森鷗外 日本はまだ普請中だ 小堀桂一郎 2013.6.18.
2013.6.18. 森鷗外 日本はまだ普請中だ
著者 小堀桂一郎 1933年東京生まれ。68年東大大学院博士課程修了。文学博士。現在東大名誉教授(比較文化、比較文学、日本思想史専攻)。鷗外に関する著書多数
発行日 2013.1.10. 初版第1刷発行
発行所 ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)
ミネルヴァ日本評伝選 ⇒ 荻生徂徠「学問は歴史に極まり候ことに候」の言葉から、歴史の中にこそ人間の知恵は宿されている、として、人間知を学び直そうという試み
鷗外森林太郎(1862~1922) 作家・陸軍省官吏
陸軍軍医として2度の外戦に出生し、軍陣衛生学の実地に携わる傍ら、詩人・作家・批評家として当代の文学界に指導的役割を演じた。一方精力的な翻訳家として泰西の古典から現代に至る文芸・哲学・医学・軍事学の綿密な紹介に厖大な業績を遺し、晩年には歴史叙述の新様式開拓に尽瘁した。その精励恪勤の生涯を明治精神史の象徴的1章として描破する
はしがき
安井息軒が、「善(よ)く作る者は善く改むる者に若(し)かず、善く改むる者は善く刪(けず)る者に若かず」と言ったが、当初1/3程度に収まるものと考えていたのが思わぬ長文になったことを言い訳している。鷗外ほどの大きな規模の事蹟と博大な知識と深い思索の成果をその身に実現した人物の全体像をできるだけ実像に近い形で叙述するにはそれ相当の詳細さが是非必要
生誕150年、没後90年の節目の年に刊行
旧仮名遣いで叙述
第1章
少年時代――漢学と津和野藩学
1862年 津和野藩主の典医の1人娘と婿養子だった父との間に誕生。祖父も婿養子だったため、長男誕生にかけた期待は大
次男・篤次郎(1867~1908) ⇒ 医学部を出て開業医に。三木竹二の名で鷗外の演劇評論活動の良き協力者となると同時に、自らも劇評家として一家をなす
妹・喜美子(1870~) ⇒ 東大医学部の解剖学教授に嫁ぎ、小金井喜美子の本名で鷗外の文業、特に訳詩集『於母影』の編纂に協力する文筆家となる
三男・潤三郎(1879~) ⇒ 書誌学者。親族から見た資料的価値の高い鷗外の伝記を著わす
1872年上京。没するまでの50年間一度も帰省したことがなく、故郷に触れて語ったこともないが、別段忌避の感情があったとも思えない
津和野藩は、幕末に久留米藩主・有馬頼徳の子が養子に入り、開明藩主として和蘭医学の移入を企図
長州征伐にあたり、幕府からは先陣を命じられるが、長州との間では不戦を約束、専守防衛を幕府に認めさせる
廃藩置県で浜田県となり、旧津和野藩主も家族となって東京在住を命じられ、藩校も閉鎖されたところから、一家で東京に移住することになる
西周(鷗外の母の従兄)宅からドイツ語学校に通う
1874年 東京医学校(正確には第一大学区医学校)予科に入る ⇒ 学則に合わせ15歳ということにして入学許可
第2章
大学時代(含陸軍出仕時代)――学問世界への開眼
日本の大学での医学教育にドイツ系が主流をなした経緯 ⇒ 1823~30年来日したジーボルトがオランダ人を装ったドイツ人であることは、当時の弟子が暗黙のうちに気付いていた。1869年政府から大学南校の頭取に任ぜられたフルベッキもオランダ人ではあったが、ドイツ医学が世界最高水準にあることは明らかであり、ドイツ公使に医学教師の派遣を要請、71年にプロイセンの軍医が着任
東京医学校入学後から、まだ本を背負って歩いていた貸本屋の文学本の耽読、漢詩文の修業が始まる
鷗外の卒業成績は28名中8番で、文部省派遣留学生にも入れず、ただ陸軍省依託学生たちよりも成績上位だったところから陸軍に入れば陸軍省派遣の官費留学生第1号になれる可能性ありとして陸軍入隊を画策、5か月の浪人期間を経て陸軍軍医副の官名に就く
