ドキュメント 平成政治史1 後藤謙次 2024.11.17.
2024.11.17. ドキュメント 平成政治史1 崩壊する55年体制
著者 後藤謙次 1949年東京生まれ。73年早大法卒。共同通信社、自民党クラブキャップ、首相官邸クラブキャップ、政治部長、論説副委員長、編集局長を歴任。現在はフリーの政治ジャーナリスト。共同通信客員論説委員
発行日 2014.4.17. 第1刷発行
発行所 岩波書店
『ドキュメント 平成政治史』(当初は全3巻)の第1
続刊は、 『2 小泉劇場』(小渕・森・小泉内閣)
『3 幻滅の政権交代』(第1次・2次安倍内閣、民主党政権)
『4 安部「一強」の完成』
『5 安部「超長期政権」終焉』
まえがき
日本の税制史上初の大型間接税である消費税導入関連法案が参院で可決、成立したのは1988年のクリスマスイブ。竹下は「天皇陛下がご病気と闘い続けて下さったお陰」と感謝
以後4半世紀、首相は18人、在任平均1年4カ月で目まぐるしく交代
消費税問題は、平成政治を貫く最大の政治テーマ
衆議院の小選挙区比例代表並立制への変更も同様――リクルート事件をきっかけに政治改革への大きなうねりが来て、93年には自民党1党支配終焉をもたらすが、同時に導入された政党助成制度が絡み合って執行部の奪い合いによる党分裂の常態化が多党化現象を招来、政治家・政党の最優先順位が「生き残り」に成り下がる
参議院の壁も政治の停滞・混迷を招く――「衆参ねじれ」が衆院側のパワーを減殺し、参院の問責決議が内閣不信任決議に匹敵する重みをもち、短命内閣の原因となる
平成時代の日本政治に決定的な影響を与えたのが国際社会の激変――冷戦終結・湾岸危機・9.11・極東情勢
混迷の続く平成政治、どこで間違ったのか、4半世紀を経てなお出口が見えない平成政治を改めて原点に戻って振り返る必要がある
本書は、平成の日本政治の流れを源流に遡って検証するに当たり、個々の政治家の肉声を交えて記録に残すことを試みたもの
第1章
昭和から平成へ 竹下登内閣(1987.11.~1989.6.)
竹下は中曽根の指名で新総裁に就いたが、「天皇問題」を巡って条件が付く――①(天皇崩御に備え)藤森昭一(中曽根内閣官房副長官)を宮内庁著官に任命、②皇位継承などの憲法問題に絡む行事の遂行には後藤田(官房長官)と藤森の間の計画を実行する、③新内閣発足までに崩御された場合は中曽根内閣が継続する
現行法には大喪の礼の具体的内容の記載はなく、前例を参照しながら、新天皇の国事行為として内閣の責任で行うこととなるが、基本方針の中で徹底して貫かれたのは憲法の順守と皇室の伝統との調和と整合性。その象徴的なシーンが、天皇の即位後朝見の儀でのお言葉で、「憲法により皇位を継承」「皆さんとともに憲法を守り」と2度にわたり憲法に言及
リクルート事件を契機に、竹下改造内閣が政治改革の目玉としたのが中選挙区制の見直し
竹下自身にも新たな献金疑惑が報じられ、盟友の幹事長安部晋太郎の緊急入院で辞任を決意。内政面での貢献は、「ふるさと創生」。具体化した裏には財政のゆとりがあった
第2章
超短命・非派閥領袖政権 宇野宗佑内閣(1989.6.~1989.8.)
後継の宇野は俳句も絵も玄人はだしの文化人。シベリア抑留の過去を持つ
竹下の意中の人は伊東正義だったが固辞され、暫定色強い宇野となり、周辺の主要人事は既に決まっていて宇野には人事権すらなかった
海外から下ネタスキャンダルが飛び込み、最初の参院補選で惨敗し、以後過半数割れが4半世紀続く。参院選でも土井が「山は動いた」と勝利宣言し、保守合同以来初めて参院で与野党が逆転、「ねじれ国会」が現出。宇野は「明鏡止水」の言葉を残して退陣
宇野の短命内閣は後の日本政治にとって大きな意味を持つ――従来の総裁=派閥の領袖という自民党政権の不文律が破られた。派閥の溶解現象の始まり
第3章
内外情勢に翻弄された竹下派「傀儡政権」 海部俊樹内閣(1989.8.~1991.11.)
