新・手紙読本 村尾清一 2013.6.28.
2013.6.28. 新・手紙読本
著者 村尾 清一(むらお きよかず、1922年 - )は、日本のジャーナリスト、文筆家。 香川県生まれ。東京大学法学部政治学科卒業。読売新聞社社会部記者、論説委員(69年から18年間『よみうり寸評』担当)、取締役を経て、日本エッセイスト・クラブ理事長、会長。1981年日本記者クラブ賞受賞。「死の灰」の造語者。著書に『鉛筆の芯-よみうり寸評17年』など
発行日 1987.6.15. 第1刷発行
発行所 講談社
本田靖春『我、拗ね者として生涯を閉ず』で絶賛、著者の先輩で、日本を代表する文章家の1人とする
言葉に心が籠ることの大事――山本健吉
書簡を書くことが少なくなったのは、まず第1に電話の普及があるが、それを認めた上で、村尾氏はなおかつ、電話だけでは代行できない、いろいろの場合があることを挙げる
この書から受けた最大の感動は、村尾氏が常に、言葉に心が籠ることの大事を言っていること ⇒ 終戦直後に天皇が皇太子に宛てた手紙で、敗因について率直に意見を吐露している
種々心のこもった手紙の紹介を通じて、村尾氏自身の「心」と「人柄」が漲り、広がり、読む心にひしひしと伝わってくることを感じる
² 現代手紙事情――現代人はなぜ手紙を書かなくなったのだろう?
戦後の日本人が、考えながら一生懸命、手紙を書く習慣を失ってしまったのは、電話の発達だけが理由ではない
フランスで電話が発達しないのは、電話よりも手紙(その日のうちに着く)や直接会いに行くのを好むから
イギリスでは手紙が必須。アポイントを取るにしても電話の後必ず手紙を書く
英国人にとって、「私は筆不精で」という弁解は、「社会生活の不適格者」という告白と同じ
フランスでも、電話より手紙 ⇒ エチケット集にも「手紙には必ず返事を、それもなるべく早く」とある
手紙を書くのが億劫、面倒という人のために昔の人が考え出したのが、手紙の形式、手紙を書くときの決まりで、手紙の書き方のABCを知っておくと書きやすい
目上には葉書より封書 ⇒ 古い
「拝啓」には「敬具」、「前略」「冠省(かんしょう)」には「早々」「不一(ふいつ)」で結ぶ
まず相手の安否を尋ねたのち、自分の近況に及ぶ
後付けに日付、署名、宛名を欠かさない
住所は必ず書く
「追伸」や「二伸」は目上の人や凶事の手紙には書かない
封筒の締めは「〆」は略した形、「封」か「緘」が丁寧
タイミングを失った長文の丁寧な礼状よりも、短いがすぐ書いた礼状の方が喜ばれる
心得 その1.書き出しの挨拶。拝啓、急啓、前略等。葉書なら冠省。絵葉書は無用
心得 その2.時候の挨拶もいくつか型を覚える ⇒ 「残暑の候」「新秋のみぎり」
心得 その3.返信等が遅れた場合のお詫びの型 ⇒ 早速お手紙を差し上げなければなりませんのに、心ならずも延び延びになり申しわけございません
封書の宛名の横に書く「脇付け」 ⇒ 「平信」「侍史」「机下」「御許に」
漱石 ⇒ 自分のことは大抵の場合名だけ書いて姓は書かない。目上には相手の姓だけあるいは号を書いて名は略す。自分の号を書くのは失礼。同等の場合は署名・相手とも姓名を書く。懇意か目下宛の場合は両方とも名だけでも可
自分を卑下するときは名を書き、相手を尊敬するときは姓を書くのが原則
「殿」と「様」 ⇒ 私信では「殿/どの」は目下宛。「殿」は「様」より低い敬称。江戸時代武士の間で用いられた「殿」が明治以降官公署でそのまま使われ、官尊民卑の臭いさえついた