念願のドイツ留学が叶う84年までの2.5年の間の事蹟 ⇒ ①プロイセン陸軍の衛生制度・機構の調査に従事、その実績がその後の陸軍軍医部における森の専攻分野を決定、②軍医として上信越・東北に2度出張、『北游日乘(正・後)』という文業上の成果(特に漢詩制作力は見事)を残す
第3章
留学時代――自由と美の認識
留学という意識は、ある意味日本民族の内に生じた特異な発想 ⇒ 中世からルネサンス期に相次ぐ大学の誕生が遠隔の地から民族と言語の相違を超えて多くの学生を高名な大学に誘引したが、それは異文化間の交流を誘発したというより、大学の存在を通じてヨーロッパ世界の知的上層部が、学問の普遍性を基礎として互いに連絡し合い、1つに結び付くという事態が成立していたに過ぎない
84.8.出発、10人の留学生の1人(穂積八束も)。ベルリンの駐在公使が青木周蔵
陸軍病院長の修学の順序をアドバイスに従って、ライプチヒ(84.10.~85.10.)のホフマン、ミュンヘン(86.3.~87.4.)のペッテンコオフェル、ベルリン(87.4.~88.7.)のコッホという順で勉学
ドレスデン(85.10.~86.3.)時代に早川歩兵大尉(日露戦争時の田村中将・参謀次長)と遭遇。途中ベルリンを訪問したときには北里柴三郎とも会い、大学の学部間にあった微妙な差別意識を捉えて喧嘩を売られたが聞き流す
ミュンヘン滞在中の86.6.国王ルートヴィヒII世のシュタルンベルク湖畔での溺死事件に遭遇、湖にはその前後に何度も出向く
ベルリン移住の直後、ドイツ陸軍事情視察のため訪独中の乃木希典(当時少将)、川上操六(当時少将・近衛第2旅団長、後の名参謀長)、に会う ⇒ 乃木には生涯にわたって重大な影響を受ける(後に小説『鶏』で採りあげたり、日露戦役の陣中詩日記『うた日記』でも「乃木神話」を創作)
直属の上司となる陸軍医務局次長の石黒忠悳軍医監(少将相当)が87.7.~88.9.ベルリンを来訪、森が通訳としてべったり世話をすることになるが、お互いに付き合っていた女のことについて後ろめたさに発する奇妙な連帯感があった
北里柴三郎との縁 ⇒ 内務省衛生局派遣の北里は、コッホの高弟として、細菌学分野での第一線の研究者として、公私費留学生の間では一頭地を抜いていた。森は北里より年下だが卒業年次では2年先輩。石黒は内務省衛生局長を兼務しており、ベルリン来訪の際内地で決めてきた北里の留学先のミュンヘンへの変更を伝えたところ北里は峻拒、下僚の反抗に激怒した石黒と北里の間をとりなしたのが森。石黒もコッホの期待の大きさに最後は折れ、北里は最後までコッホの下に留まり、師の4人の高弟の1人と目されるまでに研究実績を上げることが出来た。森は、学問的真理への情熱の共有から北里帰国後も正当に評価をしている
研究の傍ら、夜の自由時間にはドイツ文学やドイツ語に訳された西洋文学を片端から読んだ ⇒ ギリシャ古典悲劇から当代フランス作家の通俗小説まで玉石混交の読書生活
ミュンヘン時代に、地質学者エドムント・ナウマンを相手に新聞紙上で戦わせた論争 ⇒ 86.3.ドレスデンでの日本論講演でウマンが、日本の開化は外からの圧迫によってやむを得ず行われたものである故に身に着かず、将来も暗いとしたことに反発したもの
ベルリン在住日本人の親睦会「大和会」では、異文化差別観の矯正や国威発揚のために積極的に行動すべきと演説するが受け入れられず、かえって森自身がエリーゼ・ヴィーゲルトとの後始末をきちんとできないままドイツを去ろうとしているモラルを問われ、かつての大言壮語を恥じ入る結果に
第4章
評論家時代――体系構築への情熱
88.9.森一等軍医の帰国は、陸軍内部では相当の期待を持って迎えられた
日本陸軍の兵員給食の基準の確立 ⇒ 留学の目的の1つで、軍隊を苦しめる脚気罹病率の削減策。同時に海軍でも研究を行いパン食が好結果をもたらしていた