1.
「選挙管理内閣」の宿命
金丸の消費税リコール発言に怒り心頭の竹下が担ぎ出したのが海部、昭和生まれ初の宰相
ただ、幹事長は金丸と安部が強く推した小沢となり、反主流派狩りが始まる
90年の衆院選挙は、政権選択選挙。小沢の党内での評価が上がる
2.
日米構造協議と湾岸戦争
衆院選は、自民党が安定多数を回復、社会党も大きく飛躍し、自社2大政党型選挙となった。小沢は勝利の立役者として一躍脚光を浴び、「小沢神話」が始まる
海部は勝利後の人事でも派閥力学に翻弄され、リクルート関係議員の復活を認めて国民の不満を買い、政治改革のおおきなうねりの顕在化を招く
日米構造協議では、貿易赤字の改善で大幅な譲歩を迫られ、大きな政治課題となる
国会や政局運営については、「金丸―小沢ライン」に全面依存する「権力の二重構造」が確立
90年8月、イラクのクウェ-ト侵攻開始
「国際平和協力に関する合意」が自民・公明・民社の3党でまとまり、PKO協力法成立に繋がると同時に、野党の枠組みに楔が打たれる
3.
退陣を呼び込んだ「重大な決意」
91年の都知事選で、小沢は公明の意を汲んで磯村を起用し、鈴木俊一を担ぐ自民党内の分裂選挙となり、磯村は破れて小沢が辞任するも、金丸が竹下派会長代行に抜擢
同年の総裁選では、政治改革の党内抗争で劣勢だった海部が退陣を表明、権力争いが再燃
第4章
最後の自民党単独政権 宮澤喜一内閣(1991.11.~1993.8.)
1.
ラストチャンスだった総裁選
「独自候補擁立論」から総裁候補乱立するも、小沢は心臓病で倒れて間もなく、竹下派のエース橋本は証券スキャンダルで謹慎。宮澤・渡辺・三塚の候補者を小沢が面接した結果、竹下派は影響力維持を目論み宮澤後継で落着。宮澤も人事では竹下派一任
2.
PKO法案と政治改革
人事を壟断した竹下派は、政権運営では「お手並み拝見」とばかり傍観者の立場をとる
PKO法案では、民社が造反。荒れる国会を強行採決で突破しようとしたが、継続審議に
政治改革も党の推進本部長が決まらないままで、宮澤は竹下派の全面支援に依存したため、政界再編へのマグマが動き出す
92年5月、前熊本県知事の細川が日本新党立ち上げ
後継の最有力候補だった渡辺副総理兼外相が胆嚢手術で辞意
3.
佐川急便事件の病巣
朝日のスクープを金丸が認め辞任。「金竹小」の権力構造が崩壊し、竹下派会長には反小沢の橋本・梶山らが担ぐ小渕が就任。小沢は竹下と決裂、自民党全体にも悪感情があった
4.
自民党一党支配の終焉
10月、天皇皇后両陛下の初の訪中実現したが、お言葉は「我が国が中国国民に対し多大の苦痛を与えた不幸な一時期があった。これは私の深く悲しみとするところ」とだけあって、政府として謝罪かどうかの解釈はしないとの立場をとる
佐川事件を巡り、国民の政治不信は収まらず、竹下は予算委員会に証人喚問され、金丸は脱税で逮捕
党内外に諸勢力が分立した挙げ句、宮澤内閣不信任案が緊急上程され、羽田を担ぐ小沢の暗躍により、羽田は閣僚が辞任して不信任案賛成に回る未曾有の造反劇となる
国会で解散詔書が読み上げられた日、武村正義以下10人が自民党を離党して「新党さきがけ」を結党。その流れに押されるかのように、羽田・小沢も自民党を離党して新生党を結成
第5章
55年体制に引導 細川護熙内閣(1993.8.~1994.4.)
