「東京電力」研究 排除の系譜 斎藤貴男 2013.6.6.
2013.6.6. 「東京電力」研究 排除の系譜
著者 斎藤貴男 1958年東京生まれ。早大商卒。英国バーミンガム大大学院修了(国際学MBA)。日本工業新聞記者、『プレジデント』編集部、『週刊文春』記者などを経て独立。主な著書に『機会不平等』『梶原一騎伝』『東京を弄んだ男(空疎な小皇帝)石原慎太郎』など多数
発行日 2012.5.30. 第1刷発行
発行所 講談社
はじめに
2011.12.16. 野田首相が、原発事故の「収束」を宣言 ⇒ 収束に向けた工程表のステップ2に当たる「冷温停止状態の達成」が確認されただけの内容
著者は、ただでさえ監視社会や格差社会、差別的な教育改革、石原慎太郎、経団連の会長会社、改憲への潮流、消費増税等々に対する批判を続けた結果、すっかり世間の嫌われ者となり、ずいぶん仕事も干され、友人も離れ、匿名の誹謗中傷にも悩まされたので、これ以上世間に疎まれたくなかったばかりに、また、最初から切り拓いたテーマでもなかったために、反原発には距離を置いていた
そんな自分にも、どのみち脱原発には時間がかかるところから、過去の暴走の正体をできるだけ原発の担い手に焦点を合わせて詳らかにしておくことならできると考えた。原発にかかる本格的な国民的議論の前に、罪滅ぼしも含めて、本書を書こうと決意
序章 人災と「中国ツアー」
福島原発事故発生の当日、東電のトップがどこで何をしていたかを審らかにした。図らずも同社の戦後史と、その現代的意味を雄弁に物語る数時間だったと思われる
東電勝俣会長(東電原子力立地本部副本部長の鼓副社長が副団長、会長秘書も参加)が原発事故の第1報を聞いたのは北京で移動中のバスの中だった
「第10回愛華訪中団(電力業界とマスコミ関係者で構成)」団長として前日合流した
18:03pm 1,2号機の緊急炉心冷却システムの機能停止に伴い、政府が原子力災害対策特別措置法に基づく「原子力緊急事態宣言」を発出するが、東電の3名は帰国できず、結局12日朝のJAL便で成田へ
訪中団は、原子力ムラとマスコミの蜜月関係の象徴で、参加費は5万円程度 ⇒ 01年石原萠記(独立系の出版社社長で社会主義運動家、日本出版協会理事長)の提案に東京電力が乗って始まった訪中団(第2章に詳述)
社長の清水正孝も、夫人同伴の観光旅行先の奈良から帰京できず、両トップの不在が原発事故に対する初動を遅らせた可能性大
第1章
安全神話のパラドックス
原発の危険性が如何に放置されてきたのかを検証し、「安全神話」の底の浅さに驚かされた
1984年 外務省からの委託研究に基づき外交戦略に関するシンクタンクで外郭団体の「日本国際問題研究所」がまとめた報告書『原子炉施設に対する攻撃の影響に関する一考察』 ⇒ ①補助電源喪失、②格納容器破壊、③原子炉の直接破壊の3通りのシナリオのうち②を想定して一定の条件下での被害を推定したが、犠牲者数のみの推計で対処法についての言及はなく、原子炉施設そのものについては事件後の被害状況の調査さえ不可能であり、その後片付けも困難を極めるとの結論
現実に81年にはイスラエルによるイラクの原子力センターの爆撃があり、ジュネーブ軍縮会議でも原子力施設への攻撃禁止を巡る討議が始められていたこともあって、日本も独自で研究したが、その結果は公表もされず、国内原発の運営や設計にも変化をもたらさず
「厳秘」扱いではなく、単なる「取扱注意」にもかかわらず何の反応もなかった
9.11を受けて原発周辺の警備は強化されたが、空への備えは一向に進まない ⇒ 07年原発設計を数多く手掛けた山田太郎(本名小倉志郎、東芝OB)が、改憲論議の中で「原発と自衛戦争は両立しない」と指摘、武力攻撃を想定した設計にはなっていないと告発
原発の安全というテーマを原子力ムラの人々はどう考えていたか ⇒ 1999年度に通産省が30億の補正予算を計上、民間の機能を結集して6種類のロボットで構成されるシステムを完成したが実用化が見送られていたものを、02年原子力発電技術機構(08年解散)が実用化に向けた研究を行い『原子力防災支援システム(防災ロボット)実用化評価検討報告書』としてまとめたが、結論は「高放射線下でも人が作業できるエリアは確保されており、そもそもロボットなど必要ない」だった
