、私は彼を前にして怖気づいていた。とはいえ、彼ひとりのために発表を難しくするつもりはなかった。私はただひたすら、彼がめがねを外さないかどうかを見張っていた。めがねを外すという動作は、退屈して聞くのを止めたことの表れになるからだ。けれども、セールは最後までめがねをかけていた。

私はセールがいないかのように、聴衆全体に向けて発表を行った。とくに部屋の奥に座っていた博士論文を準備中の学生たちと高等師範学校 [パリにある名門高等教育機関。グランゼコールのひとつの学生2人が耳を傾け、理解したようだったので満足だった。

それはごくふつうの発表で、どちらかといえばうまくいった。とりたてて奥が深いわけではないが、十分に準備され、明快でわかりやすかった。セミナーの終わりに、セールが私に会いに来て文字どおりこう言った。

「もう一度説明してもらわないとね。さっぱり理解できなかったから」

数学を堂々と語る方法

これは本当の話である。こう言われて、私はわけがわからなくなった。

セールが「理解する」という動詞を大部分の人が使う意味で使っていないことは明らかである。私の発表のコンセプトと論証が、彼にとって本当にわかりにくかったはずはない。きっと、私の説明は理解したが、私の説明した内容がなぜ正しいか理解できなかった、と言いたかったのだろう。

これは1から100までの整数の和と少し似ていて、理解には2つの段階がある。第一段階では、ステップごとに論証を理解し、それが正しいことを受け入れる。「受け入れる」と「理解する」は違う。第二段階が本当の意味での理解である。理解するには、その論証がどこから出てくるのか、なぜそれが自然なのかが見える必要がある。

セールのコメントについて改めて考え、私は発表に「奇跡」、つまり恣意的な選択やうまくいったものの自分ではきちんと理由を言えない手順を盛り込みすぎていたことに気がついた。セールが言ったとおり、たしかに理解できなかった。私が当時取り組んでいた対象と状況の理解にはいくつかの大きな穴が開いていたわけだが、セールは私がそれに気づくよう、手を貸してくれたのだ。

その後、数年かけてこのさまざまな「奇跡」の説明を模索した結果、私はこうした穴の一部を埋めることができ、キャリアのうえでもとくに重要な成果を上げることができた。(現時点でも、まだ説明できない「奇跡」が一部残っている。)

しかしいちばん気にかかったのは、セールが「理解できなかった」と伝えたときの唐突で乱暴なやり方だった。

こんなことをするには信じられないほどの度胸が必要である。発表のあいだずっとおとなしく耳を傾け、それから発表者の前にやってきてにっこり笑いながら「さっぱり理解できなかった」と言うのだ。私なら絶対にこういうやり方はしない。

セールはなぜこんなことをしたのか? 最初は、ジャン=ピエール・セールだったらこんなことをする権利があるに違いないと思った。それから、逆の解釈もできるのではないかと気づいた。このテクニックによってこそ、彼がジャン=ピエール・セールになれたのだとしたら?

「理解できなかった」と言ってみた

私はその点をはっきりさせるため、自分で試してみることにした。

数カ月後、ある学会の会食の席で博士号を準備中の研究者と隣り合わせた。デザートを食べながら、彼は自分の研究内容について説明しはじめた。当然ながら彼の説明はさっぱりわからなかった。そこで、ディナーの終わりに彼を脇に呼んでこう言った。

「説明してくれないか。ただし、ゆっくりとね。君のテーマがさっぱり理解できないんだ。私が脳に重大な損傷を負っていて集中力を保つのが難しい、という前提で頼むよ」

これを聞いて笑った親切な彼は、私が知っていて当然だが、じつはそれまで理解できたことがなかった彼の専門分野の基礎から始めて、ゆっくりと落ち着いて説明してくれた。

彼の説明は、食事の席でしてくれたものとは似ても似つかなかった。使う言葉も内容も違ったのだ。まるで、研究テーマについて話すのに2つのまったく異なる方法があるみたいだった。

