渋谷区旧町名マップ 2024.11.26.
2024.11.26. 渋谷区旧町名マップ (2012年3月現在)
2011年度「東京都地域の底力再生事業助成」対象事業
1. 豊沢町(とよさわちょう)
豊沢貝塚(恵比寿2-32)
豊沢児童遊園地(恵比寿2-17)
新豊沢橋
豊沢教会(恵比寿2-32)
「豊沢」は江戸時代以来の広域的な地名。元は、豊多摩郡渋谷村大字下渋谷字豊沢・広尾耕地の一部と、大字渋谷神原町の全域。1928年に大字として成立
2. 伊達町(だてまち)
伊達児童遊園地(恵比寿3-11)
「伊達」は幕末まで宇和島藩伊達家の下屋敷があったことに由来。28年「伊達前・伊達跡」→「伊達」になった。32年に渋谷区の町名になったが、66年現行の恵比寿3丁目となり、町会名や児童遊園地に名を残す
3. 景丘町(かげおかまち)
景丘公園(恵比寿4-26)
区域の大字分を占める小字欠塚に加え、目黒川の谷を望む景勝の地の意味で「佳景丘」が提案され、「景丘」となった
4. 欠塚(かけづか)
欠塚石碑(加計塚小学校前)
加計塚小学校(恵比寿4-21)
欠塚古墳に由来。小学校名は語調が悪いことから漢字を変更して使用
5. 若羽(わかば)
若羽児童遊園地(東4-13)
「若羽」は若木町と羽沢の合成。若木町は1906年から東京市種苗圃が付近にあったことに由来し、苗圃は羽沢種芸園として1952年の広尾高校建設時まで存続
6. 鎗ヶ崎(やりがさき)
鎗ヶ崎交差点(恵比寿南3-7先)
下通5丁目バス停(恵比寿南3-5)
鎗ヶ崎は周辺の地形に由来。1928年の地番改正誌には「上、中通との関係上、下通と為す」とあり、路線式町割りを実施するための便宜的呼称か
7. 長谷戸町(ながやとちょう)
長谷戸小学校(恵比寿西1-23)
地形に基づく古い地名。元大字中渋谷にも「長谷戸」の小字があり、「はせど」と読んで区別
8. 氷川町(ひかわちょう)
氷川神社(東2-5)
氷川橋(東1-28)
区域内にかつて下渋谷村の鎮守氷川神社があり、9月29日の大祭日には素人角力を執行、氷川の角力として古より有名。1936年まで、渋谷村役場、町役場、区役所の所在地
9. 常磐松町(ときわまつちょう)
常磐松の碑(東4-4)
常磐松小学校(東1-7)
常磐松という松があったことに由来するが、松自体はかつて氷川神社にあった。常盤御前由来説は信じがたい。1926年開校の小学校名は、さらが割れやすいところから「常磐」を使用、そのため1928年の地名改正でも「常磐」になった
10.
金王町(こんのうちょう)
金王八幡宮(渋谷3-5)
金王坂(渋谷2-17先)
渋谷氏の居城に鎮座する金王八幡宮に由来。1932年町名となったが、1966年渋谷3丁目に改変。境内に金王桜、鎮座の松がある
11.
渋谷宮益町(みやますちょう)
宮益坂(渋谷1-4先)
御嶽神社に由来。江戸前期から町名として続く
12.
美竹町(みたけちょう)
御嶽神社(渋谷1-12)
美竹公園(渋谷1-18)
御嶽神社に由来
13.
宮下町(みやしたちょう)
明治後期に梨本宮邸が渋谷に移り、その下方にあった地域の意に由来。旧渋谷小学校の敷地には、宮邸と学校との関わりを窺わせる石碑も現存
14.
穏田(おんでん)
穏田神社(神宮前5-26)
神宮前穏田区民会館(神宮前6-31)
元は「穏田村」という広域地名。名前の由来には諸説。田制のカクシ田によるもの、関東管領上杉定正の家臣・恩田某の隠棲地、北条氏の家臣・恩田某の居住地など
15.
北谷町(きたやちょう)
北谷稲荷(神南1-4)
北谷公園(神南1-7)
江戸時代からあるが由来不詳
16.
竹下町(たけしたちょう)
竹下通り(神宮前1-19先)
江戸から続く地名。かつては「たけのした」と読んだ。旧大字上渋谷の範囲だが、旧大字原宿にも「竹ノ下」の小字がある
17.
原宿
原宿駅(神宮前1-18)
原宿橋跡
中世から続く地名。鎌倉街道が走っていたため、その宿駅との説あるも不詳。江戸後期にはこの付近の町屋が青山原宿町と呼ばれており、原宿の中心地だったと思われる
18.
