日本人の手紙 村尾 清一 2013.6.27.
2013.6.27. 日本人の手紙
著者 村尾 清一(むらお きよかず、1922年 - )は、日本のジャーナリスト、文筆家。 香川県生まれ。東京大学法学部政治学科卒業。読売新聞社社会部記者、論説委員(69年から18年間『よみうり寸評』担当)、取締役を経て、日本エッセイスト・クラブ理事長、会長。1981年日本記者クラブ賞受賞。「死の灰」の造語者
発行日 2004.2.25. 第1刷発行
発行所 岩波書店
本田靖春『我、拗ね者として生涯を閉ず』で絶賛、著者の先輩で、日本を代表する文章家の1人とする
義経、武蔵、良寛、近藤勇、熊楠、晶子、吉田茂、小津安二郎……
歴史に名を残す人々も、手紙の中には意外な素顔を見せるものである。そこで初めて明かされた真実の数かずは、読むものを惹きつけてやまない。「手紙はその人自身である」と語るエッセイの名手が書き綴る、新たな発見、意外な事実。手紙を読む楽しみを存分に味わえる、珠玉のエッセイ集
江戸期まで
1.
腰越状は手習いの手本(義経)
平家を滅ぼして鎌倉に凱旋しようとしたところ、兄頼朝に拒否され、腰越から幕府の執事大江広元宛に嘆きを訴えた書簡
江戸初期から手習いの手本として普及したが、それは後世の人が作ったもの
義経の直筆は、高野山金剛峰寺に1通残るのみ
2.
応仁の乱のきっかけ(日野富子)
日野富子は、8代将軍・足利義政の妻。実子義尚を将軍継嗣にしようとしたことから応仁の乱が起こる
日野家は、藤原北家の流れの公家、義満以来将軍家の正室は日野家から
義政が、政治を嫌って早くから弟・義視に譲ろうとしたため、富子が実力者・山名宗全に助力を要請したため、義視の後見人で娘婿の細川勝元が対立、戦となった
3.
息子たちへの遺訓(毛利元就)
「3本の矢」は、中国の故事から採った作り話
安芸の小さな豪族から、西国10藩の藩主となり、後の長州藩閥の基礎を築いた人
元就が活躍を始めたのは58歳になってから。多くの近親や家臣を謀略によって殺したところから、3人の息子に、「祟りは必ずやってくるので、慎み深く振る舞ってほしい」と言い残した
4.
思いがけないことをした理由(明智光秀→細川幽斎)
光秀の三女・玉(ガラシャ)は幽斎の長男・忠興の妻
本能寺の変の直後、光秀からの誘いに対し、幽斎と忠興は髪を切って拒絶
本能寺の変から7日後の手紙で、「拒絶はもっともだが、謀反は忠興を取り立てようとして考えたことであり、50~100日のうちに平定するので、家臣を送ってほしい」と懇請
細川父子は、光秀と義絶し、忠興は妻を離縁
関ヶ原では徳川に味方、忠興の妻は大坂方の人質になることを拒んで自刃、忠興の長男は愛妻を密かに逃したので廃嫡
細川父子が戦国乱世を生き延びたのは、知恵や運のみではない ⇒ 幽斎が「古今伝授」を受けた近世歌学の祖であり、忠興が利休七哲の1人で、当代随一の文化人だったことと無関係ではない
5.
戦国武将のホンネを漏らした遺書(石河一宗)
戦国末、美濃の大名、関が原で西軍に与し、近江の大津城を攻略
賤ヶ岳で功を挙げて秀吉から感状をもらった9人のうちの1人が実兄、戦死したため代わりに1千石をもらい秀吉の側近に召し出される
関ヶ原で敗れた後、高野山に上ろうとしたが途中の領主に阻まれ、結局斬首。切腹の数日前に無二の親友に書いた遺書で、同僚の裏切りを恨んだり、娘は士の嫁にしたくないなどと赤裸々な愚痴が綴られ、妙に心に残る
6.