葉書は10行で200字以内、7行で120字程度がきれいで読みやすい
吉田兼好 ⇒ 手の悪き人のはばからず文書きちらすはよし
候から「です・ます」へ ⇒ 太宰治が、悪党と憎んだ川端康成に芥川賞を懇請した手紙も、「私を見殺しにしないでください」の「です・ます」体であるために惨めさが目立つ
誤字当て字 ⇒ 「署(暑)中お見舞い」(選挙違反で勾留中の候補者が有権者に出したもの)、「胸褌(襟)を開いて」(同窓会の案内状)、「パパ約束ね。バットを坊やと持(待)ってます」(夫に宛てたママのメモ)
灯下(火)親しむ、応待(対)、一陽来復(陰暦11月から冬至の頃に使う、春ではない)
團伊玖磨氏は、宛名が「団」になっている手紙は読まない
「姉(柿)も色づき始め」、「芸者達(達者)も取りそろえ」、「藷(いも、諸)先生」、「墓(暮)れも押し迫り」、「お呪(祝)い」、「他人(ひと)事」
癪に障る手紙をもらった時の対応 ⇒ すぐ報復せずしばらく待つ、穏やかに、冷静に行動したという満足を持つべき。有島生馬(3兄弟の2番目)が留学から戻って同家の女中の恋人と結婚の意思がないと言ったのに怒った幼友達の志賀直哉が、『蝕まれた友情』を書いて絶交した時、生馬の手紙は冷静で毅然としているのに感心、それがお互い最後の手紙
石川啄木の手紙は、時に巻紙で2間(3.6m)に及び、もらう相手が郵便料不足で迷惑したというが、その手紙が啄木の小説や詩、評論の下書き、初稿の役目を果たしていた
簡潔な手紙を書くには、書く前に別紙に用件を箇条書きにするといい
返事(いらえ)はその日のうちに ⇒ 出さないのが一番下手、その日のうちに書くのが最上、時間がたつほどよくない
電話と手紙は併用すること ⇒ 目上の人へのお礼は決して電話で済ませてはいけない
² 心を伝える手紙――自分の気持ちを素直に相手に伝えるには?
元旦に届くように年賀郵便の取り扱いが始まったのは明治32年から
「早々に年賀状をいただき」は失礼、「御丁寧な」辺りの気配りが欲しい
年賀状の効用 ⇒ ①交際における時効の中断、②生存証明、③仲間意識の確認
不用意に書くと、書いた者の心の底が見透かされる
手作りのものが最高だが、好きな俳句などを書き添えるのもよし
7日過ぎたら寒中見舞い
年賀欠礼は1親等までが常識、出状先も個人的付き合いのある範囲の人に限るべき
喪には忌(謹慎、49日)と服(喪服を着て祝い事を慎む、1年)がある
短さが命 ⇒ 夏の便りは短いほうがよい
春寒料峭(しゅんかんりょうしょう) ⇒ 立春の後の寒さを言う時に使う。「料」は「はかる」、「峭」は「きびしさ」。身辺の自然を短く取り入れるのがコツ
投書のマナー ⇒ 抗議文も率直であれば憎めない
² 歴史を語る手紙――遺された手紙から歴史と人間をさぐる
親鸞の実子・慈信を勘当した時の手紙
手紙に見る秀吉夫人・おね ⇒ 自筆の手紙二十余通が残る。達筆
利休切腹のナゾを解く ⇒ 死の直前大徳寺聚光院宛に「橋立の壺」の保管を依頼した手紙
伊達政宗の鶺鴒の花押 ⇒ 秀吉に反抗する一揆を煽った嫌疑で追求された際、証拠の政宗の手紙の花押に穴が開いていないと言い訳して疑を晴らした
マッカーサーの日本人12歳説 ⇒ 「東洋人は、勝者にへつらい敗者を蔑む習性が強い」と常に語り、在日の5年8か月の間に50万通とも言われる寄せられた手紙から、「日本人12歳説」を述べた