森の文人としての活動は、89年の読売新聞への評論・翻訳の掲載が嚆矢 ⇒ エミール・ゾラの「実験小説」理論の紹介と批評。雑誌『國民之友』を主宰していた徳富蘇峰が森の力量とその新鮮な発想に着目
訳詩集『於母影』の発表
演劇改良運動にも批判
学芸文物の状況についても鋭い考察を延べる
創作短編3作を発表 ⇒ 『舞姫』(留学最終年度の体験がベース)、『うたかたの記』(ミュンヘン時代)、『文づかひ』(ドレスデン時代)。いずれも告白小説
美術論 ⇒ 批評活動の一環であり、ドイツの美学者の美の哲学を紹介
第5章
雌伏時代――学理と生理との葛藤
留学時代に体得した西欧的価値観の究極の範疇を、森は自由と美とへの認識であるとして、この価値観を日本の風土に移植し根付かせることを学問人としての自己の使命と思い、学問の体系を構築し、その体系の機能を制度をもって保障するという事業に情熱を注ぐ
制度の整備という面では、言論をもって推進できるものだとの自信が、彼の評論活動を支える原動力となっていた ⇒ 学問原理主義とでもいうもので、学問的真理は普遍妥当性を有する標準であり、これを奉じている限り、誤ることはないという秀才にありがちな楽天的理想主義
日清戦役への従軍により、文人としての活動は一時停止
95年 陸軍軍医学校長就任。雑誌『めさまし草』を創刊し文人としての評論活動に復帰、幸田露伴や齋藤緑雨等の近世趣味の文人と親しく往来するとともに、いたずらに論争を好む如き高姿勢はかなり緩和
99年 軍医監に昇進と同時に小倉の第12師団軍医部長に補任 ⇒ 国家公務員としては当たり前の地方勤務ではあったが、自身は文人として学者としての活躍の舞台を閉ざされたことから都落ちだとして「隠流(かくしながし)」と号した
小倉在任中に意外なほどの情熱を傾けて従事したものに九州北部の地方史研究がある ⇒ 地方巡閲の途上、福岡では貝原益軒の墓を訪ねたり、熊本では加藤清正の廟所に詣でたり、久留米では久留米絣の元祖の碑を見、寛政3奇人の1人高山彦九郎の事蹟を調べたり、日田では広瀬淡窓一門の事蹟を探訪
クラウゼヴィッツの『戦論』の講義と訳出 ⇒ 「情報」という訳語を創作したのは国語史上の一大功績。「戦術」と「戦略」の弁別
小倉時代に再婚
皇太子のご成婚の祝賀に上京、その後皇太子が九州視察の際小倉に立ち寄り、たまたま侍従が体調を崩して森が面倒を見るが、皇太子から直接の依頼もあり、回復後は労いの言葉をいただく
第6章
多事多産の時代――栄達と盛名の頂点
02~04年 東京第1師団軍医部長 ⇒ 文筆活動に対しても相当の解放感を覚え、また新たなる意欲を燃やすこととなるも、04年の日露戦争出征命令(第2軍軍医部長)でまた中断したが、創作意欲は燃え続け、長い創作時間を必要としない短詩形文芸に集中、従軍詩集として『うた日記』にまとまり、凱旋後における森の絢爛たる文業隆盛の季節を開くのに重大な役割を果たした
04年初に面白い記述がある ⇒ 日露戦の気配が濃厚になるにつれ親露的なドイツに対する大衆的次元での嫌独的言論の高まりに対し森が警告を発しているが、「ドイツ贔屓から言うのではない。自分は経歴の上からは特別にドイツの学問を好いた頃もあったが、今はそうではない」と言っている
戦争中にたまたま家に迷い込んできた傷病兵を介護した際、第一線の壕の中の実情に興味を持って聞いたところ、兵は「到底口にできるものではなく、生涯わが胸の内に秘めておく」と言ったことをそのまま『うた日記』に「たま(弾丸)くるところ」と題して掲載 ⇒ 人間の世には喩胸の内に煮えたぎる如き思いであっても決して口外すべきではない、といった厳しい現実が存在することを、森は戦場の現実に触れて深刻な認識として抱いた。(と言いながら、公開されることを前提に書かれた日記にそのまま掲載しているというのは矛盾しないか?)