次男以下は使用人同様(徳川家康)
遺訓とされる「人の一生は重荷を負て云々」は偽書
代わりに家康の自筆として、秀忠夫人・於江与(おえよ、信長の妹・市の3女)に与えた訓戒状が残る
秀忠夫妻が次男を愛し、跡継にしようとしたため、長男の乳母・春日局が家康に直訴して逆転。徳川体制安定のために嗣子の決定は、資質より出生序列によるべしと判断
7.
淀殿は口ほどもなく果てました(伊達政宗)
政宗は、筆まめな男で、祐筆に任せず自筆の書を千通以上も残す
これは、夏の陣の直後ある女性に宛てた手紙で、口ぶりは冷酷、やがて政宗は家康の旧姓、松平を名乗る
乱世に生き延びるために、非情も仕方がなかったのかもしれない。それだけに肉親や親しい友や可愛がっている家臣に対して政宗の見せる素顔は優しい
8.
年ごろに似合わぬことをした(伊達政宗)
9.
「清貧」の名人として(本阿弥光悦)
戦国末期、京都の生まれ。家業は刀剣の鑑定や手入業。
当代一流の人々と交わったが、自らは粗末な小住宅を好み、80歳で亡くなるまで下男1人、飯炊き女1人で暮らし、自分で茶を点てて生涯楽しんだという。
母が賢婦人で信心が深く、清貧の考えを実行
10.
決闘前日姿を消した理由(宮本武蔵)
武蔵の生涯の対決は18回、真剣を使ったのは2回のみ。1回は洛北一乗寺で幼少の吉岡又七郎を斬った時、2回目は同年、鎖鎌の名手宍戸某との対決(真剣2刀を使った唯一の対決)
武蔵が決闘前日に家老に送った手紙で、家老の船で送ってもらうと、小次郎を送ってくる殿さまとの関係が悪くなるのを慮って、自分は自分の船で行くと連絡。そのために直前に小倉城下から武蔵の姿が消えた
11.
芭蕉の内妻の前身(芭蕉)
芭蕉の内妻と言われた寿貞は、実は芭蕉が故郷伊賀から連れてきた桃印(とういん)という猶子(甥または養子)の妻で、芭蕉から曾良宛の手紙にそれらしき文章がある
12.
討入りの直前に(大高源五等)
内蔵助の討ち入り直前の寺の住職宛の自筆の手紙 ⇒ 離別した妻や子供らへの気懸りが細々と書いてある
早水藤左衛門(江戸からの急使の1人)の兄への手紙 ⇒ 金の無心状
大高源五の母への最後の手紙 ⇒ 吉良は、主人が命を捨てるほどの憤りを持ったかたきです。そのままにしておくことは武士の道にないこと、ただ一筋に殿の憤りを晴らすほかない
13.
簡潔にして意を尽くす(良寛)
字のうまさと味は想像以上
身を持ち崩して所払いとなった弟に与えた意見の手紙 ⇒ 酒と女は命を切る斧だ。おのれの欲望を抑えられないでどうする、と結ぶ。人に訓戒などしない良寛の珍しい手紙
14.
市中見廻りよりやりたいこと(近藤勇)
天然理心流の剣士で筆まめ、故郷に残した妻や子の世話をしてくれている支援者に手紙を書く
15.
攘夷に勝算なし(徳川慶喜)
肝心な時に真意の掴みにくい将軍で、「二心(ふたごころ)殿」と呼ばれた
1863年、朝廷からの「攘夷決行」の督促に対し、江戸に引き返す途中で2通の手紙を書く ⇒ 1通は江戸の老中宛で攘夷の準備を命じるもの、もう1通は関白宛で、「将軍の後見職は自分の任に余るので辞職する」という内容、さらに追いかけて「攘夷は勝算なし」と念を押す
16.
