命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民 山田 純大 2013.6.11.
2013.6.11. 命のビザを繋いだ男 小辻節三(こつじせつぞう)とユダヤ難民
成城学園初等学校卒。ハワイの中学・高校を経て、ハワイ大学から転校しペパーダイン大学国際関係学部アジア学科卒。1997年、NHK連続テレビ小説『あぐり』で俳優デビュー。その後も、TBS人気時代劇『水戸黄門』(渥美格之進役)、映画『ムルデカ17805』(主演)『男たちの大和』など、映画・テレビで活躍。 『あぐり』、『貫太ですッ!』の脚本を務めた清水有生とは親交が深い
発行日 2013.4.25. 第1刷発行
発行所 NHK出版
テレビ番組『徹子の部屋』に出演した際に本書に言及
Ø はじめに
1940年ナチスに追われたユダヤ難民がリトアニアのカウナス日本領事館に日本へのビザを求めて殺到。杉原領事代理の機転で日本通過を許可するビザが発給され、難民が日本へと向かう ⇒ 最終目的地はカリブ海のオランダ領キュラソーとなっていたが、彼等が望んでいたのはアメリカやパレスチナ、カナダだった
受入国のビザを持っていたのは一部の富裕層のみ
受け入れ先の決まっていない約5千の難民は神戸で待機するしかなく、許された滞在日数は多くても10日ほど。その間に目的地の国と交渉してビザを取得し船便を手配するのは不可能であり、延長を求めても許可はされず、強制送還しかない
小辻は、神戸に辿り着く難民の窓口となり、日本政府と交渉し、ビザの延長を実現
ビザがないために日本に入国できない日本海船上の難民にも救いの手を延べ、日本で安心して生活ができるよう尽力
小辻の働きで、開戦までに殆どの難民が目的地へと旅立つことが出来た
小辻は、ユダヤ人の間でユダヤ学の専門家として知られ、神戸ユダヤ人協会からの協力要請を受けて、政府との交渉の仲介役を引き受ける
筆者がハワイ在住当時、93年のスピルバーグの『シンドラーのリスト』から杉原千畝の『命のビザ』を読み、ユダヤ難民のその後に興味を持ったのが始まり
小辻(1899~1973) ヘブライ語学の博士号。59年ユダヤ教に改宗。64年自伝”From
Tokyo to Jerusalem”出版(英文でアメリカの出版社から出版)。死後第4次中東戦争直後のイスラエルに埋葬
自伝の75年の改訂版に解説を書いた小辻をよく知るユダヤ人・ラビとインタビューが出来、その伝手で小辻の娘に面会、小辻が亡くなる前に遺した言葉、「100年以内に、誰か自分を分かってくれる人が現れるだろう」と言うのを聞いて、自伝の翻訳に取り組む
Ø 少年期、青春期の小辻
京都賀茂神社の神官の子どもに生まれ、父に教えられた神道の教えと学校で習った武士道に影響を受ける
乃木主軍の殉死に衝撃を受け、生きるとは何か、命とは? と迷った時に聖書に出会う
大学で神学部を目指すため、親の反対を押し切って勘当同様にして明治学院へと進む
卒業後、北海道旭川の教会の主任牧師となる。23年日高の牧場主の娘・美祢子と結婚
27年米国留学、ニューヨーク州北部のオーバーンの大学でヘブライ語と旧約聖書を学ぶ
バークレーのパシフィック宗教大学で高名な考古学者・言語学者のバデー教授について学識を深め、『セム文学の起源及びに変遷』で博士号を取得、31年帰国
青山学院で教壇に立つも腸チフスに罹患して失職、回復後の34年自ら「聖書原典研究所」を開設してヘブライ語と旧約聖書を教え始めるが、それも生徒を取られた大学や教授陣、宗教関係者らからの迫害にあって3年で閉鎖
Ø ナチスによるユダヤ人迫害
ナチスは、反ユダヤ思想喧伝のため、日本にも「国際政経学会」を設立して、ユダヤ人が世界征服を企図していると言いふらす
Ø 奇想天外な『河豚(ふぐ)計画』
ナチスのユダヤ人迫害に対し、日産コンツェルンの創始者・鮎川義介は34年に「ドイツ系ユダヤ人5万人の満州移住計画」をぶち上げる ⇒ 日露戦争の軍費調達に困った日本に対し、帝政ロシアのユダヤ人迫害に対する報復としてアメリカのユダヤ人銀行家・ヤコブ・シフが2億円を支援、それによって日本が勝利したとされるが、この時もアメリカのユダヤ人の支援を期待しての計画で、軍部のユダヤ人専門家も参画。日本にとって美味と毒を併せ持つ内容ということで『河豚計画』と呼ばれた