『うた日記』の物語的側面として見逃せないのが04.12.31.と05.1.1.の間に排列されている「乃木将軍」 ⇒ 5月11月に相次いで子息を亡くしたが、乃木自身の日記によれば、単に戦死の報告を受けただけだったにもかかわらず、現地では将軍が戦場視察の折たまたま息子の屍を担いだ兵卒に出会い、将軍とも知らずに戦死した乃木少尉を病院に運びたいが病院の方角はどこかと尋ね、将軍はそれを聞きながらも黙って病院の方角を示したという「乃木神話」となって戦陣に広がり、それを森が『日記』に書いた(詩編の最後に、「まだ光り始めてもいなかった夜空の星がこの情景を見て、夜更けてから友なる星に語った話」だという種明かしをしている実に絶妙の構成)
逞しい思想家としての森が、戦争という非常の状況の中で戦士達の人間性や獣性がどのような現れ方をするか、身辺から直接取材して詩化した優れた作品が多々ある
佐藤春夫は、この詩集を「古今東西のあらゆる詩法の集大成」として「作詩術実例を豊富に見出しては己が作詩の教科書とした」と言っている
出征に際して友人の佐々木信綱から贈られた佐々木編の『萬葉集』の感化も見逃せない ⇒ 本歌取りや替え歌、古語の積極的活用等その痕跡は多い
戦後の順調な論功行賞と官途の行路は当然だが、その翳の部分として脚気の問題がある ⇒ 海軍での脚気撲滅の実績に対し、因果関係が説明できない以上学説として首肯できないとした森は、日露戦争でも正確な罹患者数は把握できないものの、日清戦争での失敗を繰り返した。旅順攻城戦での死者15千に対し、罹病還送者45千の内の相当数が脚気によるものと推定される。森が栄養障碍説を排斥した裏には、留学時代に最も力を注いだ日本食論の研究成果に十全の信頼を置き、束縛されていたからで、その成果はベルツやライプチヒのホフマンも支持。この自信が後年の学問的業績にも幾つかの不吉な翳を投げかける
07年 陸軍省医務局長に昇進、階級も中将相当官である軍医総監となり、上り詰めた
08年 臨時脚気病調査会の官制公布 ⇒ たまたま来日したコッホは、伝染病説を取りながらも、オランダの医師団がバタビアで撲滅の実績を上げているので現地調査することを奨め、調査団派遣の結果は栄養障碍説が実証された(世間に公表されたのは2年後)
08年 文部省の臨時仮名遣調査委員会委員に委嘱 ⇒ 表音式を導入しようとした文部省の改定案に対し、軍隊内での情報伝達の正確性の観点から反論し、改定案を撤回させる
山縣有朋との関係 ⇒ 06~22年 旧派の歌人たちの歌会である常磐会の最長老と常連という関係。山縣から現代短歌のあるべき形式・内容についての問いに対し、森が「門外所見」として漸進的改良容認主義の立場から意見を述べ、山縣の心服を勝ち得る。09年山縣の小田原の別邸「古希庵」の縁起を叙した「古希庵記」を執筆したが、阿諛追従の臭味抜き難いもの
家庭生活の不如意 ⇒ 日露戦出征前に書いた遺言書で、遺産相続を母と前妻の子・長男於菟に各1/2とし、妻には於菟の後見すら認めていないのは、妻が於菟とは口も利かず、母や弟との同居を拒否していたためだが、その後の戦地から妻への夥しい手紙や文面に漲る優しさ、甘さとはどこで折り合いがつくのか。妻は生後間もない娘と実家に戻っており、どちらが我が家なのか夢の中で迷うという歌がある
08年 弟・篤次郎逝去(喉頭癌の手術の失敗による窒息死) ⇒ 未亡人を2年後に鰥夫(やもお)になった幸田露伴の後添えとして紹介している。その後の未亡人の再婚失敗等の不行跡についてはゴシップとして取り上げられた
創作詩篇『沙羅の木』 ⇒ 満州出征中に親密な文通が始まった与謝野夫妻に刺激を受けて、彼等に唱和し、かつ競うような気持から芽生えたもの。定型律と押韻で新機軸を出す
グルックのオペラ《オルフェウスとエウリヂケ》の翻訳 ⇒ 上演用に楽譜に合わせて訳したのはこれが唯一のもの。自費で国民歌劇会を設立した本居宣長の直系の子孫にあたる本居長世からこのオペラを訳詞で上演する企画につき相談を受けて翻訳したものだが、結局上演は実現せず、92年後の2005年芸大演奏芸術センターによって初めて上演された