なぜかただ1通残る妻への手紙(坂本竜馬)
現存する竜馬の手紙のうち一番多いのは母親代わりの姉・乙女(おとめ)宛だが、妻・お竜宛てには1通のみ、海援隊の船が紀州藩船に衝突された事故の賠償交渉が有利に展開していることを知らせたもの
竜馬殺害の後、お竜は坂本家に引き取られたが、土佐を離れたとき竜馬の手紙をすべて焼き捨てたという
明治・大正期
17.
日本最初の女子留学生として(大山捨松)
1871年の岩倉使節団とともに米国に渡った女子留学生の1人に、北海道開拓使が募集した国費留学生に応募した山川捨松(幼名・咲)。帰国後陸軍卿・大山巌の後妻に。前妻の長女・信子の病気離婚の話が徳富蘆花によって『不如帰』のモデルとなり、その中で捨松はヒロインに冷たい義母として描かれた
帰国後、対米中に世話になった牧師の末娘に綴った数十通の手紙が牧師の家に保管されている ⇒ 若い男性(後の神田外語学校長の神田乃武のこと)に求婚されて困った話もある
18.
英女王謁見のための妻の衣装代3千円(森有礼)
最初の文部大臣。欧化(廃刀、キリスト教解禁、英語公用語論)を唱え、国粋主義者に暗殺
英国公使として在勤中(1880~84)に両親に宛てた手紙で、契約結婚(福澤諭吉が証人として立会)した妻のことで難儀してる旨訴える
19.
コンスタンチノープルから(秋山真之)
東郷艦隊幕僚、後の中将
日本近海で遭難したトルコの海軍軍人を送ってコンスタンチノープルに行った折、東京大学予備門時代に寄宿舎で同室だった親友の正岡子規宛に出した賀状 ⇒ コンスタンチノープルまで来たが別に驚くほどの者(?)はなく、世界は広くしてよほど狭く御座候
20.
エリーゼとの関係(森鷗外)
ドイツ留学から戻った時に4日遅れでドイツ人女性が来日、森家にとっても陸軍にとってもスキャンダル。林太郎が親友の賀古軍医宛に書いた手紙 ⇒ 「”源ノ清カラザルコト”故、どちらにも満足するようには収まり難く」の真意は不明。女性は1か月余で帰国
21.
まこと、うき世はいやに御座候(樋口一葉)
朝日新聞の小説記者・半井(なからい)桃水に小説の指導を受けたが、一葉の初恋の人とされ、2人の交際がスキャンダルとして噂になった時、桃水に宛てた手紙で世を儚む
96年4月、前年から連載の『たけくらべ』が鷗外、露伴、緑雨等に絶賛されて一躍文名が上がったが、春に発症した肺結核によりその年の11月死去
22.
ネコの死亡通知(夏目漱石)
生涯で笑った写真は1枚きり、それも『にこにこ』という雑誌に掲載するための作り笑いだったというが、人を笑わせるのは下手ではなく、ユーモアと皮肉の感覚は十二分
自宅に出入りしていた親しい門弟たち数人い出した死亡通知 ⇒ 埋葬するが、主人は『三四郎』の執筆中につき、会葬には及ばない
この猫こそ『吾輩は猫である』のモデル ⇒ ドイツでも『牡猫ムルの人生感』のモデルの死亡通知を出した作家がいたが、小説のモチーフは同じでも、無関係に書かれた
23.
かようの慎みは学問に害あり(南方熊楠)
粘菌類の新変種150種を発見して昭和天皇に標本を進呈した生物学者、民俗学者は超凡の手紙書きだったが、後輩の柳田国男と郷土研究の編集方針で対立した際に出した手紙 ⇒ 柳田が「卑穢なる記事は掲げない」としたのに対し、「分別学識ある者の学問のために書くのに」に続いて書いたのが表題
柳田民俗学に欠けているのは、性と笑いという批判が根強くある
24.
