陥穽 陸奥宗光の青春  辻原登  2024.11.27.

 2024.11.27. 陥穽 陸奥宗光の青春

 

著者 辻原登 1945年和歌山県生まれ。90年「村の名前」で芥川賞、99年『翔べ麒麟』で読売文学賞。『遊動亭円木』『許されざる者』『闇の奥』『韃靼の馬』『冬の旅』など著作多数。近刊に『卍どもえ』『隠し女小春』。2016年、恩賜賞・日本芸術院賞。22年、文化功労者

 

発行日           2024.7.17. 第1

発行所           日本経済新聞出版

 

日本経済新聞朝刊連載 2023.3.1.2024.1.31.(326)

 

 

外務省には陸奥の銅像が2つある

1つは本省玄関横に立つ5mの立像、1966年に陸奥没後70年を記念して建立

もう1つは胸像、相模原の外務省研修所玄関ホールに設置。1907年陸奥の10周忌に旧本省玄関に設けられ、「帝都10大銅像」とされ名所だったが、軍需金属供出で撤去。その際将来の再建を期して頭部を切断し疎開。旧像の制作者は藤田文蔵(美校教授)、戦後の新像は山本豊市(藝大教授)。マイヨールの日本人唯一の直弟子。秘匿の頭部は、山本によって補修が加えられ胸像となった

三国干渉の後持病の肺疾が悪化して病床に伏した陸奥は、執念で外相在任中の外交記録を『蹇蹇録』に残し、翌年(1897)死去。在職中は「カミソリ大臣」の異名、死後は「日本外交の父」

私の関心は、彼の前半生。そのクライマックスは、「明治政府転覆計画」への加担と挫折

この時点で、彼は政府の立法府である元老院幹事・副議長()の地位にあり、陰謀を秘めて憲法の試案作りに、外国人法律顧問と共に取り組んでいた。西南戦争勃発の危機と混乱に乗じて、土佐立志社の急進グループが大久保暗殺を含む藩閥政権打倒を画策。陸奥も参謀役として参加、出身地の和歌山で育てた精兵を率い合流を目指す

陸奥は事件発覚から約1年後に逮捕

陸奥の変節・変幻自在ぶりは、高野山の寺男、学侶方(がくりょがた、真言密教の研究機関)学僧から出発した少年時代に遡る。1858年江戸の高野在番屋敷に派遣され、儒学者安井息軒の三計塾に通い、昌平黌に出入り。19歳で尊王攘夷に沸き立つ京へ上った時に青春が始まる。勝の「海軍塾」の訓練生となり、後任の坂本龍馬の「海援隊」の一員となり龍馬からも将来を嘱望されるが、一部仲間からは「嘘つき小次郎」と評判の変節ぶりが嫌われた

元来紀州人は都では評判が悪い。日に焼けた長い顔、とんがった頬骨、抜け目のない面構えに加え、気短でせっかちな者が多く、傲岸不遜、狷介の性など紀州出身者の特徴とされる

新政府の外国事務局御用掛として、伊藤博文・井上馨・五代友厚・中井弘らと出仕。この前後に終生の痼疾となる肺病を発症

裁判で陸奥は否認し続けたが、元老院の暗号電報を使った証拠を突き付けられて観念、禁獄5年となって山形監獄へ。法廷で陸奥は加担行為を「愚状」と胸中を吐露。獄中での漢詩「山形繋獄(けいごく)」のなかで「粗豪誤身30年」とその前半生を総括。晩年の小伝でも「此一事は余が半生の一大厄難にして自家(じか)の歴史上摩滅すべからざるの汚点なり余は多言を欲せず」と記すが、本当の動機は何だったのか。「多言を欲せず」とする理由を知りたい

 

第1部       

明治118月、独房で2度喀血。初めて1合枡を溢れる量の血を吐く

宗光の父・伊達宗広は紀州55万石の勘定奉行、寺社奉行を兼務したが、藩内の政争で失脚、9年間流罪。家禄・屋敷没収の上家族も城下10里以遠に追放。9歳の宗光は復讐を誓う