米仏では、全電源喪失(SBO=Station
Black Out)について一定の対策が取られている事実を承知しながら、日本では①SBOの前例がない、②2系統以上の非常用電源がある、③非常用ディーゼル発電機の起動の失敗率が低い等の理由で、それ以上の対応は不要と結論
そもそも日本政府は、原発事故に伴う損害賠償請求訴訟を発生国で行うことを定める3つの条約への加盟をアメリカに要請されたが拒否 ⇒ 事故など起こらないという傲慢
津波も想定 ⇒ 08年 東電が被害を試算したが、原子力安全・保安院に報告されたのは東北大震災の4日前、作業部会でも地震学者から甘さが指摘されるとともに、保安院からは「設備面での早急な対策が必要」と言われた
日本の原子力界のドンとまで呼ばれた東電元副社長の豊田正敏が、事故後のインタビューで、「非常用発電設備が堅牢な原子力建屋ではなく簡素なタービン建屋に設置されていた事実を今度の事故で初めて知ったが、あの配置設計はまずかった」と語っていたが、彼ほどの地位の人が原発の命綱の在処も知らないとすれば、原発についての当事者権限・能力を決定的に欠いていた、あるいは与えられていなかったとしか思えない
第2章
保守論壇のタニマチ
序章の光景がもたらされるに至った歴史的経緯を追い、東京電力という企業の戦後言論史における影響を論じる
石原萠記が50年代にフォード財団の日本駐在連絡員として、自由主義文化人を糾合して日本文化フォーラムを設立、その保証人となったのが東電の木川田、八幡の藤井丙午、富士銀行の岩佐で、東電の総務課長・平岩外四が窓口。CIAの資金援助があったのも事実 ⇒ 68年「日本文化会議」に発展、文藝春秋が同調して同じ思想傾向のオピニオン月刊誌『諸君!』を創刊、産経も同傾向の『正論』を創刊
自由主義社会ならではの言論の自由を支えようとする気概は、木川田、平岩と続く東京電力の伝統 ⇒ その元は木川田の師匠の松永安左衛門(トインビーの大著『歴史の研究』の日本語訳を、自ら本人と直接交渉で実現に漕ぎつけた)
連合の笹森も、その前は電力総連会長であり、さらにその前は東京電力労組委員長
戦後の原子力の開発史 ⇒ 軍事利用についてはアメリカの忠実な同盟国として行動し、民間利用については限定的臣従路線で自由度を確保
54年の第5福竜丸事件で一気に高まった原水爆実験禁止運動を鎮静化させるため、CIAのエージェントとして動いたのが正力松太郎で、平和利用を推進
第3章
木川田一隆「人間開発」の欺瞞
東京電力中興の祖との誉れも高い「名経営者」の功罪に焦点
東京電力には原発絡みで幾度もの前科があり、大事に至らなかった事故やデータ隠しの事例なら途切れたことがないほど
02年 福島第1,2、柏崎刈羽の炉心隔壁のひび割れ等の不具合記録の改竄、放置 ⇒ 最高首脳4氏と原子力本部長の退陣、一切の対外活動も自粛
数日後 九電の「やらせメール事件」 ⇒ 玄海原発の再稼働のための経産省主催のテレビ番組に向け、九電が社員に再開賛成のメールを投稿するよう指示。黒幕の佐賀県知事も九電会長もほおかむり
木川田はリベラリストで修正資本主義者。企業が社会の構成員としての資格要件を具備することが肝要としその上に立って企業発展の道を探し求めるべきとした企業の社会的責任を唱道。戦時中から電力の国家統制に抵抗。会長時代の74年にはオイルショックの影響で電気料金を値上げしたところ市川房江が民事訴訟を起こしたのに対抗して東電としての政治献金を廃止。国に借りは作りたくないと言って叙勲を断った松永翁に倣い、勲章を固辞し続けた
愛弟子の平岩も、93年には経団連による政治献金斡旋を中止、企業倫理の確立に尽力、木川田の尊称「財界の良心」を受け継いだが、木川田が経営者の個人参加による経済同友会に拠点を置いたのに対し、平岩は利益団体である経団連の会長に就いたのは違和感があり、94年には勲一等を授章、平岩時代に東電は国家との緊張感を失い、衰退を始めた