² 愛を言葉にする手紙――古今東西の恋文にはそれぞれの思いが…・
一般に男性の手紙が論理的だが抽象的なのに比べて、女性の手紙はたいてい感性的で極めて具体的
愚かなる父の手紙 ⇒ 福澤諭吉は9人の子福者末娘が邸内の別棟に住む外人教師の飼い犬に追われ転んで怪我したのに対し、「いかなる事情にても犬を逐出すべし」と指示
マルクスは、4つ上の貴族令嬢と結婚、赤貧の窮状を親友のエンゲルスに訴え、その援助で生き延びていたが、子供を相次いで亡くし妻も失って2か月後に65歳で死去
新渡戸稲造と母 ⇒ 9歳で上京した息子宛に母は頻繁に手紙を書く。札幌農学校に転校し眼病から神経衰弱となった時、母から「病なら知らせろ」と来たのに対し稲造はありのままを父に知らせ10年ぶりの帰郷を許され、玄関に出迎えた母の妹を母と間違えて笑いかけた。母は乳がんで2日前に亡くなっていた
ラブレターは、卑屈さ、しつこさ、強引さ、無神経さを少しでも相手に感じさせたらおしまい。簡潔で、品位を失わず、率直に、抑制を忘れずに。激しい情念を抑えることで相手への愛情をさらに感じさせることが出来れば最高。いかに情熱的でも、他人に見られた場合、せめて滑稽だと思われない程度の手紙でありたい
源氏物語54帖のほとんどすべての帖に手紙が出てくる ⇒ 人が見ても、誰から誰へ、何を言っているのか、掴めないよう極力言葉を節約するのが礼儀だった
最愛の少女への詩人の手紙 ⇒ ジョン・キーツが遺した39通のラブレターのうち、死の5か月前に書いた最後の恋文は、婚約の破棄を拒絶する5歳下の娘に「死ぬまで誠実なあなたの腕に抱かれていたい」と書く
恋文が電話にとってかわられてというのは間違い、執拗なほど何度も何度も相手の心の奥底に迫ることができるのは紙の上に書かれた愛の文字で、文字という形になった心ほどの贈りものはない
愛する人へ ⇒ アラバマ州判事の娘ゼルダ・セイヤーが、後の『グレイト・ギャッツビー』『ジャズ・エイジ』の著者スコット・フィッツジェラルドに送った3通の恋文。翌(1920)年2人は結婚し、才能と魅力でジャズ世代のアイドルとなったが、妻の精神障碍と夫の飲酒によって痛ましい結末に。青春時代に一番純粋なものを燃やした女性は、命の火が早く尽きてしまうのだろう
55歳の男の恋文 ⇒ 斎藤茂吉が、子規のふた従妹で松山から「アララギ」入門のため上京してきた永井ふさ子に溺れ、ふさ子も親の決めた婚約を破棄するが、戦争の激化とともに離れ離れとなる、戦後茂吉は不死鳥のように復帰、妻も戻るが、ふさ子へは一瞥もせず、ふさ子は茂吉の活躍を新聞で知るだけだった。敗戦の年にふさ子宛に送った手紙が、「蔵王にはまだ雪が降る。もう遙かになりました」
恋文の本質は、自分を奴隷に、相手を神に祭り上げること ⇒ 谷崎が再婚した大阪の富豪の妻根津松子に宛てた手紙では、被虐的なまでひれ伏して、みっともない感じさえする
女性が、自分の好きでもない男性に対して冷淡かつ残酷なことは、想像以上 ⇒ 恋文など滅多なことで書くものではない(平気で他人にも見せる)
² 人柄が偲ばれる手紙――ちょっといい手紙を紹介してみると…・
筆まめだった福澤諭吉 ⇒ 2200余通が残る。肉親への手紙が面白い
学生時代の漱石と子規 ⇒ 現存するもっとも古い漱石の手紙は、突然喀血した子規が医師の警告を無視して出歩き、再び喀血したのを気遣って入院を勧めたもの。この時漱石が子規のことを「時鳥」として句を詠んだ(漱石の最初の俳句)のがきっかけで、「泣いて血を吐くほとゝぎす」の意味で「子規」と号し、漱石も頑固者という意味で「漱石」のペンネームを使い始めた