ドイツ・イタリアとの友好関係を重視した政府によって、計画は実現せず
自伝でも、36年頃から「ユダヤ人問題が自分の人生に影響し始めていた」とある
38年 満鉄から総裁のアドバイザーとして招かれる ⇒ 満州におけるユダヤ問題検討のためで、学者が商業の世界に入ることは堕落とされた風潮に従い断り続けたが、迫害ユダヤ人の救済のために役立つならと、最後は折れる。その時の総裁が松岡洋右
Ø 満州へ
38.3. オトポール事件 ⇒ ソ満国境のソ連側オトポール駅にシベリア鉄道経由のヨーロッパから来た2万ものユダヤ難民が、満州入国ビザがないために駅で溢れかえっていたのを見て、関東軍のハルピン特務機関長・樋口季一郎陸軍少尉が満州国を説得して入国ビザを発行させ、ハルピンへ移送、900㎞の移送は満鉄の松岡が無料で引き受ける
ユダヤ難民からナチスによる迫害の具体的内容を知るとともに、在中国のユダヤ人の実態を調査。アメリカで苦学してオレゴン州立大に学びアメリカを第2の故郷とまで考える松岡はユダヤ人を満州に受け入れて自治を認めれば必ずアメリカのユダヤ人が支援、アメリカのユダヤ・マネーが流入するのみならず、日米関係の緩和にも役立つと考えた ⇒ 極東ユダヤ人大会を開催、そこでヘブライ語でスピーチをした小杉の名は一躍ユダヤ人社会で広がる
Ø 小辻と松岡洋右
松岡は、アメリカで激しい人種差別に会ったのもあって帰国後は国粋主義に傾倒したが、一方でアメリカをこよなく愛し、死の直前にはカトリックの洗礼も受ける
そういう松岡を小辻は評価
39年松岡が近衛内閣の外相として帰国したのを機に小辻も帰任
Ø 杉原千畝の『命のビザ』
杉原の発給したビザをもって6千人のユダヤ難民がシベリア鉄道でウラジオストック経由で日本に向かうが、日本の外務省は同地の領事館に日本に向けた船に乗せることを許可しないよう指示 ⇒ 総領事館の根井三郎総領事代理が、公館の発給したビザを無効にしたら日本の国際信用が失墜するとして独断で支持を拒否、さらにはビザを保有していない難民には渡航証明書を発行して日本への入国を手助け
難民は、船で福井に向かい、さらにユダヤ人社会のあった神戸に向かう
Ø 日本にやってきたユダヤ難民
対応に苦慮した神戸ユダヤ人協会から小辻に支援の要請が届く
問題は3つ ⇒ ビザの延長と、通過ビザを持たないため日本海を往復する船上に残された難民の扱い、さらにはユダヤ人が日常生活で起こすトラブルの処理
小辻が外務省に掛け合った詳細な経緯は不明だが、何とか入国許可を取り付けるが、ビザの延長は認められず ⇒ 松岡外相に直接掛け合い、ビザ延長の権限が自治体にあること、自治体を動かすことが出来たら、外務省は見て見ぬふりをするとの示唆・約束を取り付ける ⇒ 後年松岡洋右伝記に小辻が、「ユダヤ難民を救った《松岡示唆》として寄稿
Ø ビザ延長のための秘策
自治体で実際のビザの扱いを任されていたのは警察署
大阪の実業家で資産家の義兄から経済的支援を得て、警察幹部に接近、接待攻勢でビザの延長を応諾させる
Ø 迫るナチスの影
ビザの延長に加えて、出国のための船便の手配にも奔走 ⇒ この時ユダヤ難民側で奔走したのが、小辻が亡くなった時エルサレムに遺体を迎えて弔辞を読んだ宗教大臣だった
ナチスの親衛隊将校が日本駐在として派遣され、ユダヤ難民の処分を迫ったが、日本政府はドイツとの同盟とユダヤ人排斥は別問題として、申し出を拒否
ナチスは、軍を動かしてユダヤ排斥をさせようとし、ユダヤ難民の代表を尋問したが、松岡が間に入って安全を保障した
41年秋までにはほとんどの難民は、それぞれの目的地に向かって出発
Ø 神戸に残ったユダヤ人
戦時下においても、神戸には90余名のユダヤ人が暮らし、地元民と一緒になって銃後の守りをしていた
Ø 反ユダヤとの戦い
戦時下でも小辻の反ユダヤ勢力との戦いは続く ⇒ 外務省の対ユダヤ人対策検討会の委員となり、日本政府内に定着しつつある反ユダヤ思想が根拠のないものとして抗議