涙の跡(正岡子規)
39度の発熱をおかし、脊椎カリエスの激烈な痛みの中で、親しい友人の漱石宛てに書いた手紙には涙の跡があり、決して人に見せてくれるな、とわざわざ書留にしてあった
隣家で新聞『日本』の創業者の陸羯南が、社員として面倒を見ている子規の『ホトトギス』を励ますなどよほど太っ腹でないとできないが、子規が病床でのた打ち回りつつ最期まで短歌や俳句、文章の革新運動のリーダーでいられたのは、陸のような応援があったから。子規の墓石の戒名「子規居士」は、陸羯南の筆になる
25.
むかしの兄様さらば(与謝野晶子)
堺市の「駿河屋の羊羹」の三女・晶子が近所の住職に思慕を募らせ、毎週手紙を出して返事がないと死ぬとまで書いていたが、そのうちばったり来なくなったのを訝って住職が出した手紙に応えた晶子の返事 ⇒ 自らを「つみの子」と称し、与謝野鉄幹に紹介してもらったお蔭で多少有名にもなったが、同時につみの子になったのもそれが原因で、悟りを開いたあなたの目からはおかしいとお思いでしょうが、昔のお兄様さようなら
女心の変わり身の早さを知らない真面目な住職はただ呆然としてなすすべを知らなかった
26.
日露戦争兵士たちの手紙
出征兵士たちが家族に宛てた手紙は、たいてい短い
太平洋戦争の兵士と違い、国家のために戦うと書いてあるが、その国家は天皇や政府ではなく、「故郷の村の人々や家族」をイメージしていた ⇒ 「名誉の戦死」とは書かず、「悲惨なる死、可憐なること」と書いている
27.
漱石が「読売」でなく「朝日」を選んだわけ(正宗白鳥)
鷗外や漱石等昔の作家の全集には書簡集がつくが、現代作家の全集にはついていない。昔の作家、正宗白鳥の全集には書簡集がついていない ⇒ 白鳥が大の手紙嫌いで、「文章を綴ることが苦手で、字がうまくないとなると、手紙を書くのが苦痛」とまで言っている
白鳥は、人からの手紙は全て保護にして燃やす癖があり、唯一後悔しているのが漱石からの手紙で、読売の社員だった白鳥が『吾輩は猫である』で流行作家になった漱石を専属作家として招聘しようと口説いたが朝日に高報酬で獲られた頃のものだけに、漱石がどんな手紙を書いたのか読みたかった
28.
初恋の手紙(内田百閒)
随筆の大家で借金の名手。17歳で同級生の妹に恋をして6年後に念願成就したが、その間の50通に及ぶ恋文が残っている ⇒ プロポーズの手紙の後、人を立てて正式に申し込むと拒絶、相手の実兄に泣きついてようやく認められたという
29.
心やさしいのは実に美しい(高村光太郎)
妻・智恵子に宛てた手紙は3通しか残っていないが、最後の手紙は智恵子に精神異常の徴候が現れ、自殺未遂をし、九十九里に転地させた後に出したもの
30.
遺書はカルカッタへ(岡倉天心)
明治日本の美術界のリーダーが、死の直前に五浦(いづら、茨城県)から出した、カルカッタに住む女流詩人バネルジー夫人(タゴールの姪)宛の英文の手紙 ⇒ 安んじて死を待つほか何も残されていない。死んだら悲しみの鐘を鳴らすな、旗を立てるな
31.
2度の離婚に際して(北原白秋)
最初の結婚は隣家の嫁、姦通罪で告訴されるなど苦しみを舐めた上で結婚したが、肺患に罹り夫婦喧嘩の上実家に戻ったので離別状を送る ⇒ あれほどの2人の仲がこうまで浅ましいことになろうとは夢にも思わなかった。きっと私を恋しく思う時が来る
2度目はその2年後に結婚、貧しさを共にしたが、豊かになるに連れ白秋の家族と感情的に対立して家出したため離別 ⇒ 意地もほどほどに、だがどうしてもあなたが憎めない
32.