新屋敷
新屋敷ガード(千駄ヶ谷5-18先)
江戸初期、もともとは高遠藩内藤家の屋敷地だが、2度にわたって上地となり、旗本などの屋敷地として分割されたことに由来。街の区画には当時の屋敷割が残されている
19.
廏道(うまやみち)
廏道踏切(千駄ヶ谷5-24先)
うまや道公園(千駄ヶ谷5-24)
1695年旧長崎奉行与力・同心大繩地に幕府の御廏敷地と道路ができ、その道路を廏道と呼んだことに由来。現在も道の一部が残る
20.
大向(おおむかい)
大向小学校(現・神南小学校、宇田川町5-1)
江戸時代道玄坂にあった富士講の講元吉田家で不幸があり、施餓鬼供養で使った蓮台を使い橋を架け替えたため、この付近の田・橋を「おむかえ田圃」「おむかえ橋」といった
21.
代々木山谷町(よよぎさんやちょう)
山谷小学校(代々木3-47)
起伏に富んだ代々木周辺の地形に由来
22.
本村・本町(ほんむら・ほんまち)
本村隧道、本町隧道
本町ずい道公園・本村ずい道公園(甲州街道の北を並行して走る水道道路)
かつて幡ヶ谷地域の中心部。「本村」→「本町」となったが、玉川上水新水路には両方の地名が残されている
23.
幡ヶ谷中町(はたがやなかまち)
中幡小学校(幡ヶ谷3-49)
現・本町1丁目にあった旗洗池に由来。源義家が旗を洗った伝承。古くは「畑ヶ谷」とも
24.
代々木西原町・幡ヶ谷原町・代々木初台町
代々幡橋(西原2-34先)
幡代小学校(初台1-32)
1889年代々木村と幡ヶ谷村合併の際、村名は代々木を先にし、学校名は幡ヶ谷を先にした。ただし、学校は1882年開校で当初から幡代小学校
Wikipedia
渋谷区は、昭和7年(1932年)10月1日、従前の豊多摩郡渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町(よよはたまち)の区域をもって成立した(当時は東京市の区であった)。以下、明治時代初期から渋谷区成立までの行政区画の変遷について略述する。
現在の渋谷区の区域は、かつては武蔵国豊島郡に属していた。後に渋谷区となる区域は、近世末には上渋谷村、上豊沢村、中渋谷村、中豊沢村、下渋谷村、下豊沢村、千駄ヶ谷村、穏田村、原宿村、代々木村、幡ヶ谷村の11村と麻布広尾町、渋谷広尾町、渋谷宮益町などの町に分かれていた。
慶応4年7月17日(1868年9月3日)、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、それまでの「江戸」が「東京」に改称され、東京府が設置された。以後、1889年(明治22年)に東京市が発足するまでの過渡期には、東京府の行政区画はめまぐるしく変遷し、番組制、大区小区制、15区6郡制等と呼ばれる制度が相次いで実施された。
現・渋谷区の区域については、中渋谷村、下渋谷村、下豊沢村、千駄ヶ谷村、原宿村、麻布広尾町、渋谷広尾町、渋谷宮益町は東京府に編入された。残余の上渋谷村、上豊沢村、中豊沢村、下渋谷村、下豊沢村、穏田村、代々木村、幡ヶ谷村は、武蔵知県事の支配を経て、明治2年から4年(1869 -
1871年)までは品川県に属していた。
明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県が実施された。同年11月(1872年1月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止されて、新しい東京府が設置された。同時に府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、大区小区の区割りが見直され、あらためて11大区・103小区が設置された。後に渋谷区となる区域は、このうちの第7大区第1小区、及び第8大区第1・3小区に属していた。
その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)が置かれた。現・渋谷区の区域は、このうちの南豊島郡の一部、及び麻布区・赤坂区の各一部にあたる。
明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、東京市(15区からなる)が成立、東京府下の6郡は、既存の町村が整理統合されて85町村となった。85町村のうち南豊島郡に属していたのは2町6村で、このうち現在の渋谷区の区域に該当するのは渋谷村、千駄ヶ谷村、代々幡村の3村である。これら3村は、市制町村制施行以前に存在した町村の廃置分合によって成立した。新3村と旧町村の対応関係は以下のとおりである。
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渋谷村 - 上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村、麻布広尾町、渋谷広尾町、渋谷上広尾町、渋谷下広尾町、渋谷宮益町、渋谷神原町、青山南町七丁目、青山北町七丁目
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千駄ヶ谷村 - 千駄ヶ谷村、穏田村、原宿村
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代々幡村 - 代々木村、幡ヶ谷村