戦後巨額の政府資金とアメリカの技術・機械で電力計画が進められ、講和会議後も電力業界は日本の主権が回復されなかった ⇒ 50年には27千余のレッドパージを断行、中心にいたのが河合栄治郎に範をとる木川田
木川田が標榜した経営刷新方策には、人間能力の開発が掲げられ、東電学園が発足したが、彼の言う能力開発とはあくまで「企業目標に向かって結集」される能力であり、内実は全人格的支配にあった ⇒ 東電社内の職級や人事考課は他企業以上に厳格で、一人一人が企業の価値観に取り込まれ、身も心も捧げ尽くす生き方だけが求められる結果になったのではないか
第4章
幻の電源爆破
歴史の中に埋没していた新事実を発掘
福島県は明治の昔から電源地帯
1949年 現在の磐梯町の猪苗代発電所を爆破して、組合の仕業になすりつける秘密計画が明るみに出て阻止された事件 ⇒ 当時最強の労働組合だった猪苗代分会の力を削ぐ
国鉄3大怪事件(下山、三鷹、松川)も同じ頃発生、いずれも共産党勢力の組織的犯行が疑われた ⇒ 松川事件は福島県北部
浜通りの内郷町では、矢郷炭鉱で労働争議が過熱、閉山騒ぎに発展した中で平事件発生(現在のいわき市) ⇒ 共産党が許可を得て平駅前の設置していた掲示板を、警察がGHQの指示で撤去しようとして衝突した事件。騒擾罪で11人に実刑
50年 レッドパージの対象とされた電産組合員に解雇通告 ⇒ 警察力を総動員して混乱を予防した甲斐もあって混乱は少なかった
電産のパージと電力再編成による9電力(72年沖縄電力の誕生で10電力に)誕生はほぼ同時並行で進められ、いずれにも木川田の姿があった
共産党もソ連の脅威も関係なくなった今日でもなお「電源防衛」が叫ばれ、3.11を経てこの国はまたしても「電源爆破計画」が活用されやすい時代を迎えている
経団連の米倉会長は、3.11直後の会見で「原子力行政が曲がり角に来ている」との指摘に対して、「そうは思わない、原子力行政はもっと自信をもって胸を張るべき」と答え、その後も「電力は経済活動の基幹的な生産要素であり、適正価格で品質の高い電力供給がないと産業活動などとてもできない」と暗に原発を肯定している
第5章
「勲章を拒否するほど偉くない」平岩外四
木川田の後継者であり、財界きっての読書家として知られた男の功罪を論じる
平岩の叙勲に対する姿勢は、辞退を貫いた木川田とは正反対
通産省から丸紅に転じ15年かけて社長になった途端にロッキード事件で刑事訴追は免れたものの叙勲対象から外された松尾泰一郎(裁判決着後の98年勲二等、01年死去)は、同期生たちへの羨望を隠そうともしなかったように、叙勲を生き甲斐にしている人は多い
日清紡の宮島清次郎、その後継者の櫻田武等は、「男の一生をかけた仕事に官僚から等級を付けられてたまるもんか」と啖呵をきる
「経済人への勲章は止めるべき、なまじあるから社長を辞めない」と批判していた三菱マテリアルの永野健は、71歳であっさり勲一等瑞宝章を受ける
放埓な耽美派作家で、戦時中も軍部への非協力を通した永井荷風も文化勲章は素直に受け、自らも「うれしい」と言い、その後は構えた作品を全く書かなくなったという
平岩は、幼少で父親を亡くし、苦学して八高(名古屋)、帝大を卒業、コネもなく徒手空拳で東京電燈に入社。訃報は故人礼賛だが、経団連の歴代会長に比べて財界総理としての業績が物足りない ⇒ 政治献金の斡旋を止めたことくらい
平岩を経団連副会長に推薦したのは土光会長。原子力に強い関心を示し、エネルギーに明るい人ということで白羽の矢が立ったが、平岩が会長になったのは土光の死後2年以上たってから
平岩が大悪党だったという人もいる ⇒ 原発活動など歯牙にもかけなかった。かつての財界には、経産省に電力料金の許認可権を握られている電力会社の経営者をトップには据えないという不文律があったために、木川田も同友会で活動したが、平岩は電力という大企業の利益の源を左右する力を武器に猟官活動をして不文律を打ち破った(=土光の東芝再建に一役買った?)