山形県令は、宗光に深い遺恨を抱く薩州人・三島通庸

新潟監獄に行く竹内綱(入獄直後に生まれた5男が吉田茂)と一緒に東京を出発

喀血して歩行困難な陸奥に、紀州豪農の息子が賄賂を使って馬車を仕立てる

紀州藩の最盛期は第10代藩主治宝(はるとみ)の時。陸奥の父伊達藤二郎宗広は36年にわたり小姓から勘定奉行まで仕える。治宝の引退後、11代将軍家斉の子が養子となって2代続き、その長男・慶福(よしとみ)13代となるが、慶福は後に14代将軍家茂に

和歌山の隠居政権と江戸家老の対立が激化、治宝没後江戸派によって宗広らは一掃される

宗光は、知人の伝手で藩校と高野山に学び、高野山の参勤交代の一員として江戸在番屋敷へ

1861年、8代藩主の33回忌に宗広らの赦免が公布され、和歌山に戻る

中村小次郎(宗光)は、在番屋敷で寺男として働く傍ら、安井息軒の三計塾に通ううち、才能を認められて高野山から出て自由に動き回ることを許される。様々な日銭仕事をこなしながら、勉学にも勤しむ。同時に町飛脚で稼いだ金で大門にも出入りし馴染み(歌川)が出来る

宗広の著作『大勢三転考』(日本史を3つの時代区分によって理解しようとするもの)を息軒に見せ、出版を勧められ、私家版で出す。宗広赦免の知らせが届いた日に見本刷りが出来、代金を歌川に出してもらって、父のもとに本を届ける

学問で身を立てるという小次郎の決心を聞いた宗広は、かつての藩士・高岡要を紹介する

東京に戻った陸奥は歌川に会いに行くが、遊郭は焼失して歌川も行方不明。維新後兵庫県知事まで出世街道を駆け上がるが、急進的な言動が仇となって罷免、失意の陸奥を激励したのが伊藤博文で、歌川を探し出す。陸奥はすでに前年大阪新地の芸子吹田蓮子と結婚していたので、歌川に相手を紹介し、日本橋で裕福に暮らしたという

高岡は、長崎で西洋医学を学び、小石川で医院を開業。幕府の小石川養生所の立て直すとともに、天然痘や結核などの予防医学・治療薬の開発を進める。陸奥は高岡医院の書生として住み込み、名を伊達小二郎に戻し、高岡の薫陶を受ける。そこで伊藤俊輔とも出会う

宗広の書に感銘を受けた中川宮朝彦親王の誘いに乗って、家兄宗興が父宗広を含む家族全員と共に脱藩して京に向かう。中川宮は孝明天皇の信頼も厚く公武合体派を代表

陸奥は、山形獄内で、ベンサムの功利主義理論最大多数の最大幸福を翻訳

三島管轄下の危険性を察知した内務卿・伊藤博文の差し金で、明治12年宮城監獄へ移送

兄が脱藩した頃、小二郎は高岡の紹介で、脱藩して勝海舟の海軍操練所構想に共鳴して門下に入った坂本龍馬に会い、すぐに勝海軍塾への入門が決まる。勝・龍馬とも小二郎の才に惚れ込む。宗興は中川宮の紹介で幕府に紀州藩改革の直訴状を持参、認められて紀州藩に復帰する。小二郎にも協力を求めるが、小二郎は藩籍に拘らず海軍塾の一員となることを選択

1863年、神戸にて航海術の操練開始。最初の軍艦観光丸は8年前長崎伝習所開設の際練習艦としてオランダ国王から将軍に贈呈されたもの。400総トン、外輪の蒸気船

 