鷗外から妻へ ⇒ 40代半ばの鷗外が満州から東京の若く美しい妻に宛てた手紙は、他の書簡に比べて格段に魅力がある。候文ではなく、愛情に溢れた内容
露伴、アンケートに答える ⇒ 文章力と文字の品格は傑出。読売新聞等ジャーナリズムに関係していた時はアンケート類にも律儀に答えている。「読書はいつする」と聞かれ、「読書時を選ばず。書あれば読み、暇あれば読むのみ。欲するところは午前、簷前(えんぜん:ひさし)の細雨、簾外の微雪。寒夜孤燈、茶冷鼠驕、亦復悪しからず」
啄木の手紙 ⇒ 26歳で窮死したが500余通にも上る手紙を遺す。幼少から故郷を離れ放浪や貧窮を重ねたので、人に物を頼み、懇願し、弁解するため、必要に迫られて書いた
山口誓子 ⇒ 幼くして母に自決され遺された4人兄弟のうち双子の姉妹は神戸と東京へもらわれていく。東京で芸者になった1人(下田実花)は、呼ばれていった家で旧制三高生の兄に出会い、芸者の身を恥じる。4年後東大生になった兄に手紙を出したその返事には、「お前の商売をとやかくは言わない。わが兄妹は不運だが、愚痴はこぼすまい。忘れてならないのは肉親の愛情だ。世の中すべてがお前に背いても私の愛情にすがることを忘れてはならない」
「こころ」の形見 ⇒ 里見弴が赤坂の芸者(本名・遠藤喜久)と相思相愛となり、終戦直前に上田に疎開した時にお互いに交わした手紙が彼女から142通、里見から83通、彼女の死後『月明の径』にまとめて発刊。里見の評は、「”手紙美人”で、手紙だとなかなかしおらしく、ついほろりとさせられる」と手強い
山本有三 ⇒ 戦後参議院議員として、年齢の数え方を”数え”から”満”にして1歳若返らせた。苦学して28歳で東大独文を卒業。婚約時代の手紙に、「父上に見せても構わない」と書いたところ、相手の父親から「私に読まれるという心で書かれるのは断る」と言われ、有三が感激したという
老作家から若い女性へ ⇒ 谷崎が渡辺千萬子に宛てた手紙が200通ほどある。3度目の妻・根津松子の連れ子の妻で「瘋癲老人日記」のモデル。「スラックス姿が大好き、あの姿を見ると何か文学的感興が湧く」と書く。20数年前、妻となる松子に出した手紙に「今日から御主人様と呼ばして頂きます」を思い出させるもので、谷崎が死ぬまで書き続けるためには、絶えずその前にひざまずく女性が必要だった(千萬子の娘・たをり『祖父谷崎潤一郎』)
志賀直哉の2800余通 ⇒ もらった手紙が3400通、うち1000通が全集別巻の書簡集に収載。異母妹に宛てた華族との縁談に反対する手紙、「モーパッサンの『女の一生』を読むことを勧める。嫌な人間を夫に持った女の一生が如何に不幸であるかを知るのにいい本」
福原麟太郎の手紙 ⇒ エッセイの名手。筆まめ
あとがき
ある全国組織の機関誌に『てがみ随想』と題する短文を書き始めたのが十年前。百十数篇連載したものを纏めて本書にした。手紙はドラマであり、生活であり、何より人間である。手紙を見れば、それを書いた人が何者であるかが分かる
手紙の極意は、とにかく手紙を書くことに尽きる。当たり前だが実際に行うのは難しい。それは生活を変え、心を入れ替えることに他ならない
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