実際、78年オイルショック後の長期不況脱出のための政府の財政出動の際も、政府は電力業界にほぼ同額程度の設備投資を要請、景気の牽引車としての位置付けに平岩が応え、それを契機に一気に表舞台へと躍り出た
57年入社で、藤山一郎の甥・加納時男は、東電で出世街道を上り、取締役原子力本部副本部長から副社長になった後自民党の要請を受けて98年政界に転身、10年引退 ⇒ 3.11後も巷の批判に反論する形で、事故の当事者とは思えない身勝手な発言をしている
74年木川田が政治献金を廃止した直後から、その代替策として役員らによる組織的な個人献金が始まり、09年には自民党の得た個人献金総額の72%にも上っていた
平岩がこの国の経済社会に残した「業績」は、実に具体的で、あまりに重いものだった ⇒ 冷戦構造の崩壊で資本主義を守る必要が無くなったこの時点で、より剥き出しの、かつ異論や疑問を許さない唯一無二の価値観としての資本主義を打ち立てることに貢献した
①
細川内閣の「経済改革研究家」座長としてまとめた「平岩リポート」がもたらした結果 ⇒ アメリカの命令による規制緩和が主眼、小泉構造改革路線の原点として引き継がれ、貧困や階層間格差の拡大、平等や公正・公平性といった理念の破壊をもたらす。平岩の死後1年の08年に、メンバーの1人で声高に市場至上主義を唱えていた一橋大名誉教授の中谷巌が自らの発言内容を全否定しているのには驚くばかり
②
経営側に従順でない労働者の存在を認めない管理体制を構築
第6章
驕慢なる統治機構
発送電分離の構想を始め、福島原発事故を契機に再浮上してきた多彩な議論の前史や背景を辿る
なぜ10電力体制の在り方が3.11以前には国民的議論の対象にならなかったか ⇒ 戦後の電力再編が、後の国鉄や電電公社の分割民営化の手本と言いながら、電力体制がこの国で果たしてきた功罪に関する議論はなかった
93年の平岩リポートではあらゆる産業分野での規制緩和の必要性を強調、電力についても地域独占性や固定的料金制度の再検討、自家発電の有効活用等に言及しながら、リポートを踏まえた95年の電気事業法改正(64年制定以来初)でも発電分野を一部自由化したのみで、電力の政治力や巨額の調達・購買を通じた経済界でのパワーの前に、通産省すら本気で電力の規制改革に踏み込めるとは思っていなかった
97年 OECDが加盟先進各国の規制改革を進める際のガイドラインを公表、金融サービスや食料等6つの重点分野を対象としたが、中でも電力分野に多くの字数を費やし、発送電分離を明確に支持 ⇒ 通産省がこれに乗って大臣を含め省内議論が活発化したが、電力の反転攻勢の前に萎む
電力自由化先進国のイギリスや北欧では、発電会社の細分化とともに、まとめて買電する送電会社を中立的な組織とすることで、電力料金の自由化が図られている
02年 改革派の旗手と言われた村田成二次官の誕生で、発送電分離が再び俎上に
電力需要の高まりとともに、技術革新により小規模で安く発電できるようになり、電力の地域独占による規模の利益という理屈が通らなくなった
02年の東電のデータ改竄事件で、再び経産省が発送電分離の追い風にしようとしたが、この時も東電の巻き返しにより、自由化スケジュール全体が遅らされ、全面自由化は先送りされた
電力会社トップと御用学者、新聞記者が多くメンバーとなっている総合資源エネルギー調査会電気事業分科会の結論は、「エネルギーセキュリティ」なる概念を多用し、「現行の事業者が引き続き重要な役割を果たすことが期待される」と結論 ⇒ 電力族の甘利明と加納時男が中心になった自民党の「エネルギー総合政策小委員会」でも東電の主張をそのまま取り入れ、まず原発推進ありきで発送電分離は電力会社の経営環境が不確実性を増すため原発建設の障害になるとしている
12年に入って本格化した東電の実質国有化、経営形態見直し議論は、10年前の焼き直し
原発コスト安さのカラクリ ⇒ 98年度までは最終処理関連費用(バックエンド費用)すら見込まれておらず、以後も都合のいい数字ばかりを使って意識的に安く見せている