1.
非自民の寄木細工政権
93年7月、東京サミットの最中に衆議院選挙実施――自民党は過半数割れ。小沢の新生党(55人)は連合の山岸に連立政権樹立の音頭を取るよう要請。さきがけ(13)と日本新党(35)は院内統一会派を結成、社会党は半減(70)する中、小沢が細川に連立政権のトップを働きかけ、非自民7党1会派による連立政権が事実上確定
自民党総裁には河野が就任するが、初の野党総裁
2.
数合わせの限界
選挙制度改革実現が最優先の合意で、小選挙区比例代表並立制と公費助成制度導入による企業団体献金廃止を期す
特別国会は冒頭から荒れ続け、国会運営を巡って混乱。閣僚経験者は羽田(副総理兼外相)のみで、この経験不足と寄り合い所帯という構造上の問題が政権の体力を衰弱させる
政策決定や国会運営に辣腕を振るったのが希少な経験者である新生党代表幹事の小沢
社会党が選挙惨敗で引責辞任した山花に代わって村山が委員長になったことで、政権内でのある種の距離感を生み一部に造反が出る
政治改革関連法案は、社会党の一部造反で参院で否決されたが、土壇場の両院協議会で蘇生・成立――小選挙区300、全国を11ブロックに分けた比例200の枠組みは現在も維持
3.
国民福祉税構想から突然の退陣へ
法案成立で連立政権を束ねる扇の要が失われ直後、小沢寄りになった細川が小沢と斎藤次郎大蔵次官の合作による消費税(3%)に代わる7%の国民福祉税構想を打ち出し、一気に政権崩壊に向かう。佐川グループから細川への資金提供問題が追い打ちをかけ、首相辞任へ
第6章
求心力なき「少数与党政権」 羽田孜内閣(1994.4.~1994.6.)
1.
幻の渡辺首班工作
細川せいけえん瓦解の最大の要因は、「武村・村山ライン」と「一・一ライン」の権力闘争
小沢はいち早く渡辺美智雄擁立に動くが、「権力の二重構造」による政権作りや政党の支配という小沢の成功体験は、渡辺の離党断念で頓挫するも、その後20年以上にわたって日本政治混迷の要因となる
連立与党は、最終的に閣外協力となったさきがけを除き、羽田で一致したが、首班指名直後に民社党が統一会派結成に動いたことが村山らの反発を買い、社会党が連立を離脱
2.
あっけなく崩壊した「一・一内閣」
羽田内閣は、実質「新生・公明連立内閣」
羽田は、誰からも警戒されず、敵もいない希有な政治家として特異な足跡を残すが、金丸が「平時の羽田」と評したように、過酷な政治状況下ではあまりにも非力
自民党からの離党は続き、細川政権の枠組みを残した形で羽田が政権を担っていたら、自民党は崩壊の可能性すらあったが、小沢の事を急いだ失敗によって自民党に曙光が差す
自民党の臨戦態勢のトップは小渕で、その背後には竹下がいた
与野党の低次元での攻防でキャスティングボートを握ったのが社会党、その流れで「自社さ連立・村山首班」の動きが出来。社会党内の議論も自民との連立への賛否が2分
先ず社会党とさきがけの共闘が成立、そこへ自民の働きかけが始まる
予算成立を待って自民党から内閣不信任案が提出されると、羽田与党には解散する体力はなく、連立与党の御前会議で自主的な総辞職が決まる。小沢は社会党を切って海部を担ぎ出そうとしており、一方で自社連携が進んで河野が村山首班を宣言。海部の離党ほか多くの造反を生み、政治家の怨念や市場が渦巻いた権力闘争の果ての社会党首班の「自社さ」内閣が誕生。そんな中、首班指名の前々日、松本サリン事件勃発
第7章
自民党延命の緊急避難政権 村山富市内閣(1994.6.~1996.1.)
1.