第2部       

1879年、宮城県監獄へ移送

1864年、西郷は島流しから解放。群賦役(くばりやく、軍司令官)に任ぜられ京都へ。第1次長州征伐を率いる。小二郎は龍馬に連れられ西郷を訪ね、海軍塾の事を話す

勝と西郷の面談も神戸で実現

禁門の変。勝は大坂城代から江戸召還を命ぜられ、龍馬も土佐帰藩命令。勝は軍艦奉行を解任、役高も没収となり元氷川の屋敷に蟄居。65年操練所閉鎖、在籍者はそれぞれに帰藩。小二郎は行き場を失い、脱藩した龍馬とともに薩摩屋敷に匿われ、のち西郷によって薩摩に引き取られ、龍馬は長崎に向い薩摩藩の協力を得て亀山社中を立ち上げる

紀州藩ではまたまた政変が起こり、宗興は幽閉、宗広は実家へお預け・蟄居となる

小二郎も亀山社中の更なる発展のために、ジャーディン・マセソンの水夫として上海へ向かい、商法を学ぶ

亀山社中は土佐藩後藤象二郎の支援で海援隊になり、龍馬から小二郎に帰隊の要請

小二郎は長崎に戻り、係争中の海援隊と紀州船の衝突事故裁判で覚えたての国際法の知識を駆使して紀州藩から賠償金をせしめる。龍馬は「船中八策」を披露、大政奉還に繋げる

小二郎は、香港で学んだ貿易実務などをベースとした『商法の愚案-新しい世界を目指して』とする海援隊の商社活動の綱領を起草、初めて陸奥源二郎宗光の名を用いる

龍馬の暗殺により、「船中八策」も「合議制体」も薩長土の武力討幕派によって葬り去られ、鳥羽伏見の戦いに発展していくなか、小二郎は龍馬の遺志を継ぐべく動く

英国公使館の通訳アーネスト・サトウと相談して「日本外交愚案」を作成、列強6か国による新政府の正式承認が政権樹立への緊要不可欠な課題であることを明快に論じ、そこに至る手順を具体的に提示したもので、岩倉に直接届け、外国事務局御用掛に採用される。外国公使を謁見したメンバーに伊藤・井上(聞多)・寺嶋・五代らと共に陸奥の名も見える

 

第3部       

消防の功により刑期が短縮され、明治14年赦免が決まるが、天皇宸断(しんだん)で却下。理由は重職にありながら政府転覆を図ったためで、前例ありとしても踏襲は不可というもの

1868年、小二郎は横浜赴任を前に肺炎で危篤状態に。一命はとりとめたが宿痾の肺患発症

回復を待って小二郎に課された任務は、初の甲鉄艦購入。大坂の商人たちの助力を得てアメリカから購入し、箱館戦争の勝利に結びつける

この時小二郎は、大阪商人との打ち上げで見初めた芸妓お米(本名吹田蓮子)と結婚する

後藤象二郎が大坂府知事になった際乞われて(ママ)副知事として仕える

小二郎は伊藤俊輔が大蔵・民部少輔(しょうゆう)として東京に転任した後の兵庫県知事となるが、保守派の巻き返しにあって2カ月で罷免。失意のなか、地元の紀州藩立て直しに参画、プロシアから軍事指導者を招いて軍隊を創設。「版籍奉還」後知事となった旧藩主の下、さらなる軍の強化を図るためスカウトを兼ねて普仏戦争最中の欧州へ行き、ビスマルクに謁見

1871年、廃藩置県により、紀州の軍隊は解兵となり、陸奥は失望と落胆のどん底に

その年妻蓮子急逝。3カ月後にはまた新橋の芸妓に出たばかりの女性と再婚

岩倉使節団の渡欧中、小二郎は大蔵省租税頭として地租改正に取り組む

征韓論争で西郷が下野した頃、陸奥は肺患の再発により熱海来宮で療養。藩閥勢力による政権の独占「有司(ゆうし)専制」を徹底批判して大蔵少輔を辞任し野に下る

大久保の政治基盤強化を托された伊藤が、大久保の天敵木戸を口説き、予て陸奥が木戸に建言した立憲制への移行を進め、元老院(上院)、大審院、地方官会議(下院)という立憲政体樹立への詔を公布。13名の元老院議官が任命され、木戸の強い推挙で陸奥にも就任の要請、勝は拒否。木戸・板垣も大久保との協調を嫌って下野したため、大久保独裁が始まる