電力の自由化は、労組潰しと軌を一にしており、その後も差別的労働市場を作りだし、3.11後の原発改修作業でも抑圧の最下層を利用することで被爆の実態を隠蔽したり、偽装請負(請負会社に業務を委託する際、実際には供給されてきた労働者を発注者側の指揮命令の下に使役する違法な働かせ方)をしたり、自らは中間管理層の社員ばかりを養成し実際の危険な作業は全て下請けに回す等労働者階層化の先駆けとなり、会社の欲するままに社員を管理・支配してきたのが東電
最終章 せめてもの希望を
東電はあらゆる意味で日本のシンボル ⇒ 正真正銘のアメリカの属国。経済成長以外に目指すもののない空疎。米日両政府による重層的な支配構造を脅かさせない国民管理・相互監視を自己目的化させた社会
この国の本質にかかわる酷評の悉くを、東電という企業体と同社が運営する原発という存在が見事なほどに体現し、私たちに突き付けている
原発を担う東電の戦後史も、つまるところ労務管理を通じた排除と独善の反復運動以外の何ものでもなかった
柏崎刈羽に原発を誘致した市長の息子の話 ⇒ 日本石油発祥の地、製油所移転後の町興しとして原発を誘致したものの、結局は原発だけしか残らなかった
95年「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故を契機に、高速増殖炉(FBR)を核燃料サイクルの究極のゴールとする国策の再検討の機運が異能の専門家集団の中で持ち上がり、使用済み核燃料の再処理には合理性がないと考えた ⇒ 反原発の意図ではなく、原子力の問題点を真摯に捉えた上での発言だったが、03年の新聞への連載は1回で打ち切り。その後国の施策は「原子力政策大綱」として5年毎に見直されているが、いくつかの選択肢を並列・検討することになった ⇒ 使用済み核燃料の直接廃棄とFBRの実用化見送りが優勢
池澤夏樹(埼玉大理工学部物理学科中退の作家 ⇒ 核エネルギーは7ケタも違う大きなエネルギー、倫理観を高めることのできない人間にそんなに大きな力が備わったことが怖い。1万年以上も保管する必要がある放射性廃棄物にしても、コンクリートで封じ込める計画だがコンクリートが出来てから150年しかたっていないので1万年もつ保証はない。津波にしても800年前に現実に来ている。結局核エネルギーは人間の手に負えない
木川田や平岩らを中心に進められてきた排除の歴史は二度と繰り返されてはならない。排除の論理が罷り通る限り、脱原発側が期待する再生可能エネルギーの未来にもまた暗い影が落とされていくに違いない
「犠牲のシステム」 ⇒ 3.11後の中間貯蔵施設にしても、使用済み核燃料の再処理後の廃棄物の最終処分場にしても、どうせ帰れない故郷ならそこに、という安易な判断は許されない。沖縄の基地にしても同様で、必要悪故に「尊い犠牲」として美化されてはならない
木川田も、死の9か月前の最後の記者会見では、「9電力体制の見直し、官僚主義による硬直化、内部変革への情熱の欠如等に言及し、スモールイズビューティフルとまで言って電力会社の細分化にまで言及していたが、既に影響力はなかったのだろう
賠償問題 ⇒ 庶民の事件はADR=Alternative
Dispute Resolutionでという流れがあるが、これはあくまで加害者側が作った物差しで被害者との和解を図る仕組みであり、国や東電の態度はどこまでも東京空襲の賠償請求事件の09年東京地裁判決(控訴審も同じ立場)と同じ「受忍論=国家無答責の法理」
二本松のサンフィールドゴルフ倶楽部が申請した除染の仮処分申請に対し、東電は放射性物質を「無主物」とし既にゴルフ場の土地に「附合」していると主張、地裁も東電に侵害された事実を認めつつ原告の妨害排除請求権の行使は別問題とし、債務者に除染を命じることが全体の除染作業を進めている行政に抵触し兼ねないとして請求を却下。まるで行政の邪魔をしないよう、司法としての判断を放棄したかのような判決
河合弘之率いる脱原発弁護団全国連絡会は、全ての原発をなくすまで闘うと宣言
コメント
コメントを投稿