嫌われたのが運のつき(永井荷風宛ての妻の絶縁状)
荷風の、見下したような、下女と同じ「奴隷」でよしとする態度を腹に据えかねて置手紙をして家出。踊りのうまい新橋芸者で、荷風の家が結婚に反対したが、漸く入籍、ところがその後も芸者遊びを続けた荷風に妻が愛想を尽かした
2週間後に正式離婚した際に出した荷風の手紙 ⇒ だた一朝にして水の泡。いまさら未練がましきことは、一家の手前、浮世の義理の是非もなし
啖呵を切った妻は後の文化功労者の舞踏家・藤蔭静枝
33.
二百円拝借(島崎藤村)
41歳で渡仏、3年滞在。姪との愛欲の始末に悩んだ末の逃避行
渡航費等を捻出するために『破戒』の版権を2000円で売りに出すが高すぎて手を出さず、引き受けた新潮社はいまに潰れると言われた。それでも日本にいる2児のために残すと、パリでの生活は財政的に厳しかった
帰国の際、信州のパトロン宛に出した手紙で200円無心し、漸く帰国が叶った
34.
誘惑すると思わないで(ユリからマサオへの恋文)
17歳の豊かな家庭のお嬢さんだった宮本百合子が、24歳の大学生・久米正雄に出した恋文 ⇒ 「運命の賽は投げられた。学校の帰りに直接会って想いを伝えたい」、と書く。久米からの返事の内容は不明だが、9日後にユリから取り消しの手紙が来た。告白した後並の女性と同じ感情に溺れた自分に対し自己嫌悪に陥った
35.
人妻を口説くな(谷崎潤一郎⇒佐藤春夫)
1930年の細君譲渡事件 ⇒ 発端は、谷崎が同居していた妻の妹(『痴人の愛』のモデル)に魅かれて離婚を考えた際、春夫が苦しむ妻に同情したこと。一旦譲る約束をしたが谷崎が取り消し、2人は絶交(小田原事件)。その後春夫から谷崎の妻宛の書状が来たことに対し、谷崎が抗議した手紙の一節が表題
36.
甘納豆にありついた(芥川龍之介)
大震災の直前、鎌倉で藤と山吹と菖蒲が咲き誇る異常を見て、「天変地異が起こる」と言っていたが、その8日後に地震発生。田端の家はほとんど被害なし
鎌倉に同宿した友人宛の手紙で、鎌倉でのことを句にしてくれと依頼、追伸に「子供宛てにもらった土産の甘納豆にありついた」とある ⇒ 『大震雑記』にその句を引用
37.
今の人間は進歩していない(寺田寅彦)
「災害は忘れたころにやってくる」は、寅彦の警句とされるが、このままの文章はない
熊本の五高時代、漱石から英語と俳句の手ほどきを受け、「学問でも芸術でも一流になる」と折り紙を付けられた
大震災の模様をベルリン留学中の親しかった漱石の弟子に書いた手紙 ⇒ 詳しい描写の後、徳川時代にも同じような経験をしていながら、人間がちっとも進歩していないと批判
38.
もう遙かになりました(齋藤茂吉)
茂吉全集の書簡集は、中学時代から最晩年まで8千通を数える ⇒ 「死んで遺稿を出す時も、書簡だけは公にしてもらいたくない」。「家庭の事情」は齋藤家と言えど例外ではない
学習院でのてる子夫人が行状を新聞に暴かれて家出している12年の間に茂吉にも恋愛経験があり、終戦直後山形からかつての若い恋人に宛てた最後の手紙には、「蔵王にはまだ雪が降る。もう遙かになりました。どうぞ大切にしてください」とあった
39.
人の悪い泥棒だと思いました(梶井基次郎)
川端康成が「良い手紙を書く」と評したのが梶井。短編が多く、代表作が『檸檬』。31歳で早逝、多くの手紙が残る。療養のため伊豆湯が島を訪れ、滞在中の川端の世話になるが、帰京した川端に書いた手紙は、まるで湯ヶ島の春の景色が目に見えるような描写
川端夫人宛の手紙では、夫妻の寝室に泥棒が入った後、川端が泥棒がてっきり梶井だと思い込んだことに対して、表題の言い回しが出てくる
昭和・平成期
40.