渋谷村の成立過程
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→詳細は「渋谷」を参照
渋谷区の前身である3村のうち、渋谷村と千駄ヶ谷村の成立過程は複雑であるので、以下に別途説明する。
後に渋谷村となる地区には、近世末には上渋谷村、上豊沢村、中渋谷村、中豊沢村、下渋谷村、下豊沢村の6村と渋谷広尾町、渋谷宮益町、麻布広尾町などの町地があった(他にいくつかの小規模な町があったが、明治初期までに廃止されている)。このうち、中豊沢村は明治7年(1874年)中渋谷村に編入、上豊沢村は明治12年(1879年)上渋谷村に編入、下豊沢村は同じ明治12年、下渋谷村に編入されている。
明治3年(1870年)、渋谷広尾町が渋谷広尾町・渋谷上広尾町・渋谷下広尾町に分割。明治5年(1872年)には渋谷神原町が起立された。このほか、同じ明治5年に成立した青山北町一〜七丁目、青山南町一〜七丁目の各一部(それぞれの七丁目のみ)も後に渋谷村に編入されている。
明治11年(1878年)、東京府に15区6郡が設置された際、上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村は南豊島郡の村となり、渋谷広尾町、渋谷上広尾町、渋谷下広尾町、麻布広尾町は麻布区(港区の前身)、渋谷宮益町、渋谷神原町、青山北町一〜七丁目、青山南町一〜七丁目は赤坂区(港区の前身)にそれぞれ所属した(渋谷神原町は明治19年、赤坂区から麻布区に編入)。
明治22年(1889年)、町村制施行に伴い、上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村と、麻布区の一部(渋谷広尾町、渋谷上広尾町、渋谷下広尾町、麻布広尾町<一部>、渋谷神原町)、赤坂区の一部(渋谷宮益町、青山北町七丁目、青山南町七丁目)が合併して南豊島郡渋谷村が成立。旧3村と8町はそのまま渋谷村の11の大字となった。
千駄ヶ谷村の成立過程
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後に千駄ヶ谷村となる地区には、近世末には千駄ヶ谷村、穏田村、原宿村の3村と千駄ヶ谷町、千駄ヶ谷大番町などの町地があった。
明治5年(1872年)、千駄ヶ谷町が千駄ヶ谷一〜三丁目となり、同年までに千駄ヶ谷仲町一・二丁目、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町が成立した。
明治11年(1878年)、東京府に15区6郡が設置された際、千駄ヶ谷村、穏田村、原宿村は南豊島郡の村となり、千駄ヶ谷一〜三丁目、千駄ヶ谷仲町一・二丁目、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷大番町の計8町丁は四谷区(新宿区の前身)の所属となった。ただし、これらの8町丁は翌明治12年、四谷区から千駄ヶ谷村へ編入され、町名の一部は同村の小字となり、一部は消滅した。
明治22年(1889年)、町村制施行に伴い、千駄ヶ谷村、穏田村、原宿村の3村が合併して新しい千駄ヶ谷村が成立。旧3村はそのまま新・千駄ヶ谷村の大字となった。この際、旧千駄ヶ谷村のうち字西信濃町・甲賀町・大番町・火薬庫前・川向・池尻・霞岳(かすみがおか)は分離して、再び四谷区に所属した。千駄ヶ谷村から再び四谷区へ移った地域は、かつての千駄ヶ谷一丁目、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷大番町の区域で、現行の新宿区大京町の南部、信濃町の西部及び霞ヶ丘町に相当する。また、原宿村の飛地(字五反田)の内、北半分が赤坂区へ南半分は麻布区に編入された(現・港区南青山四丁目の一部)。
千駄ヶ谷村は明治40年(1907年)、渋谷村は明治42年(1909年)、代々幡村は大正4年(1915年)にそれぞれ町制を施行して、千駄ヶ谷町、渋谷町、代々幡町となった。
渋谷区成立以後
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昭和7年(1932年)10月1日、東京市は周辺の5郡(荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾)に属する82町村を編入し、いわゆる大東京市が成立した。なお、従前の6郡のうち、南豊島郡と東多摩郡が明治29年(1896年)に合併して豊多摩郡となっている。編入された82町村は20区に編成され、東京市は既存の15区と合わせ、35区から構成されることとなった。この時、千駄ヶ谷町、渋谷町、代々幡町の区域をもって渋谷区が新設された。
昭和18年(1943年)7月1日、東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が設置された。この時、渋谷区を含む35区は東京都直轄の区となった。昭和22年(1947年)3月15日、35区は22区(同年8月、板橋区から練馬区が分離して23区)に再編されるが、渋谷区の区域には変更はない。
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