ついに西郷が立ち、土佐が追う。陸奥も元老院で憲法を起草しながら、政府軍に参戦すると見せかけて紀州での義勇兵徴募の許可を申請する一方、西郷に呼応して全国の民権派が立ち上がることを期待、一斉に立ち上がれば陸奥もそれに応えるつもりだったが、陰謀は大久保の探知する所となり、陸奥は土佐の同志に速やかな決起と政府要人の暗殺が鍵だと示唆。要人の標的を大久保・伊藤・鳥尾小彌太とするが、そこにも政府の密偵が入っていた

政府追討軍による熊本城開通で戦局は一遍に政府軍有利となり、陸奥は政府転覆計画の成就困難を察知し同士に計画の中止を勧告する

父宗広と木戸孝允が相次いで死去。父の死は陸奥の青春の終焉を意味し、木戸の死は陸奥の「立憲民主政体樹立」という「理念」の敗北を告げていた。木戸は陸奥に「理念を自分に説くのではなく大久保に説け」と示唆したが、陸奥は土佐立志社に委ねるという賭けに出た

大久保の指示により土佐立志社の一斉摘発が始まる。同じ頃西郷も城山で絶命

大審院での裁判が始まり、陸奥は肺患を発症し、来宮にて療養

翌年主犯格の大江卓と竹内綱が逮捕され、陸奥包囲網は狭まる。その直後大久保暗殺。その翌月元老院議長有栖川宮から辞職を勧告され辞職、その日逮捕。元老院議長代理という要職なるが故に慎重を期しての逮捕だった。「転覆計画」そのものについて陸奥は何も知らされていないと否定し続けたが、暗殺された大久保の鞄から陸奥が同士とやり取りした元老院の暗号電報が発見され、陸奥も事実関係を認め自白を始める

余りの杜撰な計画と実行過程に呆れた判事が、陸奥ほどの英明・犀利を謳われた政治家が何故手を貸したのか、その真意を問い質したのに対し、陸奥は「ひとえに立憲政体の樹立という大義にあり」と苦渋の表情で答えたという

陸奥は逮捕されるまでの1年間、痛恨と慙愧の念を抱え、唯1人として相談する相手もなく、孤愁の中にいたことを告白し、一切を「愚状」と断じ、「此一事は余が半生の汚点なり多言するを欲せず」と『小伝』にも書いたが、野心・私欲があったことは疑いなく、「立憲政体樹立」の理念は大儀であり歴史的現実性を持つが、理念を具現化する手段として頼った立志社の「政府転覆計画」は見通しと思慮を欠いた空想的・非現実的なものだった。陸奥は判断を誤り、冷徹な眼が権略で曇って、視野狭窄に陥っていた。陸奥は、理念の「現実性」と、計画・手段の「非現実性」の間に穿たれた陥穽に墜落したのだ

判決後、政府が陸奥の従四位の「位記被褫(いきひち)(位階剝奪)決定に対し、伊藤博文は岩倉に抗議文を出す。「薩長の士族で御一新のこの功績あればこのようなことにはならない」と

明治15年、伊藤は欧州立憲国の組織と憲法の調査研究のため1年半の旅に出る。ドイツで陸奥の力を必要とした伊藤が岩倉に特赦を直訴、陸奥は刑期を8カ月残して同年末赦免

翌年8月、東京で伊藤と陸奥は再会を果たし、共に「憲法政治」を目指す二人三脚が始まる

明治17年、陸奥は伊藤の尽力で2年のイギリス・ドイツ留学に出発

 