「こげなことになった」
新内閣には、野党転落後の自民党の切り込み隊長の野中や、3党連立工作で抜群の働きをした亀井が入り、遅咲きの実力者だが新政権にとって極めて重要な位置を占めるとともに、やがて政界の「新実力者群」の中でも際立った存在感を発揮、しばしば「台風の目」となる
直後のナポリサミットは、初めてロシアが政治討議に限って参加し、名称もG8 となったが、歓迎ポスターは羽田のままだった
初の臨時国会で村山は、「日米安保体制の堅持、自衛隊は専守防衛に徹する」と表明、社会党にも未来志向の合意を期待すると発言。事実上の「社会党の終焉」を意味する事件となる
村山は、韓国を筆頭に東南アジアを歴訪、各国で残された戦後処理に積極的に取り組む
2.
反村山の動きと新進党の誕生
村山による社会党の基本政策の大転換は、同時に社会党の解体を進める結果に――安保体制に続いたのが税制改正での消費税アップ
社会党内の反村山の動きが顕在化し、野党10党派が連携した新党構想が動き出し、小沢・市川の「一・一主導」の布陣が固まる。党首を海部にした衆参214名による新進党が結成されたが、内部の政策の違いは如何ともしがたく、政党というより選挙目当てに過ぎない
3.
阪神大震災・オウム事件
95年の阪神大震災では、淡々と予定された日程をこなしたことが「初動の遅れ」として政府批判を増幅。制度上の不備を補うだけの個々の政治家の能力・資源の乏しさが露呈
次いで地下鉄サリン事件勃発、オウム事件へと発展
政権を揺るがす相次ぐ事件で、村山が第1党以外の政権には限界があると吐露したことから、次の体制に向けた動きが活発化。自民単独政権に向け小渕派が橋本を担ぎ出す
戦後50年の国会決議をめぐり、「深い反省の念を表明」の文言に、遺族会を率いる橋本は反対せずとしたが、自民党50人に加え新進党全員がボイコットする中での採決となる
同年の参院選では新進党が得票1位となり、自民は戦後最低を記録、村山は河野への禅譲を表明したが、武村が反対して村山続投が決まり、河野も党内の反発を買う
4.
戦後50年の歴史的使命
村山改造内閣の最初の仕事は「戦後50周年に際しての談話」(村山談話)の閣議決定。自社内で激しい議論となったが、村山個人にとってこの談話こそが最高の勲章となったようだ
自民党内では、復党した竹下が総裁選に向けて動き出し、橋本時代を現出したことで、村山政権も大きく変質。新制度での総選挙に向けた政治の大きなうねりが動き出す
沖縄の少女暴行事件が発生し、日米同盟が危機に直面し、村山内閣の体力は限界に
新進党も、新進党の有力支持母体だった創価学会の勢力を削ぐための宗教法人法改正への小沢の強引な対応に反発した旧公明党らの動きから、小沢を党首とする体制に移行
年明けに村山が退陣表明。社会党は社会民主党と名称を変更、戦後史からその名を消す
第8章
経済危機に散った自民党復活政権 橋本龍太郎内閣(1996.1.~1998.7.)
1.
住専問題と普天間返還合意
橋本内閣の最初の仕事が住専処理問題。巨額の公的資金投入に新進党が力づくで反対するが、最後は一龍の党首直接会談で決着。「保(自民)保(新進)連合」と報じられる
日米間では、クリントンの来日を機に普天間の5~7年以内の変換に合意するとともに、冷戦構造崩壊後の日米安保体制の再定義が行われ、自国防衛から、極東地域全体への抑止力拡大と極東有事を睨んでの日米防衛協力の強化へと質的に大きな転換を遂げる
政治の停滞に鳩山安子が動き、2人の息子による新党結成が動き出す。由紀夫はさきがけから、邦夫は新進党から飛び出し、菅直人もさきがけから合流
9月には小選挙区比例代表並立制による初の解散となり、議員の離合集散の動きが表面化。鳩山は民主党を立ち上げ、菅が共同代表となり、57人の議員が第3党に結集
社民党も村山と土井の「2人党首制」に移行
初の小選挙区制による選挙では、多くの大物政治家が落選、新旧交代を印象付ける結果に
2.