07年 海外文学作品の翻訳を精力的に始める
09年からは小説作家としての旺盛な活動を開始
09年 同人誌『昴』創刊 ⇒ 『明星』の廃刊の後を継ぐ形で、『明星』の吉井勇や石川啄木ら若手の詩人たちが結集、森を「千駄木の師匠」と仰ぎ指導を乞う空気があり、森にとっては気持ちの良いもの
『中央公論』や『三田文学』にも積極的に出稿
11年から『昴』に『雁』の連載開始 ⇒ 物語の結末は単行本の初版で初めて明かされる
「秀麿物」 ⇒ 明治最末期~大正初期に、作者の分身と思われる貴公子五條秀麿を主人公とした思想小説4篇。大逆事件に次ぐ南北朝正閨論争に対して自ら検討し確認するような動機で書かれたが、あくまで一般論に留め、歴史論争に直接触れることは避けている
第7章
大正の新時代――内省と観想の季節
明治天皇崩御の時期は、森の思想上の一転機でもあった
1916年 陸軍省退官、予備役編入。翌年刊行の随筆『なかじきり』に感想を綴る
17年 帝室博物館総長兼図書頭に就任
退官して専ら歴史研究に沈潜するまでの数年間、森の翻訳家としての仕事の多彩と充実ぶりは瞠目すべき精力が感じられる。ただし、退官直前の大正初期の作品は、出版年こそ大正だが訳稿は明治末期にできていたものが多い ⇒ 『ファウスト』もその1つで、僅か6か月で仕上げたという。『ギョオテ伝』
『マクベス』では、近代劇協会からの依頼で訳出するに先立ち、「シェークスピアは坪内逍遥の受け持ちのようになっている」からとして逍遥に仁義を切り、序文を依頼している ⇒ 逍遥は、森の訳出の速さと独訳本からの翻訳にもかかわらずその正確さに驚く
この頃の翻訳物は、大部分が速記者を使っての口述筆記
『諸国物語』⇒ 15年出版。未発表の翻訳物33篇を掲載した集大成であり、翻訳業に一段落
1912年秋、不意に歴史小説連作が始まる ⇒ 乃木の殉死で87年以来の親交が中断したことが転機。乃木は外国語に関することはすべて森に意見を求めていた。乃木の心情を小説『興津弥五右衛門の遺書』で代弁。これを契機に近世以降の日本人の倫理の1つの主幹をなしていた武士の精神伝統の再検討に目を向け、主命への絶対服従、献身、殉死、敵討(=仇討)等を題材とする
次いで『阿部一族』『護持院原の敵討』と続く。第6作目の『堺事件』では幕末のフランス水兵殺害事件を取り上げ、切腹落命した11人の堺藩士の名誉回復に結び付ける
鷗外が「簡浄の文」を書くようになったのは、乃木大将が夫人とともに自害してからのこと、それまでも加飾を好む人ではなかったが、明治天皇を追って乃木希典が殉死を決行してから突然に書きはじめた歴史小説あるいは史伝の連打では、まるであらかじめこの時を待っていたかのように、簡浄要訣な文体が敢然として選ばれ、結露した
7作目が『安井夫人』⇒ 直前に刊行された『安井息軒先生』という詳細な伝記の中の夫人に関する逸話だけを抜書きしたもの。夫人の方から望んだ結婚と知って「新しい女」の登場に注目
身辺小説 ⇒ 作家の身辺に材を取った小説。『高瀬舟』に収録された3篇
再話文学 ⇒ 同じ材料を用いた別の作品。再話された作品の完成度が重要。説話『さんせう太夫』をもとに残酷な場面や情念を割愛した『山椒大夫』は年少の読者に国語の散文の美しさを教える良き作例
テーマ小説 ⇒ 小説の形を借りてある主題の解析と考察を試みたもの。『高瀬舟』は財産の観念を主題に財産の多少は所有者の感じる満足度によって決まるのではないかとの問題提起が作因となっている。また安楽死は殺人かということがもう1つの主題
第8章
歴史家としての晩年――只是近黄昏
帝室博物館総長として、毎年秋の正倉院曝涼に立ち合った奈良・京都での懐古と現代考察を寄稿
18年の富山に始まる米騒動では、山縣の顧問として社会問題の対策に苦慮
19年 社会政策論 ⇒ 共産主義の反対で、国家社会主義に近いものとして「集産主義」なる概念を持ち出すが、必ずしも明確ではない