エピローグ 陸奥小伝

44カ月の獄中生活とそれに続く19カ月の外遊の時期は、陸奥の壮年期の只中にあって長い空白を作るが、また彼の54年の生涯の前後半を分水嶺の如く分割する

獄中でベンサムの主著『道徳及び立法の諸原理序説』を全訳し、さらにジョン・スチュアート・ミルやモンテスキューなどの自由思想に加え、父の下で少年時代から学んだ『春秋左氏伝』の抜粋集を獄中で編む。その序文で、「政治は術(アート)なり、学(サイエンス)にあらず。故に政治を行う人に巧拙(スキル)の別あり。巧に政治を行い巧に人心を収攬するは、即ち実学実才ありて広く世務に練熟する人に存し、決して白面書生机上の談の比にあらざるべし。また立憲政治は専制政治の如く簡易なる能わず」と書き、「理念」と「権力」という2つの要素を結び付ける契機こそ技術(アート)だという。彼は獄中で思想的充実と人間的な幅の広がりを獲得した

明治21年、駐アメリカ特命全権公使としてワシントン赴任。条約改正に着手。23年帰国

明治23年、山県内閣の農商務大臣として初入閣。政府転覆計画の首謀者の入閣を渋る天皇を説得したのは山県。「剃刀大臣」として辣腕を振るうが、その右手となったのは原敬。同年の衆院選で和歌山1区から立候補して当選。25年大臣辞任、枢密院顧問に。第2次伊藤内閣の外相就任。不平等条約改正と法権回復(領事裁判権撤廃)に取り組む

陸奥は外相として、早くから清との戦争を想定した外交方針を立て、渋る天皇・伊藤を説得。開戦後は講和に向けた動きを本格化させ、下関条約に結実させる

陸奥は持病の肺疾が悪化し、舞子で療養中。三国干渉に対し、伊藤は英米を頼って要求を拒絶すると考えたが、陸奥に相談すると、英米に頼っても列強にせっかくの講和条約をズタズタにされるだけ、遼東半島は返還して臥薪嘗胆、今後のための国力を養い、いつの日か奪い返せばいいと説く。陸奥の外交戦略は10年後に現実となる

戦勝恩賞では伊藤は大勲位に叙せられ菊花大綬章、10万円(現在の20億円)を下賜するが、陸奥の名はなく伊藤は3度にわたって固辞。2次恩典名簿に陸奥も加えられ子爵から伯爵へ、2万円下賜。病魔が襲い、大磯で療養の傍ら日清戦争の外交指導を口述記録し刊行。『易経』(王臣蹇蹇たり。躬(きゅう)の故に匪(あら)ず――王臣となり艱難辛苦を背負って事に当たるが、その苦労はもとより自分1個のためではない)を参照し『蹇蹇録』と標題を付す

この書物は、明治以降日本の政治家・外交官によって書かれた回想録の中でもひときわ優れたものだが、口述と執筆は確実に陸奥の死期を早めた

陸奥の西ヶ原(旧古河庭園)の自邸に咲くノイバラは、軽井沢の千ヶ滝から100株が運ばれ栽植された。日本の山野に自生するこの花は、学名Rosa multiflora hunb1775年オランダ東インド会社の医師として来日したリンネの弟子のスウェーデン人ツュンベルクによってヨーロッパに紹介され、1862年種子が初めてフランスに入ると、その後のヨーロッパの園芸つるバラの作出に不可欠の野生バラとして珍重される。小石川の高岡邸に咲いていたノイバラは小二郎を初めとして、龍馬も桂小五郎も伊藤もアーネスト・サトウも見ていた

 

 

 

 

 