一龍対決
‘96年の選挙は各党とも候補者調整が難航、熾烈な公認争いを展開。特に旧群馬3区は「上州戦争」といわれ、中曽根・小渕・福田(康夫)の三つ巴となり、竹下裁定で中曾根を「終身比例第1位」とし、残りを新4・5区公認として決着
結果は、自民党が過半数251には届かなかったが、28増の239議席を占めて圧勝。新進党は4減の156議席にとどまる。民主党は52の現状維持。社民(15)・さきがけ(2)が惨敗。新人115人が誕生(菅義偉、田村憲久、渡辺喜美、安住淳、河野太郎、平沢勝栄)
自民党は新進党の個別撃破に出て、何とか過半数を確保し、橋本内閣誕生
最優先課題は、行財政改革。4人の閣僚経験者を政務次官に配して「官」に睨みを利かせた
小沢・羽田の決別で新進党は混乱、高市・船田・石破・愛知など続々と自民党に復党し、自民党は97年9月には衆院での単独過半数を回復
3.
「火だるま行革」の蹉跌
橋本は「日本版金融ビッグバン」の推進者だったが、業界の不祥事が続発。金融監督庁発足
沖縄の米軍用地の継続使用のための県知事の代理署名を巡って自社が決裂、関連特措法改正の採決では「保・保連合」が復活。その流れに顔を出してきたのが中曽根。土光臨調で中曽根を支えたのが橋本という関係
97年の総裁選で無投票で勝った橋本は内閣を改造、中曽根の押しで行革担当の総務庁長官にロッキードで落選した佐藤孝行を起用したのが致命傷。世論の反発にあって更迭せざるを得ず、「火だるま行革」を掲げる橋本改造内閣は最初から躓く
銀行・証券の大型倒産が続く中、橋本は「行革・外交三昧」で緊急事態への対応に動かず
財革法を成立させ、1府21省庁体制から1府12省庁への再編基本法案も通す
橋本が政策の優先順位を大きく見誤ったことは、その後の長いデフレ経済が証明している
大型金融機関の破綻は、橋本政権の限界を浮き彫りにし、政局転換(首相交代)の動きが顕在化。新進党の退潮で、旧公明党復活論が急浮上。それに合わせて自民党内に創価学会接近の動きが出る。新進党の総裁選では、反小沢勢力の台頭で、小沢は突然解党を宣言
98年、新たな「民主党」が発足。菅を代表に衆参131人、2大政党制を目指しチャレンジ
普天間の移設先を名護市キャンプ・シュワブ沖とする決定に地元が猛反発、名護市長選で自民が勝利するが、土井は公然と反対派を応援、最終的に連立解消で合意
金融機関を巡るスキャンダルは自民党にも飛び火。利益供与を受けた新井将敬が標的となり、地検の衆院への逮捕許諾請求に対し加藤紘一幹事長は離党を勧告、新井は自死をもって答えた――金融危機から98年3月にかけての5カ月の政界を覆った空気は異常。長く続いた自民党政権下で増殖していた「護送船団方式」と呼ばれた馴れ合い政治が行き着くところまで行き、船団の解体のみならず構成していた船舶までが難破・沈没していった
衆院補選での5連勝が橋本政権の崩壊を押し留めたが、夏の参院選では、投票時間の2時間延長もあって投票率が前回の44.5%から58.8%に急上昇。無党派層の批判票が自民の議席を61から44へと激減させ、橋本は退陣を表明
佐藤・田中・竹下に連なる保守本流のエースは余りに多くのものを同時に求め過ぎた結果、経済・景気の激変に臨機応変の対処が出来ず、自らの政権の寿命も縮めた
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昭和から平成へと変わった1989(平成元)年は,消費税の導入とリクルート事件で幕を開けた.それを契機に高まった政治不信のうねりは,やがて自民党長期一党支配を終焉させ,小選挙区制の導入を柱とする〝政治改革〟をもたらすに至るが…….竹下登内閣から橋本龍太郎内閣までを描く.