20年 明治神宮の鎮座祭の直前になって昭憲皇太后の謚(し)号問題が浮上、一部学者が「皇太后では母君のようになるので、皇后とすべき」と主張したのに乗って山縣が固執、「皇太后のままとするが一般には皇后として祀っても違法にはあらず」との通達を出すことにより収拾 ⇒ 廟に祭る以上は「皇后」となるが、いつの間にか支那の風習である「皇太后」が一般化したのは仕方がないという森の現実論からくる見識が山縣に影響した珍しい例
山縣は、その直後の「宮中某重大事件」で政治的な敗北を喫し、失意落魄に近い老公の数少ない同情者ないし理解者の1人が森だった ⇒ 皇后学の師だった杉浦重剛を中心とした一派がこの事件を政争の具とし、山縣攻撃の手段にしたことを森が批判
歴史叙述の新様式確立 ⇒ 『渋江抽齋』(16年客員だった東京日日新聞に連載)。徳川時代の武士のことを調べる資料として各地の『武鑑』蒐集を開始、その中から弘前藩医だった抽齋の存在と彼が自分と同じように『武鑑』の蒐集を通じて時代考証をしていたことを知り、己と分かり合える霊の持ち主ではないかと直感して興味を持ったのが執筆の契機。鷗外が自らその本の中で打ち明けたところによれば、およそ古い文献史料の批判的調査について学問の徒が心得ておくべき考証作業の基礎的な態度を説き、その文献批判の作業の実際を、彼が手掛けることにした渋江抽齋の事蹟という具体例に即して例示するという形をとったもの。渋江抽齋自身の遺した資料がほとんどなく、遺族からの伝聞が資料の大半である場合、史実をどう書き上げるかは筆者の史筆に頼らざるを得ない。さらには、主人公に係る記述は全編の半分以下で、主人公没後の後裔の事蹟の追跡調査に残りを当てるというのは従来の伝記の概念の枠を超えるもので、主人公が何者であったかという問いに対してはその知友・子孫に及んだ彼の影響、他者の記憶に印された人物像の細部までを再現して初めて十分な答えとすることができるとの歴史観に立っていると言える
これに対し、当時27歳の和辻哲郎は、「あれだけの力を注いだ意を解し兼ねる。臆測し得る唯一の理由は「掘り出し物の興味」だが、埋没されていたということは好奇心はそそりはしてもその物の本来の価値を高めはしない。抽齋の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に値するとは思えない」と批判しているが、それは和辻が彼等の世代の文化史的興味の先導役として鷗外の歴史小説に期待したための誤り
逆に永井荷風は鷗外の手法に注目、作者がおのれの足を運ぶことによって危うく埋没し暗黒裏に葬り去られようとする個人の事蹟を救出し、発掘していくその特異な研究方法に対し読者の注意を喚起している
22年1月の大隈重信の日比谷公園での国民葬には10万人が参列したが、鷗外の日記には一言も言及がないのは、縁遠い存在だったことの正直な反映 ⇒ 同年2月の山縣の国葬には会葬したが、大隈のとは対照的な寂しさだった
5月英皇太子の正倉院拝観を接遇 ⇒ 直後に親友に送った手紙では死期の近いことを悟り、諦念を語る。肺結核と萎縮腎が進行していたが、医薬の投与を拒否して自然のままに死んでいきたいと決意していた
親友だった賀古鶴所(東京医学校に陸軍から派遣された同期生、寄宿舎で同室、耳鼻科専攻)に遺書3通のうちの1通を書きとらせる ⇒ 「石見人森林太郎として死せんと欲す」「宮内省陸軍の栄転は絶対に取りやめを請う」 ⇒ 晩年のある種の思索・修行の結果としての悟達を示すもの
他の2通は、04年日露戦出征にあたり上田敏等を立会証人として公証人に口述筆記させたものと、18年母の死によって前の遺言の内容を作り直したもので森の自筆草稿が残っているが、ここでも妻に厳しい内容は変わらない(賀古に遺言執行の監督を委嘱)
瀕死の夫に取り縋って激しい愁嘆を洩らした志げ夫人を、賀古が「見苦しい」と激しく怒鳴りつけたのは、鷗外がその夫人に対し、児女たちにとっての家庭の幸福を最大限尊重するという立場からその悪妻振りへの隠忍と寛恕を貫き通したという苦しい内情を知悉していたものの、生涯無二の畏友に対する夫人の甚だ相応しからぬ態度に常々深い怒りの情を鬱積させていたが、友人の手前自制していた憤怒を最早抑える意味がなくなったということだろう