版元ドットコム

紹介

「日本外交の父」が辿った波瀾万丈の若き日々。幕末維新史を一新する「19世紀クロニクル」

明敏な知性が、野望に心を奪われる時――師・坂本龍馬と目指した新たな国家像、理念と実践の狭間で犯した愚状とは

陸奥は紀州藩で重用された父の失脚により所払いとなり、高野山の学僧から身を起こそうと、尊皇攘夷の嵐の中、洋学を志す。勝海舟の海軍塾に学び、坂本龍馬の海援隊へ。薩長連合を実現させた龍馬の許で、桂小五郎、後藤象二郎らに接近。若き日の伊藤博文、アーネスト・サトウらと心を通わせる。しかし維新後、陸奥は新政府内で苦境に立つ。時代の流れは、龍馬が構想した世界とは違う方向に進んでいる。薩摩で西郷が蜂起し、これを千載一遇の好機と捉えた陸奥は、身の破滅に向かって最初の一歩を踏み出した……

 

 

日本経済新聞 

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「陥穽 陸奥宗光の青春」副読本

2023428

陸奥宗光とは

30代半ばで立法府の要職にありながら「明治政府転覆計画」に加担した陸奥宗光は、禁獄五年の判決を受けて、寒さ厳しい山形監獄に送られた。その姿は、紀州藩で才幹を発揮したものの政争に巻き込まれて失脚し、九年間の幽閉生活を送った父、伊達宗広に重なる。

当時九歳だった陸奥は、母や2人の妹と共に、和歌山城下を追放される。高野山麓を流浪するなど、貧窮生活を送らざるを得なくなった。不本意な境遇ながら学問に励み、やがて江戸に向かう参勤交代の一員に加えられるのだった。

 

主な登場人物

陸奥宗光(18441897

英国を筆頭とする欧米列強との不平等条約改正に取り組むなど、明治政府の外交を主導した。日清戦争の難局には外務大臣・全権大使として開戦外交を指揮。下関条約の締結と、「三国干渉」による遼東半島返還に至る〝陸奥外交〟を展開した。在職中は「カミソリ大臣」の異名を取り、死後は「日本外交の父」と称される。

幕末の紀州の生まれ。青年期には勝海舟が神戸で開いた「海軍塾(海軍操練所)」に学び、坂本龍馬の「海援隊」の一員として頭角を現す。数多くの変名、偽名を名乗り、隊内では「軽薄才子」「油断のならない奴」と陰口をたたかれる。しかし龍馬からは愛された。

明治政府では兵庫県知事などを務めるが、政府転覆計画に関与し、山形監獄に送られる。出獄後は伊藤博文の後押しもあり欧米を外遊し見聞を広めた。駐米公使などを歴任し、第2次伊藤内閣では外相として手腕を発揮した。

長身痩軀(そうく)で、日本人離れした顔立ち。2人目の妻、亮子は米社交界で評判を得た。

 

坂本龍馬(18351867

土佐藩の郷士の家に生まれる。江戸の北辰一刀流千葉定吉に師事する。脱藩後は勝海舟の弟子として、神戸海軍操練所建設に貢献。各藩の脱藩浪人らをまとめ上げ、長崎で日本初の商社「亀山社中」(後の海援隊)を組織した。薩長同盟の締結に尽力した。

「我隊中数十の壮士あり、然れども能(よ)く団体の外に独立して自ら其志(そのこころざし)を行ふを得るものは、唯余と陸奥あるのみ」と陸奥宗光を高く評価した。龍馬が京都で暗殺されると、陸奥はピストルを手に復讐(ふくしゅう)を企てた。

 

勝海舟(18231899

近代海軍を創設した、幕末から明治の政治家。1860年には咸臨丸艦長として太平洋を横断する。戊辰戦争にあたっては、旧幕府を代表し、新政府の西郷隆盛と交渉。江戸城の無血開城に成功した。維新後は明治政府で参議兼海軍卿などを歴任した。
塾生の一人だった陸奥宗光を「あの男は、統領もしその人を得たら、十分才を揮(ふる)うけれども、その人を得なければ、不平の親玉になって、眼下に統領をふみ落とす人物だ」と評した。