名著を生んだもの(和辻夫人から夫への手紙)
文部省留学生として1年半欧州で暮らす間に、夫妻は夥しい数の手紙を遣り取り ⇒ 夫人は夫の便りを清書して残したところから『イタリア古寺巡礼』が生まれ、名著『風土』や『鎖国』に結晶する観察が随所に見られる
哲郎は半年短縮して帰国したが、父の死もあったが、親友(阿部次郎?)が妻に言い寄っているのを知っていたからかもしれない
41.
ふざけたことに使うお金ではございません(太宰治)
日記を意識的につけなかった。作家の書簡集にも否定的で、「書簡集に用いる金があれば、作品集を立派に装幀すればいい」といっていたが、驚くほど筆まめ。公表を考えていないのでホンネが出ている ⇒ 授業料未納で東大を除籍されたこと、新聞社の入社試験に落ちたこと、腹膜炎で重体になり第1回芥川賞を唯一の頼みの綱とし、選考委員の佐藤春夫に泣きついたこと等々
友人に宛てた無心の手紙 ⇒ 生きていくために必要な金で、必ず返す
42.
没収を免れた恋文(山本五十六)
新橋の芸者千代子との愛人関係は十数年続く ⇒ 里見弴の短編『いろをとこ』に詳しい
戦死の際、千代子は軍から自決を迫られたが拒否、山本との書簡が強制没収される際、数通だけは隠し持ち、晩年2通だけ後に遺した ⇒ 真珠湾の3日前に開戦を暗示させるものと、ミッドウェー海戦の直前肋膜炎をおして呉に会いにきた千代子の体を気遣った手紙
43.
もし悪魔に息子がいたら(吉田茂)
『吉田茂書翰』には1300通の手紙が収録。達筆、英文も巧い。大半が直接持参
終戦直後に後輩の来栖三郎に宛てた手紙 ⇒ もし悪魔に息子がいたら、それは東条だ。敗戦必ずしも悪からず、雨後の天地またさらに佳し。今はザマを見ろと些か溜飲を下げている
44.
「神の法廷」と「夢顔さん」(近父子最後の一句)
文麿が自殺の前夜、次男・道隆に遺した心境を吐露した一文 ⇒ 多くの政治上の過誤を犯し、深く責任を感じているが、米国の法廷で裁判を受けることは堪え難い。正常に復した時初めて神の法廷において正義の判決が下されよう(最後の部分は、発表の際総司令部の命令で削除)
シベリア抑留中の長男・文隆から来た25通目の葉書 ⇒ 「帰国間近。夢顔さんによろしく」とあるが、近衛家には心当たりなく、後にゾルゲ(綽名がムガン)のことと判明
45.
永遠に救われた日本(良子皇后)
終戦の後、奥日光に疎開中の皇太子に宛てた手紙 ⇒ 天皇陛下のおみ声をおうかがいになったことと思います。残念だがこれで日本は永遠に救われた
あとがき
およそ手紙というものは、私的関係を示すプライバシーの最たるもの
歴史に残るような人物が、生涯の決定的瞬間などに心情を吐露した書簡となると、学問上の貴重な文献でもある
1939年にアインシュタインがルーズベルト大統領に宛てた手紙がきっかけで、アメリカは原子爆弾の開発に着手、その当時アメリカはアトミック・ボムのアの字も知らなかった
この本に収めた手紙は、『てがみ随想』の題で、全国信用金庫協会の月刊誌「楽しいわが家」に連載しつつあるもの、現在三百十数篇、77年から26年余書き続けている。87年『新手紙読本』として一部公刊したが、今回それを除く97篇を選ぶ
手紙が人を動かすのは、言葉に「こころ」がこもっているから。文は人なり、手紙は人のこころなり
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