22.7.9. 易簀(えきさく)。死因は萎縮腎とされたが、主因は肺結核
谷中斎場での葬儀は、妹の小金井夫妻、賀古が主導権を執って進め、未亡人は急速に無視され跡始末の圏外に置かれた
森 鴎外 小堀桂一郎著 豊かな人物研究の集大成
日本経済新聞朝刊2013年3月3日
現在では男性が髭を蓄えていることが、就業規定に違反するか否かが問題になる場合があるくらいだから、森鴎外の肖像写真に見る口髭はいかにも明治という時代の厳めしさを感じさせる。また、その秀でた額は頭脳明晰の証に見える。森鴎外の肖像写真から、額と口髭を隠し、目元に視線を集中させると、秀麗にして繊細なまなざしが現れる。この目元であれば、若い日のドイツ留学中に社交界で東洋の貴公子として華やかな生活を送ったことも頷けるのが鴎外の壮年期のよく知られた肖像写真である。
(ミネルヴァ書房・4200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
鴎外の文章には不思議な力がある。鬱状態の時、鴎外の文章を読むとうつうつとして楽しまない心に、なにか平静な静けさが宿ってくる。鴎外の小説に限らず、それが評論であろうが、日記であろうが、そうした鎮静の力がその文章には漲っている。心境に惑溺しない素敵なブレーキを備えた文章の力は、漢語の多い男性的な文体が、そうした心境を生むのだと言うのはたやすいが、同じ特徴を備えた文章であっても、一向に鬱状態の慰めを生まない場合もあるから不思議だ。
小堀桂一郎『森鴎外』は、これまでの鴎外研究の集大成であり、濃密なエッセンスである。鴎外という人物の精神の豊饒が、鴎外研究の豊かさを生んでいることがひしひしと伝わって来る。文学者としての鴎外に限らず、幼年期に受けた教育から説きおこし、公衆衛生学との出合いとその研究内容を綿密に追究し、同時に美学への関心の軌跡を辿る。自然主義と呼ばれる文学潮流が日本の文学を席巻する以前に鴎外はエミール・ゾラの「実験小説」の内容を正確に紹介していることには驚かされた。産業革命に端を発した西洋文明の成果をこれほど深く楽しみながら呼吸した人はほかに存在しないであろうと思わされる。副題「日本はまだ普請中だ」は小説「普請中」からとられた一節である。それから百年余り。欧州に花開いた文明も、最盛期を過ぎ、今や世界は新たな普請の時代を迎えていることが思い合わされる。
(作家 中沢けい)
森鴎外―日本はまだ普請中だ [著]小堀桂一郎
■破格の人間語る、700ページの「史伝」 取り扱われた森鴎外の事績が膨大に過ぎたのか、それとも著者の側で書くべき材料が溢れ返ったのか。たぶん両方が切り結んで700ページに及ぶ大評伝となったのだろう。鴎外の一生全体をほぼ過不足なく語っていくが、副題を「普請中だ」としたのは唯事(ただごと)でない。「普請中」は、「舞姫」の後日談とも読める短編のタイトルで、西洋から日本まで追ってきた恋人の処遇に窮する鴎外らしき官僚が、女に拒絶を言い渡す際に発した「決めゼリフ」だからである。
鴎外がそもそもドイツ留学に出たのは、衛生面から日本を普請するためだった。軍隊を悩ます脚気の病原を細菌とするドイツ先端医学か、あるいは栄養学的な問題だとするイギリス経験医学か。これは陸軍対海軍の代理戦争でもある。また留学先では、元お雇い外国人の地質学者ナウマンが、日本の文明開化は外圧から発したもので舵取りが利かないと批判し、世俗でも日本の生活環境は不潔だという誤解が流布していた。論争相手続出で、帰国後は全医学の改造も鴎外の肩にかかる。世界の医学情報を収集する医学ジャーナリズムの確立も急務であった。ちなみに本書は「情報」という便利な術語を造ったのは鴎外だとする見解に与しているが、最新の研究で否定する人もいるので要注意。