 

伊藤博文(18411909

長州藩出身、吉田松陰の松下村塾で学ぶ。岩倉使節団の副使として欧米諸国を視察する。大久保利通の信任厚く、明治政府で中心的な役割を担う。初代内閣総理大臣に就任し、大日本帝国憲法の制定を指導。枢密院議長、貴族院議長などを歴任した。
陸奥宗光とは新政府外国事務局(のちの外務省)御用掛として、20代の同時期に出仕した。出獄後の陸奥に欧州留学を勧めるなど気にかけた。第2次伊藤内閣では外相に起用し、その外交能力を活用した。

 

作者の言葉

"日本外交の父"と呼ばれる陸奥宗光がケンブリッジに留学中の勉学ノート七冊が、神奈川県立金沢文庫に保管されている。三百ページ以上の部厚(ぶあつ)いノートに、英文筆記体の文字がぎっしり書き込まれている。漱石の英文ノートを見た時、感動したが、それ以上に美しい。異常な勉学への傾倒が伝わって来る。当時ウィーン駐在公使だった西園寺公望(きんもち)は、陸奥の勉強ぶりを、「陸奥の勉強は実に驚くべし」と伊藤博文に書き送っている。

その七年前の明治十一年(一八七八)、陸奥は「政府転覆計画」に加担した罪で、除族の上禁獄五年の刑を受け、山形監獄へ送られた。明治十六年初、特赦にあって出獄、その翌年の留学である。

起死回生を試みる彼の執念が美しいノートに結晶している。

下獄は、陸奥の大きな挫折だった。しかし、それは燃えさかる青春の躍動の証(あかし)でもあった。

彼の師・坂本龍馬は、「我海援隊中、よく団体の外に独立して自ら其志(そのこころざし)を行ふを得るものは、唯余と陸奥あるのみ」と評した。

龍馬が凶刃(きょうじん)に倒れ、その仇討(あだうち)に失敗したあと、陸奥はいったん我々の前から姿を消す。

再び現れた彼が、師の影を踏みつつ、明治藩閥政権を相手にどのような戦いを挑み、敗れたか。彼のその前半生を辿(たど)る旅である。

 

 

好書好日

辻原登さん「陥穽 陸奥宗光の青春」 青春時代の困難と挫折、「日本外交の父」に重ねる自身の歩み

 「日本外交の父」と称される陸奥宗光(184497)は、欧米列強との不平等条約改正に尽力したことで知られる。だが前半生は、困難と挫折の連続だった。

 辻原登さんの「陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春」(日本経済新聞出版)は、陸奥自身が多くを語ろうとしなかった苦難の時期に光を当てた小説だ。「政治家、偉人としての陸奥は、みんなが知っている。だから彼の青春時代にしか興味がなかった」と辻原さんは話す。

 9歳のときに紀州藩士の父・伊達宗広が政争に巻き込まれ、陸奥は母親や妹とともに和歌山城下を追放される。貧窮しながらも勉学に励み、坂本龍馬率いる海援隊に参加。その後、兵庫県知事や神奈川県知事を歴任する。だが1877年、自由民権運動を推し進める急進グループが画策する政府転覆計画に加担し、逮捕。4年4カ月の獄中生活を送る。

 タイトルの「陥穽」は、理想と現実の間にある落とし穴を指している。「陸奥の場合、立憲民主政体をつくりたい、という現実的な理想を抱いていた。でも、理想を実現するための手法が非現実的だった」

 陥穽(あな)の中である監獄生活こそ、この小説の眼目だ。陸奥は差し入れてもらった大量の本を読んで過ごし、ベンサムの主著『道徳および立法の諸原理序説』の全訳を完成させる。「監獄で耐えられたのはベンサムの翻訳があったからでしょう。彼は獄中で自分に気づいた。さなぎのように闇のなかで待ち、再び立ち上がった。獄中生活が、陸奥の青春そのものだったのかもしれません」