その発言に注目したのが、東洋経済新報社の社長の石橋湛山で、全国の支店を回ってユダヤ人に対する正しい知識を説いて回るよう依頼、小辻も2つ返事で応諾、「西洋特有の問題を冷静に見つめ、白紙の態度で臨むことが大事」と説いた
併せてユダヤ人の真の姿を紹介した『ユダヤ民族の姿』を出版、ナチス批判を削除したが、特高や憲兵隊に睨まれるところとなり、暗殺者リストにまで載っていた
憲兵隊からの命令で出頭した時は拷問まで受けたが、満州時代の顔見知りの憲兵隊将校に救われ、終戦直前に満州国最大のユダヤ人社会のあったハルピンに家族共々避難
Ø 再び満洲へ
避難直後にソ連がハルピンを占領、小辻一家はユダヤ人たちに守られソ連抑留を免れる
46.5.ようやく日本に向けて発つ
Ø ナチスドイツの崩壊
日本から出た難民たちは、それぞれに落ち着いた先で活躍
Ø 帰国
46.10.苦労の上漸く博多に着く
ユダヤ人との関わりが、ユダヤ教への思いを深めさせ、それは同時にユダヤの人々に対する親愛の情を芽生えさせた ⇒ わざわざ苦悩と悲しみをもたらしかねない宗教への拘りに否定的なユダヤ人の友人もいたが、小辻の意志は固く、宗教審議会の審問を受けるためにエルサレムに行く決心をする
Ø 小辻を支えた妻・美禰子
小辻の信念の後押しをしたのが妻だった
Ø 改宗の旅へ
59年 イズラエルに向け出発、審問の後割礼の儀式を受け、「アブラハム小辻」となる
小辻に助けられた人たちが集まり謝恩会を開催
小辻の改宗は、全世界のユダヤ人社会に朗報として伝えられ、タイム誌にも掲載された
Ø 小辻の死
61年 ヘブライ文化研究所立ち上げ ⇒ ユダヤのことを、宗教というより純粋に知識・教養として日本に広めたいと考えたが、日本の大衆にとってユダヤはホロコーストの悲惨さから軍国主義や戦時中の苦しみ、悲しみを思い起こさせるものであり、小辻の業績とともに歴史の中に埋もれていってしまう
自伝をアメリカで発刊
62,63年 アメリカに講演旅行 ⇒ アメリカに活動の拠点を移すが、単身で生活の基盤を作ってから家族を呼び寄せようと頑張ったが胃癌で倒れ、手遅れが判明して日本へ戻る
73年 死去 ⇒ エルサレムで眠りたいとの遺言に従い、遺体はイスラエルへ。中東戦争直後の混乱期だったが、小辻を命の恩人とする宗教大臣の尽力で無事受け入れられ埋葬
小辻は、ナチスから逃れたユダヤ難民を助けたことによって自らもユダヤ人と同じような迫害を追体験する。その時小辻に救いの手を差し伸べたのは日本人ではなくユダヤ人であり、そのことで彼のユダヤに対する思いはさらに深まり、小辻はユダヤの魂を持った日本人となった
Ø エルサレムへ
著者がエルサレムに行って、小辻と親交のあったユダヤ人の遺族に直接取材
Ø あとがき
山田 純大オフィシャルブログ
私は数年前から小辻節三という人物を追い続けてきました。杉原千畝という人道的な外交官の英断によりホロコーストを逃れ、ヨーロッパから数千人のユダヤ難民たちが日本にやって来ました。第二次世界大戦開戦の直前のことです。難民たちは神戸にたどり着きましたが、私にはいつも不思議に思っていた事がありました。命からがら日本に逃げてきた難民たちを、誰がサポートし、彼等の命を繋いだかということです。敦賀の方々、神戸市民、たくさんの人々が彼等をサポートしたのです。そして私が惹かれた小辻節三という人は、その中でも、自身と家族の命をかけて難民たちを救った人物です。これまで光が当てられることの無かった小辻節三の人生を、皆さんに少しでも知っていただきたいと思い、本を書かせていただくことになりました。杉原千畝氏の命のビザ。その命を、命をかけて守った小辻のストーリーです。今も原稿を読み直しています。本を出版させていただくのも初めてなので、少しの不安もありますが、精一杯やります! 日本が誇れる素晴らしい人物を、ぜひ知っていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。 山田純大
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