それにしても破格の人間である。軍人・医学者として日本普請に邁進しつつ、その「片手間」に日本文学をも普請してしまう。天敵とみなした自然主義に向けては、自身の罪を告白することでよしとする風潮が結局は自分の暗部を曝す露悪趣味に堕すると批判、軍人らしく情報力を活用した戦略に打って出る。まず、ドイツから新聞雑誌を大量に取り寄せ、活きのよい新奇な短編小説を次々に訳出する。そのあとは、自然主義の得意技だった私生活描写を逆手に取り、なんと資料性が勝負の「史伝」として描き上げる実験に挑む。有名な「渋江抽斎」以下、あえて無名の江戸文化人を取り上げ、資料を発掘し取材する作業をも小説の一部に組み込むのだ。だが、取り上げた人物が平凡に死んでいるため、その作風はどこか身上調査書めいていき、肝心の読者がついていけなくなる。本書の著者も、同情と寛容をもって晩年の「史伝」を読むよう求めている。
ならば鴎外は何を普請したかったのか。「史伝」はドラマ化や私生活の暴露ではなく、個人の静かな精神史だ。本書は鴎外の遺書を紹介するが、「石見人森林太郎として死せん」との遺言は、鴎外史伝が目指した無名にこだわることの意思表示だ。そういえば本書の書きざま自体も、これに倣って鴎外を「史伝」として普請する試みであるように感じる。
◇
ミネルヴァ書房・4410円/こぼり・けいいちろう 33年生まれ。東京大学名誉教授(比較文化・比較文学、日本思想史)。『若き日の森鴎外』『森鴎外——文業解題』『森鴎外——批評と研究』『宰相鈴木貫太郎』『日本人の「自由」の歴史』
鴎外がそもそもドイツ留学に出たのは、衛生面から日本を普請するためだった。軍隊を悩ます脚気の病原を細菌とするドイツ先端医学か、あるいは栄養学的な問題だとするイギリス経験医学か。これは陸軍対海軍の代理戦争でもある。また留学先では、元お雇い外国人の地質学者ナウマンが、日本の文明開化は外圧から発したもので舵取りが利かないと批判し、世俗でも日本の生活環境は不潔だという誤解が流布していた。論争相手続出で、帰国後は全医学の改造も鴎外の肩にかかる。世界の医学情報を収集する医学ジャーナリズムの確立も急務であった。ちなみに本書は「情報」という便利な術語を造ったのは鴎外だとする見解に与しているが、最新の研究で否定する人もいるので要注意。
それにしても破格の人間である。軍人・医学者として日本普請に邁進しつつ、その「片手間」に日本文学をも普請してしまう。天敵とみなした自然主義に向けては、自身の罪を告白することでよしとする風潮が結局は自分の暗部を曝す露悪趣味に堕すると批判、軍人らしく情報力を活用した戦略に打って出る。まず、ドイツから新聞雑誌を大量に取り寄せ、活きのよい新奇な短編小説を次々に訳出する。そのあとは、自然主義の得意技だった私生活描写を逆手に取り、なんと資料性が勝負の「史伝」として描き上げる実験に挑む。有名な「渋江抽斎」以下、あえて無名の江戸文化人を取り上げ、資料を発掘し取材する作業をも小説の一部に組み込むのだ。だが、取り上げた人物が平凡に死んでいるため、その作風はどこか身上調査書めいていき、肝心の読者がついていけなくなる。本書の著者も、同情と寛容をもって晩年の「史伝」を読むよう求めている。
ならば鴎外は何を普請したかったのか。「史伝」はドラマ化や私生活の暴露ではなく、個人の静かな精神史だ。本書は鴎外の遺書を紹介するが、「石見人森林太郎として死せん」との遺言は、鴎外史伝が目指した無名にこだわることの意思表示だ。そういえば本書の書きざま自体も、これに倣って鴎外を「史伝」として普請する試みであるように感じる。
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ミネルヴァ書房・4410円/こぼり・けいいちろう 33年生まれ。東京大学名誉教授(比較文化・比較文学、日本思想史)。『若き日の森鴎外』『森鴎外——文業解題』『森鴎外——批評と研究』『宰相鈴木貫太郎』『日本人の「自由」の歴史』
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