■編集部からのメッセージ
政治記者として,30年以上もの取材経験をもつ後藤謙次氏は,日本政治の転換点の現場に幾度も立ち会ってきました.現在も地道な取材を続けるかたわら,テレビやラジオのコメンテーターとしても活躍中.後藤さんの手元には,多くの政治家たちの肉声を書きとった膨大な取材メモや記録が大量に残されています.それらを駆使して,平成時代の日本政治の歴史を克明に描き出します.現在では,すっかり忘れ去られているものの,その後の政治の流れを変えるきっかけとなった出来事,この25年間に現れた多くの政治家たちの言動・横顔などが記されます.今の「政治」は,どうしてこのような姿となってしまったのか? それを考える上でも必読です.
「ドキュメント平成政治史」書評 権力闘争の実相、舞台裏から検証
評者: 島田雅彦
/ 朝⽇新聞掲載:2014年10月19日
ドキュメント平成政治史 (1)崩壊する55年体制(2)小泉劇場の時代 [著]後藤謙次
目下の日本の政治はほとんど戦前の大政翼賛会の様相を呈してきた。過去の自民党の体質を知る人々も、保守主義の変質、リベラリズムの衰退、寛容さや多様性の欠如を指摘しているが、その原因はやはり平成以降の政治的混乱にあるだろう。本書は平成の十七人の首相の功罪、権力闘争の内幕、永田町の人間関係、政策決定までの道程などを舞台裏ウオッチャーの眼差しで検証したクロニクルである。政治家たちの経歴や性格、個人的な恨みや欠点まで見据え、日本の政治的決定がいかに戦争、占領、経済成長といった過去や政治家個人の履歴に縛られているかが如実に示されている。すでに近過去の出来事も忘れられつつある中、平成の政治も歴史記述の対象となったが、人材劣化の歴史を追いかけざるをえないようである。
1955年の結党以来、ほぼ60年にわたり政権中枢に居座り続け、よくも悪くも保守主義の温床であり続けた自民党はもともと、占領時代に民主化を進めたリベラル派と占領時代に公職から追放されていた戦前回帰志向の保守派の野合によって生まれた経緯がある。それゆえ、護憲派VS.改憲派、国際協調派VS.独自路線派、あるいはハト派VS.タカ派といった対立軸を内包していた。立場を同じくする政治家たちは折々で、宏池会とか、青嵐会とか、経世会といった派閥を形成し、熾烈な権力闘争を展開するようになった。本書の記述を忠実になぞれば、『仁義なき戦い』の政界シリーズが作れる。
中庸の保守政権が続いた昭和末期から平成になると、田中角栄の弟子たちによる経世会が数的優位を生かし、その領袖である竹下登に代表される調整型の政権運営が中心になる。海部内閣や宮沢内閣を背後で操るような経世会の「院政」がしばらく続く。平成初期は昭和天皇崩御、湾岸戦争、ソ連邦崩壊と世界の激動があり、次いで阪神淡路大震災などの天災、オウム真理教事件など人災があり、またバブル経済が終焉を迎え、アメリカの一極支配の時代を迎えた。
国民からは誰がやっても同じと思われ続けた首相の座には、内外の混乱に対応するにはあまりに内向きかつナイーブな人々が座ってきた。平成の25年間だけで17人。野党の攻勢も強かったし、自民党内部でも異論、反論が多かったので、説得力のある理念や政策なしには政権運営ができなかった。だが、今この時期なら、誰が首相を務めても長期政権になるだろう。周りはお友達だらけだし、野党からの突き上げも恐れるに足りないし、露骨に国家主義を振りかざしても高い支持率を維持できるのだから。だが、次の政権はその尻拭いに大いに苦慮することは確実だ。
◇
岩波書店・各2484円、最終第3巻は12月刊行予定/ごとう・けんじ 49年生まれ。共同通信社記者からフリージャーナリストに。82年から政治の現場を取材。著書に『日本の政治はどう動いているのか』『竹下政権・576日』『小沢一郎50の謎を解く』など。
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