まじめに見せたいときに使う公式な説明であるツーリスト用メニューと、彼が自分でものごとを理解するための単純で直観的な方法である裏メニューがあったというわけだ。

研究者という私の地位は、学生という彼のそれより高かったため、彼はツーリスト用のメニューを提供して私に強い印象を与えたかった。一方、私は自分が無能なふりをすることで、彼に私と対等に話し、ものごとを彼自身が理解しているとおりに語ってもよいのだと伝えた。

セールのテクニックのもうひとつの利点は、間違いなく尋ねたくなるくだらない質問の数々が、初めから深刻に見えなくなることである。そうした質問を小出しにして話を戻し、会話の1分ごとに自尊心を傷つけられた気になるより、くだらない質問をたくさんぶつけ、しかも同じくだらない質問を立て続けに何度も繰り返すというぶしつけを最初から装うほうがずっと気楽である。

数学をめぐって会話をするのは、学ぶためであって屈辱を感じるためではない。

ときには、よく理解できていなかった基礎の復習に時間の半分を費やさなければならないし、場合によってはそれだけで終わってしまうこともある。それでもそのほうが、さっぱり理解できない内容について話すよりいい。相手があなたのレベルに合わせようとせず、あなたの手を取って基礎の基礎から始めることを拒む場合も、気分を害する必要はない。相手はきっと、自分自身が理解していない数学を説明しようとする詐欺師なのだ。

このアプローチの魅力は、ばかにされるのを覚悟のうえで堂々と質問することで、あなたが自分に自信があるということを相手に印象づけられることだ。

(ダヴィッド・ベシス『こころを旅する数学』第13章「屈辱・みじめさ・劣等感」より抜粋・編集)

 

 

 

好書好日

「こころを旅する数学」書評 何となく考えると何かを感じる

評者: 石原安野 新聞掲載:20230513

 数学も、私の専門である物理学と同様、好き嫌いが大きく分かれる学問である。「私は数学が苦手なんです」とまず初めに宣言をして、近寄らせまいと防御線を張る方も多い。デカルトは、「数学における主な障害は心理的な拒絶反応である」と示したという。一度考えてほしい。あなたがキライなのは数学という学問ではなく、なぜか「実際には理解できていないのに、自分はそれを理解している」ふりをしないと屈辱を感じる、そのことなのではないだろうか。それでは確かに、数学を好きにはなれまい。

 人間は赤ん坊のころから多くのブレークスルーを起こしながら能力を向上させる。ハイハイができ、歩けるようになることは、身体の運動であると同時に、世界の見方が大きく変わる脳の再構成も伴う。数学的直観も、失敗を繰り返したのちたどり着く、ものの見方の転換であり、脳の再構成である。例えば、形合わせパズルが初めてできるようになったとき。数学的直観は「形」という概念をもたらした。そこに、著者は数学が得意になるためのヒントを見出す。

 数学を好きになるには心理的な障害を取っ払うことだ。それには、成長期の子供のようにふるまうのが良い。自分にはできないという恐れは忘れ、できるかできないかわからないけれど何となく試したり、思い浮かんだくだらない質問を遠慮せず投げかけたりしてみる。効率など考えない。本書は、子供を数学嫌いにしないための示唆に満ちている。「転倒を恐れることと歩行を恐れることは同一」なのだ。

 数学好きに必要なのは、わからないことを楽しむ心だ。例えば、「無限」について。何となく考えているとそのうちに何かを感じる。そのイメージを文章化するのは、たとえ数学者であっても難しいのであるが、まずは直観の世界へ。本書を片手に一歩踏み出してみるのは如何(いかが)だろうか。

 

David Bessis 数学者。フランス国立科学研究センター研究員を経て、人工知能を専門とする会社を経営。

石原安野(イシハラアヤ)千葉大学ハドロン宇宙国際研究センター教授(ニュートリノ天文学)1974年生まれ。テキサス大学大学院で博士号。2017年、優れた女性科学者をたたえる猿橋賞を受賞。19年、物理学で優れた業績をあげた人に贈られる仁科記念賞を受賞。224月より書評委員。

 

 

 

 

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