 獄中で独学を続けた陸奥を克明に描いた背景には、辻原さん自身の青春時代がある。

 辻原さんは高校卒業後、大学へ進学しなかった。代わりに「自分でカリキュラムと時間割を考え、読む本を決め、何年間か続けたことがありました。僕の独学経験、パッションがなければ、陸奥も当然違う人間として描かれていたでしょう」

 1985年に作家デビューして以降、純文学、犯罪小説、歴史、ミステリー、恋愛と、ジャンルにこだわらず何でも書いてきた。今作は6回目の新聞連載。日経新聞で2023年から24年にかけて連載してきたものだ。

 なぜこれほど多彩な作品を生み出すことができるのか。尋ねると、「なぜ……。やりたいから、できる」。

 シンプルな答えの裏には、辻原さんの小説観があった。

 「小説は自己表現の世界じゃないと思っています。自分のことを知ってもどうにもならない。自分は小さいですから。それより、言語というものでもっといろんなことを試してみたい」

 己の小ささを受け入れることが、野心につながっている。「小説家という看板を掲げさせてもらう以上、小説ジャンルは全部書いてみたい」(田中瞳子)=朝日新聞2024918日掲載

 

 

<書評>『陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春』辻原登

2024818 0700分有料会員限定記事 東京新聞

◆鋭敏な頭脳が落ちた穴
[評]重里徹也(文芸評論家)

 日本外交の父とうたわれ、治外法権など不平等条約の一部撤廃を実現した陸奥宗光。この傑出した外交官、政治家の若き日々を描いた長編小説だ。陸奥という鋭敏な頭脳を視点に、幕末維新の激動の時代を体験できる。

 最も力点が置かれているのは、政府転覆を狙った土佐立志社事件にかかわって投獄を余儀なくされたことだ。明治政府の中枢近くにいた陸奥はなぜ、そんな陥穽(落とし穴)に落ちたのか。物語は近代史の解釈だけでなく、普遍的な人間ドラマとして楽しめる。それは政治とは何か、権力とは何かと問いかける。

 陸奥の幼少期から書き起こされる。紀州藩の幹部だった父親の失脚。苦渋に満ちた少年時代。高野山の学僧生活。変革期の群像との出会い。抜群の記憶力と理知的な能力で、陸奥は頭角を現していく。一方で自負心が強く、それを隠さないのが危うい。

 陸奥の目から見える人物たちの横顔が興味深い。海を思考の基点に置き、因習にとらわれず自由に発想する坂本龍馬。陸奥に最も影響を与えた人物だ。リアルに状況をとらえる桂小五郎も鮮やかだ。

 伊藤博文はすばしこい。物事の飲みこみが素早く、行動が敏速だ。大久保利通は冷酷だ。そこに国家を背負う存在感がある。西郷隆盛はえたいが知れず、心に闇を抱えている印象を受ける。

 アーネスト・サトウ(英国の外交官)は外からのまなざしで日本の権力闘争を眺めている。彼が登場すると、状況を見渡すような解放感が流れる。逆に感情的に生き急ぐ人物に対しては筆致が厳しい。それは歴史を動かさない。

 そして、陸奥宗光。龍馬の志を継いで、藩を超えた「国」という概念を抱き、全国の人民の集合体としての「日本」を提唱した。しかし、和歌山藩の軍隊を廃藩置県で奪われ、孤独に沈み、思慮を欠いた空想的な政府転覆計画に関与した。理念の現実性と手段の非現実性の間の陥穽に墜落したと描かれる。

 手段の非現実性。読者はこの言葉の意味を長編小説の重みでかみしめることになる。

(日経BP・日本経済新聞出版・2970円)

1945年生まれ。著書『翔べ麒麟』『卍どもえ』『隠し女小春』など。